5章、信長は腹を切らない |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1192信長殺し光秀ではない11」、「1193信長殺し光秀ではない12」、「1194信長殺し光秀ではない13」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
言経記 |
なにしろ、ここで一番の問題になってくるのは、当時としては、はたして信長が本能寺に泊まっていたのか、どうか判らなかったことではなかろうか。当代記や信長公記、太閤記に記載されているように、信長が「何者の謀叛」とすっくとばかり起き上がっているものなら、これは別にどいうこともなく、また前章で「天野源右衛門の講談」として引き合いにだしたような場面。つまり、明智方の武者が、本能寺へ「ワアッ」とばかり乱入して、その中の一人で
ある勇敢な彼が、まっさきに奥殿深くかけこんで、今しも弓弦がきれて、大身の槍を ひきよせている信長も、目ざとく見つけ、「‥‥畏れ多くも織田信長公とお見うけ申したり」と、すばやく側へかけより、「猪口才なり、下郎め」と、歯牙にもかけぬ相手に対し、恐れることなく、「安田作兵衛、見参、見参」と大身の槍にて、段階(きざはし)の下から突きかかれば、「あいや、暫らく」と、前髪だちの森蘭丸が胡蝶のごとくに駆け寄り、さっと両手をガバッとひろげ、「上様にては、あれへ」と傷ついた信長公を庇い奉り、「おのれ不忠不義なる明智の家来め。畏れ多くも右府様に、お槍を参らすとは不届き至極。いざや、この蘭丸の天誅の刃を受けてみよ」と信長公のお槍を頂き抜き立てれば、天下の豪傑安田作兵衛も、たたらを踏み、「信長さま、お背中見せられるは不本意なり。いざや、この作兵衛に、御首級授けたまえ」と尚も信長公のおあとを慕わんとするのを、そうはさせじと蘭丸が、「おのれっ、慮外っ」と突き出したる二度目の槍先。段階を登りかけて大股をひらいていた作兵衛の、腿肉深くグサリと突き通す。「やや、無念」と虚空を掴んで転げ落ちながらも、作兵衛は、必死の声をふりしぼり、「返らしまえ、戻らせられ」と血を吐くような声で呼びかける。 といった具合なら、まことに明確そのものに、信長の存在は掴めたであろう。だが、事実は、そんな安田作兵衛などという人物は架空の武者であるし、現実とは縁遠いものらしい。これは講談なのである。もし寄手の誰かが、信長と戦っていたものなら、はっきり本能寺にいた事実の確証となるから、それならば、オール白骨か、真っ黒焦げでしか見つからなかったにしろ、何も周章狼狽して、京都中を片っ端から軒なみ虱潰しに公開操作をすることもない筈である。つまり、これは午前7時半の出火時まで、寄手の二万六千の眼球は、みな節穴同然で、だれも信長を視ていないということになる。ということは信長公記の記載のように、「鉄砲をうちかけワアッと五ヶ所より乱れ入るなり」ならば、誰か一人ぐらいは確認もしていようし、また信長自身も、「はたして、まことは何者どもぞ」と、そこは人情をみせ姿を出しているはずだろう。だいいち、姿を出さないことには、どうしたって、「弓を二つ三つ引き給う」こともできなければ、「御槍にて御戦いなされ、御肘に槍疵 をこうむられる」ような具象はとても起きない筈である。誰にも見られない室内で弓を引いたり、槍をふるって自分で肘に傷をつけたというようなことは、まさか考えられもしない。 ここに信長公記の記載と事実との食い違いがあるのであろう。なにしろ、現実の問題としては、寄手というか、本能寺外部の人間は、誰も信長を見ていないらしいのである。もしも誰かが、その存在を確認していたものなら、周囲には、びっしり一万三千という人数が蟻のはいでる隙間もないくらいに完全に取巻いていたのだから、もし屍体が発見できなくても「信長の死」というものは、確認できた筈であろう。それなのに、言経卿記 「6月3日、己丑、晴陰 一、洛中騒動不斜 一、禁中へ徘徊了、今夜番ニ弥二郎進了(御所へ警戒のため夜番の者を供出) 6月4日 庚寅 一、禁中徘徊了 一、洛中騒動不斜 約五行分削除空白(続けて) 6月5日より12日まで削除中断 6月13日 一、惟任日向守於テ山崎ニテ合戦。即時敗北。伊勢守(伊勢貞興)已来三十余人打死了。織田三七殿(信孝)羽柴筑前守已下従南方上了、合戦也。二条屋敷(下御所)放火了。首共本能寺ニ被曝了」。 何故、もう一度、二条御所に対し、山崎合戦後に放火し、誰を殺して首をさらしたのか、ここに問題がある。従来の史家の説明や東大史料編纂所の解明では「光秀又はその家臣が放火し、その首をとって曝した」ことにされているが、山崎合戦で破れ、そして追われた明智勢が、本拠地へ脱走するのが常識なのに、どうして堂々と勝利者みたいに入洛し、なんの必要があって11日前に戦火にみまわれ、あらかた灰塵に帰した二条御所へ、改めて又も放火する必要があるのだろうか。もちろん、二条御所に放火したというのは、そこに特定な人間がいたという立証のない限り、これは6月2日事件の証拠隠滅を企てたものと思われる。となると、これは明智側から放火したのか、秀吉側か、はたまた、どさくさ紛れに誠仁親王の雑掌が潜入して、残っていた火薬に火をつけ、これが火災になったのか。疑問があるが、そこのところは判然とされていない。 附記するならば、この前日の午後から小競合いで始まって、13日夕刻に勝敗のついた「山崎円明寺川合戦」についても、講談では「天王山を秀吉が奪ったから勝った」 とか「筒井順慶が洞ヶ峠で、どちらへつこうかと日和見をした」などという話で、まこと尤もらしく語られ、それが真実のように誤伝されているが、良質の史料としては、 秀吉から織田信孝への意見状の形式で、その家老の岡本良勝と斎藤玄蕃允宛のものの浅野家文書収録10月18日附中に「私は、こんな具合に山崎で戦ったのだ」とい う自画自賛のものしかない。それを根本史料にして、現代では講釈が下火だから、昔の講釈師に代って古手の歴史家が、張り扇ならぬ張り(金)ペンで、さも事実らしく、もっともらしく「こういう本にある」「あの本には、ああ在る」と、ひどいのは講談の種本まで史料扱いで書いているにすぎない。だが、その唯一の確定史料とされている秀吉の書状も、信孝に見せる為に書かれているだけに、考えればまこと奇怪である。というのは、信孝は秀吉と共に山崎合戦へ臨んで13日は共に戦っている事になっているから、何も後になって、こと改めて詳しく、「あの合戦は、こうだった」と書き送るというのは奇妙すぎる。これも後年の贋作の一部ではなかろうか。そして、この山崎合戦の真相を当時書いたものもあったろうが、みな焼却処分されてしまって、全然伝わっていない点に、「光秀を信長殺し」に仕立てるための工作が及んでいたことは見逃せない。 旧陸軍参謀本部編纂の誤謬だらけの山崎合戦などは、「天下分け目の合戦」としておおげさに、戦ったように講談化しているが、「伊勢貞興や諏訪飛騨守ら室町奉公衆三十余人討死」という事実は、これは騎馬将校で、兵士の損害を十倍とみても三百三十人の死亡率だから、敗軍の明智側の損耗率を二割とみて、七千人ぐらいの軍勢ではなかったろうか。講談では凄まじい数をいうが、実際には、それ程の戦死者を出していないのが、この当時の合戦の実相なのである。小栗栖村長兵衛という講談では、この13日に、光秀が竹槍に刺って死んでしまったことにされているが、言経卿記では全然違う。6月14日 削除 空白。6月15日 一、惟任日向守、醍醐辺ニ牢篭、則チ郷人一揆トメ打之、首本能寺ヘ上了。6月16日 削除 空白。6月17日 一、日向守斎藤内蔵助(内蔵介利三)、今度謀叛随一也。堅田ニ牢篭、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了。 この言経卿記は、6月18日からは、「甲辰、天晴、晩雨」などと、その日の干支や天候も入れてあるが、6月4日から17日までは慌ただしく、それも記入されず、この14日間で、残存しているのは僅か4日分。あとの10日分は、みな削除されて伝わっていない。それだけに真実性が感ぜじられるけれど、もちろん、破いたのが、山科言経なのか、誰かは判らない。が、この中に、あらゆる秘密があったのだろうし、今日、光秀が犯人に仕立てられている謎も、この削除部分にあったのだろう。しかし、何者かの都合で、つまり、そうした事実の記載があることで一身や一家に累厄が及ぶことを危惧して、それが破棄され、空白になってしまっているからには、何とかして今はこれを埋める努力をする外はないだろう。 |
ダワイ |
さて、なんといっても不可能なことは、6月3日以降、つまり、その翌日以後も引 き続く「洛中騒動不斜」の連続である。従来の歴史家の解明では「信長の遺臣狩りをして、捕えては六条河原で斬殺した。その騒動が、ずっと続いて、洛中は上を下への騒動だった」というのだが、洛中どころか、6月2日までは誰彼なしの、みな信長の遺臣の筈である。叛乱軍側の叛徒探しならわかるが、一人残らず信長の旧臣であって、その連中を明智側では、味方に抱き込もうとしているのに、どうして、全部を敵に廻してしまうような「遺臣狩り」などするわけがあろうか。これは、はっきりいって「信長探し」であろう。なにしろ、まるっきり残されているものがないから、「ことによったら本能寺に泊まっておられずに、どこか他所で外泊されていたのではあるまいか」と、手分けして明智側で洛中を探し廻っていたのだろう。ということは、「信長の死を確認できずに、狼狽していた明智光秀」の方は、なにも犯人ではなく、「遠隔の土地にいたとしても、信長の死を、はっきり知っていた連中」および、同日、遠くへ落ちのびてしまった者の方が、これは怪しいということになるのではなかろうか。なにしろ、当時の真実はすっかり隠されてしまっているから、不思議なことだらけであるが、もし信長が本能寺にいて、各書の説くように抗戦していたというなら、これも不可解な一つである。今となっては常識でもって計るしか他に説きほぐす途はないのだが、なんぼなんでも最低六十から最高百十人くらいの小人数で、しかも小姓や厩衆とよぶ馬の口とり仲間に、手伝いの女どもを指揮して、4時間近くも、信長勢が持ち堪えたというのは変である。つまり弓一つ槍一つの武備で抵抗できたということは、私をして言わしめるならば、「午前4時から包囲はされはしたが、ただそれだけであった」ということになる。なにしろ、寄手が攻めかかってこないのに、本能寺内部の者が、これと戦う筈はない。戦わなければ、なんの被害もない。だから、4時間でも4時間でも、そのままで信長達は頑張っていられたのである。これは、「一度くずして使いだすと、1万円札だって瞬くまに消費されるが、頑と して1円も消費しなければ、その1万円札は永劫不滅である」と説いた昔の谷孫六の岡辰押切帳と同じような理屈ではあるまいか。なにしろ泣き叫ぶか、喚くきりの女子供や仲間を従え、一万三千の弓鉄砲をもつ武者どもを相手にして、信長が頑張れたのは、これしかなかったろう。話としてはつまらなくなるが、いくら相手が多くても、戦わなければ信長一人でも悠々と保っていける筈である。 昨年の秋。モスクワからレニングラードへ行っていた。その時、街を中央から分けて流れているヘルバ河の畔で、私は赤軍の兵士の一団と遭遇した。なにしろ軍帽のような赤い地色を周りにつけた警官でさえ、初めてみたときはドキッとした私である。急いでコルスキンの方へ曲がりかけると、そちらからも一個小隊が来た。ちょうど挟みうちのような恰好になって、私は逃げられないまま、黒い砲艦の並ぶ 川岸に後退りの恰好になってしまった。だから私の背筋の骨の髄からは、いやあなお くびが、ひっきりなしに出て、とてもその時、言い様もない不安に襲われた。 それなのに、早く行きすぎてくれと、どす黒い川面にむかって、私が肩をまるめ、背をむけているのに、赤軍の兵士達もそこで小休止をした。そして珍しそうにヘルバ河の流れへ集まってきた。私のすぐ傍らへも、タタール人らしい浅黒い顔をした兵士が七、八人、まるで肩を並べるように近寄ってきた。まったく、ぞうっとさせられた。 そうだ、この羊の臭みだ。私はめまいしそうに過ぎ去った日を想った。あの日、満州の奉天の浪花通りの自宅でダワイされた私は、クラフチェンコ赤軍司令官の命令ということで、モスクワへ送られた。行ってからは、今の旧モスクワの青い宿舎へ入れられた。通信社の仕事など手伝わされ、半年後ようやく吸い口が半分にもなっているロシア煙草を十カトンぐらい渡され、スパシーボと当時の瀋陽飛行場まで送ってもらえたが、それでも行きはひどかった。シベリヤ鉄道の中でさえ、こんな羊くさい兵士にあけくれ囲まれて、「ヤ・ハチユー(これをよこせ)」、「ヤ・ジエラーユ(あれを よこせ)」と拳銃をつきつけられて次々と身の廻りの時計から万年筆、上衣までも奪われ、拒みでもすると首を締めつけられたこともあった。いくら私が、向こうの要請で モスクワへ行くのだからと説明しても、彼らは口を尖らせ、「ヤポンスキーは、ヴラ ーグだ」。つまり敵国人だと、いつも睨みつけていた。厭な記憶である。私は今でも熊みたいな兵士に追いかけられている夢を、子供みたいに時々みる。それなのに、私を苛めたワエーンヌイ(軍人)は一人きりだったのに、ここには少なくも何百という頭数が揃っている。とてもじゃないが、何ともなるものではない。諦観と共に卑屈さも頭を出したのだ。どうもあの時代に覚えこんでしまった媚びらしい。「クーリチエ・リ・ヴイ(ひとつ吸いませんか)」と、私は使い忘れのロシア語で、ピースの箱をつきだした。 だが、その時、集合の合図がなった。だからタタール兵は、やあと白い歯をみせて駆けていった。私は気にして、おずおずと彼らをみているが、向こうは誰一人振り返 りもせず、歩調を揃えてコムホートの方へ行進していった。それを見送りながら、戦争をしているときは、たとえ一対一でも武器の強い方には抗すべくもないが、戦さえ してなければ、たとえ相手は何百人でも、どうということもないじゃないかと沁々思 った。そこで放心したように見送りながら、平和ってよいものだと心から想えてきたものだ。 信長の場合だって、同じであろう。 まさか包囲されていて、平和ということはあるまいが、もし戦っていたのなら相手が百人、此方が百人と、同数であったとしても、装備が違って信長方は劣っているから、まあ果敢な抵抗をしたところで、せいぜい保ったのは20分ではなかろうか。それが、ぜんぜん刃を交えていなかったからこそ、3時間半も4時間も保ち得たのではあるまいか。なにしろ、相撲だって、なんだって、いくら大勝負とはいえ、始めてしまえば案外あっけないくらい勝敗はついてしまうものである。しかしである。睨み合いだけして取組みさえしなければ、永遠にというのも極端だが、勝ち負けなど決まらないものである。言い方をかえるならば、変な例だが、男と女は結婚して一緒になるからこそ、互いに憎しみ合い喧嘩にもなるが、他人のままでいたら、そんな争闘に捲き込まれることのないのと同じとも言えよう。どうして本能寺の方は、あくまで弓を射らず、槍もふるわず、全然戦っていなかったかというのは、時間からも割り出していける。 当代記によれば、二条へ信忠と 一緒についていった連中というのは、坂井越中、団平八、野々村三十郎、赤座七郎左、 猪子平八、菅屋九父子といった、自分から槍をふるって奉公し、ようやく生き残って何万石かの大名になった、いわば立志伝中の武者である。当時の言葉でいえば「武辺者」と呼ばれた豪傑である。この一騎当千の連中が約五百人で篭城したのが「武家御城」と呼ばれた洛中唯一の要塞の二城城。この方が、午前7時から午前8時の間に攻撃され、午前9時には落城しているのに、壕もなく溝で囲まれ、塀とてない本能寺の信長が、鉄砲一挺の供えもないままで午前4時から午前7時又は7時半まで堪えられたということは‥‥対比さえしてみたら、その訝しさは、すぐにも判るものである。つまり、不自然の一語しか、ないようである。 さて、フロイス記述に係る日本史には、信長殺しは洩れてはいるが、そのフロイスが、九州の口の津港にあって、五畿道各地のパードレ(師父)によって報告されてくるものを整理して、彼や、その同僚が転写をし、日本会報としてマカオへ送っていたものの中にこれは入っている。しかし、これとても、正規の年1回の日本ゼズス会1582年(天正十年)年報ではなくて、何故なのか。そこは不明だが、日本ゼズス会年報の追信として別稿として扱かわれている。つまり、天正10年の年報を纏めてしまって、マカオへ発送した後になって、信長の、この事件が持上がったから、第二報として送ったという形式である。もちろん当時、彼らの用いていた太陽暦と日本の太陰暦は違う。といっても、問題の6月2日は、当時のヨーロッパ暦でも6月21日にすぎない。どうして1年ごとに1回ずつ出されていた年報が、この年に限って半年前で締切になり、第二報を追加版となっているのは、不思議である。しかし実際は5月の記事も入っていて、変である。そして、この追加版の末尾を引用し、それに註をつければ‥‥ |
会報 |
「当都(註:何処か不明、九州の口津港か)において、日本の至宝がなくなったといい、日本人自身の手で葬り去ったのだと話して喜んでいる者さえ少なくない(註:ここが重点である。喜ぶ者とは誰か。それこそポルトガル人を主にしたパードレ達をさすからである)。この世においてのみならず、天においても勝るものはないと考えられていた人物が(註:師父達にすれば、天にまします神が唯一である。それなのに信長は、それを冒涜して、自分こそ全智全能の神であると宣言していた。紀元前においては、バビロンの神に対立した国王はいたが、この16世紀の時点において、『イエ
ス・キリストより自分の方こそ天帝である』と言い出したのは、古今東西、信長一人きりである。つまり織田信長たるや、天主教徒からみれば、それは呪わしいジャボ(悪魔)以外の何物でもない。ここが本当のところである。いくら汝の敵を愛せよといっても、遥か故国を後にして日本列島へ来ている神々の使徒と自負する者達にとって、神をないがしろにする地上の暴君を愛したり許せる筈はあるまい。俗界で言えばこれは商売敵であるからだ)。かくの如く信長は、不幸にして哀れな死を遂げ、彼に劣らず傲慢であった明智も、また同じく不幸な終焉を遂げた。だが前述した通り、信長が稀なる才能を有し、賢明に天下を治めたことは確かな事実であり、哀れ彼は、その傲慢さの為に身を滅ぼしたのである(註:この、日本人が読んでも抵抗を感じさせない書きぶりは、なんと言ったらよいのだろうか。信長の死を喜んだことを明瞭に冒頭に匂わせながら、続いては、さも同情的に、また尤もらしく書いている筆致は、いかに解釈するべきなのだろうか。再言すれば、信長は、マカオよりの火薬が入手したさに、初めの内こそ天主教のシンパであった。しかし、この時点においては、彼は既に偶像崇拝者。といっても、単なる仏体や神体を拝むのではなく、自分こそ天帝であると、師父達の説くイエス・キリストを凌駕する至上の神に、自分はなっていたのである。ゼンチョ(異教徒)などというものではなく、不倶戴天のジャボ(悪魔)なのである。それなのに、これが、師父たる者の悪魔に対する者に対する言葉であろうか。この作為、不自然さは何を隠しこんでいるのであろうか)。 毎日、新しいことが起こっているが、あまり長くなるので次の季節風期に譲る。(註 :テレビの番組欄ではあるまいし、そんなに毎日変わってはたまらない。しかしこれは、6月の出来事を通信の恰好にしたことを、さも自然に見せかけるように、信長の死ぐらいな新しいことは次々と毎日起こって珍しくもないと、ごまかしているのである) われら一同、尊師の聖なる犠牲において推薦さられ、また祝福を受けんこと願い奉る。1582年11月5日 ルイス・フロイス」。 以上であるが、最後に署名があるのが不審である。ゼズス会日本年報というのは、これはフロイス書簡ではない。別個の公式文書である。彼も、その編集員の一人だが、他の会報には署名などしていない。それなのに天正10年の、この通信会報だけは、どうしたわけか、わざわざ個人名をつけている。偶然の間違いとも思えない。なぜかなれば、これは信用をつけようための粉飾行為らしく さえ疑えるからである。もちろん、原文があって、フロイスの自著と照合すれば、真否は一目瞭然である。しかし幸か不幸か、原文はマカオで焼失ということになっている。だから日本の南蛮学者は、フロイスという馴染みのある名前入りと、読んでみて、信長に対する扱いが、きわめて同情的であるのに(本当なら疑惑を抱くべきなのに)すっかり満足しているのか、反撥や抵抗をうけない点で正確なものと認定し、これを好史料として扱っている。ところが、中心になっている本文たるや、これは日本の信長公記に輪をかけたものである。しかし中公新書南蛮史料の発見などでは、「切支丹らが、私にこう話した‥‥というように一人称で記したことが、怪我の功名というか、この唯一の報告書を、絶対的に権威あらしめる結果となった」というが、はたしてどうであろうか。私には、拵えすぎが目につきすぎ、ただ信頼できるのは「信長が、髪の毛一本残さず、灰塵のように、吹き飛び消滅した」という情景描写の 一章節だけだと思う。 なにしろ、当時の京都管区長はオルガンチーノであるにかかわらず、何故なのか彼は、沖の島へ遁れてしまう。そこで、「やむなく代理に自分が報告します」といった形式で、一司祭にすぎなくて責任者でもないポルトガル人のカリオンが<私>という 一人称で、この報告書は書き綴られている。どうも腑に落ちない。オルガンチーノは、その後、秀吉の宣教師追放令が出た時も、なぜか彼だけは特に黙認の恰好で、そのまま日本に滞在し、慶長14年に長崎の天主教会堂で昇天しているが、この天正10年の時点。沖ノ島といえば、京より遥か遠い九州の涯なのに、どうして、そんな遠い所へ、交通機関もない当時、徒歩で京から下関まで歩いて逃げ、そこから九州へ海を渡って逃亡したのか理解に苦しむ。なにも、京から脱出するんなら、すぐ近くの高槻や伊丹、茨木に、和田とか高山、中川といった切支丹大名が、びっしりと目白押しに並んでいたから、オルガチーノ一 人ぐらいなら、何処の城でもすぐ匿ってくれ、手厚く大切にされた筈である。それなのに、そこを通り越して、九州の涯まで逃亡したということを、フロイスが書いているということは、ここに二つの答えを提示しているのであるまいか。一つは、「オルガンチーノが、秀吉に何か依頼されて6月2日に、何か重大なことをしてしまった。そして、もし、それが発覚したら、自分一身の危険だけでなく、ゼズス派の教会や信徒みんなに迷惑を及ぼす。だから日本式にいうならば、長い草鞋を履いて逃げ延びた」。二つは「この、フロイスの名入りの、1582年、ゼズス会日本年報の追加版は全くの偽物である‥‥ということは、ある種の秘密の漏洩を防ぐために、日本から当時送られて来た師父達の報告はみな消却してしまって、日本へ行ったこともない人間の手によって、これは贋作された。だから日本の地理に詳しくない人間が、沖の島というのを琵琶湖に浮かぶ竹生島ぐらいのつもりで書いてしまい、距離感を失念していたのが、その例証である」。 さて、この追加版には、こういう記事がある。「安土に總見寺という社を建て、信長は自分から神と仰がれるようにと望み、神体を祭壇に飾り、5月の彼の誕生日には参拝する群衆で、ごったかえした」という、私共が読んでも、たいして奇異は感じないが、天帝を唯一と仰ぐ天主教徒の師父達にとっては、まことに天地いれざる悪魔の所業を、まっ先に書いて信長を弾劾している。つまり原因結果論の、これは原因というところなのだろうか。 さて、当日のことである。「6月21日(日本では2日)、まだ夜も明けぬ頃、ミサを行うため祭服に着替えていた私、つまりカリオンは急報に接した」。(註:誰から、そして何処からは書かれていない) 「そして銃声が聞え、火の手が上がるのが見えたのである。新町通りに接した南蛮寺から、西洞院通りの現場までは目と鼻だった」。(註:雉も鳴かずば撃たれもすまい。というが、こういう不条理を書き残しておくから、私の疑惑を招いたのである。6月21日の天候の夜明け前と言えば午前4時である。いくら早朝のミサといっても、服を着替えるのには、まだまだ早すぎる。これは急報を知らせにくる 使者の来るのが判っていたからこそ、手探りで灯をつけ着替えしていた。次に、「暫 くして」なら、まあ譲歩もできるが、「そして」とある。すぐである。銃声がして火の手が上がったというと、これでは午前4時半には本能寺は炎上したということになる。それでは、この包囲軍が二条城に現れるまでの、以後3時間半というもの、この謎の上洛軍の首将達は、この南蛮寺へきて、カリオンにミサしてもらい、神の祝福でも受けていたというのであろうか。それも距離が遠くて、はっきり判らないという なら別だが、新町通りの裏通りが西洞院通りである。つまり南蛮寺の裏口から本能寺正面までは一町どころか、その半分もないことを、カリオン自身も、これを認めている。だから余計に訝しい。謎以外のなにものでもない) |
なにしろ、この6月2日というのは目が眩みそうな暑熱厳しい日で、みな、それでなくても、蒸し暑い京の町で、うだるように悶え喘いだにしても、まだ夜明け前の午前4時では太陽も出ていない。前日の大雨で、本能寺のさいかちの森も、まだぐっしょり濡れたままだったろうし、本能寺の周囲の濠も、溢れるように水が湛えられていた。だから、本能寺の便殿も客殿も、本堂も、厩小屋の屋根も、まだ、雫をたらし、し っとりと湿ったままだったろう。ところが信長公記では、「既に御殿に火をかけ、焼け来たり候」としか出ていないが、天正記では、「御殿に、お手ずから火をかけ」となる。当時のことなので、ガソリンをまいたり灯油をかけて放火したのでもなかろう。それなのに雨で濡れていた本能寺の各種の建物が、カチカチ叩く火打ち石で、すぐ燃えつき、たちまち堀割を越して、さいかちの濡れた生木の林を燃やし、本能寺の森を火焔に包み、四条の民家にまで飛び火して羅焼という、そんな強度な大火に、どう してなるだろう。これも不自然すぎはしないだろうか。こうなると、これまでの俗説のように、「信長が、もはや最期と思召され、本能寺に火をつけ、お腹を召された」という話は、全くのデフォルメになってしまう。しいて自害とみたいなら、また、当代記にある「終(つ)いに、御死骸見え給わず」という答えに合わせるためには、硫酸の水槽へとびこんで、身体を融かしてし まうか、その屍体の始末方法はないはずである。しかし、この時代に硫酸は、まだ日本にはない。すると、信長は、「弓も引かず、槍も突かず、火もつけず、腹も切らず」ということになる。だが、秀吉に対して、その家臣の大村由己が、どういうふうに書いて満足させたかという参考に、彼の天正記の内から惟任謀叛説の「本能寺」と「二条御所」を原文のままで採録してみる。そのデフォルメぶりを参考にと思うのは、この程度のものが、「信長殺しは光秀」の証言であるという情けない真相の解明でもある。 |
剽窃 |
次に、また詳細に繰返して、「信長は都で宿泊する慣わしであり、坊主をみな追出し手入れをよくした本能寺という寺の周囲を、三万人が完全に包囲したが、街では、まったく意想外な出来事なので、何か騒動でも起きたのかと考え、その報らせを伝えた。なにしろ、わが南蛮寺の教会は、信長の所から、ほんの僅かしか離れていないから、キリシタン達はやって来て、ミサのため着替えていた私、つまりカリオンに向かい、寺で何か起こり、重大事件と想われるから、ミサを待つようにといった。すると間もなく銃声が聞こえ、火の手が上がって、次に喧嘩ではなく、明智が信長に叛いて彼を囲んだのだという知らせが来た。明智の兵は寺の木戸の中から入った。そこでは、このような謀叛を夢にも考えず、誰も抵抗する者がなかったので、彼らは更に内部に入り、信長が手と顔を洗いおわって、手拭で拭いている背へ矢を放った。しかし、信長は、この矢を抜いて薙刀とよぶ柄の長い鎌のような形の武器を持って、しばらく戦ったが、腕に弾創を受け、その室に入り、戸を閉じた。‥‥ある人は彼は『切腹した』と言い、他の人たちは『客殿に火を放って死んだ』と言
う。だが、吾らが知り得た事は、諸君(バードレ諸君)が、その名を聞いただけでも戦慄(註:恐ろしくてとか、乱暴だからというのではない。ジャボ(悪魔)とノブナガとは、同義語だった点において)した人が、髪一本残さず霧散消滅したことである‥‥」。 こういう具合である。写してみると、信長公記の「本能寺にて、お腹召され候こと」と、殆ど内容がそっくり同じである。だからこそ、このカリオン報告書は真実と見なされているし、また一方では信長公記が、このために信用される。つまり、さも車の両輪の如く、持ちつもたれつで 助けあい、ここに<真実>を形成し、さも<本当>らしく扱われている。だがである。学校教師は、同一内容の答案用紙を見つけたときは、これをカンニングと認定するそうである。つまり、このカリオン報告書なるものは、信長公記が写本として流布されはじめてから、その一部を日本人信者に入手させ、これをマカオへ送り、ポルトガル語訳にして、それに基いて潤色されたものではなかろうか、と思いたくなる。なにしろ、相似しているということは、紛本が同一だからとみるしかない。そこで内容があまりにも今日伝わる信長公記に似ていすぎるのである。 さて、カリオン書簡は「急報に接して、すぐ銃声がして火の手がみえて驚いた」と いい、それを詳述するような形で、「実は近くのキリシタン信者が重大事件らしいから、今朝のミサは待てと言いに来て、そして銃声がし、火の手が見えたから、これは 喧嘩でなく(信長公記と、まるっきりそっくりである)明智の謀叛だ」と判ったという。しかし実際の話として、こんな不自然なことがあるだろうか。 当時の切支丹信者というのは、午前4時頃から、ミサを受けるために教会へ集まってくるものだろうか。なにしろ初めは、「重大事件らしい」と予報したものが、後になって「あれは喧嘩ではない」などと言いに来るのは不自然すぎると考える。それに、このとき本能寺内部にいて、外へ脱出できた者は一人もいないのに、いく ら、すぐ近くの三階建のバルコニーにカリオンがいたからといって、信長が顔を洗って手拭で拭いていたから、背中を矢で射ったと、まるで実況中継みたいな書き方は信用のできぬところである。「講釈師、見てきたような嘘をつき」という言葉あるが、これでは「宣教師見てきたような‥‥」と言わざるを得ない。 なにしろ彼らは信長や諸大名に面接はしているが、日常起居は共にしていない。だから、こういう叙景描写をするが、信長の頃から幕末まで、武家の殿様や奥方は、宣教師の考えるように、自分で洗顔したり、用便の前後の始末はしないものである。小姓や腰元が耳盥(みみだらい)に水を汲んできて、一人が洗い、一人が拭き、一人が、いつでも殿様が手をかけられるように、刀の柄を差し出している。排泄の時は、左右から裾をめくって持ち上げ、背後の者が拭く仕度をして待っていたものである。と言って、これは人使いが烈しいとか、横着というのではない。自分の手を用いて、それに掛かりきっていて、もし敵に襲われたら大変だから、決して自分の手はふさがなかったのである。用心のための自衛行動である。 カリオン報告書をみると、まるで信長が洗面所へ立って行って、そこで一人で顔 を洗い、外部へ背を向けたところを射られたというが、こんな西欧型の洗面の仕方は、野戦の時でも、武士たる者はしてはいない。 相州兵乱記でも「御寝なされしが、瞑られずと起きらる。侍臣ただちに、飼馬桶の新しきに水をくみ、幕内に運び四人がかりに手水(ちょうず)をあそばされ候」とあるし、越国春秋にも「きんじの者が左右より顔を拭き奉れば、早よとせかされ、長尾をここへ呼ぶようと政景を召さる。政景、幕外より色代(あいさつ)し」と、野営の上杉謙信が洗面しながら姉婿を呼ぶ場面がある。つまり野外でさえも、張りめぐらした幕から外へは、洗面といえど一歩も出ないのが、これがしきたりである。だから本能寺のような建物の中なら、寝所へ洗面道具は 運ばせ小姓どもが、座敷内にて、御湯敷(おゆしき)とよばれた白胡麻油の油紙を広げて洗顔をさせていたわけである。ついでにいうが、その為に信長は小姓を三十人も連れて行ったのである。なにも一人で、のこのこと外部に背をさらすような恰好でカリオンに見物されに洗顔に行くのなら、小姓などは一人も不要である。 再言するが信長は、学校の体育教師ではないから、青少年鍛練のために小姓共を引率して行ったのではない。自分の身のまわりを世話させる必要から、彼ら三十人を随行させたのである。この間違いから、信長公記で「お弓をとり二つ三つ引きたもう」とあるところを、弓と矢と間違えて誤訳した。「矢を引きたもう」つまり「射る」という固有形容詞が判らなかったから文字どおり にAtrairというポルトガル語にし、それを「引く」「引きよせる」「引っ張る」と誤訳。矢を引っ張るとは、信長に刺さったからと訳した。致命傷ではないから背中にしようと考えた。「それには、洗面中という事にしよう」と、信長公記をポルトガル訳して自作とした。筆者は、つまりポルトガル人の翻訳者は知恵をしぼって、付け足しを書き加えてしまったのであろう。 しかしである。信長公記の原文では、「すでに御殿に火をかけ、焼けきたり候、 御姿を、お見せあるまじきと思召され候か、殿中奥深く入り給い、内より御納戸口をひきたて、無情にお腹召され」となっているのは、時代も後世だし、翻訳に困ったで あろう。初めに本能寺は寺(templo)だと書いておきながら、「客殿」の意味である御殿は判らなかったらしく、これを宮殿(palacio)と訳し、「信長は宮殿の奥深く入ってドアを 閉めた。或者は切腹したというし、別の者は火を放って死んだという」と、もう初めに「火の手の上るのを見た」と書いているから、引っ込みがつかず逃げをうっているが、さて嘘というものは最後までは、つけるものではないから、ここの信長公記の翻訳だけで止めておけば良いものを、とうとう終わりのほうへもってきて、「吾々が知り得たところでは、信長は髪毛一本残さずに、その遺骸をふっとばしてし まった」と、本当のことを書いてしまっている。 「殺人者が、殺人者であると認定されるのは、その殺害した相手の屍体の置き場所や状態を、彼だけが知悉しているという点にある」とS・S・ヴァンダインも言っているが、この通りのことが、ここでも当てはまる。 そして、何故、信長公記が出廻った後の時代になってから、さも、もっともらしく 改まってから、それを土台とする創作するというか、脚色の年報追記が、何ゆえにマカオで作成される必要があったのか、ということになる。 この報告書の表面の人物である司祭カリオンは、その後は名前が何処にも現われてこない。だが、天正10年の時点で、本能寺から一町以内の天主教公会堂の主であり、神による全命令権を握っていた都管区長オルガチーノは、信長殺しの時は、アリバイがあって、京都からペガサス(天馬)に乗ったか、鹿児島の南端の沖の島へ行っていたそうだが、何故か秀吉の非公式の庇護を受け、彼のみは天主教弾圧後も追放されることなくして、長崎で暮らし、慶長14年まで生きていた。だから、フロイス名による「この不可思議な、天正10年版という第二通信」が、慶長時の作成であったとしても、オルガンチーノの申請で製造されたものなら、これは怪しむにたらないかもしれない。 中公新書の南蛮史料の発見の信長殺しの描写は嘘だとも言える。なにしろ、天正9年3月8日(陽暦)、最高巡察使のヴァリニアーノが、フロイスやロレンソーメンスを従えて豊後の日出(ひじ)港を出発し本州へ入ってきた時、京都管区長オルガンチーノは、これを迎え、29日に信長の許へ拝謁に伺候するときは、巡察使の伴をし、4月13日の安土城拝観の時も、そのお供をしている。そして、ヴァリニアーノが天正10年2月20日に日本を離れるに際し、伊藤マンショ、千々岩(ちゞいわ)ミゲル、中浦ジュアンの三名。他にスペアというのか、身分の低い原ハマチーニと、やはり洗礼名を持つ少年を、ふいに人選して連れ出す時も、フロイスと共に、その謀議に加わっている。 さて、フロイスが日本史を執筆したのは天正15年から文禄2年の間とされている。そして、信長公記は、文禄5年が慶長元年にあたるから、その後のものとされている。しかし、その巻13の<無辺成敗のこと>などという一章は、そっくり以前に書かれた筈のフロイスの日本史にそのままで入っている。なお信長公記巻12の<法華、浄土宗宗論の事>の1章のごときは、京都管区長オルガンチーノによって、既に天正7年に九州のフロイスの許へ詳細が送られ、村上博士訳の「エーヴォラ版」では同一であると、松田毅一氏の対照表まである。こういう具合に、フロイスのものと、太田牛一の筆といわれるものが重複している点から して‥‥ 1582年つまり天正10年、日本ゼズス会年報通信の信長殺しの場面が信長公記と同一であったとしても、間違いが共通していても不思議ではないかもしれない。 とはいうものの、何故そこまで作為をしなければならないのか、という疑問は残る。なにしろ、ヴァリニアーノ、オルガンチーノ、フロイスと、三人とも立派なのが揃いすぎている。そして、彼らは信長に対しては極めて友好的でありすぎ、死後さえも、そうである、と文字では残っている。しかし実際において、信長たるやゼンチョ(異教徒)どころか、自分が天帝だと自称するジャボ(悪魔)である。天にまします唯一の神しか信じない彼らにとって、信長は外道以外の何者でもない。また、信長も、火薬の硝石を入手しなくては困るから、外面では友好的に彼らを偶していた。だから互いに笑顔を見せ合っている。だが、双方の内心は互いに見抜き合っている。そして天正10年5月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを誇示する殿堂を建て、参拝者の人山を築いた。だからこそ、その結果が、翌月2日、髪毛一本残すことなく吹っ飛んでしまった。これはどういうことになるのだろうか。----だが、そこを突きつめる前に、また、これまでの犯人とされている光秀に戻らねばならない。 |
筒井記 |
光秀関係のもので従来もっとも信頼されているのは、前掲の川角太閤記であるが「俗悪書」と決めつけられた中に、かえって信頼性のあるものが、あるようにも思う。もちろん私も初めの十年間ぐらいは、世間の一般の人のように「餅屋は餅屋」といった考えで、歴史家のいう俗悪書は探してみるまでもないと、気にもしていなかったが、段々と集めて調べる資料にことかいてしまって、こと光秀に関するものなら、講談本から、そうした俗悪といわれるものまで、手に入る限りは、みな読みあさりだ
した。すると、その中に筒井家記もあった。この本には、別に増補筒井家記と二種類があるが、私が、これは、この種のものの中では真実性があるまいかと、気になったのは、その前者の方である。というのは、勿論、光秀を謀叛人にしている点では、他書と大同小異であるが、どうも内容が、あまりリライトされていなくて、天正10年の当時に、比較的、もっとも
近い時点に書かれたもののように想えてきた。 つまり「ああである」、「こうである」と尤もらしい筆で、押しつけがましい説得力のくどさがなくて、他書に比べると、少し間が抜けたような部分も多いので、こちらの判断を押し込んで読んでゆくと、非常に思い当たる箇所も少なからず見つけられた。まず、この歴史家の相手にしない俗悪書は、「信長公より出兵の命令が出たことを聞き、秀満、治右衛門、伝吾、庄兵衛、及び妻木主計頭、四天王但馬守、並河掃部 助ら十三人が寄り集まって『信長の無道と、将来の利害』を以て説き、主人の光秀に謀叛をすすめた」と、これを説明している。(秀満、妻木、並河というのは、講談で作られた人名ではなく、実在の人間なのである) 「そこで、光秀も熟考の後、坂本城に入って、これを利三以下の主な人々にはかり、また叛逆の慫慂(しょうよう)を十三人から、しきりに受けて、ついに決心した。そして、兵を亀山に集めることに定めて、27日に坂本を発して、丹波亀山へと赴いた」となっている。珍しく、これは光秀を受け身として扱っている。そして、「信長から光秀に出兵の命令が出たのは5月17日であるから」決心説としては川角太閤記 や甫庵信長記より、この方が、とびきり早期説をとっている。そして今日でさえ、光秀が犯人だとはいいながらも、「違やぁしないかな」という引っかかりがあるように、4世紀前にも、この疑問は相当拡まっていたのであろう。だから、「光秀は、その気がなかったのに、寄ってたかって十三人の者が彼をそそのかしたのだ」という、いかにも、真相らしいような説である。 だが、この筆者は当時洗礼を受けていた人間と、想われる節もある。何故かというと、光秀を受難の聖者に見立てている筆致だからである。つまり十三人の家臣というのは、十三人の使徒をなぞらえているような匂いがする。この中に、一人のユダが混じっていた。その男の為に、光秀は煮え湯を呑まされたのだ。つまり、「その秘密を、ここには書けないが、本当は知っているんだ」といわんばかりのような箇所さえも見える。そして、この筒井家記が「俗悪書と決めつけられている理由」たるや、これは川角太閤記や信長公記が、みな筆を揃え、「中国(備中)へ向かうのなら三草山を越えていくべきなのに、東向きに馬首を転じ、老の山(大江山)へ上り、そこから京へ向かった」と、これが光秀の叛乱行動の第一歩で、「この方向転換こそ計画的逆心の現れである」と、ただそれを、唯一の確証として決めつけ、光秀が備中攻めを仰せつかっているのだから、「西へ向かって進撃すべきなのに、京都へ向かったのは怪しい」けしからんと、同じように書いているのに反して、この筒井家記のみは悠々と違うことを記載しているからである。 つまり、「備中赴援に、明智組下として出向するよう、安土より命令を受け、居城大和の郡山城を出発し、京へ向け上洛しようとしたところ、途中にて本能寺の変を聞き、信長公は、ひとまず安土へ戻られたゆえ、京へ行かずにすむと、6月2日、そのまま郡山へ引き上げ、翌3日には、筒井の砦のある大安寺、辰市、東九条、法花寺へ引き上げた兵を戻して、そちらを守らせた」と出ている。つまり「筒井軍も一応は京へ向かった」と、これは各書と全然、相違するからである。だから「俗悪」の烙印を押されているらしい。しかしである。この筒井家記をみると、「京都から、出陣の用意ができたら本能寺へ来い」と信長の命令があったというのは、光秀の詐称ではなく、事実ではなかったかと思われる。筒井順慶の軍勢に上洛するように信長からの指令が出ているものなら、その寄騎親であり、司令官である光秀にも、必ずや通達は出ている筈である。そうなれば嘘ではない。本来ならば、光秀が命令受領してから、各管下への筒井や細川、高山の各部隊へ連 絡すべきだったが、それでは間に合わないとみて、信長から各部隊宛に同文指令が出たのではあるまいか。というのは、これは6月1日のくいちがいである。 信長は、その前日の5月29日に、いと手軽く考えて(あるもの)を一掃する目的で上洛した。ところが現実に於て、6月1日になると折柄の雨天をついて、招かざる太政大臣や関白らに押しかけられた。思いもよらぬデモ騒ぎである。しかも、忙しいのに、5時間も6時間もねばられてしまった。手をやいてしまった。「大慶々々」と山科言経達は帰って行って、自分の家で前祝いの祝杯を上げた。しかし信長は、忙しい最中に、なにも公卿達を喜ばせる為に上洛したのではない。あまり集まった公卿共がうるさいから、なんらかの形で譲歩したにすぎない。そこで早速、次の手段を何か考えたのであろう。それは今も昔も同じである。デモに対しては、実力行使の機動隊である。それを召集するために「用意ができ次第上洛せよ」と、明智を寄騎親とする出動準備中の各部隊に対し、緊急通達がされたのではあるまいか。名目は「検閲」であったとしても、信長が何を一掃しに上洛したかくらいは、近畿管区の武将は、前もって知っていたのだろう。だから臨戦体制で洛中へ入って行ったのだろう。 もし、そうでなくて他の各書の説明するように、方向転換して大江山から京へ向かったとなると、どうしても解釈できないことが出てくる。桂川から大江山を越えて京都までの船津、桑田の二郡は、京都防衛の要塞地として、丹後宮津の細川藤孝(当時は長岡姓)が、かねて預っていた。川岸から山にかけて見張りの細川番所が並んでいた。その間を、どうして一万三千もの軍勢が隠密裡に抜けて上洛できるか。見つけ次第に早打ちか、蜂火で通報されている筈である。だから、これは公然たる進軍でなくてはならない。するとである。信長公記にある「信長公宿所取巻きの衆」というのは、命令で上洛した連中が、早く着き過ぎて信長の起きるのを待ち、その本能寺の周囲で待機していただけかも判らない。 |
細川記 |
「徐州、徐州と軍馬は進む」といった具合に、6月2日、夜明け前に「京都へ京都へと、わが陣馬は進んでいた」という筒井家記によれば、他の細川、高山、池田、中川の部隊も進んでいたことになる。そして、これは常識であるが、方面軍指令官である明智光秀閣下が入京するよりも、各師団長の集結の方が遅れるということは、まず考えられはしない。筒井家記は、さすがに如何にも光秀より遅れて、6月2日の早朝に出陣したように、わざと書いているが、寄騎の師団長共は、みな6月1日夜半に、部下を率いて出動しているにまちがいない。こうでなくては話が合わない。 さて、現在まで伝わっている家譜は、どこのでも糊塗偽瞞だらけのものが多いが、中でも立派なものは細川家記である。つまり、この時点で、信長の動員令が下って、方面軍指令官の光秀を初め、寄騎衆の各師団が京へ集結に向かっているというのに、この細川家の宮津師団だけは、「6月3日になりて、本能寺の変を、その居城の丹後宮津城にてきく。細川藤孝及び御長子の忠興のご父子は、早速に、もとどりを切り払われ、信長公に弔意を表し奉り。このとき藤孝の大殿は、世をはかなみ直ちに隠居。一切をあげて忠興公に委ねられる」 とある。 こんなバカな事が果たしてあるだろうか。せめて、筒井家記のように、京へ向かうための途中で「包囲されている」と本能寺の変を聞き、「急いで駆けつければ間に合う」とは迷ったが、「信長公を助けに行くべきではない」と思ったから止めた。そして罪滅ぼしに髪を切った、というのなら、まだ少し話にもなるが、これでは、てんで変てこではあるまいか。「抗命拒否」つまり宮津師団だけは、のっけから信長の至上命令に背いて、出動をしなかった、ということになってしまう。だから、常識の線にたてば、この細川家記の記載は、まったくのフィクションで、細川父子も京に6月2日早朝は入っていたか、又は近づいていたかであろう。これは作為されたアリバイである。なんといっても、「天正10年6月2日の暗いうち」までは、織田信長は、絶対的な国家主権者である。何十年も奉公してきた者でも、その逆鱗に触れたら、前年の林道勝、佐久間父子、安東伊賀守らのように追放されている。それを承知の上で、敢えてこの命令に従わず、6月3日に到るも、のうのうと宮津の城内に父子共に、まだ居座っていたという細川父子の横着な態度を示す、この細川家記を、従来の歴史家のように全面的に信頼するとすれば、これは、とりもなおさず、(細川父子が予言者ヨハネでない限り)あらかじめ、つまり前もって「6月2日朝のクーデターを予知していた」と、しか考えられない。でなければ、当日の実行部隊である。前にも書いたように、老の坂のある大江山は、丹波ではあるが、飛び地として、この当時は丹後の細川領で、京への関所だから、細川番所が並んでいたからである。この領内から出兵すれば、細川父子は2日の午前中に目的をすませ、3日には悠々と 宮津へ戻っていられた筈である。 ところが細川家記では、原文をひけば、 「これより先に幽斎は、家老の米田求政を京へ遣わして、信長父子の上洛、且つ佐久間甚九郎の勘気赦免を喜び聞こえんとせられしを、求政が、今出川相国寺門前に着せし時、本能寺の変を聞きしかば、愛宕下坊幸朝と相議り、早田道鬼斎というものを急ぎ丹後にさし下す。このとき忠興は、中国出陣の筈にて、先手はすでに押し出したり しに、道鬼斎は泥足にて広間に走り上り、文箱をさし出して、本能寺の変を告げまいらす」ということになっている。佐久間甚九郎というのは、天正8年、大坂本願寺攻めを怠っていたと勘当状をつきつけられ、高野山へ放逐された佐久間信盛父子の子の方である。しかし、これは織田の家では先代から奉公の家系の譜代衆。それを、ここ10年くらい前から足利義昭を捨てて信長に奉公した新参者の細川幽斎などが、仲へ入って勘気を願うとか、取持をしたというのも訝しい。だいいち、赦免になったのは、この時ではない。それは本能寺の変後であって寛政記によれば、織田信雄に仕え、小牧長久手合戦では秀吉方の尾張蟹江城を攻めている。細川幽斎が喜んでくれるように、彼の骨折りで勘気が許されたものならば、まさか2年後に、細川に背き、反秀吉方の陣営にたつことは、まずあるまいと想われる。 さて次に、「信長父子の上洛」というが、なにも父子揃って上洛してきたのではない。信長は、本能寺の変の二日前の5月29日の上洛だが、信忠はちがう。信長記の5月14日の条によれば、「丹羽長秀が仮殿をたてた江州番場に、家康 と穴山梅雪が一泊して安土へ向かった後、信州諏訪から凱旋してきた信忠も通りかかって、立ち寄って休憩、長秀が一献献上した」とある。つまり、細川家に「これより先」と書かれているのは、信忠が上洛した頃をさ すのであろうか。すると、5月16、17日か20日ぐらいのことになるが、その頃か ら丹後を出発して、6月2日の事件当日の最中に、彼米田だけが一人で京へ着き、しかも相国寺前の私宅へ着いたというのは、どうしたことをいうのだろうか。この当時、 丹後宮津から京までは途中で物見遊山しても、二日しかかからないことは、西国紀行にもあるし、また当然なことである。だから米田という家老が主命をおび、真面目に歩いて来たものならば一日か、一日半の道程である。それが半月掛りの計算である。 そして普通なら、細川の京屋敷へ直行すべきなのに細川家記には肝心な、殿様の屋敷はなくて、米田個人の私邸。しかも今出川の相国寺前というのは、この後、大坂方の残党の長曽我部盛親が寺小屋を開いていた様な、京における下町である。そういう場所に米田の京邸があったとは、まるで妾宅でも連想しそうな粋な書き方である。だが、殿様に京屋敷がなく、家老だけが別邸を持っているなんてことは考えられもし ない。全く奇妙である。 さて、次に、ここで大切なのは、 「愛宕下坊幸朝」という人名である。つまり、愛宕権現の下坊の神官で「幸朝」とい う男が、ここに出てくるのである。この愛宕権現というのは、細川幽斎の上の娘の伊也を再嫁させた、京の金融を司っていた吉田神道の兼治の出店にもあたる神社なのである。後世になると、愛宕山頂の勝軍地蔵を拝みに、出陣前の諸将は登山したように伝わっているが、実際は戦費の借出しに行ったのである。そして、金策がつくまで連歌をしたり、茶湯をたてて待っていたのは、(今日でも、預金者は入口の腰掛けで待たせても、貸出の客には、何処の銀行でも応接間へ通して、そこで茶を振舞うのと)同じである。そして、「5月28日に愛宕へ登山した光秀が、29日に(その日は土砂降りの雨なのに) 西坊から下山したに相違ない」。6月2日の午前9時過ぎまで光秀の姿は京で見た者はいないが、その前日の6月1日まで愛宕にいたような事は、絶対にない」と、後になって証言するのが、この下坊の幸朝である。といって、この男は、予め信長が6月2日朝殺される事を知っていて、愛宕山から下って、洛中の米田と連絡をとっていたのか。それとも米田が、愛宕山まで駆け登って相談に行ったのか、ここは判らない。 ただ、大日本神祇史並びに山城名勝志によると、 「愛宕神社は延喜式に丹波国桑田郡阿多古神社とある、是なり、丹波、山城両国の境にあり、当今は山城国葛野(かどの)郡に属す。東西南北に四坊ありて栄ゆ」と あって、西坊とか東坊というのはあったが、細川家記に出てくるような、下坊や上坊はない。たぶん米田との打合わせしやすいように、山頂では訝しいから、この時点だけ、まるで麓にでもありそうなと想えそうな、下坊なるものを、文字の上だけで作って、辻褄を合わせたのだろう。また、「中国出陣の筈にて、先に、先発隊は押し出し出陣していたが」と、まことに苦しそうに説明しているが、いやしくも信長の命令なのに、「筈にて」というのも訝しい。また先発の部隊が既に出ているのに、後続部隊は、まだ宮津城にてオイチニとやって いて、幽斎や忠興は、暢気に城中にいる程の大部隊を、当時の細川家は持っていたのだろうか。どうも信じられない。 それに奇怪すぎるのは、信長の死体が本能寺に見当らなくて、生存説も高く、4日、5日ずうっと洛中が騒いでいる時に、丹後の宮津城から動かなかったという細川幽斎と倅の忠興が、自信をもって、死を確信し、「死んだ信長様への供養」と称して、父子揃って、バッサリ髷を切ってしまった事である。こんな不可解なことがあるだろうか。忠興の妻が、細川ガラシャ夫人で、光秀の娘なので、この本能寺の変の後は、丹後領内にある明智領の味土野(あどの)へ引きこもっていたが、彼女がゼズス派の信者 だったことも考えるべきだろう。もちろん細川家記や日本ゼズス会年報は彼女の入信を、この5年後にしているが、それは4人の子の受礼で、彼女はもっと早く入信していたとみられる。 さて次に変なことは、髷は切っても、また生え伸びてくるが、「まるで何かの咎を責められる」のを用心するように、細川幽斎が責任回避して、さっさと、変り身の早さに、隠居してしまい、「わしゃ何も知らん」で押し通そうとする態度である。細川家の細川家記というものは、確かに貴重な史料である。だが何も<真実> を伝える為にあるのではあるまい。細川一門にとって都合の良い事を、証拠として書かせて伝えているにすぎないのではあるまいか。何しろ細川は、後に当代記、寛政譜では、秀吉から加増され、「丹後宮津で、光秀の遺領の飛び地も貰って11万石」だが、その死後、家康から、「豊後の内、速見、国束の二郡で六万石を贈られ」ついで豊前小倉城主。忠利の代になると、秀吉でさえ小西行長と加藤清正に半分ずつしかやらなかった「肥後一国をそっくり拝領して54万石になる」と寛政譜にある。 春日局が介在しているとも伝わっているが、一体なんの弱みがあって、徳川家は、他の大名は次々と取り潰しながら、細川にだけ、こんな破格な事をする義理があったのだろうか。この忠利は忠興の三男だが、彼が何故、跡目を継いだかというと、長男細川忠隆、山城北野に隠れて変死。次男細川興秋、山城東林院にて自殺。というわけで、三男に順番が廻ったのである。どうして次々と長男や次男が、殿様になるのを避けて、その寿命を縮めてしまったか、何も伝わってはいない。だが、「何か暗いものは感じとれる」。そして、それが、天正10年6月2日に無関係だったとも言い切れない。もちろん、細川藤孝という人は「幽斎」という名で知られた当時の有名な歌人である。明治30年11月に、正二位の贈記を受け、渡辺義象が細川家御用を承って、同年、細川幽斎を出版している。だから文化人だし、歌詠みだから、道徳的な人だったろうと、私は信用している。しかし、よく考えてみると、あの時代は、強盗だった石川五右衛門でさえも「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」などと、歌を詠んでいる。 さて、当代記の原文で、先に示したように、寄手が二城城へ近寄りながら、あまり戦意を示していなかった点でも窺えるが、二城城にいた信忠の軍勢は寄手と同志討ちを、結果的にしたのではあるまいか。つまり、城の内部と外部の双方へ、まったくの第三者から、不意に攻撃というか、爆弾でも仕掛けられたら、そういう結果を生じたかも知れない。なにしろ、混乱と昂奮が渦を巻き、それに6月1日は大雨だったが、この日、6月2日は晴れていて暑い。当時の洋暦では6月21日になるが、現在の太陽暦では7月1日にあたっている。眩しいくらいの夏の陽ざしに照りつけられている双方の軍勢が、幻の様な敵‥‥つま り僅かな小数の、目につかぬ相手から、着火された爆薬を擲げこまれたら、これは、双方とも、それとは気付かずに、はじめて寄手と城内の信忠勢との間に血戦が、ふって湧いたように開始されたかもしれない。 それでなければ、10年前の、この二条城攻撃の時に、信長が全勢力を以てしても落とすことができずに、東寺の光明過去帖に残っているように、上京の二条から北を、すっかり焼野原にしてしまって、攻めやすいようにまでして、改めて二条城の四方に、見おろせるくらいの高い望楼の砦を構築。そこから、当時の輸入されていた火薬を使って攻撃。だが、どうしても落城させることができずに、とうとう正親町帝に願い出て、勅使下向を仰ぎ、やっと開城させた程のところが、どうして、僅か、たった一日、それも数時間でかたがついてしまったのか。二条城の周囲は本能寺と違って、4m幅の深い濠、跳ね橋を上げたら中へは一人も入れない。つまり普通の状態なら、何日でも篭城できる状態である。それに、信忠は、なにも血戦するために、そこへ入ったのではない。安全を期するために、ここへ逃げ込んだのである。それが1時間か2時間で全滅。まったく話が合わない。そこで当代記や信長公記、川角太閤記では筆を揃えて「二城御所に隣接した近衛関白邸の大屋根によじ登った兵士が、そこから二条御所の中を狙い撃ちして全滅させた」と記述している。 もちろん一緒に筆をとって同時に書かれたのではないから、この中のどれかが書いたものを、他の筆者は、そっくり失敬しただけだろう。だが、近衛関白邸が右隣だったら左側に移ってしまえば、狙撃は免れる筈である。何故、信忠以下五百の精鋭は、わざわざ撃たれるために近衛邸の側よりに集まってゆき、そこで全滅したのだろうか。こんなおかしな話しがあるだろうか。こんなに短時間のあっけない全滅というのは、閉じこもった信忠勢に放りこまれた新型の爆弾としか考えられはしないであろう。だが、これは一応このままにして、また本能寺へ戻ろう。 |
天正記 |
「本能寺の変」 |
惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたくむ。しかしながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。さて、5月28日、愛宕山に登り、一座連歌を催す。光秀、発句に云はく、「時は今あめが下しる五月かな」 。今、これを思惟すれば、則ち、誠に謀反の先兆なり。何人か兼ねてこれを悟らんや。然るに、天正10年6月朔日夜半より、かの二万余騎の人数をひきい、丹波の国亀山 を打ち立ち、四条西の洞院本能寺相府の御所に押寄す。将軍、この事夢にも知り召されず、宵には信忠を近づけ、例より親しく語らい、吾が壮年の昔、唯今残る所なき果報を喜び、兼ねて万代長久の栄輝をたくみ、村井入道、近習、小姓以下に至るまで、御憐愍(ごれんびん)の詞を加へ、深更に及ぶ間、信忠は暇乞ひありて、妙覚寺屋形に帰り入り、将軍は深閨に入りて、佳妃・好嬪を召し集め、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)、連理の枕、夜半の私語、誠に世間の夢の限りに非ずや。惟任は途中にひかえ、明智弥平次光遠、同勝兵衛、同治右衛門、同孫十郎、斉藤内蔵助利三をかしらとなし、その外の諸卒四方に人数を分けて、御所の廻りを取り卷く。夜の昧爽(あけぐれ)時分に、合壁を引き壊(やぶ)り門木戸を切り破り、一度に颯と乱れ入る。将軍の御運尽きるところ、頃(このごろ)天下静謚の条、御用心なし。国々の諸侍、あるいは西国の出張と云い、あるいは東国の警固として残し置く、又、織田三七信忠は、四国に至りて渡海あるべき調儀のため、惟住(これずみ)五郎左衛門尉長秀、蜂屋伯耆守頼隆相添へ、泉堺の津に至りて在陣。その外の諸侍、西国御動座御供の用意のため、在国せしめ、無人の御在京なり。偶々(たまたま)御供の人々も、洛中所々に打ち散り、思ひ思ひの遊興をなす。御番所に慚く小姓習百人に過ぎざるものなり。将軍、夜討ちの由を聞し召され、森蘭丸を召して、これを問へば、則ち、惟任が謀反の由を申し上げる。怨みを以て恩に報ずるの謂はれ、ためしなきに非ず。生ある者は必ず滅す、これ亦、定まれる道なり。今更に何驚くべけんや。弓をおつ取り、広縁を差して打ち出で、向かふ兵五、六人、これを射伏せ後、十文字の鎌倉を持ち、数輩の敵を懸け倒し、門外におよびて追ひ散らし、数箇所の御疵を蒙り、茲を差して引き入 り玉ふ。森蘭丸を始め、高橋虎松、大塚又一郎、菅谷角蔵、蒲田余五郎、落合小八郎等、御傍を離れざる面々なり。これによって、一番に取り合くちせ、同じ如くに名乗り出で、一足も去らず、枕をならべて打死す。続いて進人々は、中尾源太郎め狩野又九郎、湯浅甚助、馬乗勝介、針阿弥、この外、兵七、八十人、思ひ思ひの働きをなし、一旦防戦すと雖も、多勢に攻め立てられ、悉くこれを討ち果たす。将軍この頃、春の花か秋の月かと、翫び給ふ紅紫粉黛(こうしふんたい)悉く、皆さし殺し、御殿に手自ら火を懸け、御腹を召されおはんぬ。 |
「二条御所の陥落」 |
村井入道春長軒、御門外に家あり。御所の震動を聞きて、初め喧嘩かと心得、物の具 も取敢へず走り出でて、相鎮めんと欲して、これを見れば、惟任が人数二万余騎囲みをなす。かけ入るべき術計を尽くすと雖も、叶はず、これによって、信忠の御陣所の妙覚寺に馳せ参じて、この旨を言上す。信忠は、是非、本能寺に懸け入り、諸共に腹切るべき由、僉議ありと雖も、敵軍重々堅固の囲ひ、天を翔る翼に非ざれば、通路をなし難し、寔(まこと)にこれ咫尺
(しせき)千里の歎き、なほ余りあり。然るに、妙覚寺は浅間敷(あさましき)陣取りなり。近辺において何方(いずかた)か腹る切るべきの館、これあるべしと、御尋ねありしに、春長軒承って、忝くも、親王の御座、二条の御所然るべき由言上仕り、二条の御所へ案内申す。
忝くも、春宮(とうぐう)は、輦(てぐるま)に召し、内裡(だいり)に移し奉り、信忠僅かに五百ばかり、二条の御所に入る。将軍の御馬廻、惟任が残党に隔てられ、二条の御所に馳せ加わる者一千余騎。御前にこれある人々、御舎弟御坊織田又十郎長則、村井春長父子三人、団平八景春、菅屋九右衛門父子、福住平左衛門、猪子兵助、下右(おろし)彦右衛門、野々村三十郎幸久、走沢七郎右衛門、斉藤新五、津田九郎次郎元秀、佐々川兵庫、毛利新介、塙伝三郎、桑原吉蔵、水野九蔵、桜木伝七、伊丹新三、小山田弥太郎、小胯与吉、春日源八、この外、歴々の諸侍、思ひ切って、惟任が寄せ来たれるを待ち懸けたり。惟任は、将軍御腹を召し、御殿に火焔の上るを見て、安堵の思ひをなし、信忠の御陣所を尋ぬれば、二条の御所に楯篭(たてこも)らるる由、これを聞きて、武士(もののふ)の息を続(つ)がせず、二条の御所に押寄す。御所には、勿論、覚悟の前、大手の門戸を開き置き、弓・鉄砲前に立て、内にひかえる軍兵は思ひ思ひの得道具を持ち、前後を鎮め居たりけり。魁の兵、面もふらず、懸かりたり。前に立てる弓、鉄砲、差し取り引き取り射退け、たじろぐところについて出で、追払ひ推し込み、数剋防ぎ戦ふ。敵は六具をしめ固め、荒手を入れ替え入れ替え、攻め来たる。味方は素膚に帷一重(かたびらひとえ)、心は剛(たけ)く勇むと雖も、長太刀、大打物、刃を揃へて攻め入れば、ここには五十人、彼には百余、残り少なに打ちなされ、御殿間近く詰め寄せたり。信忠御兄弟、御腹巻を召され、御傍にこれある面々百人許り具足を着け、信忠一番に切って出で、面(おもて)に進む兵十七、八人これを切り伏す。御傍の人人、われ劣らじと、火花を散らし相戦ひ、四方に颯と追ひ散らす。その時、明智孫十郎、松生三右衛門、可成(かなり)清次、その外、究竟の兵数百人、名乗り、取って返し、切って懸かる。信忠御覧じて、真中に切って入り、この頃稽古仕給ふ兵法の古流、当流秘伝の術、英傑の一太刀(ひとつたち)の奥義を尽くし、切って廻り、薙
ぎ伏す。孫十郎清次、三右衛門、首丁々と打ち落とす。御近衆の面々、力の限り切り合い、内に攻め入る敵の人数、悉くこれを討ち果たす。最後の合戦、残る所なく、将軍の御伴を申すべしと、御殿の四方に火を懸け、真中に取り篭め、腹を十文字に切り給へば、その外の精兵、敷皮をならべ、腹を切り、「一度に焔となりぬ」。将軍御歳49、信忠御歳26、悼むべく、惜しむべし。上下万民に至るまで、皆、愁涙を滴らしけり。
---云わずもがなのことであるが、「兵法の古流、当流秘伝の術」、「一太刀の奥義」 というのは、幕末天保14年に新選武術流祖録という硬派本が出てから、弘化・嘉永の木版刷の「剣客伝」にきまって出てくる「当時の流行語」である。‥‥ここに転載した原文も、天正10年の作とは伝わるが、これまた、やはり幕末の270年後のリライトもののようである。 |
(私論.私見)