6章、殺し屋はこれだ

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1195信長殺し光秀ではない14」、「1196信長殺し光秀ではない15」、「1200信長殺し光秀ではない19」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 殺し屋はこれだ
 レース
 「ナウン・デイーガ・タル(そんなこと何の意味があるの)」。眼鏡の奥から彼女は言った。そして覗きこむように、じっと見詰めた。別に、わざと突きかかってきているわけでもないらしい。「‥‥コンフイアール(信じたらいいんじゃない)」。つけたして忠告した。「ナウン・エー・イツンー(でなけりゃあ)」と声を落とし て、「アバンドーナル(放っておくのよ)」と言った。つまり、彼女にかかると、生きている今の世代でさえわけが判らないのに、そんな 何百年も前の事なんか、どうだってよいだろうと言うのである。アラビアのスフィンクスの歴史でも解明するのなら、何処かに埋没されている古代エジプトの黄金でも見つけられるかもしれない。だが、そんな、誰が誰に殺されたなんて事は、推理もののミステリーブックでも読めば、それで充分だと言うのである。「プリメーラ(第一‥‥)」と彼女は言った。何処の国でも、歴史は学校で教えている。だから生徒として習った者は、それを、まるで(三角形の二辺を加えたものは、他のいかなる一辺よりも長い) といった数学の定理と同じ考え、すっかり信用している。それなのに、その歴史を頭ごなしに否定したり、まるっきり違う裏返しをするということは、どうであろうか。読者の頭に混乱を招くというより、それは彼らの受けた学校教育の冒涜である。つまり、それ迄勉んで学んできたり習ってきたことが、まるっきり違うと否定されては、何の為に教育を受けてきたかわからなくなる。それでは、教養を無視されたことになって、大衆は落胆するにきまっている。

 「エーラ・ステイマ(そんなこと悲劇じゃない)」、「ボーデ・アクレデイーター・プロフェソーラ(なにしろ教師の言うとおり、信じて いれば、それでいいのよ)」と、彼女は、自分も女教師だから、さかんに学校第一主義を説き、異端な説を唱えるのは呪われてあれと反対をした。だが、あまり言われる と、うんざりさせられた。そりゃ確かに信長が誰かに殺されたからといって、それは無関係な事かもしれない。本能寺の真相を追求したからといって、何処かに埋蔵されている宝物が見つかるわけのものでもない。クロスワードやクイズは、謎解きをやれ ば賞金が貰えるあてもあるが、これは何ひとつ得るところなんかない話である。「コンスミール(無駄な事)」と彼女がいうが、そうかもしれない。何のために、このマカオへ来て、厄介な昔のポルトガル語の古文献を漁っているのか、考えによっては、まるっきり無駄な、それは徒労かもしれない。が、それをしなくて、他に私は何 をすべきなのだろう。

 アベニダ通りから、アルミラナ通りへ、ドックの前を歩いていた。仏桑華(ぶつそうげ)の赤い花が、まるで家ごとといったように、白いペンキ板の植込みの中に、垣根越しに咲き揃っていた。「ウ・ケー・テン・ウオセ(‥‥どうしたんだろう)」。なにかしら人通りが多い。車も多い。騒々しすぎる。だからきいてみた。「エー・サーハド(土曜日よ‥‥)」と彼女は眼を伏せた。ここは土曜日と日曜にはドッグ・レースがある。近在から、それで人が蝟集(いしゅう)してくるのだろう。私はついでに、見物してこようと思った。だが、彼女は、あまり嬉しそうでもなかった。教会附属の女学校で教師をしている女は、犬を走らせて、それに人間が金を賭けるのは罪悪とでも思っているのだろう。だから知らん顔をして、とっとと先に歩いていった。 Canidromoの文字は「レース場」とよめたが、その上にのせたようについている「Campo desportivo」には面食らわされた。どうやらドッグ・ レースは土・日の二日間に決まっているから、あとの五日は、ここが運動場になって、人間のレース用になっているらしかった。犬券売り場は、2ドル、5ドル、20ドル、50ドル、100ドルの順に並んでいた。だが、それを見たからといって、どうということもなかろうと、5ドルを二枚別々に買ってみた。券の紙質は裏がザラつき仙花紙みたいだった。

 スタート・ラインには、グレイハンドが六頭、鎖で引っ張られてきた。同じ様な斑犬に見えるが、馴染みの連中には、すぐ人目で区別がつくらしく、「ナポレオン」とか「シーザー」とか、まるで英雄列伝のような名が呼びかけられていた。声援にこたえて犬共も、スター並にワンワン吠えるが、尻尾でも振るのかと思ったが、なにしろ犬はそこまで商売気がなかった。やがて電気モーターのついた兎らしい物が運搬されてきた。「イスター・ブロント(用意はいいですか)」 。マイクで、甘い女の声のアナウンスが場内に流れた。犬に言っているのかと思ったら、どうも人間に呼びかけているらしい。何度もアナウンスされた。もっと沢山銭を出して、犬券を買い増しをしろという催促らしかった。だから売り場の方ばかり見ていたら、知らぬ間にスタートをしていた。もちろん擬兎の方がである。10メートルぐらいの間隔で、グレイトハウントも放たれた。耳朶をふってワンワンさすがに吠えだした。黙って走ったら、その方が速そうなものなのに、やはり気合をかけなくては、調子がとれないのだろうか。二枚の馬券を連勝複式で勝ってはあるが、どの番号が、どの犬やら判らぬままに、六頭の走るのを一つにして眺めていると、なにも犬の知能指数が低いから、電気兎を獲物と間違えて追いかけているのではないのが、よく判ってくる。たとえ追いついて捕えたところで、そんなのは喰えないことは、犬どもは、よく知っているらしい。だが、飼い主の命令で出場してるんだから、まぁ何でもいいから走らねばならないと、そんな、ひたむきな表情をしている。そうかと思えば、照れ臭がって、ハアハアわざと舌を出して駆けているのもある。そのうちに、ここのレース場は、週に5日は、人間も、このグランドを走っているんだと各自に思い出すのだろう。そして、それに対して犬共は競争意識を持つらしい。

 といってなにも、それは早く走ることによって、その速度の勝敗という、そんな、まわりくどい思考力にまでは、走っている最中で慌ただしいから、考え及びつかないようである。右端の犬が、自分を抜いて前に駆け抜けかけた犬の白い尻尾に、いきな りガブッと喰いついた。やられた方はキャーンと悲鳴は上げなかったが、衆人監視の中で受けた屈辱は我慢ならぬと、ふり返りざまに、お返しにまた喰いついた。もう駆けるなどという、まだるっこい競争より、顎の力で勝負をつけようというのである。「ワア」「ワア」と声が竜巻のようにとび出した。もちろん、人間の声である。きっと、どちらかの犬券を買っている連中が、止めさせようとして、しきりに制止の声を かけているのだろう。だが、争っている二頭は、その声援にこたえて、互いに向きあって、トーナメントを始めるつもりか、四つ肢をふんばって睨みあっていた。すると、どちらかの犬の友人らしいのが、やるのかといった顔で、レースの途中から引返してきた。応援をする気らしい。が、なにしろ、それが、今までハナをきって先頭を走っていた本命の犬だったから堪らない。犬券を買っていないような縁なき衆生どもは、クスクスと失笑の渦をまき起こしたが、それを押しかぶせるように「オウ」と怒号が激しく場内を圧しだした。かけていた残り三頭のうちのどれが一着になったか判らないが、もう勝敗はついていたらしい。睨み合っていた二頭も、野次馬に戻ってきた犬も、人間に叱られて、しょんぼり引っ張ってゆかれた。といって、優勝した犬も、どれだか判らないが、掲示板を仰ぐでも なく、三頭とも、やはり、うなだれて曳かれていった。騒いでいるのは、ただ観覧席の人間だけである。「デエインヤーメ・ヴエル(見せてみて‥‥)」と彼女は、私の買った犬券を指から抜き取った。賭博嫌いらしいが、もし儲かっていたら、それは神様からの恩寵だというのであろうか。少し眼を生き生きさせた。だが、すぐ失望した。破りかけたが、そのまま返してよこした。どうやら私の買った犬券は、あの直接勝負をつけようとした 気の早い連中のものだったらしい。「シント・ナウン(お気の毒でしたね)」と眼鏡の奥で言った。だが、そんな顔はしてなかった。だから咄嗟には何を言われたのか判らなかった。外へ出ようと言われたのかと思って、先に立ってでてしまった。「ベザール(がっかりね)」と、外へ出て中国寺院の連峰廟の前で、彼女はくり返した。ガラス瓶の中の棗(なつめ)の実を買っていた少女が、あわてて、その屋台の裏へ隠れるようにして、ペコリと頭を下げた。広東系の白い顔をしていた。どうも受持の生徒らしかった。彼女は、つかつかと、その側へ行くと、早口に何か喋舌ってきた。道端で買喰いをしてはいけないと言ってきたのか、日本人の男と歩いているが、あれは旅行者で、先生はただ道案内しているだけなんですと、弁解してきたのか、判らなかった。足早に戻ってくると、まるで、その続きのように、「ケー・ツリステーザ(つまりませんね)」と、こちらへもお説教をした。10ドル買った犬券の相手が喧嘩して、損をしたのがつまらないのか。かび臭い図書館に閉じこもって、4世紀前の古典を追いかけている事自体がつまらないのか。何を言われているのか意味はのみこめなかった。

 だが、そんなことをいえば、あのドッグ・レースの犬だって、みんな、しょうことなしに走っていたし、それに、どれも詰まらん顔をしていたと想いだした。そういえば、この女だって25にもなるのに、ちっとも面白くないじゃないかと考えた。だから、そう言ってやろうと思ったが、口まで出なかった。どういう言いまわしで言ったらよいか、ちょっと難しすぎ、厄介だったからである。暫くして、「アテー・ビブリオテーカ(図書館へ行く)」と、ぽきりと発音した。つまり。貴女と一緒に散歩していても詰まらん、という意志表示のつもりだった。うまく通じたらしい。彼女は碧い瞳をレンズガラスの裏側から突き出し、唇も捲りぎみにして、「ケ・エー・ノブナガ(またノブナガですの)」と言った。「ナウン(そのとおり)」と、返事をすると、これから自分の教会へ伴ってゆき、犬券で損させるかわりに、神様へ献金でもさせる気でいたのか、彼女は両手を少しひろげて失望をみせた。
だが、信長が36歳の永禄12年から、その49で死ぬまでの13年間、彼に近寄って話をしたり、よく観察したポルトガル人のフロイス、カブラル、メシキータ、 ベレイラ、アルメイダの五人はもとより、イタリア人のヴァリニヤーノ、オルガンチノ、ステファノーニ、フォルラネツラの四人。そしてイスパニア人のカリオン(彼はポルトガル人ともいう)やカスペテン達もみな、このマカオから日本列島へ行き、そ して、ここへ戻ってきて、神学校で教鞭をとったり、または、このマカオからインドへ戻り故国へ帰って、信長についての報告書を、みな、それぞれ書き残しているので ある。孫文のように、住まっていた邸宅は残っていなくとも、ここは信長にとっては因縁の土地なのだ。
 茶湯
 信長の頭の髷を「茶筅髷(ちゃせんまげ)」という。 「茶筅」とは、茶をたてる時にシェークする竹製の撹拌器である。まず、これが想い浮かぶ。雄鶏がトサカを頭にのっけるように、彼はなぜ、そんな擬似撹拌器を頭上に勃起させていたのであろうか。しかも彼はそれを流行させた。現代でいえば、シンタロウ苅りだ。なにしろ信長は無駄な事はしない男である。するには、するなりのわけがあったろう。だから戦国大名の大半は、これにならった。といって、これは慶長期以降に流行した、もとどりを細くする本田髷のような、お しゃれムードのものではないらしい。前にも少しふれたが、その茶筅髷を頭に立てる事によって、彼はどんな受益をしたかを解明したい。

 これで、天下布武、つまり中央統一政権の樹立ができた。と簡単に前に書いてしまったから、あれでは不可能かもしれないから、なぜ、彼は頭の髷だけでなく、その第二子、後の織田信雄をも「お茶筅」と呼び、一般には「茶筅丸」と呼ばせたかを詳し く書いてみたい。現代の解釈では、信長が茶の湯に凝って、その現れであるという。つまり(マニヤだったせいだ)と説明されているが、信長とは、そんな単純細胞な頭脳の持主であったろうか。これは疑問である。まず「茶」というものについて考えてみたい。 もちろん、伝来は大陸である。初めは「薬味」として寺院の奥深くで嗜好されていたのが、南北朝の頃から盛んになって、「喫茶」というカテゴリーから離れ、「闘茶」としてギャンブルの一種になった。つまり「栂尾(とがのお)のお茶何割、宇治何割」などと言って、呑んでみて、そのミックスしたパーセンテージを当てる賭けである。当今、私達が銭こそ賭けないが、「モカ30パーセント。酸味が少しあるからジャマイカ40パーセント。あとコロンビア」といった具合にコーヒーを飲みあてるのと、これは同じような具合である。

 花園天皇宸(しん)記の元弘2年(1332)6月5日の条にも、「後伏見上皇の御所にて公卿共の『飲茶勝負』あり。賭物を出す。茶の同異を当て、これを知るなり」とあるし、祇園執行日記にも、同じ様な記載がある上に建武式目の第2条では、「茶寄合と号し、莫大な賭けに及ぶは、くせごとにつき停止」と禁止令まで出ている。相当に流行したらしい。もちろん、この当時の勝負は簡単で、「本非(ほんぴ)の沙汰(さた)」と喫茶往来に出ているのは、ただ「栂尾産」を本として、「他の産地のもの」は非として、この丁半に賭けたものらしい。もちろん舶来と国産茶の当て合いもある。これは太平記第33巻に、「衆を集めて茶の会をする時には、腰掛けに豹や虎の皮をかけ、唐国風に並んで、床の間には仏画や、仏像を飾って、盛大なものである」とも書き残されている。つまり茶も、茶道具も、接待の仕方も、みな大陸風の風俗そのままだったらしい。そして、これを盛大に流行させ、「淋汗(りんかん)の茶湯(さとう)」と名づけ、蒸し風呂の中で女を抱き、茶を舐めながら銀を賭けていたのが、南朝方の武将であった。時には負け越して、その債務を支払うためか、またはエスケープする目的か、敵方の北朝へ降った者もある。呑む、打つ、買うといった三原則を兼ねた道楽は、そのまま足利政権にも受け継がれ隆昌の途を辿った。だが足利末期は、明国の銭を貰って日明貨幣流通の同一経済機構に立っていたから、明国よりの使節も多く、接待麻雀の代りに、この「闘茶」はますます社交性を増してきた。

 今日伝えられる「ばさら茶」つまり「書見台子(しょけんだいす)の茶」というのは、紫檀または黒檀の唐机をはさんで椅子を置き、茶道具も象牙の茶杓子、唐金の茶立て。もちろん茶碗も高麗茶碗であり、明宋のものであった。そして卓子に、銀を山のごとく盛り上げ、さながら今日の賭け麻雀のように、その勝負の輸贏(ゆえい)を争っ た。
「上のなすところ、これ下も見習う」のはいつの時代でも同じことである。お寺の境内や、その参道に面した所に「賭け茶店」とよばれる、今日のパチンコ屋のごときものが発生しだした。みなバクチは好きらしい。庶民は、いくばくかの銭を掴んで、この茶店へ行き、顔をしかめながら、丁半ならぬ茶当てに、うつつを抜かしたものである。後年も、そのまま「かけ茶店」と、寺有地にある茶店は呼ばれたから、まるで(腰をかける茶店)のごとくにも間違えられ、戦国時代においても、そうした店では茶を出し、餅などを食わせるものと誤解されているが、それは江戸期に入ってからの話。当時は神聖なる鉄火場だったようである。

 芝居などの舞台で(緋毛氈を床机にかけ、赤い小旗を出している茶店)と(緋色に墨字で茶と書いた旗を出し、赤布は見せぬ茶店)のニ種類がある。赤い方はFor ladyで、青い方はFor menとも勘違いされるが、あれはそうではないら しい。赤い方は「唐茶」つまりRed teaなのである。今日「からちゃですみません」といってお茶を出されるのは、なにも空茶で、お茶うけのお菓子がつかなくてすまん、というのではない。大陸伝来の茶は、今でも支那茶と呼ばれている赤い色の茶である。これはお番茶ですみませんね、ということらしい。この赤茶の店のギャンブルは(支那茶だから蓋つきゆえ)味をみてミックスを当てさせるようなことより、もっと手軽に茶柱の有無で、つまり蓋をとった瞬間に、早いとこ勝負をつけさせたもののようで、青い旗を出した店は、呑み分けをさせ、それで運否天賦を競わせたものと区別されている。こうした闘茶の「お茶賭博」は随分その頃は流行したものらしく、今でも「いつ茶やるべし」が変化して、「いっちょうやるべし」と賭け用語になっている。この闘茶の賭けは、もともと大陸伝来で、仏信心のほうから始めたものだから、神信心の連中は、「ばさら茶」に対し、真っ向から反対な「わびの茶」というものを対抗上思いついて始めたらしい。輸入品反対、国産品愛用の茶湯で賭事は厳禁だった。つまり、これは、象牙や唐金の茶道具の代りに竹を削り、これを裂いて用い、椀も舶来のものは避け、国内産の楽長次郎の流れをひく織部かまどや、美濃かとう衆が流亡した尾張瀬戸の焼き物を用いた。競輪・競馬の被害に対して我慢のならなくなった連中が、「ギャンブル反対」を叫ぶように、彼らは、闘茶でなくて、シンプルに茶を啜ることに、茶道というものを確立しようとした。これは南方録に「宗易(千利休)ノ物語ニヨルト、村田珠光ノ弟子二名ガ、堺ノ皮屋ノ武野紹鴎ニ、コノ(ワビノ茶)ヲ教エ、マタ能阿弥ノ小姓ノ右京ガ後ニ空海トナノッテ堺ニ住ミ、コレガ北向町ノ道陳ニ(ワビノ茶ヲ)ヲ伝授シタ。ソレヲ与四郎ト呼バレテイタ17歳ノ自分ハ、堺ニイタカラ習ッタノデアル。トイッテイタ」と出ているように、本場は堺である。
そして、当時の堺というのは、マカオからポルトガル船の入港する土地であった。九州地区は別にすると、本土では、ここしか開港場はなかったのである。そして、紹鴎一門の紹佐は油問屋、宗佐は染料問屋のあかねや。宗納は両替の銭屋となっているが、みなポルトガル船が入れば、その貨物を買取り、貿易商も兼ねていた。

 
また、この「堺商人」というのは、続応仁広記を見ても判ることだが、「永禄11年10月、織田信長は将軍家再興の名目にて、摂津、和泉に『矢銭』を申しつく。堺の割当は2万貫文なり。これに対して、堺の代表三十六人衆は拒絶し、能登屋、べに屋の両名を大将とし、諸浪人輩や若党を集めて軍勢を催し出陣す」と、いった有様であった。では、何故、堺の商人は威勢が強かったかというと、鉄砲は天文12年に種ヶ島へ伝来、国産品も出廻っていたが、それに使用する火薬硝石は、これは、みなマカオから、この堺の商人に手に入っていたから、のせいらしい。そして、その堺の貿易商は、みな「わびの茶」のグループである。紹鴎門下の宗久は、信長から、摂津住吉で千2百貫の領地を貰って、旗本になり、何をして奉公したかというと、我孫子の丘に、鉄砲工場を建て、マカオから輸入の最新型を手本に新式銃を量産していた。彼ら堺商人がポルトガル輸入の火薬の一手販売をしたという史料には、陸前岩淵文書が残っている。これは、元亀元年の姉川合戦に先立って、当時、横山城代をし ていた羽柴籐吉郎秀吉から、「火急に、とり急ぎ申しいれそろ。鉄砲薬いかにもよく候ものを30斤、(当時の火薬は不良品が多かったらしい) えんしょうを、おなじく30斤、すぐさま、はこばせくだされたく、天王寺そうきゅうさま」という宗久あての注文伝票の現物が現在伝わっているくらいである。宗久は千2百貫どりの方では「今井宗久」であるが、マカオ輸入火薬シンジゲートの方では「天王寺屋宗久」であったのである。

 つまり、戦争には鉄砲がいる、鉄砲火薬はマカオより堺である。堺衆は「わびの茶」である。「わび茶」のシンボルは竹製の茶筅である、だから信長は、マカオ火薬を一手に掌握するためには、堺衆と仲良くしなければならない。だから今日の接待ゴルフ のように、「わびの茶」をやり、そして親善の意を表して、そのシンボルを髷に考案して「茶筅髷」と呼び、それでもたらずか、次男の信雄を茶筅丸と呼び、これを堺衆を接待する時の茶席によんで、その歓心をかったのであるらしい。つまり信長は、当時、このマカオがポルトガルの単なる根拠地、つまり足場にすぎないとは気付かず、ここに火薬、当時、煙硝と呼ばれていた硝石の山でもあって、そこから採掘して堺へ運んで来るものと、宣教師や死の商人に吹き込まれていた。

 なにしろ、そのポルトガルやスペインのあるイベリヤ半島というのは、昔はゴート族、次にサラセンのトルコ人の統治が続いていた。 だから平清盛の頃に、リスボンを首都にするポルトガル王国ができたり、応仁の乱の終った日本の文明11年に建国されたイスパニア王国にしろ、国民の大半は有色人 種のトルコ系との混血児で色が黒かった。つまり、ヨーロッパ大陸では、皮膚の色で軽視され、それで、同じ有色人種の東洋へ進出してきたのが、この連中である。いまマカオでみかけるポルトガル人も、みなダッタンみたいに赤黒い顔である。肌の色としては広東人よりも色素が多い。だから信長の頃のポルトガル人も、さぞかし、もっと色黒だったかもしれない。そこで、ポルトガル人共は、自分らよりも色が白い信長にコンプレックスを感じて、まさか、マカオから運んでいる火薬が、じつはヨーロッパ各国の軍団からの払い下げ品だとも言いかねたし、また不要払下の格安品だから、湿気をおびた不良品が混入しているのだとも説明できなかったのだろう。
 おそらく彼らはヨーロッパで退蔵され、古くなってダンピングされた火薬を、堺へもってきて、包装の外箱や樽がまちまちなのを取り繕うために、マカオで製造しているとか、採掘していると説明して、新品を装ったのだろうと想える。というのは、インドへ新しい木樽にはめる鉄のたがなどを発注したのに対しての、1568年5月付の返信もマカオ図書館には残っているからである。さて、信長はマカオから輸出されて堺で受取る火薬が横流れして、当時の敵国である仏教徒側の石山本願寺や毛利一族へ渡らぬように取締るために、松井友閑を宮内卿法印の位につけ、「堺の政所」つまり輸出管理監督所長に任命していた。ところが、それでも抜荷といって、途中で火薬樽が相手方へ廻ってしまうこともあったようである。そこで、かくなる上は堺を押さえていても、海上で備前備後の唐人(からうど)船(ジャンク)によって毛利方へ密貿されるなら、いっそマカオを占領して、天下の火薬を独占してしまえば、もはや敵する者もなかろうという考えからか、信長は有力 な大海軍を作ることにした。外洋にも乗り出せる大型艦を、九鬼嘉隆に六艘、丹羽長秀に一艘作らせた。この船舶の大きさはポルトガル船に匹敵し、船大工に中国人が使われていたのはけしからん旨の記載が残っているぐらいである。というのは、この信長艦隊は天正6年7月から堺の沖合いに碇泊していたから、マカオからの連中の目にも入って、恐怖を与えていたらしい。観艦式のため信長が堺へ行ったのは、廻港されてから2ヶ月目の9月であった。今井宗久茶湯日記及び宗及自会記に、このとき信長が、今井宗久や津田宗及並びに天王寺屋道叱、紅屋宗陽の私宅を個別に訪問して歩き、堺衆に対して敬意を表したように出ているし、堺の連中も名物の茶器などでもてなしたようになっているが、その信長の堂々たる行列ぶりは、山上宗二記にいうところの、「一物モ持タズ。胸ノ覚悟一、作分一、手柄一、コノ三ヶ条ノ調ヒタルヲ『侘ビ数奇』 トイフ」という(わびの茶)の精神とは、まったく遠いものである。

 そもそも(わびの茶)の心構えというのは、応仁の乱によって、明国と提携していた足利政権の力が弱まり、不当に圧迫されていた神徒の面々が山から降りてきて(後世は下克上というが)どうにか一城の主か、一店の主になれたものの「初心を忘れず」 つまり、山間に閉じこめられていた頃に何の一物もなく、ただ有るのは自分らの胸の覚悟の度胸と、何かを作りやってのけようとする努力、そして、それを手柄にまでもっていける根気。今でいう運、鈍、根の三つを、じっと反省し噛みしめ合う、仏教でいえば座禅会のような質素なものだから、信長のような派手好きを、「詫びの茶を好む数寄者であったから、頭に竹の茶筅を模倣した髷を立てていたり、その子を茶筅丸とよんだ」と評するのは、やはり違うようである。あくまでも目的は、天下布武のためのマカオ火薬の確保とみるべきであろう。これは当今の人間が、接待用にゴルフを始めたり、麻雀のつきあいをしだすのと、あまり変りはないようである。そして派手に振舞ったのは、王者の貫禄の誇示だったのだろうか。

 
さて信長は、堺の観艦式の後、万見仙千代という、今でこそ知られていないが、当時は慶長頃まで「さがの桜は花うつくしけれど、仙千代さまには、うらめでござる」などと騒がれて唄われていた天下一の美少年の取り合いをして、摂津の荒木村重との戦いにあけくれ、ついで三木城の別所一族に背かれ、せっかく艦隊を建造したものの、マカオ遠征などできずに死んでしまったのだが、明智光秀が、後世、その犯人として、ある程度までは納得されたのも、当時の堺衆の筆頭ともいうべき津田宗及との交際が激しかったからである。なにしろ今でこそ「茶湯」というと、風流としか解さないが、その当時の茶事を司っていた連中は堺衆。これみな火薬輸入の貿易商である。そして当時は黒色火薬の時代で、「焔硝」ともよばれいていたが、その混合成分の一割の木炭の粉や、(天正元年3月13日の兼見卿記に鉄砲用の灰木十束進上の記載がある)、1割5分の硫黄は国内で出来もし間に合ったが、成分の4分の3を占める硝石ばかりは、これは、みなマカオからだった。

 津田宗久文書の天正2年5月の項に、当時岐阜城主だった信長に招かれて宗久等が行ったところ、非常にもてなしを受け、宗久等堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、彼らの初めた「わびの茶」を自分もやっていると茶席を設けてくれた、とある。といって勿論、本場は南米のチリーで、現在のメキシコを、ノビイスパニアとして占領し、そのアズテク帝国を滅ぼし、ペルーのインカ帝国も、征服したスペイン人は、 信長が12歳の天分14年に、まずポトシー鉱山をペルーで開発し、ついでサカテカ ス、ガナファート鉱山を、住民を奴隷にして露天掘させて積み出していた。つまり、その一部か、又は従来の古くなった硝石が、インドのゴアと、やはりイスパニアに占領されていた今のフィリッピンのルソンから、払下げ用としてマカオに運ばれていたものらしい。

 さて宗及他会記によると、堺衆で火薬輸入商の宗及は、明智光秀の坂本城へ、しばしば招かれて往来し、自分も明智の家老の斎藤内蔵助利三などを招待している。天正9年4月には、光秀と一緒に、その本城である丹波亀山へ行き、逗留。ついで に案内されて、天の橋立を見物し、細川幽斎、里村紹巴を招き、光秀と4人で連歌を したという記載もある。9月に、また光秀と行動を共にして、丹波の周山へ月見に出かけたというのも出ている。極めて懇意にしていたようである。もちろん、天正10年に入っても、光秀と、津田宗及の交際会合は、ひっきりなしに続いている。つまり、信長‥‥今井宗久、光秀‥‥津田宗及という結びつきで、宗久も宗及も、武野紹鴎門下の当時の茶湯の出頭人であり、商売の方では、焔硝輸入業者で、競争相手の立場にあった。もちろん、秀吉の世になってから脚光を浴びる「千の利休」は、この当時は、まだ 「宗易」と呼ばれ、宗及や宗久の下の身分だった。

 
応仁の乱までは弓矢だけで勝敗が決まったものが、鉄砲伝来によって、様相が一変してしまい、ここに戦国時代が始まり、鉄砲と輸入焔硝を掌握する者こそ、天下人になれるという時代だったから、信長と光秀の関係は、安土城では主従であっても、堺に於いては、その宗久と宗及の比較では、輸入実績は五分々々位のところだったらしい。だから「明智光秀が天下に志をたてて、信長を葬り去ったのではないか」という意見も、実はこれから生まれたようである。だが、しかし何といっても、光秀が信長殺しにされてしまったのは、ただ、単にそんな明快な事由からでもなかったらしい。もっと複雑きわまる当時の事由が、これには交錯しきって絡まっているようである。
 胡魔
 現存している史料で、変ったものがある。「明智風呂」のある花園から、大本教で名高い綾部をぬけ福知山線の終点で下車して、駅前通りを、まっすぐに行くと、金網ばりの鳥の家や猿の小屋のある広場へ出る。ここが「ごりょうさん」とよばれている福知山市の御霊社である。祭神は宇賀御霊大神。並んで、配祀、日向守光秀の神霊となっている。 ここが、日本で唯一の明智光秀の神社である。ここに宝永2年。つまり赤穂浪士の大石良雄らが切腹した2年後の日付で、明智日向守光秀祠堂記というのがあって、宮司森本孫兵衛が保管している。茨城土浦から寛文9年に、この地へ移封された朽木種昌の跡目植治(ためじ)(三万石)が、ここへ光秀をなぜ祀ったかという趣意書である。「天正10年6月2日に洛陽にて運を開くや、当邑1千余戸を無税扱いになされた。だから、当地方は、本能寺の変後124年間にわたって繁栄してきた。それなのに今般、特典廃止の知らせが出たから、なんとか菅原道真公が雷となって、ゴロゴロやらたように、ひとつ冥土から出てきてお救け下さらぬかと、今回ここに、お祀り申しあげる次第である」という内容のものである。

 
さて、福知山史談会の調べでは、この地は、「秀吉の室ねねの伯父杉原七郎左家次3万石(伯父ではなく義兄)。次に、小野木縫殿助が3万1千石。あとは有馬玄蕃頭豊氏6万石、岡部内膳正長盛5万石。稲葉淡路守紀通4万5千石、松平主殿頭忠房4万5千7百石。そして朽木氏」と、約120年間に7代も当主が変っている。そして、7代にわたって福知山の城下町の一角の千余戸が無税だったということは、 これは、ところの領主の管轄区域ではなかった「特別地帯」ということになる。

 光秀は、その天正10年6月9日に、禁中へ銀5百枚、五山や大徳寺に各百枚。6月7日に勅使として下向した兼見卿記の主人公に、銀5十枚。そして京都の住民に 「地子銭免除」はした。(これは、明治6年の地租税改正から、土地の私有を認め、その代り今の固定資産税のようなものをとりだしたが、それ以前は、土地は公有地としてその貸地料を税金にとられていた。つまり、それの免除ということである) だが、なんで丹波の福知山までをノー・タックスにする必要があったのか、考えられもしない。ところが、この土地の福知山音頭の第1章も、「明智光秀が開いたところヨイヨイ」で始っている。だから御霊神社にも、「天正7年、並びに8年に、丹波攻略の指図をした光秀の命令書の二通」と、「明智軍法十八ヶ条」といわれる注意書一通が宝物として残っている。だが、福知山と光秀とは何の関係があるかというと、どうも伝承と事実は違っている。だいたい、ここはもともと丹波党の塩見一族の根拠地で、それを横山大膳が奪い、土をかきあげ、砦をこしらえて守っていたのを、天正7年8月に信長の命令で丹波攻略に侵入した光秀の娘婿、明智秀満が占領。砦を崩して築城し、天正9年9月に福知山城を落成させ、これを信長の命令で、杉原七郎左にわたし、秀満は城を明け渡した後、実父を横山の館に住まわせていたにすぎない。

 
兼見卿記に「秀満の実父は天正10年6月4日すぎ丹波福知山横山にて捕縛、7月2日粟田口にて張付けにせらるる」とあり、言経卿記「老父63なりという」と出ている。しかし、明智光秀とのつながりの史料は何もない。無縁な土地なのである。それなのに、「光秀の特別措置だから納税免除」というのは、どう考えてもおかしな事例である。もし想像で、これを追求することが許されるならば、福知山1千余戸が、ところの領主と無関係に124年も保護されてきたというのは、裏返せばつまり、(隔離をされていたこと)になる。これらの土地者こそ、忽然として天正10年6月2日の暗いうちに上洛して、午前9時頃までに、本能寺と二条御所を囲み、片をつけて、光秀が近江坂本衆三千を率いて上洛したとき、すうっと消えてしまったところの「幻の軍隊」ではなかろうかと疑問が湧く。つまり、天正10年6月2日に、「洛陽で運を開いた」のは、光秀ではなく、その光秀に見せかけるのに成功した、この「幻の軍隊」の指揮者か、または、これを操った蔭の人物であろうと考えられる。

 ここで「幻」という言葉を使ったのは、山崎闇斎門下の加藤水草翁という、尾州藩の儒者が、延宝甲寅(1674)に出した西国巡渉記の一節に、「丹波の山家(やまが)より、亀岡へ向かうに、胡魔(ごま)という険所あり、昔、 あまたの武者、幻を見あやまりて谷底に落ち、死者千余をだすという稀代な切所あり。越後などで海面に浮かぶ水幻と同じものなるか、道ありと見誤りて、獣も落下するという。当今の『ごまかす』、『ごまかし』の語も、ここより出づと、土地の故老の説なり」という個所からである。そして今では亀岡と改名されている丹波亀山の近くに、この胡麻の地名は残っている。だから6月2日の午後、洛中から引揚げて来た丹波衆の先頭部隊であった福知山連隊の千余名は、誤って、その蜃気楼の道に踏み込み、谷底へ落ちてしまった。そして、みな無残な死をとげたのではなかろうか。なにしろ、ここの兵が勇敢なことは「私のスーちゃん勇ましい。福知山ナントカ連隊の兵隊さぁん」という歌さえ、軍国主義の華やかだった大正時代には、大流行したくらいである。つまり凱旋の途中、不幸にして事故死を遂げた千余の者の冥福を祈る為、「遺家族扶助法」が発令され、その妻子に限って免税の優遇措置がとられ、まさか「信長殺しにより」とも言えぬから「明智光秀の恩情により」とごま化されたのではあるまいか。

 光秀が実際に、そんな免除をしたものなら、直ちにそんな優遇は廃止されてしまったであろうと想われる例証として、京柴野大徳寺文書に、「大徳寺へ光秀が寄進せし銀百枚、直ちに返すよう申しつけるものなり、天正10年6月19日。三七信孝 謹言」という命令書が現存している。つまり光秀が死んで6日目には、一休宗純で名高いお寺へ寄進されたものさえ、信長の三男の信孝の名で回収されている。まして、名もなく貧しい福知山の人民への優遇など、120年も放っておくわけがない。だから、これは余程の理由があったとみるのが至当のようである。それと、もう一つ。現行の歴史では、「丹波福知山3万石」は、山崎合戦で光秀が敗退した後、秀吉が占領し、「己れの家老にして妻ねねの親類である杉原氏の領地にした」ということになっている。定説である。ところが、福知山御霊神社宝物殿に蔵されてある櫃の中にある虫喰いだらけの、椙原系図によると、とんでもない話だが、ここは本能寺の変の2年前から、「天正8年、拝領する福知山城、杉原七郎左ヱ門家次」となっている。この七郎左家次は、織田信秀の頃から仕えた御槍奉行の杉原十郎兵衛尉家利の跡目である。天正7年8月に、ここを占領した明智秀満が築城に天正9年9月まで懸かったかどうかはわからないが、信長から七郎左が朱印状でもらっているのは、天正8年である。

 丹波というと、みな明智の所領と勘違いするから誤解を招くが、福知山城は、少なくとも天正10年初から、杉原七郎左という秀吉の親類のものだった。だが、こういう例は多い。丹後の細川領の中でも、二割から三割は明智領であるし、その細川だって、あべこべに丹波の中の桑田、船津の二郡は細川領である。所領が統一されだしたのは慶長期以降のことである。なお、杉原七郎左は、天正12年9月9日に福知山城内で死亡。54歳。福知山 奥野村の医王山長安禅寺に墓がある。

 さて、こういう具合にわけてゆくと、「丹波亀山衆一万三千」というのは(福知山の杉原衆千余名)と、それに加えて、(桑田、船津の細川領三千位)が、まず混入されていた事が明白になる。そして、ルイス・フロイス天正元年報告書によれば、「足利義昭の二条城には、丹波亀山の内藤党の射撃手千人を含む五千人の兵士が、たて篭もり、三つの堀と、おびただしい旗を立てた稜堡(りょうほ)によって、難攻不落の有様をみせ、包囲する信長を口惜しがらせた」と記載されている徒党。つまり、この十年後ではあっても、丹波亀山衆の主力をなしていたのは、やはり、かって信長と敵対しあったところの勇敢なる、(内藤党の残党約五千名)ということになろう。これで合計九千余名になる勘定で、残りの四千が、この亀山周辺の山家(やまが) その他の丹波衆ということになる。だから、いくら亀山は光秀の本城だからといって、彼が掌握していた兵とは言いきれぬし、これでは自由行動を起こし、あっという間に 何処かへ行き、何をしでかしたところで、光秀にしてみれば、信長という絶対権力の後楯のない限りは、くい止めようもない。だから、頼れるのは、子飼いの坂本衆三千だけというのも、また無理からない。

 ところが川角太閤記にしろ甫庵太閤記にしろ、みな慶長よりずっと後世の 贋作か、またはリライトされてしまった捏造本にすぎないから、丹波勢一万三千といえば、みな光秀の直属と勘違いしてしまって、ああいうような間違いをしてしまうの でる。高柳光寿氏の戦国戦記の164頁にも、「丹波福知山天寧寺所蔵の天正9年10月6日付の諸色免許状に、明智秀満の名がある。だから、福知山は、天正9年頃は秀満が城主であった」とある。そして、後は誌されていない。つまり、天正10年の領主が、秀吉の妻ねねの親類である杉原家次であることは否定してはいない。といって、「本能寺の変は、秀吉が、杉原家次を使嗾して、信長の不意を突かせ、 使った武者を途中の胡魔峠で全員虐殺させ、証拠隠滅を計ったものである」、「なにしろ、当時は杉原は秀吉の寄騎ではあったが、まだ家老ではなく、信長にすれば一代者の新参奉公の秀吉より、親子代々奉公の杉原の方が信用があったのを巧く利用したのだろう」などといったような、早計なことを、まだ、ここで言っているのではない。

 次に、最も信頼できる高柳光寿先生の、本能寺の変・山崎合戦の68頁を引用させていただく。「家康は6月4日に岡崎へ帰ると、居城浜松には赴かないで、翌5日には部下一同に出陣の用意を命じ、14日には自分で兵を率い、尾張の鳴海まで出陣し、16日には 先鋒の酒井忠次は今の愛知県の津島に到った。ところが19日になって、秀吉から 光秀の滅亡を報じ、帰陣するように言ってきたから、一日おいた21日に家康は軍を帰した」と、当時の家康の行動の説明がある。名古屋の鳴海、津島あたりから、山崎までは、今なら車で2時間の距離である。しかも家康は伊賀者、甲賀者の集団をもっている当代一の武将である。それが、 「12、13日の山崎合戦を、19日になって、秀吉から教わるまで知らなかった」という。しかも通知を受けても「念のために21日まで留まっていて、ようやく引き揚げた」のであるという。ところが、その秀吉たるや、「6月2日の信長殺し」を、備中高松で毛利方の逆包囲を受けていながら、翌3日には、もう耳にして、その3日の夜には、「備中高松城主の清水宗治を切腹させ、備中、美作、伯耆の三ヶ国を割譲させる」という講和を成立させ、翌4日の午前に、宗治に腹を切らせ、兵をまとめて6日の夕方に高松を出発し、7日には本城の姫路へ着き、9日には兵庫に出陣し、12日から山崎合戦である。

 比較してみると、「どちらかがあやしい」実に変である。秀吉の方が正しければ、家康は狸親爺をきめこみトボケていたか、また「明智と羽柴の両軍が疲れ切ったところを一度に屠ろう」と待ちかまえていて、失敗したかの、どちらかとも考えられる。しかし家康が、山崎合戦の確認に9日かけたのが本当なら、秀吉の方は「神速果敢」などというものではない。あまりにも、それは予定の行動でありすぎる。無条件降伏であっても、こうも速くできるものではない。おそらく何日も前から談判して、練りに練って煮つめたものの仕上げでなければ、こんな短時間に、最後交渉が、さっさと決まるものではない。ところが6月2日前は、講和どころか、信長自身が出陣してきての一大決戦の筈であった。まるっきり、ここで話が違う。これでは、星占いでもして、6月2日に信長を昇天させてしまう神の啓示をきいていたか、又は、自分自身の努力によって骨をおり、そして、その結果を待っていたとしかいいようもない。そういう疑惑をはさむと、目につくのは杉原家次の扱い方である。

 秀吉事記によると、水面に浮かんだ高松城から、清水宗治が切腹するために小舟に乗って現れてくると、家次が検使として、「天晴れ、武士の誉れでござると」と、やはり小舟を漕ぎ寄せ、酒肴を贈ってねぎらい、よいところを見せるのである。そして、秀吉は、「高松城の受取り役の正使」これにも、また家次を起用している。他に人がいないわけでもないのに、杉原家次ばかりを、いかにも人目につくように動かしすぎている。これは、「杉原は、こちらへ来ている。丹波にはいないんだ」というアリバイ作りのように見えて仕様がない。それでは、杉原家次が備中へ行った後の福知山衆を率いた者は誰かということになる。もちろん、こんな例証になるものが残っているわけはないから、これは推測だが、家次が病没した後、本来なら、その跡目の伯耆守長房に継がせるべきなのに、秀吉は年若な杉原長房を但馬豊岡3万石へ移してしまい、後釜に小野木縫殿助というのをもってくる。なにも福知山は要塞の地でもないから、当時23歳の長房でも良いと思うが、秀吉の目には不安に見えたのであろうか。しかも念のために、ねねの妹の嫁いで産んだ浅野弾正の娘をこれに押しつけている。何かの秘密漏洩を気づかって、徹底的な近親婚を強いるのである。このため、重長が産まれ、後三木城3万石へ、また移封し、これに竹中半兵衛の孫娘をあてがうが、これで、ついに杉原の血脈は絶えてしまうのである。
 縫殿助
 さて、小野木縫殿助というのは、清次郎とよばれた頃から、秀吉の子飼いで、天正元年9月に、浅野家文書によれば「250石にて、近江長浜時代の秀吉に奉公した」とある。「馬のり5百貫」といわれた時代だから、その半分で、乗馬できない徒歩武者である。この男が、いくら子飼いの者とはいえ、突然として3万石の福知山城主になるのである。もちろん、一柳文書などによると、「天正12年、小牧合戦にあたり、伊勢神戸城その他を守りし功により」とあるが、その前年には伊勢合戦はあったが、天正12年には、戦のあったのは、小野木のいた伊勢神戸ではなく、尾張長久手の方である。何処からも攻められたというのでもなければ、何も小野木が唯一人で守ったというのでもない。ただ守備兵の一人として廻され、勤務していたというのに、これはすぎない。功労などない。ところが、それが一躍、3万石の殿様になってしまう。歴名士代記という当時の記録によると、堂々と秀吉によって、「天正13年7月13日付にて従五位下に任官し、縫殿助に叙せられる」となる。なんの手柄か全然判らない。といって、杉原家次が目につくように備中へ残って、高松城の預かり城番として残留している蔭にまわって「小野木は丹波福知山衆を引率し、京へ乗り込んで本能寺を襲撃したろう」などとも、これは証拠なしには一概に言えない。

 だが、細川藤孝、忠興にとっては、小野木は、(何かを知られている、消してしま いたい存在)だった事は事実である。豊臣大名分限帖によると、小野木は、「3万1千石より4万石に昇進」という幸せな身分だったが、秀吉に死なれると運命が逆転してしまう。つまり、この小野木縫殿助は、関ヶ原合戦に先立って、大坂城下鰻谷(うなぎや)町橋口詰所の警備だったが、7月18日、丹後方面司令官に任命された。かっては2百5十貫取りに過ぎなかった身分が、別所豊後守、山崎左馬助、谷出羽守以下一万五千を率いての出陣だったから、さぞかし気持が良かったであろう。だが、良いことの後には決まって悪いことが廻って来る。

 さて、7月21日に東軍の徳川方へ味方した細川忠興の留守城の田辺城を包囲した。丹後旧事記によると、「三刀谷(みとや)監物孝和という者あり。もと毛利方の臣なるも浪人して京の吉田山にあり。吉田山の吉田兵衛督兼治(ひょうえのすけかねはる)によって、その一族郎党百三十人と共に丹後へ駆けつく。細川幽斎、喜び、これを迎える。しかし合計城内は武者五十人。雑兵を合わせて五百人にすぎず」といった陣容が細川方である。五百対一万五千なら、すぐにも勝敗がつきそうなものだが、小野木と細川は前に何かの因縁があったのか、どうも、まじめに合戦をしていない。最大の激戦は7月25日であるが、「敵は東西より一度に、ほら貝をたて鬨の声をあげ攻め寄せてきたから、天草櫓の松山権兵衛が小林勘右と共に、小野木方の武者に鉄砲を撃ちかけ、黒甲黒皮おどしに鳥毛の棒を指物にした大将株と、それに従う旗持ち六、七人を傷つけたところ、残敵みな堪えかね、一斉に敗軍つかまつり」と、七人ぐらいが傷をすると、それでもう総退却だし、「大手口に一団となって敵が来襲し、攻め声をかけて打ちかかるのを、鉄砲にて旗指物武者を狙って倒したところ、後の敵勢は鼻じろみとなって縮み上り、道に立止り溝に匿れるか木の切り株に取り付きかがみ、次々と、その隠れた者の背後へ取 り付いてしまって動こうともしなかった」と宮村出雲守篭城覚書にある。なにしろ寄手に戦意がなさすぎる。だから、こういう具合の合戦では、きりがない。

 そこで、桂宮御記録によると、「三条西大納言と中院中納言が、寄手の総司令官の大坂城へ行って、和解の勅令を伝え」田辺城へは烏丸中将光広と丹波亀山城主の前田通勝が行って「停戦」させている。 そして、洞院時慶卿記には、「9月3日、日野大納言、中院中納言、勅使として丹後へ下向」とある。つまり9月12日から、田辺城は、仲介人の前田通勝が預って城番になり、細川幽斎は前田の居城の丹波亀山の本丸へ、五百人の家来と共に移った。小野木縫殿助も、恰好がついてよかったと、攻撃軍を解散させて福知山へ戻っていると、突如として、関ヶ原合戦から戻り道の細川忠興に攻めこまれた。和平を愛し人命を尊重し、ろくに田辺城を攻撃しなかった小野木が、あべこべに激烈な城攻めを受けた。「話が違う。こんな莫迦げたことはない。丹波亀山へ行って、親爺殿の細川幽斎と対決したい」ということになって、縫殿助は城を出て、亀山へ行った。だが、城へは入れられずに、「面会場所として、寿仙庵という寺」 へ案内された。ここで詰め腹を切らされたか、瞞し討ちにされたか判らないが、胴体と首が、その細い部分において切断をされた。10月18日の事である。

 寛政譜、田辺戦記にかかると、翌年11月には、「神君家康公におかれては、その武威をご賞揚なされ、褒美として細川忠興公に、九州豊前一ヶ国を賜る。旧に3倍する程の破格な恩賞なり。尚、幽斎候にも、隠居分と して6千石を下しおかれる」という大手柄に、これはなるのである。細川家としては、福知山の小野木を処分したい必然性はあったろうが、徳川家康も、こうなるとなんだか怪しくなる。なにしろ関ヶ原合戦は9月15日で終わっている。田辺攻略は、強制和解が成立している。なにも小野木が乗取りしたわけでない。小野木は引揚げている。それなのに一ヵ月後、私怨をはらすように忠興は、おとなしている小野木を攻め、瞞し討ちのように首をはねる。これは穏やかな話ではない。平和時だから殺人である。どうも家康の使嗾でやったとしか考えられない。だから、忠興の倅の代には肥後熊本54万石にまでなる。信長時代の3万石の身分からみると実に18倍。出世するのには、なにか隠されたわけがあるらしい。

 梵舜日記では、吉田神社の末社の三社神社は幽斎を祀るといい、旧三高の吉田山から吉田小学校の裏までを「隠居町」というのも、細川幽斎が豊後国東郡富来城に住まず、洛北で世を去った名残りだというが、同じ丹波亀山一万三千の中核部隊であったとしたら、小野木縫殿助に比べて随分、運勢が違うものである。勿論、それには相応の物的証拠の腐心もされている。細川家文書として残されているものに、沼田権之助光友来書というのがある。「御父子共に元結を切払れし由、余儀なきことにて候(なにが余儀のないのか。信長に以前に助命された報恩でもあれば別だが、そんなことはない。信長の遺臣の中で、髷を切ったのは彼ら父子だけだという限定事実を考えると、どうも髪を切って詫びねばならぬようなことを細川父子はしているらしい)(それだから光秀としても)一旦は 我らも腹を立てたが(ここが難しい。『我ら』と複数にしてあるところをみると、細川父子以外の者の殆ど全部、つまりこういう用語法は『吾らばかりでなく、一般の者も』という場合に使われることが多いからである)思案の程かようにあるべきと考え(どういう気で、あんな、大それた事をしでかしたのかとも考えはした)しかれども、この上は大身を出されて(原文は被出候。つまり従来の解釈では、権之助に手紙を持たせた光秀のほうが、細川に対して大身にしてあげる大禄を差し出しましょうと言ったように解読するが、どうやら歴史家がちがうらしい。これでは、細川に出せられ候よと言っているのである)まあ、じっこんにと、のぞみおりそろ」。

 ただし、この後の第2節は訝しい。後から贋作するときに書き直したらしい。てんで第1節とつながらない。どちらも原文そのままだが「国の事、内々摂津と存じ当り候あいだ、御のぼりを相待ち候つる。但若之儀思召寄候わば、是以て同前より差合き と可申付候事」。従来の解釈では、「摂津一国を進上しよう。但馬若狭を望まれるなら、これをもって、摂津より差引きに充当してよい」という光秀の言い分とされている。つまり、これらの国を餌にして誘ったというのであるが、普通の常識では、相手の欲しがる物をもって誘うのが普通だから、これは変てこである。というのは、細川幽斎が最も欲しいのは摂津ではなくて山城の筈である。それに摂津は、高槻に高山重支、茨木に中川瀬兵衛といったように、この時点では、まだ光秀の寄騎衆の領地である。(これを取り上げて他へ割譲できるかどうかは、これは考えるまでもない)

 さて、山城国乙訓郡の男山に向かい、桂川に沿った勝竜寺城は、この時は信長から貰って光秀のものであったが、幽斎の祖父の元有が築城したものである。そして以前の永禄11年9月には、一旦は幽斎のものになっている。もし光秀が誘う餌にするのならば、当時は自分の持城で、幽斎誕生の勝竜寺城のある山城をもってこそするのが、これは当然な事であろう。 (但若)を「但し若」と判断するならば、これは幽斎の妹聟の武田大膳大夫義統のかっての領地である。幽斎も若い頃は義昭を奉じて滞在していたから、若狭の国ならば欲しがるかとも納得できるが、しかし、若州観述録では、天正8年つまり2年前から、幽斎の甥にあたる孫八郎元明の領国である。どうして光秀が誘い餌にするのに、幽斎の妹の倅の土地をもって誘惑するだろうか。もし従来の解釈のように但若を二国とみれば但馬の国たるや細川には何の関り合いもない土地である。夜店のバナナの叩き売りだって、やたらむたらに何でもつけて客寄せするものではない。だから、この一節は、常識では考えられない。つまり、光秀は幽斎を誘ってはいない。あべこべに堪忍料として、(丹波国内に光秀領が多いから、その丹後をよこせ)と光秀が言うような所が、この最初の第一信だったのではあるまいか。なにしろ後年になって細川は、肥後54万石などという謎の出世をするものだから、当時の細川の身代も過大に誤られやすいが、細川家記でさえ、「天正3年、信長は幽斎の度々の戦功を賞し、ここに丹波国内、船津、桑田の二郡をもって、その封となさしむ」、「天正5年10月。光秀は兵五千を率い丹波大江山に陣す。幽斎はその倅忠興以下三百五十を率いて、それに従い、田能越に到る」とあるくらいの身分の格差。つまり明智家と細川家では13倍から14倍の距りがあったのである。どうして「一国くれてやる」の「二国やる」のといったような、そんな大層な招き方を細川にする必要などは、当時としてはなかった筈である。

 さて、ひっかかるのは、その第3節である。肝心な個所ゆえ、ここは先に原文だけを引用する。「我ら不慮之儀存じ立て候は、忠興など取立て申す可しとての儀に候。更に別条なく候。50日、百日之内には、近国之儀相い固め候うべく候間、其已後は十五郎(光秀の長子)与一郎(幽斎の長子の忠興)殿などへ引渡し申候て、何事も存じ間じく候。委細は両人に申す可き候こと」。これに「以上、6月9日 光秀判」となっているが、前もってことわるが、光秀は、こんな訳の判らぬ悪文を書く男で はない。さっぱり意味不明な個所もある。なにしろ、現代だって牛の絵が印刷してあっても、中身はウマ罐だったり、ハムといっても魚肉のものもある。「光秀」と名があっても信じられはしない。なにしろ、江戸期は系図屋といって(今でも承知で盗品売買する故買商を、ケイズヤと言っているのは前に書いたが‥‥)、銭さえ出せば、天皇家や足利将軍家にさえも祖先が連結しているように、系図を作製してくれる商売があったくらいである。細川54万石の資本力があれば、古書や古文書くらい、何でも専門家にやらせればできてしまう。との想像も成り立つ。次に忠興は、光秀の三女の玉(ガラシャ夫人)の夫には違いないが、光秀はその他にも、明智秀満、津田七兵衛(織田信澄)という娘婿がある。どうして嫁に娘をやった父親の立場で、その内の一軒にだけよくするということができるだろうか。だから細川忠興を取り立てるために、光秀がわざわざ信長を討つはずもない。それに、ここには「我ら不慮の儀をした」とは書いてない。「存じ立て候こと」つまり 「考えて、それを意思表示として発表したのは」というくらいの意味であろう。これならば、第2節さえとばしてしまえば、第1と第3は連結できないでもない。「一旦我らも憤慨して腹を立て候ども、(まぁ、やってしまったことは仕方なかろう)と考え(近畿管区司令官として最高地位にある自分が)この不慮の出来事にかんして、<存じ立て>(ステートメント)など発表したのだが、(かくなる上は是非もないので)なんとか3ヶ月以内には近くの国内だけでも固め、あとはうちの倅や、そちらの忠興殿(なぜ13分の1の身分の幽斎の倅の娘婿に、殿と敬語をつけたかというと、 この筆者が光秀ではなく、忠興の家臣だったかららしい)へ廻して、よいようにやらせたら、如何であろうか」といった具合になってくる。
 ゲンヤ
 <マカオビブリオテーカ(政庁図書館)蔵書><ゼズス教会ラヴイウ・アクワブイワ ウ師へ奉る、神の僕セルケエロ>の書簡。A・B二通。A ミヤコのフシイ(伏見)から司教は、キウイシュウ(九州)へ帰ってきた。彼は言った。「これまで手紙でよく互いに知り合っていたエッチュウ・ナガオコ(長岡越中とは細川忠興の生前の名のり)と逢った。彼は言った。「ゼズス派の事はまかせて下さい」そして、「私は洗礼は受けていないが、前から神に尽くしている。どうか、神の僕として扱って下さい」と、彼は沢山の寄進を神に捧げた。B 「アジユダンテ(副管区教会長)がハキタ(博多)へ旅行した。すると、そこから歩いて一日ぐらいのブゼン(豊前)の王のエッチュウ・ナガオコ(忠興)は、「是非」 と招待した。オギラ(小倉)の城へ呼ばれた。エッチュウは、司祭達に魚や肉のパーティをすすめ、その間、自分はガルソウン(給使)をした。

 次の日、パンと水だけのヴェルダデーイロ(慎ましやか)な我々の食事に彼を招いた。王である彼も、一緒に水を飲みパンを飲み込んだ。そして彼は言った。「Mr ajuda(メ・アジューダ)」(吾が為に祈れか、我を救えか)。彼は神の御前に膝まずき自分も祈った。司祭は神の祝福のあらんことを教えた。「Me mostre(メ・モストレ)」(我に示せか、我に与えか)。彼は、やっと安堵らしく元気になった。そして戸外へ向かって大きな声で、「Vem ca(ヴエン・カー)」(こっちへ来い。集まれ) と言った。おそるおそる多くの家来が入ってきた。皆膝まずいて神に祈った。司祭達は、エッチュウや、その家来たちの真剣な様子を見て、集団で入信するものとみてとった。洗礼させるための用意をした。だが、彼らは何を遠慮しあうのか、信者にはならなかった。失望した司祭達に沢山のプレゼントが贈られた。それで気をよくして「神のお恵みあらんことを」と、エッチュウと別れた。彼らは遠くまで送ってくれた。荷物をつける馬も貸してくれた」。

 年号は1600年。日本の慶長11年にあたる。小野木縫殿助を殺して家康に賞められた豊前小倉11万石の城主の時代である。この頃の切支丹大名は良質の煙硝欲しさに宣教師を大切にしたのに、彼は神を畏れてというより、さかんに神に甘えている。何故なのか。ここのところに変な疑惑がもてる。それと昔からマカオの司祭とは連絡があったらしい。1614年ガブリエル・デ・マットス年間報告書=片岡弥吉氏訳文により掲出。「ゲンヤは、エッチュウ殿の部下としては偉大な武将であり、オグラの信徒の大きな柱となっていたデイエゴ・加賀山の婿である」と、それにはまず説明されている。徳川家康が信教禁止を命令したからエッチュウ殿がエドからオグラへ戻ってくると伝わると、ゲンヤは言った。「私は聖いお教えを棄てるよりは、もはや死を選ばねばなりますまい。だが、それには、ザンゲをする事と、聖体の秘蹟を受ける必要がある。だから一人の司祭を、神のお使いとしてお向け賜らん事を希い奉る」。

 切なる願いによって管区長は、ポルトガル人の司祭を派遣した。彼は厳しい監視の目をくぐって潜入し、ゲンヤだけでなく、その妻や一族すべての者のエニマ(魂)を救った。やがてエッチュウ殿の重臣が、ゲンヤに、棄教するようにと彼を説得に、その邸へ訪問した。だがゲンヤは、それに答えた。「我らの救いの途はデウス(天帝)に頼るしかない」。強情なゲンヤに重臣は何日もかかって説いた。そして最後には「死を賜ろう」と言った。それでもゲンヤは教えを捨てなかった。のちエッチュウ殿はオグラへ戻られた。そして、ゲンヤがあくまでも教えを捨てないのに対し、秘かに言われた。「彼は、わが身内の一人なり。汝ら特に許しつかわせ」と。

 だが、細川藩類族調帳を調べても、「ゲンヤなる人物が細川忠興の身内」であったような事実はない。彼の妻は「みや」 とよび、デイエゴ・加賀山隼人正興良(おきよし)の娘である。この隼人正は、源八郎と名乗っていた頃、高山右近に仕えて、天主教徒になり、丹後宮津に行き、細川に仕え、天正10年に、何かの手柄によって6千石に昇進している。そして、ポルトガルの宣教師も、なぜか特に彼をイルマン(助祭)に昇進させている。そして、その手柄が、加賀山の娘婿のゲンヤまで、忠興をして「身内」と呼ばせているようである。だから、他の信徒は殺されたのに、彼だけは特に助命されて、元和9年、豊前侍帳に、「二十三人小笠」とあるのが、匿れたゲンヤであろうと、小笠原玄也一件で前文の訳者の片岡弥吉が研究史料を出している。というのは、この元和6年に、忠興は隠居して、三男の忠利が豊前小倉城主となり、ついで寛永9年、肥後と豊後で一躍54万石の大大名になって移封するが、秘かに、助命されたゲンヤも伴われて転地しているそうだからである。はたして、この男は、何をしでかしているのだろう。

 だが、本能寺の変の後に、この細川家ぐらいに、とびきりな立身をしたのが、実は他にもある。しかもれっきとした明智光秀の旧臣である。そして、丹波亀山という、光秀の本城の城代をしていたという。しかしである。もし本物の城代ならば、なにしろ亀山は、明智日向守の本城であるから、彼のごとき軽輩が任命されるわけはない。なにしろ、当時の光秀の持ち城は三ヶ所で、山城の勝竜寺城‥‥城代は溝尾庄兵衛、近江の坂本城‥‥城代は明智秀満である。だから、本家本元の、「丹波の亀山」は三宅藤兵衛か、新参でも斎藤内蔵助あたりが当然である。それなのに、浅野家文書によると、「山崎合戦の時、敗報いたるや、すすんで秀吉方の堀尾吉晴へ渡し、それを縁に太閤殿下に仕う」と出ている。まこと不思議な話である。もとより光秀の前からの家来ではない。彼は丹波の土地者である。これは、細川家記の天正6年の亀山攻めの一節に、「幽斎は使いを丹波亀山に馳せさせ、相篭れる内藤、島村、安村らに事理をわけ、降参するように言い入れしも諒承なさずして」とあるから、三つの党派のいずれかに所属する武者。他方では、まだ使われていた 「郎党」の部類に入るくらいの身分の者だろう。つまり、せいぜい20貫どりぐらいの、錆びた槍を担ぎ、剥げた銅丸をつけた程度の者だったと考えられる。

 ところがその男、秀吉に召抱えられた途端に2、3年すると京町奉行に出世。8年後の小田原征伐に出陣すると、奥州から出てきた伊達政宗の介添え役をしたり、秀吉の義弟浅野弾正の倅と一緒に、奥州へ下向し、彼だけは一躍、葛西大崎領12郡、しめて30万石の大々名になってしまった。えらい出世である。ちょっと異例すぎる程である。別に、娘や妹を、秀吉に差しだしたのではない。男の実力である。つまり丹波亀山を、そっくり秀吉に差しだしたという手柄である。言い換えれば、天正10年6月2日午後以降、その一万三千の兵力を光秀につけずに、孤立させた功労によるものだ、というわけだが、異常に思える。なんといっても、一雑兵が、30万石になるとは破天荒である。槍先の功名で戦場へ出て獅子奮迅して戦ったような武勇譚も、彼にはない。稼ぎ出したと言うより、貰った手当外扶持である。秀吉からの贈物であった。つまり考えてみると、彼に30万石くれるということは、彼のおかげで、秀吉が300万石か600万石儲けたということになるのだが、なんだろうか。なんの史料も伝わっていない。

 だから怪しむべき存在として疑われてもいいのに、今日まで誰一人として彼を問題にしていない。というのも、この男は雑兵上がりで、ろくに家臣もいないのに、いきなり30万石にされ、一郡一城とみても、12からの城を持たされてしまった。そこでやむなく、旧葛西氏の本城の登米(とよま)城に自分が入り、旧大崎氏の本城の古川城に倅を入れ、岩手沢城以下十個の城へは、城代として入れる者がなく、並の徒歩(かち)武者を入れた。だからして、昨日までの足軽が、にわかに奉行などに出世した。偉くなることはよいが、何も自分で努力したわけでもないから、思い上がって無茶をしたらしい。なにしろ伊達史料の当時の成実記によると、「掠奪、乱暴、目に余るものあり」とある。天正18年10月、一斉に暴動が起きた。ところが、これは、所領を秀吉に奪われた伊達政宗の煽動で惹起こされた暴動だというように、今までは見られていた。だから歴史学の上では、これは郷土史関係の「奥州史料」として扱われてきた。そこで、この男の異常な出世も、これまではあまり書かれてもいない。しかし、丹波亀山衆一万三千の中で、小野木縫殿助が3万1千石、 細川幽斎が豊前小倉12万石と比較すると、この男の30万石は最高である。つまり殊勲第一位という事である。ただ亀山城を守っていて、「ハイ」と堀尾茂助に差出したくらいにしては、些かも って怪しすぎる。やはり、それ相応な事は、してきたのであろう。

 なにしろ前にかいた川角太閤記というのは、「この堀尾茂助の孫の堀尾忠晴が、寛永10年9月20日に死去した後、嫡子の届出がしてなかったという理由」で、遠州浜松12万石を取り潰され、家名断絶した後、なんとかして「御家再興」して、また生活権を確保しようとした遺臣か、その孫あたりの連中が、「いかなる手段をとっても祖先の堀尾茂助吉晴の名を世にあげて、再認識をしてもらおう」という意図のもとに、川角という昔の人間の名で書かれたものが種本らしくて、川角太閤記の随所には、堀尾茂助が大活躍するように、こしらえてある。だが、その本にさえ、この奇怪な、また考えようによっては、堀尾茂助最大の見せ場である「亀山城受取りの場」などは出てはいないのである。まこと想像もつかぬ次元に、これは、おかれていることのようである。

 もちろん秀吉という人物は計算する男だから、「この程度の男に30万石も持たせたら、どうなるかは百も承知」の上でやったのかも知れない。つまり喜ばせて有頂天にさせ、葬ってしまう巧妙なやり方である。この2年前にも、富山城を死守して、厳冬の日本アルプスのささら越えを往復し、浜松まで行くような野放図もないことをしでかした佐々成政を、助命はしたものの、後難を恐れ、熊本の城主に取り立てて喜ばせ、肥後に一揆が勃発すると、その責任を追求し秀吉は、思う壷とばかり摂津尼ヶ崎で詰め腹を切らせている。どうも、このやり口の繰り返しを狙って、彼を30万石にしたのではあるまいか。  

 さて、この男も教徒である。ゼズス派の天主教の信者としては、極めて有名で、その名も切支丹大名記に載っている。父を、木村弥一右衛門吉清といい、倅を、木村清久という。洗礼名は、ジョアンを共に名乗る。彼の旧主の丹波亀山の前領主内藤如庵の洗礼名もジョアンといい、彼は足利義昭のために二条城にたて篭もるのに先立ち、神の御為に「四条新町の誓願寺通り室町」通称四条坊門の「姥柳」にあった「ドミリナベル・ダデイラ(聖教会堂)」の家屋の被害を心配して、丹波へ疎開させようとしたという事を、1573年5月27日のルイス・フロイス書簡は報告している。

 なお、内藤如庵は、山城の松尾神社の宮大工を用いて、丹波に教会堂を建てようとして、その家来どもを入信させ、イルマン・ロレンツが招かれて、丹波へ行き、その洗礼と聖体授与をなし、しばしば説教をしに行っているとも報告されている。だから、 木村弥一右衛門父子も、そのロレンツによってミサを受けた天主教徒に間違いない。そして本能寺から一町と離れていない三階建の京四条の教会堂は、分解移転までしかけたくらいだから、木村は前に何度も行っている。だから、二日の朝も、暗くても望楼に、すらすら登れたろうし、教会堂の司教や助教も、顔見知りの木村父子なら、なんでも秘密の相談もできたであろう。だが、この父子の事は昭和42年6月10日発行の「別冊小説現代」に詳しく書いてしまったから、重複を避ける。犯人直接に手を下して、青い目の人間から、チリー新硝石による最新型の強烈爆弾を受け取り、これを午前7時から7時半の間に本能寺へ放り込んで、一瞬に吹っ飛ばして しまった者は、丹波の福知山党の小野木、船津桑田の細川、亀山内藤党の木村の三者の内のいずれかであろう。この三つ巴に謎は潜む。といって過言ではあるまい。

 さて、「我こそ天と地の神。そして、絶対の神」 と宣言して、本能寺の変の1ヶ月前に、ついに一般公開させてしまった神像を、日本側では白目石というが、向こうでは大理石によるゴシック彫刻のアポロを、信長が 「俺に似ている」と、そのまま用いたものとしている。そして、群集が連日、その神像を参拝に殺到するのをみて、表面はニコニコしていたろうが、宣教師達は慄然としたであろう。「天にまします、我らの神よ。唯一 の神を冒涜し、自分を神と名乗るジャボ(悪魔)を、この世から消し賜らんことを‥ ‥アーメン」と祈ったであろう。なにしろ信長が「唯一の神」の看板を掲げてしまっては、もはやキリストの教えもひろめることはできなくなる。彼らにとっては死活問題に追い込まれていたのだ。

 ところが賢明な彼らは、これに関して何も記録は残していない。現存するのは、当時の日本布教長カブラルの日本人観だけである。 A 私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定、そして偽善的な国民は未だ見た事はない。B 彼らが共同的に従順な生活ができるのは、他に何らの手段がない場合に限られる 。C 彼らは生活が少しでも安定すれば、まるで王者のように思い上がる横着者なのだ。D 彼らは胆の中を他人に見せないよう、隠す事が、賢い処世術と考えている。E 彼らは幼児より、その様に教育され、偽善的な微笑のマスクをいつも掛けている。F 彼らは、お人好しを装う胆黒い奴と、マスクとおりの間抜けな連中で構成されている。G 彼らはラテン語も習わず堂々と説法ができる。そして高慢にポルトガル人を見下す。H 彼らは、もしヨーロッパ人並に研学させたら、ポルトガル人より上になろう。I 彼らは互いにそれを知っているから、仏門でも、和尚は奥義を弟子になかなか授けない。J 彼ら弟子は、学びとった日から、もう師を尊び敬わず、勝手に独立してしまう (‥‥信長を見よ。熱心に我々に神の話をさせた。だが、みな聞いてしまうと、入信してくれるかと思った我々の期待に反し、彼は、判ったといったきりで、今度は自分が気ままに独立しようと考えているらしいとも想える。ジャポネ・デウス(日本天帝)に過ぎない彼が、全知全能なる我らの神にとって代わろうと している)。K 彼らは悪徳に耽りやすく、小心であり、好色の素質が男女共に極めて強いようだ。L 彼らのうちで修道会へ入ってくるのは通常の世間で生計が立たぬか、下級階級である。M 彼らの中の普通に暮らせる者は宗教心を持つより、悪徳に走りやすい心を抱いている。

 「日本人は勤勉にして高尚、我らの接した異民族としては最優秀の民族であろう」 といったフロイスの日本人観は、よく紹介されているが、このカブラル布教長の言葉は、あまり都合がよくないとみえて公表されていないが、4百年たっても日本人というのは、今も昔も同じ様なものらしい。当時、眼鏡が珍しかったから、「四つ目の伴天連(バードレ)といわれた、この男はよく見るものは見ている。このカブラルは、東インド管区長から日本巡視を命ぜられ、1568年8月、マカオへ来たが、季節風に間に合わず、出帆して日本へ向かったものの、またマカオへ逆戻りして、この貴族出身のポルトガル人は、マカオに一年間待機していた。そして翌年、日本へ渡来すると、当時京都にあったフロイス以外の全司祭を一堂に集め、訓戒してから上洛し、フロイスを供にして、すぐ信長に逢った。「イザナギ、イザナミの男女二神が日本人の先祖だという説について」と、信長から質問されると、アダムとイヴを以て答え、「女なんか、男の肋骨一本で出来たセグーンド(第二次的)なものだ」と言って、女に辟易していた信長を喜ばせたらしい。

 そして仏教護持の足利政権と、織田信長が対立すると、司祭らは信長に協力せよとの司令を、このカブラル布教長は命令している。天正4年になると、「京都は、偶像の崇拝において、日本列島の内の唯一の都である。なにしろ仏教の発祥地であり、それを護持する宮廷の所在地である。その仏僧や彼らのパトロンのジャ ボ(悪魔)共が我々を狙って、憎悪の炎を燃やしている。この地に、今や吾々が神の教会を建てるということは、これは回教徒のモロ族がローマかリスボンへ来て、我ら天主教の御堂の横へ、回教寺院を建てるようなものかも知れない」と宣言しながら、気張って新しい教会堂再建を報告している。

 これまで京では、他家の物置を借りたり、六角町の玉倉の小舎を使ったり、四条烏丸では、家主に追い立てられてきた天主教徒が、天正3年に立案した再建を、ついに4年から始めて、天正6年、問題の京都公会堂を落成させる。バリニヤニ摘要録によると、「きわめて美しく、階下は教会堂。二階と三階の部屋は住居となし、見晴らしはよい。何しろ土地が狭少なので三階建にしたからだ」とある。もちろん、このバルコニーは、天正10年6月2日に、ここを指揮塔にして、爆薬を擲げこませる目的などでは、まだなかったらしい。「隣家の婦人が、三階の上から伴天連に眺められては淋浴もできぬ旨、村井貞勝さま邸へ駆け込み訴えをなす。貞勝いう。汝らが地所を提供せぬゆえ三階建てになったのである。が、上から見おろせぬよう露台(バルコニー)などを設け目隠しにさせるよう取り計らわん」と、出典は不明であるが、松田穀一の南蛮史料の発見に出ている。つまり、
こうして本能寺から90mの近距離に、三階建バルコニー付きという、京都では二条城よりも高い、当時としては最高層の建物ができた。江戸期になると 「南蛮寺」というが、当時は「サンタマリア寺」と呼ばれていた。
 大友記
 さてフロイス書簡の中から拾いだしてみると、こういう話もある。信長の許には、コルドヴァ産の革製品や、牛皮のコート、スペインの真紅のマント、 アンドラのビロードの羽根付帽子、ラッコ皮の敷物などが一杯詰まっていたから、バ ードレ達はどんな進物を持っていったら、はたして信長が気に入って、布教の許可をくれるかと思案し、結局三本の銀の棒を用意し、和田惟政に相談に行ったところ、まさか三本ではと、和田が自分の物を加えて十本にして持参したところ、「彼ら外国人から金品を取ることはない。そんな事をしては信長の名が、インドや国 外によく聞こえる筈がない。望みのままの制礼を無料で作ってやれ。予は許可の朱印をついてやる」と言ったという。

 そして、この時の制礼というのは、1569年4月24日の日付で許可されたと記録がある。つまり日本年号なら、秀吉が火薬発注伝票を残している姉川合戦の前年の、永禄12年4月8日に当たる。すると、この頃から、火薬の硝石を確保するため、信長は海外征服の意図があったらしい。そうでなければ、無縁の異国に、自分の名が吝と響こうと、欲張りと喧伝されようと差支えないはずである。つまり、見栄を張るということは、その気があった証拠ではあるまいか。

 さて、フロイスは、ロレンツを伴って朱印状(司祭の国内居住権、信教布教の自由、教会堂が兵舎に徴用免除)を貰いに行くと、信長は、自分で食膳を運んでくれた。そして絹衣と白い麻地を贈ってくれた。法外なもてなしだと、みな愕いた。だから宿へ戻ると、主人が飛び出して来て迎え、足を注ぐにも水でなく、湯を持ってくる程だっ た、とフロイスは書き残している。

 1576年7月7日にマカオを出帆したアレッシャンドロ・ヴァリニヤーノは、18日かかって、日本の天正7年7月2日に、島原半島の口の津へ着いた。彼は東イン ド管区の総長派遣巡察師として来朝したのである。彼は日本布教長カブラルが、ヨーロッパ人司祭と、日本人修道師とを極端に分け隔てして両者が互いに反目し合っているのに愕き、「不和と嫌悪が、時と共に、どのような事態に発展していくか、おそるべきものがある」と、すぐさま、その1580年インド天主教総管区長宛ヴァリニヤーノ報告書に明細に書いている。つまりラテン語もポルトガル語も教えられず、「ドチリナ・キリシタン」の一章を丸暗記で仕込まれているきりの日本人イルマン(修道士)は、思索することも、聖書によって神の途を解明することもできず、ただ信徒たちと一緒になって、何らかの行動によってのみ新体制を、この日本に起こそうとしているし、また日本人の使徒達も、 ポルトガル人とは言葉が通じないから、自然と日本人修道士を囲んで、何かの形態をとって、それを暴発させることこそ、神の啓示であり、新しい世作りであると、そう思いこんでいるのだという心配である。

 このためヴァリニヤーノは日本へ印刷機を輸入し、ロドリゲスーツなどにより、ポルトガル語と日本語の文法などを印刷し、「我々は多数の書物を印刷した。これによって日本語をみなマスターできるようになり、卓越した者でなくても1年足らずで日本人の懺悔を聞いたり、日本人修道士と意見を交わせることができるようになった」と報告するようになるのだが、惜しむらくは、その時点は1595年、つまり本能寺の変があってから13年後の話である。

 さてヴァリニヤーノは、司祭が個々の報告書を送るのを止めさせるため、まず1579年12月1日付で、フランシスコ・コーカリオンに「日本年報」を編集させ、その後は、ルイス・フロイスをもって「日本会報」の編集長、キャップに任命した。というのは、ただ行動しかもたぬ日本人イルマンが、教えることがないから、「創造は破壊から」というような教え方を信徒にしていたからである。当時の九州史料の大友記によっても、「いるまんの教えにて、国中の仏を、みな薪にせよと仰せつけられければ、信徒の者共は、みな山々在々を走り廻っては、仏像などを日々に、馬の背に五駄、十駄と集めてきたりて、これを打ち叩き、みな薪木となす」といった有様で、険悪化しきった革命前夜の様相を見せていたから、何とか穏やかに、暴発は避けて布教したいと、日本在住の長いフロイスを以て、その元締めのような仕事を任せたものらしい。

 もちろん、これは天主教内部の勢力争いのようなもので、表面的には破綻は生じていなかった。天正9年3月17日に、ヴァリニヤーノが堺へ行って、マカオからの火薬その他の輸入品を調べ、二日後に、フロイスやロレンツ司祭を従えて上洛した時も、 信長の大名が付き従い、荷物をつけた馬匹三十五頭、担ぎ人足四十名、これに師父の護衛の武者八十騎、徒歩武者数百という大名行列だった。高山右近の城下である高槻で、復活祭の祝いをした時には、二万余の信者が一堂に会して、言語が判らないながらもヴァリニヤーノの説教を聞いていた。

 
この一週間、ヴァリニヤーノは、その奴隷の黒ん坊を、信長の好奇心を満足させるために寄贈した。そして安土にセミナリヨ(神学校)を開校した。つまり粗暴な扇動主義者である無教養な一般の日本人修道士達では、何を暴発したり、騒動を勃発させるか判らないので、その用心の為に、有識階級の子弟を集めて、これを教育し、神職者の入れ換えを計画したものらしい。だが、ヴァリニヤーノも、安土で妙な感想を本国へ送っている。「信長が、我らに示す動きとして、一つは寛大な美徳もある。つまり傲慢にして強情なくせに、某司祭を此処へ此処へとは指令をしない。吾々は自由に配置できる」という言葉である。これをみると、ヴァリニヤーノ自身も、信長を目標にして、何かを画策していたのかもしれない。このとき随行していたロレンツ・メシアは、ヴァ リニヤーノとは別に、「この信長というゼンチョ(異教徒)は、きわめて尊大ぶっていて、自分を神となしている。まこと天地いずれでも何物も肩を並べるものはないように、慢心しきっている。だから彼にしろ、その長子の信忠にしろ、横暴に構えていて、直接に口をきいたり、話しかけるのを許さない。ヨーロッパでは信じられない程の、彼は残忍さを持ち、そして偉大なる暴君である」と、はっきり敵意を示している。

 1582年(天正10年)日本会報には、 「前年11月3日、信長は予告なしに神学校へ、ずかずかと入ってきた。彼は『不整頓と不潔』を極端に嫌う男であるから、清潔な構内には満足をしたらしい。備え付けのクラポ(空気オルガン)とヴィオラの二重楽奏をして、もし何を企んでいようとも、その心を柔げるべく、吾らは演奏した。何しろ信長の、『慢心と残酷なる所業』はデウスの教えには遠いものであって、このゼンチョ(異教徒)に対し、吾々は絶えず油断できないものを感じている」と、天主教徒は、信長を絶対国家権力者とは認めているが、少しも安心はしていなかった。

 
十年前の足利政権のまだあった頃は、それに付随する仏教勢力を叩くために、宣教師は信長に協力し、相互扶助の関係にあった。信長も仏教勢力を討つため、足利義昭を追い払うため、一司祭に自分から膳まで運んで大切にした。しかし今や、すべては信長の天下なのである。かつてはマカオからの硝石に頼らなくては、その鉄砲隊の威力はなかったが、今や7隻の艦隊を持つ信長は、いつでもマカオを占領できる立場になっていたのである。中南米を征服したイスパニア艦隊は、当時は太平洋へ来て、ルソンのマニラに集結していた。だが織田艦隊の偉容を聞くと、それに対して海戦を好まぬ彼らは、鉾を転じ、アナタハン、サイパン、テニアン、アグリガンと、カナカ土民系の島々を狙って赤道地帯へ南下してしまい、パラオ群島に投錨していた。だから、もし信長の気が変わったら、この独裁者は、一握りのポルトガル人を太平洋に放り込み、海底の藻屑にしてしまうこともできた。そして双方に、互いに危機をはらんでいた。フロイスは、信長の好物の金米糖(コンペイトウ)を取り寄せ、舶来の菓子をしばしば贈ることによって、酒を呑まない信長の機嫌をとっていた。カブラル日本布教長は身の危険を案じ、日本脱出をしてしまった、だから天正9年暮れの長崎会議には、カブラルの後任者のガスパールが代わりに出席していた。

 翌天正10年の正月。ヴァリニヤーノは、マカオ向けのポルトガル船が長崎を出航する直前になって、神学校の生徒の中から三人の貴公子と一人のすげ替えを、途中の病没も考え連れ去る計画をたてた。これは前述したが、 「伊藤マンショ、千々岩(ちぢいわ)ミゲル、中浦ジュリアン」それに身分の低い原マルチーニである。従来の説では、これを「天正少年遣欧使節」とよび、これらの使節は、九州の切支丹大名の大友宗麟や、大村純忠、有馬晴信らが、各自一名づつ、そ の子息を変名の許に差し出したことになっている。だが、ペトローラモン書簡によると、この大友家にいたイエズス派の司教は、それは嘘だと言う。「大友家では、伊藤マンショを使節には選んでいない。仮にそういうことがあるなら、司祭の自分に相談した筈である。そして伊藤マンショを宗麟は従弟であって、将来養子にして跡目にする者だと紹介してるそうだが、それは嘘である。マンショの父の伊藤祐青は、宗麟の姪の子の従兄弟か、遊び友達である。もし血縁があったとしても、それはワインよりも薄く、まぁ水ぐらいなものであろう」と、はっきり喝破している。そして、大友純忠が、イエズス会総長に宛てた披露の書簡は、現在返還されて京大にあるが、ローマに残っている大友宗麟のものと、同一内容で同一筆跡だそうである。つまり、大村、大友、有馬の名をかたって、誰か同一人が同文三通を作ったにすぎない。ということは、三大名が派遣したのいうのではなく、ヴァリニヤーノが、行きがけの駄賃に、誘拐して行ったことを証明する。

 目的は簡単である。(不当に差別されている日本人修道士、及び、その教唆による日本の武士が、行動精神に燃えて、信長の王朝を倒した時、それにとって換わるべき日本人を、時の教皇グレゴリオ13世に選んでもらい、その祝福を受けさせ、新しくカトリックの王として戻し、自分らの布教に便ならしむるため)のものでは、なかろうかと考えられる。というのは、その少年使節が、教皇や、イベリヤ半島の王に贈っている「安土屏風」やその他の進物が、表向きは大友、大村、有馬の三大名からとなっているが、その実、みなヴァリニヤーノ自身が、信長や、諸大名から贈られた品ばかりなのをみても、うなずけるものがある。

 だが、中公新書の南蛮史料の発見の166頁に、「少年使節の一行は、次の冬までマカオで9ヶ月滞在し、彼らの宿泊した司祭館は19世紀の大火で跡形もなく、なくなってしまい、今では教会の入口の前壁だけが現存している」とあるが、これは間違っている。私は今、そのマカオへ来ているから訂正するのだが、これはセント・ポール教会の遺跡の事らしく、まるで一枚の戸のように、長い石段の上に正面だけが残っている。昔、建物のあった内部には、石畳と石の彫刻だけが、青空の下に、そのままになっている。指摘されるように1835年の大火で、すっかり焼け落ちてしまっていることに間違いはないが、このセント・ポールというのは、「誘拐されてきた少年使節が、ここに滞在していた時より20年後の1602年」に、日本から追放されてきた天主教徒の群れが、これを営々として造築したものである。つまり、いくら少年達が「幻の使節」 であったとはいえ、まだ建てられていないセント・ポール教会へは泊れる筈はなかったろうと、私は思うのである。非常に佳い研究資料の本なのに、この点だけは、まことに惜しいと言わざるを得ない。




(私論.私見)