1章、信長殺しは秀吉か

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1151信長殺しは秀吉か1」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 八切止夫著「信長殺しは秀吉か」報知新聞発行 昭和46年9月25日初版 定価400円  

 この作品は八切作品の中でも特に読みにくく、しかも誤植が目立つようです。影丸は、この作品はおそらく口述筆記でもされたのではないかと思います。ですから、読みやすいようにと文章をほんの少々変化させ、必要と判断した段落は 改行してます。それと、文中「、」が多すぎますので、文意を変えない程度に省略しました。  登場人物の台詞部分は、原文では全て「----」で始めてますが、このファイルでは 「」で括りました。例文: ----おりゃ、どうすりゃいいんじゃ。→ 「おりゃ、どうすりゃいいんじゃ」 []で括った部分は影丸の補記です。登録日 1996年3月 影丸(PQA43495)

 織田源五郎
 1  「『本能寺の織田信長殺しは、明智光秀』と、せっかく決まっているものを、今にな って、それは間違い。まことの犯人は別にいると詮議だてすることは、鳥滸(おこ)の沙汰かも知れん。が、それを敢えてせねば、おことの身の証しも立つまいし、故右府様とて、冥福できなされぬかもしれぬな」と、云ってくれていた駿府の大御所、先の征夷大将軍、徳川家康が、この元和二年(1616)四月十七日に、ついに七十五歳の生涯を、あえなく終えてしまったのである。

 だから、 「おりゃ、どうすりゃよいんじゃ」。織田有楽は泣いた。三日も四日も床にふせったまま、哭きにないた。むなしい虚ろさが、ひしひしと肩から背柱を、ぐっと羽交い締めにするようにして、おくびが、脇から心の臓をつらぬき、吐息になったり、溜息になって出た。眼くらやみというのか、くらくらと頭の血が下がってしまい、瞼が、かさかさに干からびて疼き、俄に、あたりが真っ暗になって、てんで何も見えなくなってしまうことさえ、たび重なってあらわれだした。 「おりゃ、今日まで、なんで生きとったか。これで、もう、まるっきり無駄になったわ」。近侍の者も遠ざけ、有楽は独りで、涙が枯れても、枕を抱え哭き通した。「豊臣の世でさえ、もう遠い昔のように思っとられる当代将軍家の秀忠公では、織田の天下など、とうに忘れてござろう。今になって織田信長を殺したのが、まことは誰であったか、などということは、てんで御頓着もなさるまい。もはや今まで集めたものも、これで、みな役立たずになりおわせたわい」。締木(しめき)に掛け、搾られるように胸詰りした。下腹も疼いてくる、烈しく痛みをよんだ。(もう、こうなっては、己が身の証しも立てられん。何事も全てが、もう、わやになってしもうたんじゃやな‥‥)。有楽はうつぶせに腹を押さえて嗚咽(おえつ)した。

 人というものは、こないな無駄な、なんにも役立たん、目途(めど)のない骨折りをしてまで、そんで一生を、終わってしまうもんじゃろか。口惜しさと、きつい差込みに襲われて、有楽は歯ぎしりをしながら、洟(はな)をすすった。織田備後守信秀の三男が、織田信長。末子の十二男とされているのが、織田源五郎長益。今は有楽を名乗っている。この春から出府して、江戸住いしていた。千利休門下の「七哲」の一人に数えられ、宗旦と並んで、茶湯の大家ともてはやされ、己でも有楽流の開祖として、点前などにも新しい流儀を編み出している。だから、茶匠として悠々自適の生涯を過ごしているとばかり関東では思い込まれ、数奇屋橋の堀美作屋敷の斜め前に敷地を貰い、己が邸宅をもうけると、土佐町わきの、この一角を人呼んで有楽町。次の鍛冶橋まで、ずっと曲がり道するのも大儀ゆえ、掛板を渡し、酒井右近邸の前へ出られるようにすると、これも便利がられて、有楽橋と名づけられた。そこで人々に親しまれ、東国に移ってからは、やっと解放されたような、心のくつ ろぎをおぼえだした。だが、それも束の間だった。また門塀などに墨黒々と、 「裏切有楽」、「腰抜け有楽」といった貼札をされるようになった。(昨年5月八日に落城した大阪方の残党の仕業であろう) と、そのたびに牢人取締りの役むきが、小田原口の番所から駆けつけてくる。

 これは、一昨年の慶長十九年十月三日。徳川家康の大阪征伐の布令に驚いた淀殿が、叔父にあたる織田有楽を、大阪城へ招き入れ、対抗馬にと担ぎだし、関西側の総大将として軍配を預けたのが事の起こりである。その戦を俗に「大阪冬の陣」とよび、有楽としては可もなく不可もなく大阪城内十万余の兵を指揮して抗戦。べつに攻め込まれても、負けもしなかった。そのため、攻めあぐんだ関東方は十二月二十日に和議を結んだ。そこで有楽は、大阪城を出ると上洛。洛外建仁侍の塔頭正伝院(しょうでんいん)に入った。そこで、自己流の茶席をたて、如庵と号して、茶道に専念していると、年が開けて又開戦。しかし、今度は呼びに来られても招きに応ぜずにいると、これが去年の大阪夏の陣。「一昨年の総大将のくせに、知らぬ顔をしてみすみす淀君と秀頼を見殺しにされた」と洛中洛外のに悪名がとどろきわたり、挙句のはては、(徳川秀忠の室になっている姪の江与の方の手引きで、有楽が大阪城の惣堀を埋めさせ、関東方に勝利を与えた) そして前もって結果がわかっているからこそ、(今度は篭城せずに、京都の建仁侍に隠棲していたのだ)とさえ陰口をされた。

 江与の方とは、今の将軍家の御台所(みだいどころ)だが、先に尾張の林佐治余九郎に嫁ぎ、後、秀吉に連れ戻されて、その養子羽柴秀勝の妻となり、その死後は九條左大臣に嫁入って、秀吉のため禁裏の蔭に骨を折らされ、その後二十三歳の時に、また秀吉の養女として、文禄四年伏見で、当時十七歳だった徳川秀忠に、四度目の嫁入りさせられ、江戸へ与えるのだからと、「江与の方」と改名された。淀殿の末の妹である。やはり浅井へ嫁いだ於市御前の娘ゆえ、織田有楽とは叔父姪の間柄にあたる。

 「人の口に、戸など立てられもせん」といっても、限度というものがある。堪りかねた有楽は、そこで大和の所領を上の伜「長政」には芝村一万石、下の「尚長」には柳本一万石と等分に分け与え、自分は駿府の家康にすすめられるまま出府し、落着いて、これまで集めたものを整理し、兄の織田信長の死を明らかにさせようとした矢先、思いがけない、頼みの綱の家康の訃に接したのである。

 だが考えれば、裏切り者よわばりされたり、腰抜けと罵られるのは、なにも、今になって始まったことではない。兄信長と、その嫡男信忠が不慮の死を遂げ、一年とたたぬうちに秀吉は、岐阜に移っていた織田信忠の弟、三七信孝と仲違いして、これを攻めた。そして助力した柴田勝家や滝川将監を討ってから、信孝の異母兄にあたる織田三介信雄を遣って、信孝を尾州野間で殺させたが、その時も有楽は仲介に入らず、甥を見殺しにしたからと「慮外者」と冷ややかに取り沙汰された。その翌年の天正十二年四月、今度は、織田信雄と秀吉が手を切って、徳川家康がこれを尻押しし「小牧長久手の合戦」が尾張で起こった。その時も、せっかく参列して信雄に味方したのに、ろくに戦をせぬからと、(あれでも二年前に亡くなられた天下様の兄弟なのか‥‥織田信長様も、とんだ不所存者の、げてな弟殿を残されたものよ)と散々に嘲弄されたものである。

 蔭口とは厭なものである。そこで堪えられなくなって頭を丸め、「織田長益」から「有楽」と、小田原陣の後からは、とうとう改名もした。十五年たって、次に関ヶ原役が起きた。岐阜城の跡目を継いだ嫡男信忠の忘れ形見の三法師が、織田秀信として成人し、西軍に加担した。だが、利あらず敗れて福島正則に捕えられ、芋洗里に移された。そして剃髪させられ高野山へ追われ(後顧の憂いのないように)と、家康の家来の手で二十一歳で死なされてしまった。はっきりと織田の正統は断絶 した。すると、「命惜しさに己は東軍に加担して日和見してござったとは、まことに卑怯未練な‥‥ よくもまぁ、おめおめと生き恥をさらされる」と酷評され、人でなしのようにさえ言われ、有楽は誰からもつまはじきされた。
 2  「馬耳東風」。そんな、つもりでいようと心がけた。「言いたい奴には、喚かしておけ」。まるで、悟りをすましたみたいに、外面はとりつくろった。それも、ひとつの見栄だった。だが、他人は、「若い時から、罵詈雑言のされどおしで、馴れっこにはなってござる」と、まるで有楽が鉄面皮のようなことさえ、人々は口にした。だが、当人にすれば、とんでもないことだった。誹謗などというものは、されればされるほど骨の髄まで染みわたる。神経質に、ぴりぴりと身にこたえるものである。とても馴れなどするものではなかった。(人間は誰しも良い子になりたい。良く思われたいからこそ、そのように見せかけた がるものなのに、俺だけ、なんで悪態つかれ通しで、それに堪えていえようぞ)と、有楽は恨めしさに、いつも身震いした。

 そして、誰かが、自分の名を口にしてるのを聞くと、それが何でもない話でも、(陰口されている、そしられている)と悪口にしか聞けなかった。だから、うわべは平静を装っていても、内心いつも有楽 はびくびくしていた。厭だった。堪えようもなく不快だった。「おりゃ、なんで、こんな目にあわんならんか。苦しゅうて、辛抱できん」。情けなさに、いやな曖気(おくび)が、いつも出た。(いっそのこと名乗りを変えてしまいたい)とも思った。信長の次の兄の信行が昔、謀叛したと殺され、その子の信澄が津田姓を名乗ったように、自分も織田姓を捨て気軽になろうとも考えたが、それもできかねた。

 兄の信長の死因を、はっきりつきとめるためには、あくまで織田姓でいなくては、てんで意味がないような気がしたからである。「情けなや‥‥」。有楽は、へこたれきって、蔭では悲鳴ばかりあげていた。なにしろ、あの本能寺の変のあった六月二日。洛中にいた織田一門や譜代の者で、生き残れたのは、なんとしても有楽一人だけなのである。だからよけいに辛かった。表向きは本能寺にしろ、二条御所の信忠の方にしろ、そりゃ一人残らず討死、ということにされている。だが、人間は、そうあっさり死ねはしない。有楽の立てこもっていた二条御所の味方にしろ、半死半生の者もいたろうし、気を失っただけの者もいた筈だが、それらが皆、焔に包まれ飛ばされ、「見事な討死」にされている。本能寺の如きは、厩仲間や手伝い女までが、性別も判らぬ黒焦げの屍体で出てきたから、(さすが上様の御側衆。一人も逃げんと、みな、冥途のお供をしてゆきなされた)と口々に賞賛されているが、なにも「逃げなかった」のではなく、「逃げられずに焔に包みこまれて焼き殺されてしまった」だけなのである。つまり何者が寄手なのか判らせぬように、本能寺はものすごい火力で吹き飛ばされ、一人残さず口のきけぬ黒焼きにされ、二条御所の方も、やはり強力な火勢に煽られてしまって、逃げようにも逃げられず、皆な白骨になってしまったにすぎないのだ。

 だから、何者が謀叛して押し寄せ乱妨したか、本当のところは皆目わからない。ただ、二条御所の方だけは包囲されてすぐ二人の脱出者がいた。一人は尾張刈谷城主の水野宗兵衛。この者の長兄水野勝元は、信長が子供の頃から仕えた古い家人だっ たが、先年、武田方に内通の疑いをもたれ切腹させられていた。だから、世間は、宗兵衛が脱出したのは、「兄のことを想えば、まぁ無理もなかろう」と、比較的穏やかな眼でみたものの、甥にあたる徳川家康だけは、宗兵衛が脱出後、光秀の幕下にあって行動したのを憤り、「不所存者」と目通りを許さず、宗兵衛は、その後、病死とも生害ともいうが、亡くなっている。脱出者のあと一人は、有楽。当時の織田源五郎長益であるが、宗兵衛のように進んで明智方へ加わったのではなく、(おかしや‥‥)と思えばこそ、単身で二条城を抜け出したのである。

 それなのに世間の人々は口を揃え、「まんだ十三歳の年端もゆかぬ信忠様の弟君の御坊源三郎様さえ、天晴れ、城を枕に華々しく討死されとるのに、源五様は卑怯未練、命惜しさに一門を見捨て、欠け落ち された」と評判され、「臆病者」の烙印を押してしまったのだ。それに甘んじながら、有楽は宗兵衛亡き後も唯一の生存者として、信長殺しの真相 を掴もうとしたが、まったく手掛かりは杳として掴めなかった。情けなさに、その頃から口をつぐんだまま、舌の先で葉の裏側をぐるぐる舐め廻し、そして出かかる溜め息を、ぐうっと嚥み込むことを覚えこんだ。今となっては、それが有楽の癖にさえなっている。堪えられぬ澱(お)りのような日々を、じっと有楽は、 世捨てびとのように息をつめては暮してきた。

 だから、頭を丸め剃った時も、世人は得度し出家するものとばかり勝手に決め込ん だらしい。ところが、案に相違して有楽が利休の門下で、ひたすら茶の湯に凝りだしたから、奇異に感じたらしく、「仏門に帰依して、ごしょうを願われるのが、ご自身のためでもあり、織田ご一門の供養なのに、さてさて、げせぬ振舞いよ」と訝(おか)しがって、みな言ったものである。
 3  人は死んでも、その家門が続いて、回向さえ欠かさずに、その檀那寺へ続けていれ ば、必ず成仏すること疑いなく、九天へ昇れたら、やがて安心立命でき、(また生まれ変わって、この世へ戻ってこられるものである)と誰もが、固く信じている世の中だった。(いま生きている、この現代の事はよう判るが、さて、来世の方は、どんな所か見当もつかん。だから死んだにしろ、早いとこ、今の現世へ戻ってきたいものである)と、みな願望していた時代だった。だが、その為には檀那寺の坊さまに欠かさず供養を続けてもらわねばならぬ。それにはどうしても、ずっと布施料を納めん事には駄目である。そこで誰もが、供養を続 けられる「家」を、とても大切にした。

 己が家門を存続させるためには、親は子を見殺しにしたり、その連れ添う者も見捨てた。如何なる犠牲を払っても、あくまでも家名をたて、後生を願って菩提を弔う家を残したがった。それが現世に生きる者の勤めだった。なにしろ家が滅びてしまっては、檀那寺へ布施が届けられぬ。坊さまが、そのため供養を怠ると回向されない魂魄は宙に迷ってしまう。それでは、現世へ生れ変わって来られず、あの世で難渋するからである。また、「一人出家九族昇天」という思想もあった。(一人が出家して僧侶になれば、その一族はおろか、九等親までが揃って、すぐにも天へ昇れ、そこから現世へ早々と戻ってこられる)と信じられてもいた。だから何処でも一人ぐらいは仏門に入っていた。

 ところが織田一族には僧侶になった者は誰もいない。そこで、「なんで、髪を落されたら出家なされぬ」。眉をひそめて、みな有楽を責めなじった。「いや、そのうちに数珠をいただきまする」と仕方なしに、そんな受け答えをした。なにしろ、合戦のときでも、「憎い相手なら、たとえ殺して首をとっても、その遺族が残っていれば、ひそかに檀那寺へ供養し、その菩提を弔い、やがてはこの世へ生き返らせるもの」と安心ならず、「もし身内の者を残して回向され、本人が再生して来られては、仇されて後が厄介至極」とばかり、女子供まで捜し出して、これを根絶やしにしてしまう程、<輪廻>というものが信じこまれた世の中だから、敢えて有楽もそれに逆らえなかった。だが、当人としては来世や生れ変わってくることよりも、今の現世で、「あの六月二日に、なまなましく自分一人しか見ていない謀叛の本当のところを、なんとか、解きほぐしてゆく」仕事の方が必死だった。そりゃ有楽だって寺へ入って、その手蔓で、兄を殺したり手掛かりが見つかるのなら、墨染の衣でもお薬師派の白衣でも、どちらでも着たであろう。だが、そんな生やさしいことで見つけられるような信長殺しの解死人[下手人]ではなかったのである。
 4  織田一門。つまり弾正忠(だんじょうすけ)から備後守になって死ぬまで、父信秀は四十二歳の生涯に、男十二人、女十一人の子供を残したが、細川昭元に嫁いでいた 於犬御前(おいぬごぜ)も最後に亡くなり、今や生き残りは男の有楽一人きりである。そのせいなのか、近頃は面と向かって父信秀の事を、「天文二十年(1551)三月三日にそのご生涯を終えられるまで、二十三人もお子様を作られたとは、さてさて大仕事。十八歳ぐらいから次々を年児で拵えられた勘定ゆえ、さだめし人並み優れた女ご好きの方でござりましたろうな」などと、からかい気味に、兄信長の死後は、いらぬ詮索をする者もいる。「わしは末っ子で、おやじの殿の歿くなった年に生れた者ゆえ、お顔も、てんで覚えてもいぬが、身内の話では女好きどころか、あべこべと聞いておりまするぞ」と、有楽が言い放ってやると、きまって、「まさか‥‥」と誰もが妙な顔をしてみせた。

 だが、父信秀の女嫌いは本当である。織田家といっても、信秀の生れた家は尾張の守護代斯波の奉行職織田本家のまた分家で、尾張八郡のうちの一郡の四分の一ぐらいな所領しかない勝幡(しょうはた)の城だった。今の前田利家の伯父与十郎が尾張海東郡荒子城で三千貫の身代だった頃、父信秀は、 その十分の一もない身上だったらしい。大きな領主なら、首名(おとな)衆と呼ばれる重役どもに任せて、己れは印判(かおう)だけ捺していればすみもしようが、父のような中小勢力では、戦をするにも自分が真っ先に槍をふるい、駒かけて先頭に立って奮闘するしか途はない。そして、身辺を固めてくれる者も同族だけである。ところが、一門、親族といった同族は、少しでも勢力を伸ばしてくると、やっかむのか、えてして協力はあまりしなくなる。父信秀には、与二郎、孫三郎、四郎次郎、造酒丞(みきすけ)といった弟はいたが、 どうしても、新しい同族をもっと拵えてゆくしか、中小勢力としては発展のしようもなかった。大領主なら、それ相応の隣国の大名からでも嫁取り・婿取りをして、その里方と協力しあって国境を守り、他国へ攻め込めもするが、父信秀のような小城主では、そんな大層な所からなど嫁のきてがない。といって、釣り合いのとれた所から妻を迎えてしまっては、それ相応の合力が得られるだけで、あまり先行きの発展も望めない。そこで父信秀は正妻を決めずに、たとえ二百でも三百でも兵力の集められる国内の土豪を探し、片っ端からその娘や妹を借り、己が子を産ませるようにした。自分の娘や妹が信秀の子を作り、「お腹様」になっては、その親や兄達はどうしても織田の同族となって一緒に頑張って戦わざるを得ないから、見る間に父信秀の勢力は拡張されていった。

 前田与十郎も、娘が女児を産んで合力し、青山与三も娘が二郎(後の三郎五郎)をもうけたから味方し、平手中務(なかつかさ)は、末の娘が三郎(後の信長)を作ったから、これも仕方なく同族になった。林新五郎兄弟みたいに、己れらの姉が嫁入った土田久安の娘が産んだ四郎(後の信行)を立てようと、謀叛しかけた者もいたが、これらの新しい同族を作ったおかげで、父信秀はついに尾張八郡の名主にまで成り上がれたのである。とはいえ、好きな女、綺麗な女を選んだのではなく、ただ、その父兄の兵力にだけ 目をつけ、婚閥を作るために次々と種馬のような苦労をしたのだから、父信秀も並大抵の事ではなかったらしい。

 朝倉浅井勢と宇佐山で戦った時、森乱丸の父三左と共に討死した三人上の兄の織田九郎の母御前などは、有楽はその顔を今でも覚えているが、市江[現在の愛知県海部 郡(あまぐん)佐屋町のあたり]の豪族後東の娘で、蜂に刺されたように痘瘡の痕がひどく、鼻のひしゃげた凄い面相で、子供心にも恐かった。だが、女たちの器量のよしあしで依怙贔屓(えこひいき)などすると、その親兄弟がうるさいから、父信秀は公平に「一腹一子」という家憲をこさえ、女が身ごもると、その岳父を生れる子の御守役のように扱って家臣の列に加えてしまい、そして次の女をと物色したらしい。だから兄弟二十三人、みな異腹である。幸い父信秀は色白な偉丈夫で、女に好かれる型だったから、何十人もの女が喜んで、その子を産んだのであろうが、気張って子種を出す方は、そこは腕や脚みたいに思い通りに動くところではないだけに、相当無理をして、さぞ大変だったろうと思われる。

 三河安祥攻めの時、長陣になり月余にわたったから、見かねて近臣が伽ぎの娘をすすめたところ、父信秀は手を振って、「わしは、女ごは好きじゃない」。憮然とした面持ちで泣き面を見せたと伝わっている。人は三十人も妻を持った父信秀が、「女嫌い」というとおかしがるが、普通の者なら一人持っても持て余す妻を、それだけ次々と抱えたら厭になるのも、これは当り前であろう。その数多い女の中で、一人でも気に入った者がいれば、その産んだ子を跡目にするように、そっと遺言でも書いていたろうが、父信秀は死んだ時、てんで何もしていな かった。つまり生涯、好きな女は一人もいなかったらしい。三男の信長が跡目をとったのも、妻の実家の父が近隣に鳴り響いた美濃の斎藤道三で、その財力と兵力がものをいったのである。(もし、おりゃが、もっと早う生れおって、当時のことゆえ、駿河の今川の娘でも妻にしていたら、跡目がこちらに廻り、その後の天下の形勢も全く変わっていたろうに ‥‥)と有楽は、今でも時々そんな空想をする。
 5 兄の信長は、髪のもとどりを垂直に立て、薄竹の甘皮でキリキリ結わえさせ、竹の茶筅と同じ恰好のものを頭にのせ、当時これを<茶筅髷>と名づけて流行させた。その上、次男の三介を<茶筅丸>と改名させて、もっぱら茶湯の給仕に用い、当時、 銃器の弾薬である硝石を一手に輸入していた納屋衆と呼ばれる堺の者を接待させた。勿論、兄の狙いは軍事目的とは判っていたが、時たま茶事にかりだされて、手伝いをいいつけられる有楽は往生した。普通の武家は「白湯」といって、茶の葉など奢ったものは入れぬのが慣わしで、遣唐使によって持ち込まれたと伝わる茶の如きは、禅寺などで薬湯にして用いるものと思っていたから、時たま啜っても薬みたいに苦く、えごいだけだった。ところが、そういう赤黒い唐茶でも閉口なのに、信長が用いだしたのは青黒い、まるで草の生汁みたいな緑茶だった。だから有楽は付き合わされるたびに、へどが出そうだった。

 話にきいたところでは、南北朝合戦の頃から、<闘茶>とよぶ、蓋つき碗の中身を あてる勝負事から始まって、当時の茶どころの栂尾(とがのお)産を「本」、その他 の土地のものを「非」と分けて、<本非(ほんぴ)の沙汰>という賭事が流行しだし、そのうちに、粉をひいた茶を四種も混合して、よく撹拌してから、これを口に含み、舌先で十回味わって次々とその分量を言い当て、もし当たれば、これは来客側の儲け、当たらなければ、十回の賭金が全部主人側の亭主の利得になるという、<四種十服勝負>が、足利時代に入ると室町御所の名物になって、飲茶賭博に明け暮れしていたそうだ。だから、謡能(うたい)・華道と同じ様に、阿弥と総称される連中が、<同朋衆>の名で呼ばれ、<茶頭>の名で茶事博奕の勝負師として抱えられだしたのだという。有楽の幼かった頃の覚えでは、まだ津島の国府宮あたりでは、当時の名残りに賭け茶屋があって、青旗を出した緑茶の店では品種当てが一文の元手で十文、蓋を開けて茶柱が立っているかどうか、すぐ勝負のつく紅旗の茶屋の唐茶は、当たれば五文の儲けで、盛んに繁昌していたようである。

 ところが天文十二年に九州の種子島に鉄砲が伝来した。「これは重宝」と、すぐ広まって国内でも見よう見まねで、すぐ模造品が作られた。しかし困ったことに、鉄砲の弾丸をとばす火薬が当時は「木灰1、硫黄1.5」と、ここまでは国内でも都合つけられたが、残りの四分の三を占める硝煙がみな外来品。マカオから入ってくるのを堺の納屋衆が一手に押さえていた。その堺衆というのは、薬師院に集まる皮剥屋の武野紹鴎、蜂屋紹左、松屋久政といったのが音頭とりになって、これまでの賭事専用の茶を廃して、慎ましやかな「佗びの茶」を始めた。だから鉄砲の火薬欲しさに信長は、「我らも、佗びの茶である」と、ささら衆の機嫌をとるために、その竹の茶筅に似せた髷を考案したり、次男にそ うした名をつけたようである。

 (人間の運命とは不思議なものだ‥‥)と、有楽は今になるとしみじみ思う。若い頃は「茶」ときいただけで嘔吐を催してしまい、兄の信長から茶事をいいつかると厭な顔をしていた自分が、信長の死後、まるで隠れ蓑みたいに茶湯に親しみ、「利休七哲の一人」 ともてはやされ、自分でも昔のような垂直なのではない、丸くふくらませた、泡立てやすい「有楽茶筅」まで考案して、「有楽流」とよぶ一派まで立て、それで「腰抜け有楽」、「臆病有楽」といった陰口に対しても、どうにか太刀打ちできている。おまけに有楽流の家元として、茶筅のささら衆、鉄瓶のいかけ衆、碗のかわらけ衆から、夥しい納銀が、いつも有楽の許へは寄せられてきている。

 そして、それらの銀を皆注ぎこんで有楽は、「本能寺の信長殺しの謎解き」に没頭してきたのだ。なにしろ、誰を探し出し、どれの口を割らせるにしろ、先立つものは、何といっても、これみな金次第だった。人手もかかったが、金銀の入用も、いくらあっても足りなかった。だから有楽は、(大事の前の小事)と思えばこそ、秀吉から黄金を貰えば、「いかにも、いかにも」と彼の言いなりになっていたし、その秀吉の死後、家康から甲州銀を荷駄一頭、二十貫も贈られると、「大坂方の石田治郎に加担はせん」と関ヶ原の役では、織田本家の岐阜城の秀信を真っ先かけて攻め滅ぼしたりもした。  

 十三年たった慶長十九年、国家安康の鐘銘の問題から、大仏殿供養の中止を云いつけてよこした家康が、大坂進撃を命じ先陣をくりだしてくると、今度は大阪城から太閤のふんどう流しの竿金三十本を届けられ、(格式からも是非、西軍の総大将を願いたい)と頼まれた時でも、まさか、その黄金が頂戴したいからと言えないままに、「淀殿は、我が姉の於市御前の姫にあたる。血は水より濃いとも申す叔姪(しゅくてつ)の間柄じゃ」などといって大坂城へ乗り込んで総指揮をとったが、翌年は関東から早いとこ判金百枚を洛外建仁寺へ送られ、それを信長殺しの犯人探しに、既にもう使っていたから、大坂より入城をまた求められても、せんかたなく、「去年で懲りた。儂の言う事を城内の衆があまり聞いて下さらんゆえ、とても、この身では総指揮はむかぬ」と断らざるを得なかった。そして貰った判金百枚の手前、家康に義理を立て、建仁寺境内の如庵でじっと中立を守っていただけである。

 つまり、はたから、やれ腰抜けだ、裏切りだと喚かれても、有楽にしてみれば、信長殺しの解死人を探し出したい所期の一念。つまり初志を貫徹したいために、その目的の資金集めに、副業みたいに金作りしていたに過ぎないのだ。だから、どちらへ味方しようが、そんなことは一切構ったことはなく、全く論外の沙汰だったのである。
 6  ろくに食事もとっていないのに、きりきり差し込む腹の病に、有楽はずっと悩まされ続けだった。痛みだしてくると、みぞおちのあたりが突上げてきて、疼くように嘔吐を催した。「心配で胸が苦しいのなら判りもするが、なんで下っ腹が、こう切なく病むのか」。苦い煎じ薬の薬湯の残り香を嗅ぎつつ、有楽は口をつぐんだまま舌の先で欠けた奥歯の孔をつついたりした。だが、吐き気は烈しくて、亀みたいに首の根っこを肩へのめりこませ、腹這いにな っても、とても押さえが聞かなかった。苦しすぎた。「こう痛みが続いては、しまいには血でも吐いて、死ぬかもしれん」。そんな心細さが咽喉もとからこみあげてきた。耳盥に顔をさしのべ口を開くと、もう吐くものも腹に残っていない。だから、げえげえと耳の脇から音は大きく響いたが、唇のはしからは、ほんの少し糸が垂れるように、酸っぱい唾が糸のように光ってつながるだけだった。それでも吐くだけ出してしまうと、みぞおちのつかえが、少しはとれたように治まってきた。その代り、ねちねちした苦ずっぱい舌ざわりが絡みつくように貼りついて口中に残 った。手を伸ばし、有楽は枕許の蓋付碗をとって、口直しに一息にがぶっと呑み干した。すると白湯と思ったのが、苦い葛根湯だった。しまったと思った時は、もう咽喉を通 してしまった後だった。余計に口の中がむかつくぐらい不快になった。

 有楽は、ぺっぺっと唾を吐きつつ、 「苦み直しに、また渋いのを呑み干すとは、なんで、おりゃ、こうぶざまじゃろ」と、やり場のない烈しい瞋意(しんい)にかられ、暫く、その空碗を押さえていたが、 腹立ちまぎれに投げ出すように有楽は放り出した。空碗は、はずみをつけて転がり、明り障子に当ると、杉の細桟を折って外へ転がり 出た。横目で覗くと、破れた美濃紙の裂け目から陽光を浴びた大きな緑色の葉末がきらめ きをこちらへ向かって照り返していた。そして、隙間から強い花の香りを、むうっとするぐらい強く風に送られて漂ってき た。(くちなしの花‥‥) 見えなくても、忍び込んでくる花粉の匂いのきつさに、有楽はすぐ嗅ぎ分けた。(そうだ、あの時、天正十年六月二日の時も、二条御所の植込みに、この白い花は大 きな葉に囲まれて咲いていた‥‥) ふっと、有楽は目を瞑りながら、鼻だけひくつかせながら、そんな事を想いだした。(あの時から、おりゃ、自分の生涯を狂わしてしもうたが、だが、なんでこんな事になるなら、あんなふうに思い詰めて二条御所の御濠を、おりゃ、泳ぎ出してしまった んじゃろか) まるで、人ごとのように「織田源五郎長益」と呼ばれていた昔の事を、口中の苦みを忘れるよすがにもと考えてみた。だが、過ぎ去っていった日の事は、呼び戻そうと有楽がすればするほど、疼くよう な、そんな辛い思いをまた呼んだ。なにしろ、まるで滓(おり)のようにも、胸底に溜まったまま沈殿し堆積しているからかも、それはしれない。「おりゃの昔は、みんな恥っかきよ」。たまりかねて、慰めるように呟いてみても、蘇ってくる思い出は、霏(もや)のように厚壁の中に塗りこめられ、忌まわしげに遮ってゆくにすぎない。(過去とは、なんで、こう饐(す)えた匂いのするものじゃろか。そんで、それだけ しか自分の生きとった事の証しがないとすりゃ、『生きてきた』というのは、あまりにも虚しすぎるものではなかろうか)と、思わず有楽は鼻先に皺を寄せた。そして、ふんふんならし、そのままじっと眼を瞑って口をあけると、息を絞り出すような溜息を洩らした。





(私論.私見)