忍術論

 (最新見直し2009.11.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2009.11.29日 れんだいこ拝


 「1100 論考・八切史観(最終)の忍術論の下りを転載しておく。
 忍術の本家は  

 尊卑分脈では、山科家は天皇家と同じ藤原氏で、四条家の分かれで中御門家成の六男実教を祖とし、その子教成は、母の二位丹後の局が夫の業房の他に後白河法皇の寵 をも忝うし、よって法皇の別業山科の地を賜り、もってそれを氏となすとある。そして、実教より十四代目が言経となっている。  

 ところが、山科という土地は、この伝承とは相違して、建長五年(1252)の、 「近衛家所領目録」に、その山科が含まれていて、「散所」だから年貢もなく、雑色 の行事というものが係りとなっている。 この「散所」というのは、長和二年(1013)の「小右記」正月四日の条に初め て、「中将朝臣云、白馬朧近衛、称散所随身、前例不然也」と書かれてある。この文面の意味は、 「白色の馬をひっぱってくるとは何事か。公家が白を忌むのを散所から随身した輩は知らぬのか。これは前例もないことだ」。つまり、「散所」とは「山所・産所」の当て字をするが、桓武帝が京へ都を定めた 時、天孫系[この頃の八切氏は外来系・体制側といった意味合で天孫という言葉を使 っているようです]に刃向かった原住民を捕まえ、収容した捕虜地域の別所(院内・ 院地)の分散収容所の事であり、彼等は白山信仰で白旗を立てていた連中ゆえ、馬を探してこいといわれて白馬をもっていっては叱られたというのが、この記事である。

 前述の江戸時代の延宝二年の坂内直頼の、「山城四季物語」の<七月二十四日六地 蔵参りのこと>にも、「山科」の地名ははっきりあるし、「山科名跡志備要」には、 「山科は、鉢叩き、ささらと呼ぶ竹伐りの者住み、茶筅売り、唱門師支配」と明記されている。 また、この傍証となるものは、天正十三年正月十三日の言経卿の日記にも、 「山科在所より細竹二百八十本持来」の一行が残されている。 「尊卑分脈」というものは重要史料のごとく扱われているが、あまりにも作りものす ぎて、その記載では、 「山科に領地を賜った。そこの百姓が耕した米を年貢として受領していた」 と間違えやすいが、散所系の原住民というのは元々が遊牧民族系で、一切農耕はして いない。初めは近衛家管轄で、後に山科家に渡ったとはいえ、そこからは細竹や燈芯の物納 があって、それで換銭はできたが、飯米の年貢はなかったという事実が、この証明に もなる。 「では、山科家の食糧はどうしていたか?」といえば、天正十一年八月二十一日、当 時の京町奉行前田玄以に、山科家の執事である大沢右兵衛大夫が、 「西梅津新地で賜っていた飯米三十石は、先代山科言継宛名義になっていたので、天 正七年三月二日の死亡の節、御朱印の伺いを出したところ、上様(信長)は山科家で その侭に致すよう言われて、当主言経が相続していました。なのに、本能寺の変から 五ヶ月目に筑前守殿(秀吉)に押さえられて一粒の米も入ってこないのです。食糧に 事欠きますゆえよろしく、この段頼み奉ります」 という抗議を出しているように、飯米は山科以外の農耕地から収納していたのである。

 もし「尊卑分脈」で説くように、山科家が天孫系であったならば、月二斗五升の飯米さえ他から納入せねばならぬような土地を、なぜ押しつけられていたという事にな る。それに散所系の原住民は同族以外とは、「通婚同火の禁」を明治まで固守してきた という歴史がある。また大江匡房の記録にもあるように、同族以外の者の支配はこれを絶対に受けていない。

 「大乗院文書」によると、筒井順慶の五代前の筒井順永というのが大和の国の大半 をうち従えて勢威があがったとき、散所である五ヵ所の者に軍夫に出るよう命令した ところ、「長禄三年(1459)六月十六日付」五ヵ所の者から、先例もない事であると訴えてこられた。そこで、室町奉行御所申次衆が、「筒井方へ従い申さずともよ い」の採決をした旨の案文が今もある。[『柳生石舟斎』(アップ済み)にも同じ記 事があります]  

 つまり、これまでの日本歴史では、 「戦国時代というのは弱肉強食の世の中で、右に強力な戦国大名が現れれば弱小豪族 は右傾し、左に出てくれば左傾し、たえず反復これを繰り返していたものである」 というが、これは虚構であって、散所系の者はたかだか軍夫供出ぐらいの事でも敢然 としてこれを拒んでいる。だから、もしも山科家が土地の者と同族でなかったら、竹 を切り揃えて年貢代りにもって行くこともなかったろうと思える。

 さて、この時点より二十一年後の「親長卿記文明十二年九月」の条には、 十一日 夜に入り所々物騒。土一揆蜂起。 十二日 土一揆蜂起、方々鬨の声聞ゆ。 十五日 伏見殿御門に一揆押寄せ門前放火し浄花院焼く。禁裏騒動す。 とある。  この土一揆に「蜂起」という文字があるのは、散所別所の原住民には「蜂屋」「鉢 屋」の他に色々の文字をあてるHACHIの別称があったからで、なお、これに関し ては、 「夜は京都の内外から大坂辺にまで彼等は横行して、押込み、辻斬、追い剥ぎといっ た忍びの夜討ちをして万民を苦しめ、富裕な者の財宝を片っ端から奪って分け合った。 なにしろ官がこれを取り締まって警戒しても、元来、忍びに馴れた連中で、ここと思えば又あちら、燕のような早業で飛鳥の如く立回り、明るい時は岩屋の洞穴などに隠 れて寝ているから捕えようもない。 そこで毒をもって毒を制せよと、鉢屋支配という制度を作って同族の頭を定め郡郷 を分配したところ効果あり、日本全国がその方式になった」という古記録さえある。

 つまり、山科も鉢屋支配の土地で、言経も権中納言の官位ではあるが、実は頭目の 素性だったと推理してゆくと、彼が書上げた「喋書」なる系図が「忍法相伝」と伝わるのも、また無理からぬ事になる。また言経の父言継の日記には、 「江州八田別所織田の庄出身」の肩書きのある信長の父織田信秀の許へゆき、勝幡城 で蹴鞠興行をなし、盆の料として銭の配分をし合ったという記載もあるのは前に書い たが、こういう事は普通の公卿はやっていない事である。さて、忍者も山科家が家元として伝えるだけのものだったら、当時の蹴鞠や香道な みに優雅なものとして今も受け継がれてきただろう。ところがこれを一変させられる 時代がきた。
 忍術の系譜  

 だが、今日では忍術というとこれは、「甲賀」「伊賀」の二つに分けられて、「山科」などという分類は見つからない。なぜかというと、言経の書いたという忍法相伝は、皆目その片鱗も残っていないが、 「甲賀は、その藤林保武の<万川集海>」 「伊賀は、服部半蔵口伝の<忍秘伝>」 の二つが今も伝わっているせいだろう。だが、この二つの忍術書が、いかに荒唐無稽な物であるか。それが別に指南書や解 説書ではなく、虚妄の一語につきることは、平凡社刊、足立巻一著の「忍術」に詳述 され、彼と尾崎秀樹、山田宗睦の三人の共著である三一書房刊の「忍法」では、二つの秘伝書たるや、 「天下泰平になって形式化された具象」として「徳川家の権力機構に組み込まれた伊 賀者、甲賀者が生活保持のために家系強調、祖先及び忍術そのものを伝説化」と説明 されている。そして、「万川集海」と双璧をなすものとして、「名取青竜軒」の「正忍記」も、それは上げている。

 だが、それらの忍術書なるものは、入れ歯や含み綿による「変顔」および「変装」 をまず説いて、これで「変幻化姿ノ始計ナリ」と強調している。 つまり府中の三億円強奪事件のようにオートバイを白く塗り替え、白バイのごとく 見せかけ自分自身も警官に変装し、車の下から白煙をふかせドロンドロンと消えるよ うな詐術が、それらのモチーフとなっている。

 これは亨保十八年(1733)奥付の、「加藤作左衛門筆の忍秘伝」巻一の、「伊 賀甲賀伝記」の導入部分に、「ソレ窃盗ノ始メハ漢高祖ノトキ軍法ト忍ト一度ニ始マ リ、ソノ後ハ忍窃盗ヲ間トイウフノナリ」とあるように、「間者」つまりスパイは忍者であるし、「窃盗術こそ、これ忍術の精華なり」、つまり泥棒の石川五衛門が忍術 使いであってもおかしくはないというような説明になる。 そして、この伊賀流の「忍秘伝」巻ニは、 「忍道具秘法」で「まき菱」「結び梯子」「水中下駄の浮踏」と、今も映画などでも っともらしく出てくるもので、トリック撮影で下駄で濠を渡る場景まで見せられてい る。

 巻三は、三十八項目からなる火器火薬。ノーベルが黒色火薬とニトログリセリンを 結合させてダイナマイトを作った時より一世紀も前に、既に風爆火などもあったとい うが、 「これは大秘事ゆえ、ここに書かず口伝」と、製法や内容は何も書いていない。 巻四は、忍び込む潜入方法で、猿の皮をぬいぐるみになし、これを着ていくこと。 もし田畑で通行人に出会ったら、両手を平行にのばし、案山子の真似をする秘伝などもある。

 「万川集海」の方は朝鮮の兵書「間林精要」と、中国明の兵法書「武備志」そのま まの内容であり、そして、それらの原典は何かというと、「列子」の黄帝篇、周王篇 であるらしい。「穆王の時、西から化人がきて水中火中をものともせず、金石の間をくぐり抜け山 川をひっくり返し、町や村を動かし空を飛行した‥‥」 といったものや、 「方仙の道をなし(仙人の修行をし)、形をなくし消失させうるのは、これ鬼神のこと(業)による」とある「史記」の「封禅書」や、 「文選」の「西京賦」に、「奇幻たちまちに起れば、万物その姿を異物に変え、刀を 口中へ呑み代りに火をはく。雲霧が沓冥して辺りが暗くなれば、大地は割れて川とな り、また一瞬にして水をなくして平坦な道となる魔可不思議‥‥」 などと出ている「方術」「神仙術」が、鬼面、人を驚かす作用があるのをもって、そ れを空想戦術として兵書に執り入れて孫引きし、 「万川集海」は、さももっともらしく形を整え、これを権威づけたのではあるまいか。

 さて、こうなると伝承される忍術または忍法には、形而上学的なものと、まるっき りその反対のものと、二つがあることがわかる。 そして、「児雷也」のガマの妖術のごとく、天竺徳兵衛の大蛇のような妖怪ブームの 先鞭をつけたものから、仁木弾正の鼠の忍術が芝居として当たり、尾上松之助の活動 写真から立川文庫の猿飛佐助、霧隠才蔵にまで伝わり、戦後も五味[康祐]の「柳生 武芸帖」、柴田[練三郎]の「赤い影法師」、司馬の「梟の城」とつながる忍術の系 譜となるものは、どうしてもこれは外来系となる。

 忍術小説「飛び加藤」にしても、抜刀して花を切り落とすと樹の上に登っていた男 の首が切り落とされて転がってくるのは、中国の「平妖伝」そっくりそのままである と、新人物往来社刊の本で水野美知が指摘しているのも、その裏付けであり、また、 「猿飛佐助」が孫悟空の翻案なる事も周知されている。つまり、「万川集海」や「忍 秘伝」に基盤をおく忍術というものは、印度波羅門から中国へ入ってきたものの換骨 奪胎となる。

 とはいえ、人間誰しも何か事があった時、他人の物を盗もうといった受益目的でな く、自己嫌悪にかられて己れの存在を他から隠してしまいたい、消えてしまいたいと いった願望を持つ。そうした時に、 「手足を屈め、近所へより、うつむきに伏し、隠形(おんぎょう)の呪文を口中で唱 えれば、これ観音隠れ又は鶉隠れといい瞬時にその身を消す」 といった忍法蒸発の術を知っていたら、暮しよいというか、少しは生きていく事の助 けにもなろう。なのに、そんな便利なものが、江戸初期から実存していたと研究家は 云うが、その後は技術が開発されずに消滅してしまい、今では小説やテレビの中だけ の虚像になってしまったというのは何故だろうかということになる。不思議な話しだ が、これに関して本当の事は誰も言わない。何か秘密があるらしい。
 なぜ忍術は消えたか  

 これまでの説では滅亡した第一の理由を、 「江戸期に入って天下泰平になると、需要がなくなったからである」としている。 しかし、戦国期で彼等は、それ程強力な戦闘部隊だったかというと、これは信じら れない。伊賀出身の菊岡如幻の「伊乱記」によれば、 「天正九年、織田信長の長子信忠の伊賀攻めにあって、僅か二十日にて伊賀の者は僧 侶男女の別なく殺戮されつくした」とある。甲賀の方も慶長五年、関ヶ原合戦の始まる前、百九十名の者が伏見城へ立てこもっ たが、火遁水遁の術もだめだったのか、伏見は落城し彼等の大半も戦死してしまって いる。 しかし、これではまずいからと、甲賀者が裏切ったゆえの落城ともいう。だが、殆ど が死んだのは事実である。つまり彼等が強かったとか、戦いに役立ったという例証は あまりないのである。 「永禄五年に家康が今川方の蒲郡城を攻めた時、甲賀の伴太郎左ら八十名の忍びの者 を呼び、これらを城内へ潜入させたところ、城櫓に放火し城将鵜殿長持の首を太郎左 の弟である伴与七郎がとり、鵜殿の二人の伜は、太郎左の伜の伴資継が生け捕りにし た」 という勇ましい武勇談が一つだけはある。

 しかし、これは、「改正三河後風土記」所載のものなのである。ところが、この本 は元禄時代の、沢田源内とよばれた近江の百姓上がりで筆のたった男の贋本で、史料 でも何でもない事は、既に江戸時代から「大系図中断抄」などで暴露されている。

 ただ、「淡海故縁」に長享元年(1487)足利九代将軍足利義尚と戦った六角高 頼の先陣に加わった甲賀者五十三名が、夜襲をかけて足利勢を追い払った手柄話が出 ているが、「重篇応仁記」には、これとは全く反対で、甲賀者が先に逃げたと出てい る。そして、四年後の延徳三年には、甲賀の連中が命からがら逃げて、六角方は完敗している。とても忍びの者の連中が戦に強かったとは義理にもいえない。

 だから、家康が後に伊賀者を召し抱えた時も安直で、二百人が込みで千貫だった。 一貫を一石に換算すると、平均一人五石、というのが伊賀同心の給与体刑で、一升の 米を二百円とすれば年俸十万円。月にすれば八千五百円。いくら官舎があって食する だけにしても、これでは生活難だったろう。しかし総評も官公労組もなかった当時なので、やむなく彼等伊賀者が値上げ要求の デモとしてプラカード代りに書かれたものが、今も伝わる宣伝の忍術書ではなかろう か。

 また甲賀者にしても初めから最低の伊賀者以下の扱いだった。 だから江戸期になって戦争がなくなり、需要が跡絶えたから、忍術そのものがドロン ドロンと消えていったというもっともらしい説は、初期の彼等甲賀伊賀の者らの人足以下の待遇をみても、どうも単なるこじつけ以外のなにものでもないことになる。

 「戦国の忍者は戦乱がなくなると失業同然、殆どが帰農、あるいは神札配りや薬売 りとなり、忍術も無用となって秘密が不用となり、その秘密社会も崩壊。その時期が 『万川集海』の書かれた時点にあたり、それまで秘事口伝によった忍術が集大成され 著述化されたのも、また秘密の消滅を意味する」足立巻一はこう結論をつける。

 しかし、農耕民族とは「天孫系と、それに融和した民族」の事で、「神札配りや薬 売りは非農耕の原住民系のもの」という区別が明治六年まで厳然としていたのだから、 誰もが勝手に帰農できたり、薬屋になれるわけのものではなく、これを同一視するの はまずいような気がする。

 それに忍術が消えた最大の理由は、全然また違うのである。 「万川集海」の末尾二巻にも、「火器は忍術の根元である」と書かれ、のろし火薬(狼糞、もぐさ、硝石、硫黄)卯花月夜(肥松硝石等による黄色照明剤) 義経炬火(水銀を利用した不滅たいまつ)をはじめ四十種の火薬を用いたものが、 「これが忍術だ」といわんばかりに、いろんな製法や使用法が列記されている。

 「天文十二年種子島に鉄砲伝来」とは周知の事実だが、鉄砲を用いるには火薬がい る。そして当時の九州南部で採れても、主成分の硝石は日本列島では全く[ほとんど? ]産出しない。つまり鉄砲の国産は国友鍛冶や根来の雑賀鍛冶が大量生産したが、用いる火薬はすべて輸入依存だったのである。 信長時代はポルトガル船をマカオ経由、秀吉時代はイスパニア品をマニラ経由で輸 入した。だから戦国時代というのは、武将や武者故人のバイタリティーで覇を競った ように今ではいわれるが、どうもそうではなく、良質な火薬エージェントをつかんだ 戦国大名が、勝利を勝ち取ったもののようである。

 ところが、日本歴史というのは、鉄砲は火薬なしで使用できるものと誤認したのか、 これまでそこを誰一人として解明していない。軍需用硝石ほしさに、言葉もわからぬ まま宣教師と仲良くしたり洗礼したりした連中までが、「信仰あつき切支丹大名」と してしまう。(秀吉の時代には印刷機が持ち込まれ辞書も作られたが、信長が殺され るまでは、代用に採用したイルマンでさえも「ドチリナ・キリシタン」の一言しか知 ったいなかったのはフロイス日本史にも明記されているし、この間の事情は私の「魔 女」に当時のイエズス派の内幕が詳細に出ている)  さて、徳川家は寛永十四年の島原の乱に懲りて、長崎に出島を築き、渡航許可をオ ランダ船のみに限定した。ということは、硝石の独占輸入法案で、他への横流しを一 切認めぬ禁制をとったことになる。こうなると他の大名やその他にしても、硝石が入 手不能では火薬ができぬ。それがなくては鉄砲も大砲も使えない。  だから幕末になって、長州が上海へ硝石の買付けにいって叛乱するまでは、なんと か天下泰平が続いたのである。「鎖国」というのはつまり、なにもキリスト教に怯え たためでも何でもなく、硝石を独り占めにして治安維持を図った巧妙な徳川家の政治 目的による偽装だったにすぎない。  金の切れ目が縁の切れ目というが、治安上硝石の一般の売買を禁じてしまったから、 鉄砲や大砲と同様に、忍術も火薬が入手できなくては、もはや策の施しようもなく、 「ありし日の思い出」に訣別の形見として各忍術書を残してドロドロ消え去ったのが 真相らしい。
 悲しき忍術  

 さて、故子母沢寛の随筆に、ある高名な親分が、「かたぎの百姓衆に迷惑をかけて はいかぬ」と口癖に子分共をいましめ、村の百姓家のある所を通るときは、羽織を脱 いで履物も手にとって腰を屈めて通り抜けた‥‥「実るほど頭の下がる稲穂かな」と いうが、やくざでも昔は、えらい親分にはこういう謙虚さがあったものである。とい ったような話しがある。  勿論、現在でもやくざはいるが、人口比例からゆくと、やはりどうしても非やくざ の方が圧倒的に多い。だから案外やくざを怖れる心理的傾向もまだ一般にあるからし て、そこで、 (そうか、昔のやくざはそんなにエチケットを守っていたのか。なら恐くはなかった な)と、こういうものを読んだ人はすこぶる優越感を抱き満足もしたらしい。  しかし、なぜその親分がそうした態度をとったかという理由は、「その親分の人間 形成の慎み深さ」程度の浅い読みでしか見ていては判るものではない。  まるで、普段いかさま賭博ばかりして百姓を苛めているから、その罪滅ぼしに頭を 下げ気兼ねしているようにも、これではみられてしまう。  そして、徳川政権が農業国家の方針をたて、士農工商の順位を作ったから、百姓は えらかったのかとも誤解される。しかし、それだからといって商工業者が、裸足で村 内を通行したとはきかない。すると、何故「やくざ」だけが遠慮しなければならなか ったのか。彼等が賭博行為に劣等感や羞恥をもっていたものとみるべきか。といった 命題に突き当たらざるをえない。  さて、話しは戻るが、火薬が一般に入手困難になった時点において、ほろびゆく技 術の種明しに書かれた「万川集海」や紀州新楠流の「正忍記」が、ただ文字を羅列し たに過ぎない荒唐無稽にしろ、その根底において中国・朝鮮の兵書や烈士の孫引きで あるのとが一目瞭然とすると、 「単にデフォルメされた話しであったにせよ、忍術とは外来した舶来のものであった か」 の疑問がはっきりしてきて、それでは、「山科言経の書いたような原住系の忍術とは、 そもそも何か」ということになる。この疑問は押えようもない。  が、それを解明するためには、明治五年に施行された、いわゆる壬申戸籍が手掛か りとなる。  従来から「たみ・百姓」と言われはするが、これは決して「たみ=百姓」ではない。 併称される「たみ」なるものは、「非農業人口の原住系」を指すものであることが、 その新しい戸籍では明確にされた。  つまり明治五年に、これまでの百姓はその檀那寺の人別帖にて人口を把握されてい たが、「たみ」の方は皆目不明なので、これも一斉に戸籍を作ったのがそれであるか ら、これによって従来の仏教人口二千万が一躍四千万に増加したという事実。ここに 問題があるのである。  百姓の人口に等しい原住系が幕末まで竹を切り茶筅造りぐらいの無職渡世や博奕打 ちで、農家の収穫に寄食していたのではたまらない。そこでまず、土佐の百姓から蹶 起した吉村寅太郎の天誅組が口火を切って、これが明治革命になってゆくのだが、そ れ以前においても、原住系へ天孫系の白眼視は相当にひどかった。  関白一条兼良の「尺素(いきそ)往来」にも、 「白河の鉾が洛中に入ると山科ら六地蔵の党との印地打ちが、例年のごとく起るかも 知れぬから、侍所の者達が警戒に河原へ繰り出した」 とあるし、また「平家物語」巻十五にも、 「堀川の商人や町冠者ばらの向かえつぶて勇し、乞食法師と合戦のさまをいつか習う べきか」 また、「古今夷曲集」ニ夏の部には、 「印地にし、深入りしつつ深手すは、負うは不覚な深草の者 久清」の詠草もある。  印地とは院地の事で、京周辺の原住系の捕虜収容所の名残り。地方の別所・散所と 同じだが、ここへ天孫系の者が投石してゆくのが「印地打ち」という石合戦。  原住系もやられてばかりはいられぬからと、山科やその他の院地の連中は、石ころ の多い河原を、御所の機動隊の来る前に占領し迎え打つようになった。  が、天孫系も勇ましく堀川の商人までが突撃し、御所の深草少将の家来も深入りし すぎて逆にやられた‥‥といったところが、この詠草の訴える意味であろう。  さて、今日でも伊賀上野の百々地砦は、上野市から向かって南西と、その反対の北 西から入る道しかないが、「界外(かいげ)」という部落が双方に残っている。とい うことは、つまり講談の忍術名人百々地三太夫のいた地帯は、一般の土地とは違い、 そこはかつて「界外」とばれていた別天地の場所であり、印地であり別所の原住系の 民の収容隔離所だったとわかる。  そこで彼等は羽を持っていない限り、橋のない川を渡って他へ出かける時は、百姓 から投石され撲殺される危険を覚悟で、界外から外へ出なければならない。  だから百姓の目をかすめるために獣の皮を着てゆけとか、見つかりかけたら案山子 に化けろなどという悲しい技術がそこに生れ、これが忍法の極意ともされるのである。  だが、「印地打ち」として外部から天孫系の百姓に狙われる事は江戸期にはなくな った。なぜかというと生活の知恵で、要領のよい者は代官所役人の下働きとなって御 用風をふかせたり、牢役人となって、これまでとは逆に百姓を苛め返したからである。  しかし、大多数の者はやはり百姓に見つかったら苛められ半殺しにされる弱い立場 にあったのであろう。  つまり、その伝統から[原住系俘囚の伝統といった意味で、八切説ではやくざ(本 可打ち)も、その出自は原住系とみる]無職渡世のやくざというのは百姓に遠慮しき っていたのである。親分が羽織をとり尻ばしょりし、裸足で村を通るのは謙虚でも礼 儀でもなく、「長年迫害されてきた原住民系の劣等感」による悲しき習性ではなかっ たろうか。[いわゆる武士階級も、元来が懐柔された夷、俘囚が出身であり、当初は 公家には頭が上がらなかったものですが]  つまりテレビや小説の攻撃的忍術は、中国や朝鮮の兵書からの借り物で荒唐無稽だ が、日本の本当の忍術というのは自己防衛のため、殺されまいと必死にあえぎながら 考えだされた原住系の民の知恵ではなかったろうかといえる。  占領アメリカ兵に数奇屋橋から川へ放りこまれて溺死した人間の出た頃、我々はど う振舞っていたか‥‥満州で日本女性は引上げまで、なぜ皆坊主頭になり、顔に墨を つけていたか‥‥あれこそ日本人の忍術であり、おそらく山科言経がしたためた「忍 法相伝」も、そうした自己韜晦の自嘲というか、自虐めいたものではなかったろうか。  淋しくなったついでに書くが、「続応仁私記」に「堀を深く掘り直して、その前面 にひしをまく」という個所がある。湖や沼に生える黒い菱の実の事である。これは四 方に棘が出ているのが一番固く、それは山梨県によく生えていたから、これを攻撃よ う武器として甲斐から武威を振るった武田信玄は「四つ目菱」の旗を陣頭に立てた。 昔は馬も藁沓、人間も素足か草履ゆえ、そうしたものをまかれては踏み抜きし足裏を 痛めるから近寄れなかったからである。  さて、「記録御用所古文書」に入っている和田八郎定教の事を書いた「和田兵談」 に、 「甲賀に住いしとき郷人の襲撃をおそれ、こがの実をまく定めありしとか、今も邸囲 りにこがの生垣を二重にもうく」とある。 こがとはからたち、くこの実のことをいう。これが語源で「こがもの」「甲賀者」と なるのであり、伊賀の方はというと、 「丹波は山栗の産多し、いがを集め俵に入れて運ぶ」と、丹波亀山内藤党の古文書に あることように、武田勢と同じ事で、伊勢加太山の山栗の毬(いが)を今の界外あた りにまき、苛めに来る百姓の来襲を防いで、界外の中でひっそり世を忍んできたのが、 家康に拾われるまでの、まことの伊賀者の歴史ということになるだろう。そして、そ れが、「忍んで生きてゆく技術」つまり「忍術の本質」ではなかったろうか‥‥ これまでの面白い幻想を破ってしまった事をお詫びする。
 紙の墓標(あとがき)

 これは私の遺著、まだ生きているから、そういう表現はおこがましいかも知れぬが、 自分としてはその心づもりなのである。つまり後世へ残したいと悲願して、これは纏 めた本といえる‥‥もの書く者は誰でもそうだろうが、自分が生きていたという実存 のあかしに、なんとか書いた物を死後も伝え、それを次の世代の人に読んで貰いたい のが、念願であり希望というものであろう。しかし、それは想うだけで実際はむなし いものではなかろうか。  歌舞伎というものが続く限りにおいては、院本(まるほん)とよばれる近松門左衛 門から並木五瓶、鶴屋南北、桜田治助、河竹黙阿弥といった人たちの物も伝わってい るし、謡曲が流行する間は六道衆原作の物も弘まっている。  しかし、『平家物語』とか『源平盛衰記』の類は今では史料的な見方でしか伝わら ず、他の物も当時の生活を知る資料的な扱いでのみ残されている。  つまり文章の良しあしとか、その内容には係らず、(時代考証的な価値の有無)と いったものによって、他に引用利用できるか否かに、その残る残らないは定まってく るらしい。  絵巻物などでも土佐派の誰が書いた逸品という事より、それによってその時代の何 かが判るという参考目的のため、無名の筆になるものでも保存され伝わっているもの が多い。  絵だけでなく本の方でも、ヨーロッパにおけるごとく、その装丁によって値打ちが でき、骨董的な価値によって残るのは別にして、内容で後世に伝えようとすると、 (それを援用引例することによって、数多くの人間に益をもたらすもの) でない事には、つまり参考用になって、後になっても役立つものでなくては、たとえ 半世紀でも残らないという、極端にまではっきりした答えがでる。  また、いくら大切に保存されたにしろ、一冊の本の寿命はそう半永久的なものでは ない。どうしても後世において何度も再刻され、普及される事なくしては、本の内容 は伝わるものではないらしい。そこで私としては、(1970年代の時点において、 ここまで調べられるだけ調べ尽くしたもの)を、この一冊にという纏め方をし、後の 世代の歴史を調べようとする方への参考にと意図したのである。  それに、「切腹論考」以下殆どは『中央公論』に発表したものだが、『芸術生活』 『月刊ペン』『湖』『小説新潮』『伝統と現代』の格誌に書いたものも加わっている。 雑誌によっては面白おかしくと意識しての部分もかなり含まれている。  だが読んで可笑しくても、精一杯のデータは揃え引用史料文献名も明記し、今の時 点でも研究される方のご参考になるようにはしてある。 了




(私論.私見)