八切史学の「日本意外史」考

 (最新見直し2009.11.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1068 八切日本史4」、「1080 日本意外史5」、「1087 日本意外史 12 」を転載しておく。

 2009.11.29日 れんだいこ拝


 われら日本人軟弱レジスタンス
  「プラハの暑い夏」というチェコのテレビのドキュメンタリー番組をみて、すっかり 考えさせられた。私は米軍進駐の当時の本土は知らないが、満州で、まずソ連進駐、 中共軍進駐、国府軍進駐という三段階を、銃口をつきつけられ、青竜刀で殴られ、後手に縛られながら満人の暴動の中で経験してきている。 プラハの新聞や放送局は最後まで、チェコ人民のために進駐の非をならし、それに元気づけられた市民の婆さんや少年までが、握り拳をふりあげ重戦車に素手で近づき、 しきりに口々の抗議をしている場面があったが、満州ではあんなのは見られなかった。当初チェコのマスコミは敢然と市民の側にたって、進駐権力に対してあくまでもで きるだけの抗議をしていたが、私の記憶の中の在満のマスコミは全然そうではなかったようだ。  

 初めての敗戦なので、要領をえなかったのか、それとも権力の命令には絶対服従と いうことへのなれか、てんで邦人の側には、なってくれなかった。八月十五日までは関東軍の代弁者だった彼らは、ソ連軍クラフチェンコ司令官が進駐してくると同時に、その命令通達機関に変わってしまった。たしか八月十八日の新聞面は、「歓迎」の二文字を大きくだし、 「町の清掃をきれいにしましょう」ということで、大掃除のように割りふりがでた。 そして三、四日すると紙や印刷機がもってゆかれてしまい、紙面は小さなガリ版に刷りになった。

 いま私たちがモスクワやキエフの空港へゆくと、イン・ツーリストで現在の日本の 9ポよりすこし大きい五号や、8ポより大きな旧六号で印刷された日本語の岡田嘉子著やいろんな本を、いくらでも無料でくれるが、あれは二十四年前に新聞社や新興亜 印刷から、もっていった活字の字母で刷られたものである。やがて十月。いまは粛清され又復活したとも伝わる中共故朱徳司令官が進駐してき た。すると休刊していたガリ版刷りがまたしても発行されだし、 「日僑(日本人)はその前非をくい、おおいに勤労奉仕をせねばなるまい」というのが発布されたのはよいが、さてそれから、 「何月何日何処彼処には日本人誰某が何々を盗んで検挙された」 、「何月何日、日本人誰某が詐欺を働いた。怪しからぬことである」。ラジオも新聞も、連日、日本人の声や筆で日本人への攻撃にあけくれした。十一月に入って中共軍撤退国府軍進駐の知らせが、秘密裡に洩れてきて、いわゆる、 「日軍決死隊」が組織され、雪の降る朝。奉天警察総長を初め各地を襲撃した時、 「憎むべき日本人暴徒を、吾々日本人の手で捕らえるか、又はもよりの警察へお知らせ下さい。そうしないと日本への帰国の望みは絶たれるかも知れません」。ガリ版新聞と日本人向けラジオ放送は、こればかりをくり返し、しまいには、 「密告された方には報奨物資を、寛大なる当局のお取計らいにて差しあげます」とな った。私は当時(遼陽芸術協会)なる腕章をもらい、旧満映の吉田秀雄に脚本書きをさせられていたが、上演料は一文も渡されず、あべこべに密告される羽目になった。しかし、のち北春日大隊をおしつけられ、二千余人の女子供をコロ島から博多へつれ戻ってきた時、引揚船の中に事情を知っている女性がいて、私が密告され逮捕された時の報奨が、粟五斤だったときかされた時には、さすがに呆然とさせられたもので ある。

 もちろん、これらは外地での話だが、当時日本内地でも、進駐軍に対して、 「あなた好みの、あなた好みの日本人になりたい」といった向きも多かったそうである。そこでもし、改めて今どこかの国から進駐されたら、いや現実にはもうチェコなどより、ずっと早くからいるのかも知れないが‥‥。 日本の放送局や新聞は、プラハのように、民族のためにと必死になって‥‥はたし て、 「チェコ国民に告ぐ。われわれがついている」と声援してくれるかどうか不安でならぬ。 なにしろ国民性というものがあって、「統治しやすい国民」と、「そうでない国民」。この二つは厳然と分かれているという。

 さて日本人もかっては勇猛果敢であったそうだが、二十六年前のマッカーサー進駐以降は、 「きわめて従順」という折紙がついている。口の悪いアメリカ人などは平然と、「キ ャトル」つまり家畜だとさえ放言する。異邦人に占領されて以来、一度もレジスタンスしない国民というのは、世界史上ま ことに珍しいそうで他に例もないという。つまり宇佐美日銀総裁でさえ、「公定歩合引上げに関する談話」で、 「わが国の戦後の経済成長はアメリカの余慶である」と発表し、歌舞伎俳優の阪東三 津五郎丈までが、その生前には役者子供とはいうが何かあると、 「おうアンポ」と、アメリカさんのお蔭ですといいだす。もちろん何をいおうと各人の自由だが、こういった従順性というのは、対外的にどういう影響を与えるものだろう? 「異人種が占領国住民を統治しようと思っても、反逆精神がオウセイで、とても手が つけられぬ」ような、そんな国土なら、何も好んで厄介な進駐をしてくる軍隊もなかろうが、 「きわめて国民の資質温順なり」となると、 「そうか、そんなに扱いやすいのなら‥‥」。あちらこちらから希望する向きが殺到、またも、早ばやと重戦車を陸揚げしてくる 恐れもある。

 この二十六年前に築いてしまった従順という信用が、やがてとんでもないことになりそうな気がする。その時には、マスコミの人が、チェコなみに頑張ってくれることを願うが、 「日本人は家畜なみではないんだ」 という抵抗運動も今ではオキナワにあるから、あれがもっと対外的にアッピールすると、 「うるさい国らしい」と吾々は助かるかも知れぬ。そうなると苛められている彼ら沖縄県民こそ、真の愛国者ということにやがてなりかねない。

 ああ湊川神社 
 体制、反体制というのが当今の流行語らしいが、こんなに漠然とした意味合いもない。 『戦国鉄仮面』を書くにあたって、とっておきの楠木資料を全部使ったが、 「楠木正成が1331年に河内に挙兵」。今でいう解放地区をもうけ、千早や金剛にバリケードを作って、砦の思想をうたっ た時点においては、<梅松論>に、 「暴徒とみなし六波羅より討伐に向かう」とでているから、これは反体制であろう。 しかし三年たっての建武の中興がなると、初めて正成は御所に召されて、いわゆる 体制側になったが、それも僅かに二年。1336年に湊川で討死。やがて楠木正行も四条縄手で戦死し、ここに楠木一族は、 またしても反体制側となってしまう。

 さて織田信長の頃になって、山科言継を経て楠木甚四郎なる者より、 「楠木一族の賊徒汚名を御免願上げのこと」というのが正親町帝に銭百疋(千文)の手数料をつけ、観修寺卿を通じて出され、 「その儀さし許しのこと」1577年6月付け女房奉書で許可にはなったが、当時は官報や、内閣総理府よりのお知らせなどはなかったから、一般には普及していなかっ た。

 それから一世紀余たった1692年。徳川五代将軍綱吉の元禄五年八月に、水戸光圀が高さ50センチ位の石碑で、 「嗚呼忠臣楠子之墓」というのを建て、ここに初めて、大衆の間でも、 「アア忠臣だったのか」となったらしい。しかし現在の湊川神社は、幕末に尾張の田宮如雲が、薩長勢力に押し出された時点 において、あれは造営されたものである。なにしろ彼は王政復古に際し、主君の慶勝を、 「議定」自分は「参与」となし、やがて、 「京都及伏見の民政総裁」にまでなった。もちろん初めは尾張六十二万石の家老なので、軽輩の西郷隆盛や木戸孝允あたりより、信用も金もあり、朝廷では幅をきかせていた。しかし薩人や長人が尾張勢力などをいつまでも放っておくわけがない。維新の大業がなる迄は、祇園や島原の勘定を尾州京屋敷にもたせ、ただ酒をのんで、 「尾張名古屋は城でもつ」などと、おべんちゃらをいっていた浮浪の志士たちも、やがて用がなくなると、 「尾張も朝敵徳川の一味、追っぱらえ」。薩長の尻馬にのって排斥運動をはじめた。

 こうなると安政元年に皇居炎上の際、再建築用の不用敷地を買収し四百坪を献納したり、その用材に木曽山の桧を奉ったことも、みな帳消しとなってしまった。姻戚にあたる近衛家などが、いろいろ奔走したが、時は五摂家などの世ではなく、 公家としては最下位の七十石正味二十八石どりの岩倉具視が、薩摩と組んで朝権をほ しいままにしていた時代である。やがて明治革命が成功すると、ついに田村如雲は京を追われることとなった。そこで、 「楠社造立之儀、もっともに思召され候。ついては、おもむきの趣旨を御採用遊され た。よって今度兵庫表に楠社造立を改めて仰せ出され、これを申出人に命じられ候のこと」。太政官布告が尾張の徳川慶勝に明治元年四月二十八日付けで出された。ということは田村如雲が、薩長に追われて京を去るに及んで、 「ひとつ置き土産に、湊川へ、楠木神社を造営して残したいが如何でしょうか」 と伺いをたてたのに対する、 (王政復古の今日、正成の神社造営は、お上におかせられても、建武の中興につぐも ので時宜が適したことと考えられた。そこで申立てた者にその造立方を特に許す、有 難くお受けしろ)との伝達である。

 しかし尾張家は土建屋ではない。工事許可を貰ったところで自腹 をきるのだから、儲かるような話ではない。岩倉具視あたりの考えでは、 (元禄時代に水戸が小さな石墓をたてたのに対し、やはり御三家の一として、尾張も、 お稲荷さんみたいな鳥居でもおっ立てるのか) と許可したらしいが、さて出来上がったものは、街道よりに面した、今日のあの大規模な立派なものである。そこで、 「さては徳川宗家のために、朝廷のお恵みあらんことを乞い願い、また尾張徳川家にも余慶あらんように考えて、かくは立派なものを造営したのであろうか」ということになった。そこで慶勝が六十二万石を返還すると、改めて、 『賞典禄一万五千石」を下しおかれ、それまで正二位だったのを従一位に昇進させた。もちろん田村如雲に対しても、しかるべきお沙汰はあったのだが、何故か如雲は固 辞して受けず、ようやくその孫の代になって、 「朝廷の恩恵にそむくは怪しからぬ」  とせめられて、ようやく男爵位をうけたが、やはり一代限りで拝辞している。だから彼は、やがて『滅私奉公の鑑』とされ、 「田村如雲こと弥太郎は桂園と号し、本姓は大塚。尾張名古屋町奉行五百石の田村半兵衛の養子となり、天保三年よりはその跡目をつぐ、その学識一世にきこえ、長州人 吉田松陰ら門下多し。長州征伐の命が徳川慶勝に下るや、如雲は伴しておもむき、松 陰を慶勝に目通りさせ双方の橋渡しをなし事を計る。のち明治三年正月、京より戻るや尾張の執政をしりぞき東山道太田におもむき、北地総営となり明治四年四月、死去 にのぞみては、甲冑に身をかためて埋葬せんことを遺言す」  といった<尾張勤王金鉄党録>もある。  

 さて吉田松陰が死んだ後とはいえ、その門下の桂小五郎や大久保利通から冷遇され、 かつては、(松陰の師であった如雲)が、そのままあっさり京から追放されたのに、 しかも置き土産に、河内の楠木正成のため大きな神社を何故造営までしたのであろう か。これは‥‥名古屋市東区赤塚に田宮の子孫は現存しているが、死語焼却を命ぜられ ながら、秘かに残されて伝わる<桂園日録>によれば、 「勤王ばやりの時代ゆえ、西国より入洛する者は、桂小五郎や薩摩の西郷吉之助も、 みな下馬して神前に額(ぬかず)かねばならぬ。よって余は盛大に社をいとなみ、そ の神殿に殿さま(慶勝)の写真を納めしところ、其方のものもと仰出され、己が似顔 絵もいれた。よって薩長の者は湊川においては、わが殿に拝礼し叩頭せねば上洛でき ぬ事となったのである」とある。  昔の尾張の殿さまは、なかなかに、粋な仇討ちをしたもので、田村如雲が押しつけ の恩命を拒んだのも、それなりの理由がある。だが、このレジスタンスは、 「吉田松陰の師が田村如雲だった」ことさえ知らぬ者が多いから、当主田宮正美氏の 諒解をえて、ここで発表するのが初めてでだろう。 ひきつげ反逆根性  さてレジスタンスといえば、凄いのが楠木一族である。楠木正行の弟の正儀までは、 『太平記』にもでてくるが、事実は、かつての軍部が国民精神作興のため、 「楠木一族ことごとく玉砕」と歴史家に書かせたような、あんな生やさしいものでは なかった。  

 なにしろ日清の役はよかったが、日露の役の203高地戦で相手は機関銃で撃ちま くってくるので、 「なにがなんでも、召集兵は死なせるしかなかろう」という結論がでてしまったので、 その後は、 「死んでくるぞと勇ましく誓って家を出たからは」と流行歌にまで唱われるようにな った。  つまり、玉砕こそ名誉ある崇高な死という考えそのものが、国民教育の眼目となっ た時点から、楠木一族もそういう事にされてしまったらしい。時代の都合によって日 本歴史はくるくる変る。  

 しかし楠木正成、正季の末弟の、 「楠木正式」は生きていて、河内東條城に後村上帝を奉じ、甥の正儀や和田正忠と共 に足利勢に攻められるや、帝にも甲冑をきて頂き、四条隆資ら側近は討死したが、無 事に賀名主まで、正式は全身針鼠のように矢を射こまれながら供奉申し上げている。 『花営三代記』や『後愚昧話』にはその後、長慶天皇が御即位されると、後亀山天皇 派の楠木正儀は北軍に降伏したが、和田正式ら正成の甥共はあくまでも南軍にあって、 正儀と戦っている。のち弘和二年には、その正儀も南軍に戻ったが、その倅の、 「楠木正秀」が和田正高ら楠木一族と共に、大和にあって北朝の粟をはむを潔しとせ ず砦をつくって頑張っていたのは、 『史籍集覧』に入っている『十津川記』にあるが、これはもう足利義満の頃での話で ある。  

 さて金閣寺を造った義満が死ぬと、1408年の応永十五年のこと。吉水院文書に、 「上野宮が朝敵となり申し、このため河上三郷村は責をおわされ、伏降参列」とある。  上野宮というのは、御亀山帝のあとの説成(ときなり)親王さまのことである。  吉野吉水院は御醍醐帝の姫がご降嫁された寺で、ここに楠木一族い奉じられて、 「反逆」の旗をたてられたが、戦い利あらず、三村の者がそれに連座して罰せられた のだという。  さて上野宮の御子円悟は円満寺門跡とされて、妻帯を許されずここに血脈はたえた が、上野宮の孫にあたられる小倉宮泰成親王は秘かに山中に隠れておられた。よって、 「満済準后日記・正長元年七月八日」に、 「小倉殿(南方)昨朝御逐電」  とある。この宮は伊勢の国司を願って、楠木党に奉じられ、逃避行されたのだが、 「安濃郡岩国(現在三重県津市)にて、美濃守護土岐持益の軍勢に破られ」 と『薩戒記』にはあり、南朝の血統をたつために、やはり僧にさせられ、万里小路時 房の、 『建内記』の同じ1428年10月の状にも、 「玉川宮(長慶帝の御子)がやはり寺へ入れられている」といった模様がでている。  いくら楠木一族が正成が湊川で討死してから頑張っても、その後七十三年間の歳月 に、持名院統以外の南朝の皇統は、足利政権によって、反体制として葬りさられてし まったのである。  そこで「看聞御記」の1429年9月18日の条になると、 「室町殿(足利将軍義教)東大寺の蘭奢待香を切りとるため奈良へおもむく。雨天な り。ところが僧衣にて門にかくれ居りし楠木五郎左衛門光正単身おどり出て天誅と叫 び刺さんとす。ならず捕われて京へ引きたてらる」 「同二十四日。晴天。召捕られし楠木今夕六条河原にて首をはねらる。楠木党の来襲 を恐れ侍所(赤松)所司代番衆紺色装束に楯をみな揃え、その数六、七百人警戒して 取りまく」  まるで今日の機動隊の規制の情景のような記載が、伏見宮貞成(さだふさ)親王に よって、今日にまで書き残されている。  なお1437年8月6日のその日記には、楠木光正の弟らが河内に挙兵。  畠山持国が室町御所の命令で出動し、その楠木兄弟を捕らえて殺した旨もでている。  こうして並列して買いてゆくと、きりがない位に、楠木党の反乱の歴史は続く。 「戦国時代」に入る応仁の乱の終りの頃。  山名宗全が、文明三年(1471)に奉じようと、女装にて迎え奉った小倉宮御孫 一品親王さまを守り奉らんとした楠木正憲を、私は『戦国鉄仮面』に書いたが、この 年代は湊川で正成が討死後、実に一世紀半後なのである。  最近の歴史家は、楠木正成を、 「悪党」「土豪」と解釈するが、もしそんな存在にすぎなかったら、子孫や郎党の裔 までが、百五十年間も反逆し続けられる根性を、ひきついでゆけるものだろうか。  また三国干渉に対する復仇の為、頭山満翁が桃中軒雲右衛門に作らせた<義士伝> の、<花は桜木、人は武士>式の、いわゆる、 「パアッといさぎよく散れ」と、説く玉砕精神に当てはめるための、 <青葉しげれる桜井の>といった小学校唱歌による既成概念も頂けない。  楠木一族の一世紀半に及ぶ反体制蹶起は、仏教や神道ではない<天朝教>といった ような、宗教的色彩をおびた信念によるらしい。が、今となってはガタがきているら しい。  だから、チェコのごとく、ある朝突然にキャタピラをならし重戦車隊が入ってきて も、「われら日本人」として日本国土を、日本の憲法を、しっかりと守りぬきレジス タンスを続けてゆける根性こそ今や吾々には望ましい。                 

 われらの造反 学術文化の浪花節 「TVガイド」という小雑誌で『天と地』の演出担当ディレクターの岡崎君が私に対 して、 「かなり前に岐阜から聴視者の老人が長距離電話をかけてき、謙信は女だという云い 伝えがあるとうるさくいってきた。どうもその爺さん頭がおかしいようだと思ったけ れど、それと同じように論じちゃ失礼だが‥‥」と、いうような言い方をし、ついで に、 「謙信が不犯だったのは肉食妻帯を禁じていた真言宗への深い帰依だったのを考えぬ か」  とまでやっている。私はNHKのディレクターで立派な人も沢山知っているだけに、 こういうのには呆れるが、NHKは一般から視聴料をとっているのだから、そこの禄 をはんでいる限り、公共事業の職員として同君は私にとやかく言うのは許せるが、親 切に長距離をかけてきたという年寄りを、そんなキチガイ扱いなどしてはいけない。  

 もちろん私の場合は『血戦川中島』の後書においても、 「四年間にわたって謙信が女人と解明したのは、以前には誰もしていない前人未踏の もので私がなしとげたライフワークである。とはいえこれによってゼニを儲けている 連中からは好かれんことは見えている。こうした労多く効少ないことは利口な人のや らない事で、私みたいなバカ者が、<真実とは何か>という手掛かりをつかむため一 つの試みとして根気よく追求してみた迄である」  との自嘲めいた附記もはっきりつけている。だから岡崎君なるものが、 「八切はばかだ」というのなら私は何もいわない。しかし八十歳の年寄りがわざわざ 局へ電話をかけてきたというのに、 <頭がおかしい>と公言するのはどうだろうか。親切な老人は敬し尊ばねばいけない。 また岡崎君は真言宗もろくに知らないらしい。勉強不足である。だが上杉家が高野山 へ帰依したのは江戸期の元禄事件の後からのことである。  

 なにしろ日本では、正しいとか正しくないとか対比決定が、常識や状況で判断され ずに、「権力」によって決められるから困る。とはいえNHKは裁判所ではなく岡崎君も判官ではないはずである。なお、ここまで書くのは気の毒だが、高野山には各塔頭ごとに訪問者の名を何百年 にもわたって記録されたものが残っているから、元禄年間から初めて仏縁をえたこと はそれを調べてみても判る。  また謙信が詣でているのは真言宗ではなく天台の延暦寺で、宗旨も<七福神法>な のである。 『血戦川中島』についで刊行された『利休殺しの雨がふる』、解明の先端をきってく わしく、読売新聞に連載した<謙信は男か>も入っているから、その差違をよく読んで欲しい。  

 さて話は違うが私の許へもよく七、八十歳位の方から電話を頂く。そして、これま での通史とは、まったく反対のことを、 「代々の口伝えだが、わしには書き残しもできぬから聞いてほしい」と、いうお頼み なので、録音にとらせて貰ったり、その異説の裏づけとなるものを、現地までとんで 行き拝見したりしている。  こうしてみてゆくと、活字になっている正史とは別個に、まるで北海道のユーカラ みたいな口伝の歴史というものが、根強く語り伝えられているのが判る。これは機動 隊と学生が衝突したような場合、後になると双方の事情説明が違うようなもので、権 力者は自分の都合のよいように発表しこれが歴史となり、負けた方は口惜しいから、 いいつたえで、 「真実はこうなんだ」と残しているらしい。  だから私の場合も、講談みたいな通俗史と違うからと、居丈だかに気違い扱いされ ては堪らない。  

 さて某局の教養番組で、 『大坂落城』をみたら、旭堂南陵がまず画面に現われ、大坂夏の陣の一席を伺い、そ して、このよき芸人は淡々としてその後で、 「東京でやる時は、秀頼は死なせます。が地元では殺さんと、秀頼薩摩落ちというこ とにせな、お客はんが承知しまへんよって使い分けでやってま」と楽屋話を画面でし ていた。  講談とはこういうものである。それをはっきり言ってのけるのはよいことで感心し た。  しかし、この講談が作家の手にかかると、内容はそのままなのに、きわめて真実そ うに化けるところに問題があり、それに便乗して史料さえ手作りするような、太鼓も ちの歴史家まで出てくるからややこしくなる。  

 なにしろ今日の日本史は明治製で、頭山満が軍部のために、桃中軒雲右衛門に、三 国干渉への国民の復仇心をアジるため、 「花は桜木、人は武士」といった美文名調子をつくらせた時代にできたものだから、 「浪花節や講談」がそのままナチュラルに、歴史の仮面をかぶって今もまかり通り、 頭の固い人には既成概念となっている。そしてテレビの大河ドラマが今や正史である。 なにしろ前年十一月三日の文化の日に「学術文化振興のため」と勲何等かの勲章を 浪曲師寿々木米若に授与されるようなお国柄なのである。

 足利氏と明国の秘密
 足利義満は、「日本国王臣源道義」と書いた国書を送り、さながら明国に仕えるが ごとき形だった。その後の将軍義教の時においても、 『満済準后日記』という藤原師冬(もろふゆ)の子で、義満の猶子(ゆうし)として 三宝院二十五代目の座主となり、その当時、黒衣の宰相とよばれていた人の日記をみ てみると、永享六年(1434)五月十二日の条には、 「唐朝書(明国書)を明人が捧げ持ってきたら、机の上において貰って、わが方は全員礼服に身をかためその前に整列して、まず汚れを払うために御焼香をしてから三拝。 将軍は跪(ひざ)まずき膝行して、その書面を頂かせて貰うのが、応永九年九月に義 満公が、明国の勅使を迎えたときの作法であった」 とのべられてあり、翌六月三日の欄には、 「将軍義教公は明史を迎えられるのに、階(きざはし)の下までにじり降り、そこか ら拝礼しつつ膝行するのはやめにしたいと仰せられたが、明国使は、それでは宣宗宣徳帝に対して不敬であると、いくら頼んでも言下に斥け承知しなかった」旨の記載が あり、「六月五日」の当日の条では、 「公卿は四足門に平伏、楽人は総門で演奏。明国使は中外門より殿上人に迎えられて入り、将軍は曲録(椅子)をすすめ、己れはその前に座って焼香、つづけて二拝して から明国書を頂けり」と、その明使接待の情景がでているが、足利氏はなぜ明国への追従外交にあけくれ していたのだろうか。散々に交渉したあげくが、三拝する処をニ拝にまけて貰ったき りで、足利義教もいやいやながら膝で這って明の使者に近より、香をあげて拝むなど、今では想像もつかぬ事だが本当らしい。  

 これでは史家のとく、 「足利義満は明国との通商の益を得るため、やむなく文字の上だけで臣下と名のったにすぎぬ。つまり現代風に解釈するならば、名を棄て実を取ったのである」といった説とは余りにも、裏肚に違いすぎるようである。しかし、そうはいっても、足利時代に明国から攻めこまれかけたり、または、その以前から日本が占領されていて属国扱いされていたという証拠もない。となるとこれ は、足利氏だけにしぼってみて、何か明国と特殊関係があって、文字通り頭の上がら ぬような義理があり、足利氏は代々そのために、天に陽があるごとく明国へは義理はつくさねばならぬと、室町御所の主であり、そして、 「征夷大将軍」とよぶ当時の最高権力者の身が、いざりのように這って明国の使に拝 謁を賜っていたのではあるまいかとさえ、どうしても勘ぐりたくなるのを押さえよう がない。となると、この問題は足利義教の頃や、義満の代より遡って、どうしてもその始祖まで考究してみなくてはならぬし、また足利氏というものを根本的に洗う必要もでてくる。

 さて、そこで妙なことは、足利氏たるや、「源」を名のって、代々等持院で火葬を いとなんでいるが、どうもそれは治安上の政治的配慮からの処置ではないかとも思われる点がある。という理由は足利義兼が、その子義氏に三河吉良の庄を譲って、のちの吉良氏(吉 良上野介の先祖)を立てさせたとき、 「この笹竜胆の白旗は源家重代の旗というが‥‥足利家には不用の長物。しかし其方は遠国へゆくのだから、もしもの用心に呉れてやる。万一の際にこの旗を立てれば、 思いがけず味方する者が現われ来って、危うき場合にても助かるであろう」と渡した という話がある。だから足利氏にしろ吉良氏にしろ、その分家の今川氏といえ、いくら表向きは「源のなんとか」と取り繕っていても実際は違うようである。足利尊氏側近の武将の書い たものといわれる『梅松論』の中でも、これはそれとなく、 「大友氏が足利氏に準じて『源姓』を称するのは、もともと中原在にて、藤原氏の大友の荘を相続したる者なれば、これはその系図を故意に、源頼朝の落胤などと作りしゆえの牽強付会なり。○○同様に源にあらざればなり」となっている。但し○○の欠 字の一行は、群書類従本には入っていなく、慶長本のみである。  

 さてそういう眼でみると足利氏には変なところが多い。足利高氏が摂津で敗北し、都落ちして西下するとき、 「忠節もっとも神妙なる相従い奉る船は三百余艘、播磨の灘に並びたり」と出ているが、その数行前の『梅松論』の記述たるや、 「これまで供奉仕りてきし一方の大将の内、七、八人は引き返さんとす。この輩はみ な関東の武将にて、これまで歴戦の功績をたてし者らなるが、しかりといえども御方(高氏)敗北とあってはやむなく、いつしか旗をまき冑をぬき、笠印(足利方の)を とり、みな部下を率いて、とぼとぼと戻りゆく有様。その心中こそ哀れなりけれ」 なのである。これをみると播磨灘には足利氏をエスコートする海軍が三百余艘きて 待っていたが、何故か上陸して戦わず‥‥そこまで足利氏の伴をしてついてきた、関東を主な出身とする陸軍兵は、(乗船して西国へ行くのは困る)と、取って返して捕 虜になりに戻って行ったというのである。 「関東の将兵は船に馴れていないから、のったら船酔いして困るからだろう」という味方もあろうが、これまでの戦功を無にして、それまでの足利方から離れて いったのは、その海軍が、彼らにしてみると馴染めぬ軍勢で構成されていたのではあるまいか、といった疑問も生じてくるのは無理だろうか。

 というのは、これより半世紀前の元寇はよく知られているものの、この南北朝時代の日本へも、朝鮮半島から何度も兵船を連らねて来攻のあった事が、日本史で伏せられているせいではなかろうか。 『高麗紀』という朝鮮史料には、これは、はっきりと、 「慶尚道海師元帥朴蔵、水師営金宗衍、壱岐対馬を占領のため軍船三百差しむけ、歴戦の末、わが国の勝利となる」とでている。といって、これまでの日本史には足利高氏の時代に、朝鮮からの来攻が有った事は 勝った負けたは別にして何も出ていない。が、もう一度、この間のことを振返ってみると、 「足利高氏西下、鎮西(九州)へおもむき、すぐ西国より攻め上る」。まるでシーソーゲームのように、足利氏というのは、負けるとさっさと艦隊に収容 されて西下し、すぐにまた勢いをもり返しては海路をとり、京へ攻めこむというのを 何度もくり返している。だから西国から九州までは足利氏の地盤のような気もするが、すぐ兵を何千何万と集めて短時日に戻ってくるというのはあまりに可笑しすぎる。

 足利高氏が死んだのが1358年(正平十三年)で、その三十三年後の1392年 七月に、高麗王は李成桂に滅ぼされ、朝鮮国となるのだが‥‥もしも足利高氏をバッ クアップしていた西南海上の幻の艦隊が高麗の慶尚道艦隊だったと仮定するのなら、 その七年後の、 「応永の乱」の勃発したすじも、成程と判り得る。勿論、日本史では、 「中国地方六州と防長ニ州の八ヵ国を領する大内義弘は、その前々年金閣寺造営を手 伝えと命令されてもきかず、前年八月に朝鮮より朴敦元が国史としてきたとき義弘の 挙動が、どうも怪しかったと管領畠山基国が云いふらしたのを憤って叛乱せしもの」というが、大内氏は淋聖太子系といわれながら、漢族との繋がりがある。だから新興朝鮮の使が、大内氏へ打診にきたのは、旧高麗国水軍が足利氏の庇護をうけ、瀬戸内海に匿れているのをなんとか取り締まらせようと、この年に即位したばかりの明の 建文帝の意志を通しにきたものとみるべきであろう。『応永記』や『足利治乱記』によれば、その戦況は、 「堺の町の十六町四方に井楼四十八をたて、矢倉千七百二十五個所を急造し五千の兵で守らしめた」と伝わっているが、山口県の大内義弘が泉州堺にたてこもったというのも、当時こ こが明国との港になっていて、向こうからすぐ応援にくるものと、それを計算に入れての事だろう。しかし、このとき援軍は来ず、当てがはずれて大内氏は敗死したが、応永二十六年 (1419)六月二十日には、北鮮韃靼(だったん)兵一万七千二百八十五人が、李従茂の率いる二百二十七艘の艦隊に分乗して日本へ来襲した。 『看門御記(かんもんぎょき)』(伏見宮貞成(さだふさ)親王さま日記)によれば、 「唐人襲来、既に薩摩の地にとりつき国人と合戦を始めているが、唐人の中には鬼のごとき者も混じっていて、人力では攻め難いのに、次々と増えてきて八万艘にも及ぶ 由が御所へ注進されてきている」とでている。  

 かつて、源氏を倒した北条時代に元寇があって、その北条を倒した後の足利義持の 時代ですら、またも襲われたというのは、 「足利氏も北条氏同様に、非源氏系、つまりツングース北鮮系民族ではなかったこと」 を、これは意味するのではあるまいか。なにしろ足利高氏の頃は、さも本当らしく、 「自分らは、源族だ」と高麗船団を利用し手伝わせていたが、その高麗が滅ぼされ新 興の朝鮮になると、時勢は一変して、 (どうも怪しい)と使節が調べにきたりしている内に、大内氏の叛乱がすべてを明らかにしてしまった。そこで、足利氏としては、もう明国へ頭が上がらなくなってしま い、その討伐を恐れるの余り、臣従して、焼香をしたり三拝九拝して明使を迎えるような態度をとったのだろう。 「神軍奇瑞」といった願文をあげてはいたが、当時の足利体制は元寇の時のように、 また神風が吹くといた偶然性はあてにせず、ただもう堅実に、 「長い物にはまかれろ」と、いいなりになって向こうを刺戟しないように、懸命の努 力をしていたように思われる。追従外交どころの騒ぎではなかったらしい。

 八幡(ばはん)船はでっちあげ
 「応仁の乱」の終り頃に全国的に起きた土一揆、徳政一揆の暴動によって室町時代は 最後を遂げたものとされている。が、 『宣胤卿記』(中御門宣裔の文明十二年からの日記)に、 「当時政道これすべて、御台(みだい)の御沙汰なり」とでてくる日野富子夫人が、 内裏修繕を名目にして京へ入る七道に関所をもうけ、各地から京へ入ってくる物資に 税をかけ、人間にさえ通行税をかけたのが、「物価値上り」の元兇とみられている。それゆえ、いわゆる打ちこわしに集まった生活難の暴徒が、文明十二年(1480) 九月に東寺へひとまず集まり、そこから北白川へ群がり出て、そこへバリケードを築 き今でいう解放区をもうけ、 「七道」の衆とよばれた関所番人と一つになり、牛車を仆して片っ端から火をつけて 廻って、掠奪をほしい儘にしたため、なんとも収拾がつかなくなり、 「戦国時代」にと、やがて移ってゆくとされているが、 「足白」または「足軽」といわれたり、一条兼良の日記には、「悪党」と書かれてい たこれらの暴徒は、いったいどんな人間だったのだろうか‥‥  それに「徳政一揆」というのはモラトリアムだから、原則として、 「借金のある側が、その棒引きや延期を求める」ものなのである。  

 だが、よく考えてみると貧しい難民や百姓はいくら借りたくても貸してくれる所が あるわけはない。つまり庶民が借金できたり、信用がないのに棒引きにする程、借財できるなどとは常識的には考えられない。だから、これは年貢を先取りしてきた荘園 の支配人みたいなのが、 「先に何年分か取り上げたのは応仁の乱での物入りの為じゃった‥‥あの分は徳政と して棒引きにし、今年からまた新規に納めろや」と布令したゆえ騒ぎになったのでは なかろうか。徳政とは民に徳でなく、足利体制に得だったのと逆にも想える。 足利義昭まで十五代も続いた足利体制なのだが、それ迄なんとか支えてこられたのが、実力というより、その実どうも明国の後楯だったらしい事に気づくと、これ迄は なんでもなく見過ごされ教えられてきた事も怪しくなってくる。 『満済准后日記』の正長元年(1428)九月二十二日の条に、 「今川上総守(憲政)が駿河へ下り候うの用意をされているが、関東の大名の中には <白旗一揆>の徒も混じっていることゆえ、お気をつけなされ、もし戦などに使う事があっても、それらは使い棄てにて苦しくないものであるとの、注意を受けられた」 旨の記載がある。この<白旗一揆の徒>という呼称は、足利体制下における、 「原住系の民の別所連中と、今ではそれに合流している源氏の末裔。そして、かつて 足利勢に逆らった楠木党や新田党の徒輩」をさす。 源平合戦の昔から、彼らは事あるごとに、 「白旗」をたてて、わいわいやっていたから、一揆とそれを軽くいなして呼んだのであろう。  

 さて明国に臣従の形をとっていた足利氏は、仏教をもっての人心教化方策として、 片っ端から、ナミアミダとやらせていた。ところが白旗党余類の中でも騎馬民族系は、それに対抗して韓(から)神さまを信仰し、 白頭山でも偲ぶのか、加賀の白山さまを各地に勧請。それより古いヤバダイ系や八は た系は、土俗八幡の祠を作り、その辺りに、シャクテイ女神に仕えるごとく、男性の ものに似た陽石を並べ、これを「道祖神」としてまつった。もちろん地域別に、ビシャモン、フクロクジュといった七福神を信仰の対象とする 部族もいた。だから鎌倉中期に一遍上人がひらいた浄土宗の一派である時宗は、そうした異教徒を有難い仏教へ転向させるため、室町時代になっても布教して廻り、これを当時の言葉で、 「はちひらき」といった。土着の日本原住系の民に、当て字は色々とあるが、八、鉢、 蜂、羽地、といった蔑称があったからである。もちろん、これに対する異説としては、松下見林の著などによれば、 「異民何も知らざるをもって、渡航の華人これに呆れて、ぱあなりと八の字を与う。 これ一ニ三四の八の音が、ぱあなればなり。しかるに負け惜しみなるか、八は末広が りにて縁起よき文字なりなどという。しかれども<忘八>などというごとく華国にて は、これ蔑みの語なるを知らぬもののいいなるべし」などというのもある。山中にとじこめられていた別所者の彼らが、インディアンなみに山頂で煙の交信をするのを、「蜂煙」、「蜂火」と書いて「のろし」、また彼らの決起を、これ「蜂起」 というのも、意味があるのである。

 さて、『今昔物語』の中などには、 「いぶせき小屋に迷い来りつるものか。あな恐し餌取りの住み屋にや」などと出てく るが、それまで山奥にいた「八」たちも、応仁の乱の人手不足から、人買いの手で集 められてきた。  山中を駆け廻って獣のごとく生きてきた者達ゆえ、足どりが軽いから「足軽」とか、 陽やけして黒いが足の裏だけは人間なみに白いから「足白」の蔑称がつけられた。つ まり応仁の乱で集めてこられた中で、辛うじて生き残った者も、戦後になると簡単に 追い払われてしまったため、食ってゆけず、 「やってこまそ」と仕方なく、徒党をくんで始めた一揆が、京周辺から全国的に波及 したのである。つまり、裸一貫の連中が借金できたり、信用貸しで物が買えるわけもないから、モ ラトリアムの徳政一揆というのは間違いで、彼らは徳政反対の一揆に参加したのであ る。

 さて、それまでにも、そうした原住系が足利体制側に仕えて、なんとか働かせて貰お うとすると、今でいえば洗脳だが、当時のことゆえ、 (中味よりも人は見かけが肝心だ)と、まずその頭を坊さんなみに、くるくる坊主に させてしまってから、その名も、「何々阿弥」と抹香臭く改名させたものである。しかし、うっかり武器など携行させ、造反されては厄介だからと用心し、彼らには、 「生花」「茶湯」「謡曲」といった仕事を課した。今日いわゆる芸事の始祖の名がみ な「本阿弥」とか「光阿弥」といったようになっているのはこの為なので、日本の文化は原住民製である。

 また足利時代の謎の一つは、なんといっても和寇である。 「南北朝争乱に志を得ない不逞の徒が一葦の軽舟に乗じ、北は朝鮮海峡から南はアモ イ台湾の南支那海沿岸まで掠奪せり」  といった事になっていて、明国の『籌海図編』の永楽二年(1404)の条に、 「日本首(王)先に款を納め、わが国辺境を犯せし二十余人の擒を献ず」。つまり足利政権は明国の命令で、それらしい二十余の首を斬って直ちに献擒した、 という向こう側の記録である。だから日本の歴史家は、南支那沿岸まで、 「八幡大菩薩」の旗をたてた小舟が荒しに行ったものと考えて、これを昔から今日ま で誰一人として疑う者すらいない。しかし焼玉エンジンやモーターのなかった時代なのである。そこまで交替で漕いで いったとでも考えているのだろうか。いくら人力で漕いでも、南支那海と日本との間は、冬は向こうへ吹いてゆく季節風 があるから、その黒汐にのってゆけるが、これが逆の季節ではなんともなるものでは ない。だから常識的に十二月から二月まで吹く、その季節風に送られて南支那海へ行った ものであるなら、彼らとて生身ゆえ、何か着ていないと風邪をひく。処が絵では、 「赤褌一本のみな裸体の儘である。 そこで、もし裸のままで行けたものとみるなら、それは風向きから考えても、逆の方角、つまり南支那海に面したベトナムか、マレー半島を考えねばならない。また、 「八幡船」と書いて、「バハン船」と読ませるのも、呉音でも漢音でもない。これも 変である。 しかし、もし世界地図が手許にあれば、マレー半島つまり現在のマレーシア連邦を みればよい。今でも南支那海に面している州の名は、 「バハン」なのである。そして四百年前の『バタビヤ日誌』の地図でみれば、マレー シア連邦全部が、「バハン土候国」なのである。 命名の由来は、オランダが同地を占領するまで、つまり足利時代から徳川初期の頃 まで、そこはポルトガル人のバハン公爵家が、ベンハーの丘で統治をしていたという のである。だからポルトガル人が、バハンから南支那海を襲わせていたのが、 「バハン船」で、明国もそれをよく知っていたが、ポルトガルは恐いから、なんでも いいなりになる日本へ文句をつけてきて、足利政権は白旗党を捕え、その首をとって 送っていたのだろう。  

 なにしろ、ああいう小舟は捕鯨船のキャッチャーボートみたいなもので、すぐ後方 に母艦がいて飲料水や食物をつみ、また収穫した掠奪船をすぐ積み取ってやらねば仕 事にならぬから、ポルトガルの軍艦もバハンからずっと同行していたのであろう。とはいうものの、世界中どこへ行っても、己れの国が平気で泥棒をしたと認めてい るような国は、まああるまい。しかも間違えて‥‥まして「海国日本」などといわれながら、海流、潮流や貿易風、季節風を、もうす こし小学校でも詳しく教えておけば、とうの昔に、八幡船の謎はとけていた筈である。日本人の常識や判断が非科学的だと非難されるのも、こうした点からでもあろうか。

 剣豪なのか塚原卜伝
 「こしゃくなり爺ッ」と抜く手もみせずに、氷のような大刀を引き抜きざま振りかぶ り、二つになれと斬って掛ってくるのを、その時すこしも周章(あわ)てず、 「何を致す‥‥」 。ちょうど囲炉裏に向かって雑炊をつくっていたところゆえ、咄嗟にその木蓋をとって、 頭上から電光のごとく見舞ってくる太刀先を、 「慮外致すな」と受けとめ、相手が思わず、つんのめるところを、すかさず、 「この未熟者めが‥‥」と白刃を押えていた木蓋で、今度は相手の頭をポカリと叩きのめし、 「このわしを‥‥塚原卜伝と知ってか」といえば相手は、土間にころげ落ち、 「命ばかりはお助けを‥‥」。両手をついて三拝九拝。 「この不鍛練者めが‥‥」。そのまま手にしていた蓋を鍋に戻し、やおら温顔をとり戻 し、 「もう直ぐ煮えるところ、雑炊じゃが一杯振舞おうかな」。にこにこと何もなかったように落着いたものであった。----というのが知られた講談の中の一部分の抜粋である。  

 だが二キロもある日本刀の重みが、せいぜい二百グラムあるかなしかの木蓋に、加速度をつけて激突した場合、いくら鈍刀でもスポンと蓋は切れるか飛ばされるのが道理。 それを食い止めたばかりでなく、反って叩きのめして、相手をやっつけるというのは、やはり世にいわれるごとく、塚原卜伝という人は、戦国時代の一大剣豪であったのだろうか。なにも講談をもって意地悪く追求するわけではないが、日本人は、単なる奉書紙を巻いた五十グラムのもので相手の真剣も叩き落してしまう、きわめて非合理、非科学 的な荒木又右衛門の作り話さえ、「武術の極意」とか「至妙の業」といった神がかり 的なもののいい方で、さも当然らしく粉飾してしまって広めたり、 「剣禅一致」といった判ったような判らぬ説明で、アイマイモコたる発想をもって尊 しとするまやかし精神さえも堂々とまかり通るところの国民性をもつ。  

 しかし日本人が特別そうした方面に豪くて、ヨーロッパ人は愚かで精神面で劣っているのかも知れないが、ケンブリッジ出版社からでている向こう版の剣道極意書であるところの、 『フェンシング必携』には、はっきりと、 「剣技のすべては、その個人の運動神経の如何による。それは生まれつきのものである」とまで極言しているのである。もちろん突きだけのフェンシングと、大上段にふり かぶり、 「やあッ」と叩っ斬る日本刀とでは違うかも知れないが、吾々としては、 「剣の途は至妙の一語につきる」とか、 「剣は人なり」など難かしい事をいわれるよりも、運動神経と、ずばりいわれる方が、 成程そうかと納得しやすい。 そして鍋の木蓋と刀で激突したら、蓋の方がバッサリ切れてくれない事には、どう しても可笑しくなる。 もちろん日本紙がいくら丈夫であったとしても、またそれを荒木又右衛門が握っていた処で、やはり真剣の方が当たったら紙を切ってくれねば、あまりにも不合理すぎ て、漫画的な見方しかできない。  

 なのに、この日本という国では、 「石が流れて、木が沈む」という諺があるごとく、ムジュンというものが大手をふって罷り通るような処もあるから、子供だましのような剣戟ごっこが、きわめて好戦的 ムード作りに役立つとでも、為政者に思われがちなのか、明治以降は日清日露そして 満州事変、大東亜戦前夜には、きまって、 「剣だ、剣だ」と叫ばれ、剣豪ものを流行させるような風潮があるようである。そして、そのたびに代表的スターのごとく、まっ先に担ぎ出されるのが、この、 「剣聖・塚原卜伝」なのである。だからして個人的に、卜伝に好き嫌いの感情などあ るわけはないのだが、どうしても、その剣聖なるデフォルメに対し、槍先をつきつけるしかないようである。  

 山の中で仙人みたいに木の実を食して暮したら、そんなに野猿のごとくにも警戒本能が発達し、運動神経は鋭敏になるものだろうか。 脂肪分がつかなくなって何キロかは減量し、そのため身軽になって敏捷になるだろう位は想像がつくが、だからといって反射神経や筋肉の活動がそんなに素早くなるも のだろうか。有名な歌手が海浜で声を鍛えたという話をきき、音楽女教師に好かれたい、認められたいの一心で、小学五年生の時、息吹山のキャンプで一週間あまり山中でドレミフ ァを我鳴(がな)った。しかし直るどころか急性咽喉炎になって湿布をまかれ、酸素吸入器を毎日かけられ 涙をぽろぽろこぼした思い出がある。これは芸大へ入って、いくら発声学をやっても音痴では駄目なのと同じことだろう。

 幕末の文化年間(1804〜17)に美濃紙の本場武儀川べりの紙すきが、石臼で こうぞを細かく潰してホモジナイズ化するという、日本では画期的な製紙法に成功した。このため従来の倍が量産されるようになり、従って紙価はこれまでの三分の二までに下落した。そこで安い用紙を用いて、いわゆる文化文政の出版ブームが起きた。さて、こうなると必要なのはライターである。そこで出現したのが、若狭小浜の軽輩武士だが、本居宣長なき後の松坂の塾へ入門 し、古典をきわめたという伴信友がでてきた。月産千枚、その生涯に三百余の著書をだしたというから、今ならさしずめ大流行作家である。そして彼が書いたものも、 『春の秘めごと』といった初期のエロ本から、皇国史観の大家である故黒板勝美が、 その『六国史』の序文に、恭々しく、 「この三代実録の原本は、伴信友先生校訂の貴重なるものでありまして」と、あるご とく、「清和・陽成・光孝」の日本三代実録の総漢文まで書いたかと思うと、天保時 代の撃剣流行に便乗しようとする書店の求めに応じ、「宮本武蔵」とか色々の剣豪を こしらえた。塚原卜伝も、また彼の三百余冊中の一冊で、その題名は、 『塚原卜伝の伝』とつけられている。 「幼名朝孝、新右衛門高幹、のち土佐守と名のり、全国修行三度に及ぶ」ともっとも らしい書きぶりであるが、この種本は、 『甲陽軍鑑』である。しかし伴信友は、大衆作家には珍しい士分の出身で、ライター になってからも大小をさし、いつも威儀を正していたから、近世における考証学派の 泰斗として寓されていたゆえ、 「伴先生のお書きになるものは間違いない」という定評があったらしい。そこで塚原卜伝の話も、 『山鹿語類』『鹿島史』『関八州古戦録』『翁草』  といった享和以降(1801〜)版本になったものには、版行するときに書き加え られたのか、みなそう入っているので、いつの間にか実在化され、かつては講談本の花形であったのである。  

 というのも、他の武芸者は余りぱっとしないが、 「塚原卜伝は兵法修行にて廻国する際、大鷹三羽を据えさせて携行し、乗換え用の馬 も三頭ひかせ、いつも上下八十人ばかりの門弟を伴って旅行し、行く先々の尊敬をえ ていた」とか、 「卜伝の一の太刀は、日本国中の大名たちへ相伝されているが、中でも公方の万松院 殿(十代将軍家・足利義晴)光源院殿(義晴の子の次の将軍の足利義輝)霊陽院殿 (信長に追われた足利義昭)にもみな伝授し、おおいに徳とされたものである」 といった記載から、足利将軍家の歴代が習うようでは、 「卜伝は超一流の剣豪だったのだろう」ということにされてしまったようである。

 しかし、はたしてこれは文字通り信じてよいものだろうか。 この謎ときは、戦国時代における刀の在り方をまず考えればよい。弓は「調度」槍は「道具」とよんでいたが、刀はただ、 「打ち刀」としかいわれていないのである。というのは、 (冑をかむり、鎧を身につけている場合‥‥) それを刀で切りつけたら鉄と鉄の激突ゆえ、はね返ってくるだけでなく、刀が折れ 飛ぶか曲がるのが第一の難点。鎧の脇の下とか背と首筋のあきとか、狙える個所は限定されていて、その間隙を仕止めねばならないが、そこは突く位の間隔しか空いてなく、とても斬って掛れはしな いことが第二の難点。第三の難点は、二メートルまたは三メートルの槍先で突くのであるなら、相手を中心においてその円周の距離間隔で自由がきくから、自分が誤って近づかない限り、向 こうから害はうけずに済む。ところが刀の場合は鍔元から切先までは六十センチか七十センチゆえ、相手に刃を当て ようとすると、どうしてもその三分の二に当たる二十センチまでの至近距離に近よら ねばならぬ。つまり相手を円の中心とみると二十センチの円周内が、己れの行動半径 になる。これでは斬るつもりが逆に斬られる危険性がでて、巧くいっても相い討ちの恐れが どうしてもある。きわめて効果率が悪いのである。だからテレビや映画では剣その他の持ち道具が揃わぬ関係から、みんなに刀をもた せて恰好をつけているのも見かけるが、実際には戦場で刀は用いない。大道寺友山の『武道初心集』でも、できるだけ刀で戦ってはならぬが、人目をひく ように刀で武者働きがしたいのなら、すぐ折れて使い物にならなくなるものだから、 予備の差料を持参して供侍の若党にささせ、馬の口取り仲間にもおびさせ、生きた刀 掛けのように家来に何本も携行させねば、わが身が危いと注意書を残している。
 

 つまり武士は雑兵以外は、槍を戦場の表道具としたものゆえ、「槍一筋の家柄」と これからいわれ、古来、 「刀一筋の家柄」とか「刀二本の家門」などといわぬのも、この為なのである。なの に、戦場において、さも刀を振ったように誤られているのは、何故かというと理由は芝居からである。現代では小道具屋の都合で槍が揃わず、ジュラルミンの刀を俳優はもたされ、やあ やあやっている。が、昔はそうした理由ではなく舞台の横巾が五メートル位しかなかったゆえである。つまり、そこで登場人物に槍をもたせては、一人で横が一杯になっ て、二人のからみがさせられない。刀なら、雪月花の型でチャンチャン振り付けができ、見得もきれて絵になるからである。つまり刀が一般化されたのは、舞台の狭さのせいでデフォルメされたのである。 塚原卜伝を筆先で作り出した伴信友も、軽輩ではあるが士分の出ゆえ、そこはよく 心得て、戦場で刀を振り回すような荒唐無稽はさせていない。そこでその著では、 「塚原卜伝は合戦九度の槍合せに、高名なる首を二十一個とり、その内には、槍下の首、場中の槍での首など七個を含む武辺なり」とかく。つまり剣豪ではなく槍豪であって、相手を絡み倒し垂直に咽喉を突き下し た勇敢な槍下の首や、乱戦になってわあわあ取り囲まれながらも、その場の中で狙っ た相手を、 「やあッ」と天晴れ突き立てて取った場中の首すらもある武辺者であった、というよ うに説明をしているのである。

 さてこうなると、「打ち刀」ともよばれた刀の、戦場における効果はなにかとなる。京城の韓国士官学校講堂に掲げられてあるところの、 「日軍来襲の図」は、悪鬼羅刹さながらの朝鮮征伐の際の日本兵を描いたものだが、 先頭の足軽はみな裸身で二刀を両手で手にもちあげ、飛来する矢をそれで叩き切って 進撃している。 日本は鉄の産出がすくなくヨーロッパや中国みたいな鉄の携行楯がなく、けやきや 樫の八分か一寸厚味の板楯しかなかったので、とても重く持って進めず刀は矢払いに用いられていたものらしい。 (江戸初期の宮本武蔵を二刀流の元祖)とするものもあるが、それより一世紀前から、 雑兵とよばれる連中は二本刀だった。が、この事実はさておき、雑兵でない将校クラスが刀をおびていたのは、 「者ども進めッ」と指揮刀代わりに用いていたのと、槍で突き倒した相手の首を切断 する際の包丁代わりと、後は戦闘には使わなかったとすれば、何用だったのかという 問題になる。

 それに、室町御所の歴代の将軍家が卜伝から、 「一の太刀」の伝授をうけていたとすれば、非戦闘的なものを何故わざわざ習ったかという事になる。いわゆる武芸の習得ならば、槍術をこそ学ぶべきなのに変ではないかとなるからである。しかし考えてみれば、将軍家みずからが先頭になって、 「それ突いてこまそ」と敵陣へ掛ってゆくわけなどはない。 もっとそれより必要なことは、不意を襲われて槍で突かれる暗殺を防ぐことである。 だから『甲陽軍鑑』という本は、あまり内容的には信用できない俗書にすぎないけれ ど、それに出てくる塚原卜伝の原型を、もし実在の者とみるなら、それは今でいう、 「護身術コンサルタント」ではあるまいかと想う。つまり何時何処から不意に曲者に突いてこられても、これを素早く打ち払うコツを教えていたものだと考えられる。なにしろ一の太刀で払いのけなくては生命に係るから、えらい人も習ったのだろう。

 つまり塚原卜伝は攻撃型の指南番でなく、防禦型の師匠であって、剣豪というより、 防豪とよぶのが正しかったのではあるまいか。剣とはそういうもので、またそうした用途のために片刃だったのである。テレビや映画で、剣豪が刀身を鞘に納めながら、にっこりと、 「今のは峯打ちじゃ」つまり刃でない背の方で切ったのだから、生命には関係ない心 配するなと、見世場を作る場面がある。だが刀とは、なにも峯打ち用に片刃になっていて和戦両用に巧くできているのではない。片方にしか刃がついていないのは安全剃刀とは違い、 「打ち払い斥ける」のだけが使用目的だったからこそ、つまり被占領民の原住系に差 別して持たされていたがゆえに、ああなっていたのであることを考えて頂きたいものである。

 中元は民主主義精神
 百科事典の類をみると、正月と暮の中間だから中元で明治以降贈物をする風習が始まって、中元大売りだしなどというのが行われだした、となっているが、はたしてどうであろうか。 唐六典には、 「七月十五日、地官為中元、懺侃(ざんかん)言罪」となっている。つまり一月十五日の上元は天帝に対し、供物をして寿ぐのだが、中元は地にある同じ人間どうしが、 平素の交際における不行届をわびて、物を贈ってその謝罪をするのだ、というのだから明治時代というのは、とんだ間違いで、唐六典が輸入された平安朝以降が正しかろうと想う。

 もちろん、これが形式的になりだしたのは江戸時代からのことで、『音物(いんもつ)問答という文化年間の本では、 「武家屋敷入口に敷台があるは、玄関に立つ時の踏台の用の為ではない。もしその用途なれば根太材を組み厳重にするべきだが、四方かまちのみで中央が空になっているのはその上の音をよく反響させる為なのである」としてある。つまり、これは挨拶のことを色代とかき、しきだいと訓するごとく、訪問客が手土産持参の節、昔は銭束が多かったので、どさりと敷台に置くと、その目方でおよそどれ位か音で判るゆえ、取次の申次衆は聞き耳をたて、 (まだ不足)と思えば知らん顔をしていて、追加して重くなった音がきこえてくると、 「‥‥どうれ」と初めて案内に出たもので、今の世に、よく銭を追加するのを、 「色をつける」などというのも、色代から始まった言葉なのである。 「音信不通」などと沙汰のないことを言うのも、その音は銭のことをさして、銭も送ってこねば便りも来ぬというのである。

 さて近頃流行の辻講釈まがいの歴史ものでは、 「武人不愛銭(ぜにをあいさず)」などというものがあるが、あれは見てきたような嘘をついているので、江戸時代には七月の声をきくと日本橋本阿弥邸などに行列ができるのは、切紙を求めに諸家の用人などが集まってくる、と江都歳時記にも出てくるぐらいである。

 これだけでは今の人には判るまいが、江戸時代に本阿弥家の切紙が中元にもてはやされたというのは、鰹節の切手やデパートの商品券が贈答用になったというのではない。武士にとって、槍は攻撃用具だが、刀は「打ち刀」と古来よばれるように自己防衛の用具だったから、この刀を贈答品にするというのが好適のものとして喜ばれたら しい。が、刀には勝手に銘を切りこむ贋刀、つまり盗作も多いので、良いと思って贈っても、それが不良品だったら反って逆効果になる。だから本来は、本阿弥のような専門目ききの鑑定書をつけて贈るのが心得というものだった。しかし、ここが難しいところで、とかく人間はそうした立場になると悪いことをやりたがるもので、江戸中期の本阿弥の何代目かが、目ききの鑑定師の立場なのに、目がくらんで盗作をやってのけたのがいた。刀の銘を切り替えたか、贋と承知で証明書をだしたか判らないが、やってしまったのである。こういう事は現代でも文学博士の肩書で、道具類に対してそういう事をして儲けているのもいるし、最近の某新聞の第一面に、八段抜きで、 「読者をなめた丸写し、堂々月刊誌に発表。形なしの某は、この盗作に関しては、非常にはずかしい、この問題によって、どんな社会的制裁を受けようとも仕方がないことだ、といっている」と、それまで東京新聞の中間小説時評を担当していた、いわば目きき鑑定役でもある批評家である男が、自分で盗作騒ぎを起こし問題になっているが、江戸時代は社会的制裁を受けるどころか、そうした際は自分で制裁をしなければならなかった。

 幸い刀の手持ちは沢山あったから、何代目の本阿弥さんは、一本を腹へ、一本を咽喉へ、そしてもう一本を心の臓へつき刺し自決してしまったそうである。すると、これが、 「一刀でも痛かるべきに三刀も刺すとは、さぞや苦痛であったろう」 と同情をひいた。なにしろ日本人は死にさえすれば、その罪を憎んでその人を憎まずといったモラルがあるから、本阿弥家はその儘で続くこととなった。

 しかし、そういう事があった後ゆえ、代は変っても、鑑定書を貰っても、どうして も疑心暗鬼になり勝ちである。そこで、本阿弥家では面倒ゆえ、証明書をつけるのは止めにして、 「一金五十両也、右金員引換えに何々銘の刀を引換えまする」といった切紙をだした。もちろん、五両、十両の贈答用にもってこいのも、どんどん切紙を作製したから、 中元の季節になると門前に行列ができた。というのは、なにしろ天下泰平の世では、 「貰うのはよいが、だからといってたえず手入れしたり、時々は研ぎに出さねばならぬ実物は厄介千万である」と、その切紙を持って交渉にゆくと、本阿弥家でもなにしろ実物でなくて紙切れにすぎず、金準備高を無視して乱発している何処かの国の紙幣のようなものだから、(本物と交換といって来られては困るが、金で引換えるのなら願ったり叶ったり)であるからして、 「これは十両の切紙でございますな。当方の手数料を一両二分引かせて頂き、はい八両二分どうぞお納め下さい」と、すぐ現金払いに応じた。

 こうなると刀剣鑑定は看板だけで、手形割引業のようなものだが、贈る方も貰う方 も、手数料はとられてもこんな重宝なことはない。だから中元は本阿弥の切紙は便利がられたが、不思議に下元つまり暮の御歳暮には用いられなかった。恐らく現金のやりとりゆえ年の暮は露骨すぎるので、贈るのをどうも慎んだものらしい。が、それにしても盗作批評家の本阿弥何代目かは、まこと都合のよい贈答システムを残したものである。というのは現在フィリッピンの学校用の歴史の本に、 「今日のわが国にワイロ、ゾウワイの悪習が、はびこっているのは、アメリカが占領中に、これが民主主義であると教え、おしつけていったプレゼントの慣行から起きたものである」と明記されているけれど、そのワイロを贈るのが民主主義政治のあり方の根元であるなら、これくらい体裁よく格好のよいワイロはないから結構なことである。

 平賀源内と人蔘
 よくテレビや映画で、病人がでると町医が診察にきて、これは朝鮮人蔘を服用せねば助からぬといわれ、やむなく娘が身売りしたり、病人の夫の浪人者が殺し屋に傭わ れてゆく‥‥といった設定が時々みうけられる。しかし、あれは嘘である。幕末の御典医で、明治新政府の軍医総監となった松本良順の、『懐古録』の中にもはっきりと、 「府内(江戸市中)にて町医とし門戸をはる者は富士三哲を初め五指にたらず」とある。 つまり当時人口が何百万もいた江戸でさえも、それ位のものだったから街道すじの宿場になど、めったに町医がいるわけはない。 もしいるとすれば千葉周作の父のような馬医者が、博労の多い所に住みついていた くらいのものである。ではいつ頃から町医が増えたかといえば、御一新後のことである。明治六年から七年にかけ扶禄公債を当てがわれ放り出された侍は、士族の商法で失敗したのが多かったが、中には文字が読めて、『傷寒論』一冊ぐらいをテキストに 開業した俄か医者もあった。まあこれなら威張って頭を下げなくとも出来るというので真似する者が激増し、雨後の筍のごとく輩出した。  

 それに武家屋敷は慎(たし)なみとして弓に用いる矢竹用の薮を必らずもっていた ので、「筍医者」とか「薮医者」の呼称はそこから出たのだが、維新前は病気だといえば、「拝み屋」なる者が御幣を担いで飛んできてお祓いをし、ご加持祈祷とよんで いた。


 現在の常識からすると、それくらいのことではたして間に合ったものか、と首を傾げたくなるが、そうした修験や行者は、野生の大麻草を乾燥させた粉末を常時携帯していた。そして病人に部屋を閉めきり、香炉で煙らせ嗅がせていたから、七転八倒して苦しがっているのでも、今でいうマリファナ幻覚作用でモルヒネを注射したような鎮痛効果が現れ、すこし暴れてもすぐ落着いたものらしい。

 話は脱線するが、道中師とよばれた連中はその粉を煙草に混ぜて、金の有りそうな のに吸わせ、暴れだしたりすると、 「狐つきだ」といって騒ぎたて、混乱にまぎれて胴巻きを掻払って逃げてしまうが、 後に残されるのは燃えかすの灰だけだから、「護摩の灰」とよぶのだと、二鐘亭半山 の旅日記にもでている。


 さて、 話は戻るが、江戸時代にあっては、高麗人蔘とよばれたそれは大変貴重なもので、 江戸では吹上御苑内と小石川の御薬草園で栽培されていたが、町医の手に安易に入るような存在ではなかった。なにしろ御三家の水戸でさえ、光圀が特に乞うて将軍家よ り苗木を分譲して貰ったが、それでも遠慮して、 「お花畑」と栽培地を称していた程である。ここは元治元年の戦で焼払われてしまったが、今でも町名としては残っている。

 さて水戸光圀は、その長男松平頼常が高松十二万石をつぐ時に、内密に朱色高麗人 蔘の根株を分け与えて持たせてやった。 もちろん水戸宗家でさえも将軍家へ気兼ねして、お花畑の名称で栽培しているくら いゆえ、「御林(おはやし)」の名目で高松では植え付けをした。これが今は栗林公園の名称で残っている。
さて、水戸藩祖頼房の曾孫にあたる奥州守山二万石松平頼貞の三男頼恭(よりたか) が、元文四年九月に高松第五代の城主とし養子に入ってきた。 「光圀公の御計いで密(ひそか)に分苗して貰った紅人蔘なるものが、栽培されてい るやにきくが、百聞は一見にしかず是非みたいものである」。二十九歳の頼恭は御林の中へ検分に行ったところ、水利の便がよくないのか気候の関係のせいか、あまり芳しくなかったらしい。 「紅人蔘というは高麗にても珍しい品種ものといわれ、本邦にては一般には御止め薬 にて将軍家のみ用いられ、その効き目で男女合せて五十名余の子宝さえ、上さまは千代田城でもうけていなさる。何もそれにあやかりたくて申すのではないが、枯死させ るような事があっては大変であるぞよ‥‥」。頼恭は厳しく家臣共にいいつけた。この結果、御典医池田玄丈が、「御林掛り」を 兼務するよう命じられた。玄丈は四国では本草学の大家とされていた男だが、将軍家しか口にできぬような高貴薬の栽培改良には手をやいてしまった。

 すると、去度浦の海防用の番船などを蔵っておく倉番の者で、きわめて有能な若者 がいることを耳にした。そこで玄丈が引見すると、一人扶持つまり一日米三合だけの給与しかない小者にしては、学もあり弁もたつ。 そこで玄丈は、殿に願い出て、「四人扶持、お薬坊主」と破格な四倍の立身をさせてから、己れの助手にして御林の高麗人蔘の栽培に当てさせた。これが、「非常の人」 とよばれた平賀源内である。

 さて、これは天下の秘薬であって煎じて服用すれば、あの方も将軍さまのように強 くなるが、頭の方もよくなると聞かされて、 「そうか、馬鹿につける薬はない、とよくいうが、馬鹿でないのが呑めばもっと賢うなるのかも知れん」と源内は、己れが服用したいばっかりに、御林の中の小屋へ詰めきって、一心不乱に丹精こめ栽育をした。 テレビの「天下御免」ではザラメ砂糖を作りあげ、その褒美で長崎へゆくようにな っているが、高松で精糖が成功するのはまだこれから一世紀も後の話で、ザラメのごときは明治の産物である。
 では、何故に長崎へやって貰えたかといえば、高麗人蔘栽培成功のせいである。しかし、藩主頼恭の思惑は長崎でより良質の人蔘をというのであったろうが、それは無駄だったようである。その代り、源内は本草学の田村藍水の門に学ぶことができた。当時は、支那本草学より脱却して、日本独特の本草学を開拓しようと、小野蘭山が、 『本草網目啓蒙』四十八巻及び『本草記聞』十五巻を刊行していた頃である。高麗人蔘を栽培中密かに自分も服用し、もって頭脳明晰になったと自認する源内は、 「百嘗社」とよぶ山野の草木から鉱石まで研究する、尾張御典医水谷社中の荒井佐十郎の力をかり、彼なりに高麗紅人蔘の分析や、その実験に出精をしたものらしい。


 が封建時代にあっては、将軍家だけのものとされ御三家の水戸や親藩十二万石の高 松でさえ、内密にしていた紅人蔘を、源内ごとき民間人が研究するのは違法だったらしい。 「門弟の一人と殺傷沙汰を起こした」といわれるが、判然としない理由で投獄され、 安永八年十二月十八日牢内で一服もられ殺されてしまった。杉田玄白はその死を、 「ああ非常の人非常の事を好む行いこれ非常なり、何ぞ非常に死せるや」と悲しみ、 彼の友荒井佐十郎は「人蔘のため延命する者はあるが彼のごとくその為に死すは珍事」 といっている。まあ、この源内の実像にふれたかったら『源内捕物帖』でも読むのが 手取り早いかも知れない。

 ひな人形と黒駒の勝蔵
 「祇園精舎の鐘の音」と平家物語も始まるから、ともすると平家的なものを感ずるが、祇園社の実体は反対の源氏的なものである。現在と違って、元禄時代までは神仏は混合されず敵味方だった。[八切氏は混同されているが、この場合の『祇園精舎』とは、古代インドのコーサラ国の都シラーヴァスティーにあった精舎(僧房)のことで、祇園の八坂神社の事ではない] 「犬神人[いぬじにん]」とよばれた祇園社の昔のガードマンは、社に仇なす寺と戦うとき、いつも僧兵の群れと弓矢や薙刀をもって血を流していた。 [これも、事はそんなに単純ではなく、今日の京の八坂神社は、その創立からして僧円如により貞観十八年(876)に播磨広峰から山城八坂に遷され、はじめは興福寺、後には延暦寺別院と、既に『神仏混交』状態だった。また、その下級神官ともいわれる犬神人も時折『山門』(延暦寺)に使役されて、山門のライバルである当時の新興宗教(一向宗、禅宗、法華宗など)の弾圧に狩り出されていた。したがって八切氏の説くように『祇園社に仇なす寺と戦う』べく、 『僧兵の群れと戦っていた』という状況とは異なるようです]  

 ところが徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝の中宮として京上りしたとき、五月五日の白川の院地打ちという京の石合戦をみて、えびすとよばれる源氏系の民が苛められるのに立腹したのか、「お白神」とよばれる白山神社系統の木像を京へとりよせた。これは今のこけしの元祖で白木一対の神体だが、彼女はこれに端布をまとわせて飾り三月三日には白酒を供えた。やがて徳川家の圧迫で帝が退位され、和子のうみ奉った女帝の明正帝の代になると、この人形まつりも一般に広まった。  

 しかし中宮に於ては三月三日というのは「曲水の宴」という明国の行事がそのまま伝わって、公家は御所の中の小川に盃を浮かべ詩歌をつくって楽しむ日だった。だから明正帝のあとは「夷まつり」として東京奠都まで公家はこれを忌み嫌っていた。五人ばやしや官女さまも並んでいるから、御所からのもののように誤られ勝ちだが、実際は無関係のものだった。

 では、どうして今の形式になったかというと、祇園社の弦めそ達が、昔は、にかわで弓のつるを作っていたが、天下泰平で仕事がなくな ったので、余ったにかわで獣毛をこけしの頭にはりつける人形細工のアルバイトをしている内に、 「京から出荷するんやったら御所スタイルが、ええやないか」 と白丁や三人官女までセットにし出荷してしまったのが今日のひな人形のもとなのである。この祇園びなは、伏見人形の問屋で扱われたので、一般には「伏見びな」と呼ばれていた。

 さて、この伏見びなや鳩笛をこしらえていた木偶座(でくざ)というのは、代々御所の白川卿がその管理というか座銭を取っていたものである。御所では忌み嫌った三月のひなまつりの人形について、その落し前みたいな鐘だけを公卿さんが召し上げていたのは可笑しいが現実はそうだからちゃっかりしている。そして、この白川卿の家来で、伏見へ人形の金を集金に行っていたのが黒駒の勝蔵の従兄だったのも面白い。

 さて、近頃、デパートで客よせに催す物産展で、「静岡県」というのには、必ずと いって良い位に壁飾り式になったミニチュアの三度笠が売られていて、それには、 「清水二十八人集」と中央に大書きし、廻りにぐるりと傘文字でそれぞれの名がでて いる。円型に囲んで名前をかくという方式は、百姓一揆の訴えの時に誰が首謀者か判らぬようにする為なのだが、これにはお馴染み、「森の石松」が目だつよう中央にきている。

 ところでこの清水二十八人衆というのが、本当に実在していたかというと、伊勢の丹波屋伝兵衛の甥の増川の仙右衛門ら数人は本当だが、後はまことに頼りなく幻想でしかない。というのもこれは、次郎長の養子になった事もある天田五郎が、明治十七年四月に出した『東海道遊侠伝』。そして、その二年後に刊行された『明治水滸伝』、『清水次郎 長伝』の二冊を種本にし、松廻家太琉というやくざ上がりの講談師が、日本橋茅場町の寄席へかけたのを、 「どうでえ、そのネタを酒二升で譲らねえか‥‥なんなら三升」と持ちかけたのが三代目神田伯山。太琉も初めは惜しがったが、なにしろ呑みすけのこと。つい四升で手をうってしま い、活字本の他に自分で色々かき止めた大福帖みたいなものまでそっくり伯山に譲渡 してしまった。  

 さて、この伯山というのは二代目伯山こと神田松鯉の門人で、初めは松山を名のり明治三十七年に三代目を襲名した男だが、根っからの花札ずき。誰をつかまえてもサシでコイコイをして、これが下手の横好きで滅多に勝たない。だから築地から新富町、人形町とその頃各所にあった席亭の下足番にも、高額ではないが五銭十銭の借金が軒なみにあった。

 さて、今でもそうだが芸人の収入というの は 「割り」といってあがりの分配である。そこで何処の下足番も、伯山から貸しを取り戻したい一心から、大声をはりあげて、 「いらっしゃい、えい神田伯山の始まり」 と、よびこんで客を入れる。そこで伯山たるもの義理に感じて、八丁堀の大増という席亭の下足で目っかちの森野石松というのを、まず今日の森の石松といったスターに仕立ててしまった。そして、 「江戸っ子だってねえ、すしくいねえ」 の一席を作りあげ、ついで、片っ端から借りのある連中の名を次々と高座へかけて しまった。そこで実在では五十五歳の吉五郎が「神戸の長吉」という突ころばしの 二枚目になったり、実名関東だきの綱五郎が「大瀬の半五郎」という寿司屋の親分さんの名に変わってしまった。

 だから森の石松にしても下足番で、故子母沢寛の研究でも、もちろん実際はいる筈もないからして、 「漁師上りの乱暴者で豚松」というのがいたから、それがモデルではないかといっている。そうなると問題は、大政小政の両名だが、この原型たるや意外にも黒駒勝蔵の身内で、 「障子にうつるは大岩、小岩。鬼より恐いと誰がいうた」と今も甲府の盆唄に残っている成田村の岩五郎と、中川の岩吉の二人がいたからして、どうも伯山はそれを転用 したのではないかと思われる。

 なにしろ、 「黒駒の勝蔵」にしても、伯山の講談では、次郎長一家に仇なすふとい悪玉だが、明治二年に仙台藩の家老とし、王命抵抗のかどで自害を命じられた玉虫東海著の 『官武通記』[これは八切氏により日本シェル出版から刊行されていたが、現在は絶版]という幕末史料によると、 「元治元年甲府郡代加藤餘十郎沙汰書」なるものが採録されていて、それには、 「天誅組の那須信吾と交際のあった勝蔵は、長州の木梨精十郎の援助のもとに甲府城占領におしかけ、そのため叛徒として指名手配された」との模様が詳しく出ている。

 どうも講談の世界は好い加減なのが多すぎるとはいえ、こうなると勝蔵の従兄も前述のごとく白川卿随身の古川但馬守ゆえ、彼は単なる博徒ではなく、西国の日下燕石 (くさかえんせき)みたいな勤皇の志士ということになる。しかし、とはいえ伯山の作った次郎長伝では極悪非道の無頼漢にされてしまったままだ。

 水戸天狗党は全学連
 「人を斬るのが侍ならば、恋の未練がなぜ斬れぬ」と桜田門外で井伊大老を襲撃した水戸の武士(後輩)たちが、元治元年(1864)筑波山に旗上げした水戸天狗党というのは、藤田東湖の遺児小四郎を盟主にして集まった健児も二千とされる。やがて彼らは江戸から差し向けられた公儀歩兵隊やフランス軍将校の指揮する砲兵隊を向こうに廻して、那珂湊から大洗、そして今の日立市である当時の助川で田中源蔵の隊はあくまでも抗戦。やがて武田耕雲斉に率いられた本隊の方は、雪の加賀路へ落ちてゆき、そこで降参すると、公儀討伐総督田沼意尊の苛酷な扱いで、畳十枚位の牢舎に三十人ずつが詰め込まれ、横になれるどころかろくに坐りもできず、立ったままで排泄物もたれ流し、さながらベトナムの虎の檻のような目にあわされた末、やがて一人ずつ引張り出されて首を斬られた。

 しかし武田や藤田に従って加賀へ行き、そこで殺された方は、 「勤皇尽忠の士」として明治になってから贈位、靖国神社へ合祀もさせられたが、田中源蔵に率いられて助川を落ち八溝山へ向かった方は、全員贈位の沙汰もなく、十二、三歳の少年が多かったから、坐らせて首を斬り落すのは厄介と、樹に吊して撲殺されてしまっている。中には水戸支藩松平大炊頭の一子で十二歳の少年も混ざっていたというのに、彼らはみなザンギリ髪に統一していたゆえ、それで見境なしに皆な殺しの目にあったのだろう。しかし、彼ら少年までが決起したのが勤皇精神によるものとするならば、なぜ今日までそれは放りっぱなしになっているのだろう。といった疑惑もここに浮かんでく る。

 ということは、天狗党それ自体のあり方が、明治に入って水戸の生き残りの激党の連中によって美化されてしまったのが、何かしら実際とは違っているのではないかといった感じすらする。それに藤田小四郎や武田耕雲斉に率いられた方は有名なのに、田中源蔵が伴っていった部隊があまり知られていないのは、その幹部が他国者だったせいだろう。また彼らの一人が残した辞世の句に、 「国のため想う心の晴れやかさ、死なむ今とて勇みたちいぬ」というのがある。文字通りの感慨の歌だが、幕末の時代と現在とのくい違いは、この、 「国」という言葉の概念であるらしい。「葉隠」の中でも、これはしきりと出てきて、 「国の歴史」とか「国のため」といった字句が多く、歴史家はなんの躊躇もなしに現在的な解釈をして、「日本国の歴史」、「日本国のため」いとも手軽にきめて掛って、 「葉隠れ武士道」とか「葉隠れ精神」といったものをもって、皇国史観にしてしまうのだが、いったいそれでよいものだろうか。

 なにしろ、葉隠の中にでてくる国というのは佐賀一国のことであり、国史とは鍋島家の藩史だけをさすものだからである。わが国に、中央集権制の国家ができたのは明治からであり、それまでは鍋島家中の者にとっては佐賀が御国であり、水戸人にとっては常陸だけが国だったのである。だから 「国のため想う心の」といっても、今日的な考え方での愛国心ではなく、当時としては故郷を懐かしむ愛郷心。まあ 「望郷の歌」といったくらいのところだったのであろう。なのに、それを愛国の至情といったようにするから、ややこしくなるのであって、こうした歴史家のすりかえは 「君がため春の野にでて若菜つむ」といった古歌すらも、 「恐れ多くも一天葉の御方のために」といった解釈さえ、かってはされたもので、 今はリバイバルでまた復活されている「君恋し」の唄も、それが初めて流行した頃には、 「君恋し宵闇せまれば悩みははてなしとは、かって後醍醐帝の行在所へ忍び、孤忠をいかに示さんかと、桜の樹に十字の詩、天勾銭(こうせん)をむなしゅうするなかれの、児島高徳のことを唄ったものかと思っていたが、どうもそうではないらしいことから児童が口にするのは止めるようにしたい‥‥」 といった朝会の訓辞を校長にされた日のことを思いだしても、どうも日本語には意味が曖昧模糊としているのが多いようで困る。

 だからでもあろうか、水戸天狗党の決起たるや明治に世が変る僅か四年前の、元治 元年の出来事なので、また一世紀ほどしかたっていないのに、すっかり評価も色々と変っているようである。というのは、旧幕時代は徳川体制からみれば、賊視されようとも、もはや明治になればその価値観は一変されていようと想うのが、案外にそうでないことである。

 水戸家菩提寺の納所日誌にも、 「乱賊」という文字で天狗党は扱われているし、明治十年迄の茨城県下の公文書は、 これことごとく「賊」の一語で片づけられてあって、徳川時代そのままの感がある。 だからして、彼らの郷里でさえ、そうした具合なら他はおして知るべしということにもなろう。

 そして、そうした見方をするのは地方の無智な小役人共が、世が明治に変ったをの弁ぜずに、旧幕時代の用語をそのままで踏襲しているのかと思うと、そうでもなく東京に移った明治新政府も、「水戸天狗党=賊軍」といった扱いを続けているのである。明治十八年になって内閣官制ができ、伊藤博文が最初の内閣総理大臣となったが、 その閣僚もやはりそうした見方であったのである。

 その裏付けとしては、 「元治元年十月二十五日、流賊あり、まさに本邑(ゆう)を掠めんとする。君(黒崎 友山)ここに郷人(ごうじん)を率いてこれを防ぐ。かたずして歿す。時に四十三歳にて奸賊のため致命せるなり。 題額 大蔵大臣 公爵松方正義  撰文 帝国大学教授 博士内藤耻叟」 といった石碑が堂々と茨城県常陸太子(たご)町には、今もそのままで残っているのをみても判り得る。

 これは明治十八年に建てられたものだが、その六年後の明治二十四年に、藤田小四 郎らに従四位が贈られ、国家が改めて 「勤皇の志士」と認めるまでは、日本全国において、水戸天狗党なるものは単に「賊徒」でしかなかったのである。つまりここに維新史のややこしさがあるのである。幕末になって各地から勤皇の志士が輩出し、 彼らがみな「王政復古」を叫んで天朝さまの御為に尽したので、それまでの徳川体制がくずれ、十五代将軍慶喜も慎んで大政奉還。めでたく明治の聖代になったというプロセスに突っこんで調べるとどうしても無理がでてくるからである。

 これは余談になるが、私がかって書いた『てんぱい騒動』のように、明治になっても、薩人は薩摩が自分らの国、長州人にとっては長州だけが国だったからして、 「愛宕通旭(あたごみちあきら)卿」のように、 「まだ御年弱の帝を薩長の輩や岩倉具視らが勝手気儘に動かし奉るは不敬不忠‥‥ 天朝さま藩屏ともいうべき公家の者は、この際万難を排して、一死をもっても尊王の大儀に殉じ、日本を一つの国にせばならぬ」と、他の公卿にもふれ廻って、十津川郷士などを糾合し、「赤誠勤皇隊」を作り、天朝さまをもって新しい国の礎にしようと計った行為は、 (薩摩だけをまだ自分の国)と思いこんでいた大久保利通らの眼からすれば 「過激思想である」と、明治四年の時点においては危険分子扱いだった。そこで通旭は妻と共に、踏みこんできた薩人らに惨殺されてしまっている。 今考えれば、旧幕時代ならいざ知らず、明治四年にもなって 「勤皇が叛逆罪」というのは解(げ)しがたいが、それが事実では仕方がない。

 水戸天狗党にしろ、筑波山から栃木太平山に移って、そこに本営を置いていた時には堂々と「水戸幕府」の大看板を掲げていたのである。これは、三光神社と名の改まったそこの社務所に明治中期までは残されていた。つまり天朝さまの為に水戸は決起したものではない、というと語弊があるかも知れないが、彼らは、天朝さまの下の征夷大将軍に自分らの殿をたて、水戸の城下を江戸にしたかっただけである。これは、自分らの殿が将軍になれば、直参(じき)の身分になれたせいともみられる。現在の会社などでも、本社勤めと地方支社の者とでは格段の差がつくが、昔は 「直参(じき)と陪臣(また)」の違いは大変なもので、同じ武士でも月とすっぽんぐらいかけ離れていて、直参の仲間足軽は大名の家来より偉いとさえ、されていたせいだろう。

 田中源蔵の隊三百の青少年は、それではなんの為に戦ったかというと、これは二年半前に私が『元治元年の全学連』をかくため、調査をしに行ったとき、下妻のもとの信福院で見せられた古い旗に「全館連合」とあったので、それが、この謎をものがたっている。館といえば、映画館を今では考えるが、水戸の学校は、みな館をその下へつけていた。今となっては、水戸城三の丸にあった弘道館ぐらいしか知られていないが、 元治元年の頃には私学二十三校といわれた程の数があった。これは前代の斉昭によって、「学芸新興」のため各地に郷校を設けられ、そこで士分以外でも有志の青少年に進学の途をひらく目的で作られ、お手許金をもって教授方の手当も払い、月謝は殆んどなきにひとしかった。ところが斉昭が死んで御代替りになると私学補助金が打ち切られ、自費で賄ってゆけない郷校はみな廃止のやむなきに到った。そこで在学中の者が騒ぎ、行方(なめかた)郡小川館に籍のあった藤田小四郎が天狗党の盟主におされるや、「われらも共に」と、小川館からは学長にあたる元取の竹内百太郎、それに岩谷敬一郎ら二十五人。 「行動を一緒に致そう」と南石川館から高橋友泰が十八人を率いて合流。ついで平磯館、大宮館、久保館と各地の郷校から、お取潰しになりそうな学校の教授方が教え子を伴って参加してきた。

 田中源蔵は若かったが野口の時雍(じよう)館の元取りをしていたので、その教え子の十二、三の少年までが、ぶかぶかの竹胴をつけ背たけ程もある刀を杖について、その周囲に集まってきた。彼が藤田小四郎や武田耕雲斉と離れ、別行動をとったのは、 「とても足弱な少年ばかりを伴って、雪の加賀へ入ってはゆけまい。無理であろう」 と考え、春になるまで冬篭りするつもりで、 「八溝山の頂上の、行者のおこもりする番小屋が広いから、そこへひとまず避難しよ う」となったのだろう。 しかし武運つたなく、有り金をはたいて預けた八溝神社の祢宜(ねぎ)が、それで食物を調えて頂上へ届けてくれるはずだったのに着服して逐電。「口にする物がなくてはなんともならぬ。もはやこうなっては八溝山も今宵かぎり、みんな気をつけ散り散りに落ちてゆけ」 とやむなく三日目に解散したところ、麓で網をはっていた百姓や役人に捕えられ、みな殺しにされた。

 しかし、彼らの主張たるや、今でいう 「私学振興、補助金要求」、「学内人事の干渉反対」といったものだったからして、明治二十四年になって辛うじて、武田耕雲斉や藤田小四郎は追贈位をかたじけなくしても、田中源蔵の率いていた青少年三百の方は放りっぱなしにされ今日に及んでいるのであろう。

 とはいえ、よく考えれば武田や藤田の方にしても水戸城を攻撃しかけた時には、有栖川宮家より御降嫁の夫人の掲げた菊の御紋章へ、彼らは銃撃を加えこれと戦っている。それに、もともとが水戸家の中の激党と鎮党のゲバであるから、なにも藤田東湖が有名でその遺児だからと小四郎らの方だけが叙勲され、町医者の伜上りが大将分だからと田中隊は見棄てられたままというのは、どうも片手落ちというか不合理にすぎる。





(私論.私見)