2章、御坊源三郎 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1152信長殺しは秀吉か2」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
御坊源三郎 |
1 「おかしい‥‥人間は当てがないことには、とても骨折りはできんもんだが、夜明けから、もう三時間近くも、十四、五の稚児小姓まで加えて三十人。厩中間が、駒一頭に
つき馬の口取り一名とみて同数。たんだ、それだけの人数で、堀や囲いもできとらん 本能寺を守り固めて、どうして戦っとるんだろ」。本能寺門前の京所司代職宅の裏口から駆けつけてきた村井長門守父子の火急の知ら
せを耳にした時、まず織田源五郎は、それに不審を抱いた。中将と呼ばれる二十六歳の甥の城介信忠も、まだ勘九郎といった幼少の頃から、信長の長男として明け暮れ戦場に出されているだけに、「まことに囲んでいる人数は、一万の余もいるのか」と何度も繰り返して同じ事を尋ねていた。(一万何千の兵力で、たった七、八十人の馬の口取りや小姓共しかいない寺を囲んで、
そんなに手間ひまのかかるわけはない。一間巾の惣堀はあっても、矢狭間・鉄砲狭間の類もない)と、源五郎も同じ思いで、どうにも腑に落ちなかった。「あの二町四方の本能寺の周囲は、堀をこさえた時の浚え土を盛り上げ、築地にした土堤が、ぐるりを取り巻いているにすぎないではないか。それに、上様の調度はある
が、子供どもや中間は物具はおろか、道具さえない筈」。父の信長の事をいつもの癖で「上様」と呼びながら、信忠もさかんに不思議がった。調度とは弓のこと。仏具とは鎧。道具と呼ぶのは槍の事である。(腹巻一つ持っていない素かたびらの小姓どもが、脇差ぐらいの短い打刀を振り回し、まるで餓鬼どもの戦ごっこのような真似をして、それで一万余からの弓鉄砲を持つ甲冑武者を、何時間もくいとめている)というのである。「そんな莫迦(ほお)げたことが‥‥」と源五が小声でもらすと、信忠も暗い表情でうなずき、「寄手にやる気があるなら、わーっとかかれば、ものの一息つく間もないものを、なんじゃろ。解(げ)せん」と眉をねじるように顔をしかめた。そして、「まことに馬印は白地四手しない、なのか」。首を傾げて、信忠は又不審そうに呟いた。白地四手しないというのは、白紙を切って榊葉に吊るし、神前に供える形の大きなものが、四方に垂れ下がった、明智日向守光秀の馬印である。勇猛果敢でなる明智勢なら、鉄砲をうちかけ弓を射て、わーっとかかってゆく筈なのに、村井長門守が駆けつけてきての注進では、ワアワア言ってはいたが、攻めるような様子もなく、といって普通でもないという。おかしい、ということにならざるを得ない。(攻める気でなくて、本能寺を何故包囲しているのか)という評定となって、主だった者が呼ばれて集まった。
すると、昔桶狭間で今川義元の首級をあげた近習の毛利新介が、「白地四手しないの馬印など、白紙さえあれば‥‥そりゃ子供でもすぐ切って、手軽に作れるもの。そりゃ、事によったら、偽りの馬印ではあるまいか」と云い出した。すると、やはり今川義元に一番槍をつけ、腰を斬り払われて討死した服部小平太の跡目の小藤太が、「一万の余も人数を持ちながら、僅か六、七十人の小姓や中間にくいとめられる程、明智惟任なら戦下手ではない。それに、この妙覚寺に中将殿がおられるのは先刻承知の事ゆえ、もし光秀の謀叛なら、五、六千人ずつ二手に分かれ、こちらの方へも、わ ーっと寝込みを襲って攻め寄せている筈。それなのに物見のような者はちらついているが、とんと、まだ攻めかかってくる気配もない。こんな莫迦げた戦ぶりが又とあろうか。合点もゆかん。‥‥皆の衆も同意見でござりましょう」と言い出した。それに信忠もうなずいて、「わしを無視して、こちらへかかって来ないとは、こりゃ又理不尽な間の抜けた采配ぶり。一体、明智の偽装した何処の兵だろうか‥‥」と首を傾げてしまった。そして、とにもかくにも、まず四条西洞院の本能寺に、すぐさま押し出し、囲んでいる輩をすぐにも退散させねばと、信忠はすぐ馬揃えを命じた。すると、村井長門が、「こちらへ攻めかかってきませぬのは、放っておいても、中将様が押し寄せると目通しを立て、向こうは待ち構えている証拠。みすみす、それを承知で罠に落ちに行く事はござりますまい。お止めなされませ」と、信忠の卯花妻取りの明るい緑色の鎧の袖を、掴まんばかりに押しとどめた。「といって、もし、このままにしていては、押し寄せられた時は厄介至極」。菅屋九右が、居並ぶ一同を見廻した。 この室町薬師の妙覚寺は、昔斎藤道三入道が小僧奉公をしていたこともある日蓮宗本山の一つで、構えは壮大だったが、寺院の事なので土塀だけはあるが、他には防禦物は、これといってはなかった。それではと評定したあげくが、近くの二条御所が良かろうということになった。衆議一決である。御所とはいえ、もともと信長が先の足利将軍義昭のために建てたもので、以前は二条城とよばれ難攻不落を謳われる程の堅固さで、構えも厳重。洛中、洛外、そこしか外には拠るべき所はなかったのである。源五も、甥の源三郎らと共に馬に跨り、信忠の供廻り五百騎と共に二条勘解由小路の室町にある御所へ移ることになった。外へ出ると、もう夜明けから三時間半もたっているので夏の陽射しはまぶしかった。が、暫く進んだ時、ガバァンダァーン。 突然聞こえた。物凄い響きだった。馬が驚いて竿立ちになった。「はて、本能寺の方角じゃが、向こうはまた降りなのか。百雷が一時に落ちたような 凄まじさではないか。耳の孔がつぶれそうじゃった」と馬の手綱をひきしめつつ話していると、「落雷じゃのうて本能寺らしい、見てみい。さいかちの森の蔭から黒煙が見える」と指差した者が出てきた。騒然とした。 たしかに煤煙にも似た黒い翳りが本能寺の上のあたりを覆いかぶしていたからだ。「急げッ」。誰かが叫んだ。みな顔面を引きつらせたまま、二条御所へ、まるで逃げ込むように急いだ。信長の伜のうちでも年下の「御防」と呼ばれている源三郎は声をたてて泣いて いた。 |
2 [二条]御所に行く途中、攻撃されるものと覚悟して、鉄砲には火縄をつけ、弓には弦をはり、槍は鞘をとって進んで行ったのに、不思議な事に一兵も敵は姿を現さなかった。「敵のやつばらは、本能寺を取巻いて、火事見物でも致しとるのでしょうか。と前髪立ちの御坊源三郎が前屈みになって駒の立て髪を撫ぜながら、怪訝そうに話しかけてきた。そう言われると、全く莫迦げた具合だった。妙覚寺を出立すれば、洛中、行く先は 誰がみても[二条]御所に決まっている。石櫓をかまえた堅固な要塞に立てこもられ たら、攻める方としては厄介千万な事である。それだから食い止めるため、待ち伏せしているか、遅ればせながらでも四条から駆けつけてくるべきなのに、てんで敵は押 し寄せてこない。(さては、二条御所は、もうとっくに彼らの手に落ちているのではあるまいか) そんな不安に源五は脅えた。だが御所へ近寄ると、三方の大門もそのまま、跳ね橋も上げてなく、敵兵らしい姿も見当たらなかった。「無為無策。あやしすぎる‥‥」。憤ったような顔つきで、用心しながら、信忠の供廻りは御所の中へ入り込んだ。そして一人残らず渡り終えると、慌てて直ちに三ヵ所の跳ね橋を上げてしまい、鉄門も締め切ってしまった。そして、「ここへ入ってしまえば、もう占めたもの」と誰もが安堵したように、吻っとした顔をお互いにみせあった。「不審な事だ。もし明智の逆心なら、あの男は上様初上洛の以前より、この先の明智の二条屋敷の向こうに、昔からの大邸宅を構えている。なにしろ初めて上様が御所へ参内なさった時も、姉川の合戦の後も、そこへ泊まられたぐらいだ。だから軍法に明るく、地の利を弁える光秀なら、己が二条屋敷と昔の邸宅に挟まれたここを押さえぬ 法はない。こりゃ、どうみても何処ぞの田舎の軍勢らしい」と、紫紺威しの鎧の福富平左が、若武者どもに教えている時、「今になって敵が近寄ってまいります」。物見に上げた者が石櫓から知らせてきた。戦機は熟した。 その頃合になって、もはや戦は避けられぬとみてとられたか、先の将軍義昭の代りにこの御所に住んでおられる帝の皇太子、一の宮におわす誠仁親王が、皇子や女房たちと共に上の御所へ遭難したいと、吾妻御門より勢揃いして、連歌師里村紹巴が担がせてきた迎え輿に乗って出御された。そして、ようやく周囲が騒がしくなり、西側の町屋の方へも敵がとりつき、二条御所はぐるっと周りを包囲された。駆けつけた村井長門守や、その伜の清次、作右の言ってたとおり、白紙の四手しないの馬印が、眩しい皓い陽射しに、ちかちか照り輝いて見えてきた。だが見参してところでは、気のせいかもしれないが、榊形に切りそろえて垂れ下がっている紙が、不揃いの切り方のようにもみえ、風にひらめきすぎるのも、なんとしても重みがなかった。「丹波亀山六十万石の太守ともあろう光秀が、大切な己の馬印を野武士みたいに竿の先にくっつけてくるという、そんな呆(ほう)げた事があろうか」。光秀とは親しかった野々村三十郎が、黒の厚板鎧を光らせつつ、汗を滴らしながら、大声で側の者達に喚いていた。「そういえば‥‥」と、村井長門守も唇をひそめて言った。「上様は、夕景に戻られる遠のりの軽いおつもりで、一昨日安土を出てこられたに、日帰りの御予定が雨で一泊に延び、昨日は晴次第に引き上げられる筈のところを、中将信忠様と我らを本能寺へお呼びなされて、御懇談。まだ明るかったから、つい長話になって、気付くともう晩景(ばんげ)。 今度は中国へ御自分で乗り込まれるから忙しい、とは口にされていたが、供廻りの小姓どもの中に、力丸、坊丸といった年弱な者達もまじっていることだから、夜露を早掛けで安土へもどるのは可哀想。もう一泊して朝の早立ちにすると仰せあったのは、もう随分とも昨晩おそくなってからのこと‥‥もし明智の京屋敷の留守居の者が、それを耳にして早打ちを出したところで、丹波亀山へ到着は今朝のことだろうに‥‥はて、その頃はもう本能寺は取り囲まれていた‥‥なにしろ一番鶏が鳴きだした頃には、もう軍馬のいななきがして、小豆色の空から薄明かりが洩れだした時分には、もう本能寺は十重二十重にぎっしり囲まれておった‥‥すりゃ馬印を明智のものと聞いて、早呑み込みしたが、本当は何処のどいつめでござろうな‥‥」。 源五は、その村井長門守の話を聴きながら、(‥‥もし光秀の逆心なら、彼は昨夜、まだ兄の信長が本能寺へ二泊をするか否かも 決めもしない先に、やまをかけて丹波から出陣してきた事になるが、そんな莫迦げた話があるだろうか)と考えてしまった。なにしろ、丹波の亀山から三春越しに大江山を抜け、保津川を渡って入洛するには、 徒歩の夜行軍では片道七時間はかかる。(とてもじゃないが。知らせを聞いてからの出陣では、上洛するのは昼近くなるだろうし、といって、どう考えても、やまを張って見込みで出てくる筈などはあり得ない ‥‥なにしろ普通なら、兄の信長は昨日の昼過ぎに雨が晴れていたから帰る筈だったのである。それが、もう一泊延期したのは、これは予定外の事。そんな偶然を巧く掴んで、光秀が逆心を抱けるわけとてない。これは、もっと近間にいて、昨夜の変更を 早耳でつかみ、それから用意して、すぐさま押し寄せてきた奴等の仕業ではあるまいか)と思った。他の者も、やはり考える事は源五郎長益と同じらしく、みな口々に、「こりゃ、惟任日向ではない」と首を振った。だが、そうかといって、(では、誰か?)となると、みな迷った。「浜松の家康殿が怪しい」と侍大将の福富平左が言い出した。なにしろ家康なら十五日に安土へ招かれて、そこで供応され、二十一日からは京見物に入洛。上様が安土から出てこられた一昨日からは和泉の堺にいる筈だが、目にみえては数百の供揃えでも、その連れてきているのは、これみな一騎当千のくせ者ぞろい。それに上様に三千両献金して、千両は戻されているが、噂では万と持ってきているそうだから、それを資金にして一万ぐらいの兵を集め、それで不意を襲ってきたのではないか‥‥ 堺からならば、昨夜、本能寺にて上様がもう一泊と予定を変えられても、近間だから、楽に陣揃えしても充分に間に合うし、家康の配下なら、洛中の地理に暗くて、この二条御所を囲むのが遅れたのも、これまた当然だと云うわけである。 なにしろ、他に実力のありそうな衆は、滝川一益は、関東管領として上野国の厩橋の城にいるし、柴田勝家は上杉攻めで越中魚津城を攻めている最中。羽柴秀吉は備中 の高松攻めで、これも遠すぎて問題外である。丹羽五郎左だけが近くの大阪城にいるが、これは織田三七信孝を大将に奉じて、たしか今朝、住吉浦から船出して、もう四国征伐に遠征していて留守の筈である。「中国行きを命ぜられている明智光秀も、十七日に坂本へ行き、二十六日から丹波亀山の本城へ戻っているが、二十九日には弾薬などの長持百個を、もう中国へ送っているから、昨日あたり、とうに出陣している筈である」と声をからして、しきりに信忠の使番の坂井越中も言い張っていた。「荒木村重か松永弾正の一味、又は六角承禎の残党どもではなかろうか」と、毛利や服部は言った。すると、石山の本願寺が毛利の援助を受けて、また叛いたのかもしれん。異見も乱れとんで、揣摩臆測しているうちに、ようやく陣立てを揃えたのか、押しかけるように濠へ寄手の連中は近寄ってきた。 |
3 紅黄青三色合わせの樫鳥(かつお)おどしの鎧袖をもちあげ、眼を赤く泣きはらした ままの源三郎は、むうっとして、「どこのどいつとも判らん敵を相手に戦うは、まこと張りあいのでないもの」。
大人びた口調で源五に話しかけたとき、「一万余の軍勢を動かすからには、並の者ではありますまいが、それにしては、攻め口にしろ、駆引きにしろ、御覧なされませ‥‥てんでん、ばらばら、さながら烏合の衆の寄せ集めのようでござりまする」。中将信忠の近習頭の鎌田新助が寄ってきて、ぐるっと眼下の寄手を眺め廻し、指を
さしつつ源三郎にそんな具合に説明をした。「なるほど。戦上手な明智光秀の軍配とは、どうみてもこれはうなずけませぬな」。いつの間にか側へきたのか、尾州刈谷の城主水野宗兵衛が三間槍を杖に立っていた。この男の長姉が「於大」といって、今は久松土佐の後家だそうだが、徳川家康の生母
にもあたるという話を源五郎長益は想いだした。だから、もし寄手が徳川家の者なら、この水野はこちらの様子を窺うために、わざと同行しているのではあるまいかという危惧をいだいた。
だが、近習頭の鎌田は振り返って頭を下げ、「これは、これは、高名な水野さま。今日もさぞ、めざましい手並みをお見せなされまするか」と、少し追従ぎみに声をかけていた。「己れが手勢を何百なりと連れておりませば、その手本に武者もしまするが、この齢で、我が身一つで働いても、足軽小者なみの匹夫の勇。さてさて難儀な事になりもうした」。宗兵衛は白い顎髭をつまんで笑った。源五もつきあいに頬は綻ばせたが、腹の中では、(本能寺で小姓や厩仲間が何時間もの間支えていられたのも、こうしたまとまりのな い連中に包囲されたいたせいだったろうか)と、眺めていたが、そのうちに、やっとの事で濠の近くまで寄ってきた連中が弓に弦 をはったり、鉄砲の火縄に点火などしだした。(毒を食らわば皿までというが、今度は性根をすえてかかってくるらしい。本気で向かってくるのか)と源五郎長益も眼を光らせた。そして、(それにしても、村井長門守が『邸前の本能寺の上さま御宿所へ、夜明け前より、ひ たひたと人数が集まってまいり、『何奴っ』と誰何(すいか)しても、一向に要領も得ませぬで、ひとまず『御注進』と妙覚寺へとんできてから、最前の天地をつんざくような大爆音まで、えらい時間の隔たりがありすぎる)と考え込んでしまい、(事によると、こうした具合にノンビリと囲まれていただけなのに、『何をぐずぐずしとる。いつまでも何たるていたらく』と、包囲している連中へ、何処からか重圧がかけられたか。そうでなければ、新手の別動隊が、これに加わって、情け容赦なく弓 鉄砲をうちかけ、わーっと一気に押し込み、兄の信長を取り逃がさぬように、大筒を 固めて撃ちかけ、あっという間に土堤を乗り越え殺到したのではあるまいか。本能寺の柱に火の手が上がって煙を出したのを見たのは八時近くゆえ、甲冑武者一万余に対し、素肌同然の小姓や中間八十人と、弓と槍を持っていたのが兄の信長一人という劣勢で、四時間近く戦ったとは、どう計算してみても、いくら兄が神業の振舞いであったとしても、こりゃ、とても考えられない話ではある)と源五は、首をひねらざるを得なかった。(なんせ、あの兄の信長という男は、安土城が落成したとき、白目石とかいうツルツルした石像を運びこませ、注連縄をはらせ、それを自分に見立て、『わしこそ‥‥この今の世に蘇ってきた<神>そのものである。余の他に造化の神はない』 と、実の弟の源五にさえ、その石に礼拝させてはいたが、現実に一人で一万に当たれる道理はない。神業といったところで、やはり限度というものがあろう。 それに同じ父親の伜でありながら、なんで兄だけ一人が神様だという‥‥そない馬鹿げた話があってたまるかや)と考えてゆくと、どうも、最初に取り囲んだ軍勢と、四時間後、天地をひっくり返す ような爆音を轟かせ押込んだ手勢とは、こりゃまるっきり違うらしいとしか、源五には納得できなかった。すると、前の軍勢は誰で、後のは何処の手勢だろうか、ということになるが、その時、(あっ、三七が四国へ行かずに謀叛した)と、はっとしたように思い当たった。 |
4 三七信孝は、嫡男信忠や次の信雄らとは母違いで、小島の後家どのである板御前の子である。源五郎には兄にあたる織田信包の妻の兄の、神戸具盛のところへ養子にやられ、その娘を娶っていたから、「神戸信孝」ともいっているが、信長の伜どもの中では抜群の男として、柴田や滝川といった老将どもからも受けがよい。
「信長にそっくりだ」と評判も高いから、上の二人は信孝をとても嫌っている。特に母違いの信雄とは同年 同月の生れというだけに、幼い時から犬猿の仲である。ところが、信長の気に入りの嫡男信忠と信雄は実の兄弟だけに、昔からの事だが、二人は組んで、いつも信孝を邪魔者扱いにしている。今度、四国征伐の総大将を言いつけられたのも、土佐の長宗我部を討ち、四国全土を平定したから、そこへ納まって四国管領にされ、安土の信長の許から、遥か遠ざけられる事になる。もとより、これ信忠・信雄ら兄達の献言による事ぐらいは、当人の信孝もよく知っている事だろう。そんな島流しみたいな恰好で遠隔の地の四国に追いやられてしまえば、もはや天下に望みをかける夢もなくなる。だから信孝にしてみれば、
「船出するか、しないかは、一生の別れ道となるところ」。だから、乾坤一擲、謀叛もしかねまい。同じく本丸にいる補佐役の丹羽長秀も、織田の家では、信行付だった柴田勝家より古い家人の筆頭で、譜代衆である。世が世なら「一番おとな」の恰好であるべきなのに、安土城の普請とか、佐和山の造船といった事ばかりやらされている。つまり今では一益、秀吉、光秀といった新参者に追い抜かれ、一手の大将として軍配を預けられた事もない始末で、この男が腹の中では信長を快く思っていないのは判る。
同じく、本丸にいるのが源五郎とは異母兄になる織田信包。三七信孝には伯父の立場だが、婚閥からいっても、信包の姪が嫁いで二重の血縁。それに、兄信長は伜の信雄に十万石、信孝にさえ五万石やりながら、弟の信包には僅か五百石しかくれていない。だから、吝な信長や、邪魔になる信忠を亡きものにして、信孝に天下をとらせたら、今の五百石が、少なくとも百倍の五万石ぐらいにはすぐ増えるわけである。信包だって、そこの勘定はあるだろう。なにしろ子供の時から欲が深くて、柿の実や梨の実を一つずつ分けてもらって噛りかけると、ずっと年上のくせして信包は、さ っと皆のを横取りしては源五ら幼い弟をよく泣かしたものである。(あの異母兄なら、自分から信孝をけしかけたかもしれぬ。間違っても諌めなどしま い‥‥)と、源五は眼のぎろっとした背の高い、痩せ型の織田信包の姿を想いだしてみる。(そこで、その本丸の連中が先に本能寺へ押しかけ、四時間後に到着したのが織田信包) と、源五は考えてみた。 大阪城ニの丸に三千の兵を率いて、渡海のために泊まっている織田信澄は、津田七兵衛と名乗っている。というのは、今を去ること二十五年前、つまり彼が赤ん坊の時に、当時まだ二十四歳だった父の武蔵守信行は信長に謀叛のかどで殺されている。いくら子供の時の事とはいえ、信長は彼にとって不倶戴天の親の仇である。表面は、今日までそしらぬ顔で信長に仕えてきてはいるが、まさか腹の中では片時と いえども忘れてはいまい。だからこそ、初め三七信孝や信包が押寄せたが、そこは身内の事で、もたついているし、丹羽五郎左長秀にしても、何十年も仕えた恐ろしい主君なので、二の足を踏んで躊躇していたところへ信澄が現れて到着し、(なんで猿楽の所作事みたいに愚図ついておられる。我らに任せなされ。いざや親の恨み、はらしてくれん)とばかり、己れの手勢をもって大砲を撃ち放ち、本能寺を爆撃し、一気呵成に討ち込んで、あっという間もなく片づけ、それから二条御所へこうして押寄せて来てるのではないか。 どうも、そう受けとるのが解釈としては順当のようである。 なにしろ、丹波の光秀や堺の家康よりも、大坂の信孝なら一番の短距離で、夜中すぎに(信長は二泊)という情報をとって、それから進発してきても、そこからなら楽に 夜明けまでには入洛できる距離なのである。それに何といっても、信孝ならば、四国行きを見送ってさえいれば、武器弾薬から 糧秣か御用金まで、すっかり揃えた完全武装の一万余の兵を掌握している筈である。(兄の信長は、尾張を統一するまでの八年間、その兄を二人、弟も一人、次々に謀叛人としてまず首にし、次いで伯父すじの守山の信光、清洲の信友、岩倉の信賢、信家 ‥‥血脈を次々と根絶やしにした。だから、信孝が本能寺へ向かって親を襲ったとしても、おかしくはない。なにしろ、彼も信包も信澄も、みな織田の一門なのである。つまり同族相殺の宿命的な、そんな謀叛気質がそれぞれの体内に流れているのは宿命的なものなのだ)と源五は、そんなふうに諦めてしまった。 |
5 「どうじゃ。そなたの眼では、こりゃ何と見る」。甘えるように、寄り添ってきている源三郎に、身内の心安さで伯父にあたる源五は話しかけてみた。子供の純な見方のほうが、こうなっては正鵠を得るかもしれんと考えたからである。甲州へ武田攻めに行っていた間も、ずっと源五に馴れて、いつも腰巾着のように側へくっついていたが、向こうでも遠目のよくきく子で、いつも源五のために物見などしてくれた源三郎である。それが、「鉄砲衆の身なりがちぐはくで、藁帽子などかぶっていますゆえ、ありゃ、山がつの猟師どもではござりませぬか」と指差し不審そうに呟いた。頑是ない頃から美濃岩村城へ養子にやられ、ずっと山の中の暮らしが長かっただけに、山者の区別が子供でも一目でつくらしい。それを聞かされると、(そんな、おかしな風体の山の者を、わざわざ船へ乗せて四国へ連れていくはずもな
い‥‥では、これまで考えていた信孝の寄騎共とは、これは違うかもしれん。さては 間違ったか‥‥)。自分の判断が心細くなって、櫨(はぜ)匂いと呼ばれる五色鎧の袖を持ち上げ、源五は汗を拭った。そして、(けたましい爆音がして、それで煙が見えたからといって、本能寺で、あの兄はまさか死んでなどいまい‥‥)と考えた。
もし信長を討っていたら、どこでもやることだが、三間槍の穂先にその首を突き立て、これみよがしに、うち振る筈である。だが、てんでそんな様子もない。だから(兄は無事なんだ)と思っているやさき、「上様が安土より間もなく御到着。瀬田、石山寺の山岡兄弟を先手とし、総勢二万で すぐ駆けつけられる由、只今濠を泳ぎ渡った者が矢文で知らせてまいりました」と、信長生存を裏書するような吉報を、汗水たらして大音声で呼び廻ってくる若武者がいた。誰かと兜庇(かぶとびさし)から覗きこむと、信忠の家老、斎藤玄蕃允(げんばの すけ)の嫡男新五郎だった。 父親が留守居城代として岐阜の本城を守っているから、その名代として、このたびの甲州御陣に伴してきて、そのまま妙覚寺にいたものである。「そうか、この濠は深そうだが、泳げば渡って渡れぬ事はないのか」と、源五は青黒い澱んだ水面を見下ろした。そして、(山岡景隆と景佐では、瀬田と石山の城を併せて、兵力は二千ぐらいだから、定めし、あとは安土勢) つまり兄の信長が本能寺から無事に安土へ戻ったのは本当らしい。だから安土城の本丸御番の津田源十郎や遠山新九郎が城内の馬周り衆を陣揃えさせ、それにニの丸御番の蒲生の兵でも併せ、それで二万の軍勢にして押寄せてくるのだろうと数えだしてみ た。(安土から京までなら急いでも四、五時間はかかるが、先手が山岡なら、その居城の 瀬田や石山寺からなら京へは近い。では、おっつけ着到だろう)という具合に誰もがみた。 そこで、鹿の角を前立につけた大兜を、ひとまず頭から近習にとらせた信忠が、汗をぬぐいつつ、「急(せ)くことはない。午下がりまでには怖じ気をふるって立ち退くであろう。その機を逸せず、こっちも討って出て、山岡の手の者と挟み討ちにしてくれよう。な、如何じゃ」と、やっと蒼ざめた頬を蘇らせたように紅潮させて、一同を見渡した。これで、一安心と居並ぶ家臣の聞いている方も、みなほっとした。米倉を開けさせた。大釜がないから、分けて炊がせた。そして朝からの空腹を満たすため、とりあえず順に握り飯を喰い、打ち出すときの用意にも、つないだ馬にも飼 葉や水を与えさせた。 なにしろ信長からいつもの口癖に、(わしはこの世の神ぞ)と言われどおしだったから、あの凄まじい爆裂音や本能寺の社の煙をみても、誰もが(信長様が死んだ)なぞとは本心から思っている者もいなかった。だから、「上様に謀叛するとは、とんだたわけをする莫迦者ではないか」などと口々に言いながら、まだふけていない強飯(こわめし)のように硬い握り飯を、ふうふう言いながらみな食べていた。 というのは浅井長政にしろ、荒木村重、松永弾正、みな謀叛した連中は、これまで 誰一人としてろくな目はみていない。だから、今度とてもその伝だろうぐらいに誰もが気安く考え、みなノンビリと構えていた。御所の前庭の植込みに白いくちなしの花が咲いているのが、源五郎の眼にとまった。幅広い緑色の葉に囲まれ、むんむんする強い匂いを立ちこめて匂わせていた。すると、側で握り飯を食べ終わっていた十三歳の御坊源三郎が鎧の袖を伸ばしてむしりとり、まるで誇るようにして摘んできて、くんくんと白い花に鼻をつけ匂いを嗅いでいた。源五も微笑んで、それを眺めていたものである。 |
6 握り飯で腹がくちくなってから、「囲まれっぱなしでは、むずむずしまする。腹ごなしにいっちょうもんでやりとうござる。暑気払いに、からこうてやるのでござる」と、団平八や猪子平介が信忠に願い出て、追手門の内側に弓隊、鉄砲隊を三段ずつに並べさせ、仕度ができると、さーっと先に跳ね橋を下ろさせ、気負いだった寄手が押しかけてくるなり、やにわに門を左右に開け放して射すくめ、散々に脅かし、ひるん
で逃げかける背後から「こら待て、ここな不所存ものめ」と、武者どもが槍をふるって後を追いかけ、散々に暴れ廻って突き立て、胸の溜飲を おろすと、さーっと門内へ引き上げ、橋を上へ釣り上げて、また鉄板打った大門をぴ
しゃりと両側から閉じてしまう。そして頃合を見計らって、東の門を開け、西の門を開け、敵の意表をついては、こちらから攻めだす仕草などしてみせ、(えたり面白し)と興がって、退屈しのぎに敵を翻弄しているうちに、まぶしい陽射しが中天に登ってきて、暑さがぐんぐん厳しくなった。「まだ来ないのか‥‥」。さすがに気になってきて、だれもが安土からの援軍を気にしだした。立てこもっている五百騎は殆ど無傷で、後から駆け込みで加わってきた者どもを加えると八百ぐら
いには、数は増していたが、二条御所の中に取り込められた恰好になっているから、どうしても少し焦りが出てきた。 それに、今まで一の宮誠仁親王の御所にあてられていたので、人数も少なく米の貯えがなかった。八俵ほどを握り飯にこしらえたら、もはやあとは二十俵ぐらいしか残っていなかった。だから米倉を覗き見した者達は、「これでは食い延ばしても二日ぐらい」と心細げに不安の翳を顔に浮かべた。すると濠を越した隣の太政大臣近衛御殿の邸内が俄かに騒がしくなった。どこからか新手の連中が来たらしく、夥しい武者が雪崩込んでいた。何事かと見上げると、名物に謳われている桜並木の梢から、ひょいひょいと野猿のように武者どもが大屋根に跳び移っていた。花はとうになく、黒ずんだ葉だけの桜樹の枝が揺られ続けているうちに、そのざわめきがやがて落ち着き、一斉に硝煙くさい臭いを噴いて、火蓋が烈しく切られてきた。「鉄砲衆を大屋根に乗せ、こちらの前庭を狙い撃ちする気か」と、こちらも慌てて銃隊を繰り出して迎え撃たせたが、茂った樹葉が青黒い垣を尾根に這わせ、見当が巧くつかなかった。だから撃ち合っても、随分とも違いがあって、向こうのほうが手強く、見る間にこちらの武者が仕留められ、津田又十郎、源三、勘七、九郎二郎、小藤次といった、槍をとらせては海道一とも讃えられた津田一族が、あっと云う間もなく鉄の火の玉にうち挫かれた。 すると、ドカァンと爆音がして、大地まで揺れた。「裏御殿が爆裂され、ふっとんでござる。お濠から水を汲みたいにも、門を開けては泳いで敵が殺到し押込みまする」と斎藤新五が、血相をかえて走ってきた。「ひどい爆音だ。建物が粉々だ」と騒いでいるうちに、きな臭い臭いが這い廻るように延びてきて、火の粉がパチパチ舞ってきた。そして突き刺さるように火箭が地べたに落ちると、真っ黒な燃えかすになった。火は表御殿へも移ったのか、めりめり地響きさせて、柱がどっと焼け落ちる音がしてきた。熱気が立ちこめ、まぶしい陽射しに火の色は見えず、黄黒い煙だけが濛々と、旋風のようにはらんで押しかけてきた。 すっかり様相が一変してしまい、繋がれた馬柵の駒どもが、ひんひんと悲しげにいななきを上げだした。それなのに、また大地をもひっくり返すような大爆音が続けてした。表御殿も消し飛んでしまった。そして、焔をあげて地面に落ちても、まだ燃え盛る大きな火の塊が次々と唸りを上げてどんどん落下してきた。「これは、いかん」。鎧の背に火の粉がついたのを、松の樹にこすりつけてもみ消しながら、焦げ臭い臭いに源五もあまりの凄まじさにすっかり狼狽しきった。火の手に追われて、前庭へ駆け出してくる連中も爆発の煽りをくったのか、片手片足ともぎ取られて、硝煙臭い血達磨になっていた。「どうしよう‥‥こりゃ難儀になった」と、源五郎長益も、すっかり顔色を変えた。(こりゃ、事によると兄の信長も無事ではあるまい)と俄かに心細くなってきた。本能寺も最後はここと同じ有様なら、とても助かってはいまいと気詰まりがした。ここの二条御所に比べたら、半分どころか、四分の一の広さもない、たかだか二町四方の塀もない土堤囲みの本能寺である。一万余に包囲され、こんな大爆発に見舞われては、降人するしか助かる道はなかろう。 といって、己れは神様だと自負している信長が、まさか、頭を下げて助けを乞うよ うな真似は、日頃の気性からみても、とてもしてはいまいと源五は心配になってきた。それに、(降伏を敵が受け入れるというのは、『相手に余力がまだ残っていて、長引いて延引すれば、それだけ厄介』といった時だけ、その話がつくのであって、伴廻りが小姓に駒の口取り中間と判ってしまっては、なんで敵が斟酌などするものか)と煎じ詰めて考えてゆけば、どうしても、(こりゃ、兄信長は、もうこの世にいまい)と源五は思い知らされ、愕然と唇を噛んだ。そして、きな臭い煙にむせ返りつつ、(兄じゃの信長が死んだとなると、後はどうなる) ぎくりとして、死屍累々たるあたりを見廻し、火炎にしみる眼を押さえつつ、息をのんだ。 信長を討ち跡目の信忠も殺そうと、こうして大爆発まで仕掛けてきているが、その下には信雄、信孝の他、羽柴秀吉の許へ養子に行っている秀勝もいれば、まだ幼い坊丸達もいる。よって、寄手が信長の伜どもを一人ずつ片っ端からしらみつぶしにする気だとみてとれば、これは(娘婿の信澄可愛さに、それに天下を取らせようとする明智が魂胆)としか、他には考えられぬ。信長の直系を根絶やしにすれば、とりも直さず天下の跡 目は甥の身上の津田七兵衛信澄のものになるはず) 源五は唖然として眼をみはる思いをした。 |
7 「危ないっ」。よろけながら、衛士所の脇から出てきた源三郎を見つけると、源五は飛び出していった。肩当の鎧の隙間に薄黒い矢羽を立てていた。抱えるようにして楓の植込みへつれこみ、力任せに矢尻を抜くと。血が吹き出した。練り薬を孔へ押込み、脇から肩へかけ、腰ゆわえの晒帯で幾重にも結ってやると、「伊勢の兄殿の逆心じゃそうな‥‥」。煤けた頬を持ち上げて源三郎はうめいた。「えっ三介のことか」。思わず、源五は聞き返した。三介信雄の本領は伊勢と伊賀。京には接している。国境に昨夜のうちに待機していたら、今暁の奇襲も無理ではないが、信雄と信忠は同じ生駒将監の後家娘を母にもつ同朋で、これまでは、いたって二人は兄弟仲もよい筈なのである。それなのに、その信雄が怪しいと源三郎は言うのである。つまり、「『おやじさまと惣領どのを倒せば、跡目のお鉢は次男に廻ってくる‥‥本能寺とこちらを襲って、一番儲かるは信雄のやつ』と、中将信忠様も口惜しがっておられ、さかんに歯噛みをされ、『裏御殿、表御殿が次々と大爆発をなした不可思議さも、まさかこちらに裏切り者がいようとは思えず。といって、あの濠を越え厳重な石垣をつたい、閉じた大門を乗り越え、普通の者が侵入してこられる道理もない。すると、こりゃ忍びを仕事にする伊賀の者。つまりは信雄の手下じゃろ』。そないに、中将さまの近習衆も言っとられる‥‥」。矢傷の手当をうけて、ほっとしたのか、源三郎は耳にしてきた事を、顔を歪めながらも弁口した。「そうか。中将殿や、お側衆は三介信雄が怪しいと、そない噂をしておるか」。うなずきはしたものの、源五は余計にわけがわからなくなってしまった。 三七の仕業かと思えば、桔梗の旗が見え、明智の逆心かとみると、これも違うとい う。本能寺からも轟いてきたが、これまで耳にした事もないような大爆音が次々と炸裂 して、城内の御殿も厩も空高く吹っ飛ばされ、そのため名代の武者達までが槍をふる う間もなく、石ころみたいに飛ばされてしまう。もう、きな臭い硝煙が渦を巻いていて、爆風で折れた松の枝に屍骸さえひっかかっている始末。混沌としてわけもわからない。「なんせ、こんな物凄い爆裂は前代未聞じゃ。今度ドカンときたら我らも砂礫のようにとび散ってしまうわ。なら肩へ掴まれ。ここでまごまごしていては、だんだん熱う なって、蒸し焼きにされてしまう。外へ駆け抜け、はたして、どやつの謀叛か、とくと検分してくれん」。源五は、何とかして甥だけは落そうと思った。まだ年端もゆかぬ者を、紅蓮の焔に包 ませ爆薬で、ちぎれた雑巾のようにしてしまうは忍びなかった。だが、源三郎は、鼻の下をこすりあげながら、脱出しろというのに、頑なに首を振った。「おりゃ、小さい時から美濃岩村の大伯母のもとへ養子に出され、武田四郎の軍勢に取り巻かれ、敵の秋山信友に占領されてからは、大伯母は信友の嫁様になり、おりゃも信友を父と呼ばされとった。ところが、兄信忠の軍勢に岩村の城が織田方へ取り戻 されると、大伯母は、「敵と女夫になった」と、おやじの信長に打首にされ、おりゃは子供だからとお構いなしで安土へ引き取られ、その翌年、元服させてもろうたが、いくら年弱とはいえ、これでは、何だか歯にものがはさまったような心地。ここで又、兄の中将信忠を見放して、俺だけこの御所の外へ出てみい‥‥今度は、どないに人の口に扱れるか‥‥てんで、俺が男道が立たぬぞえ」と、まるで駄々をこねるように、小さな身体で地駄を踏んでみせた。そして、 「源五郎伯父は、今まで何処へも養子に行っとられん。よって立場としては、気ままな楽な身じゃ。ひとつ、我が織田の行末をよしなにお頼みしまする」などと源三郎はたいそうな口のききかたをして、爆裂で崩れて落ちた御殿の方角へ、手槍を杖に後も振り返らず駆けていってしまった。 「童(わっぱ)のくせして、小生意気、猪口ざいな」と口では言った。だが、うっすら涙ぐんで見送った。そして、たんだ一人で取り残さ れると、「こうなると、おりゃが織田の家の行末を見るのか‥‥」。口の中で源五は低く呟いてみた。一度でも他家へ入って、そちらの名跡を立てた者は、もはや戻って本家の跡継ぎはできぬが、この時代の定めだったのである。 すると信長の兄弟では、まず考えられるのは、大阪城に今いる八男の上野介信包と 自分だけだが、信包は、今の三七信孝が神戸にやられる前に養子にやられた恰好になっている。だから改まって正統の跡目となると、信秀の伜ではこの自分、つまり織田 源五郎長益しかいない。自分の口からではおかしいが、信長の伜どもでも、信忠と今の源三郎は、どうあってもここで戦死の覚悟らしいから、すると残りは (二十三の信雄以下で、これまた未熟。といって跡目の信忠の伜の三法師らも岐阜城にいるにはいるが、これとて、みな赤子)と指を折って数えだしてみると、(これでは、どうあっても衆目のみるところ、十指の指差すところ、誰が考えたにしろ、次の天下様は信長の伜どもではのうて、信長の弟になるこの年長の自分しか、他にあるまい)としか考えざるを得なかった。 だから、焼け落ちて燻っている材木や、割瓦の間を縫いながら、石櫓の上へ源五郎 長益は這い登ってみた。寄手の具合を覗くためである。すると、西側の町屋の木組みを壊し、そのまま担ぎこんで濠に投げ入れ、ちょうど それと伝って、敵は押寄せてくるところだった。石櫓のすみにへばりついたまま、こうなると、さすがに心細くなって、源五は脅え た。いくらヤモリみたいに隠れていても、向こうが濠を押し渡ってどんどん入り込んできたら、とても何処にも隠れおわせるものではない。見つけられ引っ張りだされたら、なにしろ織田信長の弟という身分である。これはどう考えてもただですむ道理はない。(否応なしに方の蝶番をはずされ、首と胴はすぐさま切り離されてしまおう)と思った。それなら、さっきの源三郎のように、まだ生きているかどうか判らぬが、信忠の許へ駆け戻って、そこで織田一門がかたまりあって最期を飾るべきではなかったかと、 源五は決心した。 だが、振り返って見下ろすと、もはや熊手を石垣にひっかけ、よじ登ってきた連中が、既に煙にまかれながら、もう前庭を右往左往していた。(これでは自分が天下の跡目になるどころの騒ぎではないわい) もはや源五は進退きわまった。何ともなるまいとみてとった。腹を切ろうと鎧の前をはずした。だがである。打ち刀の切先を腹の皮にあてがって、 ちくっとしたところで、「はっ‥‥」とさせられた。力をいれる握り拳にためらいが出た。「介錯する者がいない‥‥」。びっくりしたように狼狽させられた。いくら刀を腹に突き立て、力任せに深くえぐったところで、それでさっさと絶命できるというものではない。背後から発止とばかり、素っ首を叩き落としてくれる介錯人がいなくては、腹を割って血を流してもそのままで、すぐ冥途へは行けはしない。(十文字に切り開いて孔をあけ、だらだら血が流れ出したところで、それはそれだけの事。おそらく痛みはするだろうが、それがすぐにはどうということもない。あっさ り息など落ちてはしまうまい。即死というわけにはならんじゃろ) 腹を撫ぜつつ源五は迷ってしまった。(これから刀を腹に突き立て、そこで身動きできず、といって、すぐには死にもでき ず、自分で持て余して、のたうっているところへ、運悪く寄手の奴輩がやって来たら 何としようぞ)嬲り殺しよりも始末が悪く、転がされて鋸びきに首を刈取られるのが 関の山である。 それを介錯だと諦めればそれまでの話だが、すっぱりと斬り落されるのと、ごしご しと刃の欠けた鈍刀(なまくら)で裂かれるのとでは、てんで痛みも違おうわいと、ぞっとさせられる。(それに、その相手が名のあるひとかどの者ならよいが、そんな武者はどこでも一握 りしかいない筈じゃ。おおかたは足軽か小者の雑兵達であろう。といって、彼らとて功名手柄に焦って首を斬りはずして重いのを提げてゆくのだから、よもや間違っても 『死にかけのを見つけて、首をとってきた』とは云うまい。おそらくは、『見事に突き合って仕留めた』とでも吹聴するだろう。そうなると『織田源五郎長益というのは、武篇不鍛練にて、名もなき雑輩に打ち負かされた』と蔑まされるのが落ちである。が、それに対してである。『そんな事はないわい』と文句を言いたくても、首だけでは肩 の蝶番を外されているから口はあってもよも唇は動くまい。そんな死に恥をさらすのは真っ平だ) 腹を切りかけたまま、考えてしまうと、すっかり源五は弱りきった。 |
8 首の付け根を背後から発止とばかり切り落としてくれる介錯人がいないなら、咽喉を自分で貫き通し、息の根を一息に絶ってしまおうと考えついた。源五は小刀を口に銜(くわ)えた。「やあっ」とまっ逆さまに頭から下へ飛び降りた。その時又も爆音がし、爆風がきた。だかである。
どうも、えてして思うようにはゆかぬものである。落ちて気付くと、噛んでいた筈の歯を開けてしまったのか、刀身の重さで爆風がとばしてしまったのか、唇の端はひりつくが、源五の口に刀はなかった。つまり、ただ頭をひどく水面にうちつけたのか、朦朧としてぐらぐら眼がくらんで
いたが、あべこべの濠の方へ落ちて、死なずにまだ生きていた。水苔か藻草か、ぬるぬるとしたものが、ひりひりする口の端に絡みついているだけだった。そして、まぶしい陽射しと毛髪までが焦げる熱気に、ずっと火照りきっていた身体が、まるでジュウッと音をさせるように濠の中でふやけていた。息苦しさに浮かび上がって、顔を仰向けに持ち上げると、もう二条御所の火煙は崩
れた狭間からも噴き出し、六月の陽をすっかり翳らせていた。さえわたっていた筈の青空も、濠の上をもの黒くすっかり幕でもかぶせたように暗く掩いつくしていた。遅れ馳せに御所へ向かう寄手の連中が、壊した家の戸板や棟木を縄でくくりつけ、にわか作りの筏を作って渡ってきたが、あちらこちらに投げ込まれた丸太が漂っているから、それに突き当たったり、乗り上げ、そのはずみをくって端の者が落ちたり、筏ごと横倒しになって水に呑まれた。激しい飛沫をあげて沈んでいった。しかし、殺気立って皆で先を争っているので、落ちた者に手をかす者もない。眺めていると、身軽なのは一度は沈んでもどうにか、もがきながらすぐ浮き上がって
くる。そして必死になって壊れた筏に掴まったり、懸命に泳いで対岸へと渡っていく。 だが、憐れなのは寸法武者(ずんぼうむしゃ)とよばれる、上から下まで鎧兜に装束をかためた者達である。なにしろ、一度ドボンと落ちたが最後、水中へ転がり込んだらその重さが錘りにな ってしまって、どうしても浮揚できぬらしい。誰も水面へは出てこない。 だから、濠の底で断末魔の苦しさでもがくのか、握り拳ほどの水泡がブクブクといくつも水面へ押し上げてくるように散らばり、泡のように浮かんできた。そして、やがてその泡が次第に小さくなって微かになり消えてしまうと、水面のさ ざなみもなくなっていった。淀んだ水の上っつらは、また黒い布でも引いたようにお さまりかえって、ただすえた匂いだけが立ちこめて、むせ返りそうにあたりに漂った。静まり返った濠へ時々、ジューッと音させ、飛沫をはねさせて、宙に舞っていた燃えた木片が火の玉みたいに跳ね飛んで落下してきて吸い込まれた。その焦げ臭い匂いと、どぶのようなよどみにむせびながら、源五は (おりゃ、助かっとる。まんだ生きとる)と、まるで人ごとみたいに考え、そして少しずつ落着いて、やっと正気づくと、美濃 の岐阜城へ残してきている妻や子供の面影がポッカリ浮かんできた。まるで、人魂みたいに眼の先にちらついてきた。(逢いたい‥‥)と思った。一目でいいから、顔を見て、声などかけてみたかった。 なにしろ源五郎は先月の十四日に甲州から戻り、安土からそのまま岐阜へ戻れると 思っていたところ、二十一日から上京して、ずっと妙覚寺住まいである。つまり、戦陣に追い立てられて、ここ五月ごしに別れたきりの妻子である。(腹を割ろうとした時は気が張りつめていて、おくびにも思い出さなかったのに、冷たい水に浸って、身体の芯まで凍りつきそうに心細くなってくると、温かい寝床や和やかな妻子との睦み合いが、なんでか急に懐かしくなって偲べるとは、こりゃ、少し得手勝手じゃろうかい)とは思ったが、逢いたい見たいと気にすると、無性に源五は堪らなくなってきた。そして、なんとか溺れずに、この濠の中から這いだし、生き抜けようと、そんな心のうごめきを、まるで腹下しのようにも下腹に波打たせた。 だから、人目につかぬように顔を持ち上げ、初めは丸太に顎をかけて浮いていたが、しまいには、もう見栄も外聞もなくなった。生きようとする存念で、流れてきた死人の股ぐらに頬を挟みこんだ。勿論、敵か味方か、うつむきの屍体で、そこまでは判らなかったが、浮き袋の代りに両腕で掴まった。 なにしろ、水に漬かった土左衛門の屍体は、すっかりふやけて、腹や尻は太鼓のよ うに膨らんでいた。そして死臭がむうっとした。 だが、そんな事に構ってはいられぬから、源五は身体を浮かして、手足の自由が効 きだすと、まず鎧の草ずりをむしりとった。次いで目立つ己れの絹布の鎧下着も脱いでしまった。そして水面まで浮かばずに、プカプカ漂ってる屍体を脚で探りだして、足首で引っ掛けると、その男の物具を剥ぎ取った。水を吸った布子だが、まさか丸裸も変だろうと、水の中で袖に手を通した。だが、羽織ってみると、死人の冷たさか、水の感じか、余計に歯の根が鳴った。ぶるぶる震えた。が、源五郎は必死である。流れている藁を拾うと、髪の元結をふやけた爪で抜き取り、ざんばらに後へ撫ぜつけ、どうにか自分で手探りで総髪に結え直した。「おう、おう」と、二条御所の中から喧しく勝鬨がした。 源五は口惜しさに涙を自分でも意識した。しかし、といって、どうなるものでもない。追い立てられるように澱んだ重く青黒い水面から顔を突き出してみた。(さて、何処の岩礁へ這い上がろうか)と眺め廻すと、西側に壊して運んだ屋根裏や戸板、丸太がまだ積み残してあった。這い登れば何とかうまく身を隠せそうだった。占領して御所の門を開いた連中は跳ね橋を下ろし、そこから濠の水を汲んで火を消していた。近衛家の雑掌達も集まって大瓶に縄をつけ、水汲みを手伝っていた。火の手は水を浴びせられると茶っぽい煙になって、這いだすように濠まで流れ込んできた。濛々と水面は湯気をたてるように煙りだして、源五は咳き込みながら息来るしさにまた水中へ潜ったが、ここから脱出するのは今だと覚悟をつけると、西の縁まで泳ぎつき、立てかけの棟木を押さえ、ふやけた手肢に満身の力を込めて這い登った。(どんな事があっても、今日の事は忘れまい。なにがなんでも、この謀叛をしくさった奴、きっと捕らえ眼にもの見せてくれん) びしょ濡れの汚い布子姿で、取り壊した家並みの裏を縫って走りながら、源五は忌々しさと腹立たしさに、照りつける陽光の下を、がたがた震えながら吼えるように、何度も自分に繰り返して呟いた。そして、本能寺の兄信長の事を思うと、気になって、まるで子供のように、「おん、おん‥‥」喚きをあげ、顔を歪めたまま、ひた走りに無我夢中で駆け抜けていった。 |
(私論.私見)