「れんだいこの八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評 |
(最新見直し2013.04.27日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
八切止夫氏の「信長殺し、光秀ではない」(日本シェル出版、1974.1.10日初版)の書評をしておく。 2007.10.30日 2013.03.09日再編集 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1133 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 4月25日 |
れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その1 2013年4月頃、不意に八切止夫史観なるものを味わいたくなった。最初に八切氏の代表作と思われる「信長殺し光秀ではない」(日本シェル出版、1974.1.10日初版)を読了した。何しろ22年と5ヵ月と云う著作者人生の半生の心血を注いだ著作であり、マラッカまで出掛けてバテレン資料を転写し採録している。全体として考証に富んだ歴史小説となっている。れんだいこ感想は、八切氏の炯眼ぶりを堪能させて貰ったの評が相応しい。但し、八切氏の歴史推理には首肯しない。これについては書評その2で述べることにする。 この「信長殺し光秀ではない」はネットで公開されている。「矢切止夫作品集」の「1182信長殺し、光秀ではない1」から「1201信長殺し、光秀ではない20(最終)」までがそれである。 (http://www.rekishi.info/library/yagiri/) サイト管理人として「登録日1996年3月18日 登録者 影丸(PQA43495)」とある。メール先が分からないので不通知不承諾のまま活用させて貰うことにした。謝意申し上げる。これを原本にして、れんだいこ文法に則り、より現代文に書き換えた。原文との照らし合わせは、今のところできていない。原文の漢数字を適宜に洋数字に代えた。この方が分かり易いと思うからである。句読点も一部代えた。段落も変わっていると思うが、これは追々原文に即して直そうと思う。全ては読み易くするためである。興味を覚えた方が原文読みに向かうようお手伝いさせて貰ったつもりである。 なぜ、れんだいこもサイト化したか。それは本書を良書と思うからである。最近、こういう必読本的良書が隠れてしまっている気がしている。そのことに気付いたれんだいこが何がしか発掘を続けている。「名著翻訳、発掘一覧」と題して公開している。数典は英文和訳しており、既成のものよりは的確に訳出しているつもりである。御利用されんことを願う。 (meibunhonyaku/) こたびは矢切止夫氏の「信長殺し光秀ではない」に番が回って来たと云うことである。他にも田中角栄の日本列島改造論をサイト化して誰でも読めるようにしたいと思っている。れんだいこの手が回らないので誰かがやってくれないだろうか。当然、その人のホームページ上にアップしてくれれば良いのだが、著作権を気にして尻ごみする者もいるだろう。そういう方は、れんだいこに通知してくれれば、れんだいこサイトに取り組む。要するにバイブルの如くみんなに読んでもらいたい一心である。気難しく云う人に構っていたら、あたら惜しい一生を台なしにしてしまう。 つい先日、毎日新聞の山田孝男の「風知草:爪立つ者は立たず」が角栄に関する余計な偽論を書きつけていた。「東京が稼ぎ、原発は田舎に押しつけ、格差はカネで埋め合わせる--。田中角栄が深く関わった全国総合開発計画の伝統」云々と云う文面であった。こういう論説に、角栄の日本列島改造論が人口に膾炙(かいしゃ)されていないから騙されてしまう。そういうこともあり、日本列島改造論をサイトアップして認識の共有をしておきたいと思う。 もとへ。八切氏の著書を初めて読ませて貰ったが、全体に有益で面白いと思う。1960-1980年代に、こういう面白い読み物があったのに読まずに過ごして来たのは勿体ないことだったと思う。しかしこれが御縁と云うものだろう。今頃になって読むのも御縁の不思議だろう。当分の間、八切氏の著書に触れ、学べるところは全部学ばせて貰おうと思う。 |
れんだいこのカンテラ時評№1134 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 4月26日 |
れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その2 本能寺の変の犯人推理は邪馬台国論争ほどではないにせよ明智光秀説、その配下の斎藤利三説、豊臣秀吉説、徳川家康説、比叡山焼き討ちに怨念を高めた僧侶説、足利義昭将軍説、朝廷説、堺衆説、バテレン陰謀説等々十指を数える。八切氏の「信長殺し光秀ではない」の結論は後半に明かされ、「秀吉とか家康といった役者が上の男どもに利用された信長の正妻・お濃の方説」となっている。それまでバテレン陰謀説を臭わせながら、なぜだか「お濃の方説」で結ばれている。 しかし、れんだいこは同意し難い。こう云う場合、れんだいこにすれば八切論考の値打ちがなくなるのが普通であるが、八切氏が論証過程でふんだんに紹介しているイエズス会レポートの方に値打ちを認めている。国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには、日本史上戦国期に於けるバテレン活動の重要文書の数々の存在を教えられた方が有益だった。これまで八切氏を措いて他に誰か指摘していたのだろうか。いないとすれば、これこそ本書の大功績であろう。それにしても、イエズス会の陰謀はかの時代にも濃厚に認められ、今の時代で云うところのCIA活動の元祖的役割を果たしていることが分かる。 本書の値打ちを、当時の戦国大名の宣教師活動庇護の背景に鉄砲火薬の硝石(しょうせき)売買があったことを指摘したことをもって炯眼ぶりを指摘する向きがあるが、それもさることながら、このバテレン資料の開示こそ第一等の功に挙げたいと思う。硝石売買に注目するのは一理も二理もあろうが、硝石売買にのみ特化するのは去勢された理解の仕方であろう。当時の宣教師活動が、硝石売買を介在させながらキリシタン大名網を構築し、次第に日本政治の中枢に容喙していったことの重みを窺うことこそ本筋ではなかろうか。れんだいこのこの理解は至極真っ当と思うのだけれども、諸氏の見解ではどういう訳かスル―されてしまう。解せないことである。 ちなみに八切氏の「お濃の方説」なる結論を、八切氏がこれをマジメに云っているのか今ひとつ分からない。むしろ、その結論に至る前にあちこちで示唆しているイエズス会の怪しい動きを思えば、イエズス会こそ主犯とすべきだろうに「お濃の方」を挙げてジ・エンドとしている。これは、正面からイエズス会主犯説を唱えることは処世法上賢くないとの弁えからのトリックではなかろうかと思われる。 そもそも、光秀主犯説をお濃の方主犯説に替えたところで、光秀の汚名は灌(そそ)がれるにしても今度はお濃の方の汚名が発するではないのか。それと、八切氏のお濃の方主犯説なる結論は、それまで指摘したところのバテレンの陰謀と接合していない。お濃の方主犯説に導く以上は、お濃の方とバテレンの陰謀との繫がりを論証せずんば片手落ちではないのか。八切氏がこれをしないままお濃の方主犯説へと結論づけているのは変調であろう。 ところで、八切氏の「信長殺し光秀ではない」を読んでイエズス会主犯説へと結論を導いた者は、れんだいこだけではない。例えばサイト「本能寺での爆発事故」も「信長を殺害したのはイエズス会」とする見地を披歴している。 (http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/jiko/index4.html) 同様の感慨を覚える者は他にもいるだろうと思われる。八切氏は本当のところはイエズス会主犯説としたかったのではなかろうか。れんだいこは普通に読むので易々とイエズス会主犯説へと辿り着いた。正確には、イエズス会と云うより国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社と云うべきだろうが。本書が、こういう推理に誘う論旨になっているところが面白い。 知るべきは、ネオシオニズム系秘密結社の暗躍は何も信長殺しだけではない。彼らが出向いた世界のあちこちで、この種の政変「王殺し」が起きていることである。連中の活動は、その国の王権を打倒し、手なづけた傀儡政権を樹立し裏からコントロールすると云う手法にまみれている。それは現代史に於いてもますますそうであり逐一挙げるにも及ばない。彼らには、そういうノウハウが歴史的に蓄積されていると思うが良かろう。してみれば、バチカンはトンデモ神父の巣窟と云うことになる。こたびの新法王はイエズス会出身だが、この疑惑から免れた稀有の人足り得ているだろうか。と云うところが気になる。 日本史上の当時の例で云えば、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝暗殺も臭い。これは、れんだいこの初指摘かもしれないが、ずっと気になっている。1565(永禄8)年、足利義輝は、松永久秀と三好三人衆の謀叛に殺害された。辞世の句として「五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで」を遺している。「ウィキペディア足利義輝」は、「永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した」と記している。これは妙な記述であり、れんだいこのアンテナが作動する。 こういう下りはマトモに読んではならない。義輝が命令を無視したかどうかの史実検証をせねばならず、仮にそれがどうであろうと、このことには意味はない。かの時代に於いて正親町天皇が京都からイエズス会追放令を出したほど、既にイエズス会の政治容喙「王殺し運動」が始まっていたことを窺えば良い。「松永久秀と三好三人衆の謀叛の背後事情」を検証すれば、この推理が当っているのか外れているのかはっきりしよう。この推理が当っているとした場合、イエズス会№2のフランシスコ・ザビエルが来日したのが1549(天文18)年であることを思えば、僅か16年で日本の王権騒動に辿り着いていることになる。 幕末1867(慶応3)年の近江屋事件も然りであろう。この事件により、幕末維新の立役者である土佐藩の幕末志士の双璧である坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された。この犯人を廻って諸説入り乱れているが、国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには容易にネオシオニズム系秘密結社が黒幕と推理できる。連中が幕末内戦を画策していたところ、坂本と中岡が薩長同盟に奔走し、その流れで大政奉還、江戸城無血開城の道筋を生みだし、内戦を回避させたことが連中の怒りを買い、粛清指令が下されたと読める。要するに、連中は操り難い有能政治家を見つけては始末して行く癖がある。 その他その他この種の事例を挙げればキリがない。近いところでは、明治維新以来の政変による有能政治家の失脚、暗殺、事故死等の殆どすべてがこの類のものである。問題は、世上の歴史家なり評論家なりの推理が、この本筋から外れた所でのみ許容されており、その範囲の推理を喜々として行う物書き屋が多いと云うことである。それらは本命推理以外の全てが自由と云う虚構の推理遊びでしかない。そういう論調のものを学べば学ぶほどアホウにされてしまうと云うことについては既に何度も指摘した。我々は対抗上、本筋の真実史の解明に向かい、学べば学ぶほど脳のシワを増すべく鍛えねばならない。と云う結論になる。 |
れんだいこのカンテラ時評№1135 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 4月26日 |
れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その3 「信長殺し光秀ではない」を読んで、どう推理すべきか。れんだいこは次のように考える。八切氏の推理に反して、黒幕が国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社、使走させられたのが明智光秀と読む。ネオシオニズム系秘密結社の陰謀を見て取らない黒幕説を排斥する。加えて、明智光秀を犯人としても、その謀反の動機に於いて巷説の云うところの所領変更に対する抵抗なり、徳川家康接待に面目潰された故なり、その他諸々の欲望と怨恨に基づく犯行であったとする説を排斥する。真相は、明智光秀がネオシオニズム系秘密結社の指令に従い本能寺事件に誘われたと読む。その論拠は次の通りである。 まず、ネオシオニズム系秘密結社は、「この日」に誘い込む為に用意万端整えている気配がある。八切止夫著「信長殺し光秀ではない」に採録されたイエズス会資料から判明することは、当時のバテレン宣教師が信長の動静を克明にキャッチしていた様子である。開示されているのは一部の文書であろうから、その全貌が明るみになれば、より克明に判明するであろう。残念ながら用意周到に隠蔽されており、明るみにされているものは大半が改竄されていると読む。あるいは際どい記述の個所は削除されている。故に真相に辿り着けない仕掛けが廻らされている。こういう場合、高度な歴史推理を働かせる以外にない。 元々で云えば、信長はネオシオニズム系秘密結社の後押しを得て天下取りに向かった形跡がある。恐らく、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで頭角を表わした信長がバテレンの注目するところとなり、以降バテレンの後押しを得て天下布武の歩みを共に開始した。ところが、信長は権力の階段を昇り詰める度合いに応じてバテレン離れし始めていた。それはどうやら1571(元亀2)年の比叡山延暦寺焼き討ち辺りからではなかろうかと思われる。比叡山延焼き討ち事件の背後にもバテレンの教唆があったと推定できる。1579(天正7)年、安土城が完成する。この頃、信長はいわば絶対王権を確立した。信長とバテレンは互いに面従腹背の関係に入っていた。 本能寺の変の1ケ月前の1582(天正10)年5月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを誇示する殿堂を建て、参拝者の人山を築いた。これより前、信長とバテレンの宗祇問答の際、信長が「我こそ、まことの神なり」と述べたと記されている。しかしそれはバテレン側の悪意ある捻じ曲げであり、窺うべきは「今後はバテレンの命令を受けない。我の権力を優先させ我の思うところを施策する」との自律の言を述べていたと云うことであろう。ネオシオニズム系秘密結社が、信長のこの態度を不遜として用意周到に姦計を廻らし、本能寺の変へ向けてお膳立てをして行くことになった。この姦計に協力したのが堺衆と呼ばれた商人たちであった。この堺衆の正体を解析するのも一興であろうが本稿では割愛する。 信長の絶対権力が確立された時より信長の光秀バッシングが始まっている。バッシングの態様も様々に説かれている。これをどう読むべきか。れんだいこは、そもそも信長も光秀もバテレンの後押しを得た戦国大名であったと読む。その見返りとしてバテレン教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。当時、バテレン教は信長―光秀を頂点とする政治権力の庇護の下、旺盛な布教活動を展開していた。ところが、信長は絶対権力を確立した頃より日本支配を企むバテレンの陰謀に気づきバテレン離れした。これに対し、光秀は相変わらずバテレンの腰巾着のままであらんとしていた。その姿勢は信長よりもバテレンの指示に従うことになる。信長の光秀に対する憎悪はこれに起因していたのではなかったか。信長からすれば光秀のバテレン信仰は教条的なものであり既に病膏肓であった。信長は光秀の頑迷な頭脳に対して既に敵意を抱いていた。二人の確執は既に絶対矛盾に辿り着いていた。こう読むべきではなかろうか。 ちなみに光秀の三女の玉(珠)は筋金入りのクリスチャンであった。細川藤孝の嫡男・忠興の正室となり、ここに明智―細川閨閥が形成されている。明治期にユダヤ―キリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、この名が定着している。光秀配下の従弟(父の妹の子)の斎藤利三(その娘が春日局、利三の妹婿が長宗我部元親)はクリスチャンであったかどうかは分からないが、光秀を絶対的に支えることにより同様の役割を果たしている。光秀配下には、こうしたクリスチャン武将が相当数送り込まれていたと推測できる。この光秀軍が「敵は本能寺」とばかりに本能寺へ進撃したのは史実ではなかろうか。これを否定すると却って史実と合わなくなる。 |
れんだいこのカンテラ時評№1136 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 4月27日 |
れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その4 1582(天正10)年5月末、徳川家康が、本能寺の変直前、穴山梅雪と共に身の廻りに百余名しか引きつれずに上洛している。ちなみに穴山梅雪とは、甲斐国武田信玄の家臣で御一門衆の一人にして信玄の娘である見性院を妻とし、武田家滅亡の際、武田宗家の継承を条件に家康に内通して以降、家康の側近の地位にあった人物である。家康一行は、安土城で信長に謁見した後、堺へ向かった。 5月29日、これに合わせるかのように織田信長が御小姓衆三十騎と云う僅かの手勢で安土から上洛している。この時の家康一行と信長一行の「非武装」が両者暗黙の政治的協定による申し合わせだったのかバテレン陰謀に嵌められたのかは分からないが、ネオシオニズム系秘密結社が、この絶好機会を捉えて、キリシタン武将衆に「ヤレッ」の指令を出したのは確かなように思われる。こう捉えず、信長が家康を巧妙に誘い出し、葬ろうとしていたとする推理は下手の勘ぐりではなかろうか。れんだいこは、こういう説を採らない。 光秀が、バテレン指令を受けるかどうか呻吟し、呼応の決意を固めたのが愛宕山問答であろう。5月27日、光秀は、嫡男の十五郎光慶(みつよし)ら、わずかな側近だけを伴って山道を上り愛宕山を参拝している。5月28日、愛宕山内の西坊威徳院で、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」として有名な連歌会を催す。主催したのは威徳院・住職の行裕(ぎょうゆう)、宗匠(そうしょう)として招かれたのは、有名連歌師だった里村紹巴(さとむらじょうは)、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、行祐ら9名で100韻を詠んでいる。 里村紹巴とは当時の著名な連歌師で、愛宕百韻興行では「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでいる。本能寺の変後、豊臣秀吉に関与を疑われるも、「しる、なる問答」で難を逃れている。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導している。この里村紹巴と堺の豪商・千利休が繫がっている。その千利休は、1591(天正19)年2月13日、豊臣秀吉に謹慎処分を受け、半月後の28日、切腹を命じられ自害している。利休の死の要因について諸説あるが、本能寺の変に黒幕的役割をしていたことの動かぬ証拠を突きつけられ、抗弁できなかったと読むこともできよう。 もとへ。八切氏は、この時詠んだ光秀の発句和歌「時は今 あめが下しる五月かな」の意を平凡な季節の歌意として理解しようとしているが、指令応諾決意の歌と読むのが自然だろう。光秀に意を固めさせた裏には光秀反乱に呼応するキリシタン諸大名、参謀武将のリストアップがあった。そういうお膳立てを見て、この反乱は成功するとの確信があったが故の下剋上決意であったと解するべきだろう。 さて、信長が本能寺へ入ったのを確認した光秀軍が本能寺へ急いだ。但し、光秀は直接の指揮を執らず、明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれて本能寺を包囲したのが実相のようである。本能寺攻めには明智隊の他に「明智が手の者」とか「明智が者」と記される正体不明の部隊が投入されており、この「幻の軍隊」が主導的に立ち働いたようである。「信長殺し光秀ではない」によれば、実際に信長を葬ったのは、本能寺から一町とない(約90m)距離のすぐ側にバテレン教会があり、そこから暗殺団が送り込まれ爆殺した云々。よって信長の獅子奮迅の働きの後の「是非に及ばず」の言葉を遺しての切腹と云うのは講談物語でしかない。八切氏は、これがどうやら真相ではないのかと云う。但し、それにしてもどの史書にも遺体の記述がなく、「信長が、髪の毛一本残さず、灰塵のように、吹き飛び消滅した」と云う信長最後譚の不思議さが纏いついている。 ちなみにサイト「本能寺での爆発事故」は次のように記している。「本能寺には秘密の地下通路があり、それは、90M(70間?)くらい離れた南蛮寺(極楽寺)に通じていたらしい。となると、失敗の可能性の高いロケット砲をなどを使わずとも、南蛮寺から火薬を大量に本能寺に搬入し、火をつけるだけで簡単に織田信長を殺すことができる。何やら2001年の9・11の世界貿易センター爆破事件と似て来るが、イエズス会も同じ手口で織田信長を殺した可能性が高い」、「『信長の棺』によると、織田信長は、明智光秀の奇襲を受けた際に、その秘密の地下通路を通って、南蛮寺(極楽寺)に逃げようとしたが、イエズス会によって封鎖されており、そこで織田信長は、死んだと言う説もあるようだ」。「秘密の地下通路」の事実関係は分からないが興味深い指摘であろう。 ところで、八切氏は、光秀が現場に参戦していないことを不審し、光秀が信長殺しの犯人でないとする論拠の重要な一つにしている。しかしながら、光秀が本能寺の変の現場に居なかったことをもって光秀の犯行に疑問を呈するのは如何なものだろうか。大将には大将の武将には武将の役割があり、全体をコントロールする必要があって光秀は現場指揮をしなかっただけと受け取って何らオカシクないのではなかろうか。光秀も又本能寺の変に巻き込まれたと云う推理を生むことはできるが、光秀の関与を否定する結論にはできまい。 それより何より、「信長殺し光秀ではない」で教えられたことだが、事件後、光秀が征夷大将軍の任命を受けていたこと自体が光秀の立ち回り位置を示していよう。事件後、光秀は直ちに諸国へ密書を送り同盟を画策している。これも然りである。こうした史実の方が重要ではなかろうか。八切氏の見立ては、この史実と齟齬することになる。 |
れんだいこのカンテラ時評№1137 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 4月27日 |
れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その5 かくして、ネオシオニズム系秘密結社の狙い通り信長は殺された。但し、光秀の目論みは外れた。事前に根回しされていた光秀軍への呼応シナリオが狂いに狂った。それには家康を逃がした失態が大きかった。但し、穴山梅雪は、家康と別行動の帰路を急ぐなか、山城国綴喜郡の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で土民に襲撃されて殺害されている。田原にて明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もある。これを思えば、「家康の奇跡的脱出」をそのままに窺うべきだろう。 次に備前に遠征していた秀吉の反撃が早かった。本能寺の変を逸早く知らせたのが誰かと云う詮索も興味深いが割愛する。この勲一等者はそれなりの待遇を受けることになろう。信長の訃報を知った秀吉は急きょ毛利家と和睦し、トンボ帰りし始めた。この動きが伝えられるや、光秀の「三日天下」の恐れを感じ取った細川幽斎がまず日和り、細川の日和りが他のキリシタン武将中川、高山、池田、筒井らの寝がえりを生むと云う悪循環に陥った。こうして山崎の決戦を迎えたものの光秀軍は1万余の軍勢しか集められず、3万の秀吉軍に鎧袖一触(がいしゅういっしょく)された。光秀は逃亡中に土民に殺されたとされている。光秀が生き延び、徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した南光坊天海となったなる説は為にするものでしかなかろう。 次の天下は光秀を討ち取った秀吉が握った。秀吉の天下はバテレンの陰謀を封じたところから始まっている。秀吉が絶対政権を樹立するに従いバテレン追放令を出したのも歴史の勢いと云うべきものだろう。徳川政権の鎖国体制も然りであろう。この当時、世界各地でこのような政争が展開され、日本史の場合には僥倖にも信長、秀吉、家康と云う三代立て続けの有能政治家を得ることによって国家の独立と自律を担保し得たと読むべきではなかろうか。この頃よりバテレン先遣隊の陰謀により世界各国が植民地化されて行く歴史に比して有り難過ぎる幸運だったのではなかろうか。 もとへ。この時の秀吉の難題は、豊臣政権樹立に向けて先代政権の織田家の支持をどう取り付けるかにあった。次が先代信長と実懇にして最大勢力を誇っていた徳川家康の待遇だった。この二つをクリヤ―したところに豊臣政権が始まる。その後の動きは本稿から外れるので割愛する。 これが本能寺事件顛末の真相ではあるまいか。こう読むと、八切氏のせっかくの歴史推理と齟齬することになるが、八切氏が「信長殺し光秀ではない」で見せた随所の炯眼は評するに足りる。但し、その推理を採用するところ、非とするところを組みあわせて新たな事件像を構築せねばならないのではなかろうか。してみれば歴史は面白い。フィクション小説よりノンフィクションの方が「事実は小説より奇なり」で語りかけるものが多い。(完) 「れんだいこの八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評」 (kodaishi/yagirishikan/mituhideron/rendaiconosyohyo.html) |
(私論.私見)