7章、木村弥一郎 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1161信長殺しは秀吉か11」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
木村弥一郎 |
1 天正十八年七月五日、北条氏の小田原城が落ちた。一万五千騎を率いて参軍していた織田信雄が秀吉と衝突した。そして、引き上げてく るといきなり、「間もなく髪を剃り落とし、号を<常真>とつけた」と四国の伊予から使いの者が有楽の許へ知らせをもってきた。(なんとかして織田の天下に戻そうと、必死もっしで頑張ってきたが、もはや秀吉の世はとても揺るぎもない。それで、とうとう、この八年間に信雄は精も根も尽き果たしおったのか‥‥)と憐憫の情を源五はもよおした。そして、三十三の甥が頭を丸めるなら自分もつきあってやらねばなるまいと、そんな気がして仕度を命じた。すると、「暑気払いには坊主頭が涼しゅうて、およろしゅうござりましょうのう」と上の伜の左馬助が言い、屈託なさそうに、「へへ‥‥」などと笑ってみせた。(こやつ、からかっている)と源五は思い、(どない気で言っておるのか)と、顔を覗きこんでやると、照れ臭いのか、さすがに立って行ってしまった。
昔、岐阜城で腕白をしていた頃と、てんで変わってもいない有様なのに、源五は、(従弟の織田三十郎長頼に比べても情けないやつ)見送りながら顔をしかめて舌打ちした。三十郎というのは、織田上野介信包が隠居した後で、一万六千石の知行地を継ぎ、 三年前の九州征伐の時は、第七陣の二月二十五日出発にあたって、蒲生氏郷の千七百に次ぐ千三百の軍勢を率いて出陣した異母兄の伜である。なにしろ兵力が岐阜城主の池田三左でさえ千名で、それよりも三百も多かったから、すっかり評判になって、「さすがは織田様御一門の事はある」と、みな舌を巻いて感心し、噂されている男なのである。信包の所も上の子たちに早死にされ、織田三十郎は、たしか左馬助[有楽の伜]と同年の筈だった。もちろん千三百の軍勢というのは、なにも三十郎の手勢というよりは旧織田の家臣で、今牢人の者達である。懐かしい<木瓜紋>の織田の旗印の下に集まり、「もう一度花を咲かせよう」と陣借りに集まってきて、それだけの多数になったのだろうが、しかし、ということは、それだけ三十郎には彼らの夢を託すに足る器量があるのかもしれぬ。(それに引き換え、あの息子めは‥‥)と思うと、源五はやり切れなかった。 なにしろ、昔から殆ど一緒に住まった事もない。秀吉の代になっても一万三千石の 旧領を安堵されている遠藤の実家へ、妻の佐紀が引き篭り伜どもを育て上げたから、いつの間にか母親そっくりの子になってしまい、源五を父として見るより、まるで他人よりも冷ややかな眼でいつも批判し、口をきくときには、決まってからかうような言い方をしては、それで得意になっている。というのは、なにしろ美濃あたりでは八年たっても、(二条御所から自分一人裸で逃げた弱虫源五)と、いかつい風評がいまだに根強く人の口に云い伝わっているものだから、伜どもは親として源五を見る前に、<噂の男>として、離れたところからいつも冷たく眺めているらしい。だから、何かの折にふれ、そうした目つきで扱われている己れを、時々ぴしっと鞭打たれるように、源五だってはっきり意識してしまう。 しかし、もちろん他人ではない。改まって、 「あの六月二日に、なぜ脱出したのか?」と聞いてくれるものなら、心底腹を割って自殺そこねた本当の事も話し、そして、<信長殺しの謎>を解こうと焦っている自分は、この伜どもに協力して欲しかった。だが、むこうはとてもそんな態度は見せもしない。なまじ源五の口から話せば、弁解じみて見苦しい泣言になりそうである。そこで全てが明瞭になってから、伜どもには打ち明けるつもりでいた。 それだから、八月に摂津の国の島下の領地から大坂城内の屋敷へ単身で戻ると、そこで伜どもにも気兼ねなしに、つるつると頭を剃ってしまい、改めて「有楽」と、師の利休居士から命名してもらった。利休の師にあたる北向道陳の書に、<有楽>という一軸があって、そこから名をとったのである。そこで、その掛軸をはなむけにと利休が贈ってもくれた。だから、それに酬るような恰好になって、「織田有楽」となってからは、針屋宗和、三好実休らと共に、利休の高弟として聚楽第の中の利休屋敷にあって専ら茶湯指南に精出してあたるようになった。終には殆どつききりだった。 すると十一月になって、同門の木村弥一郎の名が、また久しぶりに耳へ入ってきた。秀吉の馬廻り衆から大坂城奉行になり、一品親王の雑掌を町奉行が押さえたとき、出張って行って取り調べにあたって、それで大手柄を立てたというが、ここ一年ほどは忙しいのか、とんと茶寄合いにも姿を見せぬと思っていたら、「浅野長吉らと小田原御陣から、そのままお奥州の仕置きに行っているらしい」という話が噂されていた。そして、間もなく、「法外な、えらい出世をされた」と、みな羨ましそうに大層に評判しあった。なんでも、奥州の大崎、葛西の十三郡。つまり二ヶ国の太守に木村が取り立てられたということである。「人間の運とはわからぬもの。尾張伊勢二ヶ国の太守だった織田信雄様が坊主(ぼんず)になられ、その代り八年前には丹波亀山で雑兵ぐらいの卑しい身分に過ぎぬ木村殿が、今では東北の土地とはいえ、二ヶ国三十万石の太守様‥‥さてさて世の流転は、まこと厳しいもの」と、来る者がよくそんな話しをした。(とんだところへ常真も引き合いに出されるものだ)と、有楽は苦笑いしつつ聞き流しにした。 |
2 (丹波亀山の明智の旧臣狩りで捕えられ、すんでのところで首をはねられかけた時に、「武者が旦那の殿の命令で働くのは当り前のこと。云いつけられてから、本非(ほんぴ)や里否を考えわきまえつけてから槍を握り、敵の真っ只中へぶちこめるものかどうか‥‥もしそないな勝手は武者どもばかりなら、それを率いて、惧(おそ)れなが
ら、お手前様は出陣されますかや」と悪びれもせず云い放ったのに、関白様がぞっこん惚れ込んでしまわれ、膝をポンと叩き、「ものの道理とはいえ、よくぞ申しおった。今の心得で俺にしっかり奉公せい」と、特に助命し馬廻りにしたところ、誠忠無比。そこで奉行にさせ、ついに今度の二ヶ国の太守。人呼んで「今関白」とも云われるほどの出世頭になった)と、事情に詳しい者が、そうした木村の来歴を話した。 (出世譚は美談である。しかし仲良しや同僚が立身した話には、誰も妬んで喜びはしないが‥‥さて見知らぬ者の果報話は、そんな運が自分にもいつかは巡ってきそうで心愉しいものだから、それでつい羨ましがるんじゃろ)と源五も考えたが、誰もみな心は同じとみえ、破格な出世をして、今では名も豪そうに改めた木村弥一右衛門吉晴の噂は、どこでも持ち切りで評判だった。しかし、この反面、(親王の雑掌から六月二日の隠しごとを聞き出し、それが手柄になっての昇進にしては、一足飛びに十三郡、二ヶ国の太守というのは、あまりにも桁はずれのお取り立てでありすぎる) そねみか、やっかみの嫉妬かもしれないが、それに釣られ、(やれ丹波亀山城を秀吉方の堀尾茂助に渡した手柄だ)などともいわれた。 しかし、そうした噂よりも有楽は、(秀吉の故信長への忠義な心はよく判る。だが謀叛人の手掛かりを見つけたやつが三十万石の大名。明智の遺臣成敗に手伝った者は五万石づつ‥‥そんなに気前の良さをみせるんなら、何で、信長の弟のこの俺にたった一万五千石しかくれんのか。てんで公平を欠く。おりゃには片手落ちというのか、どうも理に合わん)と、自分の事をだけ、まず考えた。だから、心穏やかではない。そこへもってきて、同門で、やはり美濃飛騨の城主金森中務法印が同じ坊主頭の心やすさもあろうが、 「出陣して敵を屠って勝ち取ったものならよろしいが、この度の木村のやった事は、ただ浅野長吉殿の伜正勝殿と一緒に奥州へ行き、小田原へ降参にきた伊達政宗の会津黒川城を受け取り、八月九日に下向の関白様を迎えただけで‥‥挨拶なしゆえ没収された大崎義隆や葛西晴信の旧領十三郡をそっくり頂戴とは、なんぼなんでも、とんと話しがうますぎる」とやきもちやいての話しに、有楽もますます腹をすえかねた。 なにしろ、その同行したという浅野正勝は、北の政所とよばれる<ねねの方>の妹の子。つまり関白の秀吉にとっては甥にもあたるから余計に面白くなかった。(‥‥ものの八年前までは明智の下っ端武者にすぎぬ者を、なんで身内の者と同様に 扱われるのか)と、秀吉のお人好を心配するあまり、(木村めに、まんまと騙されかつがれておられるのとちがうか)と有楽は信長思いの秀吉の事をすっかり案じた。何しろ、(言い分が面白い。気に入った。助命する)と、秀吉がやり込められ仕方なく云ったにせよ、それはその場のものの弾みというか、思いつきだけの事にすぎないではないか。(‥‥それを巧みに足場にして、馬廻りから城奉行に出世すると、お役違いの町奉行管轄の囚人の中から親王家の雑掌を見つけだし、これを攻め落としかけ、親王謀叛の手証を握ったというが‥‥どうも、その辺がくさい)と、有楽は考え込んでしまった。 つまり、である。(なんで木村は、その親王家の雑掌を見つけだしたり、ぴたりとその悪行を見抜いてしまったか)という疑問である。まあ、「頭が良い」といってしまえばそれまでだが、そんな利口者だったら、(なんで十年前までは、うだつの上がらぬ下っ端武者だったのか)そこも判らなかった。だから、事によると、(木村は、その雑掌を前から見知っていたのではあるまいか)と、そんな想像さえ有楽はした。そして、「そんなら判るが‥‥」と呟きもした。 ある日、所用があって牢奉行所へ顔を出した木村が、何かの偶然で、昔顔馴染だった男を囚人の中で見つけだす。すぐには、ちょっと思い出せなくて、その身上を役人に調べさせると、誠仁親王の旧奉行人とわかる。そこで木村はギクリとするが、何気ない調子で、その囚人の身柄を渡すように請求してみる。牢奉行にしてみると、(たかが飲酒乱妨で上げられてきた軽罪人だから、木村が身柄を引取って釈放するのだろう)ぐらいに考えて渡してやる。ところが、木村は許してやるどころか、自分の方の大坂城の牢へと移してしまう。そして、雑掌に拷問を連日くりかえし、とうとう自白書に爪印を無理矢理させると、あとは、もう喋らせる事もないし、又、余計な事を話されても困ると密かに処分する。だが表向きは誰かを身代わりにたてて、これを生き証人という事にしておき、「恐れながら‥‥」と、木村は秀吉をつかまえ、まず証拠の雑掌の口がき書を見せる。なにしろ、主君の信長を追慕するあまり、明智の旧臣どもさえ見つけだしては殺させるほどの律義者の秀吉だから驚いて、「これはまことか‥‥」と、主君の仇が、人もあろうに誠仁親王と判って、愕然としてしまい、石田三成の兄の木工頭に調べさせた結果、それが事実と判明すると、「この者が殿下の命令で信長殺しをしたと云っておりまするぞ。いかにおわします」と、下の御所まで、木村が仕立てた身代わりとは知らず囚人を伴って行き、それを曳き出してみせて、秀吉は親王を難詰する。 親王様の方も雑掌の顔などは覚えてもいないから、生き証人を出されては、ぐうの音も出ない。ついに七月二十四日に切羽つまって自決をする。秀吉にすれば、見事に主君信長の仇をうてたことになる。そこで、「ようやってくれた。この恩には、きっと報いてやろう」という事になって、おそらく秀吉は感激して木村の手をおしいただかんばかりに懇ろにねぎらいもしたのであろう。それだからこそ、その後、身内の者と同様に扱い、まるっきり譜代の腹心みたいに 目をかけ、そしてその結果が一足飛びに二ヶ国の太守という、破格な取り立てという事になったのだろう。(だが、誰も気づいてはおらぬが、おりゃには判る‥‥その木村も実はその雑掌の一味だった事に、こりゃ間違いあるまい。なんせ同じ穴のむじなでなければ、八年もたって、なんで木村がその雑掌の顔をしかとおぼえておるものか)と、有楽は一人で憤慨した。それから、(自分が信長殺しの一味ゆえ、雑掌を見つけだすと、秀吉の権力を使って、まんまと逆手をはって、親王殿下に詰め腹を切らせ、当人の木村だけは良い子になって生き残り、おまけに望外な出世をしくさった。だが、それくらいの事を何故、秀吉ともあろう男が気づかないのか。やはり主君信長の仇討ちともなると、あれほどの男でも感傷に溺れてしまい、眼鏡が曇るものなのか)と、歯がゆがって、むしょうに癪でたまらなかった。なにしろ有楽としては、その昔、越中の城で、「又聞きゆえ、しかとは申せぬが、今、秀吉公の馬廻り衆の木村が、以前は明智方の武者で、本能寺を囲んだ一人だった筈」と佐々成政から密かに耳打ちされ覚えているだけに、これは何とも腹の虫が納まらなかった。 |
3 奥州の伊達政宗が、去る六月五日に小田原攻めの陣中へ出頭した時、遅参したからと秀吉に叱られ、底倉の湯に押し込めになった事がある。その時、政宗は悪びれもせずに、「陣中の利休居士に茶道指南などを受けたい」と、前田利家に申し出た。すると、「それならば、利休門下の木村に頼みなされたらよい。取り持ちをしてくれましょう」。利家は、すぐ箱根早川の上方口に詰めていた木村を伴って、政宗に引き合わせたと
いうが、八年前は陪々臣で足軽大将以下の平の徒士で、馬乗りの身分でもない軽輩の雑兵のごとき者が、いくら時節とはいえ、加賀宰相と云われる利家あたりと同格の付き合いとは、全くおかしすぎる話しだと、その当時も陣中で蔭口はされていた。そして今度の奥州へ十三郡を貰ったのも、もとはと云えばその時、師の千利休を政宗に取り持ったのが縁で伊達と懇意になり、巧みにそれを利用して、(『陸奥の方面は、よう知っておりまするで‥‥』と偽って、城受け取りの検使に行き、まんまとあの豪気というか大気の関白殿下と瞞着しくさったのだ)と妬んで、公然と悪態をつく者さえ現れた。有楽も同感だった。
(‥‥秀吉を欺き、師の利休まで踏み台にして茶湯を出世の道具にするとは、まこと けしからんやつ。どうあっても正体をつきとめ、かねて念願の本能寺の変の真相も、
この際明らかにさせよう)と、有楽も決心をつけた。 そこで、同門の蒲生氏郷が、前に伊達政宗の居城だった会津の黒川城を賜って、転封されたばかりなのを幸いに、まずそこへ顔を出して、木村に探りをいれ、なんとか直接逢って、うまくその尻尾を掴みたいものと計画を立て、師の利休にそれとなく、「会津へ行って、久しぶりに忠三郎に逢ってきたいが」と申し出てみた。今は羽柴忠三郎と名乗る氏郷は、江州日野別所から出た父賢秀以来、兄信長に仕えた男で、有楽とは幼児よりずっと仲が良く、この利休門下へ誘引してくれたのも彼で、 いわば兄弟子にもあたる仲であった。なにしろ、人徳のある男で、伊勢松坂の城主になった時も、日野から別所衆が千戸 も集団で移住してきて住み着いたと云われるくらいである。「蒲生殿も、このたびは会津の他に、岩瀬、安積、白河、石川の緒郡を賜って、すっ かり大身になれたから、手前も新茶など桐油紙にくるんで届けてもらいましょう」。利休も気に入りの氏郷の事なので、嬉しそうにとび出た長い眉毛をふって喜び、「ついでと言っては悪いが、このたび、あちらで出世した木村弥一右衛門にも、同門のよしみで新茶を一包み、御厄介ながらお頼みしたい。直に届けるのも大儀ゆえ、向こうへ行かれたら、氏郷の家人にでも、言付けをなされたらよい」と師の口にも、やはり木村の名が出てきた。(これはうまい具合に木村と直接に面会できる口実ができた。大阪城で見かけた時は、いつもつんとすまし返って何も腹の底は見せんような感じの男だったが‥‥奥州へ行っては、さぞ京坂の話しも懐かしかろうし、また人も恋しかろう。そこを利用して話を引き出せば、彼奴がなんで秀吉をごまかし、まんまと腰巾着みたいに取りついたかは、すぐにも判るだろうし、あの肝腎かなめの親王家の雑掌との繋がりも、事によったら、あるいは自慢話に、つい自分の口から洩らしてしまうかもしれん) 有楽は小躍りするぐらい勇みたった。 だが、ばさら茶に用いる紅い唐茶は、舶来も使うが、また近頃は栂尾や何処でも栽培している。しかし、<わびの茶>になってからの緑茶は、別所以外での栽培は禁じられ、「お止め茶」になっている。だから、宇治別所をはじめ、久能別所と頭陀寺別所が支配す る駿河の清水とか。村山七党本貫の別所で名高い狭山といったように、茶所は場所が決まっている。それだから、「まあ、せっかく会津まで持ってゆくからには、なんとか摘みたての香りのよい新茶 を‥‥」などと云っている裡に、少し日数がかかりすぎ、(では、明日あたりは奥州へ出立しよう)と有楽がようやくの事で準備の終わった日。慌ただしく浅野正勝からの早馬伝騎が米沢城から大坂城へと駆け込んできた。驚いたことに、「奥州に一揆でござる」。たちどころに噂がひろまった。 |
4 (前もって降伏の使者を出さなんだ‥‥との理由だけで、すっかり所領を召し上げられ、おまけに家来達も追放されたから、まず大崎義隆の本城だった宮城の加美郡の中新田(なかいだ)城の周りで騒ぎが起きた、というのである。これは、帰農していた大崎の残党が、まず伝馬役人の人夫の割りあてがひどすぎる と一揆になって、まず五百人あまりが城へ押しかけてきた。そこで、城から鉄砲で撃ち払い、頭目三十人を召捕って、見せしめのために城門大手先に張付にして騒動を落着させた)というのが第一報で、それで一揆はすんだのかと思ったら、その次の日の昼下がりになって、「会津の黒川城より蒲生様早打ち着倒」とも伝わってきた。そちらの方の知らせでは、一揆はそんな手軽なものではなく、(葛西晴信の旧領だった岩手の胆沢、気仙、磐#の三郡が大崎方の張付に呼応して立 ち上がり、やはり葛西の旧臣達が鋤鍬を捨て、隠してあった弓、槍をもって集合。これに土地の百姓が従って、もはや頭数も数千名に上っている。このため、残りの郡もそれぞれ旧臣が横に連絡しあって、大崎葛西の十三郡は一丸となって新領主の木村弥一右衛門に対して挑戦している有様)と詳細が知らされてきた。 一大事勃発である。 「へぇ‥‥」。有楽は面食らってしまった。そして、(愚図ついていて旅立ちが遅れてよかった。世の中は何が幸いになるか判らんわい) しみじみと考えさせられた。(ものの四、五日も早く奥州へ行っていたら、今頃は一揆に取り囲まれて、どんな憂き目にあっているか判りはしなかった)と、最初はひんやりしてしまった。だが、是非とも逢ってその口から例の六月二日の経緯を聞き出そうと思っていた木村弥一右衛門の新領地が、これまた一斉に暴動では、(出立が遅れたという事は、とんでもない手違いで、えらい大失敗。つまりしくじりではなかったろうか)とも心を責めた。たとえ、一揆に囲まれ自分の身が難儀をしようとも、聞くことはちゃんと耳にしておかぬと、取り返しがつかぬのではあるまいかと心配になってきた。(おりゃが死に損なって、おめおめ生き恥をさらしとるのは、一体何のためじゃ)と考えた。(かくなってはやむを得ない。由たとえ暴動中とはいえ、奥州へ行って木村を探し出し、どんな事があっても彼の口から兄信長を殺した下手人が、やはり親王様であったのかという、確かな証拠を自分の耳でちゃんと聞き出さねばならん)と源五は一揆に取り巻かれてもよいと覚悟をした。 そこで所領の島下へ使いを出し、五十騎ほどの供廻りを用心して呼び寄せて出立の仕度をしていると、「去る十月十六日の早朝。一揆の者どもは岩手沢城をば落として占領。続いて、木村弥一郎伜の清久の住む古川城をも乗っ取って陥れ、翌十七日には、もと葛西晴信の居 城だった登米(とよま)を包囲して、目下城攻め中」 と、急使が大阪城へ知らせを持ってきた。「えっ‥‥」と、有楽はせっかく仕度をさせたものの、迷ってしまった。というのは、その葛西の旧城こそ、いま木村の入っている十三郡の本城と聞いていたからだった。既に万余に増えた一揆である。それが何重にも包囲している登米城へ、わずか五十騎の武者をつれたぐらいで(血路を開いて突入できる)とは、とても思えなかったか らである。(‥‥どうしたらよかろうか。こちらも死ぬ気で押し入ってみようか)とも覚悟はした。 だが、向こうは例年になく雪が深く、もう人馬が埋まるくらいの降雪で、土地者の一揆[側]は馴れているからよいが、こちらの者は凍傷にやられ吹雪に悩まされ、それで負けているだろうとも模様が伝わってきた。そうなると、十月十七日から城攻めされている木村が、かれこれ二十日の余も、とても持ちこたえていられるとは考えられもしない。しかも、その上この大坂表から今から出かけていけば、どうしても奥州までは半月はかかる道のりである。(もはや間に合うまい‥‥こりゃ手遅れじゃった。せっかく仕度はしたが、行くだけ無駄か) がっかりしていると、伊達政宗からの急使も、やはり(木村父子、目下、生死不明)と、それとなく知らせてきた。 それによると、古川城を出た伜清久が佐沼城へ駆け込み、それを救おうと登米城から父の弥一郎も手勢を引き連れて乗り込み、そこで父子もろとも一つ城で取り込めら れてしまったというのである。「彼奴は、関白様に馴れ馴れしゅうくっついて、ご機嫌とりばかりしとったから、大層な身代にも見えとったが、これまで合戦には出た事も殆どない。だから、小田原陣へ来て岩村城攻めに向かった時も、足軽小者を入れて百か百五十ぐらいの手勢しか持たなんだ。それがそのままで奥州へ行って十三郡拝領。一郡に城が二つとみても二十六城。すると木村は二本差しの士分なら誰彼なしに城主にさせ、それに足軽小者の四人ぐらいをつけ、各城を守らせたことになる。だから、昨日までの足軽が俄か家老になり、小者が御奉行様になって、わけもわか らず威張り散らす‥‥これでは牢人した地侍が怒って謀叛するのも当り前ではないか。天罰てき面じゃ。身の程知らずにも程があるわい」と、初めから木村の異例の抜擢をあまり快く思っていない飛騨城主の金森法印が、蔑んだ顔で、そっと内情を教えてくれたりした。有楽もなるほどと思った。そして、それまで羨ましがって噂しあった者達までが、「木村弥一郎は伜もろとも殺されたそうな‥‥分に過ぎた高望みは、やはりかえって身の破滅じゃな」と、あべこべに罵り出すような始末になった。すっかり有楽は気落ちしてしまった。 |
5 天正十九年(1591)正月二十六日。有楽は秀吉に伴われて聚楽第の利休屋敷の二畳の小座敷へ通されていた。月山の雀の絵を床の間にみて、「ほう、この前のままじゃな」。秀吉は機嫌よさそうにうなずいた。この十三日に、やはりここで秀吉を正客、前田利家、施薬院全宗を相客として催された後だったからなのである。しかし、四日前に大和の郡山城で秀吉の異父弟の大和大納言豊臣秀長が亡くなり、その葬儀を終えて、やっと今日戻ってきたばかりの利休は、目にみえて痛々しいぐらい疲れを見せていた。落胆し切っていた。だが、その秀長の話しによると、やはり秀吉も泪ぐんでいた。しかし、いよいよお茶席が始まり、桐紋の茶釜、わげ水差し、尻ふくらの茶入れと茶具は尋常だったが、やがて差し出された茶碗を見て、有楽はどきっとさせられた。なにしろ高麗ものや唐土が好きな秀吉に、どうしたわけか、国産の楽長次郎焼きと呼ばれる<かわらけ衆>の手になる茶碗。しかも漆黒のうわぐすりをかけた黒いものだったからである。(これはいかん‥‥師の利休はあてこすりに、わざと黒碗を使うてござるわい)と有楽は思った。秀吉も、(おのれ、秀長が死んだからといって、何も黒い碗で呑ませようとは、わざとこの関白に逆らうつもりなのか)と、実に厭な顔をした。しかし、有楽がいたせいなのか、その場は事を荒立てずに、作法通りに秀吉もその椀で茶は喫し終えた。しかし懐石料理には箸をつけず戻っていった。
その翌月の閏の正月をおいて二月の十三日。秀吉から利休へ、いきなり追放令が出された。師の利休は直ちに聚楽第の利休屋敷を出されて、淀川から水路、堺の自宅へ戻っていたが、また呼び出しを受けて上洛。二十六日に雨上がりの葭屋町の邸へ着くと、その翌日から上杉景勝の家来千坂兵部ら三千人に厳しく包囲監視されることとなった。そして、一日たった二十八日。朝からの土砂降りで春雷が轟きわたり、大粒の雹が礫打ちのように烈しく降りかかる中で、利休門下だった上杉勢の足軽大将共が密かに裏口から入って、「賜死の模様でござる。御切腹の用意を」と知らせながら、師と最後の別れをしたと云われる。処刑の表向きの咎は、(柴野の大徳寺山門に利休が木像を乗せ、その足を諸人の頭の上に位置させたのが、まこと不届至極)ということで、その像を引きずりおろし縄掛けして一条戻り橋へ運び、獄門台を拵えて、師の生首の上に載せて立たせたから、まるで木像が師の利休の頭を踏んづけているようだと珍しがって、心無き連中に評判されたものである。 なにしろ、かつて九州の大友宗鱗でさえも歎息して、「この聚楽で関白様に直々にものが云えるのは利休一人だけではないか」と云われた程の権勢の利休が、何故こんな罰を受けるのか、てんで判らぬ者が多かったから、(利休の末娘に太閤様が惚れなされ、袖にされたから、それで叶わぬ恋の意趣ばらしに仇をなされた)と、馬鹿げた噂までまき散らされた。評判とはつまらぬものである。「とうとう<わびの茶>と<ばさら茶>の衝突もゆくところまで行ってしもうた」。金森法印がまこと慨歎に堪えぬように云った。何しろ死んだ秀長の父というのは、秀吉の父弥右衛門の後釜に入った者だが、<築阿弥>の名で知られるように別所系の同朋衆には相違なかった。この同朋衆の先祖というのは、源氏(みなもと)の昔に白旗を立てて以来、ふつう<白>と俗称され、自分達でも「仁田のしろ」とか「武田のしろ」と、誇らしげに名乗っていたものである。だから信仰も白衣をまとって信心をなし、反対派の黒染めの衣を纏う連中とは相対していたものなのである。それだから秀長も、己が立場をはっきりさせ、白衣信仰を譲って、茶筅衆や、ささら、かわらけ、いかけの同族を庇ってきたからこそ、<わびの茶>も、信長の頃と同様に栄え、能阿弥の流れを汲む千の宗易が「利休居士」として堺の皮屋の紹鴎の、門下である宗達、宗及、宗仁らと手を携え、足利家伝統の<ばさら茶>を押さえつけ、 唐茶の類を、「黒茶」と蔑んでこられたのである。 ところが、秀吉は関白になった頃から、重々しい口調で今までとは事変わり、「我が祖父は萩大納言といい、宮中に仕えていられたが、心よからぬ者に讒言され、当時三歳だった今の大政所と共に遥か尾張の国へ流されて亡くなれた。そこでやがて、その成人した大政所は京へ呼び戻され、御所に仕えているうちに天皇のお胤を宿して、また、尾張の中村へ戻って、そこで一子を産んだ。それが‥‥つまりこの儂なのじゃ」と、つまり弟の秀長は白系でも、自分は畏れ多くもれっきとした黒系の尊い血筋で、しかも天皇の御子であると言い出し、(今は亡き後奈良天皇こそ、まことの父であった)とはっきり明言しだした。だから、仲に入って、俄かに公家の出だと言い出した秀吉を押さえていた異父弟の秀長が死ぬと、その均衛が全く崩れ去ってしまったのである。 まず、その一つのあらわれが利休との衝突だった。 つまり、黒碗で秀吉に茶を飲ませたのも、利休の宣戦布告の心づもりらしく、秀吉はそれに対し、侮りを仕返しするために死を以って報いたのである。そこで、追放された時も、同朋仲間の前田利家などが心配して、使者を密かによこ し、(大政所はもとより、北の政所もれっきとした神信心の御素性の方様ゆえ、必ずや良う取り計って下さる。よって、そちらへ縋られるがよろしゅうござる)と云ってよこしたりした。 ところが頑固にも師利休は首をふって断り、とうとう切腹にまで追い込まれてしまったのである。 翌、天正二十年の五月の末に肥前名護屋城へ、征韓のため滞在中の秀吉は、持参した黄金の茶室へ博多商人の神屋宗湛と共に隠居中の信包も招いて茶を振舞ったが、その席でどうしたわけか口をつぼめて、「ありゃ、しょうのない役立たずじゃ」と有楽の事をけなしたそうである。すると、この事を年甲斐もなく喜んだのか、親切で気遣ってくれたのか、そこは判らんが、話された信包は早速それを手紙で知らせてよこした。(なんで、おりゃの悪口を云うんじゃろ)と、咄嗟には有楽も呑み込めなかった。秀吉からそんな事を云われる覚えは、これまで別に何もなかったからである。そこで師利休の長男紹安(じょあん‥‥のち道安)を密かに匿っている飛騨三万石の金森法印だけには、「何故茶席で、そんな話が出たのじゃろ」と腑に落ちぬまま尋ねたところ、「関白様が最後に利休居士に逢われた時の相客の介添はお手前様‥‥つまり有楽様ではなかったのか」と逆に言われてしまったのである。 そんな返事をされたから、有楽を当時をあれこれ追憶してみて「うむ、左様であったのか」。やっとの事で思い当たる節が出てきた。(秀長が亡くなってまだ四日めの慌ただしい時に、秀吉がなんで、わざわざ自分を伴い利休居士の許へ行ったかは、あの時、秀吉自身も内心では<わびの茶>対<ばさら 茶>の問題に当惑しきって、弟の死後も、なろうことなら、何とか円満にいくようにと、そんな肚づもりで妥協を求めに行ったのではあるまいか‥‥)と、そんな気がしてきた。しかし、その時、相手の利休の方は黄金の茶室を秀吉が拵えてからというものは、すっかり臍を曲げていて、わざと嫌味たらしく、(殿下はどうせ公家の血脈でござりましょう)と、あてつけがましく、出さいでもよい黒碗で茶をたてた。つまり厭がらせを故意にしてみせたのである。といって、もちろん利休居士とて正面きって挑戦する程の肚でもなく、まあ古女房の僻みにも似た、すねた仕草だったのでもあろう。だからこそ、(‥‥この自分がこうして相客にわざわざ誘われて来ているのは、<わびの茶>を育成した信長の弟のせいらしい‥‥茶道の者としては、たとえ利休でも気兼ねすべき筋合いの信長の弟という身上だから、そこを見込んで秀吉も助け人に伴ったのである。つまり俺は両者の仲に入る仲介役、まあ仲裁人の役割なんじゃ)と、その時、気づけば良かったらしい。そうすれば、利休に黒碗は引っ込ませてしまい、まあ何とか円滑に折り合いがつくよう取り持ちができたろう。そして、<わびの茶>と<ばさら茶>が仲良くできる途 を二人の仲へ入って纏められる方策も立てられたであろう。それなのに、迂闊というか、血のめぐりがあまりよくなかったのか、有楽はとんとそこに気づかなかった。だから、自分からは何も喋らず、もっぱら当日は相づちばかり打っていた。だから秀吉もあてが外れて仕様事なしに、それから後は弟秀長の思いで話などし、茶を濁して戻って行ったものらしい。 そして閏の正月はそのまま重ねて見送り、やがて二月に入ると我慢できかねた秀吉が、(楯をつく利休は怪しからん)と追放し死なせてしまったものの、表向きには誠の経緯も発表できぬまま、人目についていた大徳寺の木像などをことさらに取り上げて、それを咎めにと結びつけたのではなかろうか。(あの時、気がつけばよかったに、どんな事をした‥‥どうしておりゃ、いつもどじ ばかり踏むんじゃろかのう‥‥)と有楽は自分に愛想をつかして、げんなりした。死なせなくてもよい、師の利休居士を、己れの粗相で切腹させたように悔やみきった。そして、(こうなったら意地にでも<わびの茶>を守りたて、秀吉の鼻をあかしてやらにゃ)と、それまでは、(兄の故信長へ忠義を尽してくれて、出世した甲斐性者)と崇めるような気持ちだった秀吉を、「利休の仇」といった眼で、突き放して眺めるようにもなったのである。 |
6 肥前名護屋の陣中で有楽が迷惑したのは、何といっても足利昌山の陣場に隣合わせた事だった。昌山とは、四年前に帰洛して出家し、今では法名を道休とも号する、先の十五代将軍家の足利義昭の事である。さて、秀吉からは僅か一万石しか知行を貰っていないのに、昌山こと義昭の陣場は 三千五百の兵がいた。それに引きかえ織田の旗印を靡かせる有楽の方は、たった百名しかいないのである。何が癪に触るといっても、これぐらい劣等感を持つことはない。有楽としてはまこ とに厭な感じを味わされた。だから、隣陣屋の赫ら顔のでっぷり肥えた男を、時たま垣間見るたびに、有楽はその日は一日中不快で、横になってもそれは直らなかった。 天正十六年の聚楽行幸の飾り物に京へ戻ってきたこの男は、<太皇皇后、皇太后、皇后>の三宮に次ぐ<準后(じゅんこう)>の尊い位を御所から賜った。古来、この待遇を受けた者は、人臣では南朝の柱石の北畠親房と、この度の足利義 昭の二人きりだそうである。だから、世間の人々は今となっては口を揃え、兄の信長 が死んだのをよい事に、「帝位を纂奪せんとした織田信長の野望を見抜き、諸国に勤王の師を求め、あくまで も皇統を護持した足利義昭こそ、かつて後醍醐帝を守った北畠公にも劣らぬ史上空前の大忠義者」と、いい加減な出鱈目な事を言いふらし、大した人気だった。だからこそ、三千五百も「陣場借り」と称する無禄の牢人どもまでが、その人数に加わっているのだが、それにも増して有楽が我慢できぬのは、土地の猟師や百姓どもの手合いである。彼らは義昭が「古今絶無の忠君愛国の権化だ」という噂に心酔しきっているとみえ、信心するみたいに毎朝、暗いうちから、「献上でござります‥‥」と口々に呼ばわりながら寄ってくる。 この名護屋に諸国大名衆が集まって物価も高くなっている事ゆえ、他所へ持っていけば高値に売れる魚や野菜を、只でみんな運びこんでくるのである。もちろん嫉妬するつもりでもないから、それもよかろう。だが、構えの小さな隣の有楽の陣屋を義昭方の勝手口とでも間違えるのか、殆どが紛れてこっちへ入ってきてしまう。「違う。足利殿はお隣りだ。こちらは織田様だ」と番衆に教えられると決まってどいつもこいつも、「すみませぬ」と礼を云うかわりに、「なんだ、こっちは悪いやつの方かや」。口々にみなこうである。狭いから、よく聞えてくる。(‥‥足利義昭は善玉で、わが織田は悪玉なんじゃろか)のべつ幕なしに毎朝これをやられては、源五としてもたまったものではない。(もし世間で取り沙汰するように、兄の信長が御所に対して不逞な考えがあれば、それはとうに実行できるだけの権力はあったのだ。だが、そんな真似はしていない。こりゃ、とんでもない濡れ衣だ。誤解も甚だしすぎるというもんだ。なんで織田一門が悪いんだ) すっかり有楽は気鬱になってしまった。 そこで寝ながらしみじみ考えてみると、(天正十一年、つまり本能寺の変の翌年に足利義昭の側室春日が上洛した。その時から秀吉は頼まれたからと金銀の仕送りを始めた。そして天正十三年、義昭の猶子(ゆうし‥‥名目養子)になるのを拒まれると、関係を断ち、前関白近衛前久の猶子になって関白になった)と世間ではいうが、その無関係になった筈の義昭が、近臣一色昭秀を鹿児島へ遣り、 島津貴久と秀吉方の和平の橋渡しを続けていた。そして翌天正十五年正月には、一色昭秀が当時の九州の事情報告に、密かに聚楽第まで秀吉に逢いに来ている。だからなのか、九州征伐に秀吉が乗り込むと、四月二十一日には島津は昭秀を仲に 入れ、つまり足利義昭に縋って降伏してしまった‥‥こうしてみると、義昭が、かつての猶子の話を秀吉にすげなく断ったというのも、 どうも本当とは思えない。まこと何やら、臭い話である。(秀吉の望みというのが、遥かに将軍職よりも上だったから、つまりは、その恰好をつけるために、わざと義昭に養子を断らせたのではあるまいか。つまり、二人はどうも前から共謀していたのやもしれぬ)という、疑問だった。 そうなると妙なもので、秀吉への気兼ねも出てきた。うるさくても隣の義昭には、有楽としては文句をつけに行けもしなかった。だが、考えてみると、あまりに巧く話ができすぎである。(‥‥足利義昭が世上で取り沙汰される程の勤王の士なら、何故、秀吉が天正十四年七月二十四日に誠仁親王を生害させ、畏れ多くも先帝にさえ自殺の覚悟をつけられるような真似をした時、これを阻止する義兵を、足利義昭は挙げなかったのか‥‥信長には辛くあたり、秀吉には甘い。そんな不公平きわまる足利義昭の誠忠無比なんか、 あるもんじゃないわい)と有楽は憤慨した。それに、疑えばきりのない話だが、天正十年六月の時点に遡って考えてみると、備中倉敷から右手の山へ入った所の高松城を秀吉は攻めていたのだし、左手の海へ向かっていた鞆の在に義昭はいたのである。二人は約二ヶ月ぐらいの間、呼べば答える程でもないが、きわめて至近距離にいた事になる。そして、前に義昭が二条城にいた頃、秀吉は京所司代として顔見知りの間柄だし、その後、毛利方へ派遣されて談合に行っていた頃には、既に義昭は毛利領の備後にいたから、そちらでも互いに逢ってもいた筈である。つまり、ずっと十数年にわたって繋がりのあった二人である。だから、その天正十年の三月十五日から六月二日までの間、秀吉と足利義昭の双方で、全然知らん顔でいたとは、これは到底考えられはしない。 何しろ、表面では、 (六月三日に毛利と秀吉が急に和解したのは、安国寺恵瓊の取り持ち)ということになっているが、実際は安国寺ではなく足利義昭の仕業で、ただ見せかけ だけが安国寺恵瓊であろう。そもそも安国寺というのは、その以前から毛利と秀吉の周旋人として知られているが、彼は鞆へ天正四年から移った義昭を盛り立て、昔、足利尊氏の泊まった小松寺へ住まわせ、浄観寺へ移ってからも己れの寺の安国寺を「公方接見所」にして、自分が到来物や貢銭を蔭で取って儲けていたような男である。だからうまい仕事になるのなら、義昭に代わって表向きの名目人になったのかもしれぬ。(‥‥三月から六月まで秀吉と義昭は二人で何の共同謀議をしたか不明だが、現実と して六月二日に兄信長が殺されてしまい、そして僅か十日目に秀吉が仇討ちの戦をした事になって、一年たたぬうちに彼がとってかわって天下様になってしまった‥‥ そして、兄の信長が、『未来永劫ともに再建を許さぬ』と命じた延暦寺さえ、秀吉はさっさと復興させてしまい、かつて兄信長が『悪党』と読んだ義昭が、十年たつと 『正義の味方、殉忠の公方よ』ともてはやされ、『準后』と崇められて、あべこべに信長が今や『悪人』なのである‥‥こんな馬鹿げた事があるもんか) 目まぐるしすぎると、しみじみ有楽は唸らされた。 しかしである。 義昭と並べて陣場割をされているのに、こりゃおそらくは、(‥‥旧怨はもう水に流して、供に仲良うせいやい)という秀吉の思いやりかもしれぬと、時には考えられた。だから有楽は秀吉に気兼ねして、おりをみて顔を出し、義昭には挨拶もしよう。そして、うまくゆけば昔、石山寺の尼に聞かされた<埋火(いけび)>の話を、誠か否か心底のところを聞き出してやろうとさえ思ってみたりした。ところが、いくら秀吉を憚って決心をつけたとはいえ、朝早くから 「足利の公方様は良い方。こっちの木瓜の旗の出てる方は不忠者の信長の弟じゃ。悪人ばらの陣屋だぞ」と、いと手軽に土民どもに善悪の区別をされ、「昔から、やはり悪で栄えたためしはないわえ。見てみんしゃい、こちらの織田の陣屋の貧弱なこと‥‥まるで足利様御陣屋の下厠のごとある」などとまで喚き罵られて、毎朝その声で起こされていては、いくら有楽が秀吉おそろしさに隣の陣屋へ顔出しをする気でも、ちょっと行きかねてしまう。もちろん、(そこを辛抱し、何とかして十年前の経緯を聞き出さねば、殺された兄信長の無念んが晴らせぬし、爆風に飛ばされたとはいえ、自分の死に損ないの意味もない)とは、あけくれ思う。 しかし、思うというのは一瞬の事でしかない。そして、厭な事はどうしても気が進 まぬから、ついつい、すぐ忘れてしまう。そこで自分でも、 (これではいかん。何とか眼を瞑っても押しかけよう)とは毎晩の如く考える。そして日課のように、寝付く前には自分を叱ったものである。だが、一日延ばしをしているうちに、とうとう正月が来てしまい、朝鮮から講和の使者が来る事になった。休戦である。陣払いとなった。有楽は、八月二十五日に秀吉の伴をして大坂へ戻った。義昭の方も途中で備後の福山荘にある人見山の己れの館へ行ってしまった。だが瀬戸内海一帯での人の噂では、義昭の人気というか権勢は、全くものすごいも ので、有楽は圧倒された。なんでも義昭は、これはという若い娘を見つけると、誰かれの容赦なくみな人見山の<公儀御座所>である自分の許へ片っ端から召し寄せて、これを飽きがくるまで何日でも自由にしているという。だから今日では<人身御供>という、新しい言葉まで字を変えて福山在ではひろま っているという話だった。なにしろ、<準后>の位をもつ公方様なので、義昭は田舎では<神様>並に尊ばれているからである。そこで、大阪城内に邸を貰い槙島にも居宅を構えていても、やはりここの人見山の方が、足利義昭には勝手がきくとみえ、そのまま落着いてしまい、二年たって慶長元年(1596)八月にとうとう死んでしまった。 だから、(義昭が上洛してきたら、今度こそ刺し違えるよな覚悟で押しかけてゆき、信長殺しの埋火の話を聞きだそう)と意気込んでいた有楽は、その知らせを聞くと、(間に合わなかった‥‥)がっかり落胆させられてしまった。そして、自分が肥前名護屋で隣り合わせていたくせに、とうとう逢わずじまいだった億劫さはすっかり棚にあげ、憤懣やるかたないような顔をして、「人見山で若い娘ごばかり集めすぎ、それで腎を破られ、精根尽き果たされたか」などと毒づいては、気を紛らわす事にして、(無念、残念、口惜しや)とばかり、ずっと吐息を洩らしつづけていた。だから、八郎太がようやく何処からか調べだしてきて、「木村弥一右衛門は、その昔。弥一郎と申して明智の雑兵頭に取り立てられる前は、公方様に仕えていた室町奉行衆の内藤党の一人で、天正元年に義昭様の命令で、二条城に立て篭り、信長様に手向かった内藤如庵配下の郎党の一人でござりました‥‥」と報告に来ても、「もう、すべて後の祭りじゃよ」と、そんな言い方で、ぶすっと情けない顔をしてみせたものである。 さて、その義昭の葬儀は、足利家累代の菩提寺、洛北の等持院で営まれる事になった。遺体は暑い盛りなのでとうに備後で葬られ、髪毛だけが棺に納められて送られてきているのに、室町奉行衆の元の家来どもは、足利将軍家の古式に則り、大きな火屋を建て、そこへ棺を入れて燃やし、茶毘にふしたがったが、(おおげさすぎる)と、京の所司代前田法印が造作方の大工を等持院へ一名しか許さなかった。その話しを聞いて有楽は、その取り決めが法印の一存ではなく、おそらく秀吉の意向だろうと考え、やれやれと。それで初めてほっとした。全くのところ、救われたような心地になれた。 なにしろ足利義昭が死後まで大切に扱われ、秀吉が親切にしたのでは、本能寺で死んだ兄信長もとても浮かばれまいし、有楽自身も我慢ならぬ心地だったからである。 |
(私論.私見)