8章、杉原七郎左 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1161信長殺しは秀吉か11」、「1162信長殺しは秀吉か12」、「1163信長殺しは秀吉か13」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
杉原七郎左 |
1 慶長三年(1598)八月。秀吉が死んだ。頭の上に宙吊りになっていた大石が、すとんと取り除かれたように、有楽はせいせいした。両手をはって思わず大きく、「あーあー」と伸びをしてしまったほどである。桶狭間合戦の二年ほど前に、小者として奉公に来た時、秀吉は二十三ぐらい。有楽は清洲城へ移ってすぐだから、まだ八歳だったろう。だから、二人の出会いは向こうが大人に対して、こちらはまるっきり幼児だった。ものは最初が肝要だという。そのせいなのか秀吉は死ぬまで有楽をてんで子供扱いしていた。(‥‥この小うるさい餓鬼め)とでも最初に眼に映ったらしく、その観念を拭い去ることなく、ずっと秀吉は有楽を見ていたようである。
有楽にしてみても、藤蔓織りの仕着せ絆天を着て、泥まみれな毛脛を出していた藤吉。つまり小者の頃の秀吉をずっと覚えていたからこそ、いくら殿下と呼ばれるようになっても、映像がダブって、あまりピンともしなかった。それに、藤吉の頃の秀吉は、大人どもには愛想よくまめまめしく仕えはしたが、有楽のような童、特に男の子らには極めて無愛想で、追従笑いもろくに見せないような男だった。しかし、子供というものは、犬や猫と同じで、すぐ相手に好かれているか嫌われているかを直感で読み取るものである。だから、有楽たち男の子供達は誰も藤吉と名乗っていた頃の秀吉は好かなかった。呼びもしなければ近寄りもしなかった。なにしろ他に子供と遊ぶしか能のないような、そんな手合いがいくらでも奉公していたからである。つまり、幼い頃、有楽は秀吉に眼をかけ、いたわってやった覚えもなければ、向こうから可愛がられ大切にお守された事もない。十五、六になって、兄の名代として出陣しだしてから、新参の大将どもでは得体がしれなくて気兼ねなのに比べ、その点、秀吉は幼い時から虫けら同然に思っていた小者上がりゆえ、「藤吉、藤吉」。心安く顎で指図して使っただけのことなのである。 すると、もう三十男になって、<木下藤吉郎>といっぱしの侍大将にもなっていたくせして、真面目くさった顔をして、てれもせずに 「はい、はい‥‥」と、まめに仕えたものである。有楽にしてみれば、(自分の年弱なのを周囲に侮られまい)と取り繕うための背伸びをした虚勢だったし、また秀吉の立場では(さも、気に入られている)ように他の者に見せかける為の偽装だったのだろう。だから、人前では、さも馴れ合った睦まじい主従にも見えたろう。だが仮りに二人きりにでもなった時は、まるで人が違ったみたいに、どっちも面白くない顔で口をききあう必要もないからと、とんとものを云わなかった覚えがある。それが兄信長の死後、急転直下、立場がまるっきりあべこべになってしまった。つまり、(召し使いに召し使われる身の情けなさ)を嫌というほどまで有楽は骨身にしみらされた。 そして初めは、この逆転した立場にどうついていけばよいものなのかと、ただオロオロしたものである。とはいえ、まだ甘えがあった。(昔の主人筋ゆえ大切にしてほしい。特別扱いにされてもよい筈だ)と、向こうからいたわってくれることばかり期待していたようだ。ところが岐阜へ来て、吉村の許に匿われていたぐらいの前田法印あたりが八万一千 石。その伜の義勝まで丹波亀山五万石。しめて十三万石に比べても、有楽の方は僅か摂津島下で一万五千石、と見る間に格差がつきだした。(‥‥昔、秀吉が信長にしたように、はい、はい云って弁茶羅すれば、果報が報いられる)とは承知はした。だが、判ったからといって、さて、実行できるものでもない。昔が昔である。だから、ずっと腹の中ではむくれっぱなしで、いらいらしていた。諦めたような諦めきれぬような、うじうじした心地だった。(これではいかん‥‥)とは自分でも思ったが、時たま、何かの弾みに秀吉から、「源五様」と昔のままの呼び方でもされると、身体中がぞくぞくし、虫のよいことばかり考えたものである。 しかし、といって、ろくなこともなかった。それに、認められようと心を砕き、犬馬の労をとって粉骨砕身、働いてみせたところで、(どうせ、相手はなにしろ子供の頃から側近くいて、こっちをよく知りすぎているか ら)と考えると、(まぁ、なまじ骨折っても苦笑されるぐらいが関の山)と馬鹿らしくて、とても努力もできかねた。それに初めのうちは、兄信長の仇討ちとばかり、明智の遺臣狩りなどに精出してく れるものだから、(よいところがある。忠義者じゃ)と、内心頗る満足し、気をよくしていた時代もあった。 が、利休に腹を切らせたり、あろうことか、「尾張の土豪崩れ」と織田一門を辱めていた足利義昭と仲良くされたのには、有楽も全く腹をすえかねた。下世話に云えば、婿養子に浮気をされた家付女房みたいに、癪だった。だから、有楽は秀吉に死なれて悲しいなどと思うより、内心ではほっとした。肩を凝らせつかえていた気苦労も、これでいっぺんに吹っとんだ感じだった。 |
2 「酒だ」 大声で喚いた。有楽はすっかり愉しかった。晴々とした心祝いに、盃をあげたくなったのだ。しかし喜んだのは大坂城内では有楽一人きりらしかった。他は秀吉の死で上を下への大騒動の最中である。まさかこんな時に有楽が一人で祝杯を上げようとは、誰も思いがけない。だから家来どもの控えもいなければ、侍女達も手伝いに狩り出されてみな出払っていた。「しょうがない‥‥」。舌打ちしながら、有楽は自分で己が屋敷の厨まで足を運んだ。台所口である。すると、背を向けたまま足膳を拭いている婢女がいた。「酒をもて」。有楽が大声を張り上げたから、考え事でもしていたらしい女は驚いたようにこっちを振り返った。そして主人の有楽と気づくと片襷をはずして、頭を下げながら、「ここへ‥‥でござりまするか」と、低い声で怪訝そうに尋ねた。そう尋ねられると、まさか台所の板の間に座り込んでも呑めもしまいと考え、「寝所へ持ってこい。肴は味噌でよいぞ」と、本当は前祝いにきゅうっと一杯ひっかけたかったが、そんな具合に早口に云いつけて戻ってきた。
暫くすると、先刻の女が胡瓜を刻んで味噌にまぶし、それを蒔絵台に乗せ酒瓶子と供に運んできた。少し躊躇っていたが、まさか膳だけ置きっぱなしにして退がりもならず、おそるおそるにじり寄って酌をした。あまりみかけぬ女だが、どこか見覚えがあった。だが、名前までは想いだせないままに、「そなたは‥‥」ときくと、女は恥ずかしそうに赤くなって、やっと、「あの丹波からついて参った、えい、でござりまするがね‥‥」と口ごもった。言われて、ああそうだったのかと有楽も気がついて、昔の事を思い出し、「さてさて、さようか‥‥して、何歳になったぞや」と訊ねた。酔いのせいか、美しくみえたからである。すると、相手はもじもじして、「お伴してまいって、もう十三年。女ごとしてはとうの立つ年頃にもなりました」。「そうか。於次丸の葬れんの戻り、丹波から連れてきたが、あれからもうそんなになってか‥‥」と呟きながら、有楽はえいをしみじみ見直してみた。だが、雪の中を藁帽子をかぶって、ぴょんぴょん野兎みたいについてきた幼女の面影は、さすがにもう何処にも残っていなかった。酒で敏感になった鼻に、くすぐったいように女の匂いだけがぷーんとついてきた。(誰も彼もというわけではないが、若い女ごの中には、時たま、思わずどきりとするくらい、女の股の香をさせる者がいるが、えいも、そうした娘の一人かや)と、その匂いをむうっと吸い込みながら、「せめて十六、七ぐらいまでには、しかるべき男でもとりもってやれば良かったに。つい忙しさにかまけ、まこと不憫な事をしたのう」。父親のようなまなざしを向けてやると、「もう、手遅れでござりましょう」。えいは、照れたように云うと、顔を上げて微笑んでみせた。「そうでもあるまい。近頃は女ごの嫁入りの齢が、ずんと遅れておるそうじゃ」と言ってみた。だが何もとりなしに気休めだけで慰め顔をしているわけでもなかった。 有楽の若かった頃は、まだ戦国時代の続きだった。そこで、何処の国でも、みな境目に城や砦を築き、そこを厳しく固めては互いに戦を繰り返していた。だから、弓、槍の武器や兵粮もせっせと増産していたが、何より必要なものは、やはり軍用の人手だった。こればかりはかねて心掛け、育て上げてゆかぬと、おいそれとは間に合わぬ。そこで前もって、「産めよ、殖やせよ」とは何処の領主も奨めたものである。そして、まるで領内の若い女ご共の腹を空っぽにしておいては損をするみたいに考え、なんでもよいから早く子種を腹に仕込ませてしまおうと、男女の縁組みをどこの城代でも盛んに奨励したものである。だから、尾張や美濃などでも当時は、まるで年頃の娘がまだ嫁入らずにいては城として不名誉とさえ思われ、もう十三、四からさっさと縁づける早婚が流行した。そして、それらの娘の相手が城内で足りなければ、近在を探し廻っても次々と若者を見つけてはあてがってしまい、後家になってる女でも、まだ子の産めるようなのは 腹を遊ばせんように、やはり後添えを都合してやって片っ端から娶せしてしまい、「昼は田作り、夜は子作り。これがお国へ尽す御奉公の道だわな」と訓示し、もし器量好みをするような面食いの男がいれば、組頭が樫の俸でトントン地面をつつき、「嫁っこは、ええ子が産める丈夫な身体さえしとったら、それでええ。面のことなんか文句こくでねぇ。贅沢は敵だじょ」と怒鳴りつけ、否応は言わせなかった。 もちろん、やり口は城中のお長屋でも同じ事で、家中の娘が十四、五になれば、やはり組頭が纏め役になって、順繰りに縁組みさせ、織田の実臣群の増加を心掛けた。だから、女でさえあれば、どんな顔の娘でも次々と若いうちにみな嫁にもらわれてい た。こと縁組みに関しては、戦国の世は女ごには良き時代であった。ところが秀吉の代になって、国内が一つに納まり、これまでの戦沙汰がピタリとなくなり、平和になると、これまた娘どもには難渋な世になったらしい。もはや戦がないとなっては、何処も軍用の人手のいる見込みはない。村方でも「検地だ」、「差出しだ」と年貢の納税が厳しくなると、やたらに嫁を貰って子を作っては養うのも厄介だからと、男どもが嫁取りを手控えしだした。それに、城内の組頭や村方の世話やきも、もはやその必要とてないから、どこの娘が年頃になろうと前と違って知らぬ顔をした。そして、身内の娘でもない限りは、進んでおせっかいなどしなくなった。だから、平和になったおかげで、とんと嫁入り口が前のように割り充てみたいには来なくなったので、娘達はみな放りっぱなしにされ、自分で探すしかないらしい。近 頃では二十娘、三十娘もざらだという事である。 それゆえ、家にじっとしていては、とても婿探しなどはできぬからと、この大阪城 なども、つてを求めて一万からの若い女が奉公に上っている。勿論表向きは行儀作法の見習いだが、どの娘も思いは一つとみえ、慎ましそうに振舞いながら、(自分でなんとか良い殿ばらを見つけ、射止められたら逃さずに盃事にもってゆこう)と美々しく姿形を競争するよう装っている。それにつられ、見習っているわけでもなかろうが、えいも近頃ではせっせと京白粉をつけ、山崎の香油で髪を艶々とさせだした。酌をさせた日から目にみえて変わりだした。有楽も気になってしょうがなかった。なにしろ、狗ころみたいな童の頃から婢女に使ってきた娘で、これまで女として眺 めもしなかったのが、秀吉に死なれてほっとした開放感が、そんな形で出てきたのかもしれぬが、有楽は、(えいを抱きたい)とも、時には感じた。「どうだろう‥‥」と、また酌にことよせて呼び、そっと相談するごとく打ち明けてみた。なにしろ父娘ぐらいの齢の差もある。だから、有楽としては、酒に酔ったふりしてあ たってみたのも、照れくさかったからである。多分、(まあ‥‥)と笑いとばされ、断られるじゃろという気がして、前もって覚悟はしていた。ところが、意外や、「はい」と素直にえいは返事をし、にこりと白い歯まで見せてきたのである。「ほう‥‥まことか?」。信じられぬといった顔で聞き返したところ、「前から、そない思うとりましたんね」。恥ずかしそうに身体をくねらせて言った。(この娘は、おりゃに懸想しとったのか‥‥)と考えると、少し心浮くものがあった。 時によっては、あと三年すると、自分も死んだ兄の齢と同じになると考え、はたから眺めると四十から五十の男はさも豪そうに見えるものだが、さて、自分がその齢になってみると、みかけだけは大坊主で憎ったらしいが、中身のほうは、とんと若い頃よりかわりばえもせぬと、内心忸怩たるものがあったが、今はその反対で、この二十二の娘の慕情の中へ、若やいだ心のまま溶け込んでゆけそうな心地だった。満ち足りた気持ちになれた。抱え込まれると、えいは、わざと照れ臭いのか、視線をはずした。胸元をひろげると、桜色の肌から草の実にも似た桃色の粒が、胸を動悸を伝えるよう に震えていた。誘っても、すぐうなずく程だし、もう二十も越えているから、既に台所方の者にでも挑まれ、一度や二度は裾を割っているものと思っていたが、えいの体はまだ硬かった。(こんな時、坊主頭に剃っていなければ、髪のびんつけ油が使えもしたろうに)とあわてながら、有楽は咽喉がからからになってしまった。えいは、有楽が体をおしつける時はじっとしていたが、引く時には悶えるように歯をくいしばっていた。そんなえいを覗き見しながら、酷い事をしているような気持ちにさせられ、早々に打ち切ってはしまったが、何故、この娘が床へ入ってきたのか、有楽は気にしてしまい、そっと娘の額にたれた乱れ毛を撫ぜつけてやりながら、「えい、わりゃ、どうしたのじゃ」と、いたわりながらも問い詰めてみると、「もうしわけありませぬ。お役立たずで‥‥」 。起き上がりかけたが、痺れたように肩しか動かなかった。有楽は見かねて庇うようにして、「よい、よい‥‥」と、肩を押さえながら、まるで自分の娘にでもものを言うように、「こないな事をなぜ‥‥そちから求めたのじゃ」と詰ってみた。酔いが醒めてちょっぴり後悔していたからである。 なのにえいは、 「お縋りしたかったんです」とこたえた。(死んだ秀吉からは役立たずと云われ、島下にいる妻や伜どもからは能無し呼ばわり されとるこの俺でも、若い娘からみれば、そないに頼りがいがあるよう見えるものか ‥‥)と、まんざらでもない心地になり、それならば気兼ねする事もなかろうと、有楽はえいの細い腰をまた抱えなおした。「‥‥そう、そう、縋りたい頼みとは、いったい何じゃった」。己れが満たされたからには相手の望みもきいてやらねばと、有楽は声をかけた。(‥‥小袖でも買ってほしい)とでも言うのだろうと思った。なにしろ文禄の頃までは、若い娘はみな藤蔓や苧がら編みを着て、擦り切れたところから肌をのぞかせ、良いところへ縁づいた者だけが、三河あたりで国産されるようになった木綿布子を着ていたものだが、近頃はすっかり派手になって、嫁入り前の小娘 までが唐渡りの生糸織りの衣を着て、昔はお歴々の女房衆しか纏えなかった山繭の被衣を、女中ごときでもみな二、三枚は持っている。かつては女ごも弓をとり薙刀をふるって武者をしたものだから、<女鎧(めよろい)>といって、胸あての裏側が柔らかくなったものさえあったのに、近頃は戦がなく、それに嫁入り難ゆえ、そんなものより着飾る布子、化粧の品にばかり、どの娘も執心しているらしい。 だから、えいも他の娘達のように、やはり着るものや小遣い銭が欲しくての事と、 頭ごなしに有楽は思ったのである。ところが、えいは、「父や兄どもの仇を取って欲しいのです。それで旦那の殿にこうしてお縋りしておるのでござりますよ」と、有楽の体に自分から手をまわしながら訴えた。「ひっ、殺されでもしおったんかのう」。慌て気味に聞き返してみると、えいは、「天正十年、六月二日でござりますね」と言った。「えっ」と、有楽は改めて自分でも驚くぐらいに甲高く面食らって大声を出した。 |
3 「殺されました父と兄は、杉原七郎左様の家人にござりました」とえいは云う。だが、杉原という名前で、すぐ頭に浮かぶのは、賎ヶ岳合戦の後、山岡景隆が放っていった瀬田城を秀吉に云いつけられて押収。そこの城代を勤めた時、(さも戦でもして城取りしたように、己が馬印や旗印を城壁や櫓に、おしめのようにずらりと並べかけ得意がっていた男)という評判ぐらいであった。しかし、えいの口にする、その天正十年の六月二日には、杉原七郎左は秀吉に従って遥かに遠い備中高松攻めに加わり、蛙ヶ鼻の本陣にいた筈である。たしか、その三月から毛利方の宮地山、冠山の城を落した秀吉勢は、五月八日から
高松城の西北の門前村から東南の蛙が鼻にかけ、長さ四キロ余の土堤を築いた。そして、そこへ足守川の水を流し込み、高松城の水攻めを施工。五日の末には城が水中に浮かび、石垣も没する有様だったのである。毛利方の吉川、小早川の両軍が、すぐに高松城の救援に駆けつけ、岩崎山と日差山
の二方面から石井山の秀吉方に決戦を迫っていたのが、ちょうどその六月二日あたりの有様だった。 だから、 「なにか、覚え違いではないか。杉原七郎左の軍勢は、みな備中攻めに行っていたぞ ‥‥それが何よりの証拠には、六月四日に城主清水宗治に切腹させてから、秀吉は高松城の受け取りを杉原七郎左にさせ、その後も引き続き城代として、備中の高松で留守役をさせていたではないか」と、えいに噛んで含めるように云って聞かせてみたけれど、「いくら、仰せられても、父や兄が殺されました所は備中ではありませぬ」。あくまでも首を振り、承知しなかった。「といったとて、天正十年といえば、わりゃ、まんだ六つか七つの女童。何ぞ勘違いでもしているのではないか」。有楽は、すっかりえいを持て余した。「いいえ、間違いありませぬ。父や兄がお陣ぶれの太鼓をきいて、お城へ集まって行き、そんで寂しゅうなって、そっと私が大手曲輪まで覗きに行きましたところ、父が喰いかけの白い結飯(まんま)を下さりましたに‥‥」。少し平べったい顔を板みたいにまっすぐにして、えいは淀みなく喋りつづけ、「食い物の事は忘れぬものでござりますよね」とつけ加えた。なにしろ言い出したからには、引っ込もうとはしない。(頑固じゃのう‥‥ちいと気が変ではなかろうか)とさえ有楽は思った。 えいの云う丹波福知山は、天正十年六月十三日の山崎合戦で天下の形勢が変わった後、明智秀満の居城だったのが没収され、そこの新領主に杉原七郎左衛門家次が、改めて秀吉の家老として三万石の領主になった所なのである。えいのいう六月二日の時点においては、杉原はまだ播磨の神吉(かんきつ)城主二万五九の身分で、かつて秀吉をて手こずらせた三木城に治まった新城主の浅野長吉と共に、秀吉の寄騎として播州の押さえだった筈なのである。だからこそ、その三月に播磨勢として動員され、但馬、因幡と共に秀吉の備中高松攻めに加わっていたと、有楽ははっきり覚えている。それなのに、あくまでもえいは「そうではない」と言い張るのである。持て余して王城しきった。 ところが次の夜、また有楽の寝所へ人目を憚って忍び込んでくると、えいは座ったまま、「これを御覧じなされませ」と生麻の小袋に入れてあった、守り札のような薄紙をひろげて寝ている有楽の鼻先に差し出した。のぞくと、その雁皮紙には、墨は古ぼけて滲んではいるが、「天正八年庚辰閏三月、十兵衛尉家利の息、杉原七郎左衛門家次、福知山三万石城主となり、佐藤四郎介、禄三十貫出仕」と書かれ、その脇には丹波奥野村の医王山長安寺の墨印が押されてあった。そして左の隅に、「天正五丁丑二月六日安土出生女、えい」と、つけたしにこの娘の身上も欠き加えられていた。新たに領主として赴任してきた杉原七郎左が、家人を増やすために、牢人どもの募集をして、それにえいの父の四郎介も応募。三十貫の給与で採用されるにあたって、その身許保障を、四郎介の菩提寺の薬師寺系の長安寺が引き受けたという、これは証明の書付らしい。 ここ十五、六年、秀吉の代になってからは、諸式が派手になり、めっきり物価も上がってしまったが、天正八年頃なら、<一貫、一石>の定法だったから、四郎次は石どりに換算すると三十石だが、当時はまるまる手取り勘定で、しかも検地前で余分も多かったろうから、今ならさしずめ三倍の百石どりの身分であろう。まぁ、馬に乗れる程度の身分ではないが、徒足武者としては、ひとかどの扱いを受けていたものだろうと、そこまではわかる。それから、領主七郎左の父が杉原十郎兵 衛だったと書き付けにあるが、これも間違いないことであった。なにしろ、有楽の子供の頃は、織田の家も信長が跡目をとったばかりで。あけくれ 駿河や三河から攻め込まれていた。だから尾張八郡から三河の安祥まで押さえていた 父の信秀とはこと違い、所領が半分以下に減っていた。 それで、昔の小豆坂合戦では、七本槍の次にも数えられたという十郎兵衛も、当時は逼塞して清洲城内の長屋から上の曲輪へ出てきては、よく幼い者を遊ばせてくれた。有楽達は十兵衛に背負われたり、五条川の浅瀬へ連れてゆかれて、水練を教わったり、川狩りとよぶ簀立ても覚えさせられたものである。昔から子供好きで、この十郎兵衛には兄の信長も可愛がられていたらしい。だから天正五年に、自分が任官し長秀、秀吉、光秀達にも官位の沙汰を受けさせた時、もう十郎兵衛は亡くなっていたが、わざわざ兄は<尉>の位を避けてやり、霊前に仕える よう、跡目の七郎左に伝えたのを有楽も覚えているのだ。 つまり、この書付は、「天正八年に、杉原七郎左が既に丹波福知山の城主になっていた」というおかしな点の他は、みな疑いもない思い当たる事ばかりだった。そこで有楽は、「ここに出とるそなたの父の四郎介が奉公した七郎左家次というのは、亡くなった関白様の連れ合いの北の政所の義兄にもあたる身上で、関白様の家老を昔はやっていた。よって跡目の杉原伯耆守長房も、豊岡三万石に転封になってからも、やはり北の政所の妹婿にあたる浅野長吉の娘を迎えとりなさる‥‥その関白様の身内同様の杉原の家人が、よりによって‥‥なんで六月二日に無法な目にあう筋合いがあろうぞ。そこの所をよう考えてみんかい」と、しょうがないから有楽は、子供をあやすように、えいに判りやすく話をしてやっ た。(‥‥とかく女ごというものは、間違った事でも初めに一旦こうと思い込んでしまったら、矢でも鉄砲でも持ってこいと言わんばかりに、もう決めたが最後、なんとも変えたり改めなどしない。てんで考え直しなどきかぬ頑なさがあるから、えいもその口であろう。よってずうっと勘違いしているもの)と思えたからである。そして、ついでに、「杉原七郎左はその時、播磨の神吉城主だったからこそ、秀吉について毛利攻めに行ったのじゃ‥‥そなたの云うよう、もし丹波福知山城主だったら、六月二日には本能寺の方へ攻め込んでいたかもしれんではないか」と思い切って言ってやると、えいはうなずき、「はい。ですから戻ってきてから、みな胡麻(ごま)で残らず成敗されてしもうたのでござりますよ」。別に慌てもせず、ゆっくりと返事をした。 「そりゃ、まこと‥‥か」。びっくりしたのは有楽のほうである。まるで枕から弾かれたように飛び離れ、血相変えて起き上がった。そして、少しとまどったように間をおいてから有楽は、「成敗されたという日は、もっと後ではないか。関白が明智の本城丹波亀山の朝日城へ養子の於次丸秀勝を城主に入れた後、時々、亀山に赴いて、明智の遺臣狩りをしていたそうゆえ‥‥つまりは、その頃の話ではないか。でないと、ぜんぜん話の辻つまが合わぬ」と、また根気よく説明を繰り返した。しかし、「いくら、仰せられても、このえいめが、白い結飯を貰った次の日に、父や兄を討たれたのでござりますよ。それに、私の家だけではござりませぬ‥‥なんせ、その時は何百という衆が、みな胡麻の峠で崖下の谷々へ放りこまれたのでござりますね」と言いながら、えいは横になると身体の方は素直に有楽を迎え入れていたが、口の方はあくまで自分の話でいつまでも有楽を拒み続けた。(頑固な‥‥)と、口には出さなかったが、有楽はすっかり呆れ返って愛想をつかした。(親や兄弟を失った孤児ゆえ、お連れなされと泣きつかれ、あの時最初からそれを承知で伴った娘)には相違ないが、あまりにも言うことが野放図にすぎて、とても話など信用しかねた。だから、(こりゃ、まことにとんでもない娘に、うかつに手を出してしもうたものだ。早めに手切れの銀でも与え、この屋敷からすぐにも暇をとらせたがよいかもしれぬ) と、そんなことを頭の中で考えながら、身体では有楽はえいを揺さぶっていた。 |
4 伏見の養斎島(ようざいじま)に面した舟入場に織田有楽も屋敷を構えていた。ちょうど藤堂高虎の邸の隣である。だから、伏見のそちらへ戻れば女達も多くいたが、大坂城内は言わば詰所のようなものである。だから中曲輪の敷地に五間ほどの建物しか与えられていない。よって人手も少ない。それを得たり賢しとばかり、えいはそうなってからというものは、もはや、おおっぴ
らに毎晩おしかけてくる。が、誰もえいの都合で通ってくるとは思わぬから、みな有楽が夜毎呼んでいると考えるらしい。古くからの家臣などは心配して、「あまり度を過ごされましては‥‥」などと忠義ぶって諌めに来たりする。たまったものではない。といって、(実は、あのえいめは親兄弟の仇をとりたいと訴えに来てるのじゃ)とも云いかねる。そこで、有楽は難儀してしまい、「所労」と大坂城内の増田長盛に告げて、伏見屋敷の方へと移ってしまった。
さて、伏見の有楽屋敷の裏手には福島正則。 その又裏が、加藤左馬助の邸と百軒長屋。そして向こうが豊太閤の築いた伏見城である。今は五大老の筆頭の徳川家康が住まっている。「あれなる伏見城右端の仰々しい砦のようなものは、なんじゃ」。久しぶりに戻ってきた有楽の眼にいかめしい新築が見えたから家来に尋ねてみた。「はい、あれは山岡道阿弥様のお邸にござりまする」と留守居の者は説明し、それに色々の風評も付け加えた。「山岡か。一瞥以来じゃな」と有楽は懐かしそうに叫ぶと、振り返って、「馬ひけっ」と命じた。逢いたい要件を思いだしたからである。舟入場の柳並木を抜け、伏見城のまわりを めぐって山岡邸の正面へ出ると、噂どおり鉄砲狭間がびっしりと鉄板の壁にとりつけられ、堅固な構えだった。しかし、山岡道阿弥はにこして出迎え、「よう渡らせられた。さあ、すぐにも内府様にお目通りなされませ。なんせ源五様は 天正十年六月に石山寺を出られると、すぐ尾張の鳴海原へ行って徳川勢の名主になられ、小牧長久手合戦でもお味方を申し上げたによって、内府様には、きつう源五様には、お目をかけておられまするぞ」と、こう切り出してきた。「内府様」つまり内大臣の位は、秀吉の後三年ばかり織田信雄が継ぎ、天正十九年の暮に豊臣秀次が一ヶ月だけ就任して関白になり、後はずっと空位だったのを、慶長元年から家康が継いでいるのである。 だから、その(内府に目通りしろ)というのは、これは山岡道阿弥と同じ様に徳川家康に味方せいとの意味らしい、と有楽は即座に考えた。なにしろ、この伏見城へ関東の家康が入ってからというもの、大坂方では用心して、伏見城の明治丸に面しては石田治部の邸。本丸に向き合っては増田長盛邸。同じく伏見城西丸に対しては長束正家邸と、みな五奉行がいざという時の用意に、自邸をもって囲んでいる。そこで、この山岡道阿弥というのは、当時まだ空いていた伏見城、松の丸にくっつけて、すぐさま石垣づくりに鉄砲狭間を切った砦のようなこの邸をもうけ、噂では万一の時には伏見城内の家康を脱出させる為に、自邸から抜け道まで作っていると云われる程の徳川方の味方である。もちろん兄の山岡景隆と共に秀吉から、瀬田と石山寺の城を追われた時から、既に 家康の息がかかっていて、蔭扶持は受けているから家来も同じ事だろう。 そこで有楽は、それを良いことにして、 「天正十年頃の調べじゃが‥‥」と心やすく相談した。すると案の定、道阿弥は大きくうなずき、「その頃の検地帳なら長持に五十位を蒲生氏郷の親父の賢秀が、金銀や道具類はすっぽかして、焼けおちる前に六月三日にみな無事に日野へ運びこみ、のち氏郷から関白殿下に献上。よって今は、こちらの伏見城の方へすっかりきてござる」と有楽の予想した通りだった。だから、気になることがあるゆえ、杉原を調べたいと言ったところ、「その杉原七郎左なら、わしの兄の景隆が放った瀬田城へ、すぐさま乗り込んできて押さえ居った奴ゆえ、当時の控えは、この儂の手許にもあるじゃろ、と思う」と近習を呼ぶと、黒い革貼の文筥を、その場へ持ってこさせて、蓋をとった。ひろげて見せられた綴りをみるなり、有楽は己が眼を疑うように、思わず息をのんだ。なにしろ、<丹波福知山城主 杉原七郎左>と、それにははっきり書き込まれていたからである。(天正十年六月以前に、丹波福知山の城に杉原)とは奇怪すぎた。考えられもしないことである。だから、「そんな莫迦な‥‥」。顔を真っ赤にして有楽は唸った。 そしていきなりいきり立ち、「安土城を撤退し坂本城へ行き、城を火屋にして自決した光秀の娘婿の明智秀満の実父は‥‥たしか丹波福知山の横山で捕えられ京へ送られて、七月二日に粟田口の刑場で、六十四歳の老躯を張付柱に架けられとる‥‥つまり、その実父が丹波にいたということは、これはとりもなおさず、明智秀満が福知山城主だったという証拠‥‥」。また、それの一年前の天正九年四月には、茶湯の津田宗及が、九日には丹波亀山で光秀のもてなしを受け、十日には福知山で秀満に泊めてもらったという確かな証人もいるのでござる‥‥」と、(決して左様なことはない。天正十年以前の丹波に杉原は無縁である)といくら強情に言いはっても、相手の山岡道阿弥は、にこやかに聞いてくれてるだけ で、(うん)とはうなずいてはくれない。 その上、改めて、また違う綴りを道阿弥がひろげて見せた個所にも、丹波亀山城主 明智惟任日向守光秀 近江坂本城主 明智惟日内明智秀満と書かれてあるっきりで、何処にも、その明智秀満が「丹波福地山城主」などとは出ていなかった。だから首を突出して覗き込みながら、思案投げ首で、「判らん‥‥不可思議千万」と、ついに弱音をはいた。そして道阿弥に、しょうことなしに微笑みかけ、往生しき って、「御教示、願おうか」。いまいまいしげに頼んだ。すると相手は、「有楽様の仰せは違ってはおらんが‥‥」と、まず前置きしてからが、「さて、さて、何事も鷹揚に考えられ、丹後は細川、丹波は明智と、国別にして考えられとるから、丹後国内に秀吉の家老杉原七郎左の領地が含まれていては『奇怪至極』なれど、仰せられとる天正十年六月二日の当時は、杉原七郎左は、まだ秀吉の家老にはなっとらん。当時のその役目の者は蜂須賀彦右と桑原治右の両名が秀吉の家老職で ‥‥後に秀吉の家老になった杉原や浅野長吉といった、おねねの方の兄弟衆は、禄高の差異はあっても、当時はまんだ、みな一列に信長様の奉公人。秀吉とは同輩の身分。しかも由跡(ゆうぜき)からいえば、その身一代勤めの新参者の秀吉や光秀、細川あたりよりは、杉原や浅野は、勝幡からの親子代々譜代の織田の家人。つまり、よし毒にも薬にもならん取り柄なしの者であっても、まあ、信長様にすれば、『新参者に比べれば、まずは安心はおける者だった』と思し召しなされていたと推察なされませ。 なんせ‥‥亀山朝日城を囲んだ笹山城や綾部城と共に福知山城は要害の一つゆえ、天正五年十月に攻め落とした時には掻き上げ城。つまり土累かための小城だったのを、明智秀満が三年がかりで石を集めて積み上げ、石垣を高く築き、やっと三層建てを落成させかけたところへ、安土からの命令で『杉原七郎左に引き渡せ』では、せっかく の今までの骨折りが、くたびれ損ゆえ、渡すのが惜しくなって、坂本城主の秀満が城代のように福知山にずっと居座って、まるで領主のように天正九年いっぱいは頑張っていたらしい‥‥と思われまするなら、わけも呑み込めましょう」と言った。「それで、だいぶ話がよめてきた。杉原にしてみると、『お沙汰は出ている事だし、 急ぐこともない。それに、まんだ修築中の福知山城を貰ったのでは、自分の方に工事の手間隙がかかって厄介ゆえ、まあ完成してから乗り込んだが得』と考え、旧城の播 磨の神吉城にいて、名目では天正八年から既に福知山城主でありながら、その身はまんだ移ってはおらなんだのじゃろか‥‥」。「いや、そうでもない。天正九年の九月四日。丹後の一色義有の旧領処分にあたって、 弓木、田辺、由良、落合、滝山、峯山の諸城は細川へ、八幡、熊野、久美、竹野は明 智へと配分が決まった‥‥よって光秀にしてみれば、新しく細川藤孝の本城のある丹後領内にも、四つも城を貰ったからには、延引していた福知山城の引き渡しを早々にせねばならぬ羽目とはなった。そこで、因果を含められた明智秀満は、かねて福知山城の天守に住まわせていた父を、新たに横山砦跡に新館を築き、そちらへ移してから、やっとの事で城は杉原七郎左に明け渡したものらしいと、思われまするな」。「して、また‥‥それは一体いつ頃までの事じゃろ」。穏やかな事でない事になったから、有楽は顎を突出すようにして訊ねた。「さあ、はっきりした事は判らんが、天正十三年三月五日に、信長様が自身で甲州出陣された折に、光秀も秀満も共に一応はお伴しとるから、その前の事じゃろうし‥‥ その三月十五日には、杉原家次は秀吉について、これは備中攻めに出陣しとるから、 福知山城を明け渡し、引き継ぎしたのは、おそらく天正十年の正月から二月までの間ではなかろうかと考えられまするな」。「すると、あの、六月二日は‥‥」。やけくそな声を有楽は張り上げた。 だが、道阿弥は首を振って、白くとびでた眉毛を揺さぶり、(判り切った当然な事を聞く)とでも云いたげに、苦笑したきりであった。そして、伏見名物の八木醸(こめかも)しの酒を運ばせてくると、「まず、一献」と有楽へ傍らの侍女をうながして、頻りに酌をさせようとした。だが、有楽にしてみれば、まさかと思っていたが、事の意外さに呑むどころの騒ぎではなかった。そう云われると、六月十四日に、安土城を引き払った明智秀満が、もし福知山の城主だったらば、六十四歳の実父もいる事だし、すぐにも丹波へ引き上げている筈であ る。そして、そこで父子一緒になるべきが人情なのに、彼は丹波へ死ぬまで行っていな い。ということは、つまり、(六月二日の時点において、明智秀満は福知山の城主ではなく、そこは杉原七郎左の城だったからである)といえる。(言い換えれば、福知山城には杉原が移っていたから、明智秀満は坂本城へ引上げ、 そこにいた己れの妻子と共に自決して果てた)という事になる。だから、そう話の順を追ってゆけば、すべて一切がっさいが有楽の頭の中でも、どうやら筋道を組み立ててゆけて、篭のようにも編み上がってしまう。(それならば、えいの話はありゃ、本当である。それを頭ごなしに押さえつけ、てんで話をきかなかったおりゃの方が、これではまるっきり女ごの腐ったような頑固者ということになるわい)と、いささか自分ながら阿呆らしくさえなってくる。「だが、丹波福知山の城主が杉原であったとしても、備中へ行っていたならば、あの六月二日の本能寺には何の関り合いもありゃせんじゃろ‥‥」。面白くもないから、そんなつっかかるような言い方を、つい有楽はしてしまった。「うん」。別な事を考えているような顔で、道阿弥は調子はずれの相槌をうった。そして、「わざと、にすぎる」。低い声だが、はっきりとそんな風に聞えてきた。「‥‥何が?」と、尋ねると、 「わしの兄の瀬田城へ杉原めが来おって、城受け取りし城代しくさったから、言うのではないが‥‥その時も仰々しく旗を並べて見苦しい程わざとらしかったそうだが、 今にして思うと、『前年、高松城を受け取り、城代していた』のを思い出させよう為の、わざとらしさがあった‥‥死んだ秀吉は、あの六月二日の変を三日の夜に耳にしたという。そして、翌日、毛利方と談判して清水宗治に朝のうちに切腹させ、すぐ出立したと伝わる。が、秀吉にしてみれば、杉原というのは兄婿にあたる者。普通ならばこれから天下分け目の決戦をしに行くのなら、ぜひとも心頼みに伴うのが人情であり常識でもある。それに杉原が天下に隠れもない武扁の評判者なら、毛利方に追撃されぬよう、惜しく も殿軍として高松城へ残留させねばならぬ筋合いも判るが、杉原の武勇など、我らはこれまで爪の先ほどもかつて耳にした事もない」。言われて有楽をさっと顔色を変えた。(たしか亡父の十郎兵衛は、先代の頃は織田家の御槍奉行で武扁者だったが、そういえば伜の七郎左はまさにその通りである) 「では、どうして杉原の存在がことさら人目につくように、備中高松の城の受け取り人に仕立てられ、その後も城番として、おそらく賑わしい程に旗を並べ、備中にいたのじゃろか‥‥そして、翌年、人目につきやすい安土の通行口の瀬田城をば、なぜ杉原が城代したのか‥‥しかも、ことさらに旗をたんと立てて評判になるような手口を くり返したんじゃろか。そこんところが今思えば不思議でならん。何故じゃろうかの う‥‥」。皆目わからなくなってきた。 だから、そのもどかしさに焦燥しきって有楽は、喚きた くなるのをぐっと堪えつつ、咳き込んで尋ねかけたのに、道阿弥は、「わっはっは」 と高笑いした。そこで、(何がおかしい)と有楽が顔色を変えて、きっと睨みつけたところ、「杉原七郎左は備中高松へは行っておらなんだのよ。『いない者を、さも居るように 人目にみせるため』と言いつけられた者が、苦労して、旗をたんと並べて高松の城を 賑わしく飾りたてた。だが、それでも心もとないというか、うしろめたいと思ってか、それから十ヶ月後、わしら兄弟が秀吉に腹を立て城を放ったら、これ幸いと乗り込み、さも『杉原七郎左は、城受け取りと城番は、毎度の事でござる』とでもいいたげに、仰々しく旗行列を湖面に浮かして、まるで祭礼のように派手に振舞ったのよ」と、続けてからから笑った。だから有楽は、(まさか‥‥)と思いながらも、(そうかな)とも迷って考え込んでしまった。 |
5 信長殺しの謎を解こうとする織田有楽にとっては、 (種々の経緯からみても、えいの話を出鱈目)とは、もはや言い切れなくなってきた。そこで有楽は、もしやと思って当人を伴い丹波路へゆき、まず、えいの父親の墓があるという奥部村の長安寺へ行ってみることにした。すると肝心な墓石は見当たらず、奥まった鈴懸の大木の根かたに、蔓草の絡みついた石柵の中で、皮肉な話だが杉原七郎左の墓を見た。五輪塔の碑文によると、行年五十四歳。天正十二年九月九日に福知山城入寂、とあった。もう十四年前に死んでいた。これでは、七郎左の墓と向き合っていても死人に口なしで、道阿弥の言うように彼が備中攻めへ行かなかったかどうかも判りはしなかった。なんだか、まるで、のっけから肩透かしを食わされたみたいで、せっかく訪れた有
楽は気落ちした。 北に聳える鬼城山(きじょうざん)を仰ぎ見ながら、来たからには、やはりここの寺の者に逢ってゆかねばと思った。なにしろ肝腎かなめな、えいの父の墓がどうなったか訊ねん事には、ここまで遠路 遥々来た甲斐とてなかったからである。秋といっても、大坂あたりでは人家が多いせいか、まだ温かいが、ここら辺りまで来ると、もう肌寒かった。眼下の川を走り下る船の帆までが、そう思ってみるせいか凍りつくようにぴんとはっていた。墓地から本堂までの間は耳門(くぐり)を抜けると、ずっと角石が埋けこんであった。そして、ここの住持の好みか、黄色い小花をぎっしりつけた松風草が、踏み石にそってひとむらずつ一列に植え込まれていた。花の匂いがとても強かったので有楽は思わず、「くすん、くすん」 と何度も嚔(くさめ)をだした。すると、えいが風邪でも引かれたら道中なので介抱が厄介だといわんばかりに眉をひそめて側へ寄ってきて覗きこんだ。まぁ心配もしてるのだろう。襟許をかきあわせながら、案内を乞うて客室へ通ると、少し寒気もおさまってきた。えいは、ここの寺へは昔も来た事があるらしく、あちらこちらを懐かしそうに見廻していたが、「佐藤四郎介の忘れ形見にござります」。方丈から僧衣が現れてくると、すぐさま畏まって挨拶をした。 だが、出てきた院主は代替わりでもしているのか、てんで話に覚えがないらしく、 会釈をすませてから、分厚い過去長を持ち出してきて、丹念にめくりながら、指で押さえて一枚ずつを調べ始めた。 そして、ようやく見つけだしたとみえて、さぞほっとした顔をこちらへ向けるものと思っていたら、眉を曇らせ、しばらくはうつむいたままだった。だから、えいの方が痺れをきらし、「たしか昔は小さな石塔が墓地の入り口のほうの樹のあたりにありましたが‥‥」。むくれて不服そうに顎を突出し、口早にうつむいて、頭しか見せぬ白衣の僧侶を責めた。「はい‥‥お城普請の時に、その資材に使うと、一向門徒の侍衆に襲われまして、墓石をあらかた盗まれた事がござりまする」。やっと顔を上げ、そんな言い訳をした。(ないものはしようがない。責めたところで始まらぬわい)と考えて有楽は懐から切銀の包みを取り出した。それで佐藤四郎介と伜の一郎太の墓石を、えいに代わって頼み、残りは回向料にと差し出した。すると、「これは、ご奇特なことで‥‥」と院主は、銀を押し頂くと俄かに機嫌がよくなって、しみの浮いた顔を突出してにこにこしてみせた。手を叩いて小坊主を呼び、「唐茶でござりまして、赤茶で失礼」と出しがらみたいな渋茶をすすめながら、えいに向かっても、今度は心安そうに、「胡麻で災難に逢われた衆の御遺領も、先年、新しく御城下の町割の節は、地子銭 (地代)免除の沙汰をいただき、皆様、たつきも立つようになられて、こちらへも時おり参拝に見えられるようになりましたぞ」と付け加えて、いかにも親しそうな口をききだした。 「ほう‥‥胡麻での災難と申すと」。つい横合いから有楽が口を挟んだ。「御存じでござりませなんだか‥‥この辺りは山の上で、高い土地柄でござりまするによって、年柄年中、やたらと霧が多うて、朝晩などは目の前に人が来ても判らず、つきあたる事さえも珍しゅうはござりません。特に殿田口(でんたぐち)から、下山 (しもやま)へかかる胡麻の峠は、川水がしょっちゅう上へ吸われて靄(もや)がたちこめ、崖っぷち続きの難所なのに、とんと、その切れ目の見分けがつかず、谷底へ落ちて、あえない最後を遂げられる者が少のうはござりません。なにしろ、あなた、野山には馴れとる狐でさえも、迷って落ちるほどでござりまするによってな‥‥」と言ったところで、院主は一息いれ、「こちら様の娘ごの親父様や兄弟衆も入れて総勢千にも近い武者衆が、何年前でしたろうか。合戦の戻りに、その胡麻の峠でありもしない夢のような道をみてしまい、前夜は一睡もせんと行軍し、その帰り道ゆえ、寝ぼけてもいなさったろうが、次々と吸い込まれるように一度にどかっと渓へ落ちてしまい、えらい死人がでたのでござりまするよ」と説明していたが、途中で口をつぐむと合掌した。 そして、そのまま仏壇の方へ向きを変え、遭難者の冥福を祈るように低い声で読経を始めてしまった。どうやら、あまり喋りたくない話らしかった。いくら待ってもお経は終りにはならなかったので、痺れを切らしてしまい、有楽は仕方なく、頼むことはもう話してあるし、それにこれ以上は、この僧から聞き出せそうもないと見切りをつけ、えいを促すと、そそくさと草履を履いて松風草の匂う山門を出てしまった。そして、「胡麻峠でそなたの父や兄が死んだのは本当らしいが、それは遭難といって厄にあったんじゃな」と慰めるように言ってみた。何しろ、それしかわからなかったからだ。 だが二人きりになると、えいは足をさすりつつ、あくまでもその話に首を振った。「先登の五人や十人は誤ったにしろ、なにしろ続けて何百も千に近い大の男が、糸や紐で引っ張ったみたいに手軽に次々と墜落しまするか。それに、福知山の者が落ちるなら、近在の綾部の者や、山家城の者も、同じ様に落ち、みな死ぬわけでござりましょう。だが、他所の衆は何事もありませぬ‥‥だいたいそんな危なっかしい胡麻峠は、土地の者なら初めから避けて通りませぬわいな‥‥つまり、福知山勢は、その谷間へ落として殺される為に、そこへ連れてゆかれたのでござりますよ」と、はっきりした口調で言ってのけた。「そりゃ、また何故じゃ」。妙な言い回しをすると有楽は聞き返した。するとえいは硬い表情に変わって、「すみませぬ」と頭を下げた。素直に詫びられると悪い気もしない。そこで、「あまり、つべこべ口数多く云うでないぞ」。有楽は、(この女もよく喋るのさえ慎んでくれるんなら、それでよいではないか)と 言いたかったのである。すると、「このまま、お側にいても差し支えござりませぬか‥‥よろしいのでござりましょうかね」。えいは上目使いで、低く遠慮ぎみに言った。もちろん、もっと他にも何やらうつむいたままでぼそぼそ口にしていたが、有楽の耳にはっきりと届いてきたのは、それだけだったから、急に哀れを催してしまい、「なにも、えいの生れ在所へ来たからと申せ、そなたをここに放りにきたわけではな いわい‥‥」。急にしおらしくなった女に満足して有楽は心配させぬように慰めた。そして、(ガミガミいわれると嫌気を感じるが、こない穏やかなら、ええではないか)とうなずいていると、えいは、ぐっと持ち上げるように顔を上げ、「なら、仇の片割れと判られても異存ないと仰せられまするのかね」と、こうきた。 有楽はびっくりしてしまい、「何を申すんじゃ」と狼狽した。しかし、えいはもう落ち着き払っていて、「はい、旦那様の殿の兄上様を討った仇なのに、本日は改めて墓をお建て下され、その上に莫大もない回向料を賜り、えいは恐れ多うて、身もすくむ思いで恐縮しておりまするよ‥‥」と、別に縮みもしないが、そんなふうに言った。云われた有楽は呆気にとられてしまい、「ちょと待ってくれ」。慌てて唾を飲み込み、眼を見張ったが、からかわれているとしか思えないので、「兄織田信長を討ったのは、そなたの親や兄だった、とでも申すのか」。(何をまた、妙な事を言い出したのか)と、苦笑して軽く睨むまねをしてみせた。そして砂埃がまだ白っぽく溜まっている女の肩へ眼を落し、それを指先で軽く払ってやった。 ところが、えいは昂然とした気負いだった顔を尖らせ、「はい、旦那の殿の兄上様を、誰が手掛けたかは、はっきりわかりませぬが、出陣する時に、めいめいに松の仕手を背負えるだけ持っていきましたゆえ、本能寺を炎上させた爆薬につけ火しましたのは、父や兄どもの仕業でござりましょう。それで仕事が 終えた後、口ふさぎにみな胡麻へ連れ込まれ、そこで災難に見せかけて悉く殺された のでござりますよ」と、えいは有楽に身体をまかせているという心安さからか、恐れげもなくすらすらと云ってのけた。松の仕手というのは、昔は城中でも夜の明かりとりに篝火(かがりび)にして用い たものである。やにの溜まった油臭い松の根株を、細く脈目にそって裂いたもので、<火附け木>と呼ばれ、今でも町では売られているものである。(‥‥それを、山ほど背負って出かけた。というからには、どう考えてもこれは初手(はな)から、もう放火のつもりで出かけて行ったのだ。そうなると、あの日は本能寺にしろ二条城にしても、みな火をかけられ大爆発をして吹っとび、それで全てが終わっているのだから、直接に火打ち石を叩いて点火したかどうかは別にして、佐藤四郎介達の福地山衆は、やはり紛うことなく敵の手先であったのか‥‥)。もはやここまで明かされては何も疑う余地もなかった。有楽もぐっと息を飲み込み、「‥‥して、そなたの父や兄どもを引き連れて行ったのは、誰じゃったぞ‥‥さっき寺で墓石を見た、あの杉原七郎左めか」と、せきこんで尋ねかけると、その有楽に、「いいえ、今の殿様にござりますよ」。まるで女童の様に唇を尖らせ、えいは判り切った事をと、そんな表情を顔に出した。「えっ、今の福知山三万一千石の城主、小野木縫殿助公知(おのぎぬいどのすけきんとも)か」。咽喉に、まるで餅でもつかえさせたように、有楽は顎の先をぐるぐる動かした。何ともいいがたい、名状しにくいものが込み上げてくるように、嘔吐を催してきたからである。 そして、火花のように、ちかちかと死んだ兄信長の顔が瞼に浮かんできた。(やはり、彼奴だったのか)という思いが、まるで矢のようにびしびし刺さってきた。(おのれ‥‥)と歯ぎしりすると、冷え冷えするぐらいにまで身体の芯が凍りついてきた。その感じはまるで、三つ又の槍の鉾先で突上げられ、ぐるぐる捻り廻されているような辛さで、有楽はもう、いてもたってもいられなくなった。 |
(私論.私見)