八切史学の「徳川家康」考

 (最新見直し2009.11.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2009.11.29日 れんだいこ拝


 「1121 徳川家康1の「革命児誕生」の下りを転載しておく。
 世をあげて、これ乱世である。府中の町並みでは、美しい唐衣(からぎぬ)を頭からかぶり、供をつれ歩く栄華な 女たちも見られるし、たらふく飯を食い、酒の香さえぷんぷんさせて、大路をわが物顔をして歩く狩衣姿の武者もいて、そこだけ眺めれば、まこと天下泰平のおもむきで あるが、一歩でも辻をおれて裏町へ入ると、そこは地獄さながらの餓鬼道である。いくら田畑を耕しても取入れの作物のあらかたをまきあげられて、いまは逃散してこの町へと逃げ込んでいる者、あいつぐ合戦で人狩りにもってゆかれ傷つき不具になった 者や、戦のものいりに貢をますますひどくかけられ、年ごとの物価高で喘ぐ庶民の群れが飢えて押し流されるごとく集まり、吹きだまりの落葉のように積み重なってひしめいていた。

 
さて、この駿河、遠江、三河の三国は、今川氏真が大永六年(1526年)に、 「仮名目録」三十三条という法令を出したが、今川義元が家督相続して十七年目の天 文二十二年[1553]二月二十六日には、追加二十一条までを制定した。しかし法令というのは、いつの時代でも人民を守るために出されるものなど一つも あるはずはなく、そのあべこべのものである。「富国強兵」のために、今川義元は、 点役(天役、転役)とよぶ均等割税を人頭税のごとくかけ、棟別銭という固定資産税 をもうけ、その他に、四分一、押立という人夫役、戦に出す軍夫の割当、つまり血税もかけ、徴兵猶予を願い出る者からは命代をとりあげた。この他、桑役、船役、湊役 など数えきれないくらいに、なんでも片っ端から税をかけた。といって、 「酷税である」と、百姓が一揆を起せるようになったのは、徳川時代にはいってからのことで、戦国時代にそんなことをしたら村中が皆殺しにされてしまう。だから、てんでんばらばらに逃げてきた連中が、この駿府の宮ガ崎から八幡小路あたりに蓆小屋をつくったり、蒲の穂や萱草で屋根をふいた掘立て小屋をつくり、泥みたいに疲れき ったまま、「世直しをせえへんと生きてゆけすか」。その日その日の暮しにいな喘ぎき っていた。

 
さて、この当時駿府の牢は横田町にあったが、現今のように刑務所内で印刷をやらせたり家具を作らせて収益をあげられる時代ではなかった。だから、早く叩き殺して解体した方がそれだけ食い扶持が助かったし、もうかった。どんどん捕えたものは早く殺していたが、またこれにはわけがあった。なにしろ今と違って薬がなかったこの時代は、唐人や韓人が関西から駿府へも入りこんできていて、「生血は卒中や中風の特効剤」「生肉は天刑病や労咳(肺結核)の 薬」「生き肝は腹の病用」「生きた脳味噌をまるめた六神丸は気つけの妙薬」と売りひろめ、原料のはいりやすい処刑場の側で小さな薬品製造業をやっていた。

 ----今でも漢方薬を「生薬(きぐすり)」というのはこの頃の名残りで、黒焼として売り出したのは生肉では遠くまで売りにゆけぬから、営業上これをかえ、明治以降 は取締まりがうるさいから、猿の黒焼、いもりの黒焼となった。しかしまだ明治中期までは、レプラには生きた人間の尻の肉が特効薬であると、刀をもって斬ってまわっ た野口男三郎というのがいて、世間でも業病には生肉と思っていたから、その点をお おいに同情され、「ああ世は夢か幻か‥‥」といった演歌が流行して、当時の女性を 失神させるくらいに、おおいにみなを泣かせたものである。

 さて横田町の牢から狐ガ崎の河原にある斬首場へ、囚人をつれて行っては斬首し、 「落し頭ごと、こみでいくら」と唐人に払下げをするのだが、そう一日に何人もあるものではない。だがそれでは製薬工場の唐人が原料難で困る。そこで今日の血液銀行 みたいに生きているのを引っ張ってきて、脳味噌をとったり、生の肉をはぐというよ うな事になるが、いくら唐人に、やれやれといわれても、そう通行人を物陰にかくれて、ぶん殴って連れてこられるものではない。だから、この辺りの女は頭の毛を布に包んで比丘尼(びくに)というのになり、合戦の旅にも従軍して、味方のとってくる首を水洗いしたり奇麗にして首実検にさしだ す仕事をする。そして終ると手間賃として、その生首を貰ってきて、これを唐人に売 ってその銭で生計をたてていた。

 しかし合戦にあけくれあって、月に何個と決って生首の定期収入があれば、それで暮し向きも安定するが、なにも今川義元は比丘尼らのために戦いをするのではないか ら暮し向きはそうよくならない。だから比丘尼というのは年末や年始には竹の割った のをカチャカチャ鳴らして、 「さっても、めでたい節季ぞうろ」などといって銭を貰って歩き、あとは山の中の同族の「ささら者」が作って卸しにくる竹ごし笊(ざる)、蓑や味噌こし、お茶の茶筅、 茶くみなどを売り歩いて過ごすのだが、なにしろ後に京へ上って天下の将軍となろうとする野心家の今川義元の時代だから、酷税すぎて民家は暮し向きに困っているから、 あまり貰いもよくないし、彼女らの専売品の竹細工も値よくは売れない。そこで痩せ衰えきった比丘尼の源応尼は、その娘の於大に対して、いつものことだ が、 「こりゃ、働き者の男をみつけてその嫁になるが、女にとっては一番ええ仕事口じゃ」 と教えた。

 しかし若い女に男を見る目などあろうはずもない。於大が選んだのは、やさしそうで親切そうにみえるが、その当時のアウトローともいうべき流れ者の江田の松本坊という旅の願人だった。これは「坊」とはつけるが、一遍上人が開いた時宗の遊行衆のような阿弥陀派ではない。つまり西方極楽浄土を説く普通の仏ではなく、反対に東光さまを説くお薬師さ ま畑で、信心よりも祈祷の拝み屋である。そして、「おどま勧進、勧進」の乞人(ほ いと)が、「願人」と呼びかわっていたきりでもある。  

 ----古い昔にさかのぼると、彼らは仏教や回教をもって船に乗って渡ってきた文化民族に追われて、山の中へとじこめられた原住民族である。白旗をたてて、かつては 鎌倉に幕府をもうけた事もあるが、北条氏にまんまと権力を奪われてからは、その一族の梶原や佐々木も次々と滅ぼされて、諸国に離散した。のち後醍醐帝の御代、おお みことのりにつつしみ蹶起したものの、またやぶれて新田義貞の子孫らは上州大利根 の畔に隠れ住み、これが足利氏をはばかって、江田、徳川、世良田の三流になったと いうけれど、足利時代には、そんな名など呼ばれずに、「白旗党余類」として扱われ、やがて応仁の乱の人手不足で山から狩り出されはしたものの、「悪党」と呼ばれ「足軽」という前線用の消耗品にされた。しかし生きのびた者は戦場で槍や鎧を自力で略 奪して、これがいわゆる「戦国武者」になっていった。しかし足利将軍家の血脈である今川の領内では、こうした白旗党の余類にはそうした立身の機会もなく、女は比丘尼、男は願人か、ささら者としか扱われていなかった のである。

 さて、天文十一年[1542]壬寅十一月二十六日。於大は松本坊との間に男の子を生んだ。ところが、 「せっかく子ができたが、なんせこの駿府の今川さま御領内では、わしらはとんと芽がでぬ。少し他所へ行って目鼻をつけ、それからお前ら母子を呼ぼうかい」。そう言い残すなり松本坊は蒸発してしまった。於大は子供を育てつつ待ったが、なかなか戻ってこない。そこで源応尼も困りはててしまい、 「ちょっくら‥‥おみゃあは男にうまいこと言われて、その気になって、子を生まさ れて、はいそれまでよで逃げられてしまってどうするね‥‥それでええずらか」。しきりに愚痴をこぼしたが、もはや出てきてしまった子供を、もとのところへ戻すこともできない。しかし子を抱えては食ってゆけない。そこで於大は、子供を残して、有度郡石田村の富士見馬場の久松土佐という家へ、後妻にと貰われていった。すぐ、のち三郎太康元と名乗るようになる異兄弟がそちらでできてしまったので、やむなく前の子供は祖母の許で育った。 「ばあちゃん子は三文安」という言葉もあるが、父に蒸発され母に置き去りにされた子供は、ひいひい泣いてばかりいたらしい。

 しかも祖母の源応尼は戦いがあれば首を拾いにゆかねばならないし、またお貰いし なければ食ってゆけない。そこで他行するときには預けてゆく所もないから、処刑場 の側のお堂へおいていった。もともとここのお堂というのは、なにも処刑人の回向を葬ってやるといった殊勝な目的のためにあるのではなく、唐人の生薬屋に原料をいれるため、斬首される人間が 出ない時に、その埋め合わせに、部落の人間が他所からさらってきて生きたままこれ を処分するのに、人目につくのを恐れて作った小屋なのである。だから、子供は幼い時から人殺しの場面に何度も立ち会って見馴れてしまったらしい。後年この子供が成人したのち、冷酷無比とか残忍きわまりなしといった評価もされるが、「三つ子の魂百まで」というから、これまた仕方もないことであろう。

 さて、この堂は、戦前までは八幡小路に現存していた円光寺の末寺というほどでも ないが、まあ管轄下にあった。後世は浄土宗になったから月見山円光寺の名であるが、 「駿河誌」の掲載寺記によると、初めは東光系のもので、「東照山」となっている。この例証は「咬雑物語」に、 「神相大君ご幼年のみぎり一寺に学びたまい、みずから東照院と命名され、のち江戸 にその僧を呼び、これに一寺を造り与えたまう。これすなわち栄広山東照院興源寺な り」とあるのでも判るが、いくらなんぼなんでも、三つ四つの子供が東照院と命名したと いうのは大げさすぎる。さだめし初めからその名であったものらしい。


 
さて円光寺の智短和尚は、狐塚の河原の堂で拐してきた人間や部落の中で病気にな った者を、よってたかって押さえつけ、生きながら切りこみをつけ、そこからしぼっ て血を搾って竹筒に入れ、 「とりたてのほやほや温かいよぉ」と売りにでかけたり、頭の骨をまさかりで叩き割 って、味噌を芋の葉に包んで唐人の許へ売りにゆくのを見かね、いつもここまで見回 りによっては口を酸っぱくし、 「いい加減にせんかい」何度もたしなめはしたものの、なにしろ幽鬼のような連中で、 腹をさいて肝をとったあとは、餓鬼のように塩をつけ生のままの肉をひきさき、それ を互いに奪いあうようにして齧っているような有様だからして、あまりのことに、 (これも世の中が悪いのじゃが‥‥)と諸式高で普通では食してゆけず、みな浅まし い畜生道に落ち入っているのを嘆き悲しんでいたが、なんといっても気になるのは、 いつも血みどろの堂の中にちょこなんと座っているちびの子供である。

 聞けば父に去られ母に置いてゆかれて孤児だという。そこで和尚はかねてより、 (こういう所へ幼児を置いておくのは、教育上よろしくない)といった配慮よりも、 「小さくとも頭には味噌があるし、腹中には肝も入っていよう‥‥だからそのうちに 獲物のない時は、切羽詰まった飢えたやつらに叩き殺されて食われてしまうやも知れ ん」 と不憫になって東照山円光寺の方へつれ戻ってきた。もちろん小僧代りに引取ってき たのだから、ろくな物も食わされず、身体より大きな帚をもたされ、きっと掃除もさ せられたろう。

 しかし、そんな生活でも、この子供には生まれて物心ついた時から、最高に仕合わ せだったらしい。  でなかったら、彼が七十五歳で死ぬとき自分から遺言して、わざわざ「東照宮」だ とか「東照大権現」などと名づけたり命名させるいわれとてなかろう。

 
「売られてゆく」を転載しておく。
 「せっかくの孫を、あない寺の坊主にただでとられてしまう手はない。取り返しなされ。損をする‥‥」。源応尼のところへ人買いの又右がきた。そこで、 「あれも、もう九歳じゃからな。ちびでも犬猫よりは使いものになろうのう」。貧すれば鈍するというが、源応尼もよる年なみで生活は苦しい。いくらかの銭にな るときくと、孫を売る気になったらしい。背に腹はかえられぬからである。 「よっしゃ」話がまとまると、善は急げと又右は尻からげして、そっと東照山円光寺 の垣根ごしに忍んでゆくと、梅の古木の根元を掃いている小坊主をみつけ、 「おう、おみゃあのおばばが、あんばい悪いでよお、早よきとくれんかというとるで ‥‥」。そっと、手招きしながら声をかけた。 「本当ずらか‥‥」。びっくりして寄ってくるのを、又右はせきたてるように、 「早よ行かな間にあわんぎゃあ‥‥。おっ(和尚)さんにことわって暇を貰うとった らあかんずら。とっととここから潜って出てこないかん」と、垣根の下から這いださ せると、 「そのままおぶったる」背中へのせ一目散に走り出してしまった。  

 ----林道春が、駿府に引退した後の家康に仕えてからの日常をつけた日記というのに、『駿府政事録』というのがある。その中に、「慶長十七年[1612]八月十九 日。公御雑談の内に、昔年御幼少の時、又右衛門某という者あり、銭五貫にて九歳の 御所を売り奉りしと、諸人伺候していたるゆえ衆みなこの話はきく」とある。七十一歳の家康が自分の口から洩らしたというのである。直接に耳にして書いているのが林 羅山の祖先の道春だし、日時も明白にされているから、これは事実であろう。

 だが九歳の時というと、今川義元が天文二十一年(1552)十一月に現在静岡県 駿東郡裾野町の、「佐野郷御検地之割付」という書付が現存していて、これに一反 (約9.9アール)の田への年貢高が、上田六百文中田五百文下田四百文の定めがある。すると五貫という当時の価値は平均の中田一町分の年収にあたる。これでは現在 の二百万円相当だから、九歳の子供の売渡価格にしては変である。

 しかし家康ほどの英雄にしても功なり名をあげた後では、こんな見栄をはって自分 が高く売られたように家来どもに話したかと思うと、人間的な親しみがもててくる。まあ百分の一の五十文か、あるいはそれ以下だったろう。私は終戦のとき満州の奉天にいたが、春日小学校に収容された難民の母親が、毎朝チェンピーやマントウを満人が商いにくると、それを買いたさか、母子共に餓死するよりはと自分の子を売ってしまうのをみて、それまで、 (母というものは吾子のためならば、どんな犠牲もあえてするものだ)といった浪花節的概念しかなかったものだから、びっくりして周章てふためき初めは止めにまわったところ、 「子をすてる竹薮はあっても、女が吾身をすてる薮はないものだ」という古来からの日本の言い伝えを、その時きかされてしまい、しまいにはなすすべもなく子供を満人に売っては買い食いする邦人の母親の群れを、呆然として毎日眺めて暮したものだが、 その時の相場が女児二百円男児百円だった。だから又右が売った値も、それ位であったろうと思われる。もちろん彼の手数料や儲けもそこから引かれるから、源応尼の手取りは、まあ半分だったろう。しかし人間は飢えにはきわめて弱いものだから、そう いう局限状態におかれた場合はこれは致し方もないことらしい。

 俗説では家康は三河岡崎城に生まれ(岡崎公園になっている城の裏側には、産湯の 井戸というのも、今は観光用に作られている)、それから今川義元へ人質にとられ駿府へ行ったことになっているが、寛永年間に釈春外東劫がしたためた「大日本国駿州 城府分時鐘銘」には、時の大老土井甚三郎利勝が、家光の命令で一万五千石の施米を 駿府の民にくばって、亡き家康の回向をした盛事をのべるに当たって、 「そもそも駿府というは中んずく、東照大権現垂迹地なり」と明記されている。

 垂迹というのは「本地垂迹説」などで説くような仏教用語であって、 「仏が民衆を救うため仮に人に化けて現わるること」とあるように、出現とか生誕を 意味している。これでは三代将軍徳川家光が、「祖父の家康は駿府で生れたのだ」と、せっかく供養に一万五千石の米をまいているのに、なぜ昭和の大衆作家が「三河で生れたこと」 にせねばならぬのか、これはまことおかしな話である。

 また『駿府誌』に、 「延喜式神名帳に記載されている小梳(おぐし)神社の社地は、今の伝馬町華陽院境 内なり」とあるが、その玉桂山華陽院府中寺の掛額に、「大将軍 翁 印」の署名捺 印のものがあって、その中に、 「既シテ始メニ、義軍ヲ浜松ニ発シ、而シテ数州ヲ征ス、禅尼コレヲ思ヒ心痛。時ニ 永禄三庚申夏五月、ソノ訃(フ)ヲ陣中ニキク、哀慕ノ情ニ堪ヘズ、シカルニ如何ニ センカ、使ヲモッテ葬ワススベモナシ」 というのがある。原文は後の方で全文引用するけれど、家康の名はないが、慶長十四 年[1609]に征夷大将軍であったのは彼しかない。

 また現在の誉田(ほんだ)町にある府中寺が、この華陽院であるが、旧幕時代は東海道を通る大名はこの寺の門前では駕をおりて参拝する習わしがあった。そして、こ の境内から百メートルぐらい離れた上八幡町の安南寺の西隣の一区画が、俗に、「榊原越中守拝領屋敷」といわれて、何故か空地にされて、ここに建物をたてることを徳川時代は許さなかった。しかし明治政府が天下をとると、 「この地は朝敵家康生誕の地なり、もって徒刑場を建つべし」と刑務所用敷地にして しまった。

 のちには旧幕臣の骨折りで小学校にかえられたが、この一帯が昔の八幡小路であり 宮ガ崎である。 『烈祖成績』に「神祖、宮ガ崎にあり」 『武徳編年集成』は「宮ガ崎を仮りの住いとなされ」 『城塁記事』では「府中紺屋町にあらせられたりとか。宮ガ崎というが、安南寺西隣 こそ正しからん」というような記録が残っているのも、だからであろうか‥‥ 諸説はいろいろあるが、落ちれば同じ谷川の水で、源応尼のいた所は華陽院府中寺のあたり。於大と松本坊が暮していて子供の生れた地点が、安南寺西隣というのが正 しいらしい。

 が、それより問題なのは、源応尼の死んだのが、永禄三年[1560]五月ということであるようだ。 この年月は丁度いわゆる桶狭間合戦で今川義元が信長に討たれたときにあたっている。

 さて、後述するがなぜ織田信長が今川勢を破れたのか、これは正直なところ確かで はない。『信長公記』によっても、故意に年月を十年さかのぼらせてあったり、岩室 重休以下近習数名のみを従えて出かけていった信長が、いったい誰の手引きで奇勝を 得たのか。このとき従軍したらしいと想像される者は、のち粛清されてしまい、いわゆる信長の家臣団というのは、この戦後に採用されたと思われる新参の連中によってのみ、その後は編成されてゆく‥‥という奇怪さがある。

 俗説では松平蔵人元康がこのとき今川の先手となって、大高城へ兵糧入れをした手腕が当時評判となった。松平元康は義元の死後、三河岡崎城の自分の旧領を取り戻し、 ここに「徳川家康」と改名してしまったことにされているが、それは義元の死んだ永禄三年より実際は二年後のことである。源応尼の亡くなったのが今川義元の死んだ永禄三年五月と同じだということは、こ れは偶然の暗合とみればそれまでの事であるが、もし義元の死のために、彼女が殺さ れたものとみるならば、彼女の孫は、今川義元の死に一枚加わっていた、つまり信長と組んでいたことにもなるだろう。

 
そうでなければ直接に協力していなくても、義元を死に到らしめるような状態にも ってゆく下地を作っていたことでないとあまりにも偶然すぎてつじつまが合わないの である。だからして、ここに信長と源応尼の孫とのひっかかりは、やはり永禄三年五月とい う時点に結びつくから、これが後の天正十年六月二日の信長殺しに、まったく関係がないとはいえぬような位翳を濃くひくことになる。

 そしてあらゆる謎は、源応尼の孫で九歳の時に又右に売られたと自分で告白した家康と、彼と同一人とされている「松平蔵人元康」なる者が、はたして同一の人間かと いうことになってくる。その永禄三年五月のとき、家康の方ならば逆算して十九歳。現行の満年齢なら十八 歳である。しかるに松平元康の方は瀬名姫との間に、二歳の岡崎三郎信康の上に、長篠城主へのち縁づいた五歳の長女阿亀、本多家へ嫁した次女三歳までいた。こうなると同一人物なら「おさな妻」ならぬ「おさな夫」で、十八歳で五歳の娘以下三人の子持ちとは 十二歳で受胎させてしまったことになる。しかしそれでは変ゆえ、この作品の中での徳川家康は享保二年[1717]二月二 日に大岡越前守忠相が、徳川吉宗に登用されてから作りかえてしまった東照権現さまのイメージとはだいぶ違う事になろう。  

 なにしろ、その後二百五十余年たった今でさえ、江戸時代そっくりそのままな家康像が氾濫しているので、これを読んで違和感をもたれるむきがないでもないだろうが、 「徳川家に対し奉っての異説はお咎め厳罰のこと」という、既に死んでしまった大岡越前守の政令などに、もはや気兼ねすることもないだろうから、私なりにこつこつ調べあげた家康を書いてゆくことにする。 資料としてとったものは、明治になって新田男爵となった上州の新田義貞の後裔で、 徳川家に系図をかしていた当人の「万次郎日誌」と、その同志であった金井允恭の手記。それに日本橋蠣殻町に明治二十年頃に住んでいた村岡素一郎の『史疑徳川家康』 も参考にしたいが、これは労作であるが、『後三河風土記』よりの引用が多すぎる。しかも後述するが、これは贋本で史料ではないのである。しかし、徳川家康と築山御前や岡崎三郎信康とは赤の他人だったことは、徳川家が 瓦解した後、すぐ明治時代からいわれていたという立派な証拠でもあろう。

 「★阿修羅♪ > 近代史02」の五月晴郎氏の2011.10.15日付け投稿「史疑・徳川家康 (八切史観)」の「家康二人説」を転載しておく。

 さて、この資料は公開されたのだろうか?また、いわゆる歴史家との討論はなぜなされていないのだろうか?不思議なところである。八切先生は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をフアンに限定販売や無料贈呈しました。明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。これらは古書相場十万から八十万です。先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。

 嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。勿論、活字本になっているものも沢山在ります。

 現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。

 だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。酷い人間は「とんでも本」と侮辱しています。日本はまさに巨大な”偽史シンジケート”が牛耳っているのです。以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏の週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。

 リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。 だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もせずこれらは無視です。そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっています。何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが以前、官学理系の助教授と話していたら「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。

 「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。現在、日本的システムの世界化が急務ですが、21世紀を見据えた、大学改革も含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。

 前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書ー国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です

 次郎三郎は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。

 さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。

 次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。

 しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。

 つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこの間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。

 是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、

 為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩於尼公、従幼至志学之後、

 「既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、

 使人送葬干此然是行

 戎役未息墳墓唯為封而己、(旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略)

 龕  慶長十四年春三月

                   大將軍 翁  印

 さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、 「禅尼(源応尼)がこのことで思い痛め心配した」という一句である。家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。

 さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。

 しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。

 竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。

 しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか?と疑問が生じる。俗説の家康がこれでは八歳で変てこでだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。

 だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸(信忠)、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。

 つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。

 だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく(これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑である)と、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。

 だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。

 これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、

 これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」と、既に元禄時代にこれを注意している。つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。

 石が瀬合戦から、森山くずれ、さらに武田信玄は、「家康、元康別人知悉説」までを箇条書きにしてみます。

 遠州服部村の鍛冶屋の家を溜まり場にして、弓矢を鍛えさせ、武具を整え人集めした若き日の家康は、この天下争乱の時一旗上げようとした。だが今川義元亡きあとの氏真は出て戦わず、尾張の信長も勝って兜の緒をしめよと清洲城から動かない有様。そこで業をにやした家康は中に挟まれた弱体の三河を奪い盗ろうとしたて、遠州から矢矧川の上流を渡って攻め込んだ。この時松平蔵人元康は放ってはおけず、これを石が瀬の原で迎え撃った。

 しかし何といっても、松平党は長年にわたって父祖の代から君臣の間柄。一方家康側は烏合の衆である。正面衝突してはとても松平党の敵でなく、負けて降参してしまう。降人した時家康は松平の家来にされるような話しだったが、抜け目のない家康は直ちに山中城を攻め、城主の松平権兵衛重弘を追って自分が城主となってからは、もう元康の家来ではなく合力衆のような形になった。刈谷城の水野信元を攻めた時など、岡崎勢の先手となって十八町畷まで押し寄せて戦った。ついで家康は元康に協力して野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ケ坪の砦と火を付けて廻ったから、元康も喜び「この分なら織田信長を攻め滅ぼして人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう」と、桶狭間のあった翌年の十二月四日、合力の家康や三河党をもって尾張に入り、岩崎から翌日は森山へ兵を進め本陣を移した。処が、その陣中で、粗忽な家臣の為に、元康は間違って討たれてしまった。仕方がないのでひとまず陣をはらって退却ということになった。

 これが世に謂う「森山崩れ」だが、討ち果たされたのは、永禄三年より二十六年前の天文四年のことで、討たれたのは元康の祖父の清康と通説はなっている。しかし天文三年なら、信長の父織田信秀が岡崎城と目と鼻の先の安祥の城まで確保して、三河の半分は織田の勢力に入っていた頃、どうして岡崎衆が入りこんで尾張の森山へ陣取りなど出来るだろう。この頃の信秀は小豆坂合戦で今川や、松平を撃破して”東海一の弓取り”とうたわれ、尤も威勢の良かった時である。だから、それまで互いに戦いあっていた二人が、合併してその時から一人になる。

 つまり松平元康が急死したので、当座しのぎの恰好で家康が後始末する為、元康の後釜に入った。ついで、尾張の熱田に居た、信康を取り返すため、家康は元康の死を隠して、まんまと顔の知られていない事を奇禍として、自分が化けて代わりに乗り込み、清洲城で信長と談合して起請文を入れ和平を誓い、信康を戻して貰った。その手柄を買われて松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち回り、幼い信康の後見人に収まり、やがて松平党を、その属とした。(ここは大事な処なので重複するが詳細に記しておきます)

 殿様の松平元康が誤って家来の阿部弥七郎の手に掛かって急死した、岡崎城では跡目の信康がいないから困った。その時三州山中城を自力で乗っ取り、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿の身代わりに仕立てい」と言えば、松平党の面々は「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」と、賛成したものと思われる。だから、諸説は色々あるが、家康、元康の入れ替わりはこの時になる。

 そこで、まんまと松平元康ん化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へ乗り込み、三河と尾張の攻守同盟を結んで、熱田に居たか、清洲に居たか(大須万松寺天王坊の説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は、既に何百と私兵を持った大勢力だったから「この儘で、元康様が成人の時まで後見人」ということになった。時に家康二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのは少し早いいが、何しろ苦労してきたので、ませた風采をしていたのだろう。だから信長もこの時は、永禄四年から毎年美濃へ攻め込んでは負けていた矢先であるし、まんまと尋ねてきた松平蔵人元康(家康)を本物と思ってしまい、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、東隣の三河と和平をした。そして足かけ三年も尾張にいたのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の倅らと仲良く遊んでいる様子に、その頃生まれた女の子に「信忠、信雄、信孝信康も加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と初手から嫁にやる気で五徳と名ずけた。

 その縁談も信康を戻す条件として家康に持ちかけたものだろう。この時家康は一時の便法でまんまと信長を欺き元康に化けたものの、どうせ信長などたいした事はない、その内誰かに滅ぼされるだろうと、高をくくっていたが、これがどうして、頑張って美濃も攻略し稲葉山の井ノ口城をとって大普請し、岐阜城と改名。こうなると家康たるもの、化けの皮が剥がれて瞞していたことが判ったらどうしようと戦々恐々とした。よって元康と家康が別人であったなどという証拠は、ことごとく湮滅させた。だから、三河の一向門徒の騒動とは、

 所詮は家康が元康に変身した為に起きた宗門争いである。というのは、三河岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手を組んでいた。そこに、野州二荒別所から、駿府の久能別所にいた家康は、その家臣達も大久保党は七福神系、本多一族は白山神社系。

 榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子。酒井一族は修験者あがり、といったようにどれもが神信心の者達で占められている。時はお寺とこれらの社は仇敵同志の世の中である。反目している内に・・・・先ず岡崎城で、亡き松平元康の家老であった酒井將監が松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して猿投山中へ逃亡した。

 ついで昔は城代までしていた三木領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきて明大寺合戦で一族もろとも家康に皆殺しにされている。この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲され全滅。そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢から来ている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、一向宗の力を借りたゆえ、表向きは一向宗騒動となったのである。

 その後は三河岡崎城では最早家康に楯突く松平衆は居なくなった。家康に忠誠を誓う者は、松平姓でもそのまま許され懐柔策はとられていた。しかし合戦の時は徳川衆は「東三河衆」と呼ばせて、これを酒井忠次に率いさせ、いつも危険なところや先陣は石川数正率いる「西三河衆」を使った。たまりかねた石川数正は小笠原秀政らを伴って徳川を見切って、太閤秀吉の許へ走ってしまったのである。

 上州。ここは当時、榛名山麓箕輪城長野信濃守の勢力範囲で、厩橋城の長野左衛門が世良田辺りは押さえていた。処が天文二十年の大洪水で、それまで北を流れていた利根川が今日のごとく前橋の西へ変わったから、関東管領として上州平井城にあった上杉憲政がこれまでの天険の防ぎを失い、やむなく越後の長尾景虎の許へ逃げ込んだ。そこで上杉の姓と管領の肩書きを譲られた景虎(謙信)が、関白近衛前嗣卿を伴って上州へ攻め込み厩橋城を占領。そこを近衛卿の城として、関東制覇のため小田原攻めを敢行した。

 永禄四年九月十日が川中島合戦になるのだが、謙信は小田原攻略に失敗したので、近衛卿が帰洛した後は、北条(きたじょう)高広が景虎の命令で厩橋城の城代をしていた。が、永禄六年十一月になると、武田信玄がこの城を力攻めで奪った。そこで上杉方も放っておけず取り返した。三年たった永禄九年に、箕輪城を落とした信玄は又も厩橋城を奪った。そして今川義元亡き後の駿遠二カ国もついでに己が領国となさんと信玄は企てた。

 信玄は本願寺裏方の姉三条氏を妻にしている立場を利用して、当時一向宗と呼ばれた石山派の僧たちを、住民宣撫工作に招いた。元亀二年の織田信長の比叡山焼討ち後は、英俊、亮信、豪盛と呼ばれる延暦寺の名うての僧たちも、焦土と化した山を下って、信玄の庇護を求めてきた。そこで信玄は彼らを<宣撫工作班>として信州、上州の各地に派遣し寺を建てて近隣の住民を集め「信仰は御仏、領主は武田」といった説教をして聴かせた。この武田の進出に怖れをなしたのは徳川家康である。

 自己防衛のため織田信長と攻守同盟を結び、元亀元年十月には「上杉家文書」「歴代古案」によれば、越後の景虎の許へ音物(金目の贈り物)をなして、同盟を結び信玄に対抗した。しかしそれでも武田の仏教宣撫班が、「武田の権僧正鬼より怖い、どどっと来たって、どどっと斬る」といった触れ唄を御詠歌調で口から口へ流すのには閉口した。何しろ幕末まで、この地口は伝わり、「甲斐の吃安、鬼より怖い。どどっと吃れば人を斬る」と転用される程だから、その当時にあっても、権僧正の位をもつ武田信玄の威名は鳴り響いていたのだろう。そこで家康は、今は仏法僧で名高い愛知県挙母鳳来寺の猿女と呼ばれる者たちの居る薬師寺に対抗策を講じるように求めた。

 現代で謂う”宣伝合戦”である。そこで「家康こそ何を隠そう、鳳来寺薬師寺十二神將の一体の生まれ変わりである」と説いて回った。後には関ヶ原合戦で薬師寺系の大名を皆寝返りさせた程の実力のある全国的な組織ゆえ、「かしこまって候」と、鳳来寺から各地の医王山へ司令が飛び、それぞれの修験者達が家康のために武田に対抗した。


 「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」を転載しておき、後日検証する。
 <<家康と煙草>>

 「駿府記」の慶長十七年七月十日の条に、「南蛮よりの妙薬にて、万能にきわめてよき効能ありと申しはべりて献上の者ありしが、如何に用いるやと尋ねられそうろうところ、点火して胸深く吸えば可とお答え申し候ところ、煙の出るやと仰せあり、その煙にて悪気邪気しっかい払いますると謹んで述べしに、首をふられて、拒まれたまい、立ち給えり」とだけある。

 問題は家康へ、何病にもきく悪気邪気払いをなす妙薬として、奉げられた物は、どう見ても火を付けて吸う煙草しか、この場合は考えられぬという事である。「慶長風俗絵巻」にも、最早巷には輸入された莨が万能薬として大流行していて、長刀位の大煙管を共奴に担がせた武士の絵も、絵巻屏風にはいくつも出ている。
処が。倅秀忠に江戸は委せて、静岡の駿府城に入っていた家康が「煙が出ると申すのか」と不機嫌になってしまい、席を立ってしまったのは何故かという疑問が生じる。

 今でこそ「嫌煙権」とかいって、煙草嫌いな人も多くなっているが、慶長十八年には、英国人が駿府へまで来て、家康に珍奇な献上品を捧げ、よって通商交易も許可していた時代である。新興都市の江戸では長い大煙管が流行して、刻み煙草を詰め、遊里の女達まで競って吸っていた今でいう処のナウな物である。なのに家康は好奇心が全くないのか、それとも煙草嫌いだったのか。鯛の天婦羅を賞味していたと伝えられるし、変わった料理を好んでいた物好きにしては妙である。勿論現代のように癌になるとか、心臓に悪いと言われだしていたら、不機嫌になる訳も判るが、当時は万病に効く薬とされていた。後で判りやすく書くが<家康が煙草を嫌った訳>は、彼は歴とした日本原住民系の出身で、煙草そのものではなく”煙”を嫌ったのである。日本列島が大陸人によって侵略統一された時。いち早く降参して奴隷となった人々が居た。捕らえられ、進駐軍のお情けで種を頂戴して、以後綿々と続いている。

 しかし隷属を嫌い、頑強に抵抗し、戦って破れてもなお、流浪の民となりながら種を仕込まれる前の女性を伴って山や海へ逃げ、子孫を残した人達もいた。そして次々にそれぞれの土地に落ち着き、居付き、生活する人達がつまり、純粋な日本原住民であり、サンカと呼ばれる人々である。

 しかし何時の時代も体制側からは差別され、弾圧や虐殺を幾度となく、くりかえされてきた。このサンカの人達は家族毎に人目を避け、小集団で各地を転々と旅して、この集団が(これをセブという)安全確認や危険通知に山から山へ合図し合うのを狼煙という。しかし近間どうしの合図にあげる煙は極細い微かなものである。それを待ちかねて家族で注意深く眼を光らせているゆえ、一本の細い煙でも判るらしい。このセブへ交替に入り込めると、飲み水や、洗濯の水も湧かして沐浴もできる。魚を捕って焼石で調理もできる。そして一度に五ケ所しかセブは張れないから、他の家族は自分たちの順番が来るまでは藪蚊に刺されつつ茂みに隠れていた。そしてその辛抱してじっと待つことを、彼らの言葉で”焔待ち(ホマチ)”という。だから焔待ちの煙ゆえ、煙草などくゆらせられたら見間違う惧れがある。だから誰も煙草などに火を付けぬのが、彼らサンカのセブの掟なのである。

 三年後には大阪を落城させ、天下平定を成す家康ですら、煙を出すと聞けば顔色を変えたくらい、このサンカ出身者はセブノロシと紛らわしいゆえ、嫌煙なのである。この一事からも三河の名門出の松平元康と違い、家康は世良田出身の部落民、即ちサンカ出身だということが判る。




(私論.私見)


 さてこの物語は、単なる読物ではないから、そうすらすらとはゆかないのである。
ここでひと息なんとか入れていただきたい。かつて私の書いた、『信長殺し、光秀で
はない』は自分のみた目から、これまでの史料といわれたもののでたらめさをつき、
絶対に光秀でないことを解明したものだったが、続の『謀殺』は春日局と江与の方の
対立をエリザベス女王とメアリ・スチュアート女王との対決において信長殺しを説こ
うとしたものである。『信長殺し、秀吉か』では信長の弟の有楽の立場から、織田一
門はあくまで秀吉こそ本能寺の変の黒幕ではないかとみていたのを書いた。
 だからすぐ続けて、この「信長殺し、家康か」ともいうべき本書でしめくくりをつ
けねばならなかったが、これを書くと従来の徳川家康像が一変してしまうので、書き
出してから二年経過してしまい、途中明智光秀からの立場で、『正本織田信長』をエ
ンタテーメントとして、これまでの総ざらえのように判りやすいものをかいた。それ
らによって天正十年六月二日の本能寺の変は、江戸期まで日本には輸入されなかった
新開発のチリー硝石によるフェリッペ二世の新黒色火薬によって、信長はじめ家臣団
の小姓らは誰も槍も刀も振るわず、みな一瞬に髪毛も残さず吹っとばされたことを証
明した。
 そしてマカオやヴァチカン法王庁、イベリヤ半島であさってきた当時の記録書簡で
は、信長が当時のイエズス派に悪魔のごとく睨まれていた事実から、ここが火薬の出
所であることは疑いない。
 もちろん国内的には、ときの正親町帝のおおみことのりを奉じた光秀が、さながら
その責任をとらされた恰好に、張り合った秀吉にされてしまっているものの、徳川家
康その人にしろ、
「これは光秀遺愛の槍である。汝も光秀にあやかれ」と、その家臣の水野勝成に手ず
から与えた記録がある。もしこの時代に、信長殺しが明智光秀とみられていたなら、
水野勝成は槍をうけとった瞬間に、家康をぶすっと刺したろうが、彼はそんなことは
しなかった。家康の死後も徳川家に忠義をつくし、島原の乱の時には、備後福山の城
からはせつけ討伐している。
 ----だから家康でさえ信長殺しを光秀とみていなかったこれは証拠であろうという
のは、これらの拙書に対する故日本歴史学界会長高柳光寿博士の説でもあった。
 そこで、「光秀でなければ、信長殺しは誰だろうか」ということになるが、直接に
本能寺へ向かったのは、以前は信長の寵臣でありながら、当時は不興をこうむって不
遇の身となり、明智光秀の軍へ目付に左遷されていた斎藤内蔵介その人であることは、
これは間違いない。ところが、である。この内蔵介の末娘の福を、なぜか家康は探し
だしてきて、これを有名な「春日局」にしたててしまった。
 そして俗説では、春日局は家光の乳母ということになっているが、総理府の内閣図
書館にある「家康公遺文」では、家光のお腹つまり生母は彼女であった秘密が書き残
されている。すると信長殺しの内蔵介の娘の子供に徳川家を継がせたのは、家康その
人の意志ゆえ、ここに、「信長殺しは家康」の推理が出てくるのである----これは
『謀殺』でもふれておいたが、それは家光や忠直の立場よりだったから、この本では
家康当人と信長自身の対決から説きたいと思う。なにしろ、これまで各角度からとら
えた既刊四点が、三十余万出ているのに、なかなか入手できないそうだから、そのう
ちの前述二冊は「八切日本史」の1、2で再刊したが、一応の概略の説明がしたかっ
たのである。
 もちろん私の本などが多く求められるのは、それは、この数年来、「すべての既成
概念を投げうって本当のところは、真実とはなにかということを、今こそ根源的に見
直し追求すべきではなかろうか」といった風潮がたかまってきているので、おそらく
その影響によるせいでもあろう。
 さて、そうなると一応は何故こんなに、これまでの歴史と私の書くものとが相違す
るのか‥‥と疑問をもたれる方も多いだろうから、その言いわけも少しさせてほしい。
 他の国では「歴史学」というものが独立しているから、歴史博士とか歴史修士とい
った学位もあるが日本にはない。瀬戸物の研究や修辞学で文学博士をとったような人
たちが(‥‥ゴキブリや蛙の研究で医学博士になった人が平気で大切な人間を病気を
診察するみたいに)「歴史家」になっているからかもしれない。ボウイックだって、
理論が教えることのできない知恵を教えるもの、それが歴史だとはいっているが、
「歴史学教授の説くものが歴史だ」などとはいっていない。
 しかし日本では、学校の本にでているのがみな「正史」ということになっている。
もちろん学校の先生の教えるもとになる教科書なのだから、みな正しいものだろうと
思いたいが、私も大学で講義をもっていた時、どの教授もすこしも勉強はせずに、古
いノートで教えておられたのにびっくりしたが、これでは高校中学となれば教科書を
鵜呑みにして教えるしかないかも知れない。それに日本では、(歴史は過去のもの)
という観念から、(古くから伝わっているものこそ正しい)というのが根本をなして
いる。しかし古いからといっても、これは限度があるから何時頃かというと、正直な
ところ、どうもそれが作られたのは、江戸期あたりにできたものによるらしいのであ
る。
 ところがこの江戸時代こそ(神君家康公の御為に)というのであろうか、講談本で
は名奉行さまの大岡越前守が江戸町奉行になってから、「みだりに新説はとなへまじ
く候。もし御当家(徳川)につき何かと書き候は法度たるべきこと」といった出版統
制をしき、奥付に著者発行人の名を明記させ検問のためとそれから奉行所へ納本制を
とらせた。それが、昭和の戦前までも続いてきたのである。
 前にもふれたが、それだから、もっともらしい歴史全集がいくら出版されても、は
っきり日本歴史というのは徳川中期で線がひかれてしまい、それ以前のことは本当の
ところは今ではあまり判らなくなっているのが、どうも常識的には正しいようである。
 なにしろ徳川家にとって都合のよい御用学者や、こびへつらうものは出版を許され
伝わっているが、そうでないものは、もしあっても内容がすっかり歪められてしまっ
ているとみえる。そして一般大衆には、知らしむべからずの根本政策がとられてきた
関係で、「眼学問は芝居、耳学問が講談浪花節」といったのが、かつてのお国ぶりだ
ったのでもある。そこで、今でも幕末の講釈本の種本を、「史料」としたり「史実」
とするようなおかしなのが堂々とまかり通っている。だからでもあろうか、
「日本は義務教育で文盲は一人もいない。しかしフランスは十二パーセント以上の文
字を読めないのがいる」とはいうが、だからといって日本人の方がフランス人より文
化的だとは誰もいわない。
 なぜかというと、みんな文字が読めるということは、それは悲しいことだが、押し
つけられた活字を誰もが読まされているということにすぎないからである。
 つまり日本人が活字に弱いといわれるのは、誰も彼もがまあ読めるからして、活字
になってしまったものには批判精神もおきず、文字通りにそれを鵜呑みにしてしまう
危険性があること、これをさすのだろう。
 四十五年二月二日付『東京新聞』に、テヘランにいる日本イラン研究所長本田実信
の談として、「こちらに十三枚、十四枚の浮き彫りが見つかっているから、‥‥十六
枚のもあります。わが国の菊のご紋章がペルシャからの渡来と立証できればと思い、
帰国までには突き止めます」
と掲載されているが、菊のご紋章がペルシャからとなれば、天朝さまの御遠祖は今の
シュメール昔のスメラのそちらからだとなるかもしれないが、そこまでは書いてない。
だから眼につく活字しか頭に入らない人が多いので、これについて何もいう者がいな
いといったようなことになるのと同じである。
 というのは、なにしろ自分がそれまでに覚えていることを既成概念として「教養」
と思っている人が多いから、習ったり聞いたりしたのと異質の事柄には、頭ごなしに
これを斥けたがる傾向が多いからであろう。しかし数学や物理と違って、歴史という
ものには定理などありはしない。
 かつての騎馬民族国家説にしろ、その反対意見も、日本・朝鮮・中国といった陸路
の線をひいての考究にすぎない。だがワットが蒸気機関を発明するまでの地球は、と
くに島国で四方を海に囲まれていた日本は年二回交互に吹く季節風と貿易風によって、
その交通はなされていたものである。
 信長の頃はマカオ=堺間に定期航路がひらかれていて、火薬輸入をしていた事実も
ある。
 それより四世紀前の壇の浦合戦で、平家の軍船がみな鎖でつなぎあっていたのを、
今日の歴史家は安定性を図るためだったというが、これから海戦をしようというのに
何十何百もの船を一つにつなぎあわせるという馬鹿げたことをするはずなどなかろう。
あれはなんのためだったかというと、ちょうど南支那海やペルシャ湾の方角へ向かっ
て、今まさに季節風が吹き出しそうとしていた時期であったのだ。
 正倉院御物のペルシャ渡来の物を、シルクロードを通って陸路で入ってきたものと、
今日ではみな説明しているが、そのシルクロードのできた年代までにはふれていない。
つまり安芸の厳島神社の宝物になっている太刀は、いわゆる日本刀ではなくサラセン
の細い剣であるし、彼らの船はガレリ船であった。つまり従来となえられている騎馬
民族の他に、船舶民族というのが西暦四、五世紀から十一世紀にかけて日本へ漂着し
てきて、これが建築その他の高度の技術をもって当時のエリートになったことは、こ
れまでの歴史では解明していないが、疑えない事実であろう。
 また後になって信長や家康の十六世紀というのは、ヨーロッパではスペインやポル
トガルまで押さえていた回教徒が、白人の十字軍に追われた時代である。だから日本
の戦国時代というのは源平時代と同じように、十字軍の戦火をさけた民衆が貿易風に
流され、流入してきたのが戦乱の原因の一つかも知れない。しかし、これは香港の蛋
民(たんみん)がその末裔かもしれぬが、その裏づけするものが彼らにはなく、私も
スペインの古都トレドまで、なにか手掛かりはないかと行ってきたが徒労だったので
触れられないが、戦国時代の馬印にサラセン風の物があるから私は今も疑っている。
 さて、神君家康の死後三百五十年かかって、大阪の立川文庫では、「おのれ狸親爺
めッ」ぐらいに扱われてきたのが、最近は反動で経営の手本みたいにもされているし、
またとるにたらぬフィクションの小説をもっともらしく引用し、それを反証すること
によって、家康は一人であると説くのもいる。だが後年の徳川家康と、松平蔵人元康
はどう考えても、いくら調べてみても、間違っても同じではない。
 案外に男というものは、いくら豪くても賢くても経験のまったくないことは出来な
いものである。だから元康のように十九歳まで今川家に幽閉されていたきりの人間が、
家康のように千軍万馬の英雄になれるとは考えられもしない。秀吉と互角に太刀討ち
できたのも、彼も諸国を歩きまわるような成長の仕方をしてきて、耳目で知恵や学問
をつけてきたせいからだとしか考えなかろう。
 また徳川家では、三河出身は一万石以下の旗本として冷遇され、伊勢出身の榊原康
政とか、駿府出の井伊直政や酒井忠次、遠江の本田忠勝が、「徳川四天王」となり、
他国者だけ大名に立身した謎も、三河の松平元康と、他国者の家康が別人と判れば、
よく納得できるし、そのわけも呑み込め信長殺しの手がかりともなる。つまり私は、
経営学の手本になるような社長家康ではなく、夢と希望だけで、苦労して努力してゆ
く男一匹の家康を人間的に書いてゆきたいのである。そのために特殊な当時の社会状
態から初めに入らなければならない。埋め合わせに後は面白くするつもりである。


鐘打七変化

「これから行くところは、そう力仕事なんどせんでもええんじゃ‥‥」又右はつれて
きた子供に言った。来る途中で柿の実を一つもいでもらい、それをゆっくり齧らずに
歯であけた穴から、ちゅっちゅっと吸っていた子供は、それに「うん」うなずいたき
り黙り込んでいた。
「すこし冷たいが水あびしてけ、よぉ顔や頭を浸けるみたいに洗うがええ」
 安倍川の渡しの手前の州のある浅瀬のところで、又右は子供に言いつけた。
 しょっちゅう人を殺したり、殺された人間の腹の中へ手をつっこんで、黒豆とよぶ
臓物や、死んでも当分はハッハッと動く肺臓を抜き出し、肝臓を唐人に売った後は、
自分らが食っている連中の堂の中にいたこともある子供だけに、又右はここまでつれ
てくる間にも、
「この児は血生臭い匂いがしみついとる」妙に鼻にかかってならなかったから、(売
物じゃから)と水浴びさせて匂いを抜いてゆこうと思いついたのである。
 ところが子供は腰までの水の中に仁王立ちになったまま、水をすくって頭へあびせ
つつ東へ向かうと、「おとうやぁ‥‥」とよびかけ、西の方へは「おかあ」と喚き、
今やって来た北を振りむくと、「ばあちゃあ‥‥」と叫んでは顔をうつぶせにして水
をかぶっていた。又右が、
「これさ‥‥もういい、風邪でもひいてはいかんずら」
 上へよびあげると、その子供は赤い目をしていた。だから又右は、
(この児は目病みじゃったのか)とびっくりしたが、よく覗きこむと、そこには露み
たいなのが一粒ずつ溢れだしていた。そこで、
「おみゃあ川ん中で泣いてきたんか。そんで恥ずかしいで顔へ水を浴びせかけてきた
んずら。だで、見い、耳ん後はまっくろすけじゃ」と、又右はあやすように笑いかけ
た。しかし子供は、
「お、おらあ泣いてなんかいねえ‥‥こ、これ川の水がたれたんだずらよ」
 頭でっかちのちびのくせに、吃りながら一人前の口をきいた。そこで又右は、萱草
をひっぱってむしり取ると、それで小さな身体をこすってやりながら、左手で頭を一
つどづくと、
「おみゃあ、もそっと可愛がられるようにせないかんぞ‥‥おみゃあを売った銭を、
ばあちゃあの所へ届けにゆくとき、そりゃ心配しとるで、いろいろ聞かっせるだろう
が、こない憎ったれ口きいたとは、とても言えんずらよ‥‥」と耳のところへいった。
 すると九歳の子供は、もう辛抱しきれなくなったように、虫くいの歯を出し、「‥
‥おんおん」声をたてて立ったままで泣きだした。そこで周章てて、
「よせってば‥‥渡しをわたって、これから奉公先へゆくんじゃろに‥‥」
と励ましはいったものの、父に逃げられ母には嫁にゆかれ、残った祖母からも、こう
して売られてゆかねばならぬ子供だけに、又右もすっかり不憫になってきて、
「おみゃあさえ精出してよぉ働けば、やがては、おばあとも暮せる。おっかも戻って
くる」
 また耳のところへささやいてやった。すると、
「‥‥お、おとうも来るけ」聞こえるか聞こえないかの低い声で、吃りながら子供は
聞いていた。
「そんなに逢いたいものかのう」又右は唸りながら、
「くる、きっと戻ってきゃあすわ」うけあうように寺の仕着せの苧殻(おがら)(麻
幹)編みの短衣を着せてやり、縄帯もひろってしめてやった。すると、
「え、えらくなったるぞお‥‥」銀色に川面に照り輝く隅に向かって、色黒な子供は、
吃りついでといったように喚きかえした。そこで又右も励ました手前があるから、
「うん、人間やる気になりゃあ、なんでもやれるずらよ」またうけあった。
 だから仔犬みたいに片足ずつ上げて、股ぐらの雫をきりながら子供は、
「な、ならな、いかんがなァ」心細そうに又右を振りあおいできた。
「よぉ守り神の白山さまを拝めや。おみゃあの信心次第でどないに豪うもなれるずら」
 又右は自分なりに言いきかせたつもりで、黒い子供の顔にうなずいてやった。
 このとき。
 九歳の子供が又右の手で売られていった先というのは、鐘打部落であった。
 安倍川を渡って駿府へ入る入口にあるのが白山町。そこにその部落があった。

 大正時代までは栃木の足利市や神奈川県藤沢市の新市街には、部落ごと残っていた
が、鐘打といってもなにも火の見櫓をもうけて半鐘をジャンジャン叩く消防署のよう
なものがあったのではない。これは藤沢の方は旧幕時代からは、「大鋸(おおのこ)
部落」と名が変っていたように、表向き本業は木挽だったが、これは番匠役で、この
他に酒作り、干魚、鉦を叩いて勧進して廻る仕事など六つも七つも、個人個人ではな
く部落ごとでもっていた。足利市のほうは「鐘打七変化」という名前そのままで有名
だが、こちらは鋳掛屋、飴屋、御祈祷、札売り、たが屋(桶屋)も部落中で一つにな
って兼ねていたから、この名があったのである。
 今でこそ職業は自由であって何でもできるし、資本さえあればどんな商売でもやれ
るが、幕末まではそうではなかった。 参考までにあげてみると、今と違って石切、
炭焼、渡船、染色、左官、庭師、易占、能楽、舞踏、曲馬(サーカス)、マッサージ、
帽子屋、蓑作り、茶碗土器、鋳物製鉄、鮮魚干魚、それに鉦や鉢を叩いて銭を貰って
歩くのや、大道芸人、それに現在の警官や看守にあたる捕方牢番。ガードマンなみの
番太郎、といった職業は、お寺に人別帳とよぶ戸籍簿のある人間にはなれなかった。
 寺の坊さんに来世を預けて布施をもってゆく人間というのは、現世では村方だと、
納税や人夫役のために名主や庄屋の支配下にあって、ところの領主に隷属しなければ
ならなかったし、旅行するのにも一々道中手形という旅券兼身分証明書が必要だった。
 さて特定の職業の方は、これは名主庄屋に支配もされず、ところの領主にも納税は
しなかったが、その代り各地に彼らを統轄する長吏がいて、この方に人頭税みたいな
ものを納めていた。だからその長吏からの証明書さえあれば諸国往来は自由であった。
 なにしろ関所の役人も同類だから、彼らには道中手形の必要もなかった。故子母沢
寛の、『駿河遊侠伝』に出てくる安東の文吉親分というのは、別名を「首つぎ親分」
といわれるくらいで、この親分にすがれば普通なら関所で捕えられて首をはねられて
しまう悪者(わる)でも、無事に関所が通り抜けられたのを、
「仁慈のあつい親分で、さすがの清水の次郎長も、この親分のいる方角へは生涯足を
むけて寝なかった」などと書いているが、これは安東の文吉というのが、代々長吏の
家柄だったから、関所の役人も文吉支配下と心得てフリーパスにしただけの話で、仁
慈でもなんでもなく、そういう慣習があったのを子母沢寛氏がご存じなかっただけの
話である。
 今日では誤られて、人別帳に入っていないものは、これすべて「無宿者」といった
考えをされている。だが、これは間違いで、生まれが寺の管轄だった者が、処罰とし
て人別から削られた時に限って、「抜き」とか「非人」とされたものである。
 よく寺の坊主が破戒したからとか、心中をしそこなった男女が見せしめのために、
晒しものにされた後、人別を削られて非人にされるといった話があるが、ああいう形
式で生まれてくるものであって、初めから人別帳に無関係なものは、これは非人でも
なんでもない。
 しかし、さて非人とされた者は、もはや寺管轄ではないから、これが人別のない方
の長吏の方へ払い下げられた。これは往昔の「官奴」といった制度の名残りである。
 貰った方は一生ただで飼い殺しで使うのだから、これを牢から死罪人を引きまわす
時の番人にしたり、首斬りの死体の始末をさせたり、まあ人の嫌がる汚いことに使っ
た。もちろん非人たるや、これまた乞食以下の恰好をしていたから、一般から差別待
遇をされた。
 さて明治五年に新政府は、それまで寺で戸口や人口を把握している百姓を中心にし
た人間だけでは、納税や、これから発布しようとする徴兵令に差し支えるから、新し
く日本人全体の人口を調べようと、一斉にこれを施行した。
 これが、今でも問題になっている「壬申(明治五年のこと)戸籍」である。
 初めは一般の百姓町人に、「平民」をつけ、これまで寺の人別帳に入っていなかっ
た者たちは、「源民」とつける予定だったが厄介なことがもちあがった。それはこれ
までの士分の扱いだった。彼らは各大名家の「分限帳」にはのっているが、「人別帳」
には入っていない。つまり今では郷士も浪士も一緒くたに扱っているが区別はあった。
郷士は大名家の方でなく寺の人別帳だったことである。
 それに上の方から旧大名旧公卿を一つにして爵位をつけ、「華族」という位づけを
してくると、上級武士を、「源民」と民扱いではできず、これを華族に準じて「士族」
というのにした。すると下級武士も源民では困ると騒ぎだした。なにしろ明治維新の
原動力は下級武士だっただけに、新政府もおしきられて、足軽仲間小者の身分の者だ
けを、卒族ともできず、一様に士族ということにした。
 つまり「源民」に分類する中から、士族、卒族といったものが抜けてしまったので、
これを平民に対抗する名称でなくそのまま立ち消えとなってしまった。
 さて、明治五年、川路利良が羅卒総長となって薩摩の者を用いることにして、従来
は非人別帳側にあった村役人共をやめさせるにあたって、ここに全国的な騒動がもち
あがった。
 といって御用提灯や十手の返納を命ぜられたから、番太郎や村役人が反抗したとい
うのではない。それまで御用風邪をふかされ脅かされていた一般大衆や百姓が、それ
までの警察官だった通称「八[はち]」とよばれた八部衆や岡っ引を各地で半殺しに
してしまったのである。もちろん今でも、「嘘の三八」とか「嘘っぱち」という言葉
が残っているくらいだから、江戸時代の彼らはでっちあげで罪ばかりつくっていたの
で、そのせいだろう。
 さて、八ばかりでなく、その家族の者まで村や町から追放され、よその土地へ流れ
ていっても、旧幕時代の御用だった前捕方の身分が知れると誰からも相手にされなか
った。これが今も名前だけは残って時々マスコミにものる「村八分」の起りである。
 この結果、前捕方、下引き、牢番、番太郎の前歴があるものばかりでなく、新しい
平民の名称になった昔の人別なしの連中に、平民側の迫害はひどくなって各地で対立
騒ぎがおきた。
「こういう反響的なしこりが国民感情に残ってはいけない」という親心で、「中央融
和事業協会」というものまで、警察の元締の内務省警保局に設置された。
 が、この事業協会は、当時の歴史界の権威喜田貞吉が、いくら江戸時代からの捕吏
とはいえ、これを原因視するのはまずいと考えたのか、「八部はいま部落のように集
団制をとっている地域が多いが、これは朝敵の徳川家がとった政策で、彼らに賎しい
業務に携わらせていたから、それで差別待遇が生れたのである」という学説をたてた
のを利用して、これによってその会を運営していたのである。
 だから寺の人別からはずされた奴隷にわたされた非人が、まるで旧幕時代の、彼ら
のすべてのような誤解を、その後は招いているようである。----ここまで、こういう
ことを書いてきたのは、少年が売られた部落を今の誤った考えで間違えられては困る
からである。


ささら者

 後年の越後獅子のはしりであろう。当時の言葉では、まだ短く「しし舞い」といっ
た。そして部落中の者が、この商売をもって一斉に旅立つことになった。
 もちろん獅子の恰好のものをかぶって、笛をふき太鼓叩いてといった装束は、あれ
は芝居の舞台から始まったことで、実際はもっと手軽に鳴物は竹を四つ割りした物を
両手でカチャカチャと鳴らすだけ。冠り物も、眼かくしに鼻の上へのせるはりぼての
お面。
 だから、この家へ売られてきたばかりの少年も、一つ年上の一郎というのと一緒に、
「つれてくだ」とひっぱり出された。名前は旅へ出るのだからと、この日から少年は、
「次郎」とつけられた。のちにこれでは軽すぎるというので、自分で、「次郎三郎」
とつけ、ところの太守今川義元にあやかるつもりか、それに「元信」の名乗りまでつ
けたが、この名は、その後につけた家康の名の方があまりに有名になりすぎたので今
ではあまり知られていない。
 さて親方は急いで連れだしてきたので、何も仕込んでいないから、
「これ一郎や、次郎に歩きながらでも、四つ竹の鳴らし方を教えたれ。それからよぉ、
ものいうとき、尻に『ずら』をつけたらいかんと、それもよお仕込んだれ」
といいつけた。
 もちろん譜面をみて合せるような楽器ではない。割った竹を反対にもって、カチャ
カチャやるだけだから、誰にでも出来そうなものだが、困ったことにチビの次郎は手
許もまだ小さい。とても四つ竹を二つとは握れない。そこで、
「仕方がねえ。じゃ鉦叩きをやれや」親方は自分のをわたした。
 鉦といっても、手でぶらさげる椀ぐらいの大きさだから、これなら叩いて音が出せ
る。それに次郎は円光寺にいたから、仏前のをチンチン鳴らしてきているので、どう
にかすぐ急場の間にあった。
 塩見峠から山道を通り抜け、三河を越えると尾張である。今は人口二百万をこえる
名古屋市だが、当時は那古野といって原っぱである。そして今の名古屋城ニの丸あた
りの所にあったのが、今川家より氏豊がここへきて統治していた頃は、「柳の御所」
といわれたものだが、勝幡寺の織田信秀が、いまの今川義元が駿河の跡目をとるとき
のどさくさにまぎれ占領したから、「那古野城」と名もかえられている。しかし、ま
だ金の鯱などついてなくて、土を上へ盛り上げ掘ったところへ水を流しこんでいるが、
小さな二重だけの城。
 なにしろ白壁などというのは、もう少し後年の鉄砲が流行しだしてからの建築様式
で、まだこの時代は、板を焼いてくさり止めにしたので建ててあるから、遠くからみ
ると黒板塀みたいにみえる。そしてそれへの見越しの松よろしく囲みに木が並んでい
る。
 さて、その広場へやってきた親方は、
「商売じゃ」と次郎には鉦を叩かせ、一郎には四つ竹をカチャカチャ鳴らさせた。そ
して、
「ええい‥‥おししでござい」親方は鼻を下をこすりながら、鳶の舞う青空を見上げ
口上をいった。

 さて、だいたい獅子などというものは東洋からのものではない。サラセン文化の図
案や模様で輸入させた中国だって、「牡丹に唐獅子」程度だったから、後年の越後獅
子みたいに、逆立ちなどさせたかどうかは判らない。もし、そんな芸が多少でも入用
なものなら、売られてきたばかりの九歳の少年がすぐ間に合うわけはないし、また仕
事の方でも江戸後期のように専門化するしかない。
 なにしろ鐘打部落のように、ある時は村中の者が一人残らず、みな一斉にふいごを
もって、「鋳掛け直し‥‥」と底に穴のあいた鍋釜の修理屋になって諸国へ散らばっ
たり、時には、「ええ魚、ひと塩の干物はいらんけ」と背中の連雀板に、乾しするめ
や生干しの鰯や、ひらきの鯖など売り歩く。
 また場合によって何も用意できない時には、竹薮から青竹をどんどん切り出してき
て、これを細く割り裂いたのを、昔の煙突掃除夫みたいに輪にして肩へひっかけ、て
んでにこの恰好で、
「えっ桶のたが直しでござい、桶屋でござい」と、分散して諸国をまわって歩くよう
な部落ではまさか、しし舞いに専念していたとも思えないから、おそらく、この時も
恰好ばかりだったろう。
 ----これは余談になるが、桶屋というと、この出身で有名なのは、戦国時代の荒大
名の福島正則である。今日では職業定着化といった観念から、尾張の中村の何処かに
桶屋の店があって、木片を揃えてはみこみ、とんとん叩いてそれへ竹のたがをはめこ
んでいる職人がいて、そこの伜の市松が小姓に召し抱えられ立身したごとくに考えが
ちだが、当時の人口では、そんなに一定のところで店をはっていても、桶を買いにき
たり修理にもってくるとは考えられぬ。
 だから市松の家も桶屋という当時の限定職業からみて、やはり鐘打部落のような聚
団部族に入っていて、流し商いをしていたものとみるべきだろう。ということは、こ
れと遠縁にあたっていたといわれる豊臣秀吉の出身も、俗説のような普通の百姓では
なく、こうした別個の種族だったことも判ってくる。
 そして秀吉の死後、市松時代からの子飼いの福島正則が、豊臣家から家康の許へ走
った理由も、「同族[同系統?]だった」という観念をもてば判ってくるし、のち秀
忠の時に、正則は咎めをうけたが、徳川家でも他の大名の例のように殺すというよう
な事はせず、彼だけは信州川中島へ流して命のみは助けているのも、この特殊な理由
によるからであろう。
 つまり戦国時代というのは、現在の通俗史的な味方では、あまり何もはっきり判り
はしないらしい。
 強いのが現れてその個人のバイタリティで、四隣を征服したというような、個人の
武勇をもって、すべてをおしはかろうとする講談的発想では、とても真実はつかめも
しない。
 明治新政府が平民と源氏とに分けようと苦労したような異民族間相互の反発が、明
国と通商条約を結んでいた室町政権の崩壊後に、各地で衝突して乱世になったのだろ
うし、もし後世ならコミュニストとか、アナーキスト、ナショナリスト、ファシスト
といった分類さえも可能な各集団だったろう。
 いうなれば、この時代つまり中世紀[期?]というのは、地球上どこでも宗教戦争
の世の中だったから、日本でも仏教派と反仏教派その他で争ったのだろうとしか想像
できない。
 桶屋の話がでたついでに書くと、この時代の特徴は、皮と同じように竹というもの
は、反仏教派つまり原住民等の専売品になっていた。つまり、種をまいて収穫する作
物というのは、これは耕す百姓のものだが、野生というのか天然自然にあるもの、つ
まり魚や獣、山中にある鉄、原生林、そして山繭、染料や薬になる野草、そして竹、
こうしたものは一切、「土毛物(つくも)」とみなす風習があって、外来して日本列
島へ入ってきた天孫民族が、耕した物を勝手にするのはよいが、それ以前からあった
ものは原住系のものであるという掟、その区別が確固として続いていたらしい。
 つまり土地を耕して取入れするのは、寺に人別帳をおく側のものだが、その土をこ
ねて土器を作ったり茶碗に焼き上げる権利は、原住民のものとする差別である。
 従来ここまでの研究は誰もしていないから、これに関しての引用できる資料はなに
一つとてないが、非寺系の限定職業というのが、みなそれに基礎をおいている点で、
こうした推測は成り立つ。
 さて、天孫系の歴史は「正史」としてあるが、被占領民である原住民の歴史は何も
ないから、矢に関連して矢関係だけでもついでに書くと、古来この連中は部族の中の
戦闘的中核だったらしい。
 「や衆」とよばれる彼らは天孫系が入ってきた時から、あけくれ本土防衛で戦いを
していたから、彼らの築いた城の名残りを、「やしろ」とよんで、これがのちに神社
と扱われた。
 『古事記』や『日本書紀』にでてくる、天孫族に滅ぼされるのが、ヤソタケルとか
ヤソダテと、上にヤがつくのも、や衆のことであろう。
 さて、後になると、「矢衆」とは当時「調度」といわれた弓矢隊になり、近接戦に
得手な「矢利衆」が、当時は「道具」とあっさりよばれた槍隊のことにもなる。
「戦国武者とよばれる新興プロレタリアートが、各別所から発生し、野生のや放牧の
駒に跨り、「矢衆」「矢利衆」を率いて、応仁の乱後から各地の守護大名の目代や代
官を襲ってこれを倒し、とってかわって戦国大名にまでのし上がる者もあったから、
これを今の歴史家は、「下克上」ともよぶが、さて、この「や衆」は、その後どうな
ったかというと、これが江戸期では士分になりそこねた連中が、代官所や奉行所の下
役人や捕方牢番になり、それにもなりそこねたのが、「や師(香具師)」、「や屑
(やくざ)」と変貌していった。旧幕時代の御用聞きとやくざが一身同体だったのは、
このわけであり、国定忠治みたいに寺側の出身だった者は、「はんか打ち」といって、
やくざや捕方からも嫌われていたのは、そのせいだったようである。
 また、「矢衆」の統轄している各地の山林の中で、矢竹として軍用目的に供せられ
る物の外は、「ささら衆」という連中が、その払い下げをうけて竹細工を業とした。
これが桶屋のたがを供給したり、自分でもやっていた。だから、おおざっぱに、鐘打
七変化のようになんでもやる部落の連中を「ささら者」と一括してよぶようになるが、
これは後年の話。しかし何故また部落ごと一つになって年に何回も、いろいろな商売
がえをして、それで各地を分散してまわったのかというと、
(一つの仕事では、人口の少ない時代ゆえ、とても需要が長続きしないから、目先を
かえて、次々と変った趣向で出向く)という理由もあったろうし、また、これが初期
の目的で、手をかえ品をかえて生活の資を得ていたのでもあろうが、戦国時代になる
と、(これに眼をつけて利用する)といった動きにもなった為らしい。現に、一郎や
次郎に四つ竹や鉦を叩かせ、自分も、
「ええ、しし舞いじゃ、しし舞いじゃ。これに銭を一文あげなされたら、常人の眼に
はつかぬ、そなたさまらの怨敵悪魔を払うてしんぜましょうわい」
 ちゃかぽんちゃかぽん小鼓を叩いて口上をのべる親方の側へ、通りすがりのお小者
ふうの男が、面白そうに間のびした顔をみせながら寄ってくると、
「ほい、一文の喜捨で、そないな福を授かり、無病息災でいられるとは有難や」
などといいながら、反古のようなものに銭を包んでぽんと投げてよこした。そして手
を合せ拝む仕草をしてから、とっとこ行ってしまった。
 するとである。見物人の中に混じっていた市女笠の女が、いきなり側へ寄ってくる
なり、まるで飛燕のように手をのばし、親方が懐へねじこもうとしていたのをいきな
り横合いからひったくった。
「何をさっしゃります。無法な‥‥」あわててその手から奪い返そうとすると、
「‥‥何処ぞよりの細作(しのび)にござりまするぞ。お城の衆よ。出てござれ」
 金切り声をあげて女はよばわった。すると眼と鼻の先が那古野城の馬出し曲輪ゆえ、
「なんじゃ、なんじゃ」棒を手にした番衆共が、わいわい言いながら駆けよってきた。
「不届き者めが、逃しはせじ」と親方ものとも三人は城の中へひったてられてしまっ
た。

殴られ蹴られ

 子供だからといって容赦はされなかった。あべこべに子供だからこそ、手軽だから
叩かれ蹴られた。
「これさ、ええか‥‥なにもかも知っていることを、ほざいてこまそ」調べの者は恐
い顔をした。そして、ぶんなぐってひっくり返った子供を足で踏んづけた。しかし子
供は又右に売られ、すぐしし舞いに連れてきたのだから、いくら責められても返事の
しようもなかった。だから無言でいると、踏んづけた足に力をいれ捻りこむように爪
先をごしごしやって地面にこすりながら、
「うぬのようななりのこまい童(わっぱ)を求めたというは、おおかた何処ぞへ忍び
こませたり滑らせるのに好都合ゆえ、それで購われたものとみえる。よって、そない
な訓練を受けてまいったか。それとも、もう何処ぞへ小さな身体で入り込んだことが
あるか、そこのところを申上げてみい、正直にいうたら助けてとらせる‥‥が、さも
ないと踏みつぶして殺したるぞ」
 肩の骨が折れてしまいそうに力をいれてくる。だが、子供にすれば何も知らないと
いうことは、いくら苛められて責められても、それに対して方策もなく、どうともし
ようもないことである。ただ土の中へめりこんだ顔から、涙をぽろぽろ流すしかない。
「しぶとい奴じゃ。何も言いよらん。こまい癖してこない強情ぶりでは、こやつ行末
は、とんだしろものになるやも知れんな」いまいましそうに手をやいて、捨てでりふ
をはき、折檻していた大人はひきあげていったが、子供は土の中に埋まったままだっ
た。
 なにも反抗して、すねて意地をはって、わざと転がっているのでもない。まだ固ま
っていない子供の四肢の骨は、散々に大人の足で踏みにじられ、すっかり覚えなしに
なっていたのである。
 身体の節々は感覚を失ったように麻痺しきっていたが、頭は冷んやりした地べたに
すりつけているせいか、それともこぼした涙で濡れたせいか、冷てえと意識があった。
(なんで、こないに打擲されないかんのじゃろ‥‥)何をされても、どうしようもな
い無力な子供だけに、そんなことばかり考えた。口の中がもぞもぞするから、ぺっと
吐いてみたら、砂粒かと思ったら蟻だった。死んでいるとみえて土の上へ転がりでた
が、動きもしなかった。
(大きな猫や犬じゃったら、よお殺されなんじゃったろに、蟻はこまいから、そんで
死んでしもうたんじゃろ)そう思った。だから、
(おりゃもこまいから、こんなに蹴られ踏んづけられ、ひどい目にあわされるんじゃ。
早よ大きゅうならないかん)手足をぐっと伸ばそうとしたが、痛くてそれどころでは
なかった。
 しかし、ついでに顔をすこしあげて地面にすれすれあたりを見回すと、大人の足が
みえないので、子供心にも逃げるんなら今のうちじゃが‥‥とは考えた。だが手足が
きかなくては這っても動けそうもなかった。そこで子供は泥まみれにうつ伏さったま
まで蟻の屍骸をみつめながら、
(おりゃも、もうじき殺され、ど頭を割られて味噌をとられ、臍んところから山刀を
さしこまれて腹をさかれ、中の胆や心臓(はつ)を抜かれ、後は食われてしまうんじ
ゃろ)
 狐塚の河原のお堂で散々に覗き見しているだけに、子供はそんな形で死というもの
を見詰めた。
 なにしろ息のあるうちこそ暴れたり、女などは自分から前をめくって、こっちで勘
弁さっしゃりませなどと騒ぎもするが、よってたかって押さえつけられ脳天の眉間の
真ん中を薪ざっぱで割られると、そのまま眼ん玉をむいて動かなくなる。それを、早
よせな肉や骨が硬ばって固くなると、てんでに山分けして切ったりむしったりしてし
まうと、いつの間にか、さっきまでいたのが姿をまるっきり消したみたいになくなっ
てしまう。それを思い出すと子供心に、
(死んだら何もかもなしになってしまうだけじゃろに‥‥)諦めというか、よお見知
ってわきまえているだけに、そのまま泣き寝入りの恰好でうとうととしてしまった。