9章、小野木縫殿助(ぬいどのすけ)

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1162信長殺しは秀吉か12」、「1163信長殺しは秀吉か13」、「1164信長殺しは秀吉か14」「1165信長殺しは秀吉か15」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 小野木縫殿助(ぬいどのすけ)
 1 「三河で若い頃、儂は一向門徒と戦をしたが、今度もそれと同じくりかえしじゃ」と、武蔵小山で旗上げした家康は、そんな言い方をしたそうだが、全く門徒派と薬師派の戦の様相を呈してきた。薬師派の系統は、もともと白山様や八幡様の神徒系なので、源平の昔から、だいたい姓の上の発音で区別されている。つまり、アカサナタハマヤラワとオコソトノホモヨロが始めについている。家康はこの二つの系統を握るために、アカサのマのつく「松平」とオコソの列のトの「徳川」の両姓を用いていたから、この二列の姓の呼び名を持つ者は、みなこぞって家康側に加担した。

 <八切・姓の法則>  文臣派といわれる中でも、<豊鑑>の著者で、その父竹中半兵衛は秀吉の無二の腹 心とも云われたし、美濃岩手の城主竹中重門をはじめ、文臣武臣の区別なく、秀吉子 飼いの加藤清正、加藤嘉明、田中吉政、山内一豊、中村一栄、有馬豊氏、加賀の前田 利長、飛騨の金森長近。甚だしきにいたっては、秀吉の妻の妹婿の浅野長吉から、藤吉郎の頃からの家老だ った蜂須賀彦右まで、アカサナタの母音のつく家柄の者は、一人残らず東軍である家康の側にはせ参じた。だからして、秀吉が浅井攻めの時に用いた小谷東別所の出で、賎ヶ岳七本槍で高名な淡路州本城主脇坂安治でさえ、姓がワなのか、その伜の安元の名で、伏見城以来、家康の腰巾着になっている山岡道阿弥に、「関東下向を石田派に押さえられているが、時をみて御味方に参上。同門のよしみにて御前ていを、よしなに願いそうろ」と、密使をよこし、藤堂高虎に合図されると、他の薬師派の赤座直保や小川祐忠も誘って山中村の高台から、それまでの味方の西軍へ逆に攻め込んで、とうとう関ヶ原合 戦の勝敗を決めてしまった。

 中には、信州の真田のように、長男は宗旨に従って東軍へ、父と次男は万一を慮って、永代回向料を寺へ納めて家名を存続させる為に西軍へと二股かけて分離した者もいたが、殆どの者は従来のゆきがかりよりも、(人間は死んでも何度も生まれ変わって出てくる)という、当時の輪廻の説を誰もが信じていたから、来世を心配し、(死んでからのほうが未知なだけに、やはり不安で気掛かり) とみえて、みな宗派によってその態度を決めたようである。

 つまり、東方光明を信じている薬師派の者が、もし誤って西軍に加担し、異教徒である一向門徒と共に討死したら西方の極楽浄土とやらに生れ変わって一緒に出てしまう心配がある。もし、そうなったら、東光の者としては、そこでは、にっちもさっ ちもいかなくなり、<場違い>だから、とても浮かぶ瀬もない。もし「場違い」になったら、それこそ「ばちあたり」で、そうなったらば、どんな事があっても現世へは蘇って戻れない。無限地獄の暗黒の裡に、未来永劫さ迷わねばな らぬと、この時代は固く信じて疑う者もなかった。

 だから、今の現世でたとえ五万石や十万石増やしてもらったとて、死んでから阿鼻 叫喚地獄で苦悶する事を考えると、とても名利の沙汰では宗旨は変えられず、これまでの義理人情や旧恩をすっぱりと棄て、東光宗徒はみな徳川家康についたのである。ところが、大坂方は、これまたややこしかった。秀頼の母にあたる澱殿は門徒。秀吉の後家殿の北の政所は、これは根っからの正真正銘のお薬師様。だから、西軍であるべき筈の北の政所の寧子殿が、あろう事か、徳川へ味方したとも伝わった。もちろん信心からいって事実であろう。この関ヶ原の役の手柄として、 秀吉の後家殿は、新しく一万六千石の褒美を家康から貰っている。
 2  この戦。 関ヶ原合戦に有楽も東軍だった。山岡道阿弥の肝いりで、前もって家康から軍用金の名目で、貰うものも受け取っていた。それに、なにより勢いだった事は、改めて「美濃攻略」を言いつけられた事だった。思えば十八年前に、まだ源五と云われた頃の有楽は、美濃に攻め込もうと徳川勢と鳴海原まで出陣してきたことさえあったぐらいだ。

 当時三歳だった三法師も二十一歳である。織田秀信として岐阜城主となっていた。だから、その昔、雷雨の中を逃げてきた岐阜城を今になって取り戻し、自分がそこの 城主となろうとは、もう有楽も思わなかった。だが、秀信の向背は織田一門にとって、本家筋にあたるから、有楽も頗る気にはしていた。もちろん、その父の信忠の頃は五十四万石だったのが、二条城で死に、秀吉の代になって減らされ、今では中納言の官名は貰っているが、秀信は僅か十三万三千石にすぎない。それでも、四国松山へ移されている織田信雄ら一門の中では禄高は最高で、織田の本家には変わりはなかった。

 その岐阜城の織田秀信を、何とか東軍側にしておくには、どうしても周囲の西軍を片付けねばならなかった。そこで、有楽はとりあえず石田方についている伊勢桑名城が、もと大垣城にいた妻佐紀の姉の子、つまり甥にあたる氏家行広なので、すぐさま使者を送り、「悪いようにはせぬから、徳川方につくか。さもなくば、中立を守るよう」と云ってやった。次いで伊勢亀山城も、昔、織田三七信孝の一番家老だった良勝の伜の宗憲なので、これにもすぐさま、「織田の家門は徳川につくから、そちらもこの際、中立を守るか、さもなくばこちらへ味方するよう」と、密かに使者を出してやった。すると、この宗憲はにべもなく、「我らの父の良勝は岐阜城の頃より、故太閤殿下には格別の思し召しを蒙ったものである」 と、すげなく拒みとおしたという。

 戻ってきた使者の話によると、「もったいぶって、大きな手文庫の中から、数多くの秀吉からの書状を誇らしげに取り出し、揃えて見せてくれたが、その中には斎藤玄蕃允と連名、つまり良勝をいれて、二人の名宛てになっているものが、たんと混じっておりもうした」と、不審そうに付け加えて報告された。(あの男‥‥) 絶えて久しぶりに聞く男だった。「ほう‥‥」と有楽は妙な顔をしながら、その話に耳を傾けた。

 なにしろ良勝の方は三七信孝の家老でありながら秀吉に買収され、主人を裏切って切腹させてから、ずっと亀山城を貰って仕えた男だから二人の繋がりは判るが、玄蕃允と秀吉は、ちょっと腑に落ちぬ組み合わせだった。もちろん二人とも清洲城の頃より、藤吉と新五郎の前名で顔は合わせている。だから、まんざら知らぬ仲ではないが、どうして二人があらためて結び付いていたかは、てんで見当もつかぬ事柄だった。

 ただ、妙なことが二つだけあった。 服部半蔵らの伊賀者を擁している家康でさえ、六月十二日からの山崎合戦を、七日たった十九日後になっても秀吉からの使者が来るまで知らずだった。つまり、それぐらい交通連絡の便の悪かった十八年前。六月二日の本能寺の変を、遠い備中高松の秀吉が翌日に知って、次の日に兵を返す驚くべき神速ぶりと、同じく二日の変を、その日の内に知ってしまってさっさと自分が直ちに岐阜城主になってしまった、あの時の玄蕃允の迅速ぶりである。それと、もう一つは、明らかに叛乱軍に与して岐阜城を乗っ取った玄蕃允が、山崎合戦後も何の咎もなく、秀吉が美濃へ攻め込んでくると、堂々とその世話でまた元の家老に逆戻りできたというおかしな経緯だった。(玄蕃允と秀吉が、共に本能寺の変を早く知ったというのは、ことによると、両方とも事前からよく連絡を取り合っていて、互いに知っていたのではなかろうか) そうでなければ、玄蕃允だって、いくらなんでもあまりに早手回しに過ぎる。それに秀吉ときたら、京から一本道の安土の入り口の瀬田の山岡景隆でさえ午後三時まで知らずだった本能寺の変を、遥かに遠い備中で、しかも敵に包囲されていながらその日 のうちに知ってしまい、さっさと和平談判をつけ引き上げてきている。おかしすぎる。

 「我は、この世に復活せる神、そのものなり」 と常日頃言っていた兄の信長だし、毛髪一本さえなく、屍体が全然みつからぬから、 当時は、「信長様はご無事で、きっと隠れてござっしゃる」と、何日も続けて町中は大騒動だった。それなのに、兄の生死がまだ不明のうちに、秀吉は姫路の本城へ戻ってきた。そして、堂々と弔い合戦を布告している。(これは、よほど信長の死を確信していなければできる事ではない。つまり、秀吉はやはり事前に完全に信長が死ぬ事について自信を持っていたかもしれない。だから、本当のところは毛利方との和平交渉も、既に何日も前から知っていたとしか考えられ ない)


 なにしろ、吉川、小早川大軍に手動され、包囲されかけていた旗色の悪い秀吉の方が、三日の深夜から和平交渉して、たった一時間で取り決めして、それで万事解決とは、あまりにも話がうますぎる。てんで辻つまが合わない。(あまりにも、これでは奇怪至極。おかしすぎやしない‥‥)と、すっかり有楽は考え込まされてしまった。

 すると、その翌日、有楽の陣所へ案内されて軍使がやって来た。利休門下で茶湯仲間だった美濃飛騨城城主金森法印の伜、金森可重(ありしげ)からの伝騎だった。「もと八幡城主にして、今は小田原城主であられる遠藤慶隆様は、てまえ飛騨勢と共に美濃攻略の地固めに出陣されましたところ‥‥犬地城の遠藤胤直殿が城ヶ根によって兵を挙げ、理不尽にも金森領へ押しかけてござる‥‥よって目下我らは美濃と飛騨の境目の佐見山に砦を築き、防戦中でござるが、なんとかしかるべく首尾を計ってい ただかねば、まこと難渋」 という口上だった。遠藤慶高の方は妻佐紀の伯父だが、胤直は妻の父が亡くなったあと、跡目を継いでいる佐紀の弟で、美濃遠藤の本家である。

 なにしろ、大垣城に石田三成が入り込み、州股の砦には九州の島津が立てこもり、 美濃の形勢が俄かに西軍色を濃くしてきたらしいから、若い胤直がそれに刺激され、つい石田方に走ったらしいが、有楽としては困った立場に追い込まれてしまった。妻の実家が両軍に分かれて交戦では止めようもないからである。そこで、当惑顔で思案にくれていると、伝騎を案内してきた東美濃妻木城の妻木頼忠が、さも同情するように、「かかる仕儀と相成っては、すぐにも使いを出されまするがよろしゅうござりましょうに‥‥」と、腰を屈めて案ずるように低い声で囁いた。「はて‥‥」。有楽は、うっかり口走った。そして、まじまじと相手を見直した。というのは、この男は、家康の近習永井直勝の肝いりで、五十騎ほど従えて参軍して いるが、(その父親の妻木貞徳というのは、あの明智光秀の妻の父、妻木勘解由の兄にあたっていた。つまり、この男は光秀の従弟の身上だった)と思い出したからだ。


 土岐郡にあった妻木城というのは、むかし美濃へ逆襲してきた斎藤竜興に襲われ乗っ取られて、その根城ともなった事がある。そこで有楽が十六だった永禄九年の冬、丹羽五郎左や蜂屋の手の者が押しかけ、城を焼き払ってしまった。だから、その時、巻き添えをくって妻木一族も討死したり、離散してしまった筈である。その後、光秀が信長に仕え、やがて全盛だった頃は、勘解由は坂本へ引取られて宇佐山砦を預かり、また本家の頼忠の父は墳墓の地である土岐郡に城の建て直しを許されたりして、改めて織田家に仕えていたものである。だが、山崎合戦の後、光秀の舅にあたる勘解由は、その一族と共に明智秀満と坂本 城で死んでいる。だから、有楽は、(てっきり妻木の本家も絶えさせられたもの)とばかり思っていた。それなのに、伜の妻木頼忠が、ちゃんと生きている。さながら幽霊のように側に立っていて、親切ごかしに口添えまでしてくれている。だから、(なんで徳川は‥‥明智の縁辺など庇護するんじゃろう)と、水泡みたいにぷつんと疑問が胸底から浮き出てきた。
  3  「良い加減にせんか。その萌黄威しの派手な鎧を脱いでいけ。人目について、なんで 敵中をくぐって行けるかよぉ‥‥このたわけ」。あきれて有楽は伜の左馬助を叱った。遠藤胤直は妻の弟ゆえ、使者も身内の者を遣るのがよかろうと、大和から伴ってきた伜に言いつけたのだが、敵中を縫って飛騨の境目に行くのに、あまりにも心得がな さすぎた。「いけませぬか」と、それなのに、伜の方が、てんでむくれたような口のきき方をする。だから、(こやつ。まるっきり母ッ子じゃ。佐紀にそっくりな口ぶりをしてみせおるわい」。有楽は呆れながら、それでもやさしく、「そない目につく派手なものでは、遠矢にかけられるか、鉄砲に撃ち取られるぞよ」と、注意してやると、左馬助はそれには返事もしないで、さっさと陣幕へ戻って行ってしまった。(恰好よく己が体にあった誂えできの、美麗な鎧)を人に見せたがるのもわからん事はない。だが、時と場所である。なんで敵中を抜け出して行く使者が、それを相手に見せびらかす事があろう。(ありゃ‥‥己が子種じゃろうかい)と変な気になる。

 なにしろ有楽は二条城の石垣の上から刀を咥え、死のうと飛び降りたところ、爆風にあおられれ、刀を落として死に損ない、今日までおめおめ生き延びてきたのも、自分の口からいえば弁解がましくなるが、(なんとか、兄信長を爆死させた真の下手人を探りだそう) の一心だった。だから、ろくすっぽ子供に馴染んだりみてやったという事もない。まあ、生れた時は、(己が妻にしている女ごの腹から出たものゆえ‥‥)と考え、赤子の時も、(他人がみな似ている、父親似だ‥‥)などというものだから、(そうか、己が子か)と思ったきりである。しかし、歳月がたつと、(似ているところはどこじゃろ‥‥)と、さがしても判らぬ。てんで見当たらぬ。「父子(おやこ)とは、こないなものじゃろか」と、それでなくてさえ時には考えもする有楽である。侘しかった。
 八月十九日の事。村越七十郎が、徳川家康の使者として清洲へやってきた。若い頃、七の字をあべこべに書いたというので、<左七>の旗指物を家康から特に許された男でである。つまり己れの無学さを得意がっているような軽率者なので、「将軍家は、諸侯の去就を確認の上で、それから御出馬なさる」と、口を滑らせた。そこで清洲城主の福島正則はじめ、これまで豊家の重臣だった連中は、まだ疑われているのは心外とばかり、「なら、まずおめにかけるでござろう」と、木曽川を渡って岐阜城へ迫った。

 有楽も、行きがかり上やむなく、先手として河田島の中州を渡って、美濃入りした ものの、気が気でなかった。なにしろ、八月の初めまでは、織田秀信は東軍に組する筈になっていた。そして有楽の肝いりで、その前日の会津征伐にも加わる話まであった。ところが、八月九日に美濃垂井まで、兵六千を率いて石田三成が来て、十一日から 眼と鼻の先の大垣城へ入られてしまうと、年弱な秀信はまるめこまれてしまい、ついに六千五百の城兵と共に、はっきり石田方へと寝返ってしまったのである。(‥‥ここ十五年間は国内での戦がとんとなかったゆえ、近頃の若い者はどうかしとる)と有楽は全くてこずってしまっていた。なにしろ、その秀信も伜の左馬助も、二十そ こそこだからである。

 つまり、どちらも戦などというものは始めてだから、つい恰好ばかりを気にして、ぜんぜん後先の考えがないのである。困ったものだと有楽は考えた。そして、(織田の本家を潰すわけにはゆかん) と、何度も使いを城内に送ってみたが、なにしろ二十一歳の秀信は、三万五千の大軍 に囲まれ悲壮感に酔っていて、とても有楽との談合どころではない。とうとう八月二十三日、東軍に力攻めされて岐阜城は本丸に火をつけられた。仕方がないから、有楽は秀信の身柄を救出すると、福島正則らの尽力でひとまず上加 納の円徳寺で頭を丸めさせると、そこから安全と思われる知多郡大野へ送り届けた。

 しかし、 「眼にみえる戦果を、江戸表へ届けたい」 と、織田秀信の首を初みやげに送って、大いに手柄顔をしたい者が多かった。だから仲に入った有楽は板挟みにされ慰め役になって難儀したものだ。だて、美濃は一段落したから、有楽らが大垣の西北方にある赤坂へ終結していると、伊勢方面から安濃津の激戦が伝わってきた。城主は利休門下で、かつて秀吉の上使として利休屋敷へ追放の沙汰を持っていった富田左近将監の伜、信高で、徳川方の旗を上げたところを、毛利秀元、吉川広家ら西軍三方に包囲されたというのである。信高の妻は、宇喜多御前といって、芙蓉の花にも似た、まだ十八歳の色白な童顔の残った女性(にょしょう)だそうだが、五色鎧に金竜の大兜をかぶり、女ごばかりの百名ほどの槍隊を揃え、八月二十四日の夜明けに総攻撃を受けると、城門を開けて西軍に突入すること四、五回。夥しい敵兵を串刺しにして屍の山をこさえ、「美濃の女武者、手強し」と、九州、四国、長州の南方族の侍どもを震え上がらせたが、三万の大軍には抗すべくもなく、翌日の夕刻、城主信高は命乞いして高田一身田の専修寺にて剃髪し開城した。

 だが、宇喜田御前は降伏をきかず、生き残りの女武者どもを天守にずらりと集め、腰紐で膝をゆわえ、互いに乳房の下を刺し通し、薙刀で首をはねあって壮烈に自決したそうである。この女性は当時、「大阪城の秀頼へ縁づいていた千姫と瓜二つ」として有名だった。そして、その兄の宇喜田左京亮が、宇喜田秀家と衝突して、花房助兵衛らと牢人し、この時は「坂崎出羽守」と名を変え、家康に仕えていた。後、大坂落城の時に、坂崎出羽が千姫を救出したのは巷説のような「惚れたはれた」ではなく、「妹とそっくりだ」という噂がかねて高かったせいなのである。のち、坂崎出羽守は、己れの妹を死なせて自分だけ助かった富田信高を心よく思わず、家康に願ってこの富田家を取り潰しにしている。
 4  慶長五年(1600)九月十五日。この日、まず織田有楽の軍勢は、向き合った西軍小西行長の隊に激突した。朝まで続いた雨で、草も木もぐっしょり濡れていた。薄(すすき)の白い花の房が触れるたびにぴしゃりと雫をはねてうちかかってきた。銃声が、湿った大気にぶつぶつ孔をあけて、鳴り響き渡っていた。ワアワアと有楽の隊が気勢を上げて、がむしゃらに突っ込んでゆくと、関の藤川から、大谷吉継の隊が不意に現れ、襲ってきた。ガンガン陣鉦を叩いて、まっしぐらに攻めかかてきた。だから、東軍の先手の藤堂高虎の隊が、まず打ち破られ、わーっと悲鳴をあげ旗を捨て槍も放った。先を争って雪崩をうって敗走してしまった。有楽の手勢も動揺した。つられて腰を浮かしかけたのである。見ると、萌黄威しの鎧をつけたのが、馬の尻をもう反対に向けていた。だから慌てて有楽は、その馬の轡を曳かせ引き戻しを命じた。「負ける‥‥」。連れ戻された左馬助は、唇をぴくぴく痙攣させていた。喘いでいるのである。もう今にも敵に包みこまれ、四方から突き立てられるように蒼ざめていた。まざまざと死への恐怖に、伜は怯えきっていた。たしかに形勢はひどかった。西軍宇喜田隊の旗が、味方の福島正則の本陣に立っていたし、石田三成が、こちらの加藤嘉明の陣を崩していた。敗色である。今にも小早川勢が山上から東軍へ向かって攻め降りてきそうだった。そうなれば味方の総崩れは目にみえていた。怯えたように有楽の手勢は、退却しかけた。「大丈夫じゃ」。声を枯らし、必死になって有楽をそれを食い止めた。「小早川へ養子には行ったが、秀秋は北政所の甥ごよ。お薬師の信徒が、なんで同じ薬師の同宗を打つものか。みてみいやい。そのうち旗を翻し、あべこべにこちらを助けに来るわ」と松尾山を指差して慰撫した。怒鳴りつけられると、さすがに、(同族は相討たぬ)のが宗旨の掟なので、有楽の部下もみな、(そうかや‥‥)とほっとしたように安堵して、ひとまず鎮まり戦った。

 そして、やがて午過ぎになると、案の定、小早川の銃隊六百が、まず俄かに西軍を裏切った。不意に、それまでの味方だった大谷隊へ火蓋を浴びせた。おかげで、その大谷隊に攻め込まれ押され気味に退陣していた有楽の隊は、ようやく辛うじて危機を脱し、逆 に攻め込んだ。そのうち、薬師派の小早川を見習って、次々と脇坂安治、赤座直保らが裏切った。だから、あべこべに西軍の方が今度は総崩れとなり、勝敗はついた。そこで、天満山の西南方の藤川の畔に幕を張った家康の本陣へ、次々と東軍に加担 した武将が戦勝祝いに顔を出した。有楽も誘われていくと、家康が上機嫌で、「源五様。お手柄。よう大谷隊を食い止められました。たいした武辺でござったな」と、向こうから声をかけられた。あまりの晴れがましさに照れてしまい、有楽は誉められながらも、べっとり冷や汗をかいていたものである。

 家康の言葉は、まんざら口先ばかりではなかった。有楽はそれまでの摂津島下一万 五千石から大和へ三万石で転封された。有楽は、(倍になった)と、悪い気はしなかった。国替えなので、あれこれ雑用もできた。新しい領地の検分もあった。だから有楽は半月ほど大和へ行きっきりになっていた。久しぶりに伏見城へもどって来たところ、山岡道阿弥から言伝が待っていた。「なんじゃろう‥‥あやつの取り持ちのおかげで、おりゃ家康から知行地を倍にして もろうたので、その礼の催促じゃろか」と口ずさみながら、封書を広げると、(小野木縫殿助にかねて逢いたいと御所望であったが、この十月十日より丹波福知山城を出て、いま丹波亀山の寺にいる筈。ふだんと違うて見舞いにでも行ってやれば、口も軽うなって、あるいはお耳にしたき事を申すやも知れずと存じより、火急にてお 申し入れそうろ)とあった。狼狽した有楽は家来に、「これはいつ頃、届いたものか」と問えば、「はあ、七日ほどにもなりましょうか」と無神経な答え方をした。文中には十月十日とあるが、既に二十一日である。(今から、すぐ丹波亀山へ早駆けしても、小野木に逢えるじゃろか)と、虫の知らせか、不安な焦燥にじりじりして、「すぐ旅立つ。早う仕度しくさらんか」。喚くように怒鳴りつけた。

 なにしろ、えいの口から、(父や兄を丹波福知山から引き連れて、六月二日の本能寺を襲ったのは、小野木縫殿助)と知らされる前から、その名前には、かねてより有楽は引っ掛るものを抱いていたから、えいから聞かされた時でも、(さては、やっぱりあやつめだったのか)と、歯の根を鳴らせて身体中を震わせてしまった覚えがある。
 5 有楽が「小野木縫殿助」の名を初めて知ったのは、天正十二年に大坂城内へ長逗留していた頃である。越中の佐々成政の許へ、秀吉の名代として遣らされた後と思うが、本丸の書物(かきもの)奉行の大名分限帳をひろげて覗きこんでいた際、全然これまで他人の噂にも聞いたこともない、この小野木の名をその中に見出し、(こやつ、何じゃろう‥‥)と、まず首を傾げた。不審に思って書役の者に尋ねてみたところ、「関白殿下が、まんだ木下藤吉郎と仰せられた頃、美濃で召し抱えられた子飼いの者で、天正元年九月に長浜城主になられた際、二百五十貫で黄母衣衆になられた仁でご ざる」と、来歴を教えられた。しかし、いくら秀吉の子飼いの者とはいえ、その男が秀吉の妻の兄の子にもあたる杉原長房を押しのけて福知山三万一千石になるのは合点がゆきかねた。なんで、摂津の西代尻地へ遣ったり、但馬の豊岡へ杉原七郎左の跡目を転封させてしまって、こんな男を一躍取り立てて、福知山代を預けるのか‥‥格別要害の地とい うわけでもないだけに、有楽にはさっぱり納得できかねた。(変だ‥‥おかしい)と、はっきり胸に刻みこまれてしまった。

 なにしろ秀吉の主人筋にある亡き織田信長の弟である有楽が、当時は一万五千石。異母兄の織田信包だって一万六千石。つまり二人を合計した三万一千石を、この小野木一人が貰っているというのは、(理不尽な‥‥法外な‥‥)と、まぁ、妬みでもあったろうが、忌々しくてならなかった。だから、その後も、いつも小野木の名は、まるで松の木の枝に引っ掛けてしまった凧みたいに、有楽の意識のどこかにあった。だからこそ、えいを伴って丹波福知山の長安寺へ赴いた帰途、ところの城主として、この男の名が出てきて六月二日に本能寺へ向かった張本人だと知らされた時でも、「さてこそ‥‥」と、どきりとはしたが、思い当たりもしたものである。そこで、(信長殺しの功名なら、三万一千石でも安いものである)と、謎も解けてきたし、(まさか、その手柄では‥‥軍監奉行も、公式の功績簿には記録できなかろう)と、腹が立つやら情けないやらで、有楽は苦笑いした。だが、内心では、(何者が小野木に指図しおったのか)と、腹わたが煮えくりかえる程に激しきったものである。

 といって、当時はまだ秀吉の時代。まさか子飼いの小野木縫殿助を疑って探りを入れるとなると、これは秀吉の怪しむようなもので、とてもできる事ではなかった。が、今なら秀吉も死んだし、関ヶ原合戦で東軍が勝ったから、気兼ねなしに詮議だてもできる世の中とはなった。そこで考えるのだが、山岡道阿弥は、「杉原七郎左は備中高松へは行かずだったろう」とは言っていたが、あれは違う。やはり杉原は向こうへ行っていて、こちらの残りの軍勢を率いて本能寺へ向かったのが小野木でなくては、三万一千石に昇進というのは、話が合わなさすぎる。と有楽は思う。

 なにしろ秀吉というのは、ねねの兄弟や、その姉婿妹婿とも昔から仲が悪い。これは宗旨違いのせいもあるが、全然信用もしてなかった。本能寺の変の後の賎ヶ岳合戦の時でも、秀吉は、わざと姉婿の杉原と妹婿の浅野長吉を京へ置いたままで寄せつけていない。天下を取った後だって杉原は三万一千石と、兄の信長の頃のままで据え置だったし、浅野長吉だって、明智光秀のいた坂本二十二万石を二十万石削られて、たったの二万石。つまり、兄信長が備中神吉(かんきつ)城一万八千石をやっていた頃より、僅か二千石しか増やしてやっていない。そのくせ他人の子飼いの者には、どんどん扶持をくれてやっていた。だからこそ、今度の関ヶ原御陣だって、浅野長吉改め長政なんか、堂々と敵側である徳川家についてしまっている。

 さて、小野木の率いていった福知山勢の他に、木村弥一郎が、昔、二条城で信長に 抗戦した内藤党を伴って行ったらしい。そこで、丹波口から六月一日の夜、繰り出して行った一万三千の兵というのは、もともと明智光秀や秀満の家臣ではないから、本能寺や二条御所を片づけると、さっさと丹波へ引き上げてしまったらしい。(ここに匿された秘め事があるんじゃろ)と、有楽としては考えざるを得ない。なにしろ、(いくら丹波に一万三千の兵が戻っていても、自分の指図で動く兵力ではなく、なまじ丹波へ足を踏み入れたら、自分が袋の鼠になる危険があったからこそ、本城の亀山へ光秀は六月二日以後、死ぬまで一歩も踏み込んでいない。また、秀満にしても、六十四歳の老父を置いているのに、やはり丹波へ戻れなかったのだ)という事は、丹波にはその時、<信長殺しの指図した者>と<明智光秀を、まんまと罠にかけ、信長を倒して用済みになると、放りっぱなしに野垂れ死にさせた者>が、同一人物が別人かは判らぬが、ちゃんと居た事になる、としか判断できなかった。

 といって、それは、まさか小野木縫殿助ではない。が、しかし、おしめを干すように旗ばかりを立てたがる杉原七郎左でもない筈である。(では、誰か)となると、その正体を知っている者は、既に天正十二年に亡くなって いた。そこで、今や生き残っているのは小野木縫殿助しかいない。だから、なんとかして話を聞きだそうとその後、有楽は焦りに焦ったものである。だが、無風流な小野木は茶道や歌道を嗜むわけでもなく、もちろん福知山の城へ行けば逢えるだろうが、さて面会に行く口実も有楽には見つからなかった。 そのうちに秀吉が死んだ。葬儀に小野木も出てきたから、声をかけようとしたが、どうも人見知りするというのか、有楽には、そういう真似はできなかった。もたついているうちに、小野木に丹波へ戻られてしまった。悔いたが遅かった。そのうちに、東西の雲行きが怪しくなって、誘われるままに有楽が大坂城を引き払い、家康の許へ走ってしまった後、皮肉にも小野木は入れ代わりに上坂してきた。 (しまった‥‥) 耳にして有楽は地団駄を踏んだ。

 大坂城惣溝口のうち、鰻谷橋と、横橋口の二ヵ所の守備を、小野木は言いつけられた。まだ、それくらいなら何とかして逢える機会も残っていたが、七月十日、この男は 丹後攻めの総大将を福知山城主という地の利を買われて石田三成から任命されてしまった。すると、この男は昔とはあべこべに、杉原七郎左の伜長房をはじめ、生駒雅楽頭、 藤掛永勝、石川備後らに大坂城の使番ら歩騎一万五千を率いて、七月二十一日から、まず細川幽斎のこもる田辺城へ攻めかかった。

 当時、幽斎の伜細川忠興が大半の兵を率いて、家康方へ出陣して留守なので、田辺城には細川勢はわずか五百。すぐにも落城しそうだったが、どうしたわけなのか、三十倍の兵力を持つ攻囲軍が、はかばかしく攻撃をせずだった。なにしろ、一ヶ月半たった九月三日になっても、そのまま睨み合いの状態だった。そこへもってきて、智仁(ともひと)親王からの勅使烏丸光宣(みつのぶ)の一行が、丹波亀山城主で京都所司代の前田利勝に案内されて、田辺城の鳶島にある小野木の本陣へ訪れてきた。「休戦」を命じたのである。畏きあたりの御沙汰である。そこで小野木達も撤兵したし、城内の細川幽斎も、娘婿にあたる前田法印の伜の利勝に、九月十八日に田辺城を明け渡した。そして細川幽斎は五百の兵と共に、前田利勝の亀山城へ移った。

 この時、有楽は話を聞きに小野木縫殿助に逢いたいと思った。是非とも<信長殺しの謎>を聞き出したかった。だが、その十三、十四の両日は、なにしろ九月十五日の関ヶ原決戦の前日である。 赤坂につめていた有楽は、とても陣場を放って逢いにはいけなかった。ところが、九月二十日、関ヶ原合戦から引上げの途中、馬堀で父の幽斎に逢った細川忠興は、引き連れた軍勢をそのまま福知山へ進め、小野木縫殿助を囲んだ。数日前の勅命の停戦で一万五千を解放して、己れの手兵七、八百しか残っていないのに、忠興と田辺の兵の三千に、いきなり取り囲まれたのである。だが、小野木も頑 強に抵抗。十月に入っても降伏しなかった。

 そこで、見かねた家康が、 「開城するよう」と和解の使者を出してやり、十月十一日、ひとまず福知山城を開けさせると、小野木縫殿助の身柄をそのまま丹波亀山城へ移している、というのが今の話だった。
 6  「どう考えても、細川と小野木の間の繋がりが判らん。なんで田辺城攻めが、あんな馴れ合いずくのように、もたついたのであろうか。なんぼなんでも、あれではおかし い。双方で恰好だけの戦で愚図ついて、お茶を濁し、勅使が来ると、いとあっさり受諾して囲みを解いている。だから、世間では、(幽斎から歌道の奥義を受けた八条宮智仁親王が仲立ちしたせいだ)とか、(寄手の者も幽斎から歌道の極意を受けた者ばかりゆえ、なかなか落城しなかった)ともいうが、誰が何をしようとも、総大将の小野木に攻め落とす肚さえあったら、一万五千の兵力にものをいわせて、幽斎三百七十人に加勢の三刀屋(みとや)監物の百三十人併せて五百の城兵ぐらい、ひと潰しにできた筈である。それに、「歌道の極意とか奥義」といったところで、そんなものは茶湯の奥伝と同じで、合戦を左右するほどにありがたいものとは考えられぬ。

 そもそも八条宮というのは、天正十三年に生害された誠仁親王の弟御だから、この仲立ちというのは、事によったら歌道とは表向きで、誠は信長殺しに糸を引いているのかもしれぬ‥‥だからこそ、そういう経緯で小野木は恰好だけに田辺城を攻め、幽斎を無事に守り通したのだ。それゆえ、本来ならば伜の細川忠興は、この事に関しては礼を述べてしかるべきである。ところが、帰りに寄り道して福知山城を攻撃したのは、これまた何故なのだろうか。やはり家康の開城の命令が出るまで落城させられずにいたところをみると、(これも、世間の眼をごまかすための馴れ合いでもあったのか)と疑惑が涌く。

 桂川の渡しを越してからは、朝からの風も納まった。秋晴れの陽射しが襟から肩へかけて柔らかにあたってくる。そこで、つい白い陽光に包まれながら、有楽は馬の背に跨ったままぶつぶつ口の中 で独り言を続けて考え込んでしまう。坂道を上って文徳帝の御陵から半里ほど南へ入る。突き当たりが堅木原の宿駅(うまや)である。ここは険しい丹波路へ入る前に一休みをする仕度場所なのである。有楽も馬から降りた。乗換えの馬はいらなかったが、馬沓を取り替え、人間も草鞋を履き替え、食べ店へ入って白湯を飲み名物の山芋の蕎麦などすすった。そこから上って沓掛へ入ると、すぐ「酒顛(しゅてん)童子腰掛けの石」という立札が目にとまった。ここからが老の坂。つまり昔の大江山の大江の坂なのである。

 地蔵堂の西南には、酒顛童子の首塚まで祀ってあった。このあたりが山城と丹波との境目になっている。だから有楽は坂口から十四、五町上って、暗がりの宮へ出ると、そこから又、山道を篠村ごしに進み、八幡社まで進んだ。すると、東に聳える勝軍地蔵の愛宕山が、楡の森のむこうに、くっきり見えてきた。その途端、「あっ‥‥」。有楽は叫んだ。馬の口取りの者が、「えっ?」と驚いて振り返るぐらいな声を出した。「うーむ‥‥」。有楽は悲鳴にも近い呻きを又洩らした。そして、自分でも呆れるくれいに眼を見張り、ぐっと唾を飲み込み、しゃがれ声で、「この辺り、桑田郡じゃろ?」と、急いでと問いかけてみた。すると口取りは、「はい、老の坂からずっとこっちは、船井郡と桑田郡。今の細川様が長岡と名乗っていられた頃の御領国で、その時分は、この八幡様と、さっきの暗がりの宮、そして、老の坂入口のあたりには、長岡坂番所が、厳しゅう昼夜の別なく見張っておられましたが、故太閤様検地の時から、たしか御関所はお取り外しでございますが‥‥して、 何ででござりまするな」。あべこべに向こうの方が不審そうに振り返った。が、有楽は顔色を変え、「うむ、判った‥‥」と言ったきりだった。

 U  なにしろ、この道はこれまで二度も通っていた。だが、天正十三年の暮は、於次丸 の急使で道を急ぎ、帰りは吹雪に悩まされて駆け抜けるのが精一杯だった。次はこの春、えいを伴って通った時は、片時も休まずにしょっちゅう話し掛けられる繁雑さに、とても左右を眺める余裕もなかった。だが、今度は女連れではない。一人で馬を急がせ丹波亀山へ行く途中である。だから煩わしい相手もいなく、それで今更ながらのように、「ハッ」として気づいたことではあるが、ここは十八年前に本能寺を襲撃した部隊の進路であった。つまり、(丹波亀山を出陣してきた軍勢が、老の坂から沓掛へ出て兵粮をとって、桂川を渡り入洛した)というが、そのためには、ここはどうしても通らねばならぬ道だったのである。他に 通路はない。

 ところが当時、ここは細川領であって、京都への入り口なので見張り番所が三つも あって、昼も夜も警戒をしていたという。それでは一万三千からの軍勢が通るのを、まさか気づかぬわけはあるまい。当時の話としては、丹波亀山の先手の者が用心して、瓜畑の百姓さえも斬り殺して 前進したというが、そんな連中に先駆けされて京へ注進される心配よりも、もっと肝心な事は細川番所の方ではなかろうか。人数が一万三千もいたというから「ワアッ」と細川番所の三つぐらいは包囲もできたであろうが、そうなれば、番所の者の一人ぐらいは脱出し、堅木原の馬小屋へ行っ て駄賃馬をも借りだして京へとべる。それが不可能だったとしても、まだ包囲されていない番所へ烽火を上げて急を知ら せもできる。そうなれば、京四条の細川邸へ、この一万三千の侵入は速報されていた筈だ。だったら細川家から本能寺や妙覚寺へ知らせがあってもよい筈だ。しかし、そんな事を教えられた覚えは、これまでない。「ちぇっ。あの日の朝、おのれ、細川めは前もって全てを承知しくさって、一万三千の丹波衆の通るのを見逃していた事になる‥‥いや、ならば、その一万三千の丹波衆 の中に、同じ丹波の船井、桑田郡の細川の軍勢の千や二千は混じっていたと考えるのが至当かもしれん」。ぶりぶり口の中で有楽は憤りのあまり呟いた。そして、(これでは何の事はない。よってたかって皆がグルじゃったんじゃ‥‥おりゃ、『細 川父子が髪の髻を切って兄の信長の菩提を弔った』とか、『細川幽斎めが、追腹を切るかわりに隠居して家督を伜に譲った』と聞き、涙まで浮かべて『なんと忠義者じゃろ』と歓んだものだったが、今になって思えば、阿呆らしや。こりゃ蔭にからくりが あったのか。おのれ、まんまと瞞(だま)くらかしおって‥‥」と腹を立て忌々しがっていたが、「待てよ‥‥細川も本能寺を襲った一味徒党なら、こりゃ小野木縫殿助とは一つ穴の狢。すりゃ田辺城を攻めたり逆に福知山城を囲んだり、互いによぉ落城させんと戦しとったのも、こりゃ馴れ合いの芝居‥‥すりゃ、この際、小野木縫殿助の口を割らして、奴等の化けの皮をひんむいて、故信長様の仇をはっきりとさせてやろうかい」と、頗る意気軒昂。そこからは馬に鞭をあて、有楽は一気に亀山へと駆け降りていっ た。

 しかしである。「えっ、小野木縫殿助‥‥その方なら一昨日からおられませぬ。なんせ首桶へ入れられ駿府の徳川家康様の御許へ行かれてござる」と亀山城の前田茂勝の家臣から云われた。「首桶で行ったとは‥‥これか?」と有楽は手で首を発止と叩いて念を押した。「いかにも左様。小野木縫殿助は賜死でござった」。顔を伏せたままで、そんな返事をしたのである。





(私論.私見)