4章、斎藤玄蕃允 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1155信長殺しは秀吉か5 」、「1156信長殺しは秀吉か6」、「1157信長殺しは秀吉か7」を転載する。 2013.5.4日編集 れんだいこ拝 |
斎藤玄蕃允 |
1 「思えば、絶えて久しい‥‥長いことだった」。吼えるよう斎藤玄蕃允は喚いていた。「十九年の前の永禄七年八月に、この井の口の城を奪われ岐阜城と名までかえられ、それからどっと入り込んできた尾張者らに美濃の者は銭を巻き上げられ米を持ち去られ、娘を辱められ、隠忍、今日に及んだが、ようやく解き放ちができた。やっと美濃の国を我ら美濃衆の手で取り戻せた‥‥これまで<わやく>し放題だった尾張の役人どもは、村ごとに百姓が捕らえて皆木曽川まで追い立てたそうじゃ」。顔を真っ赤にした男は、力みかえりながら、うっすら眼には泪を浮かべていた。(相変わらずこの男の泪もろさは変わらん)と見詰めはしたが、それにしても、源五はまるで茫然としていた。
なにしろ、ようやくの思いで西近江の石山寺から、この美濃まで戻ってきて、自分が、さて岐阜城主になろうとしたら、とうにこの男がもう新城主に納まっていたのである。(こんな‥‥莫迦げた話があるもんか)。源五はすっかりむくれ切っていた。もし他人が攻め込んできて落城させられていたものなら、そりゃ、まあ諦めもつく が、なにしろ、この男たるや城代家老として留守番していて、主君の信忠の討死が伝わると、すばやく空巣を狙って、さっさと自分が城主の褥に座ってしまったのだ。途中で瀬田ヘ寄り、ずっと道草をくって遅れて戻ってきた源五よりも城に初めからいたこの男の方が手っ取り早く、われ先にと城主に納まってしまったのだから、(こんな没義道な話はない)と源五は腹を立てた。知らない奴にしてやられたのなら諦めもつくが、童(わっぱ)のころから鼻つらを突き合わせて育ってきたこの男に、まんまと横取りされたのでは、我慢がならぬわい) 怒鳴りつけたくて源五はいらいらした。 それに、 (十九年ぶりにこの城を取り戻した)と、この男は云っているが、当時の城主の斎藤右兵衛大輔竜興というのは、この男の 父や他の兄弟を皆殺しにした斎藤義竜の跡目なのである。そして織田勢は、元龜二年(1572)八月の刃根峠合戦で、朝倉勢に一味して押 寄せてきた竜興を討ち取り、首を供養のため、この男の父の菩提寺の墓に供えてやり、手柄をたてた宮川但馬には、兄の信長が言葉をかけてやって、銀二枚の褒美までくれ てやっている。 竜興の妻子も朝倉一族と運命を共にして、すっかり根絶やしにされ、この男の親兄 弟の仇はちゃんと晴らしてやっている。つまり、この男から織田一門は感謝される事はあっても、こんなむげな仕打ちをされるいわれは全くない。(この男は全く忘恩の徒である。美濃衆のために美濃を取り戻したなどと、もっともらしい口をきいているが、とんでもないくわせ者である。十歳で孤児になったから、 この男を兄の信長が養ってやったのを、一体どう考えているのであろうか) 腹が立って、拳固で思い切り張り倒してやりたかった。 弘治二年(1556)四月二十日に、この男の父道三は長良(柄)川を挟んで斎藤 義竜と戦い、城田寺(きだじ)の森で、その首を刈られたのだが、その二日前に鶴山 の陣所から、当時十歳だった末子のこの男に黄金の念持仏を形見に持たせ、「仏門に入れ坊主にしてもよいから、なんとか生かしてやるよう助けてほしい」と、清洲城へ送り届けてきたと聞き及んでいる。だから、あの時、兄の信長が頼まれたとおり、この男を小僧に出しておけばよかったのだ。 それなのに、なまじ情けをかけて兄信長が武者に育てたばっかりに、今日こういう羽目に陥ったのである。 もちろん、当時は源五は六歳[九歳?]で、まだ那古屋城の方に住まっていたから、詳しくは知らない。だが、八歳の夏からは清洲へ引っ越したので、それからは四つちがいのこの男とは馴染みなのである。よく五条川で泳いだ事もあるし、蓮の実をとりにいって、一緒に苗字池へはまりこんだ事すらもある遊び仲間である。他の兄弟は幼い時からあちらこちらへ養子になどやられたが、源五は麻疹をやった後、よく熱を出したりして虚弱だったから、清洲から小牧そして岐阜と、他家へは行かずに育った。だから、この男ともそれから一日中ずっと一緒で、血肉を分けた兄弟より、もっと 親しくしていた筈だ。だからこそ、(この男が家老として城にいると思えばこそ、その力添えで自分を岐阜城主に守り立てさせよう)と勇んで石山寺から無理をしてまで帰ってきた。それなのに、何も知らずに岐阜城の大手門まで辿りついたら、いきなり番衆どもに 取り囲まれ、連行されて、「新しい御領主様である」と云われ、はっと顔を上げると何の事はない。この男が済ましこんで座っていたのである。 そして、その後は言い訳がましく、これまでの尾張人の横暴ぶりを訴え、それで、 この男は己れの非行を弁護しようとした。(ばかげている)と立腹しても、なにしろ城内の武者どもがすっかりこの男の指図のままに動いているのだから、徒手空拳で戻ってきている源五には、みな気の毒そうな眼は向けてくれるが、さて誰もろくに口もきいてはくれぬ。これではなんとも太刀打ちできはしない。(‥‥止むを得ん。しようがないから、当座はおとなしくして暇をみて、この男を説 き伏せてやろう)と、源五は考えた。つまり、(信長の弟の織田源五郎長益が城主なら世間も納得する。だが、家老の斎藤玄蕃允では軽くみられて、いつ何時よそから攻め込まれるか判らない)と、その不用心さをよく言い聞かせて納得させる気だった。(おりゃが城主で、この男はまた元の家老。それが物の道理・序列というもの)と、それまでの辛抱ぞと、一人でうなずき腹の虫を押さえている。それなのに、「なんと云うても昔馴染。どうじゃろ、こう戻ってみえたからには儂に合力して源五様。ひとつここの家老職でもやってもらえんだろか」と臆面もなく、この男は懐かしそうなまなざしを向けて相談などしてくる。(これでは話があべこべで、反対ではないか)源五としては返事のしようもない。そこで、黙りこくっているのに、横合いから、「故斎藤山城守入道利政様の遺孤、玄蕃允利尭(としたか)様が、今や美濃国主。当 城の主にあられる。さて弘治二年の昔、その利政様へ謀叛されし義竜様の血脈も、越前にて絶えおる今日、昔は矛と楯の間柄だった者達も、今や旧怨をみな水に流し、『美濃衆のための美 濃』に、やっと取り戻した喜びで、こぞって一致団結してござるによって、ここはお身さまも、ひとつこの際お力添えをばお願いしたい」と玄蕃允の代わって、その舅にあたる安藤伊賀守守就が大声を出したが、やはり老人も泪ぐんでいて、最後は言葉にならなかった。 稲葉伊予守一鉄、氏家卜全と並んで美濃三人衆と呼ばれる安藤伊賀は若い頃信長に嫁いだ奇蝶姫の警護に尾張へ行き、(美濃から来たというので、美濃御前と最初は呼ばれていた姫を、美は<み>の音に通じ、敬語であると、信長が『濃』と呼び捨てに しだしたのを苦々しく思って)、面と向かって苦情まで言ってのけ、「お濃の方」と 呼ばせた程の剛の者である。弘治二年に駿河の今川勢が岡崎から攻めかかり、山岡砦を奪って寺本の砦を下し、村木まで押寄せてきた時も、安藤伊賀は物取新五以下、田宮衆、甲山衆、安斉衆を率いて加勢に駆けつけ、一月二十日から那古屋をはじめ志賀、因幡の二郡に進駐して敵の侵入を防ぎ、その後も斎藤道三名代としてしょっちゅう美濃衆を率いて尾張へ行き、桶狭間合戦の起きるまでの四年間は駐屯するようにして尾張を守ってやって、信長から感謝され、その後、信長に奉公してからも姉川合戦のあと、浅井に箕浦を攻められた時も信長を庇って殿軍を勤め、氏家卜全は討死。伊賀も鉄砲創傷三ヵ所、槍傷ふたとこを受けて、瀕死の重傷まで被りながら勤めを果たしていた者なのである。 ところが、一昨年八月十二日、兄の信長は長年の敵だった大坂石山本願寺を納めると、それまで大坂天王寺に在城させ、退陣させていた佐久間父子が怠けていたと腹を立て、高野山に追放すると、(ものはついで)と考えてか、五日後にさらに家老職の 林佐渡をも、昔の離反を種に遠流処分に附した。これは安藤伊賀が那古屋へ進駐していた頃、「このままでは、いずれは尾張の国は美濃の斎藤道三のために併呑されてしまう」と、当時林新五郎と呼ばれていた佐渡が騒ぎだし、自分が城代をしていた那古屋城を 放り出して荒子の前田与十郎の城へ引き払い、「末森城の信行様をお跡目に替えよう」と、己が姉の嫁入り先の娘、土田御前の子を擁立しようとして破れ、弟の林美作は討死したが、のち佐渡は詫びを入れ許されたという、既に二十五年前の事である。 安藤伊賀も、いわば、その時の林佐渡の喧嘩相手のようなものだったから、それを兄は想いだしたのか、当時の喧嘩両成敗のような恰好をとり、一緒に所領を没収してこれも追放にしてしまった。もちろん昔から何かと色々な事が癪には触っていたのだ ろう。(‥‥わしが昔、那古屋から熱田の宮の浜を守っておらねば、桶狭間合戦の起きる前に織田家はとうに今川に滅ぼされとった筈。それじゃによって、信長殿は随分とも有り難がられて、再三、再四、頭を下げて礼を云われとったに‥‥今になって、その恩を仇で返されたる今度の仕打ちはあまりに酷うござる)と、源五もこの男に愚痴をこぼされ、なんとか信長にとりなしてくれと再三にわたって頼み込まれたものである。だから、(安藤の旧領の美濃揖斐北方五万石のうち、せめて半知なりと、伊賀守就の嫡子、尚 就(ひさなり)にやって、改めて取り立ててくれるよう)と信長に頼み込み、跡目の信忠にも口添えを依頼してあったが、まだそのままになっていたのである。もちろん、尚就の妹を妻にしている斎藤玄蕃允は、なんといっても岳父のことゆえ、これも八方に運動をしていたのだろう。 それに、こと改まって、安藤伊賀が、「美濃者のために、美濃の国を取り戻したのだから、協力してほしいものじゃ」 と源五に訴えたのは、源五の嫁佐紀が、東美濃郡上神路城の遠藤胤基の娘で、その伯父の遠藤慶隆(よしたか)も同じ郡上の八幡城主だったから、源五も美濃者とみなして、それで云ったのであろう。佐紀の姉も、亡くなった美濃三人衆の筆頭、氏家左京亮卜全の長子に嫁ぎ、今は大垣城主氏家直通の妻となっている。つまり、尾張の信長の弟とはいえ、源五の縁者はことごとく所の土地者で、同じ様に美濃者扱いをされたにしても、さながら当然のような婚閥になっていたのである。 |
2 「この度の事、どうしてそのように早う判って、こない迅速に手がうてたのか」。気になるところだから、源五は伊賀が立ち去ってからそっと低い声で尋ねた。「内蔵介でござる」。ぽつりと玄蕃允が答えた。「ああ、そうか。斎藤内蔵介は、美濃三人衆の清水の城主稲葉一鉄入道貞通の妹婿でありしか」とは膝をぴしゃりと叩いた。だが、あっけにとられた。源五は開いた口がそのまま塞がらなかった。明智光秀はもとより美濃可児郡明智城の出。その家老の内蔵介は美濃清水城の婿。その上、話によると、美濃海津の今尾の城主高木貞久の手の者や美濃の地侍が斎藤内蔵介に招かれ、六月二日の軍勢には加わっているというから、「これでは、美濃の反乱ではないか‥‥」。さすがに源五も二の句が継げなくなった。
よく世間で、「盗人を捕らえてみたら我が子なり」とも云うが、こうなってみると、 これでは、足利義昭とばかり思い込んでいた発頭人が、実は信長の領国美濃人共の謀叛ということになってしまう。呆れ返ったことだった。 だが、そう言えば、思いあたる点も多かった。なにしろ、二条御所で、あの幼い甥の御坊源三郎が、「寄手は山の者で、恰好に見覚えがある」ともいっていたが、なるほどそれも道理で、源三郎が養子にやられて十年も育った岩 村の城も、やはりこの美濃の国なのである。それに本能寺の攻めぶりの生ぬるさも、美濃人なればこそ、長年にわたって信長に お目見えしているから、どうも具合が悪くて、一息には攻め込めなかったのだろう。信長の伜どもが、他にも沢山いるのに、信忠だけを狙ってこれを殺したのも、現に、美濃岐阜城の当主だからで、どうしても亡き者にする必要があったのだろう。だが、美濃人といっても、十歳の時から尾張人同様に清洲城で育てられたこの男が、何故それに一味したのか。血脈といえばそれまでだが、どうも、そこが合点しかねた。(なんじゃろう)と思いあぐねた。だから、源五は武者窓の連子(れんじ)格子から、鉄砲よけの仕寄矢来(しよせや らい)の竹束みたいに、尽き刺さってくる白い陽光を、頭から浴びた男をじっと見据えながら、 「なんで、三法師や、下の赤ん坊まで押し込めて‥‥わりゃ‥‥この城を乗っ取りお ったのかや‥‥」。決めつけるように詰ってみた。なにしろ、自分の妻子もニの丸からこちらの岐阜城本丸へ移され、人質みたいに押さえられ、源五としてはもはや城主を横取りされた上に、全く手足も出せぬ状態にまで追い込められていた。それだからこそ癪にさわって、すっかり声まで震えて出てしまう。忌々しかった。 それなのに、相手の玄蕃允は、「わしの持城。梨割山の加治田城を、自分から願い出て拝領した時、源五様、お前さまという方は、えろう心配し、あれこれとこのわしに諌めなされたろうが‥‥」と、古い事をいきなり言い出してきた。 |
3 天正五年八月の事だった。兄信長は柴田勝家を大将にして、斎藤玄蕃允や氏家直通、安藤伊賀らの美濃衆を、加賀衆、若狭衆に加え、羽柴勢も入れて上杉謙信攻めに出陣させた。源五は兄の言いつけで、軍監(めつけ)として、名代役でこれに参軍したものであ
る。信長の予定では、羽柴秀吉を越中へ持ってゆき、上杉方の城を片っ端から談合で 開城させる筈だった。ところが、秀吉という男は、尾張生れというので美濃衆にはてんで好かれんし、さりとて北国衆にも味方がない。それに何分とも素性がはっきりしていないから、何衆という郷里の直属がいない。それで、他から軽んじられ、面白くない事があったらしく、無断で兵を引き上げ戻ってしまった。このごたつきですっかり織田軍がもたついているうちに、せっかく救援に赴いた七尾の城を、さっさと上杉謙信に落されてしまい、役立たずで戻る羽目になった。信長は憤ったが、なにしろ勝家や秀吉をあまりむげには叱責できないものだから、弟の源五をつかまえ、「このうつけめっ。何歳になる」と、散々にまるで身代わりみたいに怒鳴りつけられた事がある。
さて、その北国の軍監職は途中で全軍を引き返してきて、そのままだったから、翌年九月、越中の富山でまた一揆が起きたと早打ちがきたとき、源五は叱られた信長へのはらいせもあって、(構った事はないわい)と、自分だけの一存で昔馴染みの斎藤玄蕃允を総大将に任命してやった。そして、昨年の秀吉で懲りていたから、今度は他国者を混ぜず、美濃衆六千だけを率いさせて出動させてみた。すると、玄蕃允はよく働いてくれて、十月四日の月岡野合戦で、敵の首級三百六十 も討ち取り、ついで今泉城を占領し、神保安芸を守将に残して引き上げてきた。これで源五も昨年の不首尾を取り戻したが、玄蕃允もおおいに面目を施し褒美に「何処の国なりと信忠より望め」と信長から言われた事がある。すると玄蕃允は美濃へ戻ってから、昔佐藤右近の持城だった美濃加茂の梨割山にある加治城を信忠に願い出た。その話を聞いたから、源五は驚いて、「善い加減にせんか。正気の沙汰か。何処なりと望めと云われとるのに、よりによって加治田とは何じゃい。あそこは源氏野から金山にかけて山ばかりで、ろくに畑もない痩地ではないか。あんな所を貰って何とする。しかも蜂屋川から源氏までは別所部落が続いて年貢もとれねば、人夫も差し出さんひどい所だ。むちゃすんな。止せ」と慌てて諌めてやったものである。 だが、玄蕃允は首を振って承知しない。(‥‥せっかく童の頃からの仲良しに手柄を立てさせてやったというのに、そんな実入りのない荒野の城を所望するとは、人の親切を無にするにも程がある)と源五は立腹し、散々に翻意させようとくり返し忠告したものである。ところが、この男は人の親切が判らんのか、口にしたからには変更するのは恥だと 思うのか。頑固にそれを通してしまった。当時まだ二十一だった城主の信忠も、やはり諌めて、もう少し米のとれる所をすすめたらしいが、玄蕃允が聞き入れないので、翌年長男が元服し、親の名を継ぎ、斎藤 新五郎と名乗ったのを幸いに、十三の伜を小姓に取り立て、加治田の城の埋め合わせみたいに切米五百俵の扶持を、改めて伜分として加増などしたものである。「覚えとるぞ‥‥だが、その加治田の城がなんとした。云うてみいや」(散々に人をてこずらせ、それでも頑張り通して我意を張ったくせに、今になって愚 痴でもあるまい。古い事を持ち出したりして、ぬけぬけとよくも言えたものだ)と源五は五年前のいきさつを思い出し、ぶすっと膨れ面して運ばれてきた盃を受け取った。すると、 「言っちゃ悪いが、お前様の兄は、とんだお人じゃった」。瓢(ふくべ)を傾けながら、男はそんな言い方をした。「ああ、なんでも云うがよいわ。兄貴が生きとる頃は、皆恐ろしがって何にもよう云わなんだくせしおって、本能寺でどうやら骨になったと判ってくると、おりゃの耳に 入ってくるのは『ありゃ、酷い男じゃ』と、ざん訴ばかり。誉め言葉なんか一つもき かんぞ」。ぐっと呑み干すと、盃の雫をぴしっと切って、源五は顎を引いた。 なにしろ童の頃から兄の信長に拳固で殴られたり、弓の折れたのでひっぱたかれているところを、この男には見られている。今更隠しだてをしたり、兄を庇ってもしょうがない、とそんな気もしていた。それに、この男に(加治田城をうっかり貰って困った)などと愚痴を言わせるために、こっちも兄の仕打ちへ未練がましい繰り事を云うのもいやだった。なにも追従する事はないと思ったせいもある。 だから源五は自分で手酌で傾けながら、「はっはっは」と高笑いをしてのけた。もちろん、意味もない馬鹿笑いだし、虚勢でもある。それなのに、「なら、話してしまおうかのう‥‥」と玄蕃允も苦笑いをして膝を崩した。「弘治二年十一月に、わしが親父の斎藤道三が鷹狩にこの城を出た後で、大手門を閉め、わしの異母兄義竜が、突如として謀叛して、わしの上の小さな兄どもを討ち殺して、とうとう親子喧嘩のような戦になった‥‥が、あの起こりというは‥‥お前様は当時五つか六つで知りなさらんが、ありゃ、すっかり計略にはめられてしまった罠だったのよ‥‥」。妙な事をいきなり言い出してきた。「そんな訳知りの事を云うな。この俺が五つか六つならその方も鼻たらしの九つか十 じゃろ」。何を云っているかと源五は鼻先で笑った。「そりゃ、そうじゃが、生き残りの者がよう教えてくれた‥‥なんせ尾張者みてえな、平野でノンビリ育ったもんは同じ様な駿河平野の今川勢には太刀打ちできても、美濃みてえな山国のもんにゃ、からっきし弱いもの。そこで、お前様の兄貴の信長という人は、『父信秀の代より連戦連敗の美濃を何とか早く処置したい。己れの舅ながら道三入道は恐ろしいゆえ、早う葬りたい』と念願したらしいが、なんといっても当時は桶狭間合戦の前で、今川方から分取りの鉄砲類があるはずもなく、武器にしろ兵力にしろ、とても義父には太刀打ちできなんだ。そこで思いついたのが、謀略じゃよ。『義竜は将来の業病持ち。どうせ先行きは長くもなかろうから、うまくこれと道三入道を噛み合わせ、一緒に倒してしまったら、熟柿が木からぽとんと手に落ちるように、美濃一国が自分の手に落ちてこよう』と、そないに画策したんだわな」。「今になってそんな呆げた事を云ったって、なんの証拠があるかや」。(死んだらしからとて、そう兄の信長を悪者扱いにしてくれるな)と、源五は大きく首を振った。「あるある、大ありじゃ。わしゃ、そのため、信忠様が奇妙丸といって、まんだ四つん這いの頃から自分で志願して小姓みたいに仕え、天正三年にあの方がここの城主になった時、他所へ土地や城をもらって独立するのを避け、わざと進んでその為なれば こそ、ここの家老になったのだわさ」。「待てよ‥‥」。瓢を振る恰好で相手の口を封じながら、源五は考えた。少し話がひっかかるような気がした。笑ってばかりはいられなくなった。(妙な男である)と、源五は今更のように向き合った玄蕃允の太い虎髭を見詰めつつ考えた。「頼む」と、わけを話して戦場へ出せば、この前の越中合戦のように、六千の兵を率いて獅子奮迅の働きをして大手柄を立てるほどの実力をもっている。そのくせに、普段はてんで稼ごうとはしない。普通の者は少しでも手柄をあげ、立身出世しようと心掛ける。中にはこすっからく 他人の武功まで騙し取って、それで出頭人になるたがる者さえいる。それなのに、この男ばかりはまるっきりあべこべの生き方をしている。たしかに妙な所がある。兄の信長が「良き城を選べ」と、褒美にいったときも、「もう信忠も二十歳を過ぎて一人前ゆえ、玄蕃允も美濃を出て、近江なり大和でよき土地を持ち、兵馬を養って一人前の城持ち大名になり、ひどかどの武将になれや」という腹づもりだったのに、この男にはそれがてんで通じないらしく、相変わらず美濃岐阜城の家老職のままで甘んじて居残り、城も、やはり美濃国内の、それも遠慮したのか、よりによって山地のひどいところを恰好ばかり貰ったにすぎない。だから当時、誰もが玄蕃允の無欲ぶりに呆れ、「少し、おつむが弱いのではないか」とさえ、そんなひどい取り沙汰をされたものである。だが、源五はずっとこの男を側から何十年と見ている。お人好しでとろいかもしれぬ。だが、莫迦たわけなどではなかった筈である。(すると、この男、ひねくれもんで、これまでは世の中をすねて投げていたのだ) 源五も腹の中で呟かざるを得なかった。勿論、22日になって秀吉が織田信孝と共に不破の長松まで押し寄せてくると、彼は降参してしまった。 |
清洲城へ源五が移って、初めて四つ年上のこの男、玄蕃允を見たとき、当時奇妙丸と呼ばれた四歳の信忠を背に乗せて広敷を、 「おんまに候」と駆け廻っていた。奇妙丸に頭や尻を叩かれると、その頃十二歳だったこの男は、「ひ、ひーん」と物悲しげにないてみせ、奇妙丸が喰いかけの餅を突き出すと、「飼葉にて候か。うまし、うまし」。はしゃいで背中の幼児を喜ばせていたものだ。だから、源五は初めのうちは、この男を家来筋から城勤めに上っている小姓ぐらいに考えていた。そこで、まだ八歳だった源五も、(殿様の弟)という自負心から、奇妙丸同様にこの男をこき使った。てんで家来のように扱ったものである。なのに、黙々とこの男はいつも言いなりになっていた。源五が木太刀でいたずら半分に滅多打ちに殴りつけ、瘤だらけにしても、泪の薄膜をはったまま、じっとそれに堪えていた。日がたって、家来ではなく、この男は(居候)だと近習の者から教えられた。しかし、意味が飲み込めぬまま、源五は名前かと勘違いして、「居候、居候」とよびつけて、木に登らせ下から竹でつついたり、時には自分が上から尿をひっかけたりして、子供の持つ残忍さを、あきもせずにこの男には繰り返した。「美濃の大殿様御在世中は、嫁に来られた濃御前様の権勢が凄まじく、こちらの殿様も小そうなって遠慮しとらしたが、今はてんで見向きもしやあせんで、あの子を苛めていやあても、怒らっせんわ」と侍女達までが地言葉であの男を軽んじた。だから奇妙丸や源五の兄弟どもがした、いたずらや不始末まで、みんなこの男に押しつけてしまった。そして、侍女共は自分等の落ち度になるぬよう、寄集まっては声高に叱っていた。「美濃のもんは山猿じゃ」。面と向かって罵り蔑む小姓もいた。この男が、
「兄信長の室、美濃から来たので濃御前と呼ばれる女性(にょしょう)の弟」と、源五にも判ってきたが、侍女達の噂するように、里の大殿様が死んでからという
ものは、こちらの殿である兄がよりつきもしなければ声をかけられても返事もせずに、全く無視しきっていたから、濃御前も己れの部屋に引き篭ったまま、滅多に廊下へも
姿を見せなかった。だから、(上のなすところ、下もならう)というが、殿様である兄信長の態度がガラリと一変したので、侍女や近習も安気にこの男を馬鹿にしきっていた。源五達の兄弟もそれを真似て、この男が堪りかね、べそをかくまで蜻蛉の翅をむしるような酷い苛め方をしたものである。
なにしろ、美濃御前が嫁にきて両国の矛楯は一時おさまっているものの、その前は何度もこっちが押しかけては散々な目にあっている。つまり、城内の者は親や兄弟を殆ど美濃戦で失っていたせいもあるだろう。だから、尾張の者にしてみると、美濃の人間はみな仇敵の片割れなのである。そこで、よってたかってこの男は美濃への憎しみを小さな身体一つに受けていたのであろう。まるで下男扱いをされ、時には水汲みまでさせられていた。小さな手の甲に何本ものひび割れさえ作っているのを源五は覚えていた。だから奇妙丸の側にいつもへばりついて馬になって這い廻っている方が、この男にとっては苛められぬための隠れ蓑だったようである。それを思い出すと源五は同情したくもなって、(あれだけ、よってたかってちょうらかされたり[名古屋弁で『馬鹿にされたり』の 意]、意地悪されたら、人間誰しも僻み根性が植えつけられてしまうわい)と考えれば、まんざら判らぬ事もなく、(それが陰に篭って爆発したのが、今度の事かも知れぬ。そうなると、この男は一味ではなく首謀者。つまり斎藤家の忘れ形見なので、みんなに担がれ総大将となったの だ‥‥つまり光秀を指図していたのは、こうなると備後にくすぶっている足利義昭ではなく、実は美濃岐阜城にいたこの男だったのだ)と、そこまで煎じ詰めていけた。源五は呑んだ酒の酔いもすっかり醒め切ってしまった。 「あなた様は城中の者を油断させておいて、わたしら母子を連れ出すか、逃がして下さる存念でござりましょうが‥‥わたしの親兄弟はもとより、姉の婿殿も眼と鼻先の 大垣城‥‥決して案ずる事はありませぬゆえ、貴方さま、お一人でこの城を欠け落ち なされませ。いつでも密かに御発足なされるよう、旅の仕度はできておりまする」。妻の佐紀は織田信長の弟にあたる夫の源五の身をやはり案じて、(自分達は放っておかれても大丈夫だろうから、この反織田の旗織を鮮明にした岐阜城から脱出するように)とすすめながら、「吉村様邸内に前田玄以様が昨夜より隠れていなさって、ぜひ貴方様にお縋りしたき旨、小女がそっと人目をしのんで知らせに参りましたぞえ」と、低い声で囁きかけるようにつけ加えた。吉村又吉は、「二おとな」とよばれる次席家老で、主席家老の斎藤玄蕃允が新領主に納まったのが面白くないとみえ、六月二日までは何くれとなく玄蕃允に助力していたくせに、翌日からは病気だと休んでいる。と源五は、かねて耳にしていた。(そこに前田法印が密かに隠れている、とは面白い)と、だから源五は考えた。 あの二日の朝、妙覚寺を出て二条御所へ移動する時、信忠は薬医師として陣中に伴ってきている前田法印を呼んで、「今からの戦は傷を手当をする暇もあるまい。それゆえ、無用の者が篭城する事もない。よって、そちはこれからすぐ岐阜城へ行け。余にもしもの事があれば、美濃者は 尾張人をひどく憎んでいるゆえ、三法師や下の赤子の身が案ぜられる。よって、着到 次第すぐ尾張の清洲へ子らをば移すよう」と言いつけ、金蘭の黄金袋を渡していた。 そこを源五は眺めて、見知っている。だからつまり、信忠の本陣を離れたのは源五より前田法印の方が半日も早かった筈である。それなのに、源五は瀬田、石山寺と廻って、ようやく昨十日の朝にこちらへ辿りついたばかりだが、一直線にかけつけるべき前田法印も昨夜の着到ときけば、道中で何をしていたかと首を傾げたくなる。(‥‥京から岐阜までそんなにかかるはずもない。あの坊主め、どこへ寄り道してきたのだろう。それに、玄蕃允にこころよくない今の吉村又吉を誰に教えられて密かに訪ねてゆき、何故そこに匿われているのか)と、美濃へ初めて来たにしてはおかしすぎる前田法印の行動に、妙な疑問をもち、(あの坊主めの仕事は、三法師を清洲へ移すことだから、本来ならもそっと急いで早 う着到すべきなのに、のんびりかまえてきたとは、こりゃ、この城がもうあの二日の日から玄蕃允に押さえられ、慌てて駆けつけても所詮は間に合わない。とても独力では連れ出せぬと、誰かに教わってきたのに違いない)と、すかさずそんな判断も下した。 そして、 (まさか、この俺に密かに逢いたいと申し込んできたにしろ、『三法師を盗みだしてくれ』とも頼むまいから、ありようは玄蕃允の新領主を好まぬ者を糾合して、謀叛に謀叛をして、この城を奪い戻し、三法師を手に入れる算段らしいが、まさか吉村又吉の手勢だけでは何ともなるまい。すると、他に加勢が来る事を意味するが、その前田 法印をずっとこれまで引き止めて相談し、蔭で操っているのは一体何処のどやつ‥‥ 誰じゃ)と考えると、やはり美濃での大物は、本能寺で討死したと伝わる森乱丸や力丸、坊丸 の長兄の「森長可」しか、まず考えつかぬ。甲州平定後、武田の遺領の信濃四郡を得て、川中島の海津城にいるわけだが、前の美濃可児郡の金山城は森乱丸が貰っている。(‥‥さては、おのれめっ、これが黒幕なのか)と、しきりに思案をめぐらしていると、「前田玄以殿の話、どのようかは、存じませねど、この際、あまりかかわり合いにな らず、おん身お一つを大切になされませ」。妻は考え込んでしまった夫、源五を心配して、己れの口から言い出した事なのに、玄以の話は取り消してしまい、「しっかりなされませ。大切な時にござりまする。貴方様にうろたえ、しくじられては子供らの行く末にかかわりまする‥‥玄蕃允様の父君道三ほどの豪傑でも、うかつに鷹狩になど出かけたばっかりに、無惨やお子二人は殺され、末子の玄蕃允様とて‥ ‥今まで散々ご苦労続き。なんせ父親がだらしのう、へまなされますると、あわれ子供らの生涯が酷うなりまする」。下げ髪を揺すって、ここを先登と意見する妻の声に、聞かれている源五はうんざりさせられた。初めは(夫の身を案じてくれる、けなげな妻よ)と思い、(これでこそ妻にも逢とうなって戻ってきた甲斐があったというもの)と、少しよい心持ちになって満足して いたが、よく聴いていると、なにも夫の心配ではなく、(夫が自重して賢明に立ち振舞ってくれぬと、子供等が先行き、父親のせいで難儀する。よって子供等の将来の事 をよく慮って行動しろ)というのである。これでは、まるっきりお説教でしかない。案じられているのは何も<夫>ではなく、己れが産んだ<子供>の方だけだった。妬くわけではないが、つまらんと思った。 源五は眠れぬまま、その晩いろんな事を考えたところ、あの男、つまり斎藤玄蕃允が世をすねているのは、あながち子供の頃に清洲城で苛められたせいばかりではなさ そうだと気づいた。あの男は親父が偉すぎて名前が轟き渡っているから(多少の働きをしても、とても追いつくまい)と考え、それで、(どうせ俺は不肖な伜で比べ者にはならぬ)と、諦めきって、全てを放り出していたところ、俄に魔がさしたというのか、(ドカーンと一発。天地をひっくり返そうなど、えらいことをしでかして、土地の美濃者をば喜ばせ、親父以上の男になろう)と気張ってしまったのが、今度の出来事ではあるまいかと、そんな気もした。(‥‥なにしろ美濃は岐阜城下の加納、柳ヶ瀬一帯の座衆と申す問屋も、みな清洲や 小牧から引き移ってきた尾張者の店ばかりで、尾州人の多いところは<楽市>といっ て貢銭も取らぬ。そのかわり美濃人には夥しい軍費を容赦なく振り当て、役人もみな木曽川を越えてきた尾張人ばかりで、情け無用に米粟をとりあげ、軍夫に女まで狩り 出していたから‥‥よって、その怨みをはらすべく、美濃の反乱は明智光秀や斎藤内蔵介を先手にして勃発したものだろう)と、考えを纏め上げて源五は眠った。 だが、朝になったとはいえ、まだ眼もさめずに、うとうとしている矢先、二間先の 子供達がもう起きだしたらしく騒ぎ始めて源五の朧げな頭にガンガン響いてきた。「うるさいのう‥‥」と舌打ちしながら、ふと源五は二条御所で一緒だった玄蕃允の一人息子の鎧姿を想いだした。十七歳の斎藤新五郎は、あのうす茶っぽい濛々した煙に包まれ、彼処で討死したのだと、源五ははっとさせられた。 (‥‥いくら親が名をあげたいと気張ったにせよ、己れのたった一人の伜の新五郎を、あの男が自分の売名のために棄て殺しなどできるものだろうか‥‥こりゃ何かが別に ある‥‥そうでのうては不条理じゃ)と、掛け布を頭からかぶったまま思案した。(そういえば、あの時、『安土から二万の救援がくる』などと嘘をいいふらしたのも、『火がついたが消せない』と呼び廻っていたのも、みなあの男の伜の新五郎だった‥ ‥親から言い含められ、死ぬ覚悟で最初からいたのだ‥‥すると、これまで耳にした 事もない、あの天地をつんざく大爆発を仕掛けたのも、あれの仕業かもしれぬ)と疑惑が渦をまいてきた。そして耳の鼓膜が破れそうだった爆音を蘇らせながら、(‥‥道三と義竜に父子喧嘩させたのは信長の謀略)と、あの男が言っていたのを改めて又思い出した。(そんな莫迦な‥‥)と一笑にふして、耳も傾けなかったが、どうもこうなるとひっかかるものがある。何か関連がありそうにも思える。 源五は起き上がり帷子を着ていると、急いで手伝いに妻は近寄っては来たものの、「なぁ、早まった事はなされまするなよ。なんせ頑是ないあの子らが不憫にござりまするでのう」と駆け廻って遊んでいる子供を指差して、また念を押した。しかしそれどころではない。(あんなうるさい子供が何で憐れじゃ) 眠いところを騒がれた忌々しさに、口まで出かけたが、源五は止めにした。唇を曲げたまま広敷へ出ると、天守へ昇って玄蕃允の許へ急いで行った。そして、板戸をあけて顔を合わすなり、源五は、「昨夜の話、途中だったが‥‥加治田の城は、川辺へかけて猿啄(さるばみ)衆の巣じゃろうが」と、思わず歩きながら考えてきたことを、つい口早に云ってしまった。自分でもしまったと思った。それなのに、意外にも相手は、こくりとそれに頷いた。だから口に出した方が、あべこべにさてはと驚き、「げえっ」と源五は唾をのみこんだ。 |
5 <猿啄衆>と呼ばれているのは、美濃加茂郡蜂屋川流域の、上、中、下の蜂屋の別所で、古来、甘みの素である山蜂(やまんばち)の巣から蜜をとるのが慣わしで、部落も蜂の習俗にならい、戸ごとに女が女王蜂の如く主人で、何人も亭主を抱え、その他の男は奴(ど)と呼ばれるか、狗みたいに「ちょっ」と呼び棄てられて、「何千代」と名乗り、いわゆる働き蜂並に生涯労役に服する所である。なにしろ生殺与奪の権は全て女が持ち母系家族で、公けの年貢も人足割当ても延暦の昔からない別天地である。そして渋柿のしぶを抜いてしまったものを甘味用に蜂屋柿と称して売り歩いたり、山から出る砂鉄で肥田瀬から安桜山にかけては、鋳物や鍛冶が盛んである。なにしろ
別所の入り口に関があったことから、俗に<美濃の関もの>と呼ぶ孫六銘の刀剣も鍛練しているが、稼ぎの銭は、白山権現か薬師堂へ納められ、一切は、やはり女ご衆支配。もし、それに叛くような不逞な男は、人買いの手で他国へ売り飛ばされてしまうような格別の土地柄で、他村とは全く婚姻も付き合いも一切しないから、<村はちぶ
>などと言われているが、ここの男どもは、幼い頃より口やかましい女に厳しく躾られ、「どんな辛抱もできる」といわれ、応仁の乱このかた戦には重宝がられて人買いの手で集められる。
素手でくるのが<すはち>、法螺貝を持ってくるのを<らっぱち>というが、織田の家中では<素破(すっぱ)><乱破(らっぱ)>とよんでいた。なにしろ、戦が終わって部落へ戻されると、また女ごしゅにこき使われ、ろくに喰うものも貰えん境遇なので、戦の時は、それらの者どもはみな、「死んでも惜しゅうない命じゃ」と、実にめざましい働きぶりをしてみせる。だから、手柄を立てた者を、(そんな、男の苛められる里へ戻してやるのは不憫じゃ)という事になって、部落の女主人に身代銭を遣わして、家臣の端くれに取り立てなどもした。又、そのため彼らも必死に働いた。だから、織田家中では、蜂屋頼隆が、その支配頭のような差配をしていたが、山に 篭る蜂の者が一揆を起すのを「蜂起」、彼らが山から山へ合図の火を焚くのを、「蜂 火(のろし)」というくらい、彼らの勢力は大きなもので、仏門へ入った者でも、西 方浄土とは反対の東光系の薬師寺の信徒であり、俗に鉢、八弥、などとも当字をされている。「その猿啄衆の、はちやが、何としたと、おぬしは言いたいのかや」。 永禄七年に、この城をようやく落した時は、兄が彼ら蜂屋衆を使って、瑞竜寺山から火矢をとばしたり、城下へ潜入させて風上から放火させたのは知っていたが、そのずっと前の事までは源五は聞いてもいないから、何も知らずだった。それなのに玄蕃允は、「はちやの男どもを女主人より借りだして、おみさまの兄じゃの信長様は、ずうっと 調略に使っていたのでござる。それじゃによって、後日の生き証人を押さえておかねばなるまいと、蜂屋部落は貢もとれぬ所ゆえ支配地には入らぬが、それを含む加治田の城を、わざわざ‥‥なにも御存じない信長殿から、わしゃ何食わぬ顔で頂戴し、今日まで温存してまいったのでござるよ」。言い訳がましく、くどくど云ってから、玄蕃允は立って行って、自分から渋紙張りの文筥(ふばこ)を抱えてくると、伏し拝むように蓋を開けた。そして、「当人どもは、まだ存命なれど、古い事ゆえ、一応は口がきをとってござる」と云いながら、中から美濃半紙の綴りをとりだした。端が茶ばんだ古いもので、手にとると、気のせいかかび臭い臭いがあたりにむっと漂った。<中ハチヤ>差配内カネ寄人(よりど)、竹千代 [ここからの手紙は、八切氏が、原住系たる堺の茶人達の手紙・文書が殆どカタカナであるからと、カタカナ書きで書いてありますが、読みにくかろうと考え、平仮名に変えました‥‥影丸] 「義竜様が、大殿様のお子でないようにと、触れ廻れ」と指図をうけましたは、たしか、あれは弘治元年の初雪の頃と覚えて居りまする。大殿さまの斎藤道三入道どのは、当時六十一でござりましたが、京の妙覚寺で「法蓮坊」と呼ばれた頃は、「卵に目鼻」とよばれ、還俗して油屋になられても、その男前は、今でも上方で「油壷から出たようないい男」という誉め言葉が残っているくら いでござりましたから、すでに六十過ぎでも色白く、まことに涼しげなお顔にござりました。それに比べ、長男の義竜様は色黒で唇厚く、顔がむくんで、てんで似ておられませんゆえ、それを良いことに、<下はちや>の者共が、お城や、お曲輪のお長屋を、釘や包丁、鍋釜売りをして歩く際に、そっと「義竜様を産まれた深芳野御前さまは、美濃守護の土岐頼芸様の側室だったのを、若い頃の大殿が貰い下げたものゆえ、その当時お腹に残っていられた義竜様こそ、まごうことなき土岐の血脈である。だから、その土岐の家をつぶされた大殿斎藤道三様は、義竜様には、こりゃ土岐家を奪われた不倶戴天の御仇敵にあたる‥‥」と低い声で囁き廻りました。すると、他国者の大殿道三さまにかねて、あきたらぬ思いをしていた土地者の土岐の旧臣が、大いにこの話を喜んで弘めました。だから、翌年には、とうとう御本人の義竜さまの耳にも入り、「そうであったのか」と、発憤されて、遂に大殿道三さまを討たれたのでござります。さて、<下はちや>の者が申しますには、清洲さまの銭はみな、女衆がとり、男どもは、ただ縫針百本を手間代に貰い、あとから、粟酒に壷の振舞いが、その祝に配られただけの由にござります。尚、<上はちや>の衆は、遠国廻りの年番ゆえ、云いつけられて、越前、近江へゆきますると、各所で、「斎藤道三と義竜どのは、表むきは父子であっても、本当は違うらしい」との話の外、もっぱら「悪党道三」といった蔭口を信長様の御命令どおりに噂をばらまいて歩いたといいます。これも、効き目がありまして、後に大殿道三様が救いを隣国へ求められましても、何処も彼処も、みな口をそろえ、 「極悪無道、人非人と呼ばれ人気の悪い者に、なんで加勢し合力する事やある。放っ ておくが、分別というもの」と、一兵の援助もなかった由でございます。さて、<中はちや>村の者は、丁度その辰年は順繰りに、戦があれば出る番になっていました。そこで、四月十八日のこと。男衆三百余人が木野の薬師堂に集められました。なにしろ、われらの宗旨は「西方極楽浄土、東方は地獄穢土」の反対で、「東方にこそ光 明あり」という<東光さま、東方瑠璃光>でございますから、「戦死しても、次に生れかわってくる時は、必ずや、また東方に産まれて出てこられるよう」と、あの世で 迷わぬようにと、よお拝んでから、東田原から川について下り、飛騨街道の白金まで 野宿し、権現山の裾を廻って、そこで翌日、やってこられた清洲さま(織田信長様) の軍勢に加わりましたのでございます。 白金の渡しを越えて保戸島へ向かい、戸田坊構えに入り、我らは先手として保明へ 迄、出張りましたから、川下まで流れを挟んで大殿様と義竜様の軍勢が渡ったり渡ら れたりの、戦ぶりは、その日空が青白く抜けるよう澄んでいましたゆえ、手にとるよ うによう見えました。だが、いくらたっても、清洲さまは進めとは采配を振られません。そのうちに人数の少ない大殿様の軍勢がどうしても追いやられまくれ、向かって右 手から次第に追い詰められ、下切から古津、志段見、天神林、小野と退却するのに、それでも加勢に来られた筈の清洲様は、動こうとはなされませなんだ。やっと暗うなって、長良川の向こう岸から物見の者が戻ってきて、「大殿さまを討ち取ったという叫び声を、城田寺(きだじ)村の手前の東蝉部落の者から聞きました‥‥」と言上しますと、「では、もはや仕方がない」と合図をして引き揚げさせ、せっかく戦に行きながら、礫を一つ放らずに、地虫に刺されたきりで戻ってきたのでござります。清洲様が、その後段々に豪い様になられ、とうとう天下様になられましたゆえ、「‥‥あんな天下一強い大将様でも、よう戦せんと、退かれた所なんじゃ」ということになり、ただいまは地名が「大退(おおどき)」と変えられておりまする。戦はせんでも仰山に銭をもらったようでござりまするが、里の掟ゆえ女が皆とりあげたと覚えておりまする。 |
6 (男も女も、同じ様に竹細工でも鋳掛けでもできるが、子を孕んで作るだけは男にはできん)つまり、(女は人間作りが出来るから、神様なみに尊いものだが、それに比べて、ただ働くしか他に能のない男という者は、詰まらん下等の生き者だ‥‥)と、猿啄衆の女どもは云っているそうだが、この口書きをみても、一切は女が支配し、稼がせた銭もいわば、給与袋ごと取り上げてしまっているようなものである。これは 全く男の立場からみるとひどいと源五は唸った。まあ、それはそれとしても、何ともいやはや、これはまことに面食らわせる綴りだった。途中で読むのをやめて、源五はすっかり持て余してしまった。(古代そのままの習俗で暮している蜂屋衆達は、嘘いつわりは言わない)とされているから、この書いてある事は、みな正真正銘らしい。もちろん弘治元年と いえば、源五は頑是ない五歳の幼児で、何も知ったことではないが、これをみると、 亡き信長は濃の方を室とし、七年目にあたる。ちょうど生駒将監の後家娘に後の中将信忠を生ませてしまった年に、信長は目の上の瘤である美濃の斎藤道三を亡きものにせんと、これでは計画的に事を運んだことになる。 だが、兄の信長は時に二十二歳で、その二年前に平手政秀と衝突して、これを死なせたばかりで、頼みにする家老の林新五郎兄弟には叛かれ、やっと叔父の織田孫三郎の手で、清洲城を手に入れたばかりの多事多難の際である。うかつに兵を動かしたら、留守中、どんな変事が起きるかも判らない。だから、仕方なく兄は用心して猿啄衆を用い、調略をしたのだろう。それしか考えられぬ。 保戸島へ、せっかく出陣しながらも、戦場へ出なかったのも、同行した<中はちや>の者は恨めしそうに書いているが、これとてなにも彼らが寡兵で敵すべくもなく討死した斎藤道三に対して、同情などしているのではない。自分らが合戦場へ出て戦死者の鎧や布子を剥いで儲けたかったのを、止められてしまい、みすみすふいにしたから、それを残念に恨めしく考え、口惜しがってるに過ぎない。 兄は、岳父の死ぬのを確かめに行っただけだから、葭っ原にひそんで検分すれば、事たりたのだろうし、それに当時の兄は猿啄衆三百を加えねば陣揃えができぬくらい、かわいそうにも、まだ極めて微力だったのである。だが、それにしても、この中に出てくる「悪党道三」の評判は、呆れるくらい実によく広めたものである。那古屋城にいた頃など、まだ子供の源五が悪戯をすると、「ほら、道三さまが来ますぞえ」と侍女に脅かされた。その恐ろしさに、喚いていても源五はすぐ泣き止んだものである。だから、清洲へ移った初めは何も知らずに、あの男を面白がって苛めたものだが、一年ほどして、彼が斎藤道三の忘れ形見と聞かされたとき、「げえっ‥‥」とびっく り仰天し、半泣きになってしまった覚えがある。なにしろ知らぬ事とはいえ、(蝮の道三)とか(悪党道三)といわれた恐ろしい男の子供と聞かされては、すっかり脅えてしまったも無理はなかった。(迷って道三が、この世に出てきて、仇をされる)と恐ろしくなってしまったからである。 ところが、その時、あの男は、「おやじは、そない悪党じゃない。ありゃ嘘だ」と、せっかく謝りかけようとした源五を、がっかりさせるような事を言った。「ふつう、風呂というのは、湯気を出し蒸して身体の垢を擦り落すものだが、うちのおやじは肝性もちだから、関の鋳物屋に云いつけて大釜を作らせ、中に板の下敷きを入れて、夏は冷たい水を入れて行水し、冬は下の口から薪を燃やして温まったそのものの中へ、じかに身体を入れて浸かった。が、なにしろ色が白くて坊主頭だから、桶から出ている顔が見る間にゆで蛸みたいになったものだ。それを水風呂も釜風呂も知らぬ、川で水浴しかしたことのない下司 どもが、『生きた人間を釜ゆでにする』と、釜の中が道三とはいわず他人でも入れたように言いふらし、それをまにうけた奴等が、よってたかって悪党にしちまったんだ。なにしろ朝夕、南無妙法蓮華と御題目ばかりあげていたおやじ様なんだ。悪党でない何よりの証拠には、攻め込まれるのはやむなく、そりゃ防戦したが、生涯ただの一度も境目を越して他国への侵略など絶対していないぞえ」と、十三歳で元服したばかりのくせに、あの男は自分の父親の事になると、大人っぽい口のききかたをして、当時、それに抗議をしたものである。 といって、(そうか、悪童道三が悪党でないなら、迷って出てきても、生れ変わってきても、おそがない[恐くない]から、じゃあ、苛め直そうかい)というわけにもいかない。だからして、それから源五だけは改めてあの男の無二の仲良しになったのである。いろはの文字は外来の変形で、この国の古代は、片仮名だというが、猿啄衆の仮名文字は、釘を折って並べたように読みにくい。だから何度も繰り返して眺めていると、「お疲れにござりましょう」。妻の佐紀が白湯を碗に入れて持ってきた。そして、浅黒い顔を傾けながら、「どうなるので、ござりましょう」。落着かぬとみえ、不安そうに声をかけた。「今日は、もう六月の十一日。あれから十日もたつが、なんの噂もない。やはり二日に本能寺で、兄の信長は死なれたようだなあ」と源五が暗澹として呻くように呟くと、「ご兄弟とは申せ、生きていられた時にも、大した御恩寵のおかげもなく、死ねば死んだで、えらい災難。思えば私は、どんな所へ嫁に参りましたものよなぁ」。愚痴とも、嫌味ともとれるような事を、ずけずけと遠慮なく口にした。 戻ってきた日だけは嬉しそうに何かと気をつかってくれたが、二日三日となると、だんだん気安くなるのか、どうも肚にあることが、そのままスラスラ遠慮なく、口から出てしまうらしい。だから、なんで女ごとは、こない余計な事までいうものかと、少し肚をたて、仕方がないから、「信長の弟の嫁で、危難が及ぶと思うのなら、子らを伴って、大垣なりと親許なりと、さっさと去(い)んでもよいぞ。おりゃ構わんぞえ」。そう考えてやったまでなのに、「なんぞ、起きましたのかえ」。はっとしたように妻の佐紀は目頭を神経質によせた。 昨夜はまだ源五は楽観していた。あの男が出来心で謀叛をして城とりをしたものなら、よく談合し、自分をこの岐阜城の城主にさせるつもりでいたのだ。だが、こう証拠の口書きを示され、預かってきてくり返し読んでみると、事態はそんな甘いものではない。どうやら、あの男は、あくまでも復讐のために、己れの一人息子まで因果を含めて犠牲にし、そして取り掛かってるような想像もできる。(こりゃ、一つ間違うと、とんでもない事になる。最悪の覚悟も要ろう)と源五は決心した。 翌六月十二日は、源五は頭が重たくて、なかなか起き上がれなかった。空もどんよ り黒雲が下へ垂れぎみに低迷して、やがて、風が強く吹き出すと、雨模様にかわってきた。うっとうしかった。だから、庭先へ出て遊べない子供が柱や仕切り板に突き当たり、仔狗のように駆け 回る騒音が、源五の枕許まで響きとおしだった。 すこし窘(たしな)めて静かにさせたらよいと思うが、なにしろ初めに産まれた子が次々と疱瘡やはしかで早死にしたから、今の幼児達を妻は甘やかして、したい放題にさせている。源五が睨んだくらいではおとなしくしそうもない。だから離れていれば、可愛いような気もしたが、さて戻ってくれば側へくる子もなく、ただ騒々しいだけである。うんざりさせられて、これではうるさくて寝てもいられず、といって、起きても誰も近寄らないから、手水をすませ源五は文机の上の昨夜の猿啄衆の口書き綴じを、また手にとってぱらぱらめくっていると、「永禄十年丁卯十月。銀二駄、オ城御用ニテ京送リノタメノ、白山権現サマ社司ニ、 通リ銭奉納。護符拝受。届先ジュッペサマ印形(いんぎょう)トテコレナク、爪印ノ 他ニ、請ケ書ヲ書イテ頂ク」 という一枚が、源五の眼にとまった。ここに出ている年号の頃は源五は十七歳。たしか、その年は五月の末に、兄信長のいいつけで、その娘の五徳姫を三州岡崎の松 平信康の許へ輿入れさせ、その行列に、親類役として同行したはずである。そして、その年は、後には敵となった石山本願寺からも祝いの使者が来たり、上洛するようにとの、かしこきあたりからの勅使も下向していた。だから、(京送りの銀ニ駄というのは、おそらく御所への献納)ぐらいに、昨夜はさっと目を 通して、別に何も感じなかった。が、さて気にしてみると、この文面はどうもおかし過ぎた。伊勢路は、神戸城へ異母兄の上野介信包が遣られて当時は味方の筈である。近江路 は鈴鹿を越え、土山の田村川までは信長の目が届いていたのだから、そこから京まで は、ほんの一跨ぎである。それなのに、たかが馬二頭のものを京へ送り届けるくらいの事に、なぜ白山様に願 って、その通行札をわざわざ貰ったのか。そこが合点もゆかない。なにしろ、この頃はもう、兄信長は尾張美濃伊勢三国の太守で、蜂屋者に頼ってそれを利用せねばなら ぬほど、もはや弱体ではなかったのである。 そもそも、白山権現の護符というのは、加賀の白山さまの末院が諸国に三千あまりあって、各地に白山神社、白山権現として鎮座し、信仰する各地の蜂屋衆が、みな、その氏子となって、網のように互いに繋がりあって、同族を守り庇いあう組織の通行切手であう。だから、そこへ御札料を奉納してまで、道中の安全を保護させる、そんなやり方は、既に実力を持つようになっていた兄信長には、てんで必要もないことだった。まこと 腑に落ちない。だが、「御城御用」と出ているからには、この岐阜城から、銀ニ駄が送り出された事に間違いはない。しかし、一駄で振分け荷が二個。その一個を銀十五貫とみても、銀六十貫とは、これは夥しい金額である。(‥‥そんな莫大なものを、誰が、此処から兄の眼を盗んで、ひそかに京へ送り届け たのであろうか)と、源五は考え込んでしまった。それに、それ程の金高を受け取る相手が印形さえも所持しない程度の身分で、届けに行った蜂屋者さえ危ぶみ、どうも怪しいと思えばこそ、受取書まで書かせてきている、と、この書付けにはある。 どうも得体の知れぬ、これはまことに奇妙な話である。(いったい何者が、そんな大金を誰に送り届けたのだろう)と首をひねっているうちに、「おう、ジュッペとは十兵衛。つまり惟任日向守光秀の前の名ではなかろうか」と、思わず源五は独り言を言った。(石山寺の尼が、‥‥光秀に夥しい金が美濃から来ていて、それで俄かに分限になっ て大きな邸宅を構えたり、牢人どもを沢山召し抱え家来にした。それから将軍義昭にも献金して、新参のくせに次第に申次衆の重職につき、兄の信長とも初めは互角のつきあいで、邸へ泊めてやったり、何にくれと面倒をみてやって有り難がられていたも のだ)という話が真っ先にすぐ浮かんできた。その話を聞かされた時には、(まさか‥‥)と半信半疑で耳にしたが、美濃から光秀の許へ銀六十貫が届いていたというのは、ここに手証があるからには、やはり紛ごうことなき事実だったようである。(‥‥誰が密かに送ったかは判らない。だが、岐阜城から出た金なら、これは兄信長の納戸(なんど)金である。すると、何も知らずに兄は、自分の金で建てた邸へ泊ま って馳走になり、それを知らずに有り難がって礼をいい、光秀を尊敬していた事になる) 「呆げた阿呆らしい話よ」。 源五は、頭へ手を廻して寝転がった。何者かに貢がれた金力で、光秀は己れを地位を固め信用をつけ、兄に接し重用された。そしてその十五年後にまだ今のところは、はっきりしないが、明智の馬印や旗を噂にもせよ揚げた連中に本能寺を爆破されたのは「策士、策に溺れる」ともいうが、 これでは自縄自縛。「なんたるこっちゃい‥‥」。源五は伸びた無精髭を指先でつまみ、思わずためいきをついた。 |
7 「永禄七年といえば、まだ二十一の筈だが、よくもこれほどの銀を蔵入りからごまかして、汝という奴は盗みだせたものだのう」 と源五は綴りを返しかたがた、玄蕃允のいる天守まで行った。そして問題の箇所をひろげて、癪に触るから突き刺すように指して決めつけてみた。なにしろ当時、岐阜城内にいた人間で、光秀に銀を送り届け、後日の蜂起に役立てようと、そんな深謀遠慮を企てる心当たりは、かねて兄信長を仇と狙っていたこの男しかいないからである。だが、玄蕃允は首を振ってみせた。不本意そうに、「人聞きの悪いことを云うな。その年はたしか信忠様に甲州の武田信玄の姫を迎える話などあって。わしゃ甲府の躑躅ヶ崎の館へ使者に発ったりして、忙しかったんじゃ。どうしてそんな暇があろうかい」とうそぶくように、てんでとりあおうとしない。
言われてみれば、なるほどそうでもある。だから、「あの頃の蔵入奉行は誰じゃったろ‥‥」。仕方なく源五は矛先を変えてみた。「丹羽五郎左の前だから多治見の岸勘解由よ。ほら、あの吝々したうるさい奴よ」と、この男は眉を皺寄せていた。「あれが金蔵番だったか。では銭一貫と胡魔化せん」。源五も言われて思い出し、苦笑させられた。「なにしろ、あの頃はこの岐阜城の築き直しが大変で、『ものいりが嵩む』と、あけくれ口喧しゅう、岸の老人に云われ通しで、ろくに冬に炭さえも出なかった程ではないが、それに、ほら‥‥此処から追い落された竜興様が、長島の一向門徒を引き連れ、 この城の奪還に押寄せ、土地の美濃者は尾張人に苛められかけ困窮し始めていたから、 みな地侍が、それに呼応して加わり、そりゃ大変な勢いじゃったろう」と、この男も思い出した。「そうそう、おぼえとる。この岐阜城はこっちの一の丸を新築中で、囲がけの最中だったゆえ、『築城前に奪い返してしまえ』とばかり、永禄八年の打ち込みも凄まじかったが、翌九年の時は、すぐ川下の州俣の砦まで、竜興側に焼き払われ、誰が出かけてもみな追い払われ、そこでな‥‥今の秀吉めが、やっと砦を築き直し、功名をしおったわ」と思い出して、源五も合槌をうつと、「あの時、初めての砦の頭にしてもらえた藤吉郎が、今では羽柴筑前守。それに比べると、とんと我らはお前様の兄上が在世中はちょっと出世しなさすぎたなぁ‥‥」。玄蕃允はニコニコ初めて歯を見せた。(この男、自分は岐阜城主になったからと思って、おりゃを見下して蔑んでいる) 腹の中で源五は息巻いたが、(今はそれどころではない)と当時の事を一心に思い出してみた。すると、まさかとは思いはするものの、心当たりが浮かび上がった。 斎藤竜興の度重なる逆襲に手を焼き、すぐ、それに加担して攻め寄せてくる執拗な美濃侍をなんとか慰撫しようと、兄の信長は先年、小牧へ自分が移った時も清洲へ残してきたままで、ずっと別居の形になっていた奇蝶つまり濃御前を、こちらのニの丸へ呼んだ。ニの丸は、稲葉山城とも言われた昔の井の口の城が、そっくりそのままで残されてい た。だから、そこで生れ育った濃御前が懐かしがって移ってきたところ、東美濃の名門、明智光継の孫姫にあたる血筋ゆえ「土地者の姫がもどってきた」と、ようやくの事で、美濃衆もそれで落ち着き、兄信長も後顧の憂いをなくして、その翌年は上洛できたのである。 その頃、新たに美濃で新知の扶持を貰った尾張侍が、占領軍の鼻息の荒さで隣接の 美濃侍の所領まで蚕食したり、商人までが美濃紙の取締座や、塩座、酒座にいたるま で、その座中の美濃者を追い除け、自分らが一手で押さえて儲けようとしたので、もめ事が多く、公事訴えが多かった。兄信長は、その裁きや処理を、初めは美濃三人衆の輪番にさせていたが、それでは 尾張者の苦情が多く、といって、尾張者の長井甲斐にさせたところ、これもまた巧くゆかず当惑していた矢先だったから、もと犬山城主の家老で久地砦の中島豊後守を奉 行役にして、美濃に明るく人気(じんき)のある濃御前のニの丸で、「まあ、あんばいよお、やれや‥‥」と公事ごとや一切の取り決めをさせたものである。 往時の事を思い浮かべているうちに、やっと、どうにか源五は心当たりがついてき た。勿論、当時の源五は殿様の弟だが、新築できてからは本丸の方にいて、旧城のニの 丸へは余り行かなかったが、近習達から噂話は何かと耳にしていた覚えもうっすらと ある。(‥‥ニの丸で裁く公事訴訟は、ご奉行の中島様が、なんでも御前様に伺いを立て、その指図どおりに裁可されるから、御前さまへの進物は夥しい。銭や板銀が鎧櫃に仰山、もう溜まっとるそうじゃが、さてさて何にお使いなされるのじゃろ。お羨ましいことではある)といった噂だった。もとより、なにも訴訟の為に便宜を計ってもらうための献金ばかりではなく、ところの者が清洲城で逼塞していた濃御前の噂を聞き伝え、(生国へ戻ってこられてまで、不自由はさせられぬ)と、めいめいに銭をもちよって、土地者の濃御前に届けていたのだろうが、莫大な額が集まっていたのは事実のようである。 もちろん、濃御前様の許へ集まった金は、これは奥向きの御手許金だから、倉入奉行の岸勘解由の管轄ではない。だから、何に使われても差し支えはないのだが、そうといって、その金を「何処へ費消したか」というような話を、てんで当時は源五は聞き及んでもいない。するとである。その莫大な濃御前様の御手許金は誰も知らぬ間にいつとなく消え失せているのだ。(だから、この話は結びつく。銀六十貫を内密に、おそらく裏街道の山越しに、京の十兵衛の詫び住居へ、そっと送り届けたのは岐阜城ニの丸に当時いた兄織田信長の室、濃御前の仕業かもしれぬ)と思い巡らすと、ぎくっとさせられるものがあった。(目の前にいる岐阜城主になった斎藤玄蕃允利尭(としたか)は‥‥亡き道三利政の末子。濃御前は、その一の姫。つまり二人はれっきとした姉弟なのである。すると、 当時二の丸にいた、この男は、姉の指図で秘密裡に銀の荷駄を送り出す宰領をしていたかもしれぬ)という疑いだった。茫然としたように、源五は吃驚した。愕然とした。だが、相手は素知らぬ顔で、家来が届けてきた文篭をひろげて、余念ないような顔つきで丹念に黙読して、あくまでもさり気ないように装っていた。そのうちに鈴鹿あたりの空から稲妻が、ぴしっぴしっと弾けてきて、間を置いて、 ごろごろと雷鳴が雨を縫って響いてきた。(今の立場では、なまじ強く決めつけては、おのれが不利になる)とも躊躇したが、なにしろ童の頃からの馴染み深い男である。つい口をすべらせるように源五は、「もう今となっては隠すにも及ぶまい。なんで姉さまは、こないに銀を送ったかや」と言ってしまった。すると相手は振り返り、「お前様にも、やっぱし姉様にも当たろうが‥‥」と、そんな返事をしてにやりとした。 言われてみれば兄信長の室ゆえ、そのような道理になるが、この男は、(光秀と濃 御前の繋がり)を、昔からよく知っているらしいのに比べ、源五のほうは、銀を送り届けた事さえ、たった今やっと朧げながら感づいたにすぎない。とても(互角)などではあり得ない。(これは何か隠してる)と源五は気づいた。 |
8 天文四年に、この城に誕生した濃御前は道三の初めての女児だが、父は四十二の厄年。母は小見(おみ)の方という東美濃可児郡の明智駿河守光継の三女で、時に二十と三歳。嫁いできて二年目の事といわれている。道三が晩婚なのは、それまで旧主より拝領の深好野と呼ぶ女が側にいた為であるが、小見の方の方はちょっと首を傾げたくなる年頃だった。(なにしろ、普通でも十五、六歳を嫁入り盛りとし、姫ともなれば、十二か十三で輿入れするのが当り前なのだ。話では、上の二人の姉妹はみな十四歳で縁づいている。それなのに令質玉をあざむくと今でも慕われている小見の方だけが、なんで二十過ぎまで<行かず後家>の格好で、明智の城に残っていたのか、姉達の順からゆけば、まるで七年間も故意に婚期を遅らせていた事になるが、これは、はたしていったい何故
だろう) 考えあぐんで源五はさり気なく、「姫の母御前はおいくつにて亡くなられたのかな」と、烈しい雨だれの隙を縫って書見中の玄蕃允に、また声をかけてみた。「たしか四十に一つ前と云うとったから、三十九。わしが五歳の時と覚えとる」と書状をおいて、指を折り逆算して、「天文二十年の三月の、はやり病じゃったな‥‥葬式まんじゅうで、やっと思い出した」。また笑って話をはぐらかそうとした。 「明智光秀が明智城を出奔したのも、その年と聞いとる。なにせ、その天文二十年なら、三月におりゃが親父様の織田備後守信秀どのも三日の晩に、はやり病で亡くなられとる」 と源五も言った。しかし、妙な暗合だが、別に係りはない話である。ところが、玄蕃允は狼狽したように、鼻の下の虎髭をこすりあげながら、「光秀が明智城を出たのは、その五年後、弘治二年の明智城落城の時と聞いとるが、違うかな‥‥なにしろ、童の頃で、その頃、もうわしは清洲へ居候に行っていて、とんと美濃の事など聞いとらんが‥‥」。体よく肩すかしに逃げられてしまった。 昔からまごつくと、上目使いに見返す癖があったが、今もえらそうに虎髭を撫ぜているが、眼は下から掬い上げている。(だが何故、光秀の出奔の年代を糊塗する必要があるのだろうか。小見の方が稲葉山で死んだ年に、十兵衛光秀が明智城を欠け落として諸国流浪に旅立ったことが、どう してそこまで隠さねばならない事柄だろう) 指を折って、自分も逆算していくと、天文二十年なら、今五十五歳の明智光秀も多 情多感な二十三の若者だった勘定である。 この男が言うように、五年後の明智城落城の時の出奔なら、光秀が二十八歳の時で ある。斎藤道三の室、小見の方の在所だという憎しみをうけて、幾重にも包囲され火をかけられ、明智一族は女子供まで焼け死んだ時に<孤児>の身をずっと育てられたと伝 われる光秀が分別盛りの二十八歳で、どうして砦を見捨て、自分一人だけが不義理にも逃げ出せるのか、ちょっと考えられもしない。それに、あの山城で裾を囲まれたら、翅でもない限り空を飛ばねば脱出は不可能である。だから、落城の時の出奔というのは、やはりこの男の嘘であろう。もう、その時は 光秀は城内に居合わせず、だからこそ、それで命拾いをして今日まで存命なのであろう。 それから更に遡って勘定をしてゆくと、小見の方が、その明智城から嫁入りした時 には、光秀は五歳。当の小見の方は二十と一と逆算できる。つまり、小見の方の方が十六歳の時に、同じ明智城の中に孤児の光秀が、オギャア と産まれ落ちていた事になる。といっても、まさか初めから孤児という事はあるまいから、生れてくる時には母親 はきっと側にいたに違いない。でないと出てくるところがない筈である。それに、大きな城ならいざ知らず、明智城は当時も二層もない小さな山城である。だから明智一族といっても、せいぜい身内は数十人。子供を産むような若い女は、そ う何人もいなかった筈である。侍女が産んだとか、端下女がこさえた子なら、まさか一族の交名(けみょう)には入れまいから、やはり生母は、その何人もいない筈の若い女の一人に相違なかろうが、さて、夫のある身なら、孤児を作る筈もない。すると、これは、未婚の姫となるが、そうなれば、城内に唯一人しかあてはまる姫君はいない。それは三女の小見の方である。(‥‥おそらく末娘のわがままで、城内の一族の若者と契られ、祝言するやさきに戦があり、その夫になる者が討死。よって、その後に光秀を出産してしまったから、子供は父なし子になった‥‥そこで親の光継夫妻は、孤児の恰好で孫の光秀を育てる事にして、五歳になった時、「もう手放して別れても大丈夫じゃろう。それに多少の物わかりもしだしたから、なまじ生母は側に居らぬ方が良かろう」と、気のすすまぬ小見の方を嫁がせたらしい。だから、小見の方も子供を産んでいる 弱みがあればこそ、倍も年の違う、油売り商人から成り上がった道三の許へ我慢して 嫁入りをしたのではなかろうか) そう推し進めて考えてゆくと、もう一つ、思い当る事があった。光秀という男は感傷的で、よく詩や歌を詠むが、その短冊を前に見た事がある。あまり上手とも思えないが、光秀がすぐ筆にする自作の吟詠だそうで、「よほど、お気に入りの作か。何か想出でも光秀様にあるのでござりましょうか。よく同じ御歌を、あちらこちらで拝見いたしまする」と見せてくれた者も云っていたが、(咲き続いている花の梢を眺め下ろしていると、雪みたいに冷たい山風に吹かれた)というような文句のものだった。 花の梢というからには、草の花ではない。樹木に咲く花である。それが続いているというのは、先年、武田勢に乗っ取られた時に焼き払われ、今はないが、昔の明智城 には山桜の並木が上から下へ、大手門までずっと続いていたそうである。だが、これを人間の花に換えれば、もっと意味が簡明である。花の行列とは、つまり小見の方の嫁入り行列らしい。三月だったそうだから、里ではもう暖かったが、明智城みたいな山中では、行列を 見送っていた五歳の光秀に雪みたいな山風が吹きつけ、凍りつきそうに冷えたのだろ う。 さて、である。 (女の子なら嫁入り行列は印象に残るものだろうが、男の光秀が、なんで水洟をたらしながら、小見の方の行列をいつまでも、寒さに震えながらずっと見送っていたのか。そして、四十年、五十年たっても、そのときの感慨をいつまでも忘れかね、郷愁のように思い出しては‥‥歌に託して己れの気持ちを吐露しているのか‥‥これは男性特有の母体追慕でなくてなんであろう。だから、やはり二十三の時に稲葉山の城で小見 の方が死んだと聞かされ、それで彼は世をはかなみ出家するようなつもりで、明智城 から放浪の旅に出てしまったのだ。事によると光秀はどうも小見の方の隠し子らしい) 雨がますますひどくなってきて、雷鳴が大きく鳴り響いたが、話の方も、どうやら ぴしゃっと呑み込めてきた。そこで源五は雨の音を跳ね返すように、(明智光秀‥‥濃御前‥‥斎藤玄蕃允。三人は父(てて)や母(かか)は違うが、ま ごうことなき一つ兄弟じゃろが‥‥) 大声を出して決めつけようとした時に、「殿っ」と近習が折悪しく急ぎ足で入ってきた。源五がいるのを見かけると迷惑そうに眉をしかめ、ためらったが玄蕃允の近寄り、低い声で急いで何やら耳打ちした。光秀か、内蔵介の早打ちの使者でも来たのか。伊賀守や主だった者がぞろぞろ詰めかけてきた。(惜しいところで‥‥)と思ったが、仕方なく源五は座をはずして廊下へ出てしまった。 |
9 長話の後なので尿意を催し下の厠へ入ると、板下の桶の隙間から竹網床を通し、「源五郎さま、か‥‥」と声がした。不意の事なのでドキッとして出ていたものが止まった。「‥‥いずれの者ぞ」と源五は慌てた。こういうところに潜むからには、ただ者ではあるまいと下を覗きこむと、「駿河は久能の者にてござる。我ら殿様は故右府様の弔い合戦にご出陣。よって、『おみさまは亡き上様の弟御ゆえ、名主(みょうしゅ)として、火急、三州岡崎へお出で下さりませ。鳴海の砦までお忍びあれば、そこよりはすぐさま御案内を仕り申す』との、手前主人の口上にござります
と、徳川家康からの招きの使者だった。そこで、「よし、承知をばした。よしなに伝えい」と源五は、つぼめていた股をひろげ、踏ん張ってそれに答えた。(ここの城では遅く戻ってきた為に、あの男にまで軽く見られ、妻にも冷たくされと
るが、まんだ『織田信長の弟』という肩書きは、まんざら棄てたもんではないわい。徳川でさえ弔い合戦には、おりゃを立てんことにゃ恰好がつかんのじゃ)と気負立ったから、続きが雨よりも烈しく出た。「‥‥では」
と、頭から浴びせかけられて驚いたのか、厠の下に入り込んでいた使いの者は、床下づたいに、何処かへ潜って行ってしまった。厠を出ると、ぴかっと眼も眩みそうな稲妻がした。そして、続けざまに、どかーっと雷鳴がした。どうやら近くへ落ちたようである。(この天候なら、土砂降りの雨にまぎれ今の使いの者も無事に立ち戻れるであろう)と源五は、車軸も流すような横殴りの烈しい斜めの雨を見つめて思った。 そして、何食わぬ顔で、今あてがわれている本丸の己れの部屋へ戻ってくると、やにわに、「なんで、お前様。せっかく朝餉(あさげ)をしてますのに、勝手に出歩かれまする。塩汁が冷めて、また温めなおしをせねばなりませぬ。子供より始末の悪いお方じゃ」。出会い頭に妻の佐紀から、いきなり文句をつけられた。だが源五は、(うかつには小用へも立てぬのか)と、がっかりして、「悪かった」と言った。そして、(女とは判らぬもの。織田家の全盛中は慎ましゅう三つ指ついて、おどおどものを言っていたのに、今のこの変わりようはどうじゃろ‥‥前のおとなしいのが正体か。つんつんしとるこの有様がまことの姿なんじゃろか) 源五は呆気にとられて、まじまじと濃い目に化粧したのが斑(まだら)になっている妻の顔を見直した。だが、考えてみると、二の丸にいた頃は、十二、三名の者を使って、妻はあけくれ、銅鏡を日当たりの良いところへ置いて、髪をとかせたり、京白粉を塗らせて暮していたのに、こちらへ押し込め同然になってからは、使っていた女たちも恐がって暇をと り、今は一人で子等の世話やきに追われ、普段は滅多にいない夫の面倒までみるのだ から、忙しすぎて、血の道が頭へ逆さに上っているのかもしれぬと、少し憐れにもなってきて、「すまぬ、玄蕃のところへ行って、それからは厠じゃ」といいわけをすると、「すこし御遠慮なされませぇな‥‥いくら昔は御家老でも、今は当美濃の国主で岐阜城主斎藤玄蕃允様ではありませぬかいな‥‥お前様が前通りに心やすうものを云わっ しゃるのが、家来衆が聞いても、とても聞き苦しいと、供物方(くぶつかた)より 『注意してあげなされや』と苦情がござりましたぞえ」と、すぐに文句をつけてきた。「ばかな。おりゃが、あの男に手をつき頭を下げてものを云うのかよ」。源五が面食らって聞き返すと、妻はうっすらと泪を浮かべ、恨めしそうに、「お前様が昔ながらのおつもりで殿様に口をきかっしゃるから、その腹いせに‥‥こない味噌がきれても、供物方は届けて下されず、汁も塩味。食べ盛りの子等が、これではあまりに不憫でありませぬか」と、せっかく白粉を塗った顔を、また崩してしまい、(これも、夫の不了見のいたすところ)と、源五に噛みつきそうな眼を見せた。 (供物方というのは、台所奉行差配の米味噌を出し入れする料理方で、そこに睨まれては、昔のように小者に買出しもさせられぬ今の境遇では、顎が干上がるおそれもある)と妻の佐紀は何詰するのである。「搦手(からめて)から押さえつけ、おりゃを屈伏させようとは、あの男も汚い真似 をしくさる」。腹が減りきっている源五は(喰物で意地悪されている)と聞かされては腹が立った。そこでうなずくと、「まあ、辛抱なされませ。お前様さえ、ちゃんと殿様を立て、頭を下げなさるなら、もとの二の丸へ戻して下さり、小者も侍女も呼び戻して下さるげにござりまする。なんせ今のままでは子等がいじけてしまい、見るも憐れではありませぬかえ」と妻は云う。(なんで、妻にゆっくり化粧させ、子供等にもっと腕白させるために、男は下げたく もない頭をペコペコ下げて、いやな勤めを強いられるのか。てんで割が合わんわい‥ ‥男女も共に同じ人間じゃろが) と源五はがっかりしてしまい、厠でたった今耳にしてきた徳川家康からの招きの話を 妻に打ち明ける気もしなくなってしまい、(そうか、女ごというものは、己が容姿に可愛げがなくなると、まだ、可愛げのある 子供等をば身代わりのように矢面に立て、それで夫を己れの采配に従わせる。だが、なんせ、うちの子等のような悪たれ坊主どもばかりでは、とんと可愛げのないのを妻は知らんのじゃろか) そう思いながら、白湯をかけ、もそもそした飯を息をつめつつ、かきこみながら、(こりゃ、とても辛抱できんぞ)と唸った。 源五は腹ごしらえが済むと、土砂降りの雨の中を蓑を頭からかぶって、大手門へ出 た。 雨は濁流のように石段から泥水を噴きこぼし、逆巻くように奔流していた。だから、番衆共も雨宿りに小屋へ潜っているらしく、あたりに人影もなかった。水が溢れて、海のように漣(さざなみ)が一面に波だつ長良川を横目に睨みつつ、尻からげした源五は、烈しく雷鳴の轟きわたる河原へ向かって駆け出し、それっきり 蒸発してしまった。なにしろ、どんな事があっても六月二日の仇討ちをしなければ立つ瀬もない源五としては、とてもじっとなどしてはいられなかったから、そこで折からの豪雨をもっけの幸いとばかり、すたこらさっさと随徳寺を決め込み、いちはやく出奔してしまったのである。なにも妻の佐紀を怖れて、というばかりではない。 |
(私論.私見)