3章、山岡道阿弥 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1153信長殺しは秀吉か3」、「1154信長殺しは秀吉か4」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
山岡道阿弥 |
1 燃えている。ここも燃えていた。 瀬田の大橋が薪を積み重ね、めらめらと生麻(きあさ)のような焔を噴き上げ、白く 燃えていた。「そこの舟の者。山岡が手の者か」。火掛かりを検分して引き上げてゆく二艘の舟に、源五は慌てて声をかけた。煙の渦をまく二条御所の濠から這い出し、寄手のはぐれ駒を見つけ、鞍や鐙をはずし、わざと菰をかけ、それに跨って洛中を間道から必死に逃げ出し、ひとまず安土へと大津を抜け、瀬田まで来ると、肝心な橋が今ちょうど火をつけられたところ。これでは渡りようもない。「おまえさまは‥‥」と、荒目布子の短いのに、もとどりの縄からげした風采をいぶかしそうに見返して、舟の足軽頭のような男が、まだ燃え盛る松の仕手束を振りながら尋ねかけてきた。「織田源五郎長益である」。少し気恥ずかしかったが、思い切って名乗りを上げた。すろと、向こうも面食らったように驚いて、急いで漕ぎ戻すと舷(ふなべり)を岸へつけ源五を乗り移させた。煙っている橋桁から漕ぎ離れて中州へ出ると、対岸の山の中腹に山岡景隆の城が薄紫色の陰翳を浴びていた。だから、(同じ水でもまるで違う。綺麗だ。透き通って小魚が泳ぐのまで見える)と、源五は薄絹でも張付けたような静かな水面に、黄色い花を咲かせて漂っているあさざの浮草を、そっとふなべりから指先で摘み取ってみた。 山岡景隆は、三井寺の光浄院の暹慶と号した景友の兄で、足利将軍義晴によって山城半国守護代に任ぜられ、天正元年の足利義昭の旗上げに与したが、光秀の命乞いで助命され、その後は実直さをかわれると、安土への要路の、この瀬田の守備を命じられ、近江膳所の石山寺城を守る弟の山岡景祐と共に、ここ十年陰日向なく兄信長に今日まで奉公している評判な男である。対岸へ舟は着いた。いぬわらびの茂った山道を案内されるままに、源五はよじ登った。ところが、やっと城門まで辿りつくと、中へ入って湯漬け一杯の振舞いを受けるどころか、乾草や枯芝が山のように積み上げられ、門口は塞がり、今にも火をかけんばかりに油樽を抱えた雑兵が並んでいた。「いったい、どうした事か」。出迎えに現れた城主の山岡景隆に、源五は面食らいつつ、急いでわけをきいた。「どうもこうもござりませぬ。明智日向守の家職(かしき)、斎藤内蔵介より使いが きて、『今から安土へ入城するによって、軍勢を率いて同行せい』との通達。よって、通れぬように橋は今焼き払っておりまするが、向こうは近江丹波の精鋭一万三千。こちらは石山の弟と併せても高々二千。正面きって戦って、もし城を奪われますると、ここが、向こうの足場になるは必定。よって、惜しゅうはござるが、思い切って焼き払ってしまい、家人もろとも、これから山中へ潜り込みまする」と、家来どもに指図しながら早口に答えた。「安土城へ入りたいのだが‥‥」と、源五がすかさず相談をもちかけると、「滅相もない。もう少し様子を見てからになされませ。手前も、せめて五千の兵力があれば、やつらに橋を渡らせ、半分ぐらいのとこで前後から火をかけ、おっとり囲みも致しまするが、なんせ微力にてそれもならずに、こうして逃げ込む算段をしておる ところ。源五様とて、手勢の何千も連れておられるものなら、そりゃ、このまま守山越えにまっすぐに安土へ入られても苦しゅうはござりませぬが、恐れながら、その御身柄一つで、やたらに軽挙などなされますな」。ずばりと言われて、返す言葉もなかった。 兄の織田信包が、信孝の神戸城に付けられているよう、源五も信雄の岐阜城に配属され、一門として敬われているが、身代はお情け程度である。つまり、ろくに手勢をもってはいないのである。 だから赤面しながら黙っていると、対岸に膳所の方角から白い砂煙が旋風のように輪になって見えてきた。すると景隆は手にしていた青竹を、それをずっと待ちかねていたように、大きく円を描いて振った。兵どもが火をつけた。二層建ての山城は、狩り集められた芝や乾草に火をつけられると、みるみるうちにきな臭い黄ばんだ煙を吹き上げた。そして綿雲みたいに空に伸べ広がると、膨らんだ まま風になびいた。「煙うて、眼が痛い」。景隆は風上の突き出た道端まで青竹を杖にして登りつけると、塩釜菊の花が赤くとりまいている桜の根株に腰をどっしりおろして対岸を見下ろした。ちょうど軍勢が近寄ってきたところである。 瀬田の大橋があらかた焼け落ち、安土へ進みたいにも、進軍を阻止されたその軍隊 は、まるで途方にくれたように右往左往していた。その混乱している有様がこちらの山からは、すっかりまるみえに見下ろせた。じっ と見据えたまま、「こりゃ、思いのほかに人数が少ない」。不審そうに景隆は伸び上がって眼勘定をし、数え直しを何度もした。「なんでも、行きは一万三千と聞いとるのに、帰りはどうみても三千。これはどうし たことじゃろ。それに、どやつの鎧や旗指物も、てんで汚れてもおらん」と、世にも不思議そうに景隆は、二条城から落ち延びてきた源五に口早に尋ねかけた。「洛中へ押込んで本能寺を取り囲んだ時は一万三千いたのに、たった半日で昼過ぎの今になると、こんなに人数が減るのは、よほどの激戦だったのだろうか。それにしては戦をしてきたにしては、旗指物も身なりも皆きれいすぎて、妙ちくりんで納得がゆかぬが」と、くどくどと、源五に山岡は尋ねかけるのだが、いくら訊ねられてもそこまで判る筈もなかった。 橋を焼き落され安土へ行けぬ軍勢は、暫く評定をしていたが、五、六百の兵を割くと、残りは引上げにかかった。「あんな小人数なら構ったことはない。迎え討って一戦すべきじゃった」。残念がってぶつぶつ呟いていた景隆も、敵がすごすご戻ってゆくのを眺めると、「これでよい。まずはかねての手筈どおりに瀬田の唐橋を焼き落しましたわい」と、手を叩かんばかりにニコニコした。だが、奇妙そうに長い眉毛を動かして、「本城の丹波亀山へ戻るべきなのに、湖畔に沿って明智めは旧城の坂本へ向かいおるが、こりゃまた何とした事でござりましょうのう。とんと解しかねますわい」と口をつぐんで考え込んでいるようだった。「まったく変てこじゃ。こりゃ、なんぞからくりがあるのとちがうか。光秀が戻るのは自分の本城の丹波であるべきなのに、昔の支城にすぎぬ坂本へ向かうのは、どうも おかしい。勝手がちがう」。源五も気にしていたところなので、声を落として尋ねかけた。 すると。景隆はあっけらかんとした表情をしていたが、暫くして、「わしは去る天正元年二月に将軍家の思召しにより、この瀬田にいた亡き父の景之や、磯谷新左と共に伊賀甲賀の者共と一向門徒ら二千をもって信長様に宣戦し、今堅田の砦を構えた。すると、織田方になった明智光秀が、かこい舟をこしらえ舷側に鉄板を貼りつけ矢玉を防ぎつつ東から西へ漕ぎ寄せてきた。丹羽長秀や蜂屋頼隆の衆は、南から北へと押寄せ‥‥さてさて、どっちが先駆けをするかという瀬戸際になってなあ ‥‥あの光秀が自分で、のこのこと舟を漕ぎ寄せ敵のわしに逢いに来て、いきなり 『御教書である』と封書をつきつけおった。そんでな(なんじゃろ)とひろげてみる と何の事はない、わしに旗上げをお命じなされた足利義昭将軍様のもので、『明智に花をもたせ、まぁ、この際は堪えて、ひとまず開城せよ』とのお達しだった‥‥」と憮然とした表情で、そんな昔話をいきなり打ち明けてきた。 それは今から十年も前の事だが、源五もよく覚えている。なにしろ、千秋輝秋が討死する程の激戦で、西近江がひっくり返りそうな山岡兄弟の善戦ぶりだったが、新たに兄信長に味方した明智光秀が突入すると、まこと難無く降参させてしまい、それでいっぺんに明智光秀の武威は轟きわたり、兄の信長の信用も厚くなり、清洲時代からの重臣の丹羽や蜂屋の譜代衆より光秀が重用されだしたという、極めていわくつきの合戦である。 当人の光秀は、恩賞の代わりに、三井寺光浄院の兄弟が一族ともに応仁の乱この方、いかに義に厚き立派な身持であるかを言上し、命乞いして山岡姓に還俗させ、石山砦を守っていた弟もろとも信長の家臣に推挙したというので、それが評判になり、その後、室町御所の奉公衆は信長といがみ合いになった将軍義昭を見限って、みな光秀の 手で織田方へと一斉に山岡兄弟を見習って寝返りをうってきたものである。だが、当人の山岡から、こう打ち明け話を初めてきかされると、光秀の武篇というのも、その振出しの瀬田合戦は、ありゃ、まこと、とんだまやかしものであったのかとさえ、源五としては、あっけにとられたような肩すかしの思いだった。 |
2 (瀬田の山中では、まこと、何かと不便でござりましょう)と、織田信長の弟だという身許を隠したまま、山岡景友の石山寺へ源五は移されていた。安土へも行けずじまいで、まるで世を忍ぶ仮の姿という有様だった。「そこもとは、まだお年若ゆえ、御存じないが、光秀は信長殿に寄騎していたとはいえ、陪臣(また)ではない。もともと将軍様の直臣(じき)である。世間では『牢々
流浪の明智十兵衛を、信長殿が取り立て出世させたのに、恩を仇で返して寝首をとった』などと申す蔭口もあるそうじゃが、とんでもない間違いぞえ」。石山寺の塔頭にいる五十歳あまりの尼が、まさか源五郎が信長の実弟とは気付かず、そんな話の仕方で口をきいていた。 源五が黙って聞いていると、「さる永禄十一年(1568)七月、一乗谷お朝倉の館におられた義昭公が信長殿に招かれ、美濃の立政寺へ移られた時も、光秀は家来の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余名をおって阿波ヶ口より将軍に供奉させ、光秀自身は五百余騎の手勢を率いて仏ヶ 原から警固して、織田方の迎えの使者不破河内守、村井民部らの千余の者と相見え、信長殿とて二十七日に将軍家に拝謁の時には、光秀に対して丁寧に頭を下げて、進物などなさり、慇懃に挨拶をしておられまする」。一息に、たたみこむように云ってから、「二年たった元龜元年三月一日、信長殿が岐阜城から上洛。禁裏へ伺候された時は、供廻りとも五百騎で洛中の光秀邸へ宿泊され、同年七月四日に上洛の折も、三日間にわたって光秀邸に泊めてもらっていなさる。五、六百も宿泊できる邸宅といえば、その規模も想像つこうが、今を去る十三年前に既に明智光秀にはそれだけの力があって、信長殿とは互角に近いくらいのお付合いだったのじゃ。それを知らんと、『光秀は信長に拾われて牢人暮らしから五百貫どりに抱えてもらったのが、それが立身の糸口よ』などと申すは、まことに笑止の到りではないか」と、尼は笑いもせずに喋りつづけ、「そもそも光秀が下久世(しもくぜ)荘などを知行地として将軍家の申次を勤めていたことは、翌元龜二年(1571)七月に信長殿から山城の大住荘の事で将軍家に嘆願するに際して、上野秀政、明智光秀の両人に交渉したことでも判るし、その年の九月の摂津出兵の時も、幕府奉行衆の一色、上野、三淵の処勢の一番手として明智光秀は 将軍義昭様の命令で一千余騎を従えて、二十四日には真っ先に高槻城に入城し、おおいに武威を輝かしなされたものじゃ。 数え上げれば、そりゃもういろんな事が多うて、きりもない事どもなれど、こういう具合じゃによって、その前年に信長殿が将軍様に奉った五ヶ条のおとりきめでも、 前に義昭様の黒印、後には信長殿の朱印。立ち会い人として織田方は日乗上人。将軍家の側として光秀の名が書かれ、信長殿は明智を尊ばれなされ、『十兵衛尉殿』と敬称までつけておられるげな程じゃそうな」と、一人でその尼は次々に話をするので、「‥‥さようで」。面食らい気味に、尼が喋る口許を(少し休ませ封じこもう)と、源五は相の手を入れた。なにしろ、今まではついぞ聞いた事もなければ考えた事もないような明智光秀の来歴を、そう立板に水を流すようにまくしたてられては、聞いているほうは少し間をとってもらわん事には、てんでその話が飲み込めもしない。 石山寺へゆけば、足利将軍家義昭様の側室である春日殿の伯母殿が尼になっておられる、と源五郎は耳にして、うまくゆけば、それからいろんな話もきけようかと訪ねてきたのであるが、なにしろ都は今や明智光秀が天下をとったと、上も下も大騒ぎの 折柄なので、まあ無理もなかろうが、そう真っ向から光秀の話ばかり続いたのでは、源五としてはこちらの訊ねたい事などにはなかなか触れてもこない。源五は、全くいらいらさせられた。じりじりしきっていた。あの二条御所で討死した者は、あらかた最後まで白の四手しないの馬印を贋物だと 言っていたし、明るくなってから鼻先へもってきて、桔梗の旗を見せつけられた後でさえ、「まさか‥‥」と誰も本気にはしなかった。だから、はたして(何者の逆心なのか)なんとか生き延びて正体を見届けようと思えばこそ、濠から源五は必死に這い上がって脱出してきたのに、その「まさか」の光秀が、[自ら]架け直した瀬田の唐橋を渡って、六月五日には堂々と安土城へ進駐したり、七日には勅使を迎えて、天下の権を押さえてしまっている。これでは面妖すぎ る。(‥‥こんな狐につままれたような話があってよいものではない。だからこそ、その 疑点を解くためにこの石山寺へ俺はやってきたのだ。なにも今更改まって明智光秀めがこれまでどうであった、こうであったなどという話なんか聞く耳持たぬわい)とは思っていた。 だが、尼になっていても相手は紛れもない女人の事である。それゆえ、もし聞いている途中でこちらが妙な顔をしたり話に水をさして、尼の意に逆らい腹を立てさせたら、女らしい意地悪さで、せっかくの肝心な訊ねたい話をぼやかされる心配がある‥ ‥)と、そこを源五は用心した。だから、尼の機嫌とりにもと、これまでの話を逐一よく 聞いていた証拠をみせるつもりで、つい熱心そうに一膝乗り出して、「光秀と申す男は、奈良興福寺の一乗院門跡をやめて還俗され近江の矢島から当時、朝倉へ来ておられた足利義昭様に目通りして忠誠を誓い、自分も奉公中の朝倉家を出奔し、義昭様の御為に上洛した模様なれど‥‥お話の模様では、それから僅か半年ほ どの間に、そんな大邸宅を構えたり、五百も千もの手勢を、たとえ狩り集めたにしろ、ようできたものでござりまするな」と言ってしまった。もちろん、初めは尼の気に入る追従を云うつもりだった。ところが、話の途中で引っ掛って、つい気になってしまっていたから、思わずあからさまに口にだし、その疑 問を源五はぶちまけてしまったのである。すると、それに、「当節は何でも銀(かね)よ。銭さえあれば、邸も建つし、そりゃ人も集まる」。尼は睫をしゃくり上げるようにして顔を上げ、すらすらそんな言い方をした。「といって、光秀は朝倉に仕えていた頃は五百貫どりと聞いておりまするが、乗り馬をば養い、駒の口取りや槍担ぎを抱えたら、それで精一杯の扶持と思えまする。お話の如くには、とてもそんな余分の貯えなどできよう筈はありますまい」。つい源五も、絡むつもりではなかったが、話が腑に落ちず突っかかってしまった。すると尼は少しためらっていたが、「美濃から銭や銀を積んだ荷駄が、ちゃんと来ていたそうな」と、顔を斜めに向けたまま早口に云った。(そんな莫迦な)と、源五は口には出さず、腹の中で思った。 光秀のいた明智城は、斎藤道三の妻の里だからと、道三が殺された後、城も襲われて一族が皆殺しにあっている。だから、幽霊が出るのでもあるまいし、そんな誰もいない所から駒に積んだ銀の来るはずなどありようもない。それに尼の話では‥‥元龜元年(1570)には、将軍家直臣として光秀は奉公していたというが、その年の六月には浅井攻めの姉川合戦があった。そして二ヶ月後の 四月二十五日には、その足利の家来のはずの光秀が秀吉と共に朝倉征伐に加賀入りして、天筒山城を攻め、金ヶ崎城を降している。(‥‥この尼にこちらの身分を明かしていないから、いいかげんな事をほざいているが、何を隠そう、その時、兄信長の名代として全軍の宰領をしていたのは、当時まだ十八歳だったが、この織田長益。つまりこの俺だったのだ)と源五は苦笑いした。 しかしである。そうは打ち消してはみたものの、さて、その前後を考えてみると、その姉川合戦の後、上洛した信長の軍勢と共に武者草履をぬいで、ゆっくり骨休めした邸は、今になってそう言わてみれば、あれは、たしか光秀の大屋敷だったことも源五はやっと想いだした。(すると‥‥まんざら、この尼の話はでたらめでもない)と源五は問い詰めながらもそう感じた。そして、光秀は義昭に随身する前に、もう五百から千の私兵を養い、十万石くらいの格式をもち、信長に仕える前に、あんな大名みたいな邸宅を構えていたのだから大したものいであると、自分に引き比べて少し源五は今更のように厭な感じをもってしまった。(まるで己れの方が信長の弟に生まれながら、男としての器量も才覚も、これでは光秀づれに劣っている)と尼からあてこすりでも言われているみたいな気がした。つまり嫉妬みたいな心穏や かでないものを源五は味わされたのである。 だが、それにしても不可解なのは、その財力。幽霊みたいな美濃からの金銀である。今、光秀の首名(おとな)、家老をしている斎藤内蔵介は、美濃三人衆の一人稲葉伊予守一鉄の妹を妻にしてるが、その当時は、主従などではなく、まだ関係なかったし、どう考えても金の出所など有り様はずもなかった。それに、二股膏薬といって、両側にべたりと貼りつく、裏表なしの油膏薬も傷薬に はあるが、光秀は元龜から天正へかけて将軍義昭にも仕えていたが、別口で兄の信長にも奉公して、あちらこちらに出陣していたのは確かに本当である。もちろん、只働きをするはずもないから、義昭からも扶持されていたろうが、織田家からもちゃんと棒禄は受け取っていたはずである。すると、これは給与の二重取り である。(世間では『忠臣は二君にまみえず』というけれど、光秀は二人の主君を同時に持ち、まるで遊女みたいにたらいまわしというか、かけもちをしていた事になる。しかも四、 五年にわたってやっていた勘定だから、浮気とか出来心といったものではない。臆面もなく両方の主君に対して、『あなたこそ我が君主である』とやっていたのだし、源五だって、そうした神妙そうな光秀の奉公ぶりはまのあたりに、この眼でよく見て知っている) だから、そこまで遡って考えると、ますます源五には判らなくなってしまう。(だいたい光秀という男は、長年にわたって何食わぬ顔で双方から貰えるだけ受け取り、義昭と信長が正面衝突して、もはや二兎を追えなくなった時、初めて優勢な信長方に落着いて、今度はそれまでの主君の義昭攻めの先登に立ったのであろうか)とも思うが、山岡景隆から聞いているところでは違う。 足利義昭の教書をもって瀬田の今堅田の砦を落したような話が本当なら、これは、やはり旧主義昭の指図としか受け取れぬ。といっても、義昭の資金網は美濃にはない。それに、美濃から金銀が来た頃は、光秀は義昭にもまだ奉公していない。無関係らし い。なにしろ、美濃で唯一の心当たりとしては、光秀の妻の実家だが、その岳父妻木勘 解由(かげゆ)というのは、以前は妻木城の一族だが、滅亡した後は零落れ、当時は 取るに足らぬ地侍で、今でこそ坂本城へ引き取られて大身になっているそうだが、その頃は、「一族郎党が尻からげして田畑を耕していた程度の身分の者だった」 と、美濃の岐阜城に長年いる源五は、土地の者から前に聞いた事さえあるくらいである。てんで話にもならない。 だから、源五としては腕を組んでしまって、(‥‥そもそも信用といったものは、いつの世でもこりゃ、金しかない。兄の信長にしろ、将軍家の義昭にしろ、あの光秀が豊かな財力を持ち大邸宅を持っていたからこそ、それで安心して銘々に自分の側へ近づけ、そして信用して取り立てたのだろう。 そして、兄の方は、そのおかげで本能寺で襲われてしまったが‥‥さて、そうなると、 全ての根元は当初、一介の牢人者にすぎぬ光秀に、なんとか箔をつけさせるため、うまうまと信用を持たせようと光秀に許へ送金しおった、その人間こそ曲者じゃ)としか考えられない。そこで源五は尼に、「さてさて、つかぬ事を伺いまするが、その美濃からきた光秀への荷駄というのは、 いったい何処様から来たのでござりましょうな」。さりげない調子で柔らかく尋ねてみた。「さあ、そこまでは‥‥その荷駄を見たわけでもなし。存じよりませぬな」。どうやら肝心な事は、尼も本当に知らぬらしく、首を傾げた。 そして話し疲れたのか、うつむいて膝の上で数珠の弾を細い指先でそっと撫ぜまわしていた。「お話では、光秀はもともと将軍家の直臣のはず。それが、なんで義昭様について落 ちてゆかずに、仲違いした側の信長に加担して、それまで仕えていた将軍家を裏切り、あげくのはてに御敵になったのでござりましょう?」。(‥‥せっかく話をここまで追い詰めてきて、ここではぐらかされては困る)と、源五がたたみこんでゆくと、尼はまさぐっていた飴色の数珠を引きちぎりそうな 激しさで、「埋火(いけび)‥‥」。ぽつんと言葉短く云った。 そして、それっきり下唇を噛み、押し黙って、庭前の薄紫のあじさいの花を凝視した。尼は源五の視線を避けてしまった。 |
3 「世間では、義昭殿と信長殿の抗争は、追われた将軍家が負けで、天下様になった信 長が勝ち、とみているが、今となっては兄の信長が死んでしまっては、生き残った義昭殿の方がどうも最後の勝利者らしい」。これでは、源五としてはくさらざるをえない。そして、今になって考えついても間に合いもしない話だが、すべておかしなことばかりだった。というのは、天正元年の事だが、四月に二条城で旗上げして、間もなく和平したのに、七月には又義昭は槙島城へ立てこもった。そして、「死守する」と壮語しながら、織田方が川上の平等院、川下の五筒庄、二手に分かれて宇治川を渡って攻めかかると、義昭はすぐさま開城。僅かな家臣だけを伴させ妹婿の河内若江の三好義継の城へ、さっさと退散してしまった。矢合わせさえしていない。そして、取り残された無傷のままの幕府奉公衆、つまり足利義昭の旗本ともいうべき近臣の三千七百は、そっくりそのまま光秀を頼って織田方へ帰順を申し込んできた。すると、「足利幕府歴代の家人どもが義昭を弊履の如く見捨てて、こっちへ来たか」。兄信長は手放しで喜んで、悉く召し抱えた。
そして、明智光秀にその者どもをみな預け、寄騎衆にさせた。(何年も禄に離れ、生活が苦しくなって彼らがやむなく、一人ずつが旧敵信長の軍門 に降参したというのなら判る‥‥だが、十五代も連綿と続いた室町御所の奉公人が、さっさと一斉に轡を並べて、それまでの敵側への鞍替えもおかしすぎる‥‥ それに、それまでの御所の奉公衆というのは『我らは直臣(じき)である』と、信長の家来どもを陪臣(またもの)と見下し威張っていたものなのに、なんで、その誇りを俄に打ち棄て、足利義昭の侍どもは身分格式が下がるのを承知の上で、みんな信長の家来になってしまったのか‥‥そんな莫迦らしいことがあるものか。そこさえ、あの時ちゃんと気付けばよかったのだが)と思い出すと、その天正元年の夏は兄信長の伴をして佐和山の湖畔小松原で建造中だった、百挺櫓の鉄板ばりの快速船を見物に、丹羽五郎左の作事場へ行ったおぼえがあった。偶然だが、槙島でちょうど義昭が旗上げした日にあたっていた。その時、京の吉田兼和[後の兼見]が兄の許へ機嫌伺いに大きな竹篭に水菓子を盛り上げて届けに来た事がある。ところが、なにしろ当時まだ二十一で、自分でも思い出せば恥ずかしいぐらいに思慮に欠けた源五は、(たかが吉田神社の神主ふぜいが、いったい何しに来おったのか)ぐらいにしか、その時は居合わせながら、さほどまで気にもしなかった。 ところが、今になって思い出してみると、彼はその前日にはたしか、「瀬田の城にて一泊した」と言っていた。すると、その四ヶ月前に義昭の命令で信長へ奉公したばかりの山岡景隆と吉田兼和は、その時は二人でよく談合の上、信長の動静をまんまと探りに来たということになる。そして、その結果が、ひとまず義昭側としては決戦を延ばし、室町衆全部を無傷の まま山岡同様に信長の家来にしてしまい、時節到来を待つ計画に予定が変更されたのかもしれない。つまり(埋火)という事であろうか。 そこで義昭はその後、堺へ来て旧臣と連絡をとった上で、十一月に入って紀伊へ行 き、由良の興国寺から又備後へと移ったのらしい。そして、その時の吉田兼和が、十年後に神祇大副左衛門督として六月七日には勅使として安土城の明智光秀の許へ行っている。(何のことはない。これではみんな一つの輪に繋がっている)色々考えだしてゆくうちに、源五は呆れたように固唾をのんだ。 だが、当時そこまで読み取れぬ兄信長は、足利義昭の旧臣どもに用心するより、義昭が何処へ移り住んでいても、彼がまごうことなき<武家の棟梁の十五代将軍家>に違いないことに対してのみ、負けまいとしたのかもしれない。初めのうちは安土城内に祀らせた白目石の御神体だけを家来に拝ませていたのが、「この世に復活し、蘇り給うた主こそ何を隠そう、実にこの信長である」と南蛮寺や耶蘇学校を安土の城下に寄進して建てさせ、自分も南蛮服を着用して、「義昭はたかが将軍の空位のみじゃが、わしはこの世全ての久遠の神ぞ」と大見得をきる反面、信徒でない武者には、さほど神の御利益があまりないのを見てとると、「我が織田家は、かの平重盛の末孫である」と、弟の源五でさえ初耳にような事を平気で口にしだした。そして事あるごとに、「源氏の足利に取り代わるは平氏の信長なり」と、源平交代説を吹聴した。つまり源氏と自称していた足利義昭を、それで無視したくての骨折りだったのである。 ところが祐筆頭の太田和泉守がよせばいいのに、どこからか古文書を漁ってきて、「おそれながら、足利家は明国と銭さえ共通にしていた南方族。足利尊氏に滅ぼされた新田義貞や北条こそ、源氏の正統北方族で、鎌倉より奪いましたる源家相伝の白旗も、足利兼氏の孫の足利五郎長氏の伜満氏が、三河に吉良氏をたてた後、つまり吉良 左兵衛佐義貞の時に、『足利の本家にては源の白旗なんぞは、全く不用のもの』と譲渡されておりまする」と言上したところ、兄は頗る不快な顔を見せ、「足利が源氏でないなら、止むを得ん」と、それまでの織田平家説は阿呆らしくなったのか撤回してしまい、事のついでに、やけくそになったのか、あべこべにあたる「藤原氏であった」と言い出し、次は、「忌部姓を昔は名乗り、織田氏は神人の家柄として古来尊崇されたもので、北面の武士あがりの足利などとは家柄がてんで違うものである」とさかんに力説したものである。(尾張の土豪あがり)とか、(斯波家の又家来の陪々臣)と、かねて義昭から蔭口を きかれているのを、兄信長はとても気にしていたからである。 ところが、相手の義昭の方もなりをひそめ、表向きは逼塞とみせかけながら、画策 して手は打っていた。かつて室町御所の申次衆として、義昭の勢力を二分していた上野秀政は、義昭の側 室春日と共に備後へ伴われ、足利義昭は向こうの方を仕切らせた。そして、埋火としてうずめた光秀の方へは、志賀の庄を根城にしていた宇佐山の城から、今の坂本へ普請して移った後も、諏訪飛騨、御牧三左、伊勢与三らの旧室町奉公衆を一人残らずその傘下に統合させていた。つまり、かつての室町幕府の勢力は二分はされたが、そのままで温存され、じっと、その後の十年間待機していたのである。 源五は、かつて (足利家というのは、南方に地盤をもち、事あるごとに九州や四国へ行って兵力を集め、そして攻め上ってくるのが通例なのに、どうして義昭は備後に居座って動かないのか)と不思議に思った事もあったが、こうして過去を振り返ってみると何の事はない。巧い具合に義昭は、その家臣どもをすっかり信長に預けた恰好だったのである。つまり 信長の扶持で養わせ温存していたのだから、足利義昭としては慌てる事も、九州へ行 って兵を集める事もない。じっと時機さえ待っていたら、とやかく動き廻る必要は全 くなかったわけである。それをしらずに、兄信長は鷹揚に構えこんでいた。(‥‥我々は、あくまでも将軍家直参の者よ。ただ時世時節がくるまでの辛抱)と化けこんだ連中に扶持をとらせ、これを飼っていたのだ。 だから、ついに六月二日、(時こそ来たれり)と、彼らに蹶起され、本能寺で寝込 みを襲われてしまったのではなかろうか。だとすると、兄信長はとんだ目にあったものである。だが、源五にしてみると、こうと話が判り、(足利義昭こそ、兄信長の仇らしい)と考えてくると、無気味なのはなんといっても山岡兄弟だった。親切そうに扱ってはくれるが、光秀に次いで信長の臣列へ埋火された旧足利幕府の 西近江守護だったし、それに、こうして石山寺の方へ将軍義昭の側室の伯母を、尼と はいえ密かに匿っているという事も、勘繰ればまこと胡乱臭かった。なにしろ、本能寺の遺骸は殆ど吹っ飛んでしまい跡形もない。そこで兄の信長が (はたして死んだものか。洛中何処かに無事にいるものやら)と、京では連日「その探索に大騒動をしている」とこちらにも伝わっている程なのだ。 琵琶湖は瀬田の大橋をくぐり抜けると、石山寺の城の畔りを瀬田川となって流れる。そして下ると、石の多い大戸川になって岐れるのだ。源五は石山寺の城櫓に登って、京との空間を遮っている伽藍山の鬱蒼とした緑色の烏帽子みたいな樹海を仰ぎ見る。なにしろその山の形が美濃の稲葉山にそっくりのせいだった。岐阜城も長柄川にそって、やはり山頂に聳え、瑞竜寺山の茂った木立が、ここと同じ 様に深浅さまざまの緑の色を山肌にみせる。だから、だんだら模様に彩られた山並みをじっと懐かしんで眺めていると、どうしても(妻や子供達にも逢いたい) そんな想念に又駆られてきた。 なにしろ、源五は十三の時から戦場ばかりなのである。(人使いのはげしい兄信長とはいえ、よくも足掛け十九年間、あけくれ戦にばかり引っ張りだされたものである。おかげで‥‥おりゃ、己が子供の顔さえろくに眺めた事 もない。じゃによって、産ませた妻の顔すらも、嫁にきた頃の若やいだ面影しか、とんと浮かんでこんわい‥‥)と、源五は苦笑いした。だが、昔の事を振り返ると、初陣に出て溺れかけた時の事や、その次の年の戦いで 大恥をかいた事が真っ先にどうしても、すぐ脳裡に浮かんでくる。 |
4 源五が小牧山の城から初陣に連れていかれたのは、永禄四年(1563)八月の、三度目の美濃攻めだった。功名心に燃えていた。ぜひとも手柄を立てよう。と武者草履を固く締め、勇んで出立した。夜明けに小牧山を出て、豊田から古知野へ出て、一気に木曽川を渡った。美濃領へ侵入しようと川の中に州のように浮いている河野島へ浅瀬を選んで移動した時、突如として美濃兵が葭の茂みから一斉に矢を射かけてきた。「しまった」と織田方は狼狽した。不意討ちに押寄せたつもりが、あべこべに抜き討ちされてしまったのである。川の中では防ぎようもないから、急いでひとまず岸へ又逆戻りした。向こうも渡河してまでは攻めて来ないし、こちらも一息に井の口城へ攻めかかる予定が狂ったから、そこで川を挟んでにらみ合ったまま、仕方なく退陣していると、その日の夕刻に雨になった。仕方がないから夜が明け朝になったら引き上げようかと評定をしていると、夜半になって土砂降りの大雨になってしまい、途方にくれた。そこで、屋根のある所を求めて近くの飛保の曼陀(まんだ)寺へ本陣を移し、百姓家をあけさせて、そこへ玉薬や鉄砲をしまいこませ、杜の木陰へ潜って雨の止むのを待っていると、明け方になって、空の方は少し小降りになったが、そのかわり、川筋
が氾濫し、土堤の低い屋張領の方へどんどん溢れだしてきて泥水の海になった。雨がおさまったら小牧へ戻ろうと、空模様を仰いで待っているうちに、夜に入ると、巡見(じゅんけん)街道の堤防が切れてしまった。閏八月八日の未明。どぶ泥の真っ黒な奔流が、逆巻くように波打って怒涛のように
押寄せ、田も畠も、高台の寺の本堂までも浸した。大人は腰の上ぐらいの水嵩なので、初めは槍を杖に逃げ回っていたが、まだ小さかった源五は胸まで水漬けにされた。これでは初陣の手柄をたてるどころではなかった。「助けてくれ。引っ張ってくれ」。地響きさせ、ゴーゴーと唸って迫る濁流の中で、何度も足をとられ源五は悲鳴を上げた。水嵩は次第に増してきて源五の首まできた。深みに落ちてすえた泥水を呑んだ。「苦しい、なんとかしてくれ」。源五は、べそをかきながら奔流に押し流された。肥溜の塊が浮く泥水の中でいつの間にか槍もなくした。腰の打刀も落としていた。織田勢は思いもよらぬ洪水に見舞われ、必死になって東へ東へと敗走した。そして、濁流に押し流されつつ、槍を杖にしてやっとのことで小牧山の城へ引き上げようと、
布袋まで辿りついた。 すると、古知野まで迂回して尾州領へ攻め込んできた美濃兵が、「うおっ」 と襲ってきた。いつの間にか揃えたのか、底の浅い野良舟を何十と連ねて、一斉に弓を射かけ、礫を投げ、兜武者には鉄砲を見舞ってきた。怒涛のような濁流に馬も押し流され、徒歩で逃げ回ってきた尾張兵は、楯も弓も流 され、頼みの鉄砲も筒口は泥がつまって撃てもしなかった。だから、舟から突かれ射られて、足をすべらせ、皆もがきながら泥水の渦にのまれて、次々とその姿を濁流の間に間に沈めていった。 さる三年前の桶狭間合戦で今川義元を討ち取り、織田の威名は遠国には鳴り響いて いた。だが、境を接する美濃には通用しなかった。なにしろ、東海一の弓取りと謳われ、小豆坂で二度までも今川松平の連合軍を正面きって撃破した先代の織田信秀の時でさえ、美濃へは三度攻め込んで、三度とも撃退されている。そして最後には大負けに破れ、当時の国主斎藤道三の娘を頂戴し、三男 信長の嫁として講話し、今後は侵略しないと誓紙をいれたぐらいだから、美濃兵は尾張兵などてんで眼中にない。まったく頭から舐め切っていて、歯牙にもかけぬような 自信の程を見せていた。 そこで永禄三年の戦いで、夥しい新式鉄砲を今川義元から鹵獲した信長は、(目にもの見せてくれん)と、それを整備し鉄砲隊を揃えて、長年の宿願の美濃攻略を翌年から開始した。だが、永禄四年五月十三日、信長は脆くも奇襲を蒙り一敗地にまみれ退却。翌五年の五月二十三日には美濃軽海で激戦したが、幼主斎藤竜興を奉じながら美濃兵 の働きめざましく、織田方は戦い利あらず退却。しかし、次の年の永禄六年は、「今度こそこちらが不意討ちにしてくれる。俗に三度目の正直、という事もある」と、兄の信長が意気がって陣頭に馬を進めた。だから初陣の源五はすっかり信用してついていった。そうしたら雨に不意討ちされてこの洪水である。 槍や刀もなくしたが、手痛い損害は何と言っても鎧だった。なにしろ初陣の祝いと して清洲へ誂えで新調したばかりの小桜威しの一枚胴の腹巻きだった。それなのに、付き従っているものどもから、 (水に転げて沈んだとき、鎧の重みで浮上がれない) と注意され、(そうか)と素直に肩紐を切らせ、すっぱり蝉の抜け殻みたいに濁流の中へ残してしまってきたのである。鎧下の狩衣だけは着て帰ってきたが、これとて新調の山繭の萌黄色が、どぶ泥色に染まってしまい、いくら水でさらしてもらっても本にもどらず、雑巾みたいになって しまった。(‥‥あのときは随分とも、べそをかいたものだ)と源五はその時の事を思い出し、(『初め悪ければ後もみな悪し』というが、初陣があの始末だから、引き続きろくなことがない)と、情けなく今も思っている。 |
5 翌年八月、四度目の美濃攻めが行われた。(また泥水漬けになって、裸で戻ってくるかも知れぬ)と源五は用心した。そこで、棄てても惜しくない古い腹巻鎧を探し出してきて、煮しめのような狩衣の上につけて出かけていった。勿論、源五としては、まさかあれから一年のうちに兄信長が、(美濃三人衆の安藤伊賀、氏家卜全、稲葉一鉄を皆調略をもって味方に引き込み、それに猿啄の蜂屋衆を城の風上にあたる瑞竜寺山へ登らせたり、城下へ一斉に忍び込ませ、一挙に火がかりする計画も前もって綿密にたて、用意周到に作戦を完了してからの、今度は四度目の出陣)などとは知る由もなかった。
なにしろ、まだ十四歳になったばかりの源五には、教えてくれる者もいなければ、そうかといって自分で考えつきもしなかったからである。永禄四年から始めて、ようやくの事で四年目に美濃稲葉山を落城させてしまった兄 信長は、小舟で川内長島へ逃げた城主斎藤竜興の後を、やはり舟隊で追わせる一方、 城内の大広間ですぐさま勝戦の祝宴を開かせた。先代信秀さえできなかった美濃制覇なのである。すっかり満悦し、呑めもせぬ酒を今日だけは祝って、盃をほしていた上機嫌の信長の目が源五にふと注がれた。綺羅星の如く美々しい鎧具足が並んでいる中に、どぶ鼠のように借り物の大きな摺り切れ鎧で、ちょこなんと源五が並んでいるのに、思わず不快な表情を露骨に見せ、信長は睨みつけると、「乞食(ほいと)のように目障りじゃ、退がれ」。脳天から出すようなキンキン声で、いきなり怒鳴りつけてきた。(きっと、『兄弟に冷酷だ』と噂され、自分でも気にしていた信長は、みすぼらしい源五の身なりが、まるで己れの吝嗇のせいみたいに恥かしくてならず、それで我慢できずに、あの時はつい大声で喚き散らしたのだ)と、成人してからは理解もできたし、もともと、そんな恰好をして出かけたのは源五の思惑はずれで仕方もない事だったが、なんといっても、その時はまだ十四歳。(殿様の弟である)と誇らしげに気張って、小さいながらも胸をそらして座っていた のを、まるで塵か芥みたいに晴れの勝戦の祝宴の席からつまみ出され外へ追い出された口惜しさは、源五にしてみれば忘れようにも忘れられない記憶だった。 もちろん、その時はかーっと血が逆流し、ただ恥ずかしさに気も動転する思いで、近習の者に促され、押し出されるように広敷へ出たのだから、何も覚えてもいない。だが、後になってそのときの有様を考えると、源五はいつも決まって今でも吐き気がする。それなのに、井の口の城は旧城のニの丸にして、新しく本丸を大きく建て増し、岐 阜城と名も改められているが、汚辱の歴史をもつ当時の大広間だけは、今もそのまま取り壊されずに残っている。 |
源五はその後、小牧から岐阜城へ移されたが、あの恥をかいた大広間が残っているので、いやでいやでたまらなかった。何年たっても、あの満座の中でかかされた赤恥は忘れられなかった。残滓みたいに胸底に不快な思い出が沈殿しきっていた。だから、天正四年に安土へ新しい城ができると、そちらへ移りたいと申し出たが、「信忠についていてやれ」と岐阜城残留を申しつけられてしまった。それが癪で、凱旋して手すきの時でも、すねるみたいに岐阜へは戻らず、京や安土で過ごす事が多かった。それでも、時には岐阜へ戻らねばならぬこともあったから、あてがわれたままで置いて ある妻にも、ぽつん、ぽつんと子ができた。だが、滅多に帰らないから、その子らは、まるで見物でもするような恰好で、源五が戻ると迎えた。源五の方でも、いつでも、(どこの子じゃろ‥‥)と、見渡しながらも、やはりとまどうことが多かった。なにしろ初めは珍しくて顔を覚えていた上の二人を、幼いうちに死なせたりしてしまって、それから気落ちしてあまり後の子の顔を覚えようともしなかった。それでよけいにいつも迷ってしまうのである。 子供等にしても、たまに戻ってきてそれで、すぐ出かけてゆく源五を何と思っているのか、遠くからは眺めてもあまり近寄りはしなかった。だから、離れていても、これまで子が懐かしいと思ったこともなく、妻にしてからが、その子供らの母親というだけのことで、別にとりたてて、懐かしやとか、慕わしいとも 思いもしなかった。つまり、いってみれば、家の中の什器のように、ちゃんと納まって待っているものだ、ぐらいしか源五は考えていなかった。だから戻ったときは、調度の手入れをするような、そんな心づもりで妻とも接していた。 子供とも格別親しむ余裕とてなかった。なにしろ、兄の信長が他人とちがって使いやすいのか、自分の名代としてか弟の源五をたえず出陣させていたし、また戦が尾張時代のような農閑期だけに限られず、もう その頃は年中無休の有様だったせいもある。しかし、今度はどうしたものか、あの二条御所の澱んだ水の中でせっかく咥えた刀を取り落とし、つまり死に損なって浮かび上がったとき、なんということはなしに、岐阜の妻子のことが思い出された。悲しいと思った。逢いたかった。自分でも妙な気が してきて、(俺も人並みに親らしゅう、夫らしゅうなってきおったのか)と、そんな心持ちにな った。だが、煎じ詰めて考えてゆくと、他の女ごの如きは、てんでその名前どころか、ろくに顔さえも覚えていない。そこへゆくと、つい長年にわたって時折とはいえ慣れ親しんでいる妻は顔も名もよく覚えている。それだから、つい手軽に懐かしんでしまうらしい。 また、子供に逢いたくなったのも、討死した信忠が、その伜の三法師を抱き上げ、 別れを惜しんで出陣してきたのを見覚えていたから、つい自分もそんな気になってしまったようだ。 だが、それがわかって、自分の胸が納得したからといって、今の源五には何のたしにもならなかった。かえって、めそめそ物思いに沈むだけ、気が滅入ってやりきれな かった。しかし、今の源五は本当はそれどころではなかった。(実直な男、物堅い男)と聞かされていたからこそ、源五もその評判を信じこんで進んで瀬田の山岡を頼ってきた のである。それなのに、尼の話では(どうやら足利義昭が怪しい)と、信長殺しのめどをつけだした今となっては、山岡も信用しかねた。まこと、どうも居心地がよくなかった。(‥‥そもそも、瀬田や石山寺は安土を護るための出城である。よって最初に橋を焼き払ったはよい。しかし、橋の修理をさせてしまって、五日から往還を自由にして、安土城へ光秀の出入りを見逃しているのは、これは、やはり合力の証拠でなくて、なんであろう。 初めに己れの城をやいたのも、あの頃はまだ信長生存説が強かったから、それに気兼ねしてのみせかけの所作にすぎんのかもしれぬ)と、源五は危ぶみはじめ、(いつ何時、この自分も捕えられて、どんな目にあわされるかもしれぬ)と落ちつかなくなった。疑心暗鬼といってしまえば、それまでかもしれないが、こうした突発的事態になってしまって、もう、信長の弟という肩書きが前とは違い、なんの御利益もなく、かえってあべこべに身の危惧を招くように変わっては、用心するより源五には他になかった。(どうしたものか‥‥)と途方にくれながら、心の中では、(世間の噂通りに何処かで兄信長に生きていてほしい)と、そんなことばかりをあけくれ祈った。 昔、城中の大広間で(乞食のような)と罵られたとき、(同じ兄弟のくせして、無情な‥‥)と腹にすえかね、そんな気持ちが抜けぬままに、(ひとりよがりで威張りくさって、神懸りな態度は鼻持ちならん)と、心の何処かでいつもけなしつけていたのが、今となっては、もはやまるで嘘のように吹き飛んでかき消され、(懐かしい)と、そんな親しみだけが込み上げてきた。だから、これまでのように (兄弟じゃなどと思うから腹もたつが、相手は殿様で遅く生れたおりゃは、どうせ弟というより家来のほうじゃ)と、いまいましくなって、ずっと、(兄じゃ)と呼びかけたこともなく、いつも「殿様」とか「上様」と声をかけていた僻みが、自分で後悔させられてきた。そして源五は、信長が生きていてくれたら、笑われてもよいから、「兄」と呼んでみようとさえ思った。 そんなことをいろいろ考え込んでいるうちに、(あっ)と思いがけないことに気付いた。それまで考えも及ばなかったが、それが判ると源五はびっくりさせらてしまい、「うーむ‥‥」と唸りだした。そして、(さすがの兄の信長は‥‥深謀遠慮である)と舌をまいて感心し、すっかり緊張した。(‥‥この俺を冷や飯喰いの部屋住みとして岐阜城へ放っておかれたと『冷遇しすぎる』とずっと僻んでいたが、兄は万一の際を考えていたのだ。もしもの時には幼い三法師は無理ゆえ、それに代わらせるため‥‥わざとこの自分をあの岐阜へ置いていたのだ。つまり、おりゃは予備というか差し替えの岐阜城主であったのだ) そこに気付くと、さすがに源五はぴしゃりと頬げたを叩かれる思いがした。そして、(安土が、もう敵の手に落ちている今となっては、織田一族は元龜の昔にもどって、また岐阜城を本拠に、美濃尾張伊勢の三国をまず基礎にして、諸方に散らばっている 重臣に檄を飛ばし、上洛してくる足利義昭の軍勢を叩き潰さねばなるまい。そして兄信長へ不軌を謀った張本人をどんなことがあっても赦免せず、逆さ張付けにかけて成敗してしまうのじゃ。もともと十字架にかけて磔けにするのは、兄が南蛮人から、その神の処刑の絵や像を見せられ、元龜元年、姉川の役の時に浅井方の者を十文字の柱にかけ、鞭うちをく らわせて、打ち殺しをしたのが始まりで、各地で真似をするようになったが起源ゆえ、兄に供養のために是非ともそやつは十字架じゃ‥‥)。もはや美濃岐阜城の五十万石の太守になったつもりで、源五は兄信長のために目尻をつりあげ気張って唸った。 |
(私論.私見)