8章、犯人はあなた、なのか

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1199信長殺し光秀ではない18」、「1200信長殺し光秀ではない19」、「1201信長殺し光秀ではない20(最終)」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 犯人はあなた、なのか
 買物
 「澳葡貼出通告(マカオニハリダシツウコクス)、禁懸蒋旗蒋徽(ショウカイセキノ ハタヤキショウヲカカゲルナ)」壁新聞である。薄青色の石塀に畳一枚ぐらいの大きさで貼ってある。「美蒋特務仍牙擦々」とか「紙上虚文並不等於現実」などという文字が、飛び出すように大きく書いてある。見当をつけて拾い読みしてみると、「ボン・ディーア」とコンニチハがかかった。振り返るとシンコである。眼鏡をとって化粧などしているから、初めは、ちょっと 迷ってしまい、誰かと思った。別に、ついてこいと彼女に言われたわけではないが、 向こうが声をかけてから歩きだしたから、つい後をついて壁新聞の側を離れた。なんだか群がっている中国系の連中に、後指でもさされ何か言われているような感 じだった。ボーイに食事の時に聞いた話では、孫逸仙が若い頃に、ここで医院を開いていた邸跡で、今では「孫中山博士記念館」といわれている建物の鉄扉と、ブロンズ銅像の背景になっている青天白日の大きな鉄の紋章が、昨日すっかり市民の手で撤去されたそ うである。なんでも孫文先生は良いのだが、紋が偽国旗だからいけないそうだ。言われてみれば、中共系百貨店のちょうど斜め反対通りになっている国府系の、参事処に翻っていた旗も、昨日からは、むしりとられたのか出ていない。もし閉鎖されてしまったら、 ここから台湾へ行く旅行者達は、英国領の香港まで出て、そこで査証を受けるしかないだろうと、旅行者の立場だから、すぐそんな事ばかり考えてしまう。

 彼女はと、振り返ると、いつの間にか、金属店の飾窓に立ち、頭を押しつけるよう 覗きこんでいた。もうじき、このマカオともお別れだから、何か贈ってやってもいいと、そんな考えもあった。だから、後ろへ引き返した。この辺の店は地金屋も兼ねているから、正面 には鉄格子をはめた帳場があって、「足金何円」といった日々の相場表が白墨で出ている。足金というのは二十四金、つまり純金の意味だそうである。札入を出して、私が支払うという仕草をみせたら、彼女は遠慮したのか、陳列ケー スの中から、細い透かし彫の入ったのを選んだ。だが、さて買う段になると、「エー・カーロ(高いわよ)」と、店の広東人には遠慮気兼ねもなく、値引きのかけあいをした。金というものは公定価格があるから、相場が決まっていて掛引はないものと私は思っていたが、さて決着した値段は、二割を越える割引価格だった。まるで丸薬でも入れるような、真紅のセルロイドの丸いケースに、指輪が納まって渡されると、店を出るとき私のポケットへ彼女は入れた。手提げを持っていないから、自分が手に持って歩くのは厄介だからと、それで面倒 くさがって持たせるのかと思っていたら、彼女は私の腕に縋りつき、暫らく歩いてか ら、変な事を言った。早口で、しかも、ふいに言われたりすると、なんだか、さっぱり外国語というのは 聞き取れないものである。

 こちらが聞く気で構え、耳をすまして相手の口許を見つめ、自分も、それをオウムがえしに、すぐ口の中でもう一回発音し直さない事には、私なんかは、ちょっと意味 がとれないのである。だから、変な事らしいと感じたのも、彼女が顔を赧らめたからである。何を言ったのかと、つい興味にかられ、「メ・ディーガ(なんだって‥‥)」と尋ねてしまった。すると、「ゾルテーイロ(単身者)なんでしょ」と、今度は女教師らしく、身許調べする口調で言った。滞在期間が切れて私が間もなく引上げるのは、彼女も知っているから、いまの指輪のお返しに、何か土産でもくれるつもりだろうと思った。好意は有難いが、私は持ってきた古史料だけでアルミのトランクに二つもある。だから断わるつもりで、「スイン(そのとおり)」と答えた。そして、余計な心配はしてくれるなと、続けるには、どう言ってよいか難しかったから、首を振って、おおいに言外に説明をした。

 すると、彼女は言った。「ヴァーモス(行きましょう)」と。だから、私は「オーンデ(どこへ)」ときいた。すると女教師は「シーガメ・ヴーニヤ・ポール・アキー(私についていらっしゃったらいいの)」と先に歩きだした。郵便局の方へ向かっていくから、手紙でも出すのかと、ついていったら、角を曲がった。「‥‥ヴァーモス・ア・イグレージヤ(教会へ行きましょう)」。彼女は微笑みかけた。私はぞっとした。もう少し前なら、このマカオの教会へ応分の浄財を捧げてもよい心地があったが、つい一昨日のこと、カジノですっかり負けこんでしまって、心細くて余裕なんかなかった。だから、財布をポケットから取り出し、ゆっくり相手にわかるように、「シント・ナウン・ア・ポデール・オブセキアール(悪いけど、とてもつきあいかねる)」と言うつもりだったが、最後を間違えてセキハンと発音してしまった。だから、意味が通じなかったのか、彼女は怪訝な顔をした。言い直そうにも、やや上がってしまって、財布を上から叩いてみせた。すると彼女は首を振った。そして私に寄り添ってくると、さっきポケットへねじ込 んだ赤いセルロイドケースを取り戻すように抜き取った。金がないとわかったから、危なくって預けてはおけないという気持ちなのかと、私はそんな風に思った。だが、一度買ってやったものを、まさか持ち逃げもしまいものをと、私は苦笑いを した。それなのに心配そうに、彼女は、中にあるかどうか確かめるように蓋を開けた。そして、ほっとしたように、摘み上げると私に見せた。あって当り前ではないかと、私が鼻白んだ顔をしてみせると、その指輪を私によこ した。金がないのなら、無理しなくてもよいから、これを先刻の店へ持っていって、返品してこいと言うのかと思った。気持ちは嬉しいが、そこまでしなくても差し支えないからと、私は首を振ってみせた。それなのに、彼女は悲しそうな顔をした。「ファゼール、なんとか」と言った。後のほうは小さく呟いたから判らないが、ファゼールというのは、ポルトガル語では何かしたいとか、して欲しいといった言葉である。そこで、「ケー・クール(何が したいか)」と聞き返してやった。すると、彼女は私に指輪を持たせると、それを自分の手にはめる恰好をさせ、そして低くゆっくりと、「カザールセ・コン(結婚したい)」と囁いた。言葉より身振りで判った。なんだ。そうだったのかと、私はやっと納得した。なにしろ文字だと、ゆっくり睨んでいられるが、話というのは、すうっと消え去っていく。だから、うまく掴めもできず、わかった顔をして、うなずいても、あまり自信はもてない。しかし、指輪をはめる仕草からして、どうにか意味はのみこめた。介添人にでもなってくれと言っているのかとやっとのみこめた。そこで「ナウン(うん)」と承諾した。すると、ほっとしたのか、彼女は多弁になった。  

 マカオから脱出する為の結婚だとも、言い出した。12月の暴動から、目にみえて 中国人が強くなってきて、ポルトガル人の彼女なんか、うっかり学校では、生徒も叱れないというのである。父兄の中国人が、前とちがって文句をすぐ言いに来る。とても手を焼くとこぼした。そして状況が一変してしまって、物を買いに行っても、商店の態度が前とは違ってきた。とても住みにくいというのだ。なにしろ、本国へ戻りたいにも、親代々ここで過ごしてきた彼女には、向こうに親類や身寄りがいない。だから何処かへ行きたい。出るためには、ビザを取るためにも結婚の必要があるというのだ。そうしなければ、もうマカオにいては窒息しそうなくらいに、すべてが息苦しいのだと彼女は言う。話をきいて本当とは思った。

 なにしろ私が通っている図書館だって、中国人の工員が不就労働管理をしているとかで、割れた窓の下に、硝子を入れた木枠の箱は置いてあるが、まだはめられていない。温かい所でバナナが実っているような土地柄だから、よいようなものの、一月だ というのに吹きっ曝しのままである。まぁ彼女は女性だから別扱いかもしれないが、ポルトガル人の男は、煙草売りさえも、不買同盟をやっているとこぼし、マカオなら香港ドルの一ドル、つまり日本円で七十円のラッキーストライクを、香港から一ドル五十セントで買わせている。

 一月前までは、支配者として四百年の歴史を保っていたポルトガル人が、今では、すっかりいじけてしまって、ひっそり閑として、あまり表も出歩いていない。だから彼女が息苦しくて、こんな狭い土地は厭だ。何処へでも行きたいというのは、判らないでもない。しゃべっているうちに、彼女は時計を見て、「アルーノ・タールデ(午後の生徒達 ‥‥)」と狼狽してみせた。だが、それでもまだ「こんな具合だと、吾々ポルトウゲースは、そのうちに、このマカオから一掃されてしまう」と口にした。「ナウン・ディーガ・タル(そんな事、言うもんじゃない)」と、私は慰めてやったが、彼女は首を振って、「アバンドナール(一掃)されてしまうわよ」と険しい顔をしてみせた。しかし、やはり昼からの課業が気になるのであろう。生徒を放りっぱなしにしておくわけにもいかないとみえて、「オウトウ・ヴエセ(じゃあ、後で‥‥)」と、作ったように笑って、急ぎ足で、灰色の石畳の道を昇っていった。
 降嫁
 「一掃する」という言葉を、口の中で日本語になおして繰返すと、どうしても、すぐ思いたってくるのは、天正10年の5月29日に、はたして何を一掃しに、信長は上洛してきて、本能寺に入ったのかということになる。蒸し返すわけではないが、信長は、その4年前の天正6年の4月に、在任してまだ足かけ6ヵ月目にすぎない「右府」を、さっさと弊履のごとく投げ棄ててしまった。愕いた禁中では、時の関白の藤原晴良が、直ちに自分が退官して、その位を信長にすすめた。「右府」の上の官位としては「内相」を、その昨秋に放り出した信長には、もはや「関白」しかなかったからである。しかし、信長にはその「関白」さえも魅力がなかった。これを拒んだ。そして年末になって、信長は九条兼孝をもって「関白」にさせた。「右府」の方も、ずうっと空位にはさせておけないから、せめて今しばらくは「右府」を続けてほしいとも懇願されたが、信長は翌春、自分の許へよく出入りしている二条昭実(あけみ)を以て、これを身代わりの「右府」にしてしまった。

 実力者の天下人の信長が何の官位も受けずにいるということは、禁中としては堪え難い脅威であり、圧迫であったのであろう。なんとかして、御所の官位の中へ入れさせ、安全保証を求めたかったのであろう。なにしろ信長は、次々と馬揃えと称しては、観兵式を挙行して武威を見せつけデモンストレーションをやる。時には弓、鉄砲で武装した連中を率いて、御所の中を乗馬のまま駆け廻って、今にもクーデターをしそうにみせる。大宮びとや女官共が真っ 蒼になって右往左往して逃げ廻ると、それを面白がって、にやにやと鞍の上から冷たく笑って眺めている。そこで禁中としては、すっかり、ねをあげてしまい、昔、平相国入道清盛しかなっ たことのない「太政大臣」の官位を、また復活させて、これを信長に捧げ、就任を求めようとした。「人臣を極む」という臣下としては最高位である。だから、これならば、 信長とても受けてくれよう。そして御所の一員として自分らの安全を引き合って保障 してくれようと、公卿共は考えたのである。

 しかし、これさえも思惑が外されてしまった。信長は天正10年2月、武田征伐に向かうために上洛すると、自分に提供されていた「太政大臣」の椅子を、惜しげもなく、 信長派といわれて、いつもご機嫌伺いに来ている近衛前久(さきひさ)を以て当てるようにと命令を出した。そして、さっさと信濃へ向かい、武田四郎勝頼を討ち、この5月は凱旋してきたばかりである。それでも信長は、安土へなど一応は立ち戻っていたが、長子の信忠のごときは軍装も解かず、京を見張るよう妙覚寺に待機していた。禁中としては、もはや何の対処の途もない有様だったろう。だからこそ、信長上洛と伝わるや、上御所の尊い身分にかしずく女性は周章てふためいて、お里方へ避難され、大雨の中を6月1日には、文武百官の公卿がまるで野良犬のように式台前で、持ってきた進物をつき返され玄関払いをされながらも、必死になって面会強要をしたのだろう。

 彼らは信長の野望をおそれ、できればなんとかしてくいとめようという努力を、これまでしたきたが、なんの効果もなかったから、この日は自分達の身のふり方を心配して行ったのかもしれない。しかし信長は、城中に祀ってあった神像を、その一月前から公開していた。ポルトガル人は、アポロというギリシャ神話の彫刻を流用したものだというが、いま愛知県の清洲公園にある銅像よりは遥かに立派であっただろう。

 さて天主教派の説く、 「この世に蘇えりたもう神」つまり地上に復活した、現世神として自己主張をうちだ した信長に、地上の王位を狙う気などは、実際にはなかったろう。そこで本能寺へ参集した公卿衆は、自分達の安全を計るために、まさか信長を担ぎだすわけにもいかないから、その長子の信忠を、主上の猶子(ゆうし)にでもして奉戴しようと、その申し込みに行ったのではあるまいか。というのは、信長に、御所の勢力を一掃するような不逞な精神があるものなら、弱体化しきっていた当時の禁中の実力では、いくらでも前に実行はできた筈である。だが信長は無視こそしたが、その様な暴挙は敢えて、それまで試みていない。おそらく源頼朝が鎌倉幕府を開いたように、安土幕府を作るぐらいの下心はあったろうが、自分が別の皇統を立てるような、そんな考えはなかったらしい。もし、それが漏れて いたら、時の主上としても、後醍醐帝のように、毛利氏や北条氏に「打倒信長」の宣旨を出されていただろう。又、そういう動きがあれば、信長が一掃すべく意気込んで来た上洛の意味もあるが、そうした事実はないのである。

 ただ、禁中としては、今までの経験上、官位を、てんで欲しがらず、勝手に自分が 「神」であると言い出した野放図もない信長を、「どう解釈したらよいか」、「扱ってよいか」前例がないだけに、当てはめる方式がなく、疲労困憊しきっていたのではあるまいか。なにしろ凡人共には、天才は得体の 知れぬものである。

 これまでは、なんとか、理解できる存在にしようとした。言いかえれば、信長を手なずける為に、内相にし、右府にし、その後は関白、太政大臣とあてがっては、失敗し続けていた。もう、こうなっては、御所中心主義の公卿達にしてみれば、「近寄って来ないものは敵になるかも知れぬ」といった恐怖観念しかなかった。なんとか自家薬篭中のものにしてしまわねば怖しいと心配したのだろう。そこで主上にも、とくと内奏してお許しを賜り、ときの皇女を、信長の倅の信忠にご降嫁させ、「親類付き合い」という安心できる線を考え出したのではあるまいかと想われる。信忠には、側妾は何人かいたし、三法師という幼児もいた。だがまだ正式に誰某の娘をと、嫁取りして決まっているわけではない。だから誠仁親王の妹姫にあたる方の中から、ご降嫁の案を出したものと、当時の状態からも考えられる。(未婚の皇女は三人あらせられる)

 そこで六月一日の夕方。公卿共がようやく引き揚げてから、すぐに二条の妙覚寺へ信長から使いが出され、信忠は本能寺へ呼ばれている。そして御所については詳しい、京所司代役にあたる村井道春軒も一緒に呼ばれて、いろいろと信長に聞かれもした。だから、公卿のもってきた話が、嫡子信忠に関係があると判る。ということは、言経卿記には、この日の公卿四十名と信長との団体交渉において、「大慶々々」と権中納言山科言経は、その日記にはつけているが、信長の方としては、それに確答を与えていないものと、考えざるをえないからである。

 だが、なにしろ、その翌朝、信長は本能寺で、信忠や村井春道軒は二条城で、共に髪毛一本残さず、ふっとんでしまっている。死んでしまえば、もう用なしである。何も心配することも、気遣いも要らない。だから、この日に、公卿共が何を提案しに行ったのかは、すっかり秘密にされている。何も書き残されたものも、伝わってはいない。ただ、その四年後。これを種に恐喝を働いた男がいる。時の皇太子であらせられる誠仁親王に対し奉って、この嚇かしはなされた。「‥‥親王様は、織田信忠が生きていては、将来ご自分が即位なさるとき、邪魔じゃと思われたのでござりましょうな」と、その男は言った。そして、じわじわ絡みつき「そんで、あなたさまは、信忠と、その親父さまの信長を6月2日に京で討たれ‥‥勿論、ご自分は素知らぬ顔をなさって、かねて、ご昵懇の忠義者の光秀を、殺し屋にお仕立てなされたが‥‥」と、いやがらせをした後で、「わしゃ、信長さまに飼うてもらって出世させてもろうた男で、天下様には、ひとかたならぬ御恩がある。わしゃ忠義もんだし、それに曲ったことは好かん。よし相手が、どない豪い方でも、御身分があられたとて、悪い事をなされた方は見過ごしはでけん。わしゃ、信長様の敵を、おめおめ許しゃあしませんぞな。不倶戴天の仇ですがな」と、厭みを散々に並べた後で「むかし下の御所、つまり二条御所に奉公しとった雑掌で、親王様の使いとして、明智光秀の許へ何度も行っとったもんがのう、恐れながらちゅうて、あなたさまが光秀に下知なされた時のお書付けを、すぐ火に入れて焼くように仰せつかっていながら、忘れくさっとってな、こちらへと届けにまいっとりますがのう」とか、又は「‥‥いろんな手証を揃えて、あなた様こそ信長殺しの発頭人じゃいうて、もとの清洲からの奉公衆どもが、なんとかしておくれんかねと、わしの許へ願い出てきて難儀しとるで、もう過ぎ去った事だし、それにあなた様は、えれえ様の身分だで‥ ‥いっそ洗いざらい、ぶちまけてしもうて、余が信長父子を成敗させたが、それが何が悪いちゅうて‥‥ひとつ御書面でも作られたら如何じゃろ」などと、手を変え、品を変え尾張弁で、あの手、この手で脅し続けたものらしい。

 
この結果が多聞院日記に出てくる。「誠仁親王は、はしかで急死されたとの発表だが、35歳の親王様が、子供のように、はしかで死なれるというのは変だと思っていたら、まことは切腹されたとかいって、自決されたのだそうである」という、あの記載になって残されている。もちろん、その後に「もう、これで、次の帝位には、秀吉がつくように決ったも同然だ」と出てくるから、親王を恐喝して自殺させたのは、秀吉その人だということもはっきりする。そして、誠仁親王は脅かされて自決をしているから、やはり秀吉が指弾 したように、信長殺しの黒幕は親王。そして忠義者の光秀は、言われるままに働いたが、結果は、あぶ蜂とらずの有様で殺され、まんまと脇から出てきた秀吉に一切をさらわれてしまったのだから、「誠仁親王はドン・キホーテで、光秀は、サンチョ・パンザだった」という仮定も成り立ってくる。また、「親王側の里村紹巴がおかしいから」どうしても、そうなると、誠仁親王が怪しい。そこで光秀がという論理にもなる。
 自殺
 しかしである。私のように過去に何回となく自殺を繰返しててきた者の体験からすると、恐れ多いが、誠仁親王は、絶対に信長殺しに無関係であられる。よく何か事件があって、その当事者が自殺をすると、「死人に口なし」という安易なきめ手からして、まるで責任をとっての自決。つまり「死んで、お詫びをしました」というような解釈を、勝手に都合よくされてしまうことが多い。「だけど、そんな事は滅多にない」と私は言いたい。他から、「死をもって償わされる」事はあっても、自分から、死をもって償うようなことが、はたしてあるのだろうか。私には信じられない。自然死というのは、一個の物体が腐朽していったり、腐蝕、腐敗して消滅してしま う、単なる現象にすぎない。つまり雨樋がボロボロに錆びて孔があき、どさりと落ちてしまうのも、人間の死も、それ程の大差はないようである。また、事故死ときたら、これは偶発的な産物である。全然予期せずにいて間違いで死んでしまうものなのだ。いわば、ミルク瓶を手から滑り落させてガチャンと、やってしまうようなものである。戦死も、やはり事故死に入るだろう。ナパーム弾にしろ、機関銃弾にしろ、向こうが勝手に飛来してきて、ドカンと当たってしまうからである。そりゃあ「生還をきしません」などと言ったり、「死んで御国のために奉公してきます」と、勇壮ぶったことは口にして出征をしても、それは覚悟というか「所信」といったような、その時に醸し出された感情にすぎない。そうでなかったら、出征した男子は全員玉砕してしまって、一人残らず未帰還になってしまう筈である。しかし統計的にみれば、戦死の割合たるや、局地別には全滅の地域はあっても、全体的には、動員された数に対してはいくら多くても、平均して1割7分は上まわった例はないのである。つまり「勇躍、死地に赴いた」としても、どうしても必然的に事故死にあいそうな最前線に出されない限りは、そうむやみと、みな死んでしまうものではない。戦記ものなどでは極端に死屍累々たる場景も出てくるが、あれは部分的なものであって、一般の戦死というのは、まあ「災難」に該当するような死が殆どである。

 だが、自殺は違う。これは間違って、あっと死んでしまうのでもなければ、腐敗菌にとりつかれて、カ ビがはえてゆくような、そんな死に方でもないのだ。つまり自殺とは、「死」という形式による一つの「抗議」であるし、また「抗戦」 そのものなのだ。たとえば、明智秀満が、講談本だと、狩野永徳えがく墨絵の雲竜の陣羽織をなびかせつつ、坂本城へ戻ると、味方として加勢に来ていた連中を落としてやる。ということは、自分だって逃げる意志があれば、いくらでも間にあうのに、それをしない。一緒に死ねる同行の者だけを残して、共に坂本城を爆発させて自殺行為をはかる。やはり壮絶な戦いの一種である。明智光秀が敗死したから、もう駄目だと、前途を悲観して、諦めをつけて死んだというのではない。また、妻の父の光秀に従って、自分も信長を殺し、世間を騒がせたから、そのお詫びを、死の形式でとったわけのものでもない。あれは、秀吉に対する反抗精神、つまり最後の決戦なのだ。口惜しいから、その存念を貫くため、死で挑戦するのである。というのは、もし生きながらえていたら、「信長殺しは光秀であった」という確認でもさせられるのは目に見えていたから、「そんな馬鹿(ほお)げた事ができるか」というので、腹を切り、煙硝に火をつけ自殺するのである。つまり自分自身の意志に反したくないという決断が、絶対に妥協を許さない孤高の精神が、その人間自体の「自殺」という最後の抗戦になるのである。

 この翌年、賎ヶ岳合戦で破れた柴田勝家は、北の庄へ戻ると、やはり一族郎党を集め、落ちたい者は落し、自分は腹を立て割りに切って、於市御前はじめ一党の者と共に自殺する。これだって、何も合戦に勝利を失ったから、自暴自棄になって死ぬのではない。「秀吉という男への批難、抗議を、腹を割ってでも、俺は最後まで撤回しないぞ」という心意気を見せるのである。私だって、やるだろう。於市御前だって、勝家が好きになって死なば諸共なんて甘ったるいムードではなく 「口惜しさ」の存念を、秀吉に向けて、死を以て挑んでいるのである。

 近頃では「人間の生命は、山よりも重い。尊いものだ(極端なのは、地球より重い、という。目方をどうして計るのだろうか)」という風潮が盛んである。またキリスト 教が今日まで自殺を禁じているのも周知のことである。つまり「自殺とは悪業である」 という思想が相当にひろがっている。そして、これを、(そうされては保険金を払って損をする)生命保険協会ばかりで なく、一般も支持している。 これは恐らく、自分は「自殺などしない」と思っている人が多いからであろう。だがキリスト教で自殺を禁じたり、仏教で同じ様に弾圧しているのは、それが植民地布教用のものだったからに他ならないのだ。機械文明が発達するまでは、原地人や輸入奴隷による労働しか、為政者や、それを取りまくブルジョアジーには、富の蓄積の手段がなかった。だから搾取しなければならない人的資源が、抗議をするため自決をされては、その労働力の稼動に甚大な影響があったからだ。

 アメリカの場合だって、せっかく一人でいくらと金を払い、アフリカから買付けをしてきた黒人に、勝手に自殺されてしまっては元も子もない。そこで、「‥‥主に召される日まで」、つまり老朽化して廃品になるまでは「働け、働け」と、ブルジョワジーをスポンサーにして、その寄附金によって運営されている教会の牧師は説教し、彼らを教化したのである。だから、自殺という最後の手段まで、教義という名のもとに奪われた彼等黒人奴隷は、そのレジズタンスの名残りとして、今の「黒人霊歌」を残したり、そのやるせない生きねばならぬことへの呪いとして、感覚を麻痺させるジャズを産み出したのである。必要は発明の母というが、これらは副産物。つまり自殺の代用品として、ひろめられてきたものでしかない。仏教の場合だって、坊主どもは檀那のために、使用人達が自殺したら「地獄へ行くぞ」と脅かしたものだ。

 さて‥‥人間の行為の一つとして、泣くという状態がある。普通は観念的に、「悲しいから、泣く」とされている。泪もろいというか涙腺のしまりが悪くて、テレビをみていても泪をポロポロ流す人もいる。私も、その一人である。だが、それは、あくまでも誘発的なものであって、いわゆる貰い泣きの範疇に入る。これは、決して自発的な泣きには入らない。それでは、本人自体が「ウオッ、ワアッ」とやるのは、一体どんな時かというと、これは 「悲しいから」というようなことではない。それは殆どの場合、「口惜しくてならず、泣く」のである。肉体の衝動的な抗議に、それは他ならない。そして、自殺も、これと同じである。やはり「泣き」の一つの極限状態なのである。

 誠仁親王が、自分で命を始末されたのは、何も悲しかったり、秀吉のいうように、 悪い事をしたからという、そんな自責の念にかられたからの結果ではない。絶対に違っていると言える。「帝位を奪わんが為に、無茶な言いがかりをつけてくる恐喝者秀吉」が「世間的には、金銀を撒き、きわめて人気をとって、太閤様と敬慕されている」その不条理に対し、親王さまは、「口惜しくてならず、無念である」と歯がみをなさったあげく、哭きに泣かれ、そして、「信長殺しは、まったく関知せぬところである」と主張をなさるため、死の抗議を以て、秀吉に挑戦されたのである。なにしろ、この時代の国家権力者は秀吉そのものである。親王様といえど、秀吉に対しては、それは弱者の立場でしかなかった。つまり、権力に対して、弱い者が抗議する途としては、今も昔も、自殺しか他に手段がないのである。

 ベトナムだって、仏教徒の弾圧に対しては、何人もの僧や尼が、ガソリンをかぶって焼身自殺をしている。しかしあれをもって、贖罪の自決とみる者はあるまい。とはいえ、あの状態は、抗議デモの先頭にたってやっているからこそ、自殺もまた、燃えるプラカードとして認められたのであって、もし僧院や尼院の奥庭で、一人で火をつけて、ひっそり自殺したものなら「前途を悲観して」ぐらいにしか、扱わなかったか もしれない。

 終戦時に、阿南陸軍相たちが自決した。「敗戦の責任をとって国民に謝罪した」ことにされている。だが、当人達はは、そんなことで自殺なんかできるものではない。「本土決戦」を叫び、その用意万端を整えているのに、勝手に終戦にされてしまった。癪にさわるから、死の抗議をしたまでである。もちろん、自分の死後の家族のことも考え、それに都合のよいようにと、また自分の死に共感を引くような、「価値ある死」という精神のもとに「良く誤解されるような遺書」は表向き書かれて残したかもしれな い。だが自殺というものは、腹をたて、口惜しさに堪りかねて決行しなければ、完全に遂行できるものではない。あの時点で、宮城前広場で集団自殺があった。「敗戦した国民の咎めを、死をもってお詫び申し上げた」ものとされている。嘘である。あれも、やはり死の抗議に他ならない。「憤りの死」なのである。

 つまりは「死んでお詫び」などというのは、ありていはフィクションの世界である。 「三勝」が、他人の亭主の「半七」をさらって、永遠に独占してしまおうとする時に、その残された妻の「お園」への、気やすめの言いごとに過ぎない。つまりは浄瑠璃の世界である。世の中には、夫を殺してから自殺する妻も少なくない。といって彼女らは、六法全書を開き、刑法何条かの殺人罪の項目をみて、悪いことをしたと気がつき、死んでお詫びをしますというのではない。「何故、殺さねばならなかったか」という必然性など、どうせ話したって、他人は判ってくれないだろうという肚立たしさ、つまり口惜しさが判っているからこそ、自殺するだけである。やはり「怒りの死」である。

 近頃は、入学試験の準備中や、その結果において自殺するのも多い。新聞記事では 「ノイローゼぎみ」だとか「失敗を悲観して」となっているが、あれだって、決して、そんな観念的なものではない。あれはあれで、試験制度への抗議である。そうでなければ、思うように勉学できなかった周囲の環境への、精一杯の口惜しさの爆発である。

 誠仁親王が自殺をしている点、並びに父君におわす、時の帝がやはり立腹されて割 腹なさろうとし、絶食し、断食自殺をなさろうとあそばされた事実からみて、「信長殺し」の元兇は、皇室関係ではなく、これは恐れ多くも、みな秀吉のでっち上げと判る。つまり、公卿衆は、人間的に発想の次元が違う信長の真意を推測しかね、6月1日に雨の中をデモ行為したが、これは勘違いに基づくもので、5月29日に、織田信 長が「一掃」しに出てきたものは、まったく方面違いのものであるということが、親王の自殺、おそれ多いが、時の主上の自殺未遂によって明白にされる。では、真相はなんであろうか。ということになる。
 犯人
 京都地区のカリオン司祭は、 「6月20日(日本暦6月2日)、明智軍は、銃器の火縄に点火して引金に挟むことを命ぜられ、槍も鞘またはキャップ代用の藁を解かれ、臨戦体制で進軍を命ぜられた。そこで兵士は、これは織田信長の命令によって信長の義弟(これは間違い)にあたる三河の王徳川家康、及び、その部下を一掃するものと考えた」と、この当時、その報告書を出している。やはり上洛してきた謎の一万三千は、明智の寄騎衆か、または丹波亀山衆に間違いないようである。寄騎衆といえば、高山右近をはじめ、みな信者か、さもなくば細川のように(信徒 同様に思ってくれ)とバードレ(師父)達に宣言するような者達ばかりである。もし丹波亀山とすれば、これまた内藤ジョアンの旧家来達ばかりで、カリオンのいる京都のドチリナベルダテイラ(天主聖公会堂)を、かつては、疎開させるために、足しげ く出入りしていた連中である。どちらも、みな信者だから、教会へ顔を出していた事は間違いない。なにしろ本能寺から一町とない距離である。しかも、当時としては、京都では唯一の三階建。この時代としては高層建築物である。本能寺の森のさいかち林にも、木登りをしていた者もいたろうが、首脳部は、この教会堂の三階に張り出されたバルコニーに登っていたことは間違いない。事によったらカリオン達から、南蛮眼鏡と当時呼ばれていた望遠鏡を借りて、それで本能寺を見おろしていたかも知れない。だから彼らを、カリオン自身は直接に見てもいるし、たどたどしい言葉で双方で話もしている。つまり、「三河の徳川家康が、身の廻りに百余名しか引きつれずに上洛してきているから、この際、これを一掃するのだ」と、いった話は、カリオンの想像ではない。直接に、この朝、ここで上洛してきた一万三千の首脳部から耳にしている話である。

 日本側の史料では、信長と家康は相提携して、極めて仲が良かったことになっている。 家康が、信長に狙われた話など従来どこにも出ていない。だが、百余名の家康を狙うのなら、信長は手軽に上洛してきたのも判るし、家康だって晩年になって老獪になったのではなく、勿論、若い時から、その片鱗はあったろうから、信長が抹消したがったとしても無理はない。それに裏書きできる事実が、後から出てくる。この2年後、家康は織田信雄を助け、秀吉と愛知県の小牧長久手で戦って和平した。だが、いくら求められても上洛はしていない。「羹の熱汁に懲りて、冷たい膾さえも 吹いて食べる」という諺があるが、どうも「前の車の輪がとれて転がるのを、後ろの車は眺めて用心する」という譬えもある。どうも、この天正10年6月に何かがあったのではあるまいか。この時‥‥よほど懲りた形跡がある。だからこそ、長久手合戦の2年目に、秀吉の妹(朝日姫)が、せっかく長年連れ添った副田甚兵衛と別れて嫁入りしたのにも、家康は腰をあげず、やむなく10月に、秀吉の母が表向きは娘の見舞いとして、実質的な人質となって岡崎城へ行き、そこで初めて交換に上洛するのである。

 これだけ用心するのには、前例があってのことだろう。さて、それとは別に、その不在中、本田作左衛門は、秀吉の母や妹の住む御殿の周囲に枯柴や薪を積み、いつでも焼き殺せる仕度をしていた。このため本田作左は、後に秀吉の激怒をかい、家康は彼を流罪処分にしてしまうのだが、作左の目からみて、家康は、長久手合戦のことより、その前に遡って、「何か秀吉に殺されても仕方のない事」があったのではあるまいか。もちろん6月2日の朝は、家康は堺にいたことになっている。だが、である。なにしろ、異邦人のカリオンの耳にまで、「信長が出陣前に一掃しに来た相手は、三河の王である」と云っているくらいなら、当人の家康の耳へは、もう早くから届いている筈である。知っていないわけはあるまい。家康にすれば難しい立場であったろう。噂に脅えて早目に引き揚げては、信長を頭から信用していないことになってしまう。そうすれば、もし今は噂であっても、それが、やがて本当にもなりかねない。すると、これは命取りである。といって噂を笑っていて、それが事実であったら、僅か百余の家来しか伴っていない立場では如何せん、もはや万死に一生しかない。

 この場合の究極の安全策は唯一つである。「先んずれば人を制し、遅るれば人に制せられる」という格言の実行である。もちろん自力では、なんともならない。苦肉の策ではあるが他家の者を援用するのである。まあ当今の言葉で言えば、代理というか下請けでもあろう。これで家康に白羽の矢を立てられたのが、明智光秀の家老の斎藤内蔵介という見方もできる。
確定史料はないが、光秀の支城の坂本城の城代が、光秀の娘婿の明智秀満であるなら、(勝竜寺城代は溝尾庄兵衛)本城丹波亀山の本物の城代は、この斉藤内蔵介しかない筈である。彼が亀山城代ならば、6月1日の夜、まだ光秀が降雨のため、下山していなくても、一万三千を集めて引率して出陣できる立場にあったと思える。そして、この事件において、彼が他に先駆けして働いたことは、誰の目にもついたら しく、言経卿記の6月17日の条にも、「日向守の内、斎藤内蔵介は、今度の謀叛の随一なり」と折り紙つきで明記されてい る。そして、その日に内蔵介は秀吉のために探し出されて、京都の町中を引き廻しの上で、六条河原で断罪にされた。

 
だがである。この内蔵介の娘の阿福が「春日局」という名前になって、江戸城の事実上の主権者となって、やがて現れてくるのである。俗説では、秀忠に、家光が生まれた時、然るべき乳母をといって一般公募をしたところ、京で彼女が応募をして採用になり、江戸へ行って乳母役になったという。だが「謀叛随一の斎藤内蔵介の娘」と判っていて採用するのも変だし、京と江戸で は面接もできない筈である。つまり公募というのは嘘であって、初めから春日局は、斎藤内蔵介の娘であるからこそ採用が決まっていたのである。ここに隠された問題がある。そして、普通の乳母ならば、乳の需要がなくなったら御役後免で戻されてしまうところ、彼女に限っては、65歳で没するまで、徳川家の一切を仕切ってきた。俗説では、家光の竹千代時代に、彼女が駿府へ行って家康に交渉して、国松を立てようとする二代将軍の秀忠と、その室を押さえ、ついに家光を跡目相続させるのに成功したからだという。だが家康は、どうして自分の倅やの嫁よりも、彼女の言う事の方を聞いたのであろうか。やはり斎藤内蔵介の娘だったからであろう。つまり家康が、それまで無事にいられたのも、ひとえに斎藤内蔵介が蹶起して信長を討ってくれた為であり、6月4日に岡崎へ戻ると、本城の浜松へは帰らず、すぐ出陣の準備をして14日には尾張の鳴海まで兵を進め、そこで21日まで、もたついていたのも、肝心な内蔵介に死なれてしまった為に、計画に齟齬をきたした為ではなかろうか。「自分は徳川家を救い、徳川家の為に死んだ斎藤内蔵介の娘である」という自負心がなければ、春日局のように、あんなに生涯、独断専横の振舞いができるものではないし、又、徳川家光をはじめ大老、老中とても、単に、ただの乳母だったら、あんなに好き勝手をさせておくわけもなかったろう。

 
権力の蔭には、何かが潜んで隠れているものである。斎藤内蔵介が、光秀を謀叛の名義人にしてしまった「ユダ」の由縁は、まだ他にもある。寛政6年甲寅10月書き出し写しの蜷川家古文書によると、「斎藤内蔵介の母は、蜷川(になかわ)道斎の妹。蜷川家というは、京の角倉(すみくら)一族にて、その 蜷川道標に、内蔵介の妹の栄春も嫁ぐ。これ寛文の頃の蜷川喜左衛門自筆の書付けなり」とある。細川藤孝が、長女伊也(いや)を吉田兼見の倅の兼春(かねはる)に再嫁させているが、その兼春の妹が縁づいているのが角倉了以(すみのくらりゅうい)の弟で蜷川寛斎である。みな内蔵介と一族である。後に徳川家康は、斎藤内蔵介の娘の阿福を、春日局にした上で、この角倉に対しても「角倉船」とよばれる海外貿易の特権を許し、今のベトナムからフィリピンまでの通商を一手に許可した。やはり斎藤内蔵介への報恩と受け取れぬこともない。

 さて、斎藤内蔵介の妹で、栄春の姉にあたる者がいる。これが四国土佐の長曽我部元親へ嫁いでいた。つまり斎藤と長曽我部は、義理の兄弟になっていた。ところが、その「長曽我部征伐の命令」が、この時点に於いて、信長から出されていた。信長の三男の織田三七信孝を主将にして、丹羽長秀、織田信澄が副将となって、四 国へ渡海すべく、5月11日から大坂、住吉に兵力を集め、21日から大坂城にあって出動準備をなし、6月2日に出帆することになっていた。3年前に建造された7隻の織田艦隊の他に、その後に新造された大船も、住吉浦に威風堂々と碇をあげんばかりに並んでいた。ところへ突如として持ち上がった本能寺の変で、今や出帆せんとしていた艦隊は混乱をきわめ、船から身を海中へ躍らせて脱走する者も相つぎ、出港は見合せとなった。信孝たちは、ひとまず大坂城へ引き上げた。「四国征伐をくい止めるため、長曽我部の義兄にあたる斎藤内蔵介が、その主君の明智光秀をつついて謀叛をさせたのらしい」という噂が、6月5日になって、大坂へ聴こえてきた。そこで信孝は、丹羽長秀と相談して、「もし光秀の謀叛とあらば、その娘婿にあたる織田信澄は、なにしろ昔、信長に背いた弟の武蔵守信行の忘れ形見ゆえ、危ないから早めに始末しよう」ということになった。すぐさま両方から手兵を出して、同じ大坂城内の二の丸の千貫櫓にいた織田信澄を攻め殺してしまった。そして11日に秀吉が尼ヶ崎へ着陣し、12日に大坂の富田(とんだ)まで先手が来ると、信孝と長秀は残兵をまとめて13日に合流し、山崎合戦へ臨むことになったのである。つまり当時としては、家康の事は表面には出ず、斎藤内蔵介が、義兄を助ける為に、資本を角倉財閥から借り出し、四国渡海を妨害すべく、やはり縁辺に当たる細川家の協力の許に、共同出陣の恰好で、乾坤一擲の博奕をしてしまった。だから遅れて上洛して来た光秀は面喰って狼狽したが、公卿達は信長を倒してくれて有難いと、畏れ多いあたりからも賞詞が出るし、なにしろ内蔵介は自分の家老だから、とうとう謀叛の名義人に担がれてしまったというのが、まことの実相らしい。

 もちろん、この時、内蔵介が先頭になって、何故謀叛をしたのか、江戸期の各書とも徳川家に対して気兼ねがあって、はっきり書けないから、川角太閤記では、もと内蔵介は稲葉一鉄の家来で、それが光秀の家臣になっていたから、一鉄の方で内蔵介の返還を求めている。戻してやれと信長に言われたが、内蔵介が厭だと言うから光秀が庇って、それを拒んだ。これが理由で、信長に光秀は疎まれだした。(果ては3月3日に叩かれまでした) そこで内蔵介は、「もともと、これは、自分ゆえに起きたことだから」と、獅子奮迅の働きをしたのだと書いてある。続武者物語では「斎藤内蔵介というは良い侍である。ああいう者を召し抱えるの は、何も自分の為でない。みんな信長様にご奉公の誠を尽くす為だ」と言った為に、光秀は信長に頭を敷居にこすりつけられ、折檻され、額が割れて三日月型の傷ができたという。つまり、どちらも斎藤内蔵介が原因で、本能寺の変は起きたのだから、内蔵介とい うのは、それだけ「価値のある男」だったと宣伝するもので、書かれたのは当然、これが春日局以降のものであることは確実である。
 春日局
 後年、関ヶ原の合戦の開始に先だって、清洲に集結していた山内一豊、黒田長政、 藤堂高虎らが、七の字の旗指物で知られた村越七十郎直吉を徳川家康から派遣され、共に木曽川を越えて岐阜城を攻め落とした事があった。その時、美濃への先導役を務めたのが、家康側に加担していた美濃妻木の城主の妻木雅楽助である。これは明智光秀の妻の弟に当たる貞徳の倅である。貞徳も信長在世中は光秀の推挙で岐阜城主織田信忠に仕え、伝兵衛といっていた。本能寺の変の後、彼は隠居しその倅に跡目を譲った。「雅楽助は、妻木頼忠の名で、天正10年に家督相続すると、秀吉から所領安堵の判物を貰った」と、これは寛政譜に記録されている。これをみると、秀吉にしろ、家康にしろ、「信長殺しに光秀が関係ない」ことは百も承知だったようである。でなければ、美濃の田舎の5、6千石の小領主に過ぎない光秀の義弟や、甥にあたる者を、あっさり無事に跡目を継がせたりしてない筈である。だから後年になって、家康の黒幕を務めた「天海僧正」というのは、実は生きのびて家康に匿われていた明智光秀の後身であるというような憶測が、世間に流布されるのである。つまり江戸初期においては、今日とはこと違い、「信長殺しは明智光秀ではない」というのが、定説として堂々と通っていたようである。

 では、誰の仕業かというと、神君家康公が、堺から、斎藤内臓介をつついて挙兵させ、ご自分も伊賀の山中を抜けて岡崎へ戻り、そこから内蔵介救援の三万の兵を率いて尾張まで出兵したところ、時すでに遅く光秀が敗死し、連絡のとれぬままに、内蔵介は捕らえられてしまった。しかし内臓介は、徳川のトの字も洩らさず自分の胸一つに畳んで死んでいったから、徳川家としては、それを徳として、彼の娘の阿福をとりたて「生涯気まま次第」といった扱いで、春日局として権威を張らせ、大奥だけでなく 「寛永通宝」の鋳銭から、政務一切が、彼女の権限に任されていたのだという見方も、ここに生じてくる。これは寛政15年2月の鳴海代々由緒書の中の6代目鳴海兵庫賢信の代において、天海僧正に見いだされて、彼が春日局に推挙された時、「銭についての故実」を下問され、直接では恐れ入るからと、天海の名で、報告書を出した兵庫が、その報告書の中の末尾に明白に書き残している。「銭とは、万物を買い調え候ところの代物にて、国中を、よく走り廻るものゆえ、 『御足(おあし)』と申し、従って足にはく『たび』も何寸とは云わず、その寸法を何文と申すも、かくの故にて候」と書きだしたるところ、春日局は、この上申書に大いに感悦し、ご機嫌になられて、老中筆頭の土井大炊頭を呼び出し、新銭の文字、並びに吹座の鋳造所の設営を下命あそばされたと、それには詳しく附記されている。つまり家光のために「おまんの方」を世話するような、やり手婆みたいなことは片手間で、それよりも男の老中共を指図し現今の首相のような役割をしていたのが、春日局その人なのである。

 
貞享3年9月14日の奥付のある小田原城主の稲葉美濃守正則の春日局譜略によると、「春日局中年の頃、金竜の懐に入る夢をみしかば、慶長9年、台徳公夫人崇源院が江戸にて出産されるや、民部卿局の奉上によって乳人になる。元和元年、その竹千代君12歳のとき、自殺をはかられる。春日局は直ちに駿府へ赴き、侍女英勝院を以て東照大権現家康公に密告す。よって竹千代君三代将軍家光となる(中略)。寛永18年8月、家光の嗣子生れ、翌9月2日に、春日局が抱きまいらせ、大老以下に拝謁を仰せつけらる。なお江戸代官町に宅地を賜りし春日局は、京都より一族の蜷川喜左衛門を呼び工事をさせ、この邸にて、寛永20年9月、病の床に倒れるや、家光公は三度、家綱公は二度、その代官町へ見舞にゆかれ、尾張、紀伊、水戸の御三家はもとより、諸老中は、日夜ここに詰めかけ、京の御所よりも勅使下向慰問あり、14日、ついに65歳 をもって歿す」という有様であった。

 まだ朱子学の渡来する前で、女権が栄えていた頃とはいえ、これではあまりにも奇怪すぎる。そして春日局は54歳の時、他の大名は次々と取り潰したり減封しているのに、豊前小倉10万石であった細川家の当時、隠居の忠興が「亡父斎藤内臓介と刎頚の交りがあった知音(ちいん)である」と称し、別に何の手柄もないのに、強引に、肥後12郡、豊後3郡の合計54万に加増移封させ、その倅の細川忠利を、肥後熊本城主にしてしまった。
これをみると「信長殺し」に、細川が直接加担していたことは、やはり疑いようもない。しかし、春日局が、単なる乳母だったか、どうだったかということは、これは別に問題がある。これは当時の官名の一つであるが、別に「乳母」が名乗るべき官ではなかったからである。これは、この信長殺しには直接関係がないから、<正説・徳川夫人>という本で解明するつもりである。

 さて、現代の歴史家の説くものでは「戦国時代の女性は哀れであった」の一本槍なのであるが、はたして本当は、どうだったのであろうか。内閣蔵本の中に、徳川四天王の一人の本多平八郎忠勝聞書というのが入っている。「これは寛政5丑年に忠勝の子孫の本多忠顕が、御書院に於いて披見して、祐筆に写し取らせたもの」という註がついている。町の草稿書きがリライトしたものでないから、信用できる本物と思う。この中から、原文のままで引用すると、「遠州中泉 御殿に被為入御意録」という中に、「武士の女房は上臈(じょうろう)めきたるより、少し顔付あらあらしきか相応なる ものなり。古へ武道を専らにせし世は、女の容色の第一とする大切の眉毛を剃落し、顔あらあら敷く見ゆる仕方、女も武を専らにせしなり。銘々、戦国の時は、女共の合戦における働きは、今時の男子の働きより勝れしなり」とある。今の歴史家の説くようなものとは、全然違っている。男女同権どころか、女のほうが戦さ働きでは勝っていたと書いてある。彼は「徳川に過ぎたるものが二つあり、本多平八に、からうしの兜」とまで謳われた豪傑である。その剛勇武者の平八郎が「強い」と折紙をつけるのだから、現代の女性のように口ばかりでなく、もっと強かったのであろう。

 さて、前述したような「戦国時代の女性は、みな哀れで悲しかった」などという、 お涙頂戴式の歴史家の説くものに惑わされていては、本当のことが判らなくなるが、「当時の女性は現代の女性よりも強かった」という同時代人の平八郎の体験談を認めるなら、ここで想起されてくる一人の女性がいる。 美濃旧記には、その人の名は「帰蝶」とある。だが、彼女が育てた中将信忠の幼名が「奇妙丸」(明智光秀の長子十五郎の弟の方がやはり「白奇丸」からして、私は 「奇蝶」)と、その名を推定する。天文18年(1549)、15歳で、1歳年上の織田三郎信長の許へ彼女は嫁いでき た。美濃から来たから、当時のことゆえ、「美濃御前(みのごぜ)」と呼ばれたが、 「み」の字は敬語に通じるから、夫の信長は上を略して、ただ「濃御前」とか「のうの方」と呼んでいたものらしい。信長が尾張の当主になれたのも、美濃国主の娘の奇蝶を妻に迎えていた為であることは、あまり知られていないが、信長公記第一巻の「村木の取出攻められしの事」には、「正月18日、那古屋城留守居に、斎藤道三より、安東伊賀守大将にて美濃より出陣。20日に那古屋近在に布陣。信長出でて、安東伊賀に厚く礼を仰せられ」などとと出 てくる。こういう状態であるから、里方の権力を笠にして、彼女も「女天下」だったらしい。
 安土城
 さて、天正10年頃は、どうかと思うと、信長記に、「安土城の留守居役を仰せつかっていた蒲生賢秀が、6月2日の夜、とても、この分では守りきれるものではないと考え、自分の居城の日野へ使いを出して、牛馬や人足を呼び、翌3日に、信長の上臈衆やお子さま達を、避難させた有様」が出ている。この中に、信長の長女で岡崎三郎信康に嫁ぎ、戻って来た後は独身で過ごしていた五徳姫が、混じっていたのは徳川実記にも出ている。だが、奇蝶は入っていない。日野別所へは疎開していない。ぷっつり消息を断ってしまっている。

 安土城は、6月5日に明智光秀が入城し、7日に、ここで勅使吉田兼見を迎えた。8日に、ここを出発するにあたり、光秀は長女の婿である明智秀満に坂本衆三千を預 け、安土城を守らせた。しかし13日の山崎合戦の敗報が届いたから、翌14日、秀満は、その三千の兵を率いて坂本城へ引揚げた。講談でいう明智左馬之介湖水渡りの場面であるが、まさか広大な琵琶湖を、三千の将兵を率いて泳ぎ渡れるものではない。実際は湖畔に道をとって帰ったのである。そして翌15日。織田信長の二番目の倅にあたる、昔の茶筅丸が成人した織田信雄が、日野の蒲生の倅で、後に氏郷となった忠三郎賦秀(のりひで)と共に迫った。さて七層建てで金銀に朱を以て飾られた天下一の名城。安土文化の殿堂である安土城は、この日に焼け落ちた。甫庵太閤記と秀吉事記は、明智秀満が退去の際に放火したものだといい、現在、安土町の小学校や、町役場は、この説をとっている。つまり「悪い奴は光秀だ」 といっている。川角太閤記と豊鑑には、何故か、この大事件は一行も記されていない。 兼見卿記には「安土のお城は15日に焼けおわりぬ」とだけある。しかし、この15日というのは、坂本城へ戻っていた明智秀満が、堀久太郎秀政に包囲され、その異父兄で先手大将として攻めてきた堀直政に、国行の刀、吉光の脇差 などの古美術品を目録に添えて贈り、光秀の妻女や自分の妻子を刺してから、煙硝に火をつけ、城もろともに灰になった日である。だから、明智秀満が火をつけたのは安土城でなく、自分の坂本城の方である。自殺の為である。なにしろ日本側史料は、光秀に関しては虚偽か黙殺かで、みな逃げをうち、まことに始末が悪い。

 しかし天正11年正月付のルイス・フロイス書簡によって調べてみると、「織田信長の建てた安土の巨大な城は、美術博物館のようにすばらしいものである。 6月2日に、父の信長、そして兄の信忠が死んでいるから、順番からゆけば、今や相続人は次男の織田信雄である。それなのに彼は、6月15日に、自分の物となる筈の安土城を、そこに敵兵が一人もいないのに攻めた。そして放火した。焼いてしまったのである。彼は気が変になってしまったのか。そうでなければ、これは生まれつきの愚者という他はない。ローマ市街を焼払った暴君ネロには、まだ火災を愉しむという目的があった。それなのに信雄は、安土城に自分で火をつけながら、顔を覆って、これを見まいとしていたという。だから目的もない。理由も判らない。全く痴人のなせる愚挙という他には、私は、その言葉さえ知らないものであります」と、いと明白に「放火犯人は、織田信雄」であることが指摘されている。まったくのところが、これでは参ってしまう。日本側に残されている史料だけでは、皆目何が何やら判らない。ひとつ間違えると、ぬけぬけと、あべこべのことが、さも尤もらしく書かれてある。

 勿論、私も日本人だから、安土の町の人々のように、日本の史料を信じ、明智秀満を放火犯人とはしたい。だが、そうすると、従来の日本史料のように、信長殺しまで光秀にされてしまう。異邦人の書簡の方が常識的には正しいというのも情けない話である。なにしろ坂本城で一族もろとも最期を共にする時でさえ、「天下の宝を灰にすべきではない」と、光秀秘蔵の郷の義弘の脇差だけは、冥土で渡すからと身につけて自爆 したものの、あとの美術品は一切すべて城外へ出し、死んでいったような律儀者の秀満が、前日の14日に安土を立退くときに「行きがけの駄賃」と放火して行ったとは、とても、それは考えられない話である。また秀満なら放火したにしても、まさか焼け落ちるまで止って、それを検分してい る暇はない。急いで引揚げねばならぬから、そのままで立ち去ったとみるべきである。そうすれば、当時は天下一の城下町といわれた安土だから、まんざら人間が誰もいなかったということはない。秀満らの退去の姿が見えなくなったら、人情としては、土地の者が駆け寄って消火してしまっている筈である。それなのに、安土城が完全に焼け落ちてしまったというのは、織田信雄が二万の軍勢で城を囲み、誰にも消火をさせず、じっと焼け落ちるのを検分していたからに他ならない。
だから「安土放火犯人」については、日本側の史料は、みな嘘で固めてあって、フ ロイス書簡の方に、どうしても真実性がある。

 さて「天下の財宝」と「安土文化の美術品」を一物残らず焼失させてしまった、この文化への叛逆人は、なんぼなんでも世間の指弾を受け「相当の処罰を受けたろう」と、今日の私などは想う。ところが、実際は、そうではない。あべこべなのである。安土城が焼け落ちてしまって集まるところがないから、その12日に尾張の清洲城 に、織田家の重臣の柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の四人が集った。これが、いわゆる天正10年6月27日の清洲会議である。問題の信雄も、6月13日に秀吉軍に加わって山崎合戦で明智軍を破った信孝も、 別室で重臣会議の結果を待っていた。信長の跡目、つまり織田家の相続は、秀吉が強引に主張して、二条御所で討死した長子信忠の遺弧の三法師を押しきった。しかしである。信長の遺領の配分となると、三七信孝と三介信雄とでは、誰がみても手柄が違う。信孝は曲りなりにも親の仇討ちをしたという名聞(みょうもん)があるのに、信雄は、伊勢にいて、山崎合戦には加わらず、土山に本陣を設けていただけで、15日に、明智秀満が兵を率いて空っぽにした後の安土へ向い、そこで安土城を 焼いてしまったきりである。それに、この二人は「信雄を兄として次男」、「信孝を三男とみて弟」の扱いをするが、同年生れである。といって双生児ではない。生母が共に違うだけである。つまり 互角である。だから誰しも、手柄のある信孝の方に、遺領の配分は多いものと目されていた。(4歳違いの説もある) 跡目の信忠の生きていた頃は、その同母の信雄が、ぶがよかったが、信雄の母は地侍生駒将監の後家娘で死んでいるし、信孝の母は神戸城主の小島民部の実母であった。信孝の方が有力だった。ところが重役会議の結果は、「三介信雄様の御手柄につき尾張一ヵ国を進呈し、ここに伊勢、尾張二国のご太守のこと」、「三七信孝様は、山崎合戦にての御働きにより、美濃一国をもって、そのご太守のこと」と、二倍の格差が、重臣達によって、つけられてしまった。秀吉と合流して、山崎円明寺川合戦で光秀の軍勢を破った手柄より、何故、安土城を焼き落とした方が値打ちがあるのか。

 フロイスは、愚人の所業と嘆き悲しむのに、何故、重臣達は、それを高く評価したのか。それに「安土城が焼け落ちるまで見張っていたこと」自体が、どうして、そんなに重大な価値があるのか。何も、これに関する資料は残っていない。ただ判ることは、この重臣会議に集った者で、秀吉以外は、その後、3年と生き長らえられた者は、いないということだけである。こうなると「ケネディ殺し」とそっくりである。柴田勝家は、翌11年4月24日に、秀吉に攻め落とされ自決している。池田恒興は、翌々12年4月9日、秀吉により岡崎攻めを言いつけられ、その子の元助と共に、岐阜と大垣城主になったばかりで死んでいる。勿論太閤記では、進んで突入、敢えなく討死となっている。しかし鉄砲で何者かに狙撃され災難で死んでいる。敵の徳川方でも「拾い首」の扱いになっている。丹羽長秀も、翌々々天正13年4月16日、秀吉から、越前一国の他に加賀の能美、江沼の二郡を合せ、123万石の大名にしてもらえて、喜んだのも束の間、病死している。「毒を飼われた」謀殺と言われている。旧臣長束正家の仕業で、彼はこの手柄で秀吉に取立てられたという。 さらに、それが証拠としては、跡目の丹羽長重は当代記や寛政譜によれば、加賀松任城4万石に減封されている。120万石から、僅かに30分の1以下扱いというのは、あまりにも計画的でありすぎる。織田信孝も、天正11年4月29日。その生母や娘を秀吉に磔付にされたあと、尾張の野間で自尽を命ぜられ死んでいる。誰も彼も、天正11年から13年までの間の、日こそ違え、当時は、みな4月に死なされている。4月とは、なんの月であろうか。殺人の月にでも当っているのだろうか。

 ただ一人、織田信雄だけが、安土城を焼いた手柄なのか、秀吉に殺されずに残る。しかし小田原落城後、秀吉は、信雄の領地を没収して追放処分にした。しかし桃山分限帳によれば、また呼びだして「棄て扶持1万7千石のお噺し衆」にしている。晩年になると、秀吉も、少しは優しくなったらしい。だが、最重要文化財である安土城を焼き払ってしまったことが、秀吉にとって、そんなに気兼ねをせねばならぬことだったのか。本来なら秀吉の性質上、とっくに消されて しまってもよい、この男だけが、秀吉の死後まで生き残る。「関ヶ原合戦にて西軍に加担したから失領」と、慶長見聞録にはある。だが、しかし、なぜか「徳川家康も彼に、改めて領地を贈っていること」が、東武実録には出ている。やはり安土城を焼き払ったことへの感謝であろうか。といって、この時代、「ペストが流行してきて、安土城に、その菌をもった鼠がいたから、焼き払ったのは、衛生有益であった」というのでもないらしい。つまり、そこに誰かがいて、その者が、もし生きていたら、秀吉にしろ、家康にしろ、みんなが迷惑する心配があったせいらしい。
 火屋
 「イスト・ヴエン・ア・セル(何を言ってるんです‥‥)」。ボール紙が硝子換りにはまった図書室で、私が縛ったままで保管されている古い書 付けの整理をしているところへ、シンコが、ずかずか入ってきて、肘の関節のところを引っ張るのである。しかも早口に何か言うのだから、聞く気でも判りはしない。面倒だから、私は紙とボールペンをつきつけ、筆談にしてくれと言った。すると彼女は、まず「trinta」と書いた。自分を指さしての数字だから、年齢の事らしい。初めは25だというから、それならシンコだと、私は、彼女の名前のように「シンコ」と呼んでいたが、「トリーンタ」では30歳である。どうして、そんな事を私に打ち明けるのかと、怪訝な顔をしたら、今から家へ来て、自分の母に逢ってくれと言い出した。何故なのかと考えていると、いきなり彼女は、手のふさがった私の肩に手をまわした。そして唇をつけてきた。甘いと聴えたが、よくきくと「アマール」と言った。そして、それだけではたらないのか、ボールペンで「amar」と四字のスペルを書いた。「‥‥愛する」と口の中で翻訳して、私は息をのんだ。警戒した。なにしろ私のこれまでの人生で、異性から、 こんな事を言われて、結果的に碌な目にあったためしはなかったからである。

 用心しながら、私は思ったよりも柔らかだった彼女の唇を、じっと見つめた。日本語で通じるものなら、この、出し抜けな申し込みを、あれこれ訊いてみたかったが、こんな場合、そんなにスラスラと単語を想い出して、それを器用につないでゆけるも のではない。それに私は、他人から愛されるような自分だとは、そんな好ましい誤解は、もう自身にはできない年齢になっていた。だから笑った。苦笑のつもりだったし、拒むつもりの嗤いだったかもしれない。しかし彼女は、それを自分の都合で、また誤解してしまったのか、「casar-se com(カザールセ・コン)」と書いた。発音した。ボールペンを、まだ指にはさんだまま腕をひろげ、倒れるようにもたれてきた。あまり使った事もない言葉だし、聞いたこともないから、なんだろうと思った。だが、ものには順序がある。愛するといった女が抱きついてくるのは、これは結婚してくれという事かもしれんと考えた。

 だから、用心して、顔を持ち上げ、顎を脇にまわして、彼女の重量を支えた。ブラジャーをしていないのか、胸のあたりが柔かいと思ったが、だからといって手を差し込んで確かめもできなかった。そのくせ、この女が、カジノのカードきりの、あの娘だったら良かったと、そんな事も考えた。だが、相手は、「テーニョ・ケ・リエ・ベテイール(ねえ、お願いがあるのよ)」と言った。そして早口に、次々と喋舌った。単語をつないでゆくと、ようやく意味が判ってきた。暴動後のマカオは住みにくいからと、ひと思いにトキオへ連れて行ってくれ。私は良い妻となって仕合わせに汝をしてやると言っていた。細い指輪を買わせたから、大きいのは高いから遠慮しての事と思っていたが、何の事はない、あれは婚約用のものだったらしい。つまり、なんでもいいし、誰でもいいから、男を見つけて、このマカオから他国へ出たいの一心らしい。そこまで気がつかずというか、向こうの言葉を判ったような顔をして頷いていても、案外のみこめないまま、介添えでも依頼されたものと勘違いして、先刻、うっかり返事をしたのは、まずかった、と急いで女の腕をふりほどいた。「エー・エノールメ(素晴らしいじゃありませんか)」と、包を解くのに立ち会っている年配のブロンドの女が、側へ寄ってくるなり、二 人の顔を交互に覗きこんだ。ここの図書館の主任である。喧嘩にもならない。そこで、ゆっくりと二人の女に、「エンガナール(誤解なんですよ)」と言ってやった。すると、彼女は、びっくりしたように、 「ラーステイモ(ひどい)」と、泣きそうに叫んだ。なにも向こうの思い通りにならないからといって、そんな言い方をされる覚えはない。だが、また何か言われ、うっかり生半可な返事をしてはと、つい固くなった。そうなると、せっかく解きかけた束をひろげて並べる気もしなくなった。だから女主任に返還すると手真似で説明した。

 すると、まだろくに紐を解いてもいないのに、貴重史料だからというのであろう、上から番号の数字を読んで、女主任は、二度も算え直しをした。仕方がないから終るまで私は待っていた。女教師も、まだ立っていた。そして、「インフエール(嘘つき)」とか「タル・テイング(こんなインチキ)」と、よく聞かせるためか、ゆっくり発音してみせた。いやな気分である。こちらは友達づきあいのつもりでいたのに、利用し損なったと判ると掌を返すより、もっと極端に、烈しい敵意をみせる。これが女というものかと思うと、相手がポルトガル人だと事もつい忘れ、「いい加減になさい」と日本語で睨みつけた。

 そして、(そうだ、安土城にいて、焼き殺されたのは女なんだ)と、今更のように納得できてきた。そういえば、あのとき6月3日に、日野の城主の蒲生賢秀が、二の丸にいた婦女子は一人残らず自分の城へ引取った事になっているが、もし、城へ残留していた者があ れば、それは、賢秀やその倅が知悉している筈である。だからこそ6月15日に、その蒲生の倅に案内されて織田信雄が兵を進め、誰一人として城から逃れられないように、完全包囲してから放火している。この時代、仏徒の方は、土葬だったから、寺には墓地というものがあって、そこへ亡骸を埋めたが、 神信心の方は、火屋(ほや)という小さな家のようなものを作り、その中に入れて火葬にしてしまう習慣があった。つまり城を枕に討死といって、火をつけて自滅するのは、なにも死んで行くのに城 を残していくのは勿体ないからとか、屍体を他人に見せたくないからと放火するのではない。城自体を「火屋」として、自分らの死を完遂する宗教上の慣しでもあった。だから信雄が火をつけて、安土城もろともに焼いた女人は、それが安土文化の殿堂であったとしても、それを火屋として、あの世へ持って行けるだけの値打ちのあった、身分の尊い高貴な女性ということになる。そして、その女性を焚殺してくれたことを、当時の秀吉や家康が有難がったということは、その女性には、彼らとて頭の上がらなかった権力者ということになる。当時、そんなに豪い女性は一人しかいない。美濃の斎藤道三入道の娘と生まれ、信長をして、尾張の当主にし、やがては美濃をとらせた、奇蝶御前しかいない。

 ----安土城跡の總見寺にも、妙心寺の塔頭にも、信長や信忠の墓は後年、刻まれて建っているものの、この奇蝶の墓だけは、美濃にさえもない。全国、何処にもない。彼女の死に関係した資料は全部、破却焼失処分をされ、美濃旧記にさえ入っていない。 だから歴史家は、彼女の扱いに難渋し、身代わりに、「信長信長正室は生駒将監女」と、信長20歳、奇蝶19歳の年に、第一子を孕ませた女をもって正室として、彼女に換えもしている。しかし現代とは、あの時代は違うのである。子を産んだ女が正妻になるというには、それは今の感覚でしかない。ペニシリンや消毒薬がなくて、出産は女の大役とされ、産褥熱で死亡率の高かった昔は、「腹は借りもの」といって身分の低い女に産ませ、出産と同時に縁を切らせて、次は、正妻が「乳人」に抱かせて、己が子として育てさせた時代なのである。生駒将藍というのは尾張の名もない地侍である。そこの女を信長が、どうして正室 に迎えるわけがあるだろう。当時の婚姻は、個人の感情、つまり現代のように恋愛ではない。家格と家格の取組みである。もし歴史家が説くように、のちの中将信忠が、生駒将監をの女の腹中に入った信長20歳の時に、奇蝶を離縁し、生駒氏を正妻にしているものなら、その3年後の弘治2年に、岡崎から駿河勢が攻めこんできたとき、 <村木の取出し攻められ候>の原文、「信長の御舅にて候の斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞いに遣はされ候。道三かたより正月18日、那古屋留守居として、安東伊賀守(安藤守就)大将にて、人数千ばかり、田宮、平山、安斎、熊沢、物取新五らを相加へ、見及ぶ様体(ようてい)、日々注進候へ(と道三入道が心配して)申しつけ、正月廿日、尾州へ着し越し候へ き、陣取り御見舞として信長御出て、安東伊賀に一礼仰せられる。一長(いちおとな=主席家老)林新五郎(林佐渡)その弟美作守ら不足を申したて、あくご(荒子)の前田与十郎城(犬千代の父)へ罷り退き候」。

 この林佐渡らの美濃への反感が、翌弘治3年の、信長の弟の武蔵守信行の謀叛騒ぎになるのだが、いくら道三入道がお人良しでも、娘の奇蝶の代りに、他の女を正室にされていて、信長から舅よばわりをされ応援を求められ、すぐ派兵して「見及ぶていを日々注進しろ、兵力が不足なら、追加もしよう」と、その家来にいいつけて尾張へ よこすのは、つじつまが合わなさすぎると考えられる。また生駒が正室なら、その一族で、名の残るような立身の者もいるべきなのに、そんな者はいない。信孝を産んだ板御前の方は、その前夫との子(小島民部)を信長は、荒神山で名高い伊勢神戸城主にしてやっているが、生駒姓など總見記にも残っていない。生駒氏が続けて信長の子を産んでいるのは、奇蝶が、あまり違った女に信長の種つけをさせるのを好まず、専用にさせていたのではあるまいか。つまり女として、奇蝶よりも容色が劣り、詰まらなかった女だったせいらしい。だから信長は、ホモになってしまったのである。もし、後年伝えられるように、手当たり次第に、よき女人と交われるものなら、どうして中年から、当代記、總見記、信長記に、びっしり出てくるように、万見仙千代に血の途 をあげて、あんなに徹底したホモになる筈はない。

 厳然として、奇蝶が正室として頑張っていて、「勝手気侭な女色は許さじ」と睨みをきかせていたからである。だが、仙千代は天正6年に死んだ。天正美少年記・参照。そこで一、二年は生存説もあって待っていたが、その代りとなると美少年も現われてこない。こうなると信長も、子供を産ませるために、後家ばかり用いるのは飽きがきていたらしい。やはり彼も普通の男である。だから、 「荒木摂津守逆心を企て」という信長記の一節に、こういう原文がある。「御人質として、御袋様を差し上げられ、別義なく候はば、出仕候へと御諚にて候と 雖も、謀叛をかまへ候の間、荒木不参候(まゐらせず)」。つまり、仙千代のとりあいになった時に、信長が、人質として家来の荒木に、御袋をやろうというのである。歴史家の中には、信長の母と誤読している者もいるが、この御袋様というのは、子を産ませた、その子達の御袋様なのである。いかに信長が仙千代にまいっていたかという例証になり、また、子を産ませていた女達が、どんなに詰まらん女達であったかという証拠にもなる。

 相当に、奇蝶はうるさくて、眉目よき女など、信長の側へはよせつけなかった模様が、これでもありありとわかる。その豪い女性の奇蝶こと「おのうの方」の墓が、日本中どこにもない。何故かというと、その真相は、昔から、「‥‥夫殺し」と思われていたからである。つまり《悪徳の権化》の女性として、どこの寺でも拒んで、寺内へ建てさせなかったのだ。
 女性
 浅野文書に収録されている天正10年10月18日附の秀吉の書状で、その名宛人となっている岡本次郎左衛門というのは、良勝ともいって伊勢神戸時代からの織田信孝の家老。もう一人の斎藤玄蕃允というのは、この時は、やはり信孝の家老だが天正10年6月1日までは織田信忠の家老。そして妙な話だが、戦国戦記・山崎の戦いによれば、「本能寺の変があった6月2日から、22日までは、岐阜城主となって、たとえ二十日間とはいえ、美濃に君臨していた」ということである。もちろん、22日になって秀吉が、織田信孝と共に不破の長松まで押し寄せてくると、彼は降参をしてしまった。ところが、この玄蕃允は、幼名新五郎といって、斎藤道三が長良川で討死する前日は、その姉の奇蝶の許へ落としてやった男である。叛乱軍側について、美濃一国を横領していた斎藤玄蕃允だから、秀吉も普通なら首を切るところである。それなのに気兼ねして、「ご縁辺の者にて、美濃の血脈の者ゆ え、何かと御領置の差配にご利便ならん」と、新領主の織田信孝の家老に、また推挙している。本人も昨日まで同じ城で殿様 をしていた身が、けろりとして家老になって奉公している。なにしろ、当代記6月2日の条の二条御所にて信忠を守って勇戦奮闘した顔ぶれの中に、小姓頭として出陣していた、この男の跡目の「斎藤新五郎」の名も入っている。だから忠義者の倅をもった余栄というのか、当時も疑われていないし、今も疑われていない。

 しかしである。いくら岐阜は京都に近いといっても、天正10年6月2日に、本能寺の変が勃発した日から、奇蝶の末の弟が、亡父斎藤道三入道の遺領である美濃を回復して、そこに君臨してしまうというのは、こりゃ穏やかではない。誰がどう考えても「里方の美濃を取り戻して、亡くなった父母の供養をしたい」と 願った奇蝶の差し金であることは、これ一目瞭然である。そして、そうなると、6月2日に、あの事件が起きる事は、奇蝶は前もって知っていたということになる。なにしろ6月2日以降は安土城へ入ってしまって、そこから一歩も出ていないのだから、まだ京都の斎藤屋敷に滞在していた6月1日以前において、美濃の弟へは、あらかじめ司令は出されていたことになる。そして6月2日の午後、安土への通行口。そこはフロイス日本史によれば、「信長は都から安土への道が楽になるよう琵 琶湖の狭くなった激流の瀬田に立派な木橋をかけ、横幅は畳四枚、全長は百八十畳、 橋の中央には休憩所まで設けてあった」という瀬田の大橋を、山岡景隆が焼き払ってしまったのも、京から引きあげ安土へ向かった奇蝶の命令によるもと判ってくる。なにしろ彼女は、山岡一族の本家である三井寺に、亡父斎藤道三をまつって大檀那だったからである。(家康の指示もあったろう)

 ゼズス会日本年報の記載によれば、「諸君が、その声でなく、その名を聞いただけでも、縮みあがって戦慄する人」と、ポルトガル人のバードレたちの間でも恐れられた信長。つまり、自分から「神」であると認め、「天上天下における唯一人の全智全能を誇っていた 織田信長」にとって、怖ろしい存在などは、この世にはないように、誰もが想う。ところが彼も、実体は人間であり、やはりアキレスの腱はあったらしい。つまり、 その泣きどころを一掃するために上洛してきたのが、5月29日ではあるまいか。なにしろ信長は、そのものに33年にわたって悩まされ、苦しめられていた。な んとか処置は、とりたかったろうが、信長のように別所出身の神徒系には、古来女尊系の「おかど」思想がこりかたまっている。なんとも束縛から身動きができなかったのであろう。「おかど」というのは、今でも野沢スキー場や上州の田舎に残っているが、旧正月に、「おっか」という女の顔と「ど」とよぶ男の顔を入口に立て、この入口を「おかどぐち」つまり「門口」といい、当時は、現在「笑い絵」と或る種の絵のことをいうよう に、おっかに、どのつくす勤労行為を「わらう」という古い大和言葉でよんでいたから、元日だけは骨休めをさせてもらえるが、二日からは「姫初め」ともいって「笑う」 行事をする掟があった。今日は単純に「いろはかるた」に入れられて、「笑う門には福きたる」となっているが、昔の、結婚後二十年、三十年の夫にとって、それは大変な辛苦なことだったら しい。 (この「おかど」が江戸初期に転化した「お雛様」をみても判るが、女体は「内裏さ ま」つまり至上を意味し、男体は「親王様」と、身分が遥かに下位になっている)そしてなにしろ当時は、今の「夫婦」が、まだ「女夫(めおと)」と呼ばれていた 時代なのである。

 信長は天正10年5月1日に自分から「神」になると、この際「ど」のほうもやめてしまおうと、うるさい古女房を一掃するために、29日に出洛したのであろう。と書くと経験のない人には判るまいが、なにしろ女性自身でさえ、結婚の条件に「ババァ抜き」というぐらい、女の古手の口やかましいのは、同性でさえ怖れをなすものである。まして男。しかも信長のように押さえつけられてきた人間にとって、彼女を一掃することは(当時奇蝶は48歳であるが、現在の68ぐらいに、よい化粧品もない時代だから、ふけていたであろう) これは、多年の懸案でもあったろう。そこで、つい心浮々として「京へ、一掃にゆく、そして、中国へ向かおう」と、しきりに洩らして吹聴してしまったのであろう。だからこそ、これが広まってしまって、当代記にも、「一左右次第中国へ可罷立之旨曰(まかりたつべくのいわく)」とあるし、信長公記にも「御一左右次第、罷り立つべきの旨、おふれにて」と、みんな書いてある。ところが、世の中には幸せな男もいて、「女の恐ろしさ」など知らずにいる者も割りといる ものである。だから、この連中は、まさか、その名を聞くだに身の毛もよだつ怕(こわ)い織田信長が、京にいる古女房の奇蝶を掴まえハムレットみたいに、「尼寺へ行 きやれ」と一掃しに来たとは知らないから、互いに脛に傷ある連中は、それぞれ、 「‥‥一掃しに来た、われらであろう」と脅えきってしまった。まず御所では、女嫌いの信長ゆえ(奇蝶に虐められてきたしっぺ返しか、非常に彼は女にはきつくあたっていた)女御が、29日に、お里へ緊急避難をされた。言経卿記  翌6月1日になると、「一掃されるのは、我々宮廷勢力ではないか」というので、 関白太政大臣以下、右府、左府、内相、一人残らず、御所を空っぽにして、本能寺へ雨中のデモをかけてきた。玄関払いをしたのに上り込まれて、5時間も6時間も自分の事を各自に喋舌り込まれ、信長はうんざりしただろう。それまで自分の結婚に懲りて、倅の信忠や信雄には、決まった嫁を持たせなかった信長も、皇女のご降嫁には将来を考えて心が動いたのか、夜になって、信忠の考えを聞こうと、跡目の当人を呼ばせた。奇蝶は、5月には京にいたから「信長が一掃にくるのは、御所の事ではあるまいか」と公卿どもが心配して、誠仁親王の妹姫を織田家へ降嫁させる話も耳にしたであろう。それが、義理の子とはいえ信忠と判っていたら、別に暴挙はしなかったろうが、てっ きり夫の信長の許へ降嫁と、女だから客観的に考えず、自分本位に判断して周章てたのだろう。

 側室の上臈(じょうろう)なら、何人つくられたところで、子作りのためだし差支えはないが、畏きあたりからの御降嫁とあっては、自分が妻の座を放逐されるのは目にみえている。とても、いくら美濃の今は亡き斎藤道三入道の娘であっても、これには太刀打ちできたものではない。そこで、美濃衆の稲葉一鉄の娘である斎藤内蔵介の妻を呼んだ。そして、「美濃人の手で、美濃を取り戻すため」とでも言ったであろう。家康は「一掃されるのは自分らではあるまいか」と噂に狼狽し、信長が5月29日、京へ近づくと知るや、直ちに、その日、京から脱出。船便のある堺へ、まず避難 した。斎藤内蔵介は、かねてより実力をもってしても、なんとか四国討伐をくい止め、義弟にあたる長曽我部元親の危機を救おうとしていた矢先だから、「三河から援兵をもって、すぐ駆けつけてくる」という家康の申出を、すぐさまのんだ。奇蝶からの話も、まさか(ものはついででござる)とは言わなかったろうが、すぐさま承知して、光秀が愛宕山へ上っているのを幸いに、丹波亀山へ急行したのであろう。

 
京都教区長のオルガンチノは、かつて、そのオルガンチノ書簡に、「日本の重要な祭日に、信長の船の大いなる七隻が海に並んだ。私は、すぐ堺へ行って、それらの艦隊と備砲を調べた」と、マカオへは報告してやっていたが、その後、また倍加された織田艦隊が、大坂の住吉浦に勢揃いしているのを調査し、信長が軽装のまま上洛しているのは、これは乗船するためとにらんだ。そして、「6月4日に四国征伐に出帆」というのを、オルガチーノは、てっきりカモフラージュと思った。そこで、東インド管区巡察師ヴァリニヤーノが、この2月に少年を引率して日本を去る前に言い残した言葉を想い出し、ヴァリニヤーノに同行してきた者が、書き残していった、ロレンソーメシア書簡を再びひろげた。「‥‥このゼンチョ(異教徒)信長は、すこぶる尊大で、さながら神の如く扱われ、尊貴の念をうけ、まるで世界に彼に肩を並べる者は、よし天上にあっても何もないと信ぜられている。なにしろ長子の信忠も彼にならって尊厳であり、何者でも直接に話などは許されない。しこうして彼らは殺掠を好み残酷である」と、それには信長の残 忍さが、いろいろと例をあげて綴られていた。(あの織田艦隊が南支那海へ向かったら、神の名による都市マカオが危ない。吾々は、今こそ、神のおんために、身を捧げるべきである)と、オルガチーノはすぐさま準備にとりかかった。なにしろ信長がいつも京へ来て泊るのは、いつも最近は本能寺であるし、そのため、わざと数十メートルと離れていない此処へ三階建をもっている彼らである。

 
----オルガチーノは「神の栄光」のために、自分を犠牲にすると誓った。だが、い ざとなると部下に後をまかせ、遥か九州の沖の島へ逃げてしまった。事前に秀吉の密使との打合わせがあった模様だが、その詳細は伝わっていない。だが、激怒されたフェリッペ二世陛下のために、マカオへも戻れなくなった彼を、 秀吉は生涯保護し、他の宣教師は追放しても、彼だけは静かに日本で死なせてやった。「殺られるのは、きっと自分であろう」とばかり、共同謀議はしていないが、結果的にはそうなって、実行兵力は、斎藤内蔵介の指揮する丹波亀山衆。内訳は、丹波船津 桑田の細川隊(指揮者は加賀山隼人正)福知山の杉原隊(指揮者は小野木縫殿助)亀 山内藤党(指揮者は、木村弥一右衛門)と認定される。

 本能寺を包囲したまま3時間も3時間半も待っていたのは、奇蝶の使いが明智光秀 を探しに行って「彼を名義人」当時の言葉でいうところの、「名代」にしないことには、斎藤内蔵介としては「家老の私では身分からいっても今後の運営に差支えがござる」と言い出したので、当てもなく、それで待機していたのであろう。ところが目と鼻の一町もない「ドチリナベルダデイラ(天主教真聖教会)」から秘かに持ち出されたのが轟然と一発。最新舶来のチリー硝石による新黒色火薬が、ドカンと本能寺へ投げ込まれ、すべての計画が齟齬してしまった。光秀が上洛する前に、一切合財が終ってしまったのである。かねて情報を前もって握っていた秀吉だからこそ、この知らせが入ると、途端に、備中高松で、「これで、すべて秀吉の殿の思い通りになられましたな」などと黒田官兵衛に言われてしまうのである。

 そして天正10年6月13日。つまり事件後11日目に、光秀を山崎円明寺川で破ってしまったものの、これは単なる勢力争いのようなものに見られがちで、当時として は、信長の仇討ちということにはなりそうもなかった。といって「誰が信長殺し」かを突っつきだしたら、自分も脛に傷があるから、「女天下」である当時の社会情勢において、秀吉は、「信長殺しは奇蝶である」という結論をうちたてた。そして、その真犯人とされた奇蝶を泪をのんで葬った。つまり、「親の仇討ち」をするため安土城を焼いた織田信雄をもってして、山崎合戦から12日目の清洲会議では、これを殊勲甲として2ヵ国の太守にしたのである。そして秀吉は、「だが‥‥どうも不審である」などと当日、怪しむ口吻を洩らした柴田勝家、丹羽長秀、池田勝入斎、織田信孝を一人残らず次々と、みな消していったが、奇蝶を下手人にしておくために、安土城を焼いた信雄だけは、自分の弁護人として、生涯、殺せなかったのである。

 
家康は「これ一重に斎藤内蔵介の志であった」と、その娘の阿福を、春日局にした り、「細川の働きも、あだには想えぬ」と54万石の褒美をやってもよいと遺言したりした。国家主権者の暗殺などというものは、白昼公然とパレード中の大統領を狙撃しても、背後関係が政治的にややこしく、20世紀の今日でも判らぬものなのです。まして16世紀の信長殺しとなると、お読み下さるのは、数時間でおすみになられたでしょうが、昔の言葉でいえば「苔の一念」で、私は22年と5ヵ月かかりました。つまり、「信長殺しは誰か」というのは、元禄時代までの女権の天下では「奇蝶ことお濃の仕業である」として一般には通用されていたのが、その後の男尊女卑の時代がきて、「男は強く、女は優しいものだ」という封建制が固まってくると、「織田信長を殺したのが女ではおかしい」と、明智光秀にすり換えられて、そのままで俗説が罷り通ってしまったのです。そして、この事件の鍵を握る徳川政権が、徹底的に、この史料を握りつぶしてしまったので、謎のまま385年も経過してしまったようで す。そして生前、とても偉大であったように、より良き誤解を与えてしまった為に、天正10年6月2日に、各方面から、その「一掃の目的」が自分ではないかと、より悪く 誤解され、その連中が、期せずして共同作業の形で「信長殺し」を国際的なスケールで敢行したようです。勿論、徳川家康には、信長を殺したい必然性は確固としてあったのですが、これはまた後日にしましょう。

 さて最後に申し上げたいのは、いずれ機会を改めて書きますが、奇蝶こと「おのうの方」を、どうか、気の毒ですから、悪く想わないで下さい。女にとって、愛というのは血の流れだけに限定されるものです。生涯、子供を産まなかった(現在の経口避妊薬ですか中絶薬ですか‥‥江戸期までは「月ざらえ御くすり」の名で馬琴の本にも広告があるくらい流布していました)彼女にとって、愛する者は、父の斎藤道三だけでした。その父の死が、信長の謀略だったとしたら、彼女が復仇したのも無理からぬことでしょう。だが、結果的にはプランを立てたくらいで、秀吉とか家康といった、役者が上の男どもに利用されて焚死となれば、これこそ歴史家の諸先生がお書きになる御本のように、「戦国時代の女人は哀れであった」ということになるのでしょうか。偉大なるが故に不幸な女性でした。「竜は、女を怒りて、その裔(すえ)の残れるもの、即ち、神の戒しめを守り、イエスの証しを有(も)てる者に、戦いを挑まんとて出でゆきぬ」(ヨハネ黙示録第12章第17) ----というような結末になったのです。(完)




(私論.私見)