【織田信長像】
信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。
そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。
<天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。
「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。(こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう)
という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元がなにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈である。だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼らを匿っていた。だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。
さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、井之口城を占領した。
岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、木下籐吉郎が防いだだけの話しである。ここは以前にも墨俣砦として記してある。
こんな事も歴史屋さん達は判らなく、講談の儘なのが現状である。明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、家康は非人の出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。
余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、八の民が進んで協力したからである。
播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。関西へ行けば非人扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。
此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。
現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とか長吏と呼ぶ。
一方騎馬民族では、部落の元締めは弾正とか弾左エ門という。だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。どうも信長は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。
というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。 |
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