水平社運動
大正十二年の関東大震災前後から、日本全国の特殊部落の人々が、ただ恰好だけに過ぎない、明治四年に発令された「エタ非人称号廃止令」は返上し、昔のように自分たちの限定職業を戻して欲しいと各地で集まったのが、この運動である。明治維新後、近代国家建設を目指した薩長政府は、国民に税金を課すことになり、新しく戸籍を作ることになった。これを明治壬申戸籍という。
江戸時代までは百姓は寺人別帳、町人は町人別帳として、それぞれの人口把握はなされていた。しかし、これらの何れにも属さない限定地に住む日本原住民の数は把握されておらず、この当時、お上は数十万人と軽視していた。所がそれは家長のみの数で、大正時代にはいると自らエタと誇らしげに叫ぶ原住民でさえ三百万。
まだ身元を隠して都会などに流入している潜在人口を推定すると二千万に近いことが判明した。そこで叛乱を恐れた政府は慌てて「大和同志会」なるものを官費で各地に作って懐柔策に出た。この時出獄してきた松本治一郎が水平社を作り、小学校での差別や各企業での故なき解雇に対して、むしろ旗をたてて、人間は平等なり、の戦いを開始した。
これが日本労働運動の嚆矢である。こうなると政府としては「大和民族は単一民族なり」とする看板に傷が付くのを怖れ、時の山本権兵衛内閣は己も同系の出身なのにも係わらず、国家機密費をもって、金で動く右翼を作り、それによって水平社退治を全国的に官憲の応援のもとでやらせた。
「水平社運動史」の血生臭い各頁を見れば出ているが、縄文時代さながらに、竹槍で対抗する水平社の闘志に対し、日本刀や散弾銃、時には軍隊払下げ銃の右翼各団体が、一部落つぶせば何百万円の懸賞で襲撃した。当時奈良から岡山にかけては、殺されるのを恐れて部落民が各地区から次々と逃亡が続出した。妙な話だが、博徒系の右翼団体は歴っきとした日本原住民なのである。それか゛大正時代になってもまだ「夷をもって夷を制する」と藤原時代そのままで、金でつって戦わせたものらしいが、全く金が義理のこらえ性のない奴隷根性の民族性である。
勿論協力しなければ弾圧されるので泣く泣く右翼の連中は命令に従ったのだと「酒井栄蔵回顧録」には出ていて仕方がなかったらしい。昭和56年3月。NHKで当時の生き残りの水平社の人々の回顧放送があったが、苗字にみんな石とか伊の字が付いていて、当人は知らずだろうが、壬申戸籍で新しく部落の者にも苗字を付ける際、多くはその出身地名をつけたがその他は「夷」の当て字変えをしたからである。
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