5章、奇蝶美濃御前(きちょうのうごぜ) |
(最新見直し2013.04.07日)
「1157信長殺しは秀吉か7」、「1158信長殺しは秀吉か8」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
奇蝶美濃御前(きちょうのうごぜ) |
天正十年六月十三日に三州岡崎を出立した徳川勢は、十四日に本陣を鳴海城に進め、 先手として西三河衆と呼ばれる三州吉田(豊橋)城主酒井忠次の八千が矢田川を渡って稲沢から西南へ向かった。美濃海津の今尾城主高木貞久の伜の貞利。加治田の城を玄蕃允にとられた恰好の美濃加茂の佐藤石近の跡目佐藤六左衛門。岐阜城の二番家老であったが斥けられた吉村氏吉の弟の吉村又吉郎。といった美濃侍が人質を入れて徳川勢に加わっていた。だから、それら千五百の軍勢を預かり、織田源五郎長益は扇川にかかる中島橋を渡 り、三つ山に陣を敷いていた。萌木裾濃(もえぎすそご)の緑の濃淡四色に染め分けられた華やかな大鎧に、銀の鍬立つけた大兜をかぶって、白房采配を握った恰好は、いくら借り物とはいえ、その 二日前に蓑をかぶって尻からげした姿とは似ても似つかぬ武者ぶりだった。源五は眼を細め、「うまい」。久しぶりに箸を握ったまま呟いた。鳴海潟が目の前にひろがっているから焼蛤もよかったし、鯵の塩焼きも芳しかった。舌の上で、ゆっくり味を堪能しながら、(おりゃ、なんで、あんな料理のできん女ごを妻にしたんじゃろ)と妻の佐紀の事を呆れたように思い出していた。これまでは時たま城へ戻っても、料理をするものが別にいたので左程にひどくは感 じもしなかったが、今度は召使いがいないから妻の手料理を初めて食わされ、驚かされたのである。(ひもじい時にまずいものなし)などとも云うが、目眩がする程まで餓えてしまえば別かもしれないが、普通の空腹ではやはり、うまい、まずいのけじめはつく。ふだん、己れの好きなものしか食べぬ源五のような男は、舌に合わぬと、いくら腹 が減っていても、てんで咽喉へ押し込めない。無理に呑み込もうとすれば嘔吐してしまう。それなのに、妻の拵えるものは汁も菜も、ただ辛いだけで、味も何もあったものではない。仕方がないから、湯漬けでいつもかきこんで咽喉を通す。だいたい湯漬けというものは、黒米(げんまい)はどうしても口当たりがざらつき、いがらっぽいから、それで白湯をかけて流し込むものである。ところが、妻は子供らに食べやすいようにと、黒米を鉢で突いて白米(よね)にしている。つまり湯漬けにしなくてもよい飯を我慢して喰うために湯をかけるのだから、まるっきし粥を喰っていたようなものである。喰うといえば、織田の血脈は、みな喰い意地が張って兄の信長もうるさいほうだった。生れてから二十五歳までは尾張から一歩も出なかったから、魚といえば川魚しか喰わぬ兄の信長だった。なにしろ猫でも尾張の猫の中には川の魚は喜ぶが、海の魚は見向きもしないのもいる。と云われ、まるっきり他国の猫とはあべこべだそうだが、これも土地柄である。 兄が生れた勝幡から甚目寺、清洲にかけての尾張の海部郡(あまごおり)[現在の海部郡(あまぐん)]は、百姓が野良へ行くのにも舟で濃いで行くぐらいに、一間巾の水路が縦横に流れていて、鮒や鯔(ぼら)の川魚が何処でもすぐ釣れるから、土地の者は猫でも子猫と時からそればかり食して育っているのである。だから、川魚の鮎の塩焼きが喰いたさに、長良川に臨む岐阜城をとり、わかさぎの生きた三杯酢が喰いたさに、琵琶湖へ安土城を建てた兄である。天正二年の高天神城が落ちた時でも、浜名湖の今切までは一気に駆けつけ、そこで 猟師に網をうたせ、腹一杯に淡水魚を喰って、それで気がすんで、さっさと引き上げてきた事さえもある。今年の甲州攻めでも、笛吹川の沿岸で生きのよい川魚がとれる所では機嫌がよかったが、山路へ入ると途端に不機嫌で、一日でもたった魚は『におう』といって手をつけず、近習どもがすっかり手をやいたそうである。なにしろ兄が死んだらしいと伝わってから、いろいろ悪口がひろまってきたが、その一つに、兄が初めて御所へ参内した時、行器(ほかい)所の大膳寮で四条流の包丁頭が一番の料理を出したのに、兄がまずいと云い、二番目のものを持ってきても箸をつけず、しかたなく雑仕が川で釣った雑魚の煮付の田舎料理を出したら、初めて大喜びをした。(つまり、それほど信長という男は下司であった)という、ざん訴であるが、淡水の川魚しか食さない兄を知らぬからの、勝手な云いごとなのである。なにしろ、兄弟の父親の織田備後守信秀は、何十人もの妻を順繰りに持っていたから、その死後も女どうしの軋轢が凄まじく続き、それを目の当たりに見せつけられ育ったから、兄も源五も、織田の男どもは皆やっかいな色慾より、食慾のほうに専念したらしく、源五も女色よりもっぱら味覚を愉しむ方だったが、兄と違って諸国へ名代に赴いていたから、それで海魚もおいしく食べられる。 十六日には、津島の国府宮に酒井忠次の陣営が進んだ。本隊も鳴海から合流して、一挙に上洛して決戦をする体制が整えられた。「そのうちに進撃が開始されたら、鮮度のよい魚ともお別れで喰えなくなる」と源五がせっせと喰い溜めしていると、十九日、まさに出陣という矢先になって、突如、羽柴秀吉の使いという指物武者が馬をとばしてきて、「さる十二、十三日の両日にわたり、織田信孝様を名主となし、秀吉軍二万は山崎円明寺川にて、明智光秀を討ち破り、粟田口の刑場に首を晒してござる」と、寝耳に水の知らせをもってきた。「しまった‥‥」。誰よりも、それを耳にして口惜しがったのは、食にばかりうつつを抜かしていた源五だった。もし美濃へなど来ずに、もう数日近江に止まっていたら、その弔い合戦に、晴れて(信長の弟)として参陣できたのである。(十二日は向こうも大雷雨で、小競合いが開始されたのは、雨が上がってからで、勝敗は十三日の午すぎから日没)と聞かされると、その十二日に飛び出してきた源五はますますがっかりして、(せっかく雷鳴の中を岐阜城を抜け出してきたのだから、東の鳴海へ走らずに、反対の西へ駆けてさえいたら、おりゃ、充分に戦に間に合って、恰好がついたものを)と、かえすがえすも無念でたまらなかった。(これでは、何のために死に損なって二条御所を脱出し、今日まで生き長らえたか、てんで意味がない) くさりきった源五は、食べ過ぎて石みたいに固くなっている下腹を撫ぜ、癪に触るから今度は介錯人を呼んでおいて、また割腹してやろうかと、すっかりくさくさした。なにしろ、自分の手勢としては千五百だが、徳川二万の名主として、晴れて上洛し、六月二日の仇として斎藤内蔵介なり光秀なりの首級を兄の霊前に供え、そこから軍を進めて美濃へ戻り、あの男を追い出すか降人させ自分が岐阜城主として納まる筈の、せっかくのもくろみが脆くも夢になってしまったからである。 味噌さえ出し渋った岐阜城の台所役人を、晴れて帰城したら縛り首にしてやりたかったのに、これも、やはりお流れで、全てみんな水泡に帰した。他人にはどうでもよいが、せめて妻子にだけは見栄を張り、好い恰好を見せてやりたかったのに、すっかりふいにさせられたのである。情けなくなってしまった。すっかりあてが外れて源五が落胆していると、やはり此処まで出陣しながら思いもかけぬ事態に見舞われ、あたら無駄な骨折りになった徳川勢の将兵も、さすがにみな 騒ぎだした。「備中の高松城を攻めている最中に、毛利の大軍に出動され逆に包囲され、慌てふためき救援を安土へ求めてきていた秀吉が、そんな早く山崎で戦のできる道理とてない ‥‥」と、みな口々に疑った。それは、先月十五日に徳川家康に従って安土城へ招かれた重臣はみな、十七日に、その秀吉の急使が備中から早馬で到着したのを、自分らの眼で見たり、耳に聞いていたからである。(そんな阿呆な話があってたまるものか)と、誰もが顔を見合せた。「勝ち戦をしてるなら、脱出し引き上げもできるが、負けかけて敵に包囲されていた秀吉が、なんで‥‥どうして高松を抜け出せたか」。この月初めまで家康の供をして堺にいて、よく情報を知っていた者達が、口を揃えて首をふった。「上様が本能寺で討たれたのは六月二日。いくら早く使者が備中へ行ったにしろ、着到は早くても五日の夜だろう。毛利方との談合が、たとえ一日で片づいたにしろ、纏めて引き上げには、丸二日は掛かるから、出発は九日すぎだろう。さすれば京へ近づけるのは、どんなに、いくら急いても十四日以降となる。それなのに、十二、十三日の山崎合戦とは話にならぬ。こりゃ定めし調略のための趣向であろう」と、源五の寄騎になっている美濃侍達も話し合っていた。誰も山崎の戦は本当にしなかった。だから、秀吉からの使者の口上で、「もはや、早々に御帰国あって、しかるべく」と云われたが、次の二十日もそのままで全軍が居座って滞陣していた。 |
2 「なんじゃろ‥‥」と、みな立ち上がって本陣へ駆け寄った。津島の酒井忠次の手の者が異様な者を鞍に抱えて馬をとばせてきたからである。「諜者だ。こちらが放っておいた者が、ようやく戻ってきて津島へ着いたから、刻一刻を争って連れ参ったのだ」と、傀儡師(くぐつ)の恰好をした者の正体がわかってきた。源五も聴こうと、急いで本陣の幕の内に顔をだした。すると、「十三日に山崎合戦終了。十五日に坂本落城。十六日には丹波亀山も開城」と、知らせはみな昨日の秀吉方の口上を裏書するようなものばかりだった。(秀吉の知らせが嘘であってほしい。自分の手で弔い合戦がしたい)と、せっかく志していた源五の願望は、これであっさり打ち砕かれて終わった。続いて、宮の渡しまで舟で戻ってきたという諜者も立ちもどってきて、その者も、「かねて召捕中の明智の家老斎藤内蔵介を、牛車にて洛中引き廻しの上、六条河原にて斬首。その首を青竹に刺して粟田口へ運び、天王社わきの獄門台へ光秀の首と並べて曝してござりまする」と、十七日の出来事まで知らされた。もう、紛れもない事実として、首を傾げながらも、納得せざるを得なくなった。夕景(ゆうげ)まで軍評定が延々と続いた。源五の寄騎の美濃侍達は口を揃えて、「せっかくここまで馬印を進めたもうたのだし、我らも人質を納め入れ、決死の覚悟で参陣したのゆえ、是非とも木曽川を渡って美濃へ討ち入っていただきたい」と嘆願した。徳川勢の力を借り、旧領を取り戻さないことには意味がないからである。 源五も岐阜城奪還を家康に頼んでみた。すると、「秀吉が織田信孝様を名主に立てているなら、我ら徳川勢には、ここに居られる織田源五様が名主じゃ。格からいけばこの方が弟御で上位。それに岐阜城を攻略すれば、あそこには故中将の三法師君も居られる。このまま京へ向かって進撃せずとも、せめて三河に続く尾張、美濃の二ヶ国は押さえて下さるのが、天下安定の礎として、この際とるべき途」と尾張に近い三州吉田(豊橋)城を持つ酒井忠次が力説し、それに本多平八郎も言葉 を添えたから、耳にした美濃侍どもは、やれやれとホッとした。源五も安堵した。 柿の実が熟したような夕日に、海原が茜色に染めかけられた頃であった。探りに出してあった者が又一人知らせに戻ってきた。「安土城炎上」。さすがに皆唖然とした。六年前にできたばかりの天下一壮麗な七階建で、黄金と堆朱を黒塗うるしに、白銀とまぜてあしらった夢殿(むどの)のような巨城である。徳川の主だった家人どもは、先月みな案内されて、各階ごとの結構な襖絵や金銀の天井絵に肝を奪われ、感嘆の溜め息をつき眼を丸くして見物してきたばかりなのであ る。「冥加の程を知らぬ、勿体ない事を‥‥」と、口々に呟きながら寄ってたかって、「何日のことか。明智の仕業か」。続けざまに尋ねかけられ、諜者は、「山崎合戦の知らせが十三日の夜に入って、十四日に城番として占領しとられた明智秀満様が、残らず兵を率いて坂本へ総引上げ、その翌日の十五日、空っぽの城をめがけて日野別所の蒲生忠三郎殿軍勢と、土山(つちやま)の本陣から織田信雄様が押寄せ、無惨や火をかけられたのでござります」。まるで己れの罪のように、うなだれて報告を済ませ、地肌に頭をすりつけて辞儀をし、そそくさと引き下っていった。 「なんたる、とろい[名古屋弁で『知恵の足りない・思慮浅い・愚鈍』の意]事だろ。お跡目の中将様が二条御所で討死されとるから、お世継ぎは次男の三介信雄様に決まっとる。それなのに、なんで‥‥末は自分のものになる、あの善美を尽した安土城に 火をつけるとは、こりゃ狂気のお沙汰かや‥‥」、「まったく言語道断。前代未聞の話ではある」と、わいわい云っていると、退った諜者を追いかけて、もう少し詳しい事情をききだしてきたらしい近習の一人が戻ってきて、「六月三日から、忠三郎殿の親父様で、二の丸の城御番だった蒲生賢秀殿が、城内の 婦女を己が居城の日野へ避難させ、千五百の兵で守護しておるそうじゃが。たんだ、お一人だけ、安土へ残られた御方がござるそうな‥‥それを蒲生の忠三郎殿から聞かれた信雄様が、『いくら上様の仇とはいえ、仮初めにも、かつては御前様として仕え たお方には刃はあてられぬ‥‥勿体ないけれど安土の城を供養の追善のみしるしに奉納。浄火をもって、御火屋(おほや‥‥火葬小屋)とし、謹んで、いざ御送り申し上げる』と、そない云われ、生害なさるように合図されてから火を放たれ、安土城を燃やされたそうげなに、ござります」と、詳しい成り行きを説明した。 誰も彼もみな押し黙ってしゅんとした。やがて、「あのお方、お跡目の中将様が初めて他所で産まれなさった時、己が子として育てんと(奇蝶姫の己が名の一字をつけ、奇妙丸と名づけ)引取って育てられた程の、心や さしき御女性と聞いておったのに‥‥」。一人が口に出したが、そこで言いよどんでしまった。「『七人の子をなすとも、女ごに心を許すな』と申すが、あのお方様は一人もお子がなかっただけに、恐ろしい事である」と、みな噂をしあっていた。「内蔵介も死に、あのお方様も安土でお焼け死になされては‥‥これで一切合財、みな終いじゃ」。話を聞いていて源五はやりきれなかった。 岐阜城の古い綴じ込みから、ようやく光秀と、<あの方さま>と呼ばれている濃御前との繋がりを、自分だけが探りだしたつもりでいたら、どうやら美濃衆でも年輩の者達は、とうの昔に皆、うすうすは知っているらしかった。だが、がっかりしながらも源五は、(遅くも六月一日には戻る筈の日帰りの延期が、また一泊と予定変更して、それが夜遅く決まったにしても、正室である濃御前が、兄信長の動静に気を配っていたものなら、こりゃ誰にも怪しまれずに、素早く情報をとる事ができた筈だ。それなら、六月一日の夜半、三草越えをし中国路へ向かうか、大江山の老の坂越えをして上洛するか、 分岐点の沓掛で運命の瀬戸際に待機していた軍勢の許へ急使を走らせ、『もう一泊、本能寺』と教える事も可能である‥‥いくら何処の京屋敷の留守居番が、じっと見張っていた ところで、まさか本能寺の門に 『今夜もお泊り』などと貼札の掲示が出るわけもなく、まったく極秘の事が外部に洩れる筈とてない‥ ‥さては、やはり、手引きした発頭人は、あのお方様で、己が実家の美濃の城を取り 戻し、亡父道三の無念ばらしをなされるお企てであったのか‥‥)と、兄の予定変更が何故、丹波亀山の内蔵介に知れたかという謎は、考えればそれで 解けた。 だが、他の者に先を越されたのでは忌々しく、いらいら焦燥するしかなかった。(信雄が濃御前、信孝が内蔵介を討って、共に名聞(みょうもん)を上げたのなら、 おりゃ三番目の、あの男をば討つ‥‥これまでは昔馴染ゆえ生かして降参させる気じゃったが、こうなっては、もう赦せん。兄の仇の片割れ。素っ首あげん事には、生き延びた甲斐もなければ、面目とてない。眼をつむってばっさり斬ってやろう) その夜いろいろと覚悟をつけ、美濃入りしたら、岐阜城へ何がなんでも一番乗りし ようと決心した。ところが、朝になると、「形成混沌たる状況ゆえ、徳川勢はひとまず領国へ引上げる。そして様子をみた上で、改めてまた美濃入りをする事とあいなったぞ」と、東三河衆の石川伯耆守数正から沙汰された。(えっ) と、源五は己が耳を疑った。せっかく昨日は纏まりかけた美濃攻めが、安土焼き討ちの信雄の出現で、三すくみ の形になったから、用心した家康が退却を命じたものらしい。美濃から駆けてきた諸侍、尾張まで集まった者など、徳川譜代以外の者は、ことご とく現地解散の通達をされてしまった。解散となれば、もはや名目(みょうもく)も名主(みょうしゅ)もいらない。源五郎も放り出される一人になった。 |
3 六月二十七日。本能寺の変から数えて二十五日めに、信雄も信孝も集まり、織田信長発祥ゆかりの地、尾張清洲城で一門・重臣の会議があると聞いたから、源五も信長の弟として参列の義
務があると思い、出かけたところ、「源五郎長益様なら、ご遠慮願いたい」。五条川の下流番所で咎められ足留めされた。「何処の兵か」と警固の者達を見廻すと、「摂津、有岡の者にござります」。返事をする者だけは頭を下げて言葉も丁寧だが、他の者は一歩も寄せつけまいと、槍を構えて容赦なく身構えていた。「池田恒興の兵か。なら主人に話して何処ぞで休ませい」。何で追い返されるのか、理由もわからんし、池田づれに突き戻されたとあっては、沽拳にかかわると、源五が睨みつけて立っていると、「なら、お粗末ながら、近くの寺へ案内仕り、そこにて、まず湯漬けなど出させますゆえ、御休憩をば‥‥」。番衆の中から頭分なみの髭男が迷惑そうに出てきて、源五は誓願寺へと連れてゆかれ
た。 接待役なのか、見張番か判らぬが、黒腹巻の具足をつけたのが、二人、ついてきて 立っていた。方丈から酒壷を持ってきたが、詮をとると匂いだけでも判る、ひどい粟の地酒で、とても呑めたものではない。そこで手招きして二人の者にくれてやったところ、「‥‥貴方さまは悪名高いお方じゃな」と呑ませてもらって心安くなったのか、すぐ赤くなった方が、おそるおそる源五に近 寄ってきて声をかけた。「ほう‥‥どない、評判か」。退屈なので怪訝そうに聞き返すと、「御自分で、知りなさらんのか」。ちびちび舐めるように呑んでる年嵩の方が覗きこむように、にんやりと源五に笑いか けた。「知っとりゃ聞かぬ。云うてみい」。他愛ないと思いながら、退屈しのぎに源五が促すと、少し躊躇していたが、「本能寺と二条御所の双方で、外へ逃げ出された卑怯未練な臆病者は、たんだ一人じゃどうな。そんで織田御一門と申すよりも、織田方寄騎武者衆みんなの恥だと、もっぱらの評判ですがな」。喋ってから、へらへら笑うから、源五も仕方がない。つい一緒になってからから嗤った。だが面と向かってそんな事を云われ、おかしい筈もない。「なんでも十二、三の稚児衆でさえ、潔よう死んどるのに、大の男が裸になって逃げ 出したゆえ、寄手も呆れて見送ったそうな‥‥と申しまするが、まこと、そりゃ本当 でござりまするか」。年嵩の方は多少気兼ねして云った。「ああ、そうだ」。源五は庭前の白いうつぎの叢に眼を落しながら、それに大声で答えてやってから、(おりゃを邪魔者扱いして、織田一門から除け者にしようと謀り、こんな雑兵どもまでに、埒もない噂をまき散らしとるのは、いったい誰だろう) むしゃくしゃして呵々とまた馬鹿笑いをした。 清洲評定の日に番所でくいとめられ、何故、入城するのをあんなに拒まれたのかは、後になってやっと源五にも判ってきた。美濃の国は信忠の遺子三法師に継がせるが至当でも、まだ幼少ゆえ、(織田源五を)と最初のうちは決まっていたらしかった。それを故意に、(裸で逃げた卑怯者。臆病神の源五郎)と、つまらぬ噂をまき散らし、悪評をたてて除外してしまった理由は、山崎合戦に参加した織田三七信孝に美濃を継がせるための策略のようだった。(おりゃを邪魔者にしくさったのは、信孝についている異母兄の信包のやきもちか。はたまた信孝と親しい柴田勝家、滝川一益あたりの仕組んだ事じゃろか)と源五は、無念でならなかった。 論功行賞として、[弔い]合戦に加わり光秀を討った信孝は美濃一国。[弔い]合戦に加わらず空っぽの安土城を焼いただけの信雄の方が功績を認められ、伊勢の他に尾張一国を増やされ二ヶ国の太守。つまり遠慮して、あまり表向きには明らかに発表されていないけれど、(お濃の方が、今度の信長殺しの主犯) (内蔵介らは、命じられてやったにすぎぬ従犯) 露骨に区別がつけられ、一目瞭然だから、(やはり、あのお方様の憎しみで、上様は殺されなさったか。放りっぱなしにされた女ごの怨念たるや、げに恐ろしいものよ。それにしても、後の跡目どりを争って、それで、あたら三日天下で倒れるとは、明智殿も普段の智慧の深さにも似ず、まこと浅 はかで見苦しい事である)などと、誰もがそんな噂で持ちきりだった。 ところが第三の男。 源五が狙いをつけていた、あの男は、誰にも殺されず、ぴんぴんして岐阜城にまだ平 然としてるのである。山崎合戦の後、信孝と秀吉が美濃へ侵入。不破の長松まで押寄せると、あの男は即座に駆けつけて自分から降参し、「わが一子斎藤新五も、二条御所で中将様を守って見事に討死。決して他意はありませぬ。今回の事は舅の安藤伊賀父子が勝手に先年追放された己れの旧領の揖斐北方の 城を回復するための企てでござった」と、かき口説くように頼んだというし、安八郡(あんぱちぐん)の曽根から清水の城へひきこもっていた稲葉一鉄も、すぐさま秀吉の許へ駆けつけ、「娘婿の斎藤内蔵介の所業は、とんと関り知らぬこと。それに安東の旧領は、亡き上様より『手前に下さる』と御諚のあったところ。我らの手にて平定仕りまする」と、安東伊賀の父子を攻め殺し、それにあの男も娘婿のくせして、平気で合力したと いう。 そして、織田信孝が城主として岐阜城へ乗り込んでくると、伴ってきた家老岡林良 勝に次ぐ二番家老に、あの男は「土地に明るい者として納まっている」と伝わってきた。秀吉の推挙によるとも噂があった。もと、もと家老だったのだからまた家老に逆戻りしても、それが分相応でおかしくもないが、たとえ二十日の余でも、岐阜城主になって殿様をやって、ふんぞり返っていた斎藤玄蕃允利尭が、また虎髭を撫ぜながら、しかめつらしい顔をして新しい城主に両手をついてかしずいているかと思うと、その変わり身の素早さに呆気にとられてしまい、(いくら子供の時から居候扱いをされ、散々に鍛えられてるとはいいながら、天晴れすぎて、とてもあんな真似は、おりゃにはよぉできん) 噂を聞くと源五はすっかり感心するより、ただ呆れてしまい、もはや第三の仇として首を取る気さえ失せ果ててしまった。それと、おかしいのは、異母兄にあたる信包の行動で、信孝と共に美濃入りをせず手を切ってしまい、二ヶ国の太守になった信雄の方へさっさと鞍替え、伊賀に小城を 一つ貰うと、九月二十七日には、筒井順慶の兵を借りて、せっせと土豪征伐など始め だしたことである。 |
4 (おかしな雲行きだ)と思っている矢先、源五の許へ改めて織田信雄から招きが来た。そして嘘か誠か知らないが、「焼けた安土城の復興次第、三法師が引っ越される‥‥となると、やはり岐阜城は、『源五郎様が当主になられて、しかるべく』と、手前主人も申しておりまする」と使いに来た信雄の家老の尾張星崎城主の岡田重孝が、もっともらしい事を云った。美濃城主になった信孝と、信雄が相変わらず仲が悪く、木曽川を挟んで、河洲(かわす)の島の取り合いをしてるという噂も聞いていた。だから仲裁してやれねばとは、かねて思っていたが、その日は頼まれるままに、妻佐紀の姉婿にあたる大垣城の氏家直通の許へ、源五は添状を書いて岡田に渡しておいた。まあ、源五の考えとしては、信雄の家老と信孝の家老に双方で仲良う膝つきあわせて談合させたい心づもりだった。そうすれば互いに和解の道もつくと思ったが、なにしろ信孝の家老はあの男である。まさか、あの玄蕃允に添状をつける気もしないので、談合の相手として身内にもあたる大垣城の氏家を代りに選んだだけだった。
ところがである。(‥‥信孝側の筈の氏家と、信雄の家老の岡田が、どういう談合をしあったものなのか)十一月十六日、その大垣城へ織田信雄の先手として、羽柴秀吉が自分から進駐してきた。そして稲葉一鉄をはじめ西美濃衆を次々に呼び出し、人質をとって素早く監視のために各城へ軍目付を派遣しだした。五ヶ月前に源五の寄騎として鳴海に集まってきた今尾城の高木をはじめ、あの時の者どもが今度は徳川勢でなく、みな信雄の方へ馳せ参じた恰好にされてしまった。「あの男は、今度はどうしたろう」と、やはり気になって調べさせた。すると、今度はどうした風の吹き廻しか、信雄の方には降参せず、(西美濃が寝返ってしまったら、東美濃を押さえよう)と信孝の為に加治田の城に立てこもり、信雄方に走った森乱丸の兄の可児郡兼山城の森長可の軍勢を相手に、孤軍奮戦中だという模様が伝わってきた。だが、十二月二十日。あてにしていた北国の柴田勝家が雪のため出兵して来られず、ついに信孝は降伏してしまった。そして、生母と娘を人質に出し、城内にいた家老の岡本良勝も伜を秀吉に差し出し た。 源五の妻の実家の郡上の遠藤虔隆も、信孝のために武儀郡の須原城や洞戸城を落し、大いに頑張った。ところが、なにしろ肝腎な信孝に降伏されてしまって狼狽したらしく、早速信雄の軍門に降って三好秀次の寄騎となって、滝川攻めに伊勢の峯城へ出陣していったそう である。しかし、攻められている滝川一益のほうが、逆に攻勢に出て、翌天正十一年三月に なると、信雄方になった今尾の城を攻め込んだから、それで元気づいた信孝は降伏中だったが、ただちに稲葉一鉄や氏家直通の領地へ兵を出し火をつけて廻らせた。すると、それを待ち構えていたように、「織田信孝、約に背いて反乱」といった名目で、源五も顔見知りの信孝の母である板御前‥‥かつては信長の室の一人だった女性が、孫姫と共に四月二十日、安土の慈恩寺で張付にされ、すぐに秀吉の二万の大軍が又もや岐阜城を囲んできた。 やがて賎ヶ岳合戦で柴田勝家が破れ、北の庄で最期を遂げたから、信孝も諦めて岐阜城を開城。五月二日になると尾張知多の野間の大御堂(おおみど)寺で、あわれ信孝は切腹させられてしまった。本能寺の変からまだ一年となっていないのに、ひどいことになったものである。変な巡り合わせだが、去年の清洲評定のとき、足留めをくわせた池田恒興が美濃の国に来て、その伜の元助が、今度の岐阜城主になってしまった。これも源五にはひどい話である。 「これでは、信雄の家老が来たとき、なまじ仲直りさせようなどと、気をつかって骨折らずに、ぶっ壊す方に廻っていたら、嘘ではなく、岐阜城はおりゃのものになっていたかもしれん‥‥しもうた事をした。あの時伯父面せんと、信雄の言うことをきいて味方にすぐはせ参じるべきじゃった。手遅れじゃったのう」と源五は惜しい気がして、損をしたような気持ちにさせられ後悔した。というのは、(身内どうしの事ゆえ、信孝と信雄を仲良くさせてやろう)と、源五としては、できるだけ骨折ったつもりなのに、それでも世間では、「信包殿は、秀吉の弟殿の亀山城攻めに加わり、中立は源五様一人ゆえ、織田の一門として打つ手もあったろうに‥‥」などと、まるで信孝が腹を切らされたのは源五のせいみたいに、勝手な取り沙汰をさ れたからである。(‥‥そんなつまらん事を云われるくらいなら、この次から得するように動こう)と源五も自棄をおこしてしまった。 すると、翌天正十二年三月、織田信雄から、「お出で下されたい」と使いがやって来た。(そらきた‥‥)ばかり、(今度こそは損をしまい)と源五は二つ返事で、すぐさま駆けつけた。これが四月九日の小牧長久手合戦。信雄と家康の連合軍と、秀吉の合戦である。 岐阜城を横取りした池田父子を討死させたり、加治田城を攻め<あの男>の生死を 不明にさせてしまった森長可の首を徳川方はとったが、ただそれだけの事で合戦はすんでしまった。源五には格別ちっとも儲けもなかった。 暮の十二月に源五は、甥にあたる信雄と共に秀吉に招かれて大阪城へ行った。翌日、信雄には名物の井戸茶碗や台天目。京極茄子といった名物の茶道具が贈られたが、源五へくれたのは白銀二十枚だった。(失礼な‥‥)と思い、しみじみ秀吉の顔を見たが、相手がにこにこしているものだから、(そうか、今のおりゃには茶道具より、現金の方が入用だったんだ)と思い直して、それに、にやっとうなずいてみせてやった。翌二十に日は宮内法印のところで能見物。二十四日は山里の茶室で秀吉が自分で手前して茶会を催した。この時の後見が、後に千利休に改名した宗易と、宗及で、源五には全く初対面だった。 信雄は、(秀吉に毒殺でもされては大変)と用心して早々に帰国したが、源五の方は、「ごゆるりと、なさるがよい」と大阪城内に屋敷をあてがわれ、旨い馳走を振舞ってくれるので、喰い意地をはり、そのまま食事に釣られ居座ってしまった。すると、「何も御用がなくては、さぞかし退屈でござろ」と云われ、七月に入って、越中富山の佐々成政の所へ秀吉の名代にと立たされた。仕方なく出駆けていった。すると、熊を殺して、その四つ足の骨を抜き、手袋と足沓にして、雪の立山連峰を 常願寺川の針の木峠から横断して、家康の元へ連絡に往復し、柴田勝家の死後も孤立したまま、降伏を承知せず頑張っていた猛将の佐々成政も、「信長様弟御の源五様を名代に立ててよこすとは、さてさて、秀吉は心憎い男でござる。この成政が丈余の雪渓の間を潜って、蕎麦粉で餓えをしのぎ、百人の供の者を八十まで失って雪中行旅をしたのも、故勝家の遺志を継ぎ、あくまで故信長様に微忠を尽さん一心でござったが、貴方様に来られては、もはや潔よう頭を下げて開城するしか、途もありますまい」と、降伏を承知したが、帰りがけにあたりを憚るような低い声で、「ただいま、秀吉の奉行をしている木村弥一右衛門吉清と申す者。以前は木村弥一郎と申して、明智光秀の家臣の端くれ‥‥よって、この者をお調べなされば、まことの 故信長様の解死人(げしにん)が判明しまするぞ」。意外な事を密かに教えてくれた。 そこで、「明智の旧臣どもは坂本城を丹羽五郎左が領置した後も、秀吉が自分で乗り込み、残 らず集めておいて『上様に謀叛せし憎っくき奴ばら』と、百姓になっておる者まで首をはねつくし、丹波亀山城のほうも養子秀勝の城ゆえ秀吉が何度も行って『旧敵の片 割れ』と光秀の旧臣は悉く殺してしまい、怨みを晴らしたと秀吉が自分で云うていたが、そんなうまく隠せおおせ、出世してる奴も居るのか。まさか、秀吉は存じよるま いのう‥‥」。 あまりな話に吃驚して聞き返すと、「いやいや、その男め、秀吉にも直にも、おっしゃらず、まだ源五様が胸一つにおさ められ、もそっと気長に尻尾を握られなされたがよい‥‥光秀と濃御前様の二人を、 今のところ信長様殺しの解死人に仕立てあげておりまするが、あれは不審でござる。 第一、光秀のごときは、あの朝は本能寺へも二条御所へも行っておりませぬ‥‥なに しろ昼近うになって、己れの旗印で謀叛があったと聞き、善後策を講じようと、夕方 近くに安土へ向かったら、山岡景隆に橋を焼かれ、仕方なしに坂本へ戻ったのでござ りまするぞ」と云われ、思わず源五は大きく首を振り、「いや、何を隠そう。おりゃ瀬田の大橋を、その時、山から見て居ったわい」と口を挟み、白い煙が湯気のようにも湖面に立ちこめた三年前の焼き払いの情景を思い出した。考えだせば、あの時たしか山岡景隆が自分から、(一万三千ときいたに、たった三千くらいしか、光秀の供廻りはいないし、どうも戦をしてきた様子もない)と、不審がっていたのを思い出した。そして、(そう言えば、山岡景隆は修築したばかりの瀬田城を昨年放り出して牢人‥‥そのあ とへ秀吉は、ねねの妹婿にあたる浅野長吉(弾正長政)を新しく城主にした。石山寺 の城も弟の山岡景友がやはり投げ出し、共に関東へ入って、今は家康の世話になり、景友は道阿弥と名乗っている) 妙な事を次々と思い出し、源五は、「すると、やはり、信長殺しの元兇は、美濃(おのう)御前でなくば、山岡兄弟の旧主の十五代将軍家の足利義昭なのであろうかのう」と低い声で佐々成政に尋ね返すと、「さあ、手前も聞いた話ばかりで‥‥」と口を濁して、そのままで打ち切ってしまった。 |
5 源五にとって呑み込めぬことが多くなった。 金の千成瓢箪の馬印を立てているから、源氏と呼ばれる系統と思い込んでいた秀吉が、実そうではないという。そして昨年から備後にいる足利義昭を隠居させ、自分が跡目を継ぎ<足利秀吉>に名を変えてなろうとさえしたそうである。ところが義昭が足利の姓を頑として譲ろうとしないから、とうとう今までの親交を打ち切って、ここ両三年続いていた仕送りの金銀が打ち切りになったと、聚楽第の利休屋敷の控えの間で耳にした。兄信長と義昭とは人も知る犬猿の仲だった。生まれつき、そりが合わなかった。だから、三年前の天正十年に秀吉が中国征伐に派遣された時も、兄信長に対して、「土産には義昭めの塩漬け首を、必ずや御検分にそなえまする」と、当時はもう初夏だったので、しかめつらしく安土ではっきり言っていたのを、源五も脇で耳にして覚えている。 というのは、もともと毛利は十ヶ国を領しているから目障りには違いないが、石山本願寺に米俵を送り届けた他は、これといって罪はない。こちらが仕掛ける戦に、向こうはいつも火の粉を払っていただけである。ところが、足利義昭は違う。兄信長の世話になったくせに、それをないがしろにして、自分の事を 「貴種である。生れが違う」と、さも兄の信長とは、てんで人種でも違うように優越感を示し、嘲弄しきっていた。だから、信長が彼を憎み切っていたのは、秀吉も百も承知の筈である。それなのに、天正十一年の暮に、将軍義昭の側室春日の局が伯母の尼に逢いに石山寺へ赴いてくると、密かにそれと会合し、それから仕送りを金銀を、備後津之郷の有安邸の借御殿へ仕送ったり、あろうか養子縁組みの話しまで取り交わしたとは、全く意外な沙汰だった。すると秀吉も、前から足利に由縁のある者で、埋火(いけび)されていた一人かも しれぬと、そんな妙な疑問さえ源五は抱いてしまった。 しかし、そのうち七月に入ると、二条昭実と近衛信輔が争った関白職を、仲裁役を頼まれた秀吉がさっさと自分で取り就いてしまった。唖然としている源五にお構いなしに、新関白は、この三月には「平秀吉」になり、内府になっていたくせに、今度は「藤原秀吉」と公表し、八月になると、「豊臣秀吉」と、また改名した。「目まぐるしゅう、よう名を替える‥‥」。源五は自分も見習って名乗りを改めようかとなどと、その頃からまた思いだしたものである。ところが、その年の十二月。光秀の旧城の丹波亀山へ行って、そこに嫁入りさせていたお市の方の三女の達子御前を、秀吉はすうっと連れ戻してきた。「妙な事をなさる‥‥」と、皆不審がっていると、それから五日ほどして、丹波亀山城主羽柴秀勝の死が披露された。秀勝とは、亡き信長の生前に秀吉が貰い受けて養子にしていた於次丸の事である。織田信長の遺児の葬送なので、源五も一門として参列したが、どうしたわけか、その嫁の達子御前は大坂城から病気のおもむきで代人を立てさせた。とうとう姿は見せ なかった。 この亀山の城というのは、八年前の天正五年の十月十六日。光秀が五千を率いて丹 波大江山から、当時は長岡を名乗っていた細川幽斎忠興父子は総勢三百五十で田能越えに攻め込み、篭城していた安村衆・鳥村衆・内藤衆を仲違いさせるよう三方に分か れて調略。まんまと安村次郎右らを仲間内で殺させて、内藤定政の伜の一族だけは、(過ぎる天正元年に義昭が初めに二条城で挙兵した時の主力で、当時、細川幽斎が仲介して降参させた)といういきさつがあったから、また細川の口ききで助けられ、光秀に仕えることになり、本能寺の変の後も、この内藤党だけは別扱いで無事である。「まんだ十代の若さで、たった一日の病で、ぽくりといくとは無常のもの」。信孝が腹を切らされて、於次(おつぎ)が急死と、信長の子らも木櫛の歯のように次々と欠け落ちていくのを、源五は憮然と考え込んでいたが、参列の城内の者は、内藤一族をはじめ、跡目も決まってないのに、みな平然としていた。 不思議でならなかったものだが、細川の家老松井新助が来ていて、これが一切の采配をふるっていた。(丹波は隣国ゆえ、それで細川から出張っているらしい)と、源五は利休と改名した師千宗易の同門の間柄で、松井新助とは顔見知りの心安さ に、「於次は毒をかわれて、もがき狂って死んだ‥‥などと、奇怪な噂も耳にし、心配してきたが、来てみたら、まるっきりの出鱈目と判った。まこと、自分らの殿様が殺されたらしいなら、もそっと家来どもが、情においても殺気立っているか、そっと一門の我らに告げ口でもしてくるはずなのに、とんとその模様もみえぬ。みな、どやつも落ち着きはらって神妙にしとるのう」と、くる前から気になっていたところを、つい腹蔵なく打ち明けると、「いや、ひどくなられては、一日しか保たなかったが、前から労咳で、非常に具合が 悪く寝込んでおられたので‥‥」と松井新助は手真似で咳をしてみせ、「関白様が見舞いに来られて、『こりゃ移り病ゆえ、このままでは嫁もろともに逝っ てしまう。共に織田の御血脈ゆえ、せめてどちらかは助けねば申し訳とてない』と思案され、阿茶々様の妹御にあたる嫁姫様だけを連れ帰られたところ、それで秀勝様は『もう助からぬ命』と覚悟なされたか、それとも気落ちか吐血して、とうとう、あの世へ旅立たれたのでござりまする」と新助に詳しく、その間の経過を説明した。(そうきかされると、嫁といっても達子は、まんだ十四歳。秀吉が不憫がって先に連れ戻ったのも無理はないし、葬式に来ないにも子供ゆえ、死人は怖がり嫌がって、駄々をこねたのだろう)と源五は納得した。 葬儀をすませ、また帰坂しようと、供の者に馬の口取りをさせ、氷板みたいな保津川の渡しまで出てくると背後から、「もうし、もうし」 と凍りつく烈しい山風を縫って声がした。頭からすっぱり防寒用のラシャ頭布をしていた源五は、初めは聞えもしなかったが、供廻りの者が聞き咎めて振り向くから、ついつられ何気なく手綱をゆるめて背後をながめた。すると、藁帽子をかぶった者が、かすかすした白雪を蹴り上げ、跳るように走ってきた。男児かと思ったら、頬の赤い小娘だった。「父は討たれ、兄も殺され、身寄りがごさりませぬ。連れていきなされ」。まつげを白く凍らせ、息を湯気みたいに吐きながら、一息に喋った。昨日から降り止んでいた雪が、また細かくちらついていたところなので、「えい」と名乗る小娘が何やら痛ましゅうなって、「よし、よし」と源五は頭布の中でうなずき、弔いの戻りではあるし、善根でも施して夭折した於次丸の冥福でも祈ってやる神妙な心ざしになってしまい、手の甲を、ほうと口の吐息で温めながら、「連れてゆけ。婢女(はしため)にでも使ってとらせ」と供廻りの者に言いつけ、雪が降ってきては視界がきかなくなると、「急ぐぞ」と声をかけて、馬の尻に鞭をくれた。時々気になるから振り返って見ると、藁帽子をかぶったえいは、まるで野兎のよう にぴょんぴょん跳ねながら、男童みたいに大股で後からついてきた。「於次丸の秀勝が秀吉の許へ養子に行った頃の年頃より、まんだ幼いが、ことによっ たら、はやいとこの生れ変わりかもしれん」。頭布の中で、源五は、えいをそんな風に考えてもみた。 |
(私論.私見)