八切史学の「織田信長」考

 (最新見直し2009.11.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2009.11.29日 れんだいこ拝


 【織田信長像】 

 信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。

 そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。

 <天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。

 「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。(こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう)

 という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元がなにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈である。だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼らを匿っていた。だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。

 さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、井之口城を占領した。

 岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、木下籐吉郎が防いだだけの話しである。ここは以前にも墨俣砦として記してある。

 こんな事も歴史屋さん達は判らなく、講談の儘なのが現状である。明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、家康は非人の出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。

 余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、八の民が進んで協力したからである。

 播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。関西へ行けば非人扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。

 此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。

 現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とか長吏と呼ぶ。

 一方騎馬民族では、部落の元締めは弾正とか弾左エ門という。だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。どうも信長は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。

 というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。

 1182 信長殺し、光秀ではない1」の「敵は、本能寺」の「誤解」の下り転載する。
 天正十年六月二日。おれは、まだぐっすり瞑って居るところを、 「ご謀叛にござりまする」と起された。 「この本能寺へ‥‥して、何奴が押しかけて来たぞ」 。「はい、白紙の四手(しで)しないの馬じるし。紋は桔梗‥‥明智惟任(これとう)日 向守光秀と見うけます」。小姓薄田余五郎が、うわずった声で告げた。 「そうか。表御堂(みどう)の番衆をあつめろ」。はね起きざま、おれは言いつけた。表御殿の広縁へとび出したが、空は桃色で、ま だ薄暗かった。 「調度もて」 と、おれは四足の塗篭(ぬりごめ)剛弓を取りよせ、塀がないから四方より迫って来る敵に、矢つぎ早やに防ぎ矢をくれた。だが、小姓近習に厩仲間まで加えても、百にもたりぬ小勢。やがて、敵影が築地を踏み越え、眼の前まで出てきた。弓弦が、上の大鳥打あたりで、ぶつんと剪(き)れ放った。もはや、これまでと見てとったか、森蘭丸が、かけよってくると、 「お腹、召しませ」と切れた弓を頂きながら言った。だが、それに対して、 「道具もて」知らぬ振りをして、おれは怒鳴った。月剣と呼ぶ宝蔵院献上十文字槍を受取ると、段階から飛降りざまに、黒革胴の面頬 武者を、思い切り根深く突き立て、抉り抜くと、返す穂先で、馬革胴の寸法(ずんぼ う)武者の胴を、ぐさりと刺し貫いた。すべて、昔の侭だが、誰もおれの事を「乱妨武者」とは呼ばず、 「天下さま、お覚悟っ」と、突き立ててくる。日帰りの野駆けのつもりで出てきたので、誰も具足櫃など背負って来ぬから、みな 素肌で、寝着ひとつで戦っている。小姓共、大塚又一郎、落合小八郎、小川愛平。け なげにも、おれを庇おうと、血みどろになって戦ってくれたが、なにしろ敵勢ども、 おれ一人を目印に突き掛かってくる故、七、八人は倒したが、おれも肘の肉を削られ て、槍が持てなくなってしまった。 「お大事に、なされませっ」と小姓の菅屋角蔵がとんできて、己れの袖を破って肘、 をまいてくれたが、やはり痛くて腕は動かない。 (室町の薬師寺の方はどうかな)と、ずっと気になっていた。そこの妙覚寺には、成 人した嫡子の奇妙丸、今の城介信忠が居るからだ。 「早よ、かくなる上は、お腹を召しませ。われら、おん供、仕る」 。蘇芳を浴びたように真っ赤な顔をした小八郎が、おれを上縁までおしあげて言った。 「うるさい」。口早に俺は叱りつけた。しかし、登って、板戸をあけると、黒煙が紅い火の粉を、 絣(かすり)模様にしている。噴きだす熱気がむんむん、逆巻いていて熱くて、むせ そうでもある。 (死のう。死んでこまそ)と覚悟した時は、いつも死ねず仕舞いで、こんなに伜の事が気になって、すこしも死にたくない時に、何故おれは腹を切らねばならん。死にと うはない‥‥いやだ。と、俺は唇をかんだ。そして、ごうごう音させて、渦をまく炎を、ぐっと睨みつけて居るうちに、 (その熱い火炎の芯を、辛抱して駆け抜けたら、その先に道がひらけて、妙覚寺の伜 のもとへ行けそうな) そんな気がした。そう感ずると、矢も楯も耐らなくなった。昔、小豆坂で敵陣へ、まっしぐらに駆け込んだように、「奇妙」「奇妙」と吾子の 幼な名を呼びながら、迸る深紅の火炎のまっ只中へ、おれは融け込むように走って行 った。

 ----これは私の書いた本能寺の描写である。一人称で信長を扱い、その長子の信忠を、幼い日の奇妙丸という実像でなくしては、 捉えにくい、男親の儚い愛情の虚しさと、 「人、いくたびか死を想う」つまり人間は誰でも生きている間に何度も「死のう、死 にたい」と想うものだが、案外、死にたい時には死ねもできず、今は死にたくないと いった場合に、不本意に死んでゆくものなんだという、皮肉さをモチーフにした作品の最後の一章であったが、どう考えてみても、本能寺にこんな情報があったとは想えもしないから、これは、その作品(昭和四十年四月号の小説現代所載の「乱妨武者」) を単行本に収めるにあたって割愛した部分である。と書くと、まるで廃物利用でもしたようにも想えもするが、従来の「信長観」というものは、こういうものであり、これが世俗における常識でもある。つまり、 「織田信長という人の最期は、かくもあったのであろう」、 「こんな風に壮烈きわまりない敢闘をしてから、潔よく、人事をつくしてのち、従容 として死についたろう」 と、読む方も、そういう期待をもっているから、書く方も、抵抗を避けるように、それにおもねって、かいてきたものである。つまり、どの作家の書くものでも、みな似たりよったりなので、殆ど大同小異であ る。ただ変り種としては、この中へ、茶碗屋の阿福が出てきたり、忍者が出てくるくら いのデフォルメでしかない。しかし、「こういう莫迦げたことはない」、「こんな本能寺の場面はあり得ないこと だ」 といった例証として、ありふれた概念的な信長の最期の場面の見本として、初めに掲げるのに、まさか他人の書いたものを持ってくるわけにもゆかないので、自分のものをのせたのである。

 こうした描写のもととなる下敷、つまり種本という資料は、<当代記><天正記> <太閤記><信長公記>と揃っている。そしておかしな話だが、まるで言い合わせた ように、 「本能寺における信長の最期」は、みな筆を揃えたように同一なのである。だから現代の、もの書きの書くものも、これまた、みな同じようになってしまう。

 さて、江戸時代に「番町で目あき、盲にみちをきき」で知られた塙保己一(はなわ ほきいち)という先生がいて、正続の「群書類従」という、それまで散逸していた写本、版本の類を集めて編纂したとき、「類従制」とよばれる方式をとった。今日で云えば「多数制採用」というのか。同じ時代、同じ具象を扱ったもので、同 じような事が書いてあるものは、比べてみて、それが同一か相似していたときは、双方が例証となって、これは良質とされ、他と内容が相違しているものは、これは「信用すべき対照物がないから」と悪書にされた。仏教の「十目のみるところ、十指のさすところ、それ正しきかな」という、昔の民主主義採決法である。一つの方法には違いないが、それが今日まで、古文献、古史料の鑑別法には、この類に従う方式が、今も生きて使われている。従って、 「六月二日、明智光秀に包囲され、弓をひき槍で闘って、のち火をつけて死ぬ信長像」 がみな、類は類をよんで内容が同一なところから、先にあげた古書は、「第一級の史料」と目されている。そして、それと相違するような物は、古来、一冊たりといえど 陽の目はみていない。 「信長殺しは、光秀ではない」などというものは、1582年6月の事件のときから今日まで、三百八十五年間に一度も出ていない。つまり、この本は、一世紀に一冊どころか、四世紀にわたって、初めて、この世に現れたものである。出来ることなら、読んだ後で、すぐビニールの袋へでも入れ、罐に入れ、地中へで も埋めて頂きたい。これだけ調べあげるのに、今の時代でも二十年の余かかったから、 後世の人が、やるとなると、もっと大変なことだろうから、せめて、その労を省くた めにと、これはお願いする次第である。それから、これは珍しい形式であるが、これも小説である。といって、ロマン、フ ィクションというように一概に考えられても困るから、引用文献と長いものは原文を挿入し、引用書名は<型で囲った史料扱いのものと、「型の似て非なるものに分類したが、前述の、信長公記以下のものは、私は史料として認められないと想うが、世間 の評価に妥協して<型で、これを用いた。そして、これは「信長殺しは誰なのか」という究明のレポートではなく、 「信長殺しは光秀ではない‥‥という想念に憑かれてしまって、世俗的には一生をだ いなしにしてしまった愚直な男の物語」として、これを読んで下さることを初めに約束していただく。つまり、ノンフィクション・ノベルなのである。まず初めに「信長公記や、その他の各書の内容が、こと信長殺しに関しては、同一 であるから、本当らしい」という誤解について、言いたいのは、「なにも学校の試験のように、同一の時刻に一緒に書かれたものではない」。つまり、「あの中の一冊が種本で、あとは、みな、それを下敷きにして作成されたもの」。これが試験の答案なら、「みなカンニングして写しとったものにすぎない」と いうことである。各書別にその不条理はついてゆけるつもりだが、なにも十人が空を指差して「青い」 と言ったとて、それだから「空は青色」とは決まらない。なにしろ「虹の見える空」 だってあるのだということをいいたい。

 <天正記>というのは、信長の次の国家主権者の秀吉政権の御用作家が書いたもの。 <当代記>は、筆者が、松平忠明などともいわれているが、次の徳川政権の資料。 <信長公記>と<太閤記>はリライトされ焼き直しをされ、なんともいいようもない ものだが、今日では誤解され過大評価をされている。----といって、何も、誤解している歴史家をここで責めようとしているのではない。なにしろ人間というものは、誤解されたり誤解してこそ、その社会構造も成り立つ。もし、誤解ということがなければ、人間関係というものは持てなくなってしまう。 なにしろ自分を「頭脳明晰」と世間から良く誤解させようと思えばこそ、小さい時か らよく勉学して一流校へ入ろうと努力するのだろうし、女性が化粧や服装に細心に気 をくばるのだって「良く誤解されたい」の一心で、真剣にするのだろうし、あらゆる 人間の努力精進というものは、「いかにして、うまく誤解され得るか」という命題に かかっているようである。なにしろ人間社会では、実際の能力や、それ自体より、「どれ位まで巧みに勘違い されるか」という事に、すべてが掛っているかのようにさえ見うけられる。そしてみ んなが(良いように誤解しあっている)その間はよい。それは、時には<愛>といっ たものの発生にも繋がってゆくだろう。そうして、そうした場合には、誤解といった言葉が<理解>といった呼び方にも美化されて装われもする。 しかし、なんといっても<誤解>というものは、本質的には、それは誤解でしかあ り得ない。なにも誰も彼もが、みんな都合よく誤解されてしまって、その(好ましい 快適な誤解)の中に安座して、ふんわりと雲の上に浮かんで居られるというものでは ないようである。なんといっても大多数の人間は、みんな自分にとっては(好ましからざる誤解)ばかりを受けているのではなかろうか。そして、その汚辱と劣等感の中に、ともすると挫けてしまいそうな自分を奮い立たせ、なんとかして(良き誤解)を 周囲からしてもらいたさに、そのように思わせようとして精進もしようとする。これ を、ふつうは、努力ともいう。そして、そうすることが「生きる」という事なんだと、自分で悲壮感にかられて陶酔したり、感傷的になったりもする。だが、生きている者はいい。しかし、もう死んでいるものは、どうするんだろう。 「良き誤解」とは、全く反対に「より悪すぎる誤解」を死後も烙印のように押されっぱなしの男さえいる。 「何事も年月が押し流していって解決する」 という言葉もあるが、彼のように、星霜ここに三百八十五年も誤解されっぱなしなの も気の毒である。

 京都の福知山市へゆくと、日本で唯一つの彼を祀った神社がある。 「御霊社」という。宮司の森本孫兵衛が、気の毒がって毎日慰めてやっているそうだが、その宮司だって、やはり、より悪く誤解している知識しか持ち合わせていないだ ろうから、いくら柏手をポンポンうってもらっても、彼は、池の鯉みたいに浮かび上 がれはしないだろう。 「誤解」というものは、良きにつけ悪しきにつけ、それは生きている人間のものであ って、死んだ人間には、それこそよけいだろうと私は想う。 そこで‥‥ 「1582年6月2日の午前四時から八時までの間に、織田信長という男は死んだ。 しかし、あんな死に方はしていない。これは荒唐無稽なデフォルメにすぎぬ」という こと。そして‥‥ 「明智光秀を信長殺しに仕立て上げているが、彼は信長が<死>という状態に追い込 まれた同日の午前七時半までは本能寺へ近寄ってもいない。初めて光秀が京都へ姿を見せたのは、二条城の信忠も焼死した九時すぎである。つまり現代の言葉でいうならば、明智光秀にはアリバイが成立している」という事実。それなのに‥‥ 「誰も彼もが光秀を、信長殺し、と決め込んでしまって、一人として怪しむ者がない のは、何故だろうか。もちろん、三百八十五年前は『信長殺しは光秀』としておいた方が、当時の国家権力者には都合はよかったろうが、なんぼなんでも、もう本当の事が判って、彼の誤解はそろそろとけてもよいのではなかろうか」と考える。

 さて、何故これが今日まで、解明できなかったかというと、日本国内の史料では、 とてもその参考になるものが見つけ得なかったからである。そして吾々が怠惰であり、一つの具象を飽くまで追求してゆくという真摯さに欠け ていたせいではあるまいか。つまり、これは三百八十五年間にわたって誰も遂行でき なかったことを、私が初めてしたというのではない。ただ労多くして酬われる事のな い、そうした徒労は、私のような愚かな者でなくては他にしなかったというにすぎな い。それと、もう一つ。これは世界史から孤立していた日本史の断層にも起因している。 「戦国期」というものを、英雄とか豪傑といった人間関係においてのみ把握する従来の帰納法は、あれは「三国史」の模倣でしかない。もちろん今日の我々の常識では‥ ‥  大東亜戦争の終末を、(広島や長崎へ投下されたアトムのためだとは想う)だが、 それをトルーマンや、投下した飛行士の名では考えもしない。それと同様に、戦国時代を回顧すると、天文十二年に日本に伝来した鉄砲が、まず念頭に浮かぶ。だが、日本国内では、その弾薬の煙硝は生産されない。当時の「死の商人」は、マカオから季節風にのって、夥しい硝石を売り込み、彼等の手によって、日本の戦国時代は演出されていたといっても、それは過言ではあるまい。 すべての謎は、海の彼方のマカオに、こそある。

 「1061 古代史入門13」の「信長は部落解放者」の下りを転載する。
 戦国時代と幕末が庶民の憧れなのは、下克上といわれる恵まれぬ底辺の者達が浮かび上がれる唯一の機会だったからである。つまり加藤清正にしろ虎之助とよばれ岡部又左の大工の徒弟だったのは、薮塚の加藤弾正の伜ですから居付地住まいの素性。 それから同じく秀吉のまたいとこにあたる福島市松がササラ衆の、桶屋の職人の伜だし、これも原住系に相違なく限定職だから居付地に入れられていた。秀吉も中村が後に遊郭になる程ゆえ、居付部落の抜け人。 ----家康も原住系の部落の出身ということですが‥‥ ----勿論そうです。これはまだ、もう一回やらなきゃならないけども、明治三十五年 に村岡素一郎という、直木賞をとった榛葉英治の外祖父にあたる方で多摩書房刊の 「明治論叢」にも原文で収録されている『史疑徳川家康事蹟』という本を徳富蘇峯の民友社から出した処、当時の華族会の圧力でもって警保局が全部、これを押さえてし まったんです。そこでその外孫の榛葉英治が今から二十年前の昭和三十八年に吉川弘文館からまた現代語訳で本を出した。処が、これも不思議なことに、どこかに全部、定価でみんな売れちゃった。その代り絶版です。[1996年4月現在、入手可能です]  不思議といえば正確には村岡素一郎の本が出た二年後の明治三十七年刊なのに、七年前に発行年をさかのぼらせた「松平記」が「東大蔵版」と朱印つきで青山の青山堂より木版刷り三百部が、紋入りの桐箱で各華族や歴史屋に配布された。この内容を水増しして現代語で大河小説にしたのが、故山岡荘八の「徳川家康」で、内容はまったく松平記と同じゆえ、発禁や絶版にもならず大ベストセラーになりNHKで三度も大 河ドラマとしてテレビ化された。  

 なにしろ東大をはじめ官立大学の歴史学会は、華族会の援助をうけていたので、確定史料と認知された。そのため岐阜城館主郷浩が、信長の美濃攻略は永禄七年といく ら訴えても「松平記」には永禄十年とあると、いまだに相手にされない始末である。せっかく岐阜城内の古資料を二十年も掛って調べあげた苦労も無駄である。

 さて日本原住民について八切史観を始める時には、判りやすくと、占領軍が黒で、被占領軍が白であると、これは足利時代の室町御所の記録に、「白旗党余類」という言葉で、彼らは被差別されておるので、ゲットーへ入れられている被占領民つまり賎の賊軍扱いされているのと、官軍の黒と白の争いにし八切史観を判りやすくしたんで す。ところが、どうしても赤をやらないと、私の出自血脈では困るから、「特殊部落発生史」を書き、お稲荷さんとか祇園さんとかいった赤系をやったわけです。紅殻塗り のお宮ですね。これやらないと日本原住民には白と赤がいるから話の辻褄が合わない。 それがいわゆる庶民。ところが純民がいるんです。日本にはあくまでも頑強に反藤原勢力の‥‥民族です。 ----その純民の観点からすると、庶民とはなんでしょう。信長も死ぬ時は平姓ですが ‥‥ ----秀吉も平の秀吉で死んでます。北条政子も源の頼朝の妻でも平政子として死んで ます。これは例の『大乗院寺社雑事記』という活字本にもなってますけど、あの中に、 西南より渡来せるものは堀川三条小路の囲地に収容し、僧籍に入らざるは古来より風習にて平氏。要するに京都はお寺が多いから、今でいうとタレントみたいに目が青い のだとか、一見毛色が変わったのを連れてって、それぞれの寺の目玉商品にしたわけ です。言葉は通じないから執事が色んなカッコウして手真似で何とかこうこうとやるわけです。ところが、いつまでたっても不器用でノースピーキング、ノーヒアリングの者は結局、京都から追い払われ高崎へ行って、面壁九年ってのも、何も壁が好きで 九年も向き合ってたわけではない。あれは全然ヒアリングもスピーキグも苦手で、だ からいくらいじめられても、じっと我慢しておったからでしょう。  

 さて、山芋からつくる芋アメは、これはシノガラ特有のもので、ベッタラ漬もそう です。サンカ用語でベッタラっていうのは特別の意味。上野のアメ横の入口に近くに電話局があり向かえの角のところを入った通りのところまでは、浅草からかけて朝鮮人町です。焼肉屋があったり、浅草瓢箪池の前などは堂々と朝鮮服屋が並んでいます。 ところがアメ横は一町入って通りまで入ると、全然もう違います。現代では終戦時の事は何も知らないから、ヤクザがアメ横を守ったなどというけれど、あれはウソで、アメリカ兵の中の日系シノガラ部隊が機銃をもってきて防いだんです。はじめは芋のアメを売っていたから、アメ屋横丁になったのですが、その頃はアメリカ製のタバコ なんかも持っていると、MPにぶんなぐられ、沖縄重労働だぞと怒られた時分に、シノガラのアメリカ兵がどんどんあそこにはPXから流したから、アメリカ製のものはアメ横へ行けば買えるといわれたのも、そういうつながりがあったんです。

 ただ言いたいことは、一般庶民の家庭は子供を沢山産むと、器量が落ちるからとい って、一人か二人で子供をつくるのをやめます。ところが、シノガラの方では、本当の純粋な日本種族ですから民族を増やさなきゃならないため、子供を沢山つくってい ます。有名な方では、九州でこの間奥さんが癌で死んだ江口さんですが、あすこは十六人。名古屋では伊東さんって方が十四人目の子供をうんでいます。なにも好きでつ くるのではなくて民族の使命なんです。だからマンションなんか住んでいて隣同士で も口もきかない人がいるのは、まぁシノガラの方達でしょう。 ----さて八切史学では、私の読み方が判らない不勉強のせいなのかとも思ってるんですけれども、乱暴な質問をしますと、土地所有の問題はあまり多くは‥‥でていませ んが‥‥ ----藤原体制の時は賎には私有を認めず、みな公家のものでしたが、下克上の戦国時代がおわり、江戸幕府になると土地は私有制ではなかった。青森弘前の殿様が九州へ国替えになると、土地が私有だったら不動産屋を通し九州で居抜きの城と武家屋敷を セットで出物を探し買ってから行かなきゃならない事になる。領民は奴隷で私有だが、 土地はオカミのもの。 ----農地、農民の場合ですけれども、質に入れたり売買したりしてますね、中世から 盛んに‥‥ ----江戸中期から旗本が知行地でも入れなくなる。そこで、大庄屋が全部代わって代 行することになった。つまり大庄屋が年貢米を集めるから土地が誰から誰へ行こうが 関係なしです。つまり吉村虎太郎の天誅組みたいに、非生産的な武士など廃止し、天皇と百姓とを直結せん。そうすれば日本の国は豊かになると。農本主義というんですか。これが討幕の最初のテーゼ。  

 そもそも信長があそこまで行ったのは、まず桶狭間の合戦で、‥‥あの時、今川義 元は何も戦争をするんだったら、尾張なんか隣国だから、まず掃討作戦を先にやって おくのが常識。彼は「なんとかして三万五千の軍勢を無傷で京都へ連れて行かなきゃ 困るわけ」なのゆえ、途中で道草を食って戦争なんてしたくないわけだから、あの時点においては、信長は今川義元に、とっくに降参していたわけです。ところが桶狭間 というところは、今の中日グランドのあるところで、昔は平手庄といって平手政秀の領地織田信長の生家です。休んでいる時に雨がザアーザァー降ってきた。そこで雨が降ると、当時の鉄砲は火縄銃だから役に立たない。ただの棒キレにすぎない。先発隊には全然一挺も鉄砲をもたせず、本陣に五百挺の鉄砲をみな置いていたのをば、信長は雨がふってきたので思い切って襲った。結局は毛利小平太なんかが、今川義元の首をあげたけれど格別の出世はしてないです。『当代記』を読むと、後に本能寺の変の時に二条城で、やっぱり 小姓頭で、伜の岩というのと共に一緒に討死してるわけです。信長の主目的は鉄砲を ふんだくるだけでした。永禄初年ではまだ国産はできず貴重品で、鉄砲ゆえに降伏していた信長は戦力を増したことになるわけです。  

 ところが、それでも、織田信長の軍勢はあんまり強くないんです。そのせいか永禄七年に「上総介布令」なるものが「駿河[掛川?]志稿」の中には残ってます。 「今後、印地院内のもの、つまりこれまでゲットーのものに限り商売を許すものとす。 その他のものは、いくら困っても大根一本売りの商いもしてはならぬ」と、商売とい うものは全部、原住系の八に限ったわけです。要するに当時、遠州の掛川は朝比奈三 郎兵衛の城で、今川義元の伜の今川氏真がおったところです。そこへ秘かに布令を出すというのは、今でいうと、今川方の残存勢力を崩す宣伝戦です。つまり信長が強くなったのは、次々と居付き地部落を解放し、原住系の「八」をみな自分の味方にして しまい、それで結局、いわゆる天の王朝がかつてあったとされる弁天涯への道は、 「八」の連中がつくったようなものです。  

 ヤ号はその名残り、つまり天下布武とはいっても、居付地に収容されていた原住民 の「八」が解放され新武器の火銃で、延暦の昔は失敗したけれども、今度は天の王朝 を復活させようと信長へ協力し守りたてたのです。秀吉の頃からは、出征にはどこどこを攻めろといい軍資金は出しています。だが織田信長は軍資金なんてものは一文も出してないんです。だから、例の勝軍地蔵といわ れる愛宕山へ行って蜷川一族の金[かね]を借り、武将どもは出陣しているわけです。 しかし、今日行って銀行の窓口と一緒で、今日すぐは貸してくれない。そこで待たせている間に、あんまり金がかかることやって、ご馳走するのはもったいないからとい うので、費用のかからぬ連歌の会かなんかをしていた。

 つまり愛宕詣りするということは、当時は金借りに行くことです。武将は攻め占領、 何かそこの物資を奪うと、銀にかえてそれで借銀を返しているわけです。それが秀吉の時代になると、各武将に、銀をちゃんと軍資金に与えています。家康の時になると、 もうまた違うんです。やはり原住系を使っても吝な男ゆえ貸したのはちゃんと証文と って、がっちり返させています。つまり信長の天下布武というのは結局のところ「八」 の連中たちがやった仕事なのです。 ----信長には一つの明確に、藤原体制とは別個の枠組みたいなものがあったんでしょ う。そうすると、やっぱりそういうものは書き物とか文書とかそういうもので‥‥残 っていますか。 ----何もかも秀吉の代で焼かれてしまい残っていません。それに信長という存在は江戸時代においても、絶対に避けられていた人物。秀吉の方は『絵本太閤記』みたいに、 茶化したものは許されたけれど、いま桑田忠親の『信長公記』の本が出てますが、こ れは全部彼の鑑定用の茶器茶道具の宣伝です。よく読めばまこと呆れてしまうが、朽木越えに信長が浅井長政に裏切られて逃げる敗戦の大変な時なのに、『信長公記』で は「お茶会を召さり松風の茶碗や何とか何とかの名器を集められて」と、まったく考 えられぬことが出ているし、それから本能寺の変の時だって、「その晩は、お茶会を 開いて夜分遅くまでなしたからやられたのである」というように書かれているが、これはやはり茶器の宣伝と、忠臣蔵の芝居からの思いつきでしょう。  

 さて切腹は、出血多量で死なせる酷い刑罰だが、その作法というと全部これまた芝居の、「仮名手本忠臣蔵」の塩谷判官の腹切りの場からの模倣で、三宝を尻にあてる。だが、あの三宝というのはデパートへ行って、結婚結納売場へ行けば実物が桧の薄皮でつくってある。あんなものを尻の下に敷いたら、ペチャンコになってひっくり返るだけ。あれは芝居の場合は、マス席といって一番前のお客が高い金を払ってるから お腹を切って血綿を引っ張りだしたところをよく見せなきゃならないので、背後から 黒子が黒塗りの風呂の腰掛けみたいなのを後ろから腰にあてがって見せるから、薄い桧の三宝でも潰れず恰好がつきます。  

 テレビでも小説でも切腹作法とされているのは、全部この芝居からきているわけで す。日本の歴史は全部、芝居とテレビからといわれるのもこの訳です。信長は後年ポル トガル船の船首についていたアポロの神像を自分に似ると、全部の者に安土城で礼拝 させてたから、『フロイス日本史』には、カリオン神父は「悪魔の如くおそれられていた信長が、ついに髪の毛一本残さずふっとんだ」と、ああよかったよかったとは書 いてないけれども、そういうふうになっているのが読みとれる。と言ってまさか信長が己れの神像だとアポロを弁天涯の安土城で拝ませる訳はない。恐らくこれまで藤原体制によって奴隷とされ酷使され殺掠された先祖の霊として祀り、解放運動に成功し た信長は一般に礼拝させたのを、日本の古代史を知らぬイエズス派の宣教師が、イエスこそ唯一の神と信じこんでいるから異教を崇めると批難して悪魔として本国に報告していたのではありましょう。信長につき従って天下布武をしたのは「八」の連中で あって代々の臣ではない。それに「八」の殺された先祖を拝礼するのゆえ民族的儀礼 だから、信長を拝む気遣いではなく誤報であるといえます。徳川中期以降の近世では なく、まだ宗教戦争の中世紀のことである。そこをよく考えねばならぬようでありま す。  

 さて家康も部落解放だが三代家光から反対になった徳川だが、松平元康ではない世 良田の二郎三郎が松平元康だと偽って、守山崩れで元康が殺されたあと築山御前から 頼まれ、人質になって熱田の加藤図書頭のところへ行っていた後の岡崎三郎信康を、 清洲城へ受け取りに行った時に、熊野権現の誓書を書いて、信康を取り戻すために彼は松平元康として欺き通した。 しかし家康は信長に露見していると後には気づき、何事も彼の言いなりに臣従した が、天正十年五月には、許しを乞うため首代として金五千両をもって安土へ行った。 しかし信長は許すといわず京へ送った。だからカリオン神父は六月二日早朝に本能寺に集まった一万三千の丹波兵は、家康を討つためだといっていたと本国へレポートを送っている。もちろん家康も戻された黄金を斉藤内蔵介にわたし、五月二十九日の夕刻に信長が上洛するや挨拶にもゆかず即刻京を逃げ出している。堺から船で逃げよう としたが、堺の政所松井友閑にとめられ、やむなく伊勢のカブト山越えに服部半蔵らに守られ白子浦まで逃げ、渥美湾へでて本国へ戻り、すぐさま兵を集め斉藤内蔵介救 援の軍勢を、酒井忠次を先手にして津島まで出しているのである。  

 しかし秀吉が早手廻しに光秀の娘婿の細川忠興の山崎円明寺川畔の勝竜寺城で、ま んまと瞞し討ちにして光秀勢を始末し、京に入ると、謀反随一の斉藤内蔵介を討ちと った。まぁ和平交渉は相当早くしていないと、六月二日に本能寺の変があった翌日に、備中高松を開城させられぬ。早々に姫路城へ戻った秀吉が、どうも信長殺しの黒幕とし ては、やはり臭い‥‥と言われたのも、あまりにも早手まわしのせいである。  

 明智光秀が庇っていた時の正親町天皇の後継ぎの誠仁親王を秀吉がホウソと称し殺 したと、「多聞院日記」の中にも明白にでている。そして、である。今までの御所では狭苦しいと京の中央の人家や社寺を取り払って豪華な聚楽第を建て、己が新御所とし、自分は後奈良帝の遺児なりと帝位を求め、自分が日本国は統治 するからと、兵を出し中国を征服して、御所にはお里帰りをしてもらおうと進言し、御所には中国の中央にて四ヶ国、各公家にも、それぞれ一ヶ国ずつ進呈しますといっ て‥‥承認をうけているのです。 ----ちょっと誇大妄想ですね。 ----中国よりの藤原政権に苛められた仕返しだと思ったんでしょう。フランシスコ派 から新開発のチリー新硝石を入手できるものと九州の名護屋で自分も渡海するため待機していたんです。 ----中世の仕上げをなした権力者は、三人ともアプローチは違うわけですか‥‥ 古代史解明の必要 ----日本シェル出版で刊行している「徳川合戦資料集大成」の中に全文収録されてい る処の、根岸直利の『四戦紀聞』によれば、信長が桶狭間でしたのは裏切りです。和 平交渉が進んでいるのに裏切ったんだから、この時の生き証人は佐脇甚八、山口飛騨 守らの側近の四人だが全部、第一線にもってゆき棄て殺しにしようとしているのに、彼ら四人は気づき、家康のところへ逃げ込んだ。信長には弱みのある家康は、いざという時の生き証人として彼らを庇護したわけです。ですから、高天神城合戦の時などは、信長はいくら求められても援兵を出さずゆえ、この四人を仕方なく家康は第一線へ出して殺してしまって、はじめて信長は生き証人の四人が死んだのを確認してから、 ようやく本腰を入れて長篠の合戦で、武田方を三段構えの鉄砲隊で信長は討ちとり、 家康の味方をして勝ってのけたのである。  

 秀吉は後奈良帝の遺児と自称した程ゆえ千の宗易に味方するササラ衆を「茶せん」 とし部落へ収容したけれど、信長に次いで部落解放を部分的だが敢行したのは家康で あったといえる。このことの裏づけとして、小田原征伐後関東へ移された家康は、江戸の荒川という のは、現在の川幅の四倍ぐらい大きい川だったわけで、そこの中州島には武蔵七党の くずれ、つまり騎馬民族の「四つ」の三河島衆が前述のごとく何千と押しこめ居付限 定地の橋のない川の処だった。領地が三倍から四倍に増えて、人手もない時だから、これを全部、御家人とか旗本にしたわけです。『野史辞典』をみると、三河譜代は太郎左と与五郎の二人になって いる。これはいつの間にか、三河譜代というのは島の字を抜いたせいで、本当は江戸 創業に働いた三河島譜代です。 ----最初に『日本原住民史』という本をお出しになりましたね。それで、公けの今ま での歴史に対し、日本原住民史というのがあるんだということを打ち出された。最初はこんがらかるから、白対黒という一つの対立として出したけれども、実は白といっても、原住民の中には白と赤と、それから雑色とかに分かれるのですが‥‥そうなる と、日本原住民の中の最も純粋な、最も頑強に抵抗したのがサンカという‥‥ことに なるのでしょうか。 ----それを庶民と分けて、日本純民と名付けたわけです。今でこそ、庶民は容貌が落 ちるからとか何とかいって、子供一人か二人のところが多くても、総人口の八割五分 おるけど、片っ方は十人以上の子供を作っているわけですから、何年かたてば比例は 違ってくる。だけど、かつてナポレオン戦争の時にオランダがナポレオンに負けて、 世界中どこにもオランダの旗は立っていなかったのに、日本の出島だけがオランダの旗を立てていた歴史があるが、唐が契丹に滅びても、唐は藤原氏として、日本では厳然たる勢力を発揮しておったのです。  

 それに七福神は七曜神風俗ですが、今はアラブじゃなくサンカの信仰です。だから、渥美半島になぜ米軍の彼らが上陸したかは、伊良子岬で有名な半島全体が、今も毘沙 門さん大黒さんと七福神の御旗がはためく土地。今でこそ鯨のことで騒ぐけれど、江戸時代はアメリカの捕鯨船がみな日本へきていて、あそこだけは特別地域で薪とか水をアメリカ捕鯨船に配るのを大目に認められておったせいです。だから田原藩の家老渡辺華山が、「慎機論」や「西洋事情御答書」を書いて、蛮社の獄に連座して割腹。 つまり半島全体が、江戸時代にあっては特殊地でした。それに、家康四天王の大久保 一族の出身地で半島の中間にはバス停で兵助畑っていうのがあるんです。大久保彦左 衛門が若い頃、女の子を引っ張ってレイプしていた畑だといいます。 ----兵助というのは大久保彦左衛門の若い頃の名前ですか。講談で有名なので、バス停留所名‥‥ ----日本では古代史はテレビや芝居であまりしないから、判らぬ侭で今になってます。が書かれているからといって全然ひどすぎるものが多い。徳川時代の朝廷の歴史を書 いたものに『皇統紹運録』という本があるけれど、これは監督官庁の京都所司代の検 閲のものだから全部デタラメです。「謎だらけの日本史」[日本シェル出版]の本に 詳しいけれど、華族令が出た時に、畏れ多くも明治大帝が、華族は皇室の藩屏なりと 仰せられ、為に徳川時代の歴史は何ひとつ解明されず、みな嘘ばかり今もまかり通っ ている。明治の歴史屋は華族さま御抱えゆえ解明もしてない。ローマのバチカン法皇庁の法皇みたいに至上は今では象徴でいらっしゃるから、たとえば自民党の世の中だと自民党の天皇でいらっしゃるのは仕方のない話です。  

 七世紀の白村江の戦いで郭ムソウが日本へ入ってきて占領してから、日本が中国大陸と対等になれたのは、秀吉の朝鮮征伐で明兵と対決した時、というより明治の日清戦争からです。今だってアメリカにもフォードもあるし、コダックもあります。失業率がいまや二割ともなれば日本は邪魔というか不用でしょう。といって、またアトムを落としてしまうよりは、アメリカの国益のために活かして使おうとするのだろう。そのうちには海外派兵も命じてくるだろう。敗戦国民ゆえ 「ノオ」とはいえまい。その時に、まさかアメちゃん万歳と叫んで死んでゆけぬ。どうしても昔通りだろう。  

 今は敗戦の結果、国ぐるみでアメリカの奴隷だが、日本の古代史をよく見直せば、 やはり、原住民古代史は、どうしても奴隷史といえよう。となると、せめて外国の為に戦死せねばならぬ者たちの為にも、隠さない真実の日本の古代史を、よく知っておかない事には、殺される日本人の彼らとしても、どうしても、やはり死んでも死にきれまい。  

 さて、「クダラにあらざれば人にあらず」とされて、今でもクダラヌ奴とかクダラ ナイ事とされている桓武時代は、みな金大中の全羅南道の百済だが、周防とか安芸の ように岡山に接近している中ツ国の近くは、魏の時代に多く移ってきた中国大陸人に接収されたから、大内の多々良も鉄屑精練をしていたことで大陸系であるが正しい。 なにしろ皆だれも黄色人種ゆえに区別をはっきりさせるのは、当て字の逆転しかない だろうとは、タタラを踏むの言葉からの考究である。  

 皇国史観の頃は、えらいさまの歴史ばかりなので帰化族などといっても、日本列島 にきた進駐権力に対して帰化帰順したのが正しく、白村江の戦いで母国を喪失してし まった百済人らがそうで、彼らは忠誠を示そうと高麗系新羅系を蕃族と日本原住民を 追討目標にして人間狩り。よって高麗系は遥か昔の移住では日本書紀に合わないとい うのが、これまでの日本の古代史である。それに五代将軍の徳川綱吉の神仏混合令に よって生まれた吉田習合神道が、異也を夷也としてしまった。が、今では稲荷で、狐とされている。伏見稲荷の神官荷田春満は出府して、赤穂の討入りを当局のヤラセとはみずに、加担するようは反体制志向に走ったのも、やむにやまれぬ原住民の血の流 れであるといえよう。つまりこれまでの古代史はみな作為されている。  

 また淀川畔に幕末まであった淀姫宮の御神体はサマとワカとオノさまの御三体で、 貝原益軒の紀行文には、淀殿と秀頼と大野修理の木像三体が、ご神体として信仰をあ つめているとある。いわば、この信仰は女上位の原住民のもので、オカミのいう賎民 の臭いがつきまとって興味深い。同時に信長は部落解放をしたが秀吉は部落差別を非常に強化したゆえ、淀どのは大野修理の子をうんで、日本原住民系の世にしようとし ていた謀みでもあったわけらしいとみられます。 ----部落出身の人は出自を隠すためか部落の人を非常に嫌うものです。いま何とかリサーチとかいうところで、部落別の判る本を何万円で売ってるとかっていって、騒ぎ まくっているが、部落出身の社長は、絶対に己が会社には部落の人間は採用したがら ぬ方針のゆえだそうです。 ----前の己が素性を隠したがるわけです。しかし案外と民間では随筆などで明記して いるようです。初めは部落解放をした家康も、大坂落城後は豊臣一族の再起を恐れ死 期が近かったせいか、主だった生き残りを集め、九州に「豊臣松園」といった新しい 部落さえも作っています。  

 さて、蘇民将来すらも訳もわからずに、俳句の季題にさえも奇麗事にされて今は入 れられている。が、それならば伊勢二見ヶ浦の「蘇民将来 来福之守」などという御 札は、現代でも配布されていて、伊勢市の各戸の入口に掲げられ出ている筈はないの にも気づかないらしい。 「蘇民将来とは、後に源氏系になる蘇我の民の後裔をさすもの」と、真実を解釈しな くては、てんで辻つまが合わぬ。それを疫病除けなどとゴマカシはコジツケも甚だし いもので、ただ兄弟だなどと美化したり恰好づけだけしていては、てんで話にも何に もならぬ。  

 己れらの生まれ育った国は、愛し護ってゆかねばならぬ。それには明治大正みたい な押しつけの義務教育では駄目。いいころ加減なゴマ化し歴史で恰好づけなどせず、 真実の古代史をはっきりさせるべきだろう。七世紀からはトウ政権に苛められた。今 度も、ベトナムみたいに国内戦にもちこんだら枯れ葉作戦をやられたかも知れぬが、 結局は勝てたかも知れなかった。  それなのに、それができなかったのは、好いころ加減な歴史しか教えていなかった ゆえ、本土決戦となったら、国民の八割以上をしめる賎の民が暴動を起こし、良を捕らえるのではないかと自信がなく、水際で無条件降伏をしてしまった事への反省を、 改め愛国心で新たにすべきだろう。

 ※「同時代批評」5号誌による八切止夫氏インタビュー対談。岡庭昇、太田竜の両氏 [続く『日本古代史入門参考書』は、八切氏の著書の広告ですので割愛させていただ きます]

 1181 織田信長殺人事件 13(最終) 」の「森乱丸は大男」の下りを転載しておく。
 「やっと夜も明けてまいりました。昨日の大雨の後ゆえ、少し白むのが遅うござりま した」。あれから起きた侭だった乱丸が声をかけると、横にはなっていたが、眠っていなか ったとみえ、 「よしっ」 と信長は起き上がった。そして、 「教会へ集まった者どもにしては、ちとうるさすぎるの」。自分で顔を出して怒鳴りつけるつもりなのか、そそくさと衣桁(えこう)にかけてあった絽羽織に手をやろうとした。そこで、 「はあっ」と坊丸がとんでいって羽織をおろすと、信長の肩にかけ前へ廻って紐をゆ わえた。控えの間から濡れ縁に出ると、そこは廊下続きゆえ、もう桃色になってきた六月の空が仰げた。が、白っぽい陽光があたりを包んできたとはいえ、手を伸ばすとまだ指の先はぼやけて視える程度だった。しかし、それでも信長は大股でせかせか歩いてい った。なにしろ本能寺の周辺でも、ここと同じくらいに明るくなってきたせいであろう。 まるで餌を拾いに集まってきた雀のように、人声がうるさく、前にも増して響いてい た。「けしからぬ輩め」。信長は振り替えると、背後から打ち太刀(かたな)を両手に捧げて持ってきた力丸に、 「よこせっ」と不機嫌に怒鳴った。 「はあっ」と腰を屈めて差し出す太刀を、 「この騒ぎはなんである‥‥頭(かしら)分の者の素っ首これではねてやらす」。柄頭に黄金の曲り枠のはまったところを引っ張った。鞘の金蒔絵の螺鈿細工が、いつ もならピカッと反射するのだが、まだ陽が差し込んでいないせいなのか、鈍く鉛色に くすんでみえた。 「これっ、虎松に愛平」。向こう廊下に座って迎える二人の顔がやっと見えてくると、 「村井道勝の許へ使いしてか」。 信長はキンキンした声で呼びかけた。 「‥‥もうしわけございませぬ」。年長の高橋虎松の方が両手を前へ放り出すようにして、その場に額をこすりつけた。 「今まで何をしておったか」。不機嫌そうに信長は眉をつりあげた。 「はぁ、不浄口もしっかり閉ざされてしまい、なんとしても戸が開けられませぬ。よ って厩より駒を引き出し、築土を一気に駆け登って外へ出ようとしましたところ‥‥」 と、そこで無念そうにしゃくりあげた。 「よって、何と致したぞ」。足を止めた信長にせかされると、堪りかねて嗚咽(おえつ)しだした虎松に代わって小川愛平が、 「厩仲間に手伝わせ駒の尻に鞭をくれさせ、一気呵成に築土の山は越えましたなれど も」 と、そこで言葉に詰まったように黙ってしまった。

 だから信長に代わって乱丸が、 「築土の山をとびこえたはよいが、外の濠へでもはまってしもうたと申すのか?」と 聞き、 「これさ‥‥はっきり申し上げい」 。短気な坊丸が二人の背後に廻って、どやしつけるように耳許へ口をつけた。しかし、 「濠はとうに古板や床板をかぶせられていて、水中には落ちませなんだ」と愛平が云えば、虎松が拳で涙を拭い上げつつ、 「飛び降りた我らの馬は押さえられてしまい、馬は貰っておくが、人間はいらん。そないに云いおって我ら両名は手を取り足を取られて、また築土の上へ放り上げられ、 この境内へ戻され、突き返されてしまったのでござります」。口惜しそうに涙声で説明した。 「‥‥うむ」。ただ怪訝そうに信長は顔をしかめた。 「それで、きまりが悪うて、この乱丸の許へもその旨を言いにこなんだのか」と二人を叱るように云ってから、 「‥‥して寺外の様子は、如何でありしよな」。続けておおいかぶせるよに尋ねた。 「はあ、今と違ってもそっと暗かった時分ゆえ、はっきりとは何もよく見えませなん だが、なにしろ兵共がぎっしりと詰まっていたやに覚えまする。はい」 と愛兵が、おそるおそる口にした。 「歩幅にして何人ぐらいぞ」。乱丸は足を左右一杯に開いた歩幅に、およそ何人ぐらいかと聞き返したのである。 「はい、三人から四人。深さは七列」。これは即座に高橋虎松が答えた。 「えっ?」。乱丸もこれには顔色を変えた。いくら大股にひろげても一人の歩幅はおよ そ決まっている。そこに三人も四人もいるということは、本能寺の濠の一辺を一町と なし、それを六十間とみれば一列でも濠わきに四百人近く、これが重なり合って七列 となれば‥‥ 一辺が二千八百人、これを三千人とみて四方だから乗すれば一万二千人。これの他に 本陣とか使番といった別の命令系統を全体に対する五分か六分として加えれば、取り巻いているおよその兵力は割り出せる。そこですぐさま、 「およその周囲の兵力は、一万三千」と乱丸が答えを出せば、すぐ脇から、 「手前の目算では一万と二千六百」虎松が言った。信長の小姓組というのは、徹底的に暗算で掛け算引き算をしこまれていた形跡がある。もともと初めは、通信機の発達していなかった時代なのでと、何か事が起きてから、「ああせい、こうせい」と使いを出して指図をしても間に合わぬ事が多い。また、その時は辛うじて切り抜けられても、次の段階で又何かが起れば、「如何し ましょうや?」と問い合わせをよこす。すれば、かくかくせいと次の使者を出さねば ならぬ。 (この煩わしい反復を避ける為に、自分と同じ様な判断を臨機応変に、その場、その場で下せる者。つまり己の代行をする者を育て上げよう) と信長の意図したのが、この小姓団である。  

 つまり、人間それぞれ個性は違うが、 (幼い時から手許へ置いて、いつも合戦に伴っていって、本陣へおいて見習わせておけば、こういう時は上様はかくなされた、ああした時は上様はああなされた、と記憶 にすがっても処置してゆけよう)と考え、幼年学校から士官学校といった具合に順々と教育してきたものらしい。

 というのは信長の若い頃、妻の奇蝶の里の父斎藤道三というのが日蓮宗妙覚寺で、 やはり「丸」のつく名で入門し、のちに「法蓮坊」と名乗ったこともあるから、それへの気兼ねで、信長は己の子にも、長子は「奇妙丸」、次男は「茶筅丸」といったよ うに、皆「丸」のつく名乗りをさせていたが、その子等を軍陣に連れ出し、仕込んで みたところ、そこは親の子という血脈もあろうが、結構よく代行に間に合うから、ついで家臣の遺児や、これはというのは側近に置いて仕込んだのである。 「高級参謀団」のような編制をとっていたもので、参謀教育といっても、突いたり斬 ったりする体育よりも算数の計算の割り出しが主だったらしい。

 なにしろ当時は計算機はなく、勘定をするのに、まず両手の指を折って使い、それ だけで足らないときは足の指まで加えて算えたものであるが、信長は関孝和などが生れ、日本の数学が誕生するよりも二世紀も早く、この小姓団に掛け算割り算の暗算教 育までしていたらしい証拠がある。 奈良の興福寺の塔頭多聞院の和尚英俊は、 「奈良一国の土地割出し検出係に、織田信長からその小姓の矢部善七郎がまわされて きた。これまでの隠し田などが一切合財、彼の計算にかかっては浮かび出てしまうが、 仏の収入が、こういう具合に搾り取られ減らされてしまうとは、世も末と覚える。しかし、手をこまねいて傍観しているわけにもゆかないから、銭十疋(百文)をもって いって、よろしくと勘定のために気持ちを殺して挨拶をしてきた」 と恨めしそうに言った事が、その日記に書き残されている。

 つまり信長の小姓団というのは、「軍目付」と呼ばれる大本営参謀の任務もしてい たが、また一方では、その皮算用能力を生かして、今日でいえば徴税Gメンのような 任務も課せられていた、これはその裏書きでもあろう。 「一万二千から三千の軍勢が、この本能寺を取巻くとはなんであろうか」。 乱丸はじめ小姓の面々も、これには顔色をかえたが、当の信長はもっと焦燥しきって、 「不逞な奴ばらである。何故に勝手気侭に、この本能寺の表門はいうに及ばず、各築 土の木戸口を塞ぎおるのか、至急に調べてこませ」と難しい顔をした。

 もう、朝の陽は芙蓉の花が開いたように明るく、本能寺裏手のさいかちの森に集ま ってきた野雀は、昨日までの大雨で飢え切っているらしく、揃って、 「チュンチュン」さえずりながら樹の枝から枝へととび、本能寺の便殿と客殿に囲ま れた植込みにまで、恐れげもなく舞い降りてきては、チイチイと餌をひろって啄ばん でいた。それを脇目にしながら、信長に言いつけられた森乱丸が正面の表大門口まで行って、 固めている厩衆の者や、向こう側の村井道勝邸より泊まり込みで手伝いに来ている女共に、「開けさせい」と命じたところ、大門はおよしなされた方がよいと、耳門(く ぐり)の方を開けられた。しかし耳門というのは高さ1メートルあるかなしで、身体を屈めねば潜って出入りできるものではない。なのに、内開きの戸をこちらへ引いたところ、胴鎧の腹の下の ところが、まるで詰め込まれるように、戸口まで押し合いへし合いしていて、 「御用の向きにて、美濃金山城主森長定様のお出ましぞ。どきませい」 と厩衆が外へ乱丸を出そうとして喚いてくれたが、返事どころか咳払い一つ戻ってこ ない。かえって、「わっしょ、わっしょ」と開けた耳門から犬の子一匹出すまいとするように、押込んで邪魔だてをしているだけである。 「俺が森乱丸長定ぞ。上様御下知にて外へ出ようとするのに、何で邪魔だてを致すぞ や‥‥組頭なり、物頭なり、一応の話のできる者を廻してよこせ」 とばかり乱丸も、この侭では引き返せぬから、大声を出して呼ばわった。  

 しかし、いくら待っても返事もないので、堪りかねて、 「この森長定の命令は、恐れ多くも上様の御言葉なるぞ‥‥それでも外へ出られぬよ う人垣を作って邪魔だてを致すのか」烈しく叱咤した。が、それに対しても、塀の外からは何となく、ただ響いてくるのは、 「わっしょ、わっしょ」と祭りの山車でも担いでいるよに騒がしく、 「やあ、やあ」と矢声と、それに混ぜて聞かせてくるだけだった。そこで、 「誰ぞ道具をもっておらぬか」。居堪らなくなって乱丸は振り返った。

 さて、この時代は「調度」といえば弓の事、「道具」とよべば「槍」の事である。 しかし乱丸ら小姓三十人は「身軽についてきませえ」と信長に命令されて、二十九日 に安土城を出てきた時、鎧具足はいうに及ばず馬の手綱を両手でひっぱる邪魔になる からと、誰一人槍さえ携行していなかったのである。 だから、村井邸より手伝いにきている武者から槍を借りて、それで耳門のところか ら突き崩してでも、乱丸は外へ出ようとしたのである。なにしろ、 「問答無用っ」という言葉があるが、てんで相手が返事さえしないので、乱丸として は胴鎧しか見せない相手を、突き立てて血路を開くしか脱出の手だてはなかったので あった。しかし、そうは思っても、と村井道勝から来ている武者共は、 「滅相もない」自分等の槍を貸しだすかわりに誰もがよってたかって、 「そんな無茶はおよしなされ」 袖をひっぱり肘をつついて諌めた。乱丸を押し返すように引っ張って戻した。しかし、 乱丸は、 「何故じゃ」 と喚き返した。なんとしてでも外へ出ないことには、言いつけられてきた主命がはたせぬと、乱丸としては血相をかえ、押さえる手を払いのけ、 「邪魔だて致すな」と叱りつけるのだが、 「入口や木戸を外からふさいでおりますが、何も小石一つ放りこんできたわけでなし ‥‥」 とか、又は意見でもするように、 「この本能寺を取巻いておりまする軍馬や軍兵は、先刻われらが大屋根に登って検分 しましたところでは一万の余。一万五千もおりまする。なのに寺内は上様はじめあな た様御側衆等で三十と一名。あとはお厩衆と、我ら村井より参った家人どもだけで、 手伝いの婢女を加えても合計は百とはいませぬでな」 と年嵩の頭並の男が口にした。

 すると、やはり寄り添う髭もじゃの男までが、 「向こうが何も仕掛けてこんのに、こちらから槍をふるって突きかかるは穏やかでは ござらぬ‥‥この寺内に我らだけならば苦しゅうござらぬが、なんせ御客殿には上様 も居られること」 と手をかすどころか、あべこべに忠言してきた。 「何の事やら我々、とんと見当はつきませぬが、向こうの邸には我ら主人の村井民部 介道勝もおりまするし、洛中の武家屋敷はこれことごとく、織田信長様の家来でない者は一人もない筈ゆえ、こちらより、何も無理して外へ出られなさらんでも、おっつけ御味方衆が集まってきて、外の人垣を追い払って門を叩いて参りましょうほどに」。他の武者どもも、乱丸に早まった事をするなと言わんばかりに口々に喚いた。

 江戸時代でさえ京には各大名の京屋敷というのが、ずらりと百五十はあった。 秀吉の伏見城の頃でも、「伏見京大名屋敷図面」というのが残っていて百はある。だから、信長の頃でも京の市街には諸国大名つまり信長の家来の屋敷がやはり四十 くらいはあった。一邸百人から二百人とみても、四千人から八千人ぐらいの留守居はいたはずである。なのに、この時の洛中の信長の家臣の京屋敷については、その絵図面はもとより、 存在をはっきりさせるものも何も伝わっていないのである。  

 この事件後に国家権力を持った者が徹底的にそうした図面は集めて焼き払い、まる で京には信長と小姓しかおらず、他の織田方京屋敷は、さながら皆無の如くに体裁を 作ってしまっている。しかし、信長は前年天正九年の「大馬揃え」とよぶ観兵式を、前後二回又は三回、 京で示威運動として開催している。こうなると、信長の家臣の大名としてはホテルも モーテルもなかった時代だから、どうしても家来団やその乗馬の群れをつなぐ厩付の 大きな家がなくてはならぬ。つまり各自の大きな京屋敷を天正八、九年までには洛中 に普請していたはずである。 勿論、安土にはそれぞれの留守邸のを置いていたろうが、京にも屋敷を持ち百名から二百の留守武者を置いていた筈である。ところが、<細川家記>にも、 「今出川の祖国寺門前にありしは、家老米田壱岐守の邸にて、細川家の京屋敷はなく、 本能寺の変が起きるや、使番として早田道鬼を丹後の宮津城へ走らせた」 とあるように、おかしな話だが、家老は京に屋敷をもっていても、細川藤孝や忠興の 殿様父子は吝をして京に邸はなかった。そこで家老が丹後まで、 「如何しましょうや?」 と使番をだしているうちに本能寺の変は終わった、と変な話にさえなっている。

 勿論、各大名が京屋敷に留守居の武者を揃えていながら、本能寺の変を傍観して、 信長や乱丸達を見殺しにした裏面には政治的謀略と相当な銀子が動いていたろう。また、京の絵図面の中で天正時代のものが今となっては一枚も残っていないという 事実は、六月二日の本能寺の変から十日あまりで死んだ明智光秀のやれることではないし、またできることでもない。 「信長殺し、光秀ではない」を、もし興味ある方は一読していただきたいものである。 なにしろ「御霊社」とか「御霊神社」というのは、無実の罪で殺された人の魂を祀る ものとされているが、明智光秀にも京都府福知山市には大きな御霊社が江戸時代から あって祀られている。 「一体、こりゃ何じゃ。夜明け前からワイワイ集まってきおって、もうかれこれ一刻半(三時間)もたつではないか」 。信長はすっかり焦燥しきっていた。だから、 「もし害心を抱くものなら、やつらは甲冑に身を固め弓鉄砲まで持つ一万三、四千の 軍勢ゆえ、ワアッとここの境内へ攻め込んでくれば、なんせこちらは槍さえ持ってき ていない有様ゆえ、息をつく間にも勝負はつきましょうほどに、てんで攻め掛かって こぬは謀叛ともみえませぬ有様。よって、まぁ、ご安心なされましょう」。乱丸は口にした。しかし、 (何がなんやら判らずに包囲され、いくら待っても京中の大名屋敷からの援軍もまだ 来ぬ無気味さ) には、乱丸初め小姓団の三十人も、切ながって息を吸うのさえ重苦しい檻の中で、 「こりゃ堪らんのう‥‥まるで生き埋めにされとるようじゃ」 と、あえぎ切っていた。 「こないな馬鹿げた真似しくさったら、癇癪持ちの上様が後で許される筈もなかろう。 囲んでいる輩は、いずれも後で一人残らず縛り首にされるじゃろ」。 いまいましがって、地団駄を踏む者もいなかった。みんな囲みがとけてからの話より、目先の息苦しさにへこたれて脂汗をだらだら垂 らした。溜め息と吐息を交互にもらしていた。もはや真紅の花をつけた金蓮花の叢に、餌を啄ばみに来た雀の群れもみえなくなっ た。チイチイないていた小鳥のさえずりのかわりに、「ヒイヒイ」と女達の涙声が洩 れてきた。 「こない時に女ごはいかん。村井道勝めが、手伝い女などよこしておくからじゃ」。高橋虎松が忍び泣く女共の声を聞きとがめ、それを制しようと出かけていった。  が、これがいけなかった。虎松に叱り飛ばされた女達は、それまで堪えていたのが 押さえようがなくなったのか、裸足のままで植込みを斜めに駆け込んでくるなり、信長のいる客殿に向かって、 「お助けなされませ」 と声を枯らして絶叫しだした。  びっくりした乱丸達は駆け出していって、 「これ、恐れ多いぞ」とたしなめながら手荒く、 「早々に立ち去るがよい」と、女達の肩をつかんで引き立てようとした。

 だが、半狂乱の女どもは、もう咎めても言うことをきかず、てんでに逆上して、 「上様はお豪いお方じゃろ。なんでもできんことはない天下様なら、この手伝いにき とる私らを助けてやりなされ」 と、押さえる小姓どもの手に喰いつく者までいて、 「死にとうないで」と絶叫したりした。 「なんとか救うとくりょ」 と喚き散らす女どもには、小姓どももすっかり手を焼いた。若い坊丸のごときは、年少の愛平と一緒になって、涙をぼろぼろ眼に溢れさせてい た。信長も同じ想いだったろう。 「なんとかならぬか‥‥女どもだけでも外へ出してはやれぬか。築土の上までつれていき、そこから落としてやっても怪我すまい」。灯り障子の蔭から、たまりかねたように声がした。しかし、そうは言われても、 「はぁ、さいぜん村井の武者どもが向いの村井邸に連絡すべく、四人あまり築土へ這い上り、そこから飛び降りましたなれど、蹴鞠が跳ね返されるごとく、次々と足をと られ、またこちらの境内へ弾き返されて戻りました」。乱丸も答えるしかなかった。 「そうか‥‥」。障子をあけ織田信長が顔を出した。すると女達は捕まえられていた手をふり切って、その足元へ駆け寄りざま、 「助けたって‥‥」 と縋りつく。他の女も口々に、 「死にとうない」と泣き叫んだ。 「うむ、この信長は何でも出来る男の筈じゃったが、今朝はちいと具合が悪い。この 儂とて、今のところ何が何やらわからんのじゃ」。慰めたつもりだろうが、かえって女共の泣き声を甲高くさせただけだった。 つられて小姓共も、 「うう‥‥」と皆声を堪えかねて男哭きした。

 その瞬間である。 ゴギャアーンと大爆発が起きた。 本能寺は赤い火柱に化した。 寺の建物は、客殿便殿その他堂宇の一切が粉々になって、六月二日の、ようやく青み を見せた青空へ、まるで噴火するみたいにはじけていった。しかし、「フロイス日本史」の「カリオン師父報告書」では、この火薬の出所がイ エズス会からだという事を隠すためにごまかされてしまっていて、 「侵入してきた兵達は、信長が洗顔をしているところを見つけた。そこで背に矢を放 った」というのであるが、最後の部分で、 「我々が知り得たところでは、三河の王を討つために上洛した信長も、その一行の女 も、みな毛髪一本も残さず灰塵になってしまった」 と爆発による謀殺を示唆している。

 それにしても、まさか起きてから三時間後に、のこのこと手拭いをぶら下げて、信長ともあろう者が洗面所などに行くわけがなく、のんびり背を向けて縁側でジャブジ ャブしていたわけもなかろう。 この事件の三年前にスペイン王フェリッペ二世が開発させたチリ硝石、新黒色火薬による物凄い爆発が、この一瞬に全てを決したとものだろう事は疑いもない。つまり、これが信長の最後であり、本能寺の殺人事件の確かなことである。 (了)
  
 「八切止夫意外史は注目に値する(EJ920号)」を転載しておく。
 NHKの大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」を見て「本能寺の変」に興味が湧き、EJに書くことを前提に多くの本や資料を真剣に読んでみました。そして、理解できたことは、現在われわれが知っている本能寺の変は、『川角太閤記』や『信長公記』など、後年の権力者秀吉の立場から書かれた文書をベースとしているという事実です。要するに、秀吉にとって都合が悪いことはすべてカットされ、内容がねじまげられており、真実は闇の中になっています。歴史とはそういうものです。実は5月のはじめのことですが、次のような本を購入したのです。そのときは、本能寺の変をEJで取り上げることはぜんぜん考えていませんでした。
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   八切止夫著『信長殺し、光秀ではない』作品社刊
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 著者の八切止夫氏は故人であり、あとでわかったことですが、歴史の世界で奇書といわれているものの復刻版だったのです。八切氏には「八切意外史」全12巻というのがあるようで、上掲書はその第1巻目の本だったのです。今から30年前の本ですが、当時ベストセラーになったそうです。

 しかし、この本は話がいろいろなところに飛び、悪くいえば支離滅裂で、良くいえば奇想天外――何をいいたいのかよく分からない本なので、途中で読むのを止めてしまったのです。しかし、本能寺の変についてEJで取り上げるようになって、本気で読み直して見ると、非常に重要なことが書かれていることがわかってきたのです。

 今週発売の『週刊ポスト』8月16日号で、井沢元彦氏も取り上げているのですが、八切氏はその本の中で、当時の鉄砲に使う火薬の原料「硝石」についてふれているのです。多くの史書では鉄砲という銃器の製造については言及しているものの、それに使う火薬がマカオからの輸入に依存していた事実がまったく書かれていないのです。

 「パソコンはソフトがなければタダの箱」といわれますが、鉄砲も「火薬がなければタダの鉄棒」なのです。種子島が鉄砲の産地であるとか、紀州の雑賀衆が鉄砲を量産していたという銃器の生産の話はよく出ますが、火薬の話、ましてその原料の話などは八切氏以外、誰もいっていなかったはずです。

 八切氏によると、当時の火薬の配合は、75%が輸入硝石(当時の言葉では「煙硝」)に頼っていたのです。しかし、この硝石は、あたかもマカオが原産地であるように見せかけていますが、正しくはマカオは中継地に過ぎないのです。当時のポルトガルの商人は、火薬を輸出するに当たって、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい樽につめかえさせて、日本に輸出していたのです。そして、日本にはマカオが硝石の産地のように見せかけていたのです。信長はこれに完全に騙されていて、彼は火薬確保のためにマカオを本気で攻め落とすことも視野に入っていたと考えられます。

 当時マカオはポルトガル領であり、火薬商売だけでなく、ポルトガルのカトリックのイエズス会の宗教セールスマンが宣教師としてどんどん日本に入ってきていたのです。当然彼らは火薬を布教の道具として使ったのです。当時は良質の火薬がなかなか入手できなかったので、火薬欲しさに切支丹に帰依した大名も少なくなかったのです。

 さて、井沢元彦氏によると、30年前は八切氏以外に火薬の原料――硝石についてふれた歴史家はいなかったのに、現在はそのことに触れていない人はいないと述べています。しかし、現在の歴史家はことごとく八切氏を無視し、参考文献や引用資料に八切止夫の名前はないのです。はじめは八切氏の説をこきおろしておきながら、それがどうやら正しいとわかると、だまってそれを引用する――日本の歴史学者の悪いクセです。

 さて、八切氏は本能寺の変について意外なことをいっているのです。2日の早暁に丹波の軍勢とみられる約1万3千の兵が本能寺を取り囲んだのは事実なのですが、これを日本側の史料では、予想外のこと――すなわち「異変」としているのに対し、本能寺のすぐ近くにあった南蛮寺のイエズス会のポルトガル人の宣教師たちは「通常の出来事」と考えていたというのです。

 というのは、信長はいつも少人数で出動し、それから1日か2日で黒山のような軍隊を編成し、自ら引率して行動を開始するのが通例である――と京にいるポルトガル人の宣教師たちは認識していたといっているのです。そういうわけで、2日の早暁に約1万3千の兵が本能寺を取り囲んでも彼らは「いつもの命令受領」と考えていたようです。

 ところが軍勢が本能寺を包囲後数時間経過して、突然本能寺から火の手があがったというのです。それはもの凄い火力で燃え上がり、四方の民家に類焼しているのです。八切氏は、これは明らかに爆発であり、本能寺の中にいた者は一人残らず「髪の毛一筋残さず」吹き飛ばされたといっているのです。もちろん、信長もです。一体本能寺に何が起こったのでしょうか。

 実は、本能寺の地下に煙硝蔵(火薬庫)があって、それが爆発したと考えられるのです。何によって爆発したのかについては明日述べることにして、マカオから運び込まれた火薬の原料である硝石は、本能寺の地下に納められ、そこから目的地に運ばれていたというのはどうやら事実なのです。この本能寺の煙硝蔵の存在については、最近発刊された津本陽氏の『本能寺の変』(講談社刊)でもふれられています。 そうすると、本能寺の変とは一体何だったのでしょうか。本能寺はなぜ爆発をしたのでしょうか。本能寺を取り囲んでいた軍隊はどこの軍隊だったのでしょうか。 昨日ご紹介した立花京子氏によると、信長暗殺にイエズス会が深く関与していたのではないかと述べています。




(私論.私見)