6章、一品誠仁(いっぽんことひと)親王

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1159信長殺しは秀吉か9」、「1160信長殺しは秀吉か10」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 一品誠仁(いっぽんことひと)親王
 1  間もなく新年を迎えた。ところが天正十四年(1586)の正月は、元日そうそう奇妙だった。どういう風の吹き廻しか、真冬なのに東南から生暖かい風が吹き寄せ、陽射しも明るく晴れ、暖かな三月頃の陽気で、小雨がきたがすぐ晴れ上がった。喜んで童らは外へ出て、昨日まで降り続いた雪で遊んでいると、午過ぎになって 突如ぐらぐらときた。揺さぶられた。たいした地震ではなかったが、軒や屋根の根雪が温まって柔なくなっていた矢先なので、まるで揺り落されるように転げ落ち、俄かに大雪に見舞われたような恰好になった。二日、三日も快晴。すっかり春めいた時候はずれの暖かさが続いたから、落ちた雪が飴色になって、ざくざくとけだし、草履ばきの者は難儀して、裏の金具をはった雪駄沓にかえたり曲輪内でも藁沓を履いた。四日に、また地震の揺れ返しがあった。 だから初釜の茶寄合いの時でも、「今年は、なんだか妙な事が起きそうだ」などと、集まった者達が、そんな取りとめもない話をして不安がったりもした。

 正月二十一日、小牧長久手合戦の和議はできたが、「別に戦に負けたわけではなし‥‥」と、頑として大坂へ出てこない家康を手なづけるために、関白殿が妹御前を嫁入りさせる噂がきこえてきた。朝日御前といって、もう四十過ぎにもなる百所婆のような女だと蔭では云われた。ずっと連れ添ってきた夫の副田甚兵衛に新たに五万石の加増が決まって、引き換えに、朝日御前は大阪城へ連れ戻され、華やかな嫁入り行列を仕立て、五月に入って関東へ下った。なにせ嫁様がよい齢なので、それを見劣りさせぬため腰元や侍女も若い娘は避け、みな婆様ばかりを百名の余も集めたから、後家女や亭主持ちでも夫や子にあきのきた 古嬶が、みな応募して東下りした。「とても古女房を五万石には売れなんがだが、それでもおかげで、お払い箱にでき申した‥‥女房めが御行列に加わって行きおったおかげで、せいせいしましたわい」。あまり口ほどに嬉しくもなさそうに、茶席へ来て報告する者もいた。どうも女というのは案外に、夫には不平不満を抱いているものらしい。だから辛抱していても自分が四十近くになるにつれ、倦きがくるのか無性に離婚したくなるものらしい。そこで朝日御前様御供衆などという、まこと結構な勤め口ができると、これ幸いと、ずいぶんとも多くの古嬶どもが夫と別れ、せいせいしたように出かけたようである。

 利休屋敷へ集まる者の中でも、加田八郎太の妻をはじめ馬廻り格より下ぐらいの者の妻女では、行ってしまった者が多かったようだ。そこで放られた夫の方は互いに興じあって、(‥‥これでさばさばした。若い嬶を持とうではないか)と、これ幸いに口では話し合っていたが、(見限られ、放って棄てていかれたんだ)という感じを内心は誰もが持っているらしく、喋るほどには、あまり、どうも、その男も元気のよい顔はしていなかった。特に、その中でも八郎太は蒼黒い顔を人一倍引きつらせていたから、(たまには遊びにでも行って鬱を散ずるように)と、源五は銀などを、くれてやったものである。しかし八郎太という男は、初めのうちは見栄をはって、さも不本意なような顔つき を見せていた。そして、(大坂に天変地異が見舞ってくる)という噂がいつとはなしに、かねてより広まっていたから、それに便乗して、「評判に怖じ気をふるいおって、古女房は夫や子を見捨て東国へ、我が身可愛さに逃 げたのでござる」と、自分のうだつの上がらなさのせいにはしたくないとみえ、流言飛語にかこつけ、そんな言い訳をしていた。

 だが源五はそうした動揺のもとをなしている取り沙汰は、秀吉がこのたび拵えた黄金の茶室に、その原因があるような気がしてならなかった。禁裏の小御所へ持ち込んで、この正月、恐れ多くも帝や皇太子誠仁親王その御子和仁親王などをお招きして、秀吉が自分から手前したその茶室は、組立式の黄金の三畳の家屋で、天井や壁から、明かり障子の桟まで純金。内釜、水差し、柄杓立、水こぼし、茶柄杓、茶碗、茶入、四方盆、みな純金で、猩々皮(しょうじょうひ)の敷物には黒地金蘭の縁をつけ、赤紗の絹幕をたらし、まこと豪奢なもので、見る者は「古今絶無」と唖然とする。と言われている。だが、公然とは誰も口に出しては言えもしなかったが、これは質素を旨とする(わびの茶)の精神とは全く相反する違ったもので、足利将軍家時代の(ばさら茶)以上のものだった。

 これまで村田珠光以来、ずっと必死に守り育ててきた(わびの茶)の運命が、秀吉のために、もはや終わりとみえてきたようなものである。だから織田信長によって助成され、堺衆の手によって盛りたてられてきた<わび>の者は、顔色を失って青ざめ、すっかり気病みした。利休屋敷へ集まる面々も。一体どうなることかとおろおろし切っていた。なにしろ、これは地震や雷よりもわびの茶湯を嗜む者共にとっては、揺るがせになら ぬ変事だったからである。
 2  「この七月の二十四日に亡くなられた一の宮様は、やはり病死ではござりません」と、八郎太がこの前、源五から貰った銀の礼のつもりか、いきなり妙なことを吹き込みにやってきた。一宮と申すのは、帝(正親町天皇)の御惣領の誠仁親王、恐れ多くも一品の皇太子殿下である。この正月には秀吉の黄金の茶室で手前をうけられた殿下が、七ヶ月後に、おん齢三十五歳で突然の崩御だった。「疱瘡だとか、はしかだとか伝わっておりますが‥‥一宮様は、もう幼い頃にどちらもすまされとるそうでござりました」と八郎太は付け加えて声を落した。「そうか。ああした病は一度すませておけば、もう罹らぬものか」。言われて源五もうなずいた。(三十五にもなる大の男がはしかにかかって、一日でぽっくり死ぬ)などとは、訝しすぎると、かねて思っていたからである。そして、その皇位継承者が亡くなってからというもの、しきりに源五の耳へも、「次の帝は関白様」。つまり、秀吉が誠仁親王にかわって帝位に就くという取り沙汰がもっぱら聞え、「豊臣天皇」などと、もう大坂城内ではおおっぴらに口にされていた。秀吉に面と向かってへつらう者さえいた。

 だから、八月七日には畏れ多くも、(万世一系の皇統を今の世に到り、ここで素性も知れぬ者に奪われたとあっては、皇祖皇宗の歴代の御霊にもうしわけなし)と、常御殿から桜の御庭の廊下を出られた主上が、斎戒沐浴の上で紫震殿で生害をなされようとなされあそばしかけたそうである。ところが、昨年の暮に丹波亀山城から連れ戻ってきた達子姫を、この二月に改めて、九条左大臣道房へ三度目の嫁入りさせ、すっかり御所内に勢力を張り巡らしていた秀吉の許へ、すぐこの知らせは届いたという。そこで、あたふたと駆けつけた秀吉は、清涼御門から飛び込んで、宜陽殿(ぎようでん)の陣の座から軒廊づたいに、西廂(にしびさし)から御殿へ上がりこみ、「お腹を召されるなら、余人はかりず、介錯はして進ぜまするが、主上が自ら生害なさる例など、これまであまり聞いたためしもない事ゆえ、錦小路の局をはじめ、お前様ご寵愛の女房衆を、一人残らず素侭にひんむいて、磔刑柱にずらりと架け、後からお供させ、あの世でも御不自由のないよう、お取持ちをしまする」。(つまり面あてに死なっしゃるなら、それ相応の仕返しは、して進ぜまするぞ)と、天をも怖れぬ思い上がりようで、不敬至極にも、はったとばかり怒鳴りつけたそうである。(なにしろ主君信長が死んで一年とたたぬうちに信孝の母、つまり信長の寵愛だった板御前や、主君の伜の信孝の姫まで、ずらりと安土の焼け跡へ並べ、張付けに架けて 殺してしまう程の男だから、やりかねない事ではある)と、主上もしばし躊躇していられると、すかさず秀吉は供奉の者どもを睨みつけ、「刀剣、刃物の類は一切、主上から遠ざけぇ。もし粗相のあった者は、本人はもとより一家眷属、みな六条河原で逆さ釣りに張付けてやる。みな忠義せんと許さんぞ」。大声で喚き散らしたから、慌てた側近の者は、主上の御手から剣をもぎ取り、神器と して祀ってあった宝剣の類まで、皆一括して大阪城へ届けにきたそうである。(‥‥おのれ、死ぬことさえままならぬか)と主上は口惜しさに歯噛みされ、畏れ多くも食を絶って飢え死にをなさろうとしたと ころ、「そのような事を、主上がなされ遊ばされては、我らが磔刑にされまする」と、驚いた女房衆達が、わいわい哭いて押し止め、ご寵愛の局達が寄ってたかって主上に無理矢理にあつもの、すましものの汁などを口へ流し込み、とうとう断食の邪魔をして食をとっていただくようにしたそうである。なんともいやはや、耳にするだに畏れ多いことである。

 「で、一の宮様は、なんで薨(こう)じられた」。訳知りらしい八郎太に、源五はそれとなく訊ねた。一宮様が急死されたからこそ、跡目の事でごたつき、秀吉がとってかわって帝位につく話や、勿体なくも主上がおん自らの玉の緒を縮めようとまでなさるのである。余りの事に源五も、(己れ不忠の臣めが、逆賊の秀吉め‥‥)と顔色を変えてしまった。すると、「ご生害か、ご他殺か、そこまではわかりませぬが、その前後に伺候した里村紹巴の話では、『親王様は、いつもに変わらぬ御元気だった。だから、次に日の前に急死など、とても考えられもせぬ事である』と密かに洩らした由を聞き及んでござる。なんでも‥‥切腹されての御自害との風評が専らにて‥‥」とそんな具合に八郎太は恐れ多そうに声を落した。「そうか‥‥」。うなずきっぱなしで源五は考えてしまった。里村紹巴の名に引っ掛ってきたのである。源五は流行の連歌にまでは手が廻りかね、その門を叩いた事もなく、また弟子入りした事はないが、茶席などではよく顔を合わせている。ところが、この男を見かけると、どうしても昔の事を思い出してしまうから、源五はいつも視線を避けている。というのは、この男を初めて見かけたのは、あの日、つまり天正十年の六月二日だったからである。

 その日の朝、この男が白木の欅材の荷輿を担がせて持って来た。そして、いま話に出ている親王とその皇子を乗せ、吾妻門からささと上の御所へと送り届けてゆく有様を、その時源五はじっと己れの眼で石櫓から眺めていた。もちろん里村を見た最初である。だから、つい、この男の顔を見るたびに、それから一刻もたたぬうちに、謎の大爆 発を引き起こし、粉々に吹っ飛んで死んでいった信忠はじめ御坊源三郎様や、他の親 しかった者の面影が偲ばれてならない。そして自殺し損ねて、こうして行き残った自分がなんともやり切れなくなる。(生き恥をいかいとる)と情けなく嘔吐しそうにさえなってしまうなってしまうからである。

 それに、もう一つ‥‥この男には妙な話がある。明智光秀が五月十七日に兄信長から出陣を下知されて、ひとまず近江坂本へ赴き、二十六日に本城の丹波亀山へ戻り、二十八日から勝軍地蔵尊で名高い愛宕山へ参篭したが、その二十九日にこの連歌師の里村紹巴がたまたま参詣に登山してきたから、光秀が招き寄せ、西坊(にしのぼう)の茶室で主人の西坊も加え三人で連歌百題を、つれづれのまま催したということを‥‥聞き及んでいる。ところが、西坊は翌月の六月十五日夕方に食中りで急死している。つまり、その連歌を五月二十九日にしたという三人の中で、現存しているのはこの里村紹巴一人きりである。だから源五はかねてから、(変である。いくら偶然にしろ、里村を交えての連歌百韻の会をやったのは、翌日が出兵の日にしては、あまりにのんびりしすぎていて、話が奇怪すぎて合わなさすぎる)と、ずっと疑い続けている。なにしろ、翌、天正十一年は閏年になって十三ヶ月だったから、当時の天正十年の五月は小の月で二十九日で終り。だから翌日が六月一日。つまり一万三千の兵が丹波から出陣したと云われる日である。すると、いくら光秀が横着であったとしても、出征するのが決まっていたら、まさかその前日にのうのうと愛宕の山頂で腰を落ち着けて連歌をやってはいまい。だいたい、そんな馬鹿げた事は、あの几帳面な性格では考えられもしない。と言うことは、取りも直さず、これはどう考えても、光秀は翌日、出兵する心づもりはなかったとしか思えない。(知らぬ者は‥‥出陣する前に『武運長久を祈願するために勝軍地蔵へ祈る』という考え方をするが、それは違う。兄の信長は『何処々々を攻めい』とは指図するが。軍費は出してやらぬ。命ぜられた者が自分で金策をつけ、占領地から色々と献上させる 掠奪戦法だった。『愛宕山は金を借りる所』だからこそ、光秀も出陣を命ぜられて軍費の融通に登山したまでである。そして、泊まり込んで連歌をしたり、おみくじを引いていたというのは、金策がすぐつかずに待っていたことになる。つまり、光秀が軍資金の都合をつけている間に、丹波亀山一万三千が勝手に金なしで出かけたとは、これはどういうことになるのだろうか‥‥)なにしろ、陣揃えを首名や軍奉行に任せっきりで、用意万端整ってから馬に乗る武将もいるけれど、光秀というのは<明智軍法二十一ヶ条>まで発布している男で、なんでも自分で点検までやらねば気のすまぬ男である。几帳面な性格の持ち主なのである。

 それに、一万三千の出動となると、夕食一回、夜食一回、朝の提げ飯までみると、一人一回二合とみて七十八石。丹波米は山国ゆえ担ぎやすいように三斗が一俵だから、二百六十俵の米を炊きだして、それを握り飯にこさえて、喰わしたり持たせんことには、これだけの人間は動かせない。だから、すくなくも前日から仕度にかからねば間には合わない。その外に、馬匹の世話から小者に持たせる槍、長柄をば武器庫から出したり、弦や火縄の配分もあろう、というものである。どこでもそうではあるが、(陣揃え)だからと、法螺貝を吹き陣鉦を叩いて人集め しても、戦仕度をしてくるのはせいぜい武者なみ以上の者である。あとは、大半を城方で用意して、持たせるものは背負わせてやらんことには(手ぶらの方が楽だ)と、 素手で従軍するような者も多く、出陣するまでは何処の陣立ちでも眼は離せないものである。もちろん、そんな事は百も承知な、あの神経質な光秀が、もし「六月一日に出陣」と、はっきり予定が立っていたら、自分だけ暢気にかまえた恰好でゆっくり金策のつ くのを待って、山頂で連歌などしている暇はないはずである。
 3  「五月二十九日の昼下がりより始めて、晩景(ばんげ)近くまでかかり百韻興行、これを神前に奉納。惟任日向守、帰る」と紹巴は証言しているそうだが、百韻とは百首だから、一人が三十三首とみて、一つの歌を二十分とみても、のべつまくなしに筆を走らせて作って、これには十一時間かかる。ふつう百韻興行は、昼から始めても泊まり込みと定まっている。だから、晩景といっても、それでは午後十一時か十二時まではかかろう。それに云うまでもないことだが、愛宕の西坊というのは、町の中ではない。これは高い山の上なのである。しかも京の空は六月一日は夕方から、まぁ晴れもしたが、その前日の二十九日はものすごい土砂降りの大雨で、雷鳴さえ混じっていた。だから、日帰りのつもりで本能寺へ来た信長や小姓も、一泊に予定を変更したのだ し、妙覚寺にいた城介信忠も、難儀だからこそ次の日の六月一日に訪れるのも、夜まで延期したのでもあろう。つまり、「車軸を流すような」大雨の中を、まさか夜中の十一時や十二時に真っ暗な山道を、光秀は馬の藁沓が滑るのを承知で下山できるものではないということ。だから、「帰る」といっても、その日ではない。おそらく夜が明け雨が止んで視界がきくようになってからの、つまり翌日ということになるだろう。すると、雨が京で降り止んだのは、たしかもう午後六時頃だったから、山はもう少し早かったかもしれぬとみても、午後四時頃とみればよいだろう。ふつうなら愛宕の山頂から篠村へ出て亀山までは馬を駆けさせると三時間近くだが、雨は病んでも二日間の雨で道は濡れている。そうなると下り坂で駛らせたら滑るのは眼にみえている。まさか五十五歳の光秀が面白半分に馬の尻を叩いて駆けるわけもないから、用心して降りたら、倍の六時間はかかろう。すると、早くて、丹波亀山への帰城は午後十時過ぎという勘定になる。

 ところが、その日、丹波亀山では雨が晴れると「すぐ陣よせ」と太鼓が打たれ、集合の法螺貝がなり、午後五時には陣揃えをしたという。そして、馬堀の原から出陣したのは午後七時前で、道が悪かったから粂野へ出たのが午後十二時、とされている。すると、光秀が丹波亀山へ帰城した時は既に城は空っぽで、誰もいなかったということになる。しかしである。まさか、取り残されたからといえ、光秀が泡をくって迷子になったからと、後を追いかけて行ったとは考えられもしない。(多分、安土から催促されて、一足先に中国路へ先手として重臣が率いて出発したもの)とでも光秀は考えたのだろう。なにしろ、行先が判っていて徒歩の軍勢なら、一日や二日遅れても、馬なら後から楽に追いつけるから、それほど慌てふためきもしなかったであろう。といって、手勢なしでは身動きもできぬから、光秀は支城の坂本へ赴き、そこから 三千程の子飼いの連中を率いて翌朝つまり六月二日に進発したところ、途中で、「洛中の本能寺が爆発炎上。二条御所も同じく火事勃発」と連絡を受け、急いで上洛してみた。すると既に本能寺は吹っ飛び、二条御所もない。そこで善後策を講じに、当時の大本営にあたる安土城へ行こうとしたところ、山岡景隆に橋を焼かれて立往生し、そしてひとまず安全な坂本へと引き上げて行ったらしい。

 ここの情景は山岡景隆と直に山から見ている。「人数が少なすぎるし、戦をしてきた後の武者とは見えない」と、その時山岡も言っていたし、京で大変な事をやってきた者達なら、橋が渡れぬからと、坂本へ馬首を進めて戻って行くのも、考えようによってはおかしな事だった。本来なら、そのまま京へ引き返すか、でなくとも本城の亀山へ行くべきである。(‥‥だからこそ、その後、自分を放り出して無断で出兵した丹波亀山を警戒して、 己が本城であるにもかかわらず、光秀は、その日から死ぬまで、とうとう亀山へは二度と行っていない。これは間違いない事実である)と源五にもうなずけるものがある。

 つまり、六月二日の午後になって、既成事実を押しつけられ、もはや抜き差しなら ない立場になって、坂本へ帰って考えた挙句、六月三日から全てを己れのした事にして、彼はその後の行動を取ったのではあるまいかと思える。これならば、かつて越中の城で、「光秀はあの日、本能寺も二条の城も攻めてはおりませんぞ」と謎めいた事を洩らした成政の言葉とも一致する。そして、源五があの日、石櫓から見たぶざまな戦かけひきの寄手の有様も、明智光秀の采配でないものならば、さもあろうと納得できる。そして、六月三日から十二日までの期間、明智光秀とも謳われた程の頭の良い男が、なんの方策ももたずに、ただ右往左往して周章狼狽、なすところを知らず、事前に何の用意もしてなかったのを如実に曝け出し、醜態をきわめた当時のことも呑み込める。つまり、六月二日に本能寺を囲んだ一万三千の兵が丹波亀山へ勝手に引き上げてからは、彼の掌握下へは戻らず、兵力の不足をきたした光秀は坂本衆三千を本命にして、それをその後、娘婿の秀満に渡して安土を守らせ、自分は旧幕府奉公衆や、新しく寄せ集めた合計八千ばかりの寡兵で、秀吉二万の軍勢と円明寺川を挟んで山崎合戦をして、敗れてしまったのが本当らしい。

 だから、里村紹巴が、もし声を大きくして、「光秀が愛宕の山を降りて亀山へ戻ったのは二十九日ではない。本当は翌六月一日の 昼過ぎか夕刻である」と、はっきりさせたら、光秀が六月二日朝は洛中に入っていなかった現地の不在証明も立つわけなのに、この男、あべこべに、後になって秀吉に呼び出されて、当日の事を確かめられると、(時は今、あめが下しる五月かな)という、当日の百韻興行の冒頭の句だという光秀の懐紙を持参して<し>の字を消したり書き入れたりして小細工した。おそらく、この日の吟詠のものなら、ちょうど例の大雨が山の杉木立を震わせて、ざーっと降りかかった時刻なので、光秀の軽い気持ちでの、最初の発句ではあるし、まぁ、(時まさに、ざーっと降ってきたが、これで、この五月も今日で終りかな)といったぐらいな心やすい句だったらしいものを、さももっともらしくこじつけ、「『時は土岐』つまり光秀の出身の土岐氏をさし、『土岐氏が今や、あめのした、つまり、天下を制圧する五月なり』と、これは計画的な企みを裏付しまする確かな証拠と、推測できまする」などと、まことしやかに陳述したところ、「そのような逆心をみてとったら、なんで上様の許へ、すぐお知らせに行かなんだ」。あべこべに叱られ、そこで、消して、また書き入れてある<し>の字を指差し、「初めは『天の下なる』とありましたので、うかつに見過しましたが、光秀が帰り際に、『天の下しる』と、己れの本意を明瞭にして自分で加筆訂正していったものと思われます」と言い逃れ、処罰を免れたそうである。(‥‥一体、どこの世界に、自分で後の証拠をわざわざ作りに発句を直す奴があるものか。おかしな事をいう‥‥得体の知れぬ男である)と、源五はその話を聞いた時から、里村紹巴を疑っていた。とても常識では本当にで きなかったからである。

 だから、かねて利休門下で、里村の方へも顔を出しているこの八郎太のような男には、源五はそれとなく銀などを包んで渡し、さり気なく様子を探らせていたのである。なにしろ、 (時とは、土岐の事である)などと、里村はもっともらしく鬼の首をとったように言いふらし、てんで教養がなく無学な秀吉あたりは、それを真に受けて、光秀も桔梗の旗を用いていたから、(美濃は土岐の守護代が久しく続いていたから、美濃出身の明智も、さては本姓は土岐氏であったのか)と勘違いして、里村に言いくるめられてしまったらしいが、とんでもないことである。

 明智城を滅ぼし、明智一族を弘治二年に焼き殺したのも土岐頼芸の旧家人どもであるし、光秀の妻の実家、可児郡妻木城も、やはり土岐氏に滅ぼされている。もともと光秀は、土岐にはなんの係り合いもない。あべこべに反土岐派で不倶戴天の旧敵である。(何処の世界に、己れの実家や妻の実家を滅ぼした土岐氏のために、天下をとってやろうなどという、奇特というか、見当違いな馬鹿者がいようわけはない。もし光秀が、郷愁のように美濃の土岐氏を懐かしむ気があるのなら、元龜三年に松永久秀の許から一度は美濃へ戻ってきた事もある土岐頼芸が、当時東国の安房へ漂泊 敗残の身を寄せ盲目になっていたのゆえ、稲葉一鉄の代りに自分が面倒をみてやった方が、まだ功徳というものでもあろう)と、なにしろ美濃に明るい源五は考えていた。それに、(天が下しる五月かな)といったところで、五月は二十九日の当日、その日までで、泊まって夜が明けた翌日は六月一日である。だから、里村流の解釈をするものならば、これはどうあっても、(天が下しる六月かな)でないと、話にも何もならない。そして、何故、里村という連歌師は、(先代里村昌叱の頃から出入りして、眼をかけられ礼金も過分に貰っている筈の光秀へ、何の恨みで、恩を仇で返したのか‥‥何故、どうして光秀に、もっともらしく罪 を背負わせねばならぬ必要があったのか)ずうっと疑問を抱いていたのだが、さて、八郎太から、(‥‥里村から聞き出した話では、一の宮誠仁親王の死因が、どうもただ事ではなく怪しい)と耳打ちされ、どきっとした。里村と親王との間柄というか、繋がりをはっとしたように、源五はあらためて考えだしたのである。
 4  「やっと、少し謎の緒口が解きかけてまいりました」と、八郎太がまた密かに訪れてきた。もと織田の家人で、秀吉の世になってからは、まるで置き去りにされたみたいに出世もできず、大坂町奉行での書式方にくすぶっている八郎太は、源五が織田の一門ゆえ、旧主の血脈として慕っているのか、時たま渡してやる銀が有り難いのか、妻に去られてからというものは、人懐っこく、云われたとおりの事をよく根気をつめてそっと気を配りつつ探索してくるのである。「なんでも‥‥誠仁親王様に、その昔お仕えしていた雑掌の男が、この六月の末に大坂町奉行に捕えられ、投獄されたのが、どうも、このたびの事の発端のようにござります」。もう五十を越え、戦場で出て首稼ぎする気力も失い、生きている事を茶や連歌でうさを紛らわしている男は、ゆっくりした口調で禿げあがった頭をつきだしながら、しみの浮いた顔を前へつきだして報告した。

 「なんの咎めじゃ」。早く話を聞きだそうと、源五は紙巾着から豆銀をつまみ出して、それを八郎太の袖の中へいつもどおりにそっと放りこんでやった。「これはこれは‥‥毎度、いたみいります」。少し照れくさそうに礼を言ってから、「捕えられました発端は‥‥飲酒口論し人に怪我させたのでござります。次郎作と申す者で‥‥この男め、黙って居ればよいものを、『先に、下の御所に奉公し、一品様御目もじの者ゆえ、町奉行などへ捕えられる覚えはない。親王様執事に取次ぎしてほしい』などと、しきりに喚いた由にござりまする‥‥なにしろ、これが以前の事なら、 御所勤めの者では、京奉行に捕えられていたのなら、あるいはすぐ放免されたかもしれませぬが‥‥なんせこちらは大坂。それに昔と違うて、関白様の世になってからは、唐や韓から金掘りを多く呼ばれて、国内の金銀が夥しく産出。もはや、乞食一人おらぬ世の中となって、関白様を尊ぶ者はいても、御所を怖れ畏む者などは当節はあまりありませぬゆえ、いくら次郎作が喚いたとて放って置かれましたところ‥‥奇妙な事をついに口走った由にござります」。「どない事を申しおったか」、「はい、『信長様殺しは、親王様のたくらみで、我はその手先を勤めたのじゃ』と、 騒ぎだしたそうにござります」、「えっ‥‥」とばかり、源五もこれには、やはり驚かされた。

 人もあろうに、帝の皇太子。一の宮と尊ばれる一品誠仁親王が、兄信長の仇とは、全く想像どころか思いもかけぬ話だった。そこでは半信半疑のあまり、「何故、親王は織田の天下を転覆させる必要があったのか?」と眉をしかめ咳き込んで訊ねた。昔、この八郎太は村井道春軒と呼ばれた京所司代村井長門守の手に属し、盲人取締りの職(しき)屋敷の仕事を分担し、その担当の堂上公卿久我家へも出入りしていた事を思い出し、何か知っているだろう、とせっついたのである。すると、八郎太は少し口ごもって、眼を奥の方へ引き込ませ、顎を引いてためらっていたが、やがて、もぞもぞと、「源五様、まこと、御存じではござりませなんだか‥‥」。あべこべに、むこうが聞き返すような口調で、じっと見据えられてしまった。「知らん。教えてくれ」。吃るみたいな口調で、急き立てた。「左様でございましたか。下つかたには、もう当時えらい評判でございましたが、源五様のような御連枝様には身近すぎて、かえってお耳には入ってませなんだか‥‥」と首をひねると、鬢の生え際に混じった白い毛が銀色に光って源五の眼を刺した。「上様は‥‥」と、信長の事を八郎太は、まず座り直して厳かに唇を尖らせ気味に口にした。「天正四年、安土城へ入られた年の暮に、平の姓を名乗って受爵。内大臣にならせられ、翌五年の十一月、今の関白秀吉公が山中鹿之助を授けて、播磨の上月城を攻めかけた二十日でござりましたが、これも、その翌六年四月、上月城奪還に毛利輝元が松山まで出張って参りました頃に、たった五ヶ月ですっぱり辞任。時の関白の藤原晴良が、すぐさま翻意を願い奉ったが、上様に置かせられては『あくまで、いやじゃ』と仰せあって、御自身の官位一切を断られました。よって時の関白殿も責をとって辞職仕りました‥‥」。

 そういえば、世間では兄の事を「右府様」などというが、なにしろ天正四年から五年にかねて、兄は内大臣になったが、すぐ辞めて右府にかわった。しかしこれとて半年たらずしかやっていない。そして後は、いくら勧めにきても、兄信長は憤ったり苦笑いしただけで首を振っていたのを源五は思いだした。

 そして、源五を見直すと、今でも(上様)と兄の時代を懐かしがっている八郎太は 正座したまま話を続け、「よって、この年は暮になるまで関白も空位、右府も空位。ただ内府の二条明実と左府の一条内基が気をもみ、備後鞍の津の足利義昭に教書を送り隠居させて、上様をもって征夷大将軍の官位につかせようと骨折りしましたが、これには義昭も不承知。上様の方も、『去る永禄十二年三月二日にも、副将軍任命の勅を賜った事もあったが、義昭づれの 下風に立ったり、その後釜にと、今更将軍家などにつきとうはない』と、これにも難色をみせられ、暮に九条兼孝が関白職をようやく勤めるようになってからは、是非、なんとか上様を官途につけて御所の為を計ろうとしたが、ついに果たせず失敗。よって天正九年四月には左府の一条内基に関白の位を譲って自分は引責辞職。内基はそこで改めて、<太政大臣>の最高位をもって上様を篭絡しようと計ったが、これとて上様は二月五日の初午の日にあたり、武田征伐に御自分も甲州出向の旨を仰せ出されると、お出入りの近衛前久を代りに推して、これを太政大臣に、さっさとつけてしまい、御自身は無位無官。野人のお立場で平気であられました。そこで、『太政大臣の位は人臣としての最高位のもので、昔の平の清盛入道でさえ満足したものを、信長公は軽う思し召されてお受けなされぬは、やはり野望を抱いて居られるに相違ない』 と一条内基は覚悟して、御前会議を開いたところ、もう四年ごしの懸案で、『なんともなるまい‥‥』と、帝も決意され、何とかせねばとのご意向を明らかにされたのでござります」。

 「ほう‥‥」と源五は思わず吐息をもらした。話をきけば、うなずける事ばかりである。全ては八郎太の云うとおりであろう。なんせ、<故右府さま>と源五なども口にするが、それも本能寺の変の四年も前に、たった半年でさっさと辞職したままである。その後はずっと官職のないまま、平気で上の御所へいつも入り込み、天正八年には力攻めで難攻不落の石山本願寺を勅諚をもって降伏させてしまい、翌天正九年正月からふれさせて、二月二十八日に御所の東に柳を植えて大馬場をつくり、ここで大馬揃え、つまり主上を引き出し、堂上方にもあらためて信長の武威を見せつける示威運動をして、叡覧に供したことがある。

 当日、 一番隊が丹羽長秀や摂津、若江、西岡衆。 二番隊が蜂屋頼隆や河内、和泉、根来、佐野衆。三番隊が明智光秀に大和、上山城衆。四番隊が総領の信忠、信雄、信孝の織田一門で、源五も馬乗りの武者十騎を従え、これに美々しく加わったものである。 今にして思えば若かりし頃の晴れがましい思い出であった。

 さて、禁中の東門御築地より八町ばかりの所へ、主上の席を設けて、そこへ清涼殿 から出御していただき、兄信長は北国衆の柴田一党をはじめ国内の武者どもを揃えて 御覧に入れたのはよい。だが、信長自身は紅梅に白の段々と切り唐草の、目のさめるような小袖をつけ、上に蜀江の錦。肩衣は紅どんす。腰に牡丹の花。襟に梅の生け花をさし、近衛前久、正 親町中納言、烏丸中納言、日野中納言ら、堂上摂家衆の中で、かねて腹心の公卿一同を己が家臣として引き連れ、馬場を一廻りし、実力の程をはっきりと御所の人々に見せつけたものである。しかも、三月五日には、今度はがらりと趣向を変え、信長は黒道服に黒笠の軍装で、部下五百には新鋭銃を担がせ、また馬を揃えて禁中へ押しかけ、堂々たる武装行進をみせ、今すぐにも実力で御所を占領する気構えさえ、お見せしたものである。あれでは、主上も公卿も、信長の圧倒的な実力に縮み上がり、(何とか思い切った処置をとらぬ事には危なかろう‥‥)と思し召されたとて、まこと無理はなかったろうと源五は思いだした。

「左様な事情でござりましたので、上様の機嫌とりに、皇女のお一方さまを御跡目の 信忠様へ御降嫁。つまり公武合体の案をもって、六月一日の本能寺へ雨中にもかかわ らず押しかけし者ら、太政大臣近衛前久、同伜殿信基。先の関白九条兼孝、今の関白一条内基。右府二条昭実。以下聖護院、鷹司、今出川、飛鳥#、甘露寺、西園寺、三条、久我、高倉、持明院、中山、烏丸、広橋、東坊城、花山院、万里小路、冷泉、四 条らと、堂上公卿が一人残らず、御所ならぬ西洞院の本能寺の客殿へ会し、数刻(四、五時間)もかかって、あれこれと上様に懇願などなさって、そして自分ら公卿衆の身の安全や保障を求め、それについて、あれこれとうるさい身勝手なお願いなどを上様にお縋りなされたとの由に洩れ承りまする」。ぽつりぽつりと雨だれのように、八郎太は指を折って人の名前を思い出して並べては、昔を偲ぶような、そのように説明をした。

 「それで?」。心急くまま源五は後を促した。「御当人の信忠様が、この事に関して上様から意向を訊ねられましたのは、その後、つまり六月一日の夕刻。御所内部の事に詳しい村井長門守様お付き添い‥‥手前も当日、本能寺御門前までお供をば仕りました‥‥さて、これはその時、表でお待ちしている間に耳に入った事でござりまするが、『‥‥もし岐阜中将信忠様へ畏きあたりから御降嫁されると、その皇女様が女帝ということに次はなって、事実上は織田の天下になるやもしれぬ。そうなると難儀されるは、次の帝になられる筈の誠仁親王様。こ りゃ唯事では納まるまい』といった蔭話。そして、その翌日、夜明けと共に本能寺の爆発にござりました」。「なるほど‥‥」。源五も思わず唸って答えた。

 なにしろ、むかし足利義満の時にも、太政大臣の徳大寺実時が辞めた時、義満がその位の後釜を望んだが、「平相国入道以後は‥‥武人には、その前例なし」と断られるや、それではと、義満が腹をたててしまい、「斯波、畠山を摂家、仁木、一色、佐々木、赤松らを、清華公卿‥‥鎌倉氏満をもって征夷大将軍」と立案して朝廷へ革命案を差出し、それまでの公卿共を、みな明国へ島流しにしようとした故事さえある。

 だからこそ、六月一日に摂政関白、太政大臣までが雨中に本能寺へ嘆願に行ったのも判るし、また誠仁親王だって、おそらく、その前から公卿どもが自分らの身可愛さに、次の帝の自分を無視して画策していたのは前もって知っておられたのだろう。それゆえに「親王が信長殺し」なら源五だって納得できる点が多い。

 もともと二条御所は、光秀が修理して親王様の<下の御所>となすまでは、死んだ兄の信長が六条本圀寺を取り巻かれたのに懲りて、あの十三年前に数千の人夫を使って堅固に築いた二条城である。だから天正元年四月に丹波亀山内藤衆五千の兵が、足 利義昭の為に篭城した際も、兄の信長は自分で堅固に作りすぎたため、攻める側に立つと、周囲に四つの砦を築き、通路を遮って糧路を断ち、火を放って周囲を焼き払っても、勅令が下って細川幽斎が行って開城させるまでは何とも攻め落とせなかった程の城である。次いで七月になって、義昭が山城の槙島城に三千七百で立てこもり、側近の三淵藤英に二条城を守らせた時も、信長はやはり力づくではとても攻撃できず、よって三淵 の異父兄にあたる細川幽斎をまた使者に遣って、辛うじて開城させたくらいの、きわ めて難攻不落な城なのである。

 それなのに、あの六月二日。源五らが立てこもった時は、たった数時間で敢えなく、まるで嘘みたいにあっさりした落城を仕方をしてしまったのである。まこと信じられぬ話だが、バガーン、ドガーンと炸裂して皆吹っ飛ばされてしまったのだ。(隣家の太政大臣近衛家の大屋根へ寄手が登って、そこから拳(こぶし)下りに撃ちこまれたから、それで一挙に脆くも落城させられた)ということに今ではなっているが、あの時、御所内にいて、つぶさに事情を見ている 源五としては、そんな事はあり得ない。もし隣の近衛の屋根から狙われただけなら、反対側へ逃げていればすんだ筈だ。玉砕はしないだろう。落城の原因は、何と言っても強力な爆薬である。当時、 (何者が、こんな凄い爆裂弾を放りこんだか)と、皆が腹を立てて、 (忍び込んでやったからには、伊賀者を組下に持つ織田信雄ではあるまいか)と論議され、信忠もそう思い込んで死んだ程である。

 だが、 誠仁親王が張本人なら、大爆発の謎は他愛もない。戦端開始の直前まで親王は御座所として、あの御所内に居られたのだ。そして連歌師の里村紹巴が迎えの荷輿をもって来て、はじめて上の御所へ動座された。だが、什器や荷物まで持ち出す暇はなかったから、奥殿にひとまとめにして格納されていたのである。そして、そこに親王の雑掌(じそし)や舎人、衛士(えじ)の者が何人も居残って番をしていたのである。その奥殿から大爆発。あちらこちらと吹っ飛び、一斉に煙が噴き出し、あっという間もなく御所が跡形もなくなって、ただ、黄色っぽい煙に濛々と包まれ、難攻不落を謳われた二条城が僅かな間に吹き飛ばされてしまって、焼け落ち、何処かへ消し飛ん だ。だから、中将信忠以下みな怨みをのんで、討死とか切死というより、爆死を遂げてしまったのだ。(俺が刀をくわえて飛び降りてしまったのも、あれも不覚というより、やはりその、ものすごい爆風に煽られての自殺未遂でしかない)と源五は当時の事を忌々しく考えている。

 誠仁親王が家来の者に、 (頃合をみて隠してある爆薬に) といいつけて出御されたものなら、いいつけどおり見計らって舎人や衛士が爆薬に続 く荷物に点火し、自分らは濠へとびこんで、はやいとこ逃げてしまったのだから、信忠方にしてみれば、思いもかけぬ伏兵だったわけである。そして、当時、二条御所が開け放しのままで、信忠の手勢を受け入れたのも、また途中に邪魔をする要撃の兵が出なかったのも、これも今になって考えてみると何の事はない。爆薬を匿した二条御所は、<鼠とりの篭>に、初めから仕組まれていたのである。洛中にあそこしか篭城するところがないのを前もって計算して、招き寄せるように 仕向けて、まんまと中へ入れてしまうと、親王はさっさと出御。残りの者が頃合を見 計らって、ドカーン、バーンと導火線に火をつけ、逃げ出したという具合のものらしい。(寄手の兵がもたついてだらしがない)と蔑んでいたが、これとて、振り返ってみれば、<罠へ陥れた獲物>を急いで料理することもないから、彼らはのんびりと構え、御所の内側からの出火を待っていたのに すぎないのである。あまり近寄ってこなかったのも、やはり爆発するのを知っていた せいだろう。
 5 (天正十年の六月のあの日、里村に迎えられ、上の御所へ移られた誠仁親王の命令で、 二条城を爆発させた‥‥)という、当時の雑掌が「生き証人」として大阪城[の秀吉の許]へ引っ立てられてきた。「亡き織田信長様は、わが重恩のご主君。いかによし、御自分の尊い御方様にせよ、主君の仇は共に天を戴けぬものと定まっておりまするが、これ武門の意気地というもの」 と、兄信長の手で小者の分際から取り立てられ目を掛けられて出世した秀吉が、「何人であれ、わが主君の仇は許すまじ」とばかり忠義一徹なところを見せ、強硬談判したから、さすがに誠仁親王も切羽詰まってしまい、ついに天正十四年(1586)七月二十四日、自ら生害を遂げられたそうである。

 これに関して、源五は二条御所の爆発は、ちゃんと居合わせていて、自分の眼で確かめているからよく判ったが、まだ納得できないのは、(光秀と親王との繋がり)のほうである。これがわからぬ事には本能寺の謎は解けてこない。そこで、あれこれと思案にくれていると、「よきお方が見つかりましたゆえ、一緒にお連れ申しました」と八郎太が、もと親王に仕えていたという梅香とよぶ三十二、三の女を伴ってきた。初め、自分では、 「命婦(みょうふ)の位で勤仕(ごんじ)していた」と、すこぶる権勢な態度を見せていたが、源五が小袖の重ねと銀を一袋、目の前に積んでみせると、まるで人が違ったように、その頬高で眼の細い女はにわかに愛想がよくなってしまった。そして、しなをつくるように、「秀吉様が天皇に、弟の秀長様が関白に、そして駿河えびすの家康殿が将軍になられるのが決まったとかで、これからは、もう御武家様の世の中。とても公家(こうけ)の者では、しゅせんうだつもあがりませぬ御時勢となりましたなあ‥‥」と、お世辞のつもりか、そんなことをべらべら喋りだした。そこで源五が、「そない噂があるのかや?」と傍らに控えている八郎太にきくと、「もっぱら、その噂でもちきりでございます。へぇ、源五様には御存じでなかった ので?」と、逆に妙な顔をされてしまった。(それでは、親王に詰め腹を切らせたのは、秀吉が兄信長への供養、つまり忠節な誠意の志しだとばかり喜んでいたが‥‥この噂では、まるで何やら自分が位に上るために邪魔者を、畏れ多くも消してしまった感があるわい)と、源五は割り切れぬ気持ちに襲われた。

 だが、梅香という、目の端に烏の足跡みたいな皺の浮かんだ女は、源五の感慨などには、てんでお構いなしに、京紅の唇を大きくあけて、「光秀殿へ、畏くも主上より、馬、鎧、香袋の類を、有り難い女房奉書と共に手交さ れたのは、天正七年七月二十日のこと。よって御礼言上に親王様の許へも光秀殿が来 られたのは、たしか八月に入って早咲きの芙蓉の花が開いた頃と覚えておりまする」と、まず話をし始めた。 これは、丹波国の花背峠にある御蔵米の御領所の山国荘の事であるらしい。 というのは、大膳寮の御所の飯米を賄っている台所入りの、この土地を、花背別所に宇津城を築いた宇津左近大夫が横領し、別所支配としてしまったから、禁裏御蔵の立入(たていり)宗継の許へは、それからは、もはや一俵の入貢もなくなった。

 古来、別所・山所という地帯に限り上貢も課役も免除されるのが、七百年このかた不文律だったから、いくら主上の御飯米とは申せ、別所の領分にされては、取り立て不能で、遂に二年越しに、恐れ多い話だが、御口へ食される米が入らなくなってしま ったのである。そこで、光秀は、十一年前の永禄十一年にも宇津左近と談合し、別所支配からこの御料地を除外した事があったから、その時の旧縁で、また御所の宮内卿にあたる立入宗継に頼まれたらしい。ちょうど、その前月に、ようやく丹波八上の波多野秀治を降伏させ、手の空いていた光秀は、また談合しても、こう繰り返して横領するのではしょうがあるまいと、部下の者に云いつけて一息に宇津城を急襲させ、花背峠から別所者を追って、山国荘御寮所を取り戻して御所へ戻すようにした。そこで、愁眉をひらき、ようやくほっとされた主上が、懇ろにその忠誠を褒められ、褒美と勅語を、前例のない事だが、おん手づから光秀に直に賜ったのだ、という畏れ多くもかしこい話だった。それに感激したのか、光秀は当時、義昭が逃散して空城になっていた二条城を修理 して、兄信長の許しを得てから、十一月二十二日に自分が奉行役になって住居に不自由しておられた親王をそちらに移し申し上げ、これを二条御所と命名したりした。ところがである。 その年の山国荘は、せっかく回復したものの、収穫はあらかた、もう早苅りされて横領されていた。だから、光秀は自分の米を坂本から御所へ納めて一時しのぎにし、翌八年十月六日 には己れの家来を派遣して収穫米を山国荘から直接に京へと運ばせ、これをまた禁裏に改めて上納させた。御所では、三年ぶりの上貢米にほっとし、御蔵頭の立入宗継の手によって、内侍所から誠仁親王の二条御所にまで配分された。ところが、思った程の量ではなく、行き渡らぬ端々も多いと聞いた光秀が、またも 見るに見かねて丹波の自領から米俵を取り寄せ、これを女中、末の者にまで十八日に追加配給をした。主上も、いたく喜ばれたが、光秀から二条御所を世話されている一品の誠仁親王も、大変にその厚意を嬉しく思われ、八月の末には、「古今稀にみる皇室への大恩人」として光秀を叮重に招待されたと、梅香は詳しく教えてくれた。

 「どんな話をし合っていた?」と源五が訊ねて見たが、「さあ、そこまで立ち入っては‥‥」。梅香はまるで小娘のように掌の甲を口のところへ持っていって、 「ほほ‥‥」と声をたてて笑った。それでも、思い出してくれたところによると、その年内に四、五回、翌九年になると、親王の方で微行で、明智の二条屋敷へ行かれたこともあり、繁雑に行き来が多くなって、 ちょっと数え切れぬくらいだ、というのである。さて、天正九年というのは、あの馬揃えをやったり、兄が自分から武装して、月華 門、日華門をぐるぐると銃を担がせた兵に駆け回らせ、示威運動をしていた年の事である。(そう言えば‥‥)と源五の胸に浮かんだのは、山岡景隆の家人が洛中へ探りに行き、「光秀の評判は大したもので、往昔の和気の清麿や、北畠親房、楠正成にもたち優る大忠臣との噂が専らでございます」などの報告を瀬田で聞いた事である。つまり、危険と思われていた信長を死に追いやったので、それを軽率に勘違いして 誉めたのか、かって御所の飯米のために自腹まで切ったのを評判されていたのか、そこまでは判らないが、光秀を「大忠臣」と言った話は本当らしかった。が、それ以上、しっかりした手証のようなものは、女ごの梅香の口からでは得られもしないので、「また、何か耳にしたら教えに来るよう」と内密に頼んで引きとらせた。
 6  十一月に入ると二日に偶然ではあろうが、川上地蔵の堂宇と高野山の蔵王堂、吉野山の大峰蔵王堂の三ヵ所が、同じ日に火を発して爆裂。消滅という椿事が起きた。「無念の最期を遂げられた一品誠仁親王様の怨念が成仏できずに冥界をさまよい、天から火の玉をあちらこちらに降らせ、三宝破滅、秀吉呪詛の祟りをしておられるのだ」と、そんな噂がひろまった。三宝とは仏教の事だから、各寺院で密かに大施餓鬼などして、故親王様の御霊を慰めにかかった。秀吉も己れに祟りをしてこられては迷惑と思ったらしく、ついに帝位は断念したようである。十一月七日付という事に、怨念除けに期日を早めにして、二十五日丙辰の日を選んで誠仁親王の皇子和仁親王十六歳をもって帝の位につけ奉って、新帝の名によって故親王の<怨霊退散>の加持祈祷が禁中と大坂城で盛大に催された。(のち、「御陽成天皇」と申し上げる)

 さて、自分が主上になるのをやめた秀吉は、お祓いがすむと、少し未練そうに太政大臣の位につく事で我慢したが、やはり不満だったらしく、その憂さ晴らしに、十日ほどして天正十五年になると、いきなり元日に九州攻めを諸国大名に布令した。出陣は陽気が温かくなった三月になった。源五も連れていかれ、四月に熊本城へ入ったが、五月に島津義久が降参して、あっけなく七月には戻った。それでも摂津島下郡で一万五千ほどの者を秀吉は、「お手柄でござった」とよこした。そのかわりにというのはおかしいが、翌年四月、誠仁親王の皇子だった主上が聚楽へ行幸された時は、鳥帽子をつけた萌黄の狩衣姿で、「源五侍従長益朝臣」として子供みたいな前田利勝の横に並ばされた。利勝は本能寺の変の際、二条御所へ入る前に妙覚寺門前から美濃へ先に落された、前田法印の伜で、今は既に五万石丹波亀山城主である。嫁は細川幽斎の姫だそうだが、於次丸秀勝の葬式が終って、源五が引上げた後、初 七日も待たずに、この前田利勝の親の法印めが亀山城主としてさっさと滑り込んだそうである。すると、あのとき[秀勝の葬式の時]細川の家老が城へ来て、何くれと家中の者に指図していたのは、隣国の誼みではなく、既に後釜が、もう細川家の娘婿の親と内定 していたゆえ、それで膳立に来ていたのらしい。だからあの時、亀山城の城侍達が落ち着きはらっていたのも、もう跡目をそれとなく聞かされ、家禄もそのまま安泰と教わり、安堵していたせいと思えた。(於次丸秀勝は旧主信長の子で、しかも秀吉は自分がもらって十二歳から育てていた養子である。それなのに何故こんな前田法印や、次いでその伜などを素早く後釜に決めたのだろうか) 隣に座っている、間の抜けたような若者の横顔を覗き込みながら、源五はずっと考え込んだものである。

 (前田法印に手柄でもあれば別だが、あの坊主めは信忠から『三法師を清洲へ移すよう』に云われたくせに、何処かへ寄り道をしてきて、十日もかかって戻り、[岐阜]城へも顔を出さず、二首名の吉村の邸に隠れていたきりであった。よって、三法師は 信孝が秀吉に降参するまでは岐阜城にいたのだから、格別これといって、何の役にもたっていないんだ)と思い出すと、妙な気がしてきた。何しろ他の城と違い、その丹波亀山というのは、六年前までは明智光秀の本城だからである。そして、養子の於次丸秀勝に逢いにゆくという名目で、秀吉はしょっちゅうそこへ行き、「上様の無念ばらし」と称して、旧光秀の家人を探し出しては殺戮していたが、そういえば前田法印や伜の利勝も、その伴をさせていたような気もする。(それだから亀山の侍どもは、顔馴染の法印やその伜の利勝が新しい城主と聞かされ安堵していたのだ)と想出して合点がいったが、それと共に連想というのか、妙な事実にも気づいた。

 それは、同じ明智光秀の城の江州坂本を丹羽長秀に渡しておきながら、秀吉はそち らへも泊り込みで出かけ、明智の遺臣を徹底的に探して殺していたが、天正十一年四月、つまり本能寺の変から十ヶ月後に柴田勝家を倒すと、丹羽長秀を北の庄へ移してしまい、丹波福知山から妻ねねの兄である腹心の杉原七郎左を呼んで城代にさせ、それまで坂本城で光秀の遺臣狩りを手伝わせた長秀の臣の長束正家という者を抜擢し、一躍福井鯖江の城主に取り立てた。(その長束も今では江州口五万石の大名である。前田法印の方も、丹波亀山五万石。こりゃなるほど、ぴったり同じ石高である)と感心させられた。

 そして、源五は、(世間では、とやかく云いもするが、秀吉はやはり信長の恩を忘れてはいない。協力して敵の片割れと目される者を捕り殺した二人に同じ様に目をかけているのは、なん といっても秀吉の誠意の現れ、まさしく兄信長にとっては忠義者というべきであろう。 ‥‥なにしろ誰が蔭で操ったかは、まだ判然とはしないが、直接に手を下したのは紛 うことなく、やはり明智光秀の家臣共の仕業らしい) と一人で満足した。そして、あの日、御所を囲んで攻め寄せてきて、わっしょいわっしょいと懸け声かけて突きこんだ寄手の男どもの顔を、おぼろげながら次々と瞼に浮かべた源五は、(あの連中をば‥‥国家権力を一手に握り、帝にさえもなろうとした程の男が、自分の手で一人ずつ、供養のためとはいいながら斬り殺して仇討ちしてくれるとは、なんたるありがたい事か)と、しみじみ思うようにもなって、(未だに信長に忠義を尽してくれる、この秀吉に奉公して仕えてやることが、信長の弟としての儂の恩返しかもしれぬ)と強く考えるようになった。だから、昔、佐々成政から越中の城で妙な事を囁かれたのも、今の源五には、(あれは三十六の砦と五十八の山城を揃え、そのうえ倶利伽羅峠の天険によっても、あの秀吉には勝てない成政が、癪にさわった鬱憤ばらしに、引かれ者の小唄として厭がらせをわざとこの自分に吹き込み、たきつけたにすぎまい)としか、思えなくなっていた。(おりゃもこの際、大いに心を入れ替え、もっともっと秀吉に奉公し、扶持でも増やしてもらうべし)と、まじめくさって考えたりした。なにしろ死に損ない自殺未遂した後というのは、 色々と名目をつけ、自分で納得しないことには、生きていくこと自体が、なかなか億劫なせいもある。





(私論.私見)