7章、ああ忠臣・明智光秀

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1197信長殺し光秀ではない16 」、「1198信長殺し光秀ではない17 」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 ああ忠臣、明智光秀
 勝負
 「KENO」と大きく出て、脇に「金路彩票」と但し書きがしてある。 「CASINO DE MACAU」にも、まるでふりがなのように「澳門旅遊娯楽 有限公司」と漢字がついている。立ち止まって読んでいると、いきなり、「ヘーイ。一等は15万ドルよ」と緑色の四角い紙を渡される。1から80までの数字が上四段下四段に十単位に印刷されている。適当な数字を選んで「数字買投」という枠の中へ書き込んで投票すると、鉄格子の、銀行の窓口のような構内で、吹き上げビンゴのガラス鉢の中の、プラ スチックの数字のボールが、ぐるぐる廻って、どれかが一個、真ん中の枠に吸い込まれれる。すると、それが当たり番号になって、「KENO」と叫んで、その数字に 出し投げしてあれば、15万ドルくれるのだそうだ。つまり、一枚が十ドルだから、百枚買って千ドル。番号は80までしかないのだから、1から80まで一枚ずつ買えばよい。すると8百ドルの投資で、どれかが当ることになる。これなら儲かる。だから一枚ずつに金を張りたいというと「プシン(だめ)」と、青い制服の男に断られた。何故かときいたら、 「お客は、あなた一人ねえ。商売ならないねえ」と、間のびした日本語で説明された。なんでも普通なら、このホールに身動きできないくらい客が詰めかけて、二万枚ずつ売り上げ、それで、ひと勝負になるのだという。一等の15万ドルは一人きりだから、同じ番号が何百人いても、一人になるまでは同点決勝をさせる。だから、2万枚売れば20万ドルで、一ゲームごとに、胴元は5万ドル入る勘定だそうである。それなのに、わたし一人が客で、8百ドル出してもら って、一枚ずつ買われては、15万ドルは出せっこない。どうしても一人でやるなら2万枚買ってくれなくては困るのだと言われる。まぁ、聞けば無理もない話だが、何故20万ドルを出して一人で同点決勝をしてまで、15万ドルの当たりをとらなくてはならぬか、こちらには、あまり良いはなしではない。「どうして、こんなに閑なのか‥‥誰もいない」ときくと、例の暴動騒ぎから、客足がばったり落ちてしまって、どこのカジノも空っぽだそうである。そこで、ずしりと重たい緞帳のような濃紺のビロードのカーテンをあけかけると、ボーイがとんできて、すぐ案内してくれる。 だが、やはり奥も閑散としていた。「ガチャンコ」と呼ばれるアメリカ製の当て物のマシンが三倍、五倍、十倍と、その比率の掲示を出して、まるで区分されたように百ぐらい二列に並んでいた。最高は五百倍と千倍だった。香港ドルの大きなのを入れて五、六回はじいてみたが、まだ出る回数まできていないのか、てんで絵が合いそうもなかった。試しにやってみろと、ボ ーイにも1ドル銀貨を渡してみたら、彼はニヤッとして、機械の穴へ入れるかわりに、 自分の腰ポケットへ、サンキュウと入れてしまった。ここのホテルのボーイでさえやらぬものを、こっちがやっても仕方がないと、次の緋のカーテンをあけさせて隣室へ入ると、入った途端にルーレット台があった。まるで遠心率の応用みたいな勢いで、白いピンポン玉が、ぐるぐる廻っていた。アメリカ 人らしい七、八人が、熱心にカードに数字を記入しては、ちびちび分散しては賭けて いた。1、13、36、24、3、15、34、22、5、17といった配列は、ラスヴェガスでもどこでも、統一されたルーレット用の組み合わせだそうだが、別に奇数偶数が揃ったり、重なっているわけでもない。しかし、この順たるや、思うような目には入らぬ順序らしい。次のコーナーは、もっと簡単に「大小」とよぶ、数字の丁半で、双方にさえ賭けておけば、儲からなくても損はないと人気があった。だから、ここが一番人数が多かっ た。それでも、どうにか腰掛けが埋まる程度だった。なにも暴動があったり、町の書店で毛沢東語録がとぶように売れているからといって、カジノの賭博には関係がないようだが、やはり旅行者を客にしているから、訪れるのがばったり減って、足が遠のき影響しているらしい。ちらほら目につくのも、団体客のアメリカの老人観光客達ばかりで、ちびちび夫婦で相談しあって賭けていた。

 次のコーナーへいくと、もう、ここは一人も客がいなかった。薄紫色の制服を着た 女が、一人でうつむいてトランプを切っていた。だから、トランプ占いでもしているのかと足を止めたら、顔を上げた女の瞳が、他のコーナーの女の従業員と違い、空のような色をしていた。じっと見すえると、すこし、雀斑(そばかす)はあるが、きりっとして綺麗な顔立ちをしていた。だから、つい側へ寄って危なっかしい発音で、「ケーレ・エンシナールメ・ア・ジヨガーロ(その遊び方、教えてくれる?)」と声をかけてしまった。すると向こうも、此方を暫く瞶めていたが、首をのばして、「コン・ムイント・ゴースト(喜んで、教えてよ)」と、カードをきる手真似をしてみせ、ゆっくりわかるように言った。ということは、 こちらが使ったポルトガル語が聞き取りにくくて、それで自分の方は、判らせるように間延びするくらいな発音をしているのだったろうが、そこまで考えるより、見た目の綺麗な女と、どうにか話が通じたという満足の方が、こちらには強かったらしい。まるで、お茶でも誘われたみたいに前の椅子にかけてしまった。「ヴイーンチ・イ・ウン(21)」と刻みながら娘は赤い唇で言った。トランプなんで何処へいったって、やり方は決まっている。21のやり方ぐらいは、私だって知っている。1ゲーム10ドルというのに、見栄っ張りの私は百ドル紙幣を出してみせ、おつりをという言葉の発音が想いだせないままに、台へ、そのままに置いた。だから、続けて十回やったらしい。なにしろ一回ずつの区切りが判らなかった。それに、こういう勝負率というのは、嘘でも五回に一回や十度に一度は勝ちが廻ってくるものなのである。だから、そのうちには、こちらも、つきが廻ってくる筈なんだと思って待っていたら、向こうの娘が次に口にしたのは、「メ・デー」だった。そこで、もう5月一日は、とっくに過ぎているから、きっと閑散としたこのカジノの従業員が、この際に待遇改善要求のために組合活動を始めるから、これでトランプ遊びは止めにしてくれないかと、言われているのかと、うんとうなずいたら、「メ・デー」とまたやられ、今度は手を差し出された。 そこで、ようやく日本語メーデーと違って、ポルトガル語のメ・デーは「寄越せ、払え」だったんだと財布をあけ香港ドルの百ドル紙幣を抜き出すと、それも白い女の指にすうっと抜かれるように引き抜かれていった。

 (21合せのカードかと考えていたら、これは21回競技だったのか)と、ようやくの事で気がついた。すると、後一回きりの勝負なんだと、少し慌ててきた。なにしろ普段、金なんかどうだっていいんだ。入る時には入るし、入らない時には入らないんだと、いつも自分で思っている。ということは、しょっちゅう吝であくせ くしているから、それを自分でも訓戒しているわけだろう。だから、なんとかして最後の一回ぐらいは勝たせてもらって、せめて損を半分ぐら いに取り戻したいと、「テーニコ・ケ・リエ・ベテイール・ウーマフアブオール(ひとつ、聞いてもらいたいんだ‥‥)」、「ファーサメ・エツセ・ウーマ・ヴエース(一回だけでいいから、言うことをきいてほしいんだ)」。続けては言いにくいから、二つに分けた。どうも配っているカードが、向こうの方 にだけ圧倒的に有利らしいから、最後の花をもたせて、この一回だけは逆にまいてほしいんだと、手真似で掌を丸めて、その内側に指をこすってしごいてみせた。ところが、 「ナウン・テイーガタル(駄目、そんなこと)」赧くなってそっけなく言われた。だから、こちらも、それなら、もう一回きりで打ち切って帰ると、今度は見栄をはらずに、張り合わせのチョコレートみたいな分厚い一ドル銀貨を卓上へ置いた。そしてルーレットなら、まだ偶然という事もあろうが、こんな相手と向き合っての勝負に、21回目に、つきが廻ってくることもあるまい。また続けて、次の21回戦で巻き上げられては、帰りの航空切符も買えなくなると、「アテローゴ(あばよ)」と、配られた札も見ずに、腰を浮かせた。勿論、内心では、 相手の娘が、こちらの伏せたままのカードを、さあっとめくって、まあ凄いとかなん とか言ってくれて、勝たせてくれるかもしれんといった期待はあったのだが、どうも、そうはいかなかった。 娘は、こちらのカードへ手は伸ばしたが、仰向けにしようともせず、そのままかき寄せてまた切ってしまった。そして、ただ一言、「‥‥スイント・ムント(すみませ んでした)」と言った。そう言われてしまって、こっちが侘しくなってしまって、さらわれていく一ドル銀 貨を眼で追っていると、さも、その気持ちを覗くみたいに、「‥‥エーラー・ステイマ(泣けてきちゃう)」と娘も続けてくれた。そんなに私が帰ってしまうのは、この娘にとって悲しむべき事なのかと、それを、 せめてもの心の慰めにした。 そして、立ち上がって、出口のカーテンの所まで行って振り返ると、やはり、娘は突きだすように顎を前にして、じっと見送っていた。だから、あの娘は、まんざら、そんな悪い娘でもないんだと、満足してみた。しかし、カーテンの外へ出てしまうと、他に客がいるのなら、カードを切るのにか、カードを切るのに忙しくて、見送りなどできるはずもない。あれは、私が席を立っては、一人も客がなくなってしまうから、それで手持ちぶさたで眼を向けていたのだろうと、そんな気がした。そういえば、あの悲しそうな眼の色だって、別れが辛いというより、一度も勝たせずに切り上げさせたから、しまった、もう二度とはくるまい。うっかり してしまったというような、後悔の色ではなかったかと考える。なにしろ、向き合って座ったからといって、互いの気持ちなんかは、自分の都合で良く解釈するか、又は悪いようにしか、判断をしようもないものである。そうすれば、あの時、つまり天正10年の6月2日から13日までの間の光秀も、自分で誤解し、 他からも誤解され、ただ狼狽しきったままで、日を過ごしてしまったのではなかろうかと、図書館へ向いながら考えてしまう。

 だいたい、今日では、「明智が者と見受けられ候。と言上すれば、是非に及ばず。と御上意なされ」とある信長公記の部分から推察されて「怨恨説」がひろまっている。つまり、信長は光秀に殺されても仕方のないような酷いことをしていたから、明智と聞いただけで、脛に傷をもっているから、もう駄目だ。是非に及ばず、と早速に覚悟 をつけてしまったのだろうと、解釈されている。そして、光秀に与えた残酷な仕打ち。どんなことで怨まれたかを立証づけようと、おかしい俗説が、いろいろ尤もらしくある。カードで負けた金のことなんか、考えたくもないから、気を紛らわそうと遺恨説を一つずつ思い出してみた。
 好色
 落穂雑話にのっている光秀怨恨説は、寛永期のものというが、それより2百年ぐらい後の文化・文政期のものらしい。と解釈するのは、なにしろ内容が、まるっきり歌舞伎の仮名手本忠臣蔵だからである。光秀が塩谷判官で、気の毒に信長が敵役の高の師直に配役がふりあててある。話はこうである。ある日、城中で信長が「佳い女ごは、居らぬものか」と、春情をもよおして尋ねたところ、「居りまする。絶世の美女がいまする」と、柴田勝家が早速に返答をした。「その様な美女ならば、何故、そのほうが貰わぬ。まだ独身のくせに何をぬかすか」と仰せられたところ、勝家が鬼のような顔に、口惜し泪をはらはらこぼしながら、「まこと遺憾に存じまする」と、男泣きに哭きだしてしまった。哀れに想って信長が、「してまた、何故に」と下問すると、「あいにく、もはや、光秀めが先取り仕りました」と、無念そうに訴えた。すると他の家臣達も、それに口を揃えて、「恐れながら、当家家中において、その美麗なること、惟任光秀の妻にまさる美形は 居りますまい」と、一同で誉めそやした。 あまり言われると、信長も、つい好奇心に駆られたのか、そこで、「そのような、たぐい稀なる美女ならば、なんとかして一目なりとも見たいものであ る」と、洩らされた。承った家臣の者は、殿に褒美など戴こうと、あれこれ思案をした あげく、「明後日の朔日の祝いには、女房衆も必ず安土城へ御出仕あって、しかるべし」と、一軒ずつにふれてまわった。だから光秀の妻も、御上意とあれば止むを得まいと仕度して、さて一日に出かけたところ、お垣根の長廊下を渡ってくると、いきなり庭先の樹蔭から、さあっととびつき、羽交い締めに押さえつけに来た男がいた。まさに乱暴狼藉である。突嵯の事に愕いて、初めは声も立てられなかったが、いざ物蔭へ曳きずりこまれて危うくなると、そこは武将の妻のことゆえ、波うつ動悸を確かと押さえ、心丈夫にもち直し、「夫のある身ぞ。慮外すな」とばかり、この時、手にしていた扇子で、丁々発止とばかり、その不届き者を、懲らしめに叩きのめした。しかし髪も衣裳も乱れて、信長の前へは出られそうもないから、「にわかに、加減悪くなりましたゆえ」と、そのまま届を出して退出してきたところ、城中で夫の光秀がそれを耳にして心配して帰宅し、「如何せしぞ。いずこが塩梅わるいか」と、当時、京で天下一と謳われた名医まで頼むような大騒動。これには、光秀の妻も、もはや包み隠して、己が身の操でも疑われては大変と覚悟をして、「実は、かく、しかじかの次第」と、泪ながらに口惜しく思って事情を話した。すると光秀も、あまりの事に仰天しながら、「して、その者の人相は」とせきこんだ。妻女が「かくかく、しかじかであった」と、それに答えたところ、今度は光秀が、はらはらと落涙して、「さてさて、気の強い女ごというは困りもの。何故そのような乱暴を、なしたるか」と俄かに態度が変わり、天を仰いで歎息をした。「異なことを仰せられまする。夫のある身が、他人に肌身を許してよいものか」と、妻女が詰めよったところ、光秀は声をひそめて、「‥‥本日、上様の頭は瘤だらけであった」と、うちあけた。さすがに、それを聴いては妻女も、「あれが信長様とは知らなんだ。如何しましょうかや」と狼狽したが、もはや後の祭り。 まさか光秀とて、今から妻女を伴って侘びにもゆけず当惑しきって、「後の祟りがなければよいが」と心配していたところ、やはり、喰物と色気の怨みは恐ろしいもので、今度は光秀が諸人の面前で、扇子で頭を叩かれ、額を割られて血まで流すような始末になった。仕返しをされたのである。そして、次々と、我慢ならぬ苛め方ばかりされるので、「もはや堪忍袋の緒が切れた」と、ついに6月2日、本能寺へ押し寄せた」と言うのである。

 もちろん、この話を裏付ける史料などはない。 兼見卿記の天正4年10月14日の条に、「惟日女房衆(光秀の妻)病にて平癒の祈祷を依頼さる」とあり、その十日後の日記に「元気になりし旨にて、光秀の臣の非在軒(ひざいけん)が銀一枚を謝礼として持参す」又、11月に入って、二日の条に 「見舞のため京二条の光秀邸を訪う」とあるのが、似通っているきりである。光秀夫妻は住込み奉公でもない。明智軍記というのは俗書で信用し難いが、それにも、本能寺の変における光秀の年齢を55。その妻女を48としている。もし、それから逆算してゆくと、この天正4年は、光秀の妻は42歳である。芝居の顔世御前に見立てるのは、とうがたち、少し無理ではあるまいか。なお、柴田勝家は、佐久間盛政らを従えて9月から加賀へ下り、越前の一向門徒と 戦っていてアリバイがある。光秀が信長に打擲されたのが原因で謀叛したという説は、直接型というか(やられたからやり返す式で判りやすい)。つまり説得力があるというので、多くの本にのっている。有名なのは、川角太閤記(原文は前掲)に掲げられているのが最も代表的で、信長が光秀に、3月3日の節句の当日に、「その方の家臣の斉藤内蔵助は、もともと稲 葉一鉄の家来で‥‥一鉄から返すように言ってきて居るによって、戻すがよい」と下命されたのに対して、素直に「はい」とお受けすればよいものを、とやかく口返答をしたから、「おのれ不埒者め」と信長が立腹して、髷を掴んで突飛ばし、脇差しにまで手をかけようとしたが、光秀が逃げてしまって、それで済みはしたものの、「万座の中で赤恥をかかされ暴行を受けた」と、光秀はこの時から謀叛を決心したと、6月2日の夜明け前に、重だった重臣達に打ち明けたという前に述べた話である。

 これの亜流として、続武者物語になると、 「信長はおおいに立腹し、光秀の首筋を敷居にすりつけ、木槌のように何度も叩きつけた。ために、光秀の額から血が流れとんだ。しかし、それでも光秀は、30万石の大禄を戴いているのは、良き家臣を召抱えて上様に奉公する為であって、叱られる筋合いはないと言い張ったから、『おのれ、強情者め。言わせておけば御託を並べおる』 と信長は激怒し、『もし脇差を帯びていたら一刀両断にするところだが、汝には幸いなことに余は丸腰である。よって一命を助けてとらすが、次は真っ二つにしてく れよう』と言った。そこで光秀は折檻された悔しもさることながら、次は殺すと信長に言われたから、先んずれば人を制し、遅るれば人に制せられるは世の習いゆえ、先に本能寺を襲ったのだ」というのである。当時の光秀の所領の石高を、川角太閤記は35万石だが、これは30万石。どちらも違う。4、50万石である。そして、額から血がたれて、光秀が「やあッ」と見得をきって怨めしそうにする場面が、さもシリアスなのでと、芝居などにはこれが用いられている。そして川角の「3月3日のお節句」というのは訝しいから、続武者物語では事件発生をば、「庚申待ちの夜の酒宴」という設定にしている。これは義残後覚という古書も同じである。

 但し、この方は、もっとリアリティーになっていて、生理現象によってわかりやすくしている。つまり、「あまり度々、光秀が席をはずして厠にゆくのに、信長は興をそがれて胆をたて、いきなり槍をとって廊下へ出てゆき、戻ってくる光秀を掴まえると、『これ、きんかん頭、よく聞けよ。なんで、わりゃア、ちょこまか部屋をあける。さぁ、その罰に首を刺し通してくれようぞ』と、平伏している光秀の頭に、いきなり穂先を突きつけた。まあ、その場は座興ということになって光秀は許されて邸へ戻ったが、ひりひりするから懐紙を襟首に当てがってみると、まるで赤い花片のように血が滲んでいる。さては、本当に刺されたのかと逆上して、さてこそ平生より、この光秀を邪魔に思われ、亡きものにせんと欲してござる信長様の御本心。やれ情けなや怨めしや。かくなる上は『君、君たらずんば、臣も、臣たらず』とかと、謀叛の決心をした」というのが概略である。やはり血を見てから興奮したように、その反応をわかりやすくしている。つまり、よほどのみ込みが悪くて、こうでも書かないと納得しない相手のために、幼児用にでも、これは書き下しをしたものらしい。

 だが、単に「庚申待ちの夜」というだけでは、時と処の設定が漠然としているからと、これを天正10年5月、信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、安土へ凱旋した晩と限定したのが柏崎物語である。内容は同じで、光秀の生理現象に起因させているが小用となっている。こうなると腹下しより始末が悪く、そんなにひっきりなしに尿意を催すというのは、事によったらトリッペルらしい。だが、これより30年後に、マカオから鉄砲の火薬硝石と共に、中南米のジフリスが輸入されだして、はじめて「唐瘡(かさ)」と呼ばれていたが、「唐淋」の方もやはり入ってきたのだろうか。祖父物語になると、安土まで凱旋させずに、場所を、信州諏訪の法華寺の本堂という説明である。そして、まだ、そうした病気の輸入は、時期尚早と認めたのであろう。病菌などをあまり活躍させるかわりに、光秀の舌先の方を働かせている。 「光秀は信長の前に伺候して『かようなめでたい事はござりませぬ。この光秀も。ずぅっと骨折りましたかいがありまして、この甲斐から信濃にかけ充満しているは、織田の旗と兵にござりまするなぁ』と、ぬけぬけと言うものだから、信長公も胆をすえかねられ(この甲州攻めは滝川、河尻、それに蘭丸の兄の森勝蔵や団平八どもの手柄である)と眼を光らせ、『とんでもない、呆げた言い条ではある。丹波攻めの係りのその方が、いつ、この甲州へ兵を入れたと申すのか。他人の手柄に嘴を入れよう とは横着千万な』と、烈火の如く憤られ、光秀の頭を、本堂の欄干に何度もぶっつけられ折檻された。そこで、やがて眉間が割れて、たらたらと血がしたたり、それを自分で見た光秀が『よくも男の面体に傷をおつけなされた』と、逆恨みして、翌月2日、諏訪の仇を本能寺でとった」というのである。

 ところが、史実としては、「3月18日、信長は高遠の城に御陣をかけられ、19日に諏訪法華寺に御居陣」となっていて、「4月2日、雨が降り時雨に候えども、信長公は諏訪より大ヶ原に御陣を移され、3日には武田勝頼の甲府の新府の城の焼跡を見物され、ついで恵林寺にて、快川長老以下百五十余人を焼き殺し、10日には笛吹川を渡って富士見物」となっている。つまり、二ヶ月も時日が相違しているし、それに、この頃は「向え傷の氏康」又は「氏康顔」とう言葉が広まっていたくらいな時代である。この十年前の元亀2年10月に、56歳で死んではいるが、相州小田原城主の北条氏康は、上杉謙信を破り、武田信玄をも追い払った当代の豪傑で、顔に三ヵ所の向う傷があったところから、その異名があった。つまり、元亀天正の頃は、顔に傷があるのが「武者顔」と呼ばれて名誉にされていて、前に書いたように信長の近衆の堀久太郎も、眉間の傷で有名だったくらいである。「男に額に傷をつけるとは、ひどい仕打ちのなされ方」という発想は、やはり江戸期の文化文政時の頃に、辻講釈で始まった肥後の駒下駄という講談で、下郎が眉間を下駄で割られて発奮するという話から借用したものではなかろうか。そうでもなければ、光秀が額を怪我して復讐を誓うと言う趣向は、少なくとも18世紀迄は、刀を帯びる階級には想像もつかぬ発想であったようである。何しろ今とは違って、相手を恐怖させるようなのが、男の顔としては、もてはやされていた世の中である。武辺閑叢というのにも、「女には用いず、男子のみ『男前』などと言うは、男前傷の略されしものにて、かぶ き者などは、ことさらに己が面体に傷を自分でつけ、意気がりて立てぶるなり」というのがある。その頃のかぶき者というのは、今日の歌舞伎役者のことではなく、愚連隊のような旗本奴のことであろう。ただし、写本で挿入の半紙には正徳壬辰、つまり1712年に書き写したとある。その五十年あたり前のものではなかろうか。「旗本白柄組」の後、色々あったようで ある。
 馳走
 光秀謀叛説として、一般的なものは、兼見卿記の天正10年5月14日の、「徳川、安土に逗留の間、惟任光秀在荘ゆえ、信長より仰せつけられて、この間の用意馳走以外なり」(原文)という記載を誤訳したものが多い。つまり「在荘」というのは自宅休暇。当時としては軍指令から解放された賜暇の事なのだが、一般に何荘というと、雀荘もそうだが、旅館名に多いのと間違えてしまい、「在荘」を「光秀荘」としてしまったものに、まずなんといっても川角太閤記がある。そして「馳走以外なり」というのを、これまた間違えて「馳走が意外なり」としている。つまり、この結果が、「信長は、徳川家康の宿を光秀邸と定めた。ところが下検分に行ったところ、夏のことなので鮮魚の傷みが早く、既に異臭が匂っていた。そこで信長は『かかる馳走にて、 もてなすは意外なり』と、家康を泊める家を堀久太郎邸に変更」となったというのである。そして、その後、例によって尤もらしく、「その時節の古き衆の口は、右の通りと、受け給わりそうろ。しかし信長記という本には、家康卿の御泊は、大宝坊という寺であったとあるから、まぁ二通りの説があると御心得下さいませ。さて日向守光秀は、この為、面目を失ってしまい、せっかく接待用に整えた木具(きぐ)の椀や、魚をのせる板台、その他、用意して取り寄せ てあった魚類の篭を、中に鮮魚を入れたままで、全部、お壕へ投げ込んでしまわれたが、なにしろ信長公が臭いと仰せられた品々ゆえ、その悪臭は、安土中へ吹き散らされ、臭さひどくてみな気色が悪くなったと、相い聞こえ申して居りまする」となっている。この中で気にしている、太田信長公記の原文は、その巻15の、<家康公、穴山梅雪ご上洛のこと>の最後の3章で、これは、「5月15日、家康公は(近江の)番場の(丹羽五郎左の仮普請した)館を御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿は大宝坊が然るべきとの(信長公の)上意にて(決定し)その(接待役の)御振舞いのことは、惟任日向守に仰せつけられ(信長公は)京都、堺にて珍物を調え、おびただしき結構にて、15日より17日まで三日のおんことなり」である。甫庵信長記にしろ総見記・別名織田軍記も、これを底本にしている。そして、現代の明智光秀の研究家としては最高の故高柳光寿氏も、その著<明智光秀>においては、「この間用意馳走以外也」の解釈を、「光秀は信長から、その馳走を命ぜられ、これが為に心を尽くし奔走したことは大変であった」と説明して居られる。

 だが、私は同意できない。「歴史」というものは「どう解釈するか」という「和訳」の様なものだが、「文法」のかわりに、その時代の「適確な把握」が要るものと思う。おそらく、こうした帰納的な演繹は、やはり「元禄忠臣蔵」の影響ではなかろうかと私は考えている。なにしろ17世紀から18世紀に移った頃の世代は、接待役は一種の課役であった。大名の財力削減の為に、自腹を切らせて取持ちさせるのが慣例 となっていた。だが、信長の時代には、そんなことはなかった。 それと、同じ安土にあって、信長の方が手を出さずに、光秀の方で馳走を作らせるということは、今の言葉で言うなら、信長のコック長より、光秀のコック長の方が腕前が上だということになる。そして、光秀が近畿管区司令官として信長に仕えていたのと同様に、安土には「大膳寮の行器(ほかい)所」があって、そこには、料理方の司令官が、やはり勤めていたのである。宮中にだって四条流の包丁頭が居たように、安土城にだって、料理方の板前の侍が何千石かの扶持を貰っていたのである。こうした仕事は名人芸というか、互いに腕を競い合うもので難しいものである。どうして明智方の包丁頭が、安土城の板前頭を無視して自分の方でやれるかどうか。こと料理では下請けさせられる筈もない。それに直臣と陪臣の差もある。材料の買出しにしたところで、安土城の料理奉行の方が接待用には馴れている筈である。ということは、多量の買出しには役得がある。それを安土城の買出し係りが 指をくわえて明智方にさせる筈はない。膳椀にしたところで、家康主従百数十人に、まさか不揃いの品は出せまい。こうした備品が、明智の出先の安土邸や、堀久太郎の屋敷に揃えてあったとは想像もできない。なにしろ当時は「仕出し屋」から出前をとったりは絶対にしていないのである。

 例証として、安土曲輪内の万見仙千代邸で、信長は、正月のお開き会や、津軽から拝謁に出て来 た南部の国主を取り持ちさせたことがある。天正6年の頃だが、まさか16歳の小姓に過ぎない仙千代が、自分で、お抱え板前を傭っていたとは考えられない。この時は座敷だけ仙千代邸で、あとは一切安土城から荷台に材料をのせ、行器所の料理奉行が出張してきて、包丁をふるったのであろう。天正美少年記だから、「この間の用意馳走は以外なり」と、「の」と「は」を入れて解読すべきが当たっているのではないだろうか。つまり意外(unexpected)と訳してしまうから、魚が腐っていて臭かったの、その汁器や魚介を腹立ち紛れに壕へ放り込んだのということになって、光秀謀叛説の原因にされてしまうが、「光秀が暇を取っていて、手すきであったから、接待係を仰せつけられた。だから、この間の用意とか馳走の仕度は、以外、つまり別であった」と読むのが正しくはないだろうか。  

 一般の家庭でも、来客のあった場合は、おおむね夫が接待役で、妻が台所で手料理を作り、分業するものだし、料亭でも、取り持ちの仲居などは上女中などとよんで、板前の側で膳を整える下女中とは区別をしている。まさか光秀自身が襷をかけ包丁で魚をさいたりする筈もなかろう。そして、ついでに気がつくことは、光秀を信長殺しの犯人だと決めこんでいる史料は、いくら歴史学者が元和期から江戸初期の著作だと主張しても、それはとんでもない錯覚で、それらは何世紀も後の元禄忠臣蔵の芝居が世に広まった後の贋作に相違な いということである。なにしろ、こうした「供応役の紛争から意趣を含んで、復讐に走る」という、このプロセスは、やはり浅野内匠頭を前例として、松の廊下から始まる討入りまでの芝居を借用したものに他ならないと思われるからである。次に、K博士の主張する元和7年あたりなら、本能寺の変から40年しかたっていないから、安土城の実物を覚えている者も多かったろうと考えられる。すると、その壕に椀が浮かんだり爼板が漂って安土城が臭くなる、という話が、訝しいとも気づく筈である。

 本能寺の変の半月後に、安土城は焼け落ちてしまい、信長の寵を受けた神戸の板御前や、その孫にあたる信孝の娘を、秀吉が、ここの慈恩寺の刑場で張付けにした頃は、一部は再建されたらしいが、江戸期からは何も残っていない。それで、川角太閤記の筆者は、(普通の城のように、周囲の四方に壕があったもの)と、安土城を間違えているが、この城は弁天崖の出鼻に築かれていて、三方は琵琶湖の水面にのぞんでいた。そして、瀬田から入る大手道だけが陸続きであって、そこは、フロイス報告書によれば、「京都から安土城の入口まで14里の間に、彼信長は、畳5、6枚幅の新道を、平坦、 清潔に作らせた。夏季には木陰で休憩できるよう、両側に並木が植えられ、その30本ごとに竹箒が1本ずつ掛けられた。朝夕の道路掃除が励行される為である。並木の下には清らかな砂と小石で細長い箱庭の様な景観を呈していた。大手口の橋の下の清流は、いつも湖に向かって奔流し、清浄であった」と出ている。つまり、壕に該当するものは正面の一ヵ所だけだが、それも右手の山々の谷川の渓流を引いてきた激しい急流で、これは琵琶湖への放水路である。勿論、残りの三方は大海の様な湖である。普通の城のように四方が壕ならば、皿小鉢を放り込めば、どんぶらこと漂っているだろうし、臭ければ匂うも知れないが、安土城に限って、投げ込むより早く、さぁっと湖水のほうへ流されて行ってしまうのである。念のために、マカオへ旅立つ前に調べに行ったら、弁天崖の方は、目下埋立工事で干拓され、大手道の激流は今はないが、朝鮮人進貢街道からかけ相当の勾配である。昔は相当の奔流であったろう。

 つまり川角太閤記の筆者は、安土の城跡を見に行かずに、普通の概念でデフォ ルメを書き、それをもって光秀の謀叛説に仕立て上げているのである。やはり、「これでは訝しすぎて変である」と気づいた者も、中にはいるらしい。供応方をやめて中国へ出陣する事自体に、そこで謀叛の決心を結びつけようとしたのが、逆意伝という本に現れる新説となった。これは、信長から光秀が呼びつけられ、「このたび50万石に増封してやる」と言 われ、あまりの恩情に感激して「有難き幸せ」と平伏したところ、「その50万石は、 出雲と石見の二ヵ国である」と言われた。ともに毛利氏の領土で、まだ敵地である。だから光秀が顔を上げて思わず不審そうな表情を見せると、「今から出陣して斬り従えるがよかろう。これまでの丹波、近江領は、すぐさま返地を致せ」と冷たく命令された。あまりのことに茫然自失して戻ってくると、家臣達も愕いて「つね日頃、酷い仕打ち を平気でなされる信長公とは知ってはいましたが、まだ占領もできぬ敵地二ヵ国を戴いたとて、これまで住っています丹波や近江の志賀郡を召し上げられましては、出陣しようにもできませぬし、妻子をおいて行く土地もありませぬ」、「まさか女房に子を背負わせ、鍋釜持たせて、戦場へは伴って行けますまい」ということになった。そこで、このため、「生活権の擁護」のために、「家族の安全保証」のため、今で言う「管理スト」を断行することになった。そして団体交渉をしようと、1万3千の男が、家庭を守るために、悪徳社長信長のいる本能寺へ詰問しに押しかけ、そこで仮執行の処分手続きをするため、やむなく資本家の信長や、専務の信忠を葬り去ったという、大正デモクラシーの華やかな頃の「謀叛の真相」というお話である。なにしろ、これは「妻子を守るため」という一般受けのするテーゼが入っているし、勤労大衆の「生活権」の問題という、きわめて判りやすい要素で割り切っているから、その後の大正、昭和の「光秀謀叛説」は、みな、これを踏襲している。そして、これが、光秀が蹶起せざるを得なかった「必然的な事由」とさえ、今では、まことしやかに言われている。

 そして、これを裏付ける史料として、世評に負けた歴史学者も出てきて、これを多聞院日記にある 「5月15日に織田信孝は丹波の国にて『兵糧、馬、飼葉、武具を揃え、集まりし者には重賞を与えん』と布礼したり」という日記から、「この日付を以て、丹波における光秀の軍事権が剥奪された説」というのを、うちだして、これに話を合わせている人もいるが、この時から半月後に 「曲がりなりにも明智の軍勢らしいものが1万3千」、ここを出陣しているからには、剥奪ということはあるまい。なにしろ、この5月15日という日付は、信長によって光秀が「在荘」という恩賜休暇を貰った日である。これさえ考え合わせれば判ることである。光秀が久しぶりで休みを取ったということは、その部下達も当分は、出陣しないということである。だから遊ばせておくのは勿体ないから、「四国攻めに出陣したい者は集まれ」と信孝が布告をしたに、これは過ぎない。名前が彼の名になっているのも、光秀は軍用から賜暇をとっていたからに他ならないのである。
 母の名は
 総見記は別名を織田軍記ともいうが、これに、こういう話がある。「明智光秀は天正7年5月に丹波へ進攻し、八田、波多、八折の諸城を落した。だが 八上城の波多野一族だけは、あくまでも反抗して手を焼いてしまった。当時、西丹波から攻め込んだ秀吉は、僅か20日間で平定して既に播磨へ凱旋していたから、東を攻略できぬ光秀は焦った。そこで、5月28日に、己れの老母を人質として八上城へ送り、波多野兄弟を、光秀は、自分の本目(もとめ)の陣へ招いた。ところが信長から召し連れるようにと沙汰があったから、安土へ伴ったところ、信長は、波多野兄弟を、慈恩寺の門前で張付けにして虐殺した。この報復として八上城の者は、人質に きていた光秀の母を殺した。そこで世間の者『何も手柄を立てたい為に、自分の母親を棄て殺しにすることはあるまい』と、光秀のことを『親殺し』と呼んだ。そこで、こうなったのは、みな信長のせいであると、この時から光秀は逆意を抱くに到った」というのが、その粗筋である。

 柏崎物語にも、これと同巧異曲の話がのっている。 (‥‥つまり、どちらかが書き写したのであろう) なにしろ、「信長殺し」を「母の仇討」にすると、いかにも恰好がつくらしい。だから、光秀びいきの者によって、この話はよく引用され、まことの実話みたいにされる。この史料の裏付けとしては、ただ、太田信長公記巻12の、「丹波国の波多野兄弟の張り付けの事」に、「さる程に惟任日向守が押しつめ取りまき、三里四方に堀をつくり塀をたてて攻めたてたゆえ、波多野の城中は食がなくなり、切羽詰まって転げ出てくる者も、みな切り殺したから(生き残りの城兵は、なんとかして助かろうとして)波多野の城主兄弟三人の者<調略>を以て召し捕り(これを光秀の許へと届け、自分達の命乞いをした)」とあるのを、どう筆が滑ってしまったのか、「調略」という言葉を間違えてしまったらしい。と高柳光寿先生は、(波多野の家来が切羽つまって、我が身かわいさに、 その主人兄弟を瞞して捕えた)というのが本筋なのに、主格を取りちがえてしまった。光秀が調略をしたことにしたのだと解明している。さすがに立派である。 それなのに他は、「それなら母でも人質に出したことにしよう。波多野が殺されているから、その報復手段として人質の母も殺されよう。そうなれば、光秀が無念に想って母の仇討ちに本能寺へ押しかけたことになってわかりやすいだろう」と、こしらえてしまったようである。

 さて、これは、この問題とは無関係かもしれないが、「光秀の母」は誰であろうかということも、考えてみる必要がある。といって、なにしろ光秀の父の方も皆目わからない。もちろん系図は色々ある。父の名は、続群書類従の土岐系図では堅物助 (けんもつのすけ)光国。明智宮城家の相伝系図書は玄蕃頭(げんばのかみ)光綱。鈴木叢書の明智系図では玄蕃頭光隆。系図纂要の明智一族では安芸守光綱。各書によって、みな相違している。だが、こんなに沢山の父がいるということは、結局は一人もいなかったにひとしい。もし光秀の生母が、性業でも営んでいたのなら、一晩に何人もの男を順ぐりに送り迎えしたから、多分この中の一人か、又は複合体かもしれないといえるが、そうではないらしいから、これは名を明らかにできない父ということになる。もちろん、母の方も不明である。だが、双方がいなくては、まぁ産まれてくる筈はない。だから、初めはいたこと自体に間違いあるまい。ただ判ることは、いやしくも「明智姓」を名のらせ、明智城内で育てられたからには、侍女や下女の子ではなく、これは明智一族の女の一人が、この世へ産み落とした子らしいということである。この当時の東美濃可児(かに)郡明智城主は、「明智駿河守光継」という者である。彼には、娘が三人いた。どうも、この中の一人が生母ではあるまいかと想われる。

 さて、これからは私の推定であって、もちろん正確な引用は何も残っていない、しかし、「光秀」がもし55歳で死んだものならば、その生まれた年は享禄元年[1528]となる。すると、この時点では光継の娘は一人死に、一人は他へ嫁いで明智城にいたのは三女しかいない。そして、当時の結婚適齢期は現代と違ってきわめて早 い。ふつうは14、5歳で嫁いでいる。ところが、その享禄元年に、三女は既に16歳になっていた。この時代なら、既に嫁入りして赤児の一人や二人はいてもおかしくはない年頃である。それなのにこの三女は何処へも嫁に行かない。天文2年2月1日になって、ようや く21歳という、当時では婚期を逸した齢になってしまってから、彼女は、しかたなしに稲葉山の井の口城へ行く。斉藤道三の後添えである「小見の方」という名であったと諸旧記にはある。が、普通は当時の慣習で、「明智御前(ごぜ)」と呼ばれていたのだろう。もちろん、進んで嫁入りをしたのではない。当時の美濃の国主の土岐頼芸が、まだ長井新九郎秀竜と名乗っていた道三に、彼女を無理矢理強制的に押しつけたのである。ということは、そうした命令をされなければ、21にもなって平均嫁入り年齢を、すでに6、7年たっていたのに、小見の方には、他へ嫁ぐ気がなかったということにな る。つまり明智城に何かがあったか。当時の言葉で言えば「嫁に行けない躰」になっていて「行かず後家」で生涯を終える覚悟だったらしい。

 この発想は、蜂須賀家所蔵の光秀の短歌、「咲つづく花の梢を眺むれば、さながらの雪の山かぜぞ吹(く)」によるものである。この短冊は伝えられるところによると、同じ物が、まだ二、三残っているそうである。と言うことは、光秀が気に入っていて、所望されるたびに、この歌ばかりをあちらこちらへ書き残してたことになる。が、大して感心する程の叙景歌でもない。しかし当人にしてみれば、余程、印象が深かった情景に相違ない。そうなると、人間が一番感受性に富む時代といえば、これは、やはり幼年期であろう。すると光秀少年の5、6歳くらいからの年代において、印象づけられるような出来事で、しかも山の雪風が、まだ吹いている花の季節といえば、これは天文2年の2月。現今の新暦ならば3月の小見の方の嫁入りしかない。だが、6歳の幼児にとって、小見の方が他所へ行ってしまうのが、何故そこまで傷心の出来事で、大人になってからも、その追憶の歌ばかり書いていたのだろうか。

 さて、小見の方は嫁して3年目に一女を生んだ。武将感状記にいう「濃姫」。のち信長に嫁いだ、奇蝶姫である。そして、天文20年3月に、39歳で小見の方は死んでしまい、23歳の光秀は瓢然と当てもない流浪の旅に出てしまうのである。もちろん、明智軍記では、その5年後の「弘冶2年に斉藤竜興が明智城を攻めたから、城主明智宗宿が、わが子弥平次光春の前途を頼み、光秀を落城の寸前に逃がしてやる」ことになっているが、弥平次は秀満のことで、実父の三宅氏は別にいたのだし、斎藤竜興の名も父親の義竜と間違えている、この俗書は、ついていけない。まだ、これよりは細川家記の中で、「光秀は、自分は信長の室家(しっか)(奥方)に縁があって、しきりに招かれているが、大禄を与えようとの誘いに、かえって躊躇している」といった一節のほうが本当らしい。なにしろ美濃を併呑した信長は、占領政策として、東美濃の可児の豪族の血を引く奇蝶を岐阜へと伴った。占領地には訴訟が多い。双方から多額の銀や銭が、奇蝶の許へ届けられたのであろう。そう判ってくると、牢人していた光秀が、この時分から、俄かに金持になってしまって、家来を沢山召し抱えたり、大邸宅を京にもうけ、信長を泊めて、対等の交際を始めはしたのかという謎も、これで、いくらか解けてくるというものである。頼山陽の詩に、「本能寺ノ溝ノ深サ幾尺ナルゾ。吾レ大事ニツクハ今夕ニアリ。チマキヲ手ニアリ皮 ヲ併セテハム」というのがある。

 日本外史  

 
天正10年5月27日に亀山から愛宕山へ登って、その夜はそこに参篭し二度も三 度も神籤(くじ)を引き、翌28日、山頂西ノ坊において、連歌師里村紹巴らと百首つくる会を開き、その席で光秀はまず、「時は今、あめが下しる五月かな」と第一句をつくり、クーデターの決意を示したというのが、動かぬ証拠として、「光秀謀叛計画説」の裏書になる話で、太田牛・一信長公記の巻15にも出ているから原文を参考に前に出しておいた。つまり美濃は土岐管領(ひじきの旧名が正しい)の治めていた国だから、明智も、土岐の支流であろう。だから、その(とき)が今こそ(天下(あめのした))を握る5月であると、これは「メーデー歌」の草分けだと、その謀叛の確固たる物証にされている。

 
もちろん、これには、まことしやかな挿話さえもついている。 光秀の死亡後、秀吉が、その証拠物件の懐紙を持参させたところ、里村紹巴は、「御覧のとおり、初めは(天が下なる)とありましたものを、後で(天が下しる)と、 『し』に直してありましたので、私とても気がつきませんでした」と、自分は無関係であると弁解し、事なきを得たと伝わっている。しかし、不思議なことに、その里村紹巴は、その二日後、つまり6月2日に二城御所にいた。まるで攻撃軍が来るのを予知していたように、彼は早朝からいたのである。そして荷輿をもって誠仁(ことひと)親王を東口から避難させ、自分も同行している。これは、言経卿記にも記載されている。偶然の一致だろうか。なんだか、巡り合わせができすぎてる。それに、この連歌興業の日は、28日と29日の二説がある。林鐘談などは28日から始めて、この夜一巡を終わり、明朝また続けたと、29日説で、このとき名物だからと笹ちまきを出されたのを、光秀は放心状態で、がぶりとやってしまい、おおいに赤面したというのが、転じて、頼山陽の「われ大事につくは今夕にあり」となるのである。だが、この年は5月29日の翌日が6月1日になるのだから、なんぼなんでも最終日に「5月かな」と強調するのは訝しい。どうしても月を歌に入れたかったら、「6月かな」にしないと意味が通じない。それにもうひとつ、虚心坦懐に、言経卿記の5月29日の天候をみると、この日は土砂降りである。五月雨とい うのがあるが、この頃は陰暦だから、初夏の本降りである。「車軸を流すような」とか「天地が入れ替わったような」と表現される大雨である。すると、のっけの発句に、「時は今、まだ五月だというのに、天が下に逆になったような、えらい雨降りよなあ」と、詠んだところで、これは自然なスケッチではなかろうか。変にこじつけをするより、この方ががシリアスである。それに光秀が、もし土岐氏を自称したいならば、この当時、前の美濃国主の土岐頼芸が流浪し、美濃三人衆の稲葉一鉄が面倒をみているのだから、それを光秀が引取っ てもよいはずである。ところが光秀は、差入れ一つしていない。すこしも土岐氏といった古い家名に気をひかれていないのは、彼が土岐を名乗った形跡が絶無なのでも判る。だから、これも訝しい。それに「どき」とよむのは棒読みで、足利時代は「ひじき」といっている。次に「おみくじ」を何度も引いたから怪しいという説だって、何も現行のように一回につき十円ずつ払うわけではない。おみく じの木筒を持ってこられたら、ガラガラと一回では愛想もないから、自分の他に妻子の分も、ついでに引いたかも知れない。

 笹ちまきを笹ごと喰ったのが謀叛心のあった証拠だというが、現在のように大きく見せようと何枚も笹を巻くようは事は、当時はしていない。ただ一枚の青笹を巻くきりである。そして、これは延宝年間の、本朝和漢薬集成に「眼疾、または腎虚に、笹の葉を用う。刻みて餅につくか、これを巻いて服す」とある。腎虚つまり精力減退の方は、光秀の身体のそこは判らないが、曲直瀬道三の治療日誌の、「天正4年6月23日」に、「眼労、惟任日向守」という記載があるし、多聞院日記の「天正9年8月21日」には、「去る7、8日に、惟任の妻の妹死す。惟任昨年来、眼疾治療のため当地に灸に通う」とも出ている。だから愛宕山でも、眼疾に効くという熊笹を搗いてこねたか、または食べやすいように細く裂いたものを巻き付けて、光秀には出したのであろう。だったら当時いうところの「薬喰い」で笹の葉の一枚ぐらいむしゃむしゃやったとしても 当然の振舞いではなかろうか。
 殉忠
 つまり、「光秀が信長を討った」とか「謀叛を企てた」という確定史料は、残念かもしれないが一つもない。だから、なんとか理由づけようとして、怨恨説や謀叛発心説が何十となく作られてきている。新井白石でさえも、その白石紳書の中で、「井戸若狭守良弘という室町奉公衆の者が、山城の槙島城主だった頃、つまり本能寺の変の十年前に、光秀が『われに願望あり、もし手をかしてくれて、それが成就した節には、大国はやれぬが、小さな所なら国主にしてやろう』と、ひそかに言われたことがある。良弘は、その時は冗談かと思って、聞き流していたが、後になって『成程、 そうであったのか』と膝を叩いた」という話を載せている。だが、山崎合戦で、旧室町幕府の奉公衆は、みな討死しているのに、この良弘は、それに加わらずに生き残った、いわば裏切り者である。保身の為に何か言ったとしても、これは信用できない。もし、この線でたぐっていけば、足利15代義昭のために、信長を討ったことになるのだが、その証拠は見つからないのである。単なる話にすぎない。甲陽軍艦にも、「天正10年2月に、光秀から武田勝頼あてに、逆心するから協力してほしい旨を言ってきたが、長坂釣干斎(ちょうかんさい)が怪しいというので取り合わなかったら、武田は武田で滅び、光秀も光秀で滅んでしまった。惜しいことをしたものである」と出ている。

 真偽どころか、いいかげんな作り話だが、もっとひどいのは、なんといっても細川家記であろう。「光秀は武田勝頼に通謀していた。そこで、天正10年5月に、徳川家康に伴われて、勝頼の伯父にあたる穴山梅雪が安土へ来ると聞き及んで、梅雪の口から信長に告げられるのを気遣い(心配して)謀叛をしたのだ」と書かれてある。だが、しかし、5月15日、16日は、一日中。17日も出兵の命令を受けた昼頃までは、家康や梅雪の接待を、ちゃんとやり遂げているのである。一番よく内情を知っている筈の光秀の組下の細川が、ぬけぬけとこうした記載をするというのは、それだけの理由なり、不都合があった証拠でもあろう。なお、老人雑話では、今日の花背峠の先の周山に、光秀が砦を持っていたのは、己れを「周の武王」にみたて、信長を悪逆非道な「殷の紂王」になぞらえ、かねて謀叛心をもっていたというが、これも江戸後期の本らしい。なにしろ周山の砦というのは桑田郡で細川のものなのである。別本川角太閤記では、「6月2日付の小早川隆景宛の密書」というのもある。「急度(きっと)、飛檄(ひげき)をもって言上せしめ候。こんど、羽柴筑前守秀吉こと、備中国において乱妨(らんぼう)をくわだつる条、将軍御旗をいだされ、三家御対陣のよし、まことに御忠義のいたり、ながく末世につたふべく候。しからば、光秀こと、近年、信長にたいし、いきどほりをいだき、遺恨もだしがだく候。今月2日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは、将軍御本意をとげらるるの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。このむね、よろしく御披露にあづかるべきものなり。誠惶誠恐。6月2日 惟任日向守小早川左衛門佐殿」。

 この文中の(光秀こと近年、信長に対し憤りを抱き遺恨もだしがたく)というのを引用して、当人の名で、こういう書面があるからには、やはり遺恨による事は間違いないと、主張している学者もいるが、さてどうであろうか。6月2日に書いたという日付が、どうも信じられない。なにしろ、信長の死体が見つからなくて3日、4日と生存説があった時点で「誅して」というのは臭い。だが歴史家は「彼の立場で、まさか、いろいろ言えもしなければ、また初めて手紙を送る相手に本当のことも書けまい。これくらいのところが常識的であろう」という。だが、それをもって証拠呼ばわりするのも、どうかと思う。なにしろ、はっきり言えば、やはり贋物のつくりものである。ただ、この文中の将軍というのは、当時、備後の鞆(とも)にいた足利義昭のことで、こうした文面のような受取り方を、今の時代の人はするのかもしれない。しかし6月2日の午後4時に瀬田の大橋に現れた光秀は、午後5時頃に坂本へ向かっているから、戻ったのは午後8時頃であろう。それから近接の大名へ檄をとばすのなら判るが、遠い中国へまで書く筈があろうか。

 私は、かつて「埋火(いけび)」という題名で、義昭が天正元年7月1日に、山城の槙島に三千七百で立篭もり抗戦したが、時に利あらず、二条宴来日記にあるように、山城の枇杷荘へ移り20日には三好義継の河内若江城へ入り、11月5日に堺へ出て、そこから11月9日に海路紀伊へ向って、由良の 興国寺に、ひとまず落ちつくに先立ち、旧室町奉公衆を一人残らず光秀に託して、炭火を灰にいけるようにして時機を待たせたという話を書いたことがある。つまり、室町幕府側の兵力を減らされないように、信長の給与で温存させ、この埋火が6月2日に爆発したという着想のものである。

 しかし、実際には義昭は事前には何の情報も得ていなかったらしいのである。土井覚兼日記の天正12年2月14日の日記をみると、「昨年末(11年末)、義昭将軍は、その春日局(征夷大将軍家の側室の官名)をもって上洛させた」 とあるし、またこの間の事情を、毛利家文書3によると、その春日局に対して、「毛利家の将軍に対する処遇芳しからずと、春日局が各所にて演説し、迷惑この上なし」と、小早川隆景が歎いたともある。どうも、これを見ると、もし光秀が義昭の為に蹶起したにしては、その後一年半も、のんびり鞆にいた義昭将軍の態度が腑に落ちないし、春日局を代理に出したのも、秀吉やその他からカンパを集めるのが目的だったようである。なにしろ、この翌年の8月11日にも、小早川家文書によると、「かねて話のあった四国の伊予の料所を即時出してくれ」と、義昭は無心ばかりしている。だが3年たった天正16年正月に、聚楽第行幸に参加するため義昭が京都へ帰って きたら、宮中では(信長を倒した功労に酬ゆるべく)坊主頭になって「畠山」と号していた彼に、「準后」の最高位を贈った。これは、太皇太后、皇太后、皇后の三宮に次ぐ、家臣としては最高位のものである。つまり、日本始まって以来、この位まで貰えた者は、かっては南朝の柱石の北畠親房。後では足利義昭のみである。ということは、宮中では北畠に匹敵する勤王精神を、この義昭に認めたからである。織田信長が5月29日に、何を一掃しに上洛したか、これで朧気ながら判るような気も一面ではする。そして皇室御用の里村紹巴が、他へ災いのかからぬよう、神出鬼没に活躍したのも判る。
公卿衆が宮中を空っぽにして6月1日、雨の中をデモしてきて、玄関払いされても、強引に上りこんで泣きついた事態も、これで呑み込めてくる。

 なにしろ秀吉というのは、信長のしたとおりにした男であるが、天正14年、家康と和平して天下を握り出すと、その7月24日付の多聞院日記に、奈良興福寺の僧の多聞院英俊は他見を憚りながら、「24日に、本能寺の変の時に二城御所に居られた誠仁親王様が崩御された。疱瘡とかハシカと公表されたが、そんなものに罹る御齢ではない35歳である。腹を切らされて自殺だそうだ。もし自害がはっきりしてくれば、これは秀吉が次の天皇と決ったも同然ではないか」と書き、そして、遡った7月7日の条には、「みかど(正親町帝)も切腹されようとなさった。すると今(死なれて)は都合が悪い。そんな面当てをなさいますなら、此方にも覚悟があります。お前さまの女房衆も みんな並べ、張付けにかけて殺しまするぞ。と秀吉に脅迫をされた。みかどは無念に 思召され、食をとらず餓死までなさろうと遊ばされ」とも書いてあるのは前に簡単に引用したが、人物・日本の歴史・読売新聞版は、この裏話を紹介してから、秀吉への譲位の噂は、しきりと取り沙汰されたが、吉野山や川上地蔵が焼け、天変地異が続いたので、さすがに秀吉も思いとどまり、11月7日、誠仁親王の遺孤の和仁親王を後陽成帝として御位につかせ給うた。とある。だから宮中では、明智光秀を使嗾したのは足利義昭とばかり思っていたから、「準后」の高位は、その恩に報いたのである、という解釈も成り立ってくる。だが、この間の真相を知っている秀吉は、義昭を買いかぶることなく、たった捨て扶持の「1万石」しか前将軍にはやらなかったというのである。

 
「信長殺しの真犯人は」直接に手を下した殺し屋は別とすれば、秀吉に問いつめられるか、証拠をつきつけられて、万策尽きて自害された誠仁親王が、まこと恐れ多いが濃厚な容疑者になっておられる。光秀と親王が睦まじくなられたのは、天正7年に、御所御料山国荘を回復した時かららしい。ここの料米を宇都左近太夫に押領され、禁裏御蔵(おくら)の立入(たちいり)宗継が、畏れ多いが至上の飯米にもことかくと訴え出て、光秀が討伐し、内侍所から誠仁親王。下は女中にまで、その占領米を配分し、狂喜させた事が、お湯殿上日記に詳しく出ている。

 光秀は、足利義昭が出奔した後、空城になっている二条城を修理し、ここを二城御所つまり下の御所として誠仁親王に住まっていただいたぐらいで、この時代には、「当世まれにみる勤王の士」として光秀はかわれていた。優渥なる女房奉書の勅語も戴いていたし、正親町帝より、馬、鎧、香袋まで賜っている。史上、こういう前例は他にはない。後醍醐帝の楠木正成に対するより、正親町帝の光秀への信任のほうが遥かに篤かったようである。だから6月2日、上洛してきた光秀が惨事に愕いて、善後策をいかに立てようかと腐心していた時、てっきり昔の足利尊氏にもあたる信長を倒した者は、光秀であるだろうと、宮中では取り沙汰されたのではなかろうか。そこで内示ではあろうが、当時空位であった征夷大将軍の話が出たのではあるまいか。この餌に誘惑されてしまって、信長殺しを光秀がかぶってしまった形跡は充分にある。

 10月7日に安土城で、光秀は勅使の吉田兼見を迎えている。「なんの沙汰」があったのかは、みな廃棄されたり破かれて何も伝わってはいない。だが、光秀にとって、 それが望外な喜ばしいものだった証拠には、翌日、すぐお礼に禁中へ参内している。そして、銀五百枚を、すぐさまお礼にと献納している。この事実から推していくと、勅使吉田兼見によって伝達されたものは、「征夷大将軍の宣下」に他ならなくなる。こうゆうことがあったからこそ、その兼見は、天正10年の日記を、6月下旬に、すっかり書き改めて、二重帳簿にしなければならなかったのである。

 
さて、光秀に正式に「征夷大将軍」の命が下って、その6日目に、あっけなく死んでしまったから、この宣下は出されなかったことになっているが、こういう例は前にもある。木曽義仲が平家を破って上洛した時、後白河法皇によって、寿永3年正月、征夷大将軍の宣下はあったが、20日に源の範頼、義経の軍勢が勢多と宇治から突入してきて、義仲が粟津で敗死してしまったから、そのままうやむやになってしまった前例である。おそらく6月2日の午前9時過ぎに上洛してきた光秀は、事の重大さに仰天し、とりあえず天機奉伺に上の御所へと参内したと思われる。すると、そこで、信長の生死は、はっきりしていなかったが、官位につけ御所の味方にしようと思召され、「換って、すぐ武門の棟梁たるべし」といった、お言葉を賜ってしまったのであろう。そうでなければ、高飛車に、「一掃」に脅えていた御所から、「信長を討ち宸襟を休め奉りたるは奇特の事なり」といった女房奉書でもいただいてしまったのだろう。これは6月2日か、さもなくば3日に上洛した日あたりに、仰せを蒙ったものと推定される。こうなると明智光秀は当惑したであろうが、御所には長年にわたって出入りしているし、もはや、「綸言(りんげん)汗のごとし」である。

 一日本人として光秀は、「おおみことのり」を畏み承るしかなかったのであろう。 「嗚呼忠臣明智光秀」は、身に覚えのない信長殺しを、おおみことのりとして、甘受して受けてたつしか、この場合、「臣光秀」としての立場はなかったと推察される。恐れ多くも一天万乗の君からの至上命令とあれば、それが何であったとしても、これは受けて立たねばならなかったろう。私だって、その場になれば、ハアッと、おうけしてしまう筈である。もちろん当時は、上御所へ移っていられた誠仁親王も、余がつつがなく次の帝の位につけるのも、これからの光秀の働きによる。よしなに励むがよいと仰せ出されたであろう。(おそらく親王が激励にかかれた書簡の二、三が、後で証拠として秀吉に握られてしまった事も想像がつく)だが、その時点においては、宮中の百官、女官こぞって、これからは米の心配もなくなろうと、みな光秀に期待と信頼の瞳をむけたことであろう。

 人間は50になっても60になっても、良い児になろう、賞められたいという願望はあるものである。光秀だって同じだったろう。主上より優渥なお言葉を賜り、宮中の衆望を担えば「信長殺し」の悪名もなんのその、この時点から、臣光秀は大義に殉じて謀叛人になってしまったのであろう。
つまり「信長殺し」に名前を貸し、自分がその名義人になってしまったのである。もちろん、宮中に於ても、光秀に対し、「征夷大将軍」の宣下をと、その時すぐにも話はあったろう。だが、かって光秀の仕えた足利義昭が、備後の鞆に、15代将軍として現存しているから、それは望めないことと光秀は想っていた。だから7日に、吉田兼見が勅使として下向し、その伝達式があると、光秀は喜んで、兼見にまで銀50枚を謝礼に贈っている。もちろん禁中としては、備後の義昭に対して、事前か又は事後に承諾はとったものであろう。それだからこそ、義昭はむくれて、一年有余たって、その愛妾を上洛させ、弁口のたつ、その春日局に色々と当時の事を批難させたのだろう。それを慰撫するために、義昭に「準后」の位を破格にも贈ったのが本当の真相なのであろう。だが、何もせずに備後にいた足利義昭が、準后になれるものなら、せっかく宣下された征夷大将軍さえも、今となっては貰わなかったことにされ、一謀叛人としてしか扱われていない光秀に、せめて位階でも贈られてもよいような気がする。

 しかし、考えてみれば、戦前までの日本人は、至上の御為とあれば、身を鴻毛の軽きに比し、喜んで死地につくのは当然のことであったから、臣光秀にしろ、大君のおんために醜(しこ)の御楯(みたて)として散華したのであろう。ただ、
光秀が大忠臣であったこと。並びに征夷大将軍に、たとえ一週間でも就任していたことがわかっていないから、全ての解釈が食い違ってくる。たとえば山崎合戦で、伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の主だった面々が、一人残らず敢闘し討死していることが蓮成院記録、言経卿記、多聞院日記に出ているが、これとても、光秀が征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死を遂げたのである。だから、----この際、岸信介氏や東竜太郎氏なみに、明智光秀氏にも正一位を贈って戴きたいものである。彼は、なにしろ勤皇家として史上最高の価値のある男である。もう、好ましからぬ誤解がとけて、その尽忠精神は改めて認められるべきであろう。「戦国期の解明は戦後から」というが、実際は昭和30年すぎで、まだ十余年だが、私は、その倍も、これに取組んでいる。「嗚呼忠臣光秀」であることを保証する。




(私論.私見)