10章、羽柴筑前守秀吉 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1166信長殺しは秀吉か16 」、「1167信長殺しは秀吉か17」、「1168信長殺しは秀吉か18 」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
羽柴筑前守秀吉 |
1 慶長十九年十月二十三日、駿府を出て上洛してきた徳川家康が、また再建した二条城へ入った。今を去る三十二年前の天正十年六月二日には、その二条城へ駆け込んだ有楽は、迎えられて今度は大坂城本丸へ入った。かねて、噂が高まっていた「関東関西お手切れ」が実現してしまったからである。そりゃ有楽にしてみれば、ここで家康を敵に廻してしまえば、せっかく十四年前に関ヶ原合戦の褒美として貰った大和三万石が、ふいになる心配もあった。しかし、信長殺しの隠された部分を探りだすためには、それがあまり表向きにはできぬ事柄だけに、眼に見えぬ人手や莫大もない銀が入用だった。とても三万石の実入りからや、茶湯の方の礼金などでは足りもしなかった。だから、銀を借りた。次第に増えていった。借金で首が廻らなくなってきた。えいなどは小野木縫殿助が殺されてしまった後は、「もう大概になされませ。過ぎた事ではありませぬかや」などと、時分の方は親や兄の仇がとれて、もうすんでしまったものだから、しきりに
したり顔で諌めたりする。 しかし、有楽にしてみれば、まだこれといって、はっきりした手証は掴んでない。本能寺へ直接に向かったと思われる木村弥一郎父子は奥州一揆から死んでしまったのか、八方に手を尽しても皆目所在は不明。小野木とは、たった一日半の手後れで逢えずじまいで、首と胴が生き別れの有様。残りの臭いのは細川幽斎と忠興だが、これは近寄って直接にどうこうできる相手でもない。だから焦燥しきって、(これでは二条の濠へ飛び込んだのが仇になり、かえって逆に生き恥をさらす立場になった、なんで馬齢を重ねて今日まで、このおりゃは生きて過ごしてきたのかも判らんようになる)と癪にさわり、(せめて、死に損なった己れというものが、『この世に生きていた』というあかしに も、こりゃ確かめねばあいなるまい)と、狂奔したのだが、ともすれば、いくら骨折って探ってみても、空廻りになるのが殆どだった。へこたれきっていた。 そんな矢先。 (しょうがない伜)とは思っていたが、長子の左馬助が、まるで家康のために死なされる羽目になった。「禁中の女房どもが、公卿の若者と集団で道ならぬ事をしているのは、不届き至極ゆえ、直ちに厳科に処すよう」と、わざわざ駿府まで密かに主上から勅使が立てられ密命が下ったという。そこで、家康から、折り返し厳罰方を命ぜられた京都所司代板倉伊賀守は、すぐさま広橋大納言の息女の広橋の局、中御門少納言の娘の唐橋の局をはじめ、主上の御寵愛を受けながら、蔭で浮気遊びした女房衆五名をすぐさま召捕り、その相手をした烏丸、飛鳥#、花山院、徳大寺の青公卿九名を捕縛してしまった。そして、情け容赦なく男の方は即日打首にされた。そして嫉妬された主上の思し召しによって、粟田口の天王社の斜め前の獄門台に見せしめのために、ずらりと並べて晒しものにされた。 ところが、女房衆が一人で二名ずつ密夫を持っていたことが取り調べの結果判明したから、獄門九名では員数がどうしても一人不足である。そこで、厳重に調べたとこ ろ、猪熊清麿という者が行方をくらましていることが判明した。しかも、これが女房衆をそそのかした<かぶき者>の発頭人で、困ったことに有楽の伜の左馬助の遊び仲間と判った。そこで板倉伊賀守は、猪熊を逃亡させたのは織田左馬助らしいと見込みをつけてしまい、「左馬助を剃髪させ、高野山へ上げるよう」所司代屋敷から厳重に内命が下った。有楽は、伜のために駿府の家康にも掛け合ってみた。だが、重ねて板倉伊賀守から、「これは畏れ多くも、一天万乗の御方様の詔りである」と通達され拒まれてしまった。それを聞かされて、さすがに当人も茫然自失、「高野山は女人禁制。あそこへ登ったら、もはや女ごとも寝られぬ」と喚きだした。(そないに女が欲しいのじゃろか)と憐れになってきて、つい左馬助に、「高野へ上って苦しければ早よう死ね。人間、この世から解き放たれて楽になる道は、所詮死しかあるまいて‥‥」と教えてしまった。すると左馬助は、この世の名残りにと放埓を散々にした挙句、いよいよ高野山へ送られる前夜に屠腹してしまったのである。 「なんと申されても、豊臣秀頼公は、まだ二十二歳の御年弱。よって阿袋さま澱殿が仰せあるには、これは是非とも、故織田信長公弟の殿におわすお手前様に、格式から 申しても、大阪城の軍配を預かっていただき、全軍の総大将になって下さるようにとの思し召しにござりまする。なにとぞ、よろしゅう‥‥」と、大野治長が有楽を訪れたのである。彼は禄高は一万石だが城内きっての実力者である。その引出物の夥しい黄金の山を見据えた有楽は、(これで長年の借銀の返済ができ、また新しく信長殺しの犯人探しもできる)と勇み立ち、それに、(腹切った伜左馬助のためにも、関東の奴ばらに一泡ふかせてくれん)とばかり親心で性根をすえてしまった。だが、織田一門が東西に分かれては、前の関ヶ原合戦の時みたいに具合が悪い。そこで、松山から、やはり大和へ移っている常真こと織田信雄も呼んで、これを大坂城の副大将にした。そして、その下に新規に入城した真田幸村、明石全登(ぜんとう)、毛利勝永、後藤又兵衛、長宗我部盛親の五人を派属させた。大野修理ら城内衆は、女鎧をまとった淀殿指揮の女武者隊と共に、これは秀頼を守護した。織田一門が大阪城の総大将になったのに驚いたらしく、家康は今度の戦にはなまじ 家名の者は信用せず、前の関ヶ原合戦で手柄を立てた者でも、ことごとく江戸残留を云いつけた。だから、福島正則や黒田長政、平野長泰といった者どもは、小姓を二名ずつ伴っただけで、江戸城へ押し込められて、まぁ、ていのよい軟禁で留守居をさせられた。 |
2 「あの男、我らを避けたがっている」。信雄に云われてみると、たしかに、その男には蔭があった。暗い表情が漂っていた。(何か、織田一門に後ろめたい事があるのじゃなかろうか)と調べさせると、「明智光秀の家職(かしき)、斎藤内蔵介の妹の孫」と素性が判ってきた。そして古いことだが、その父は天正三年に元服する時、死んだ兄信長に願って烏帽子親になってもらい、その信の字をとって、「長宗我部弥三郎信親」と名乗りをつけた事も知れてきた。そして、その親の元親は、かつて四国全土を槍先一つで突き従えた剛の者である。「たとえ、内蔵介の甥の子にあたる身上にしろ、当時、信親や盛親は四国の土佐にいて本能寺には何の係り合いもない話だから、左程まで気兼ねする必要もなかろう‥‥
はて、なんじゃろ」と信雄も言うし、有楽もそうだと思った。 ところが、その盛親には妙な事があった。というのは、新規の入城者はみな牢人なので、勘定差配から金銀を前借りするのが当り前で至極当然な事なのに、(盛親に限ってそうした借出しが全然ない)というのである。そして、妙な事に、ひっきりなしに京都から使いが来て、それが又みな親類だというのである。「あやつ、関東の間者で、京都所司代とでも密かに気脈を通じ、『関ヶ原合戦で失った浦戸城を返して貰う約束』で密かに裏切りを企てているかも知れんぞ」という噂も耳に入ってきた。そこで、盛親の許へ来る使いの後を、そっとつけさせてみると、「聖護院の先の吉田山の中大路、吉田神社の社務所へ入って行きもうした」と、尾行して見届けてきた者から報告がされた。「えっ」 と、有楽の方がそれには驚かされた。 神社と一口に言っても。吉田神道の本家は、中田から浄土寺にわたる地域を北白川まで所領して、しかも、「愛宕の親質」として知られている。光秀も<本能寺の変>の前日まで参篭していた愛宕山は、勝軍地蔵を参拝し、武運長久を祈る御利益ばかりではなく、他に金融業も営んでいて、その方が何といっても名高かった。もちろん、当時はお伊勢様にしろ、船主相手の熊野権現にしろ、みな金貸しはしていたが、お伊勢様は閏月で年十三ヶ月の時をみても、年に七回だけ利息を納めればよかったし、一航海四月とみて貸し出していた熊野さんは、年に三回の利子払いですんでいた。ところが京に近い愛宕山だけは、それだけ需要が多いせいもあるが、ここだけは毎月決済だった。だから、借りている連中がせっせと毎月お山へ登るのを、五条河原で興行しだした女歌舞伎の者が、「伊勢にゃ七たび、熊野にゃ三度、愛宕様には、さあ月まいり」とも桟敷から唄って流行させたが、有楽が岐阜城攻めをした時の徳川方の目付の村越七十郎直吉が当時は牢人して京へ来ていて、<○○七>の旗指物を看板に立て、伊勢屋という金貸しの店を開き二ヶ月決済で好評を得ていた。(だから、今でも関西へ行くと、<○○は七>といった看板が江戸時代を通して伝わっている。ひどい所では質屋といわずに、ひちやとか七つ屋とも云っている。これは村越の名残りである) 「愛宕で諸人に貸す金の元は吉田神道のものというが、そう云えば天正十年六月に安土の光秀の許へ勅使として下向したのは吉田左衛門督(すけ)‥‥」と有楽が思い出すと、信雄も考えだして、「たしか、その時の礼に光秀から銀五十枚貰ったのを、山崎合戦後に三七信孝から脅かされて撒き上げられ、そこで狼狽したのか、五月七日には、また勅使になって近江長浜の秀吉の許へ行き、太刀を戦勝祝いに持参して、己れの身の保護を頼みに行ったそうな‥‥忙しい話じゃな」。信雄は面白そうに、けたけた笑いだした。だが、有楽はそれについて笑えなかった。勅使になって光秀と秀吉の双方に行っている吉田が、足利義昭が槙島へ立て篭った、その十年前には、(瀬田の山岡景隆、景友と談合の上、一泊して、翌日、佐和山の小松原へ信長の動静を探りに来て、それから義昭の許へ戻って、室町奉行衆三千七百を一人残らず信長方へ<埋火>してしまった事)を続けて思い起してしまったからである。「おかしい‥‥」。口の中で叫びを上げていた。(愛宕権現を窓口にして京の金融を一手に握っている吉田神道の吉田兼見が、信長殺しの十年前から足利義昭のために奔走していた事実と、それに繋がりがあるらしい四国の長宗我部一族とは、何の関係があるのか‥‥そして、その結び付きが天正十年六 月二日に結び付いていないとは、どうして言えようか) すっかり有楽は考え込んでしまった。「何かある‥‥」。ぐっと胸に響く者があった。 |
3 十二月四日。勝ち戦の酒宴が催された。六文銭の旗をなびかせた真田幸村の手勢が、城の東南の平野口の出丸から打って出て、小橋村の篠山で左右に分かれ、天王寺に陣していた越前の松平忠直の軍勢を誘いだすと、騎馬武者だけでも約五百。徒歩の武者や雑兵小者は数知れず討ち取って、まず潰走させてしまい、続いて旧武田勢の赤揃えで知られる彦根の井伊直孝を、やはり毘舎門池まで追い落として、二百騎あまりの屍を踏みにじり、事のついでに脇坂、榊原、松倉の陣営も蹴散らすと、木野村に近い加賀百万石前田利常の手勢の中へ、今度は一
丸となって火の玉のように突入。あれよ、あれよと、うち騒ぐ北陸武者を、見る間に三百騎ほど突き倒し、その背面の岡山の麓にある征夷大将軍徳川秀忠の本陣めがけ、「それっ」
と雪崩をうって怒涛のごとく殺到。すんでのところで秀忠に逃げられてしまい、惜しくも首は取れなかったが、三つ葉 葵の軍旗を二流まで分捕って真田幸村は戻ってきたのである。「祝着至極」。総大将として有楽は、真田幸村を招いて盃を与えた。相伴の後藤又兵衛、蒲田隼人も、皆、久しぶりの吉報に己が手柄のように相恰をくず
していた。和気藹々。そんな光景だった。 秀頼や淀殿も顔を出していたが、間もなく引っ込んだから、有楽も織田信雄に合図して、たまには大いに士気高揚のためにも酔わせてやるべしと、「さあ、後は無礼講で、ゆるりと、心ゆくばかり召されよ。どんどん過ごされるがよい」と、総大将の自分は席を立った方が、皆も気安く呑めるであろうと、会釈して大廊下へ出た。すると、信雄も後を追うように出てきて、背後からいきなり「話がある」と言った。声をかけられた有楽も、もう少し呑み足らぬ心地もしていたから、うなずいて、「おじゃれ」 と、己れにあてがわれている本丸の松の間に誘った。すると、えいが、いそいそ出迎えた。この女は、有楽が大坂城の総大将になってからというもの、目にみえて変わってきた。まぁ見直したとでも言うところか。それとも口喧嘩に飽きがきたのか、近頃はまめま めしく口数を減らして仕えていた。だから信雄も、えいは気兼ねのないものと思ったのか、座るなり、「お手前様は、さる天正十年六月二日の事が秀吉めの調略だった事‥‥既にお調べ済みでござりまするか」。えいのすすめる盃に手を出そうともせず、まず昂ぶった声で、やにわき切り出してきた。(この男、今頃になって、何を云っとるかや‥‥)とは思ったが、とやかく云うのもおとなげないから、「うん」と有楽は低くうなずいたまま見返すと、「本能寺で我らが父の信長は小姓どもを指図して、『弓を放ち槍を突きまくり、心ゆくばかり稼ぎまくって、その挙句、心静かに割腹して、生害なしたるもの』と巷では色付けして申し居りまするが‥‥まことは手出しできぬまま、ずっと袋の鼠にされ、じっと包囲されたきりで時を過し、やがて突如として天地をひっくり返すような大爆発‥‥そして影も形も残さんと吹っ飛ばされての御最期‥‥」と無念そうに拳固で目頭をこすった。 さては信雄も自分で、やはり、父信長の殺された謎を一人で懸命に追いかけていたのかと思うと、有楽も同じ立場なので涙を催してしまい、「むごやのう‥‥」と、それに相づちをうった。「取り囲んでおった当時の雑兵の生き残りを、やっとのことで見つけだし、その者の口より聞き及びましたるところでは‥‥夜明け前から四時間ぐらい、ただガヤガヤと本能寺のさいかちの森に屯していただけで、ドガァンと大爆発を起した時には自分らまでが爆風に煽られて腰を抜かしました由‥‥よって何者が、これまで見た事も聞いた事もない強烈な大爆弾を放りこんだか存じよりませぬが、その時の兵どもは、後の山崎合戦や賎ヶ岳合戦では一番まん前に追いやられて、殆どが捨て殺しにされたとか、云うておりました」。「ふうむ。すると、やはり秀吉めが差し金‥‥という事になるのかのう」と有楽は口をはさんだ。「当時、秀吉めは備中高松にいたことは、これは紛れもない話‥‥といって、他に誰かを手足の如く動かしたとしか、あの事はどうあっても考えられぬ仕儀‥‥よって『ええい、ままよ。当たってくだけろ』とばかり、去る天正十八年の小田原御陣の時、思 い切って秀吉めに『我が父をまんまと討たれましたな』とかまをかけたところ、弁解するどころか烈火の如く立腹。『目通りならぬ』と追い立てられて領地没収。すんでのところで命も危うござったが、頭を坊主に丸めて、まずは辛うじて助かり申した」と「常真」に改名した時の真相を信雄は打ち明け、「人間が腹を立て激怒するというのは、こりゃ本当の事を云われた時‥‥よって本能寺を爆発させたは、間違いなく、あの秀吉めが指図と、こない思い居りまする」と、一息に信雄は言った。 「おそらく、その時の爆発というのは、天主教の京都管区長オルガンチーノが秀吉に密かに渡したマカオ渡来の強烈な最新型のものであろう‥‥その後、秀吉めは天主教 を弾圧したり宣教師をみな追放しおった。が、何故かオルガンチーノだけはマカオへ戻ることを、向こうを国王フェリッペ二世陛下が禁じられた。よって、戻るところとてない彼を秀吉は庇って扶持して生涯を気楽に保護してやった‥‥というが、それで、どうやらこの話の辻つま合うというものじゃろ」と云って有楽も涙をこぼした。(あの豪気な兄が十重、二十重に取り囲まれて、まるで罠にかかった野兎のように何時間も放っておかれ、挙句の果てはドカーンと一発。ものすごい最新の強力火薬で建物ごと吹き飛ばされて、毛髪一すじも残さず跡形もなく消滅させられたとは、あまりにも最期が憐れにすぎた。やはり兄弟として無念に思えた。だから、「秀吉めが、故織田信長の仇敵ならば、なんで、おりゃ達織田一門は、その秀吉めの伜の秀頼を守って、この大阪城で采配をふるうことやある‥‥」と、自分の立場の馬鹿々々しさに有楽は情けない声を出し、向き合っている信雄に、「やめてしまうか?」と相談してみた。「如何にも‥‥」。信雄も同意した。だが、「もそっと、様子をみてからでないと、今すぐには、なんぼなんでも、まずうござろう」と苦笑いをした。 |
4 十二月も十五、六日になってくると、大阪城の北の天満川の中州にある備前島から撃ちこんでくる徳川方のポルトガル砲の威力が凄まじくなった。続けさま何発も落下
し城壁も崩れ放題になった。だが、それで本丸の花見櫓へ撃ち落とされた大筒玉で、えいが、砕かれて死んでしまうとは、有楽とて思いもかけなかった。首がもがれて飛ばされ、肩から下だけが腹巻鎧の女武者達の手で真紅の打掛けをかぶされて戸板で運ばれてきた。十二、三の頃から、死んだ信長の名代となって戦場を往復していた有楽だから、もっと無惨な屍体も見ていた。だが、自分に親しかった者が骸になって目の前へ届けられたのは初めてだった。だから改めて生々しいくらい、死というものを身近にひしひし感じた。(急いで茶毘にふす事もなかろう)と、近臣どもが片付けたがるのを押さえ、北向きの陽のささぬ小部屋へ、そっと遺骸
を寝かしてやった。(男と女の結び付きは、身体を離してしまうと、ぽかりと穴の開いたような虚しいはかなさの窪みに落ち込んでしまう。だから、若い時には、その間隙を埋めようと、ひた押しに続けられるだけは己れを没入させもしたが、思えば、えいとは初めが親や兄弟の仇を討ちたさに、向こうから持ちかけてきたものゆえ、煩わしさにも似たものがいつもつきまとった。こちらとて、兄信長の死因を追いかけ、謎を解くために、まるで『生き証人』側へ囲っておくようなつもりで抱いていたようだ。だから、まるで断層にも似た空虚さが、しっくりゆかぬ侭に溝をつくっていた‥‥
考えてみれば、互いに利用しあう事しか思わぬ睦み合いなど虚しいもので、今となれば、そぞろ哀れを催してくるわい)と、そんな事を考えながら、凝固した血を有楽は自分で拭うてやった。固まったところは口をつけ唾で溶かしてこすった。すえたように舌にざらついた。「睦み合った仲じゃ。できるだけはしてやらにゃなるまい」と、侍女どもは遠ざけ、一人で血で汚れた小袖も剥いで、えいの気に入りの新しいものを纏わせてやった。そして、冷え切ってきた躰を、まるで温めでもしてやるようにしっかと抱えてみた。だが変だった。なにしろ首さえついていれば、よしそれが動かないままにしろ、何かしらの表情が漂って見えるが、今のえいには、その肝心な顔がな い。まるで首がもげた人形のようである。いくら手や脚は二本ずつあっても、肩から下からでは、頭を引っ込めた亀でも抱いているようなもので、とんとそぐわないものがある。「これ、えいや。平素そなたは口煩いと、おりゃ疎んじていたが、なにも死ぬとき、その口もろとも顔までふっとばさんでもよかったろうに‥‥」と恨み言をいってみても、首がなければ耳もない、では喋ったとて聞えもしまい。これでは詮ない話しである。 弓を引くときに手にはめる革袋を<ゆがけ>と呼ぶ。 首のない女体をもてあまし、まるで幹にかじりついた蝉のような自分を感じながら、有楽は撫ぜまわして、「あの、ゆがけの新品をおろして指にはめ込む時、皮と皮がくっついている中を開いてゆく感じじゃったになぁ」と、初めて接した時のえいの事など思い出し、なんとか首のない遺体から、ありし日の事ども考えようとしても、こちらの顎がえいの肩のところにあったのでは、むんむんと血の匂いしかしない。「おりゃ、愛(めご)して居ったんじゃぞえ‥‥本当はな」。今になって、始めて打ち明け話をしたところで始まらない。なにしろ、首と一緒に、えいという女は丸太ん俸になってしまって、何処か遠くへもう行ってしまっている。そう思うと、ますます侘しさが有楽の胸板へ槍先を向けて、ぐいぐい突きかかって いる。とてもたまったものではない。淋しくて吐息が立て続けに出る。 だから、その哀しみを紛らわすために、もう樹の枝みたいに硬ばっているえいの五 本の指を己れの手で挟みこむと、有楽は柔らかくしてみようと、「はぁはぁ」 と息をかけながら、柔らかく揉みほぐしたりしてみた。なにしろ、ここ久しくずっと、えい一人しか抱いてもいない有楽にしてみれば、自分の身体の一部さえこの女体に咥えこまれたまま、何処か遠くへ飛び去って行くような、そんな感じさえしていた。寂しさになんともやりきれなかったせいもある。首のない 女を抱いて有楽は男哭きした。「よしなされ」。眉をひそめて、一族の心安さに信雄が、ずかずか入って来て、板戸を開けるなり鼻を つまんで、「臭い‥‥」と言った。そして振り返りざま、「早よう。ここの遺骸も死人塚へ運んでゆけや」と、供をしてきた者共に云いつけた。「では‥‥」 と会釈して入ってきたのは、鎧姿はしていても、みな城内の女どもだった。中には、生前のえいとも顔見知りだったのも混じっていたらしく、「死んでから二日も三日も添い寝してもらえるとは、まあ、なんと女冥利につきる‥ ‥」と顔のないえいに話しかけている者もいた。他の者なら追い払えもしたが、一門の織田信雄に持ち出されるのでは、まさか、「まだ、えいには未練がある」とも云いかねて、有楽は運ばれていく遺体の突っぱった手の指を見送りながら、「この世に‥‥男と女は多いが、睦みおうた仲の者は、たんとはおらぬ‥‥それに親兄弟を早よう亡くして身寄りもない女じゃった‥‥」と云いさしたまま、嗚咽してしまった。もちろん信雄の手前、恥ずかしやとは思ったが、そんな事で止まる泪でもなかった。 もらい泣きというのか、それに誘われるように遺体を運びだす女兵達も、すすり泣きの響きを残していった。有楽も、何とかして泣き止めようと上唇を噛みしめた。それなのに信雄は、「困った伯父御じゃ‥‥城内には、まんだ若い女ごがごまんといるのに、なんで替りを作りなさらん」と意見した。しかし有楽は首を振って、「もう、女ごは絶つ。それが、せめてもの儂の、あの女への供養じゃ」と、そんな言い方をした。「よくせき、あの死んだ女ごとは訳ありでござったのか‥‥」と信雄は尋ねてきた。「因縁、まぁ宿縁じゃろのう‥‥」。やっと泪をとめた有楽は座り直してから、「実は今のえいというは、去る天正十年の本能寺を取り巻きに行った丹波福知山の小 野木縫殿助の配下の娘‥‥よって、わしはいつも腹の中で、(こやつめ、兄信長の敵の片割れぞ)と、片時も忘れなんだで、つい冷たい仕打ちを わざとした事もある。それを思い出すと不憫でならんのじゃ」と、打ち明けてしまった。「えっ。秀吉が美濃の頃より召し使っていた小野木めが、やっぱり本能寺を‥‥」と、信雄は大きくそれにうなずくと合点してみせ、「どうも秀吉めが信長殺しを企んだのは毛利方と相談し合っての策のようにも思えまする。当時、備中高松城攻めの秀吉方の本陣、つまり蛙ヶ鼻の陣場にいました者の話 では‥‥父信長が旗本を率いて乗り込んできたら、これを毛利方と秀吉側の双方から挟み討ちにして、一挙に葬り去ろうと談合しあい、そのため、『毛利勢に包囲されて危うし』との偽りの救援の使者を、わざと安土へ送った‥‥と申しおりました」と、意外な事を話した。「そうか。そういう談合が前からしてあったればこそ、秀吉めは巧く和解して、引き 上げてもこられたのじゃな」。有楽も感心した。「ところが、父信長がすぐにも出陣してくると思ったが、あてがはずれて、明智光秀が名代役となっての先発と聞き‥‥では、なんとかせねばなるまいと手を打ったのではござりましょう‥‥なにしろ、秀吉も昔ほど、当時は父信長に覚えがめでたくなく、そのため、事あるごとに身の皮を剥ぐ思いで仰々しい進物を揃えては安土へ贈り込み、父信長によろしく取り持ちしてくれるようにと側近衆にまで気をつかっていたのを存じおりまする。 それに、父信長の当時の腹が、『信雄や信孝も共に二十三歳になったし、あと、ま だ八人の男児がいるから、これ達にしかるべき領国を与えてやりたい。それには、これまでの大身の家来はおいおい邪魔になる』とは、頭のよい秀吉などには見え透いてきて<走狗>は不用になり、やがて煮られる番が近づいてるような、取り越し苦労をしだしたところだったので、秀吉は毛利方と策謀をしてしまい、かねて昵懇の間柄である明智の家老共をそそのかして、『いずれは明智殿も同じ運命になるは‥‥こりゃ目にみえたこと』と説得し、その軍勢動員させた上に、自分の息のかかった者共をも加勢に合力させ、本能寺を爆撃させ、巧く成功すると、ここぞとばかり、すぐ毛利方へ知らせ、あっという間に和睦を取り決めたのでござろう」と、信雄は信雄なりに三十年がかりで調べだした経緯を、詳しく教えてくれたもので ある。 そして、続けて、 「が、天下の耳目もあることだから、(恰好をつけるため)因果をふくめて清水宗治に腹を切らせ、予定通りに京へ向かった。ところが、姫路城で、明智が思いの外に劣勢なのを聞くと、俄かに変身して、『信長の仇討ち』とふれだして進発したものだから、これにはすっかり面食らった光秀側が『それでは話が違う』と狼狽するところを、遮二無二殺してしまったようである。その証拠には、秀吉は己れの為に死なせた清水宗治の遺児をその後重く取り立て、その当時の恩返しをしてるではありませぬか」。筋道をたて、「信長殺しは秀吉である」と信雄は言い張った。織田の血には、秀吉や光秀にそう感じさせるような冷たい空気が確かにあった。兄の信長は、昔から人間が<神懸り>にできていたから、(あらゆる戦功は、自分という神様が背後にいるからこそ、天からの加護である)と信じこみ、光秀が働こうが、秀吉が稼ごうが、表面では子供をあやすように誉めてはとらせるが、内心では全然買ってなかった。つまり、光秀は<きんかん頭の石頭>にすぎなかったし、秀吉だって小者から昇進しても<禿鼠>程度だった。 ひどい例が桶狭間合戦である。有楽は当時十歳で、清洲城で怯えきって蒼くなっていたから、詳しい事は知らない。だが、織田の家の荒廃を賭けたこの一戦に手柄を上げて、その後、兄信長に報いられた者は誰一人としていない。なにしろ信長にぴったり喰いついて初めから出かけた側衆六人のうち、生き残った岩室長門、賀藤弥三郎、佐脇藤八、山口飛騨にしても、誰も出世などさせてはもらなかった。それどころか、次々と危ない所へとばされて悉く討死している。つまり殆ど が死に絶えたままである。その外でも、桶狭間に出陣した者で、その後大名まで昇った者などは、これは一人もいない。今川義元の首級をあげた毛利新助だって、その後二十四年もたって、相変わらぬ近習勤めの馬廻り衆で、僅か四百貫の安扶持のまま、槍持ち一人だけ連れて二条城で、信忠のために爆死を遂げている有様である。 そうした前例を見せつけられ、また長年仕えてきた佐久間父子や、林佐渡、安東伊 賀達の追放を目の当たりにすると、(明日は我が身‥‥)と、秀吉が僻みたくなるのは、これは無理からぬかもしれぬが、それにしても、「あの秀吉めが、信長殺しの黒幕‥‥憎むべき張本人であったのか」と考えると、その秀吉にへいこらと仕えてきた自分がまこと面目次第もなく、阿呆ら しく、情けなかった。 といって、そこまで腹を割って甥の信雄に話してしまうのも癪だから、「えいが生きとったうちは、ええとこ見せてやろうと張り切ってもいたが、死なれてしもうては、もう張り合いもない。おりゃ、もう大坂城にいて秀吉の伜の殿に奉公する気は失せてしもうた」と有楽は運び去られてしまった遺骸にかこつけた。 そこで十六日の午後。 信雄と共に大野治長と談合してから、三人揃って淀殿と話をした結果、一日おいて十八日。城方からは、淀殿の妹にあたる京極高次の後室の常高院が、和議交渉にと家康 方の使者に逢いに行った。そして、早くも翌十九日に講和は本決まりとなった。織田信雄はさっさと織田信包の跡目の三十郎長頼を促し、自分も己れの手勢を纏め、大坂城を睨みつけるようにして引き上げてしまった。有楽とて、一日も早く退城したかったが、なにしろ外濠埋めとかの残務が多く、ようやく城を出られるようになったのは、ずっと遅れて翌年三月の末だった。えいの骨壷を抱えて、丹波路は遠いので、長安寺の親や兄の墓所へ葬ってやるのも 心許なく、有楽は戦火にあって跡形もない伏見屋敷へ戻れぬまま上洛した。 洛北建仁寺へ訪れると、「これは、これは‥‥」 と喜ばれ、ひとまず寺内の塔頭である別建物の正伝院を有楽の座所として取り持ちさ れた。しかし、小坊主どもがつきっきりで世話をやいてくれるのも有難迷惑である。だから正伝院に附属した楡林の中に、山家(やまか)風の庵室を建て<如庵(じょあ ん)>と名づけた。「えいや。そなたも、とうとう白骨になってしもうたで、よぉ口がきけん事になった よな‥‥」と、あけくれ骨壷に向き合っていた。ひと頃のように、あんなに口うるさくガミガミやられるのは堪らないが、まるっきりものを言ってくれないのも、これまた有楽には寂しすぎた。だから有楽は自分が亭主役で茶をたて、「お服加減は如何じゃな」 などと、えいの骨壷を客にしては茶湯三昧の日を過ごしていた。しかし、それだけではとても朝から夕方まではもたない。いくら「どうぞ」と進めても「客」のえいが、もはや口なしで、一服も啜ってくれぬ。つまり点前しただけで は、有楽が自分で呑まねばならぬ」 。そこで建仁寺の納所に顔を出して、布施を包んできた紙などを貰ってくると、これで観る世縒りで綴じあげ、一気に、<信長殺し・秀吉ではないか>と、まず表紙に書上げ、これまでの事柄を筆を舐め舐め書き出した。 所司代の板倉伊賀守も、訪れてきた時、その綴りを見かけ、これにはすっかり感心 してしまい、「お書き上げになりましたら、てまえ下役の者に一部写させていただき、駿府の大御 所様の乙夜(いつや)の覧に供しとうござります。かねて家康公も、『信長様殺しは明智光秀の仕業ではない‥‥して何者ぞ』と仰せられてますゆえ、さぞかし、この旨を申し上げたら、きつう御所望にござりましょう。しっかりお書きなされましょう」と首をふって敬服にたえぬ表情を見せた。だから有楽も、かつてこの男の謀みで己が伜の左馬助を死なせた怨みもつい忘れて しまい、「世間では様々にわしを誤解してござるが‥‥あの六月二日、刀をくわえて石垣から飛び降りたところ、爆風に煽られて自殺し損ない、それから今日まで、これ一つに搾 って生きてきたのでござりまするよ」と打ち明けたりした。 |
5 「今度は、有楽様はもう御入城あって采配をとられませぬとは、まことにござりまするか?」と、妙な男が唐突に庵室へ訪ねてきた。かねて、密かに東軍に内通の噂のあった堺の町が、<大坂城の大野道犬の手勢によって、夜明けに焼き払われた>と京へも伝わり、「また開戦」と、騒々しい取り沙汰のきこえた四月二十八日の事である。奇妙な訪問客を迎えて有楽は、戸惑ったように相手の顔ばかり眺めていた。「我らも、今度は討死を覚悟の上でござる。よって本日は最後の暇をもらい、吉田へ参って別れの挨拶をなし、ふと、有楽様がこちらと思い出し、かようにぶしつけながら寄り道したのでござります」。髯達磨の赤ら顔の小肥りの男は、去年、城内で顔を合わせていた時とは違って、すがすがしい目つきだった。あんまり有楽に顔を覗きこまれると、庭前の夾竹桃の膨らんだ蕾などを眺めたりして視線を避けた。 有楽も照れ、茶釜の湯を汲んで点前の仕度をした。男はゆっくりと呑み終え、その碗を戻しに前へ乗り出したまま、「余の儀でもござりませぬ‥‥本日こうして伺ったのは、お詫び言上して、心残りのう、さっぱりと死にたい為でござりました」と、髯もじゃの唇から、そんな呟きをもらした。あっけらかんとさせられて、その碗を受け取ったが、 (何だろう‥‥)有楽はとまどった。 だが、向こうもいざとなると、話を切り出すのに、やはりためらいが先に立つのか、押し黙ってしまった。そこで有楽は、相手が語りだしやすいようにと、慌てて神経を使い、「おてまえと、吉田家とは、一体どない繋がりでござるかのう‥‥」と話を切り出しにかかった。すると、「実は祖母方の一門。同族にござりまする」と、包み隠すところもなく前置きし、「わが祖母や、その兄に当る斎藤内蔵介、吉兵衛を産んだのは‥‥斎藤伊豆守の妻で、 その兄は蜷川大和守。姉は吉田一門の宗桂に嫁して、角倉了以を産んでござる」。一息に言われて、聞いている有楽の方が唖然とした。 角倉了以というのは、昨年七月の大坂冬の陣の始まる前に六十一歳で亡くなり、今 は跡目の玄之(ひろゆき)が継いでいるが、十三年前に、「角倉船」という巨船を造 って、安南カンボジアを渡海。家康公より許された御朱印船の家柄である。そして、国内にあっても、大井川と丹波の保津川を結ぶ工事を五年がかりで完成。 次は、甲府から駿府までの富士川を開発。三年前は京の加茂川を、伏見から二条まで川幅を広げて、舟行の便をあげた男で、御朱印船の方は一渡海で数十万銀。国内の各水路からも通河銭が、やはり各数万銀入るという身代である。だから、秀頼が東山の大仏殿を建立した時も一切を引き受け、立替払いで造営した 程の大金持として知られている。 昔は、その名のように倉貸しの倉庫業。堺に多い納屋衆から始まったというが、先代あたりから、既に名のきこえた分限で、土倉の質屋を営む他に、仁和寺前と嵯峨谷には造り酒屋の作事場を持ち、酒造業でも高名だが、廻船問屋も兼ねていて、「京の富の殆どを押さえている」とまで言われているものである、 昔、有楽は、 「愛宕山の金貸しの資本が、吉田神社から出ている」と聞いた時、(御土御門帝の時から創めた卜部兼倶の吉田神道とは、そないに金の集まるものか)と不審がったものだが、世に隠れもない名高い角倉財閥が、その吉田の一門なら、これは唸るほど有り余っている。貸す金など、いくらでも融通できる筈である。「当時、このわしは、まだほんの小伜でござりましたゆえ、一切は、おやじ信親が采配ではありましたなれど‥‥あの天正十年六月二日は、我ら長宗我部の家にとっては、まこと危急存亡の日にあたりました」 長宗我部盛親は、日焼けした額を突き出し、 (話を判ってほしい) と言わんばかりの目つきをしてみせたものである。そして、「天正八年、忘れもしないが‥‥六月と二十六日。お手前様は、その時どこぞの戦場へ御出向でお留守でごじゃったが、手前の父信親が、そのおやじ長宗我部元親の名代として、たしか、砂糖三千斤に、上様のお好みの青鷹十六羽をもって、色代(あいさ つ)に安土城へと参り申した。が、その時も、上様は『四国は任せる。よしなに切り取って、届けるものだけは違背なきよう運べ。判るな』というお諭しで、安心してお ると、それから二年とたたぬのに‥‥上様はお気が変わって四国征伐。 つまり、我らを滅ぼして、せっかく祖父元親が槍先一つで切り開いた土佐から阿波まで御自分のものに、つまり伜殿達のために横領までなさろうとされましたのじゃ」。喋っている裡に、盛親の顔は次第に恨めしげになってきた。だが、そんな死んだ兄の事で、今頃になって文句をつけられてもかなわないから、 有楽は無言でいた。知った事ではない。弁解しようもなかった。 だが、話は嘘ではなかった。織田三七信孝をもって、新たに「四国管領」にあてる肚で、その六月二日の朝、丹羽五郎左を初め津田正澄、一万五千の者が四国へ渡海するため住吉浦へ終結したのは事実である。三男の信孝に四国をやるためである。「『攻め込まれたら最後である』という事になりもうした。そこで、父の信親が義兄の斎藤内蔵介に救いを求めたところ、もともと、内蔵介の妹を土佐の長宗我部へ周旋したのは、廻船業の角倉了以だから、これとて今更放っておけず、親族の兼右の子の吉田兼和(のち兼見)に相談をしたのでござります。兼和は自分の嫁の父の細川幽斎に助力を求めたと、ひそかに聞き及びまする」。「‥‥よっと待ってくりゃ。あの細川幽斎や忠興までが、角倉一族にあたる吉田一門と繋がってゆくのか」。有楽は面食らって手を振ってしまった。「ほう‥‥御存じござりませなんだか。関ヶ原合戦で、田辺の城を小野木縫殿助に囲まれ、城を出た後、細川幽斎は娘婿の丹波亀山の前田玄以の伜の利勝の許にいましたなれど、間もなく上洛。角倉が建てた吉田の随神庵に、ずっとこの間までのんびり隠居しておりましたものを、(今日でも吉田山の辺りを隠居町という)」。かえって怪訝な顔をされた。 そこで、よくよく有楽が聞き出してみると、(幽斎の長女<伊也>が一色左兵衛へ嫁に行き、その一色を幽斎が城へ呼んで騙し討 ちにした後、伊也は吉田兼和の長男兼治へ再嫁している)のだというのである。「すると、だな。六月二日の四国征伐軍の渡海を阻止するために、まず斎藤内蔵介が、吉田家で金融している傘下も同様な愛宕山へと明智光秀を連れ出し、ついでに、そこの西坊に命じて密かに里村紹巴を呼び寄せ、さも偶然に登山してきたよう取り繕って、連歌百首の興行を始めさせておき、その間に密かに内蔵介はすぐさま下山して、角倉了以の資金にて陣立てをして、六月一日の夜、亀山を出発。細川の強力のもとに本能寺を襲撃‥‥午(ひる)頃になって、急をきいて駆けつけてきた光秀に対しては、御所内でも金の力で権勢のある吉田兼和が畏きあたりに願って女房奉書でも出していた だき、因果をふくめて光秀に後始末を言いつけ、光秀が『それでは手前が謀叛人に見 られます』と尻ごみすると、『ちゃんと大義名分はつける』と、身内の斎藤内蔵介と共に言いくるめてしまい、その結果が、征夷大将軍の宣下となって、六月七日に吉田 兼見が勅使となって、光秀にそれを伝達した‥‥という事になるんじゃろか」 と、一気に有楽が言ってのけると、相手は否定するどころか、直ちに合点した。そし て、「御名答。その通りでござる」と、まるで、(自分の口からは云いにくい事を、よくぞかわりに云ってもらって助かった)とでも云いたげに、長宗我部盛親は大きくうなずいた。だから、「それにしても、あの時、細川幽斎父子は、すぐ頭を丸めたり、光秀から誘われたのを断ったように手紙の写しなど盛んに人前で披露していたが、そういえば、確かあれにも『近畿を平定後は、幽斎の伜の与一郎こと後の越中守忠興に天下を譲る』と、そないに書いてあったそうな‥‥」。忌々しげに有楽が呟くと、 「なんせ、細川にすれば、丹後の領内には明智領が三刀野(みどの)庄をはじめ各所 に散在しておりまする。よって勢力のある明智光秀は‥‥幽斎にしてみれば、たとえ 伜忠興の嫁の親とはいえ、眼の上のたん瘤にござりましょう。そこで本能寺の変の後は、もはや光秀は用なしとみてとり、角倉の銀を秀吉の方へ吉田は廻し、この両者を山崎合戦で戦わせ、まんまと丹後にある明智の旧領を猫ばばしたのでござろう。が、 寝覚めが悪いとみえ、宮津に先年、見上げるばかりな大きな光秀の供養塔を建立して、盛大な施餓鬼をしたそうにござりまする‥‥よって何も、我らが直接に手を下したわ けでは毛頭ござりませぬが、我らの血に繋がる者共がなしたる事ゆえ、まこと信長様には申し訳なき事と存じより、よって今度は罪滅ぼしにも大坂城を枕に見事討死を仕り、そして、あの世へ参れば、この由を泉下の上様にお詫び事言上いたす所存にござりまする。もうしわけとてござらなんだ」。 盛親は熊みたいに黒い剛毛の生えた手の甲を前について、恭しく何度も頭を下げると、庭先の家人に声をかけ、馬を曳かせると、初夏のまぶしい陽の中を去っていって しまった。 |
6 月が換わって、五月八日の大坂落城の知らせが洛北にも聞えてきた。秀頼も、姪の淀殿も、皆火中で死んだと伝わってきた。だが、紅い焔を背負って火の玉と飛び散った兄信長の夢ばかり見続けている有楽にとっては、それも 「因果応報」としか考えられなかった。が、しかし弱ったのは長宗我部盛親がわざわざ詫びにきて、「あの本能寺の変を起したのは、何を隠そう、自分の大伯父にあたる斎藤内蔵介が、やはり親類の吉田神道家を通して角倉了以の資金援助を受けてやったこと‥‥のち、その資金網の吉田兼和の舅にあたる細川幽斎が秀吉に寝返ったから、それで明智光秀は破れ去ったのである」などと言い残して行ってしまった事だ。(これでは、てんで『信長殺し・秀吉ではないか』という儂の綴りあげてきたものと結びつかんのではなかろうか)と、有楽は難しくなって気落ちしてしまった。 そして、まるで京の富を一手に握る角倉が、親類の吉田や斎藤を手足のように使い、その吉田が舅の細川幽斎を、その細川は内藤党の木村弥一郎らをそそのかしたのに、 これはすぎない、とも考えられてきた。すると、秀吉側より加勢に繰り出されてきた丹波福知山の小野木縫殿助などは、(この企ては傍系の手伝いだから、その家来どもを生かしおいて露見しては大事が発覚する)と命じられ、死んだえいの父や兄をかためて虐殺し、谷底へ放りこんでしまわれた事になる。(いや、ことによったら、これはあべこべで、秀吉はあくまでも兄信長には忠義者で、煩悶苦肉の策として、故意に小野木縫殿助を加えさせていたのかも知れぬ。つまり信長を守護するために、一行に彼らを加えていたからこそ、本能寺は夜明け前に包囲されても、その後三時間も四時間も無事だったというわけらしい) と考えながら、有楽はハッとした。思い当たる事が浮かび出てきた。 それは、今の茶室を建てた時の頃だが、「ここの建仁寺の方丈が『如庵(じょあん)』と命名されるとは、まことでござりまするかな」と、問い合わせに役僧をよこした事である。有楽がその照会をいぶかって、「なんぞ、如庵という名はまずうござりまするかな。今更改変もできかね申すがな‥ ‥」と反問したところ、その役僧も当惑げに、「実はな‥‥去る天正元年の二条城旗上げの時、故足利十五代将軍義昭公の命令によって、鉄手千(てっぽうばなち)ともで五千の兵を擁して馳せ参じた丹波党の頭目が内藤如庵。つまり当時の天主教の洗礼を受けている者で、その如庵はジョアンと呼んで向こうの洗礼名‥‥さて二条城に立てこもるに先立って、そのジョアンは四条の南 蛮寺の彼らの教会を戦火に合わせてはならぬと、やはり『ジョアン』の洗礼名をもつ家来に疎開かたを云いつけたようにござります。 よって、兵を引き連れたその者が、あろう事か、当建仁寺の広大な敷地に目をつけ、ここへ移そうと企てて談判に参り、先代の方丈様に無理難題を押しつけようと致し、全く寺内一同えらい難儀した事がありまする‥‥じゃによって、いまだに如庵という名を聞くと、我らには悪鬼羅刹のような響きを与えますゆえ‥‥よって方丈様も、もし改名を願えればと思われたのでござりましょう。だが、何としても、指折り数えてみてば既に四十二年も昔の事。今更、とやかく云うのも愚につかぬ話‥‥まぁ方丈様には、よしなに拙僧から申し上げまするによって、この話はなきことに致しましょうわい」と、ぐちぐち言いながら、建ち戻って行った時の事である。 なにしろ、そんな古い話を知っている役僧だけに、もう歯も抜けていて口をもごも ごさせていたから、あまりよく聞き取れなかったが、思い出してみると、やはり有楽としては気になった。そこで、「丹波党の頭目の内藤如庵というからには、かつて丹波亀山の朝日城にいた内藤党の事であろう。すると家来の中で、やはりジョアンの洗礼名をもつ者は、はたして誰であろうかや」と、事のついでに昔、当時は存命中だった八郎太らに探り出させ書き留めさせておいた亀山関係の綴りをもってきて、めくってゆくと、「あっ」と有楽は自分でも驚くような叫びをあげた。何の事はない。例の木村弥一右衛門吉晴の調書の中に、はっきり、「受洗名、ジョアン」 と但し書きがついていたからである。(内藤如庵の家来で、やはりジョアンと名をもっていたのは木村弥一右衛門その人)ということに、これではっきりする。 なにしろ、これまでは、当時の南蛮寺の住職オルガンチーノを、死ぬまで保護していたのが豊臣秀吉なので、てっきりマカオ渡来の最新型爆薬を宣教師の手から密かに入手して、あの日、本能寺や二条御所を爆発させてしまったのは、つまり、「信長殺しは秀吉なのだ」と確信を持ってきたあけだが、これではオルガンチーノに朝から接して、よく南蛮寺へ出入りしていたのも、これは洗礼を受けてもいない秀吉ではなく、ジョアンこと木村弥一右衛門ということになる。すると爆薬を手に入れ、ドカーンとやってしまったのも、備中高松にいて現場不在の証明のある秀吉ではなく、現に当日、本能寺を取り囲んだ一万三千の中い潜り込んでいた亀山内藤党の木村弥一郎の仕業であるとみられるのである。 そこで、おそらく秀吉の密命を帯びて兄の信長の身辺を護るつもりでついて行った 杉原七郎左の家来や、小野木縫殿助の伴った福知山党は激昂して、亀山党や細川党と 衝突したのだろう。ところが丹波衆一万三千と云われる内の半分までが亀山の内藤党の木村弥一郎、残りの者の半分が、当時の丹波船津郡桑田郡から出兵してきた細川兵とみれば、他に美 濃から馳せ加わっていた者や、吉田神道から加勢に出ていた者らもいるから、福知山党としては正味は千といなかったろう。だから、普段ならば避けて通りもしない胡麻の峠の難所へ出てしまった。そしてここで両軍は戦ったが、なにしろ福知山党は寡兵である。次々と、えいの父や兄達は討死してしまい、その亡骸は谷底へ放りこまれたと思える。 でなかったら、千にも近い人数が、昔、えいが口にしてもいたが、蔓草のように繋 がって次々と寝ぼけてストンストンと落ちる筈もなかろう。小野木縫殿助ら馬に乗っていた者だけは必死に馬の尻を叩いて血路を開き逃げられたが、徒歩の者はあらかた討ち殺されて崖から放りこまれたのだ‥‥そして、この時の命懸けの武功があればこそ、『表面に出しては世間の誤解も招こう』と秀吉は公表はせずだったが、小野木を 三万一千石にも取り立ててやったのだ。 つまり、兄信長を庇いそこねて死なせてしまったとはいえ、その努力を買って、故信長への追善供養として福知山城主にも秀吉は彼をしてやったのであろう、とも思え る。 ところがである。 慶長三年八月。秀吉が死ぬと情勢は変わってきた。小野木縫殿助は生前の秀吉から、「過ぎ去った事は、今は亡き信長様とて、もうお許しになっておられるじゃろ」といった具合に宥められて、多分、細川幽斎や忠興らと強制的に仲直りをさせられていたのだろう。だからこそ、「関東関西のお手切れ」の時、小野木縫殿助は一万五千の兵を率いて丹後の田辺城を攻略したけれど、「故信長様の御名によって和解した相手を、ここで討ち滅ぼしては男としての約束に違おう」と男道をたて、相手は僅か三十分の一に過ぎぬ五百の城兵なのに、あくまでこれを落城させなかったのである。 それなのに、細川の方では、「秀吉公在世中は手を出せなんだが、もう今となっては構う事はない。なんせ、あの小野木めを生かしておいては、我らの為にならん。あやつめは‥‥もともと胡麻の峠でぶっ殺す筈だったのを、つい取り逃がしたに過ぎんのじゃ」というような事を父子で話し合って、忠興が三千の兵を率いて戻ってくるや、突如と して福知山城を攻撃。家康から「和解せよ」と通達が来ると、「しめた」とばかり丹波亀山へ誘きよせ、そこで巧く大方は騙し討ちにして殺してしまったのだろう。そして、 「その時、一日半遅れで、おりゃ小野木に逢いに行ったんじゃな」と、有楽は思い起すと、げんなりさせられた。だから、「信長殺し、秀吉なのか」の綴りを書き直そうと思ったが、もう憶劫になってしまった。 |
7 「おりゃ、天正十年六月二日に、なんで皆と一緒にドカーンとぶっ飛ばされてしまわなんじゃろか‥‥生きよう、生きたいと望んどったが奴がドカンと建物ごと宙にとば
されて爆死‥‥織田信長の弟ゆえ、なまじの敵の手にかかるは無念至極と、刀を咥え て石垣の上から飛び降りようとしていた自分は、爆風に煽られて濠の中へ転落。そして、これから‥‥死に損なった身を、『おりゃ、死神に見放されてしもうたんじゃ』と、ひたむきにそれでも生き抜いてきた。
唯一の『生きるめど』は『誰が信長を殺しくさったか?』という存念にかかってい た‥‥借銀をし、時には施しを受けるように秀吉から貰えばそちらに味方し、家康から誘われれば、そちらへもついたものだ。つまり信長殺しの謎を解こうという自分への掟のために、その経緯を捻出するために、まるで遊び女のように転身と身売りもし た。 だが、悔いてもおらん。恥じてもおらん。人それぞれに、生きとし生きるには、何 ぞの目標がのうては、やりきれたもんではないわい」。有楽は、えいの骨壷に向かって、あけくれ愚痴をこぼすようになった。本当のところ は、(‥‥おまえが去年の大坂城冬の御陣で首なし屍体になった時‥‥おりゃ寂しゅうな って一緒に死んでしまいたかったんじゃ)と言いたかったし、そんな甘えもしたかった。だが、それでは(男の沽拳にかかわる)と辛抱した。もちろん、そう話しかけてすぐさま、 「そうでござりましたかえ、嬉しや」とでも云ってくれそうものなら、そりゃ見栄などはらずに口に出したかもしれない。しかし、骨壷の中からそんな返事が出てくる筈もない。だから有楽は言わない事にしてるまでのことである。というのは、何しろ近頃では、建仁寺の大山門どころか、境内の松の木にまで、「臆病有楽。腰抜け有楽」といった落書きの木札がぶら下げられるからである。全く当人としては、やり切れな さすぎた。 これは(判官贔屓というのか、弱者への憐れみなのか) 昨年の合戦では大坂城の総大将だった織田有楽が、今度は開戦の一ヶ月前に城を出てしまい、ついに秀頼母子を棄て殺しにして、そ知らぬ顔で茶道に明け暮れするのが、<卑怯者><腰抜け>と、京坂の者達に不快がられての結果らしい。正伝院まで忍び込んできて、投石する者も夜毎に増えだした。「お身が危のうござります。大和の御領国へなりと、ひとまずお引取りなされませ」。寺では、とても保護しかねると、建仁寺の方丈から勧告されてきた。だが、えいの骨壷を抱えて、今更古女房の佐紀の許へ戻れるものでもない。だから領国はこの際、生き残りに伜どもに兄、弟と分け隔てなどすまいと考え、「おりゃ、織田信長という、あまりに高名な兄をもったばかりに、すぐ比較され、腰抜けじゃ、弱虫じゃと云われる‥‥だが、一つ兄弟で、なんでそんな差があろうかや ‥‥信長は織田の家門の上り坂を上っていったからこそ豪そうにみえ、このおりゃは、下り坂を降りてきたから、そないに見えるきりじゃ‥‥だいたい今度は大阪城へ入らなんだは、信雄とも相談の上で決めた事じゃわい。なんで、このおりゃだけを責めることがある。第一、己れの女ごが首を飛ばされて死んだ所へ、又行けるほど、おりゃ情強(じょ うごわ)ではないわえ‥‥どいつもこいつも誤解ばかりしくさる。もってのほかじゃ」と、大和芝村一万石を上の織田左衛門佐長政、下の弟の織田大和守尚長(ひさなが)には大和柳本の一万石を、それぞれ公平に分配してしまった。だから、気が澄んで大いに満足をした。 しかし、二万石の領国を、きれいさっぱりやってしまっては、建仁寺を出ていく所 もない、仕方ないから、旧縁を縋って山岡道阿弥を頼って江戸へ下ることになった。堀美作守邸の濠越しの角地に、すぐさま屋敷を貰えた。なんせ上方へ行けば、腐るほど居る茶人も東国ではまだ珍しいから、そこですっかり 評判になった。「数寄もの有楽」 と、今度は云われるようになり、諸大名が揃って茶事を習いに寄って来るから、まず九鬼長門守の水手屋敷前の掛橋が、「数奇屋橋」 と呼ばれるようになり、次いで有楽の邸前の小さな土橋も、「有楽橋」と誰が名づけるともなく、そんな言い方をされた。 日々に茶湯に通う者が多くなって、この界隈では人の出入りが目立つようになり、「有楽町」と、その辺りが呼ばれるようになった。なにしろ、これまで茶湯には縁などなかった旗本八万騎までが、大坂夏の陣も終わって世は泰平になってしまったから、「やる事がないで、茶でも習おうかい」と目白押しに入門してきた。しまいには、 「有名な織田信長の弟とは、どない男じゃろ」と、女までが競って有楽橋を渡ってきた。だから、頗る大繁昌をきたした。しかし、有楽にとっては痛し痒しだった。なにしろ、一時は、つい憶劫になって革文筥の中へしまいこんだままになっているものの、 「『信長殺し、秀吉なりや』の草稿を、あのままにもしておけぬ。精根込めて、もう 一度始めから手直しをせにゃなるまい」とは、あけくれ思う。だが、筆をとる際というものがない。 それに、わざわざ建仁寺にまでやってきて、勝手に一人でまくしたてて帰っていっ た長宗我部盛親が、大坂城を枕に討死するとは云っていたが、落城前の五月七日に城を脱出した。そして巧く生き延びていてくれたらよいものを、不甲斐なくも十一日に捕えられて、十五日に京の三条河原で首を斬られている。だから盛親以外の人間で、当時の事に明るい者を、もう一度見つけ直して、(はたして秀吉は兄信長に忠義者で、信長殺しとは違うかどうか) そこのところを確かめ直す必要があった。 とはいうものの、又調べ直しをやるからには、先立つものは、これは何と言っても銭である。「止むを得ん、資金稼ぎじゃ」と有楽は入門料稼ぎに、どしどし弟子をとって茶湯を教えた。しかし、もともと有楽は死んだ信長に初めて相伴させられた時、「苦い」と思ったように、あまり茶は好きなものではない。そりゃ、まあ、日に四服や五服なら建仁寺の如庵の頃だって、啜っていたのだから、 飲んで飲めぬこともない。しかしである。信長殺しを改めて調べ直す資金稼ぎに、どんどん入門をとっている と、とてもじゃないが日に何杯ではすまされぬ。あまりに繁昌するのも善し悪しで、日に何十杯どころか、時には百杯も飲まされてしまう。有楽は下風で眼を白黒させながら 「まことに結構なお点前でござる」とか、ぐい、ぐいと我慢して飲み終え、商売ゆえ、「この服加減‥‥実によお立ててござった」と言わねばならない。たまったものではない。 それに、江戸では茶湯指南で思いもよらぬ銭が、しこたま稼げはしたが、肝心な信 長殺しの手掛かりを見つけるには、やはり京へ戻らねば、何ともなるものではなかっ た。「困った。どないしようぞ」と焦り過ぎたのが原因か、ついに有楽は倒れた。腹の病である。現代なら胃腸疾患は精神障害からと診断されるが、当時のことなので、「お茶の飲みすぎではござるまいか」という本道(ないか)の看立てになった。有楽自身も苦っぽい茶を、おくびをしながら苦しそうに、(銭を持って、早よ、京へ行かずばなるまい‥‥)と、呻くようにも訴えた。門人どもは、 「さて、あちらには身寄りの伜の殿達が大和の国には居られるんで、そんでじゃろ」。相談し合った結果、有楽を駕に乗せて上方へと送った。しかし、大和へは行かずに、有楽は京へ止まって、そこで病の身を養っていたが、 木枯らしの吹きすさむ十一月の末、有楽は胃袋から吐き出した真っ黒な血の中に顔を突っ込んで、そのまま息を絶やしていた。 なにしろ、えいの死後は女人を近づけていなかった。そして、いつも一人で書き物 の綴りを覗き込み、家来の者も遠ざけていたから、誰にも見取られず、有楽は一人ぼっちで、えいの骨壷に向き合ったまま死んでいったのである。元和七年(1621)十二月三日の雪の降る日。東山の邸から運びだされた有楽の遺体は、茶毘にふせられてから洛北の建仁寺へ送られた。「正伝院如庵居士」と、名を改めた有楽の骨壷は、えいの壷と一緒に塔頭の墓地へ改めて埋葬された。 京都所司代は、板倉勝重からその伜の重宗の代になっていた。 だが、かねて先代からの申次でもあったのか、有楽の死が伝わると、すぐさま所司代 役人が来て、有楽の残していった書き綴りの文書は一切押収していった。そして直ちに早馬によって、江戸城へそのまま厳封したままで送り届けられた。徳川家康が死んで五年目になっていた。二代将軍秀忠は眼を暗く光らせ、吃らせぎみに 「なに、なんと書いてあるぞ」と、気になるらしく急かして革文筥を開けさせた。ひったくるように腕を伸ばして有楽の書き残していった綴りを掴み取った。が、ぱらぱらとめくったきりで、「『信長殺しは秀吉』か‥‥これはいい。すぐさま権現様ご霊前にお供え申し、直ちに火中に投じてしまえ」と云い、「ふふ‥‥」と異様な笑い見せた。‥‥つまり織田有楽が四十年の余もかけて調べ上げ、心血を注いだものも、その時の徳川家からみれば、一笑にしか値しなかったようである。 誰にしろ往々にして、人間が生涯かけてやった仕事というものは、当人はいくら頑張ったつもりでも、他人からは、全く無視されたり笑いとばされる結果にもなりかね ないものである。なにしろパスカルでさえ、「真実を言うことは、言われる側には有益かもしれない。だが、それを言ったり書いたりする者には、きわめて不利益である。なぜならば、真実を探求する者は、とかく 世間からは厭われてしまうからである」と云っている。やはり人間の一生などというものは、有楽のように誤解され通すか、さもなくば、もっと空虚なつまらんもので終わってしまうものらしい、と考えさせられる。 |
後記 |
この作品は読みやすい小説体にしたから文献出典は省略した。原典根拠の判りたい方は講談者刊<信長殺し、光秀ではない>を併読してほしい。なお、右拙書に対して、日本歴史学会高柳光寿先生は「歴史読本」十一月号に、 「徳川家康は臣水野勝成に、光秀の所有していた槍を与えた事がある。その時、家康 は勝成に『光秀にあやかれ』と言った。これは家康は光秀を主殺しとして扱っていないことを語るものである。もし主殺しとして扱っていたら、主殺しにあやかれとは、自分を殺せということでなくてはならないのである。光秀を主殺しとするのは江戸時代の儒学からであり、その最初と思われるのは光秀を主殺しにすることによって、光秀と争 って利を得ようとした秀吉であろう」と述べられている。ご高説通りであろう。つまり、「信長殺しが誰か」ということが解明されたのは江戸の家光時代に入ってからであり、「誰か、が判った」からこそ、儒者はこれを「光秀」にしてしまったのである。機会をみて徳川家光から逆解明の書き下ろしをしたい。が、大衆小説ではないから、答えは読まれる方にお任せしたい。だから、この物語は「臆病、腰抜け」と、永遠の汚名を背負った為に、「大坂冬の 陣の総大将」であった事実さえ、歴史家に認められていない哀れな男への挽歌なので ある。「有楽」「有楽町」と口にするとき、人間それ自体が、いかに虚しいものか判 っていただければと想い、後記とする。 了 |
(私論.私見)