4章、真実は雲なのか

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1191信長殺し、光秀ではない10」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 真実は雲なのか
 暗殺
 「ヴァーモア・ア・トマール・カフェ(コーヒーでも、飲みにいらっしゃいませんか)」と私が声をかけると、その女は、「ボイズ・ナムン(よろしくってよ)」と、角型の眼鏡をはずして、眉の間を小指で トントンと軽く突きながら、読んでいた本を伏せた。みると、<THE DEATH A PRESIDENT>大きな文字が浮き出したウィリアム・マンチェスターの評判のものだった。だから、ビブリオテーカ(市政図書館)の木の階段を出て、警察総局の前にあるリベラホテルへ、お茶を飲みに入った時、話をそこにもってゆき、「死んだケネディをどう思いますか?」ときいてみた。すると、少しはずかしそうに白い頬をそめながら、身振りは大きく、 「ケー・ツリステーゼ(なんて悲しい事だったんでしょう)」と、まるで空間で遺体でも捧げるように両手をひろげ、掌を上に開いた。細くて白い指だと思った。だが、彼女は、それから声を落として、ケネディが女性に人気がでてから、各国の娘が妻子のある男を好きになるのが平気になってしまった。だから、早く殺されてしまって、奥さんのジャクリーンには悪いが、道徳的には良かったかもしれない。と、そんなつけたしをした。そして、てれたようににこっと微笑んだ。だから、「ナウン・ディー・ガ・タル(そんなことを言うもんじゃない)」 。つられて私も頬を綻ばせた。

 ガラス戸の外のユーカリの樹が、卓へまで大きく亜麻色の影を落としていた。その淡い色彩の中で、女は思ったより若く見えた。図書館の中で屈みこむように本を読んでいた時は、顔が長く伸びていて、まるで表情を失った中年の女のようだったのに、こうして眼鏡をとり、歯をのぞかせる顔には、まだ少女のようなあどけなさが笑顔と共に時々浮び上がってきた。「セント・ローザ・テ・リマにいます」と彼女は、自分のことを話した。ブライヤ・グランデ湾の岬にあるセント(聖)・クララ修道院のことかと思って、「‥‥クレーリゴ(童貞尼様)ですか」ときいてみると、「スイン・エスコーラ(いいえ、学校です)、プロフェソーラ(女教師です)」と、もう一度赤くなった。金色の産毛を濃くしたような睫をしばたいた。

 そして、アルーナ(女生徒)たちがケネディのことを聞きたがってしようがないから、どうしてダラスで殺されたのか、それを図書館まで来て調べていたところだ、とそんなことを口にした。「ヴォセ・コニエーヤ(判りましたか?)」ときいてみると、「ミステーリオ(奇怪至極です)」と彼女は首を振った。そして抱えてきた大判のノ ートをひろげた。色々な名前が書いてあった。そして又、次々と、それらは抹消されていた。まず、オズワルドの名があった。逮捕後二日目にダラス警察で射殺。死亡した場所は、大統領が絶命したバークランド病院。そして、その病院では、狙撃したジャック ・ルビーも死亡している。そしてルビーのナイトクラブに関係のあったヘンリー・キラムがフロリダのペンサコラで何者かによって殺害。そして「オズワルドが犯人ではない」と証言した運転手のウィリアム・ホエイターは奇怪な交通事故死をとげ、目撃者のウォーレン・レイノルズは重傷を受けて瀕死の容態。同じくドミンゴ・ペナピデスは、その瓜二つの弟のエディを、ダラスの酒場で射殺されている。そして、同じく「オズワルドはケネディ殺しではない」と言ったばかりに、別件逮捕でダラス警察に追われたジェームズは(逃げようと誤って落ちたことになって)、コンクリートの車道で重傷。警察といえば、リングビーチ署で、事件直後に取材にあたったプレス・テレグラム紙の事件記者ビル・ハンターが、堂々と一警官の「誤射」によって即死。一緒に取材にあたっていたダラス・タイムスのジム・ケ ースも、その五ヶ月後、自宅で虐殺、犯人は不明。殺された二人の事件記者と行動を共にしていた弁護士のトム・ワハードも1965年5月にダラスで謎の頓死。その6ヶ月後には、「ルビーとウォーレン最高判事のやりとり」をスクープした女流記者ドロシーが自宅で急死。「睡眠薬の誤用」と発表されたが、解剖の結果では、その痕跡もなかったという。「ケネディを狙撃したのは、オズワルドのいた教科書倉庫より、反対の陸橋側だった」と証言したパワーズ鉄道員は、レールの上で首と手足をバラバラにされて発見。ダラス警察は「事故死」と、その死因発表。次々と算えると、十八人の生き証人が、殺されたり、死にかけで口がきけなくなっている勘定である。

 「‥‥ドウヴイダール(疑惑)」と、彼女は口をはさむが、私の方は、この消された リストの書き写しを見せられては、それどころではなかった。「目撃者は殺せ」と証人が次々と殺害されているばかりでなく、「真実」を解明しようとした新聞記者や弁護士までが、次々と溝鼠みたいに叩き殺されている。これでは、場所柄が遠いアメリカ西南部のダラスという地方都市だという距離感も忘れる。きわめて、ぐっと身近に感じすぎるものがある。「オズワルドはケネディ殺しではない」と口走ったばかりに、次々と消されるのは、「光秀は信長殺しではない」と、このマカオまで調べにきている私にとって、どうも他人ごととは思えないからである。「明日は我が身」と、そんな気さえしてくる。だから、かけてきたアメリカン・インターナショナル・アンダーライタース発行の海外死亡保険証書をひろげて、もう一度仔細にみたくなった。ところがである。それなのに彼女は型の薄い桃色の唇を開き、さもケネディ殺しにうっとりしているよ うな眼差しをして、 「テーニョ・ウ・マイヨール・プラセール・エン・コニョセール(お近づきになれて嬉しいわ、とても‥‥」と言ったあと、「シンコ」と言った。だから、うっかりして「新子さん」という名かと勘違いしたが、よく考えたらポルトガル語では25、つまり彼女の年齢らしかった。だが、こちらはそれどころではない。自分の泊まっているホテルではないから、サインはきかないから勘定を払って外へ出ると、とても図書館へ、また戻る気にもなれず、紅と黄の薔薇が咲いている中庭から、バイヤ・デ・プラグランドの海の方へ一人で歩いていった。宿へ戻るためである。

 民主主義とかデモクラシーといったものを看板にしているアメリカだって、白昼公然とオープンカーでパレード中の自分等の選んだケネディ大統領を、ドドーンと暗殺している。ダラスの街で、何万という群集の目が光っているところでの公開殺人である。犯人としてオズワルドが逮捕された。そして、その後、警察官立合いのもとに行った場景で、彼も早いとこ、さっさと射殺された。それなのに、今になると雑誌や本で、「オズワルドは真犯人ではない」と言われている。といっても、他に真犯人が「It's me」 。それは私である、とでも名乗り出ない限りは、「歴史は答えを求める」という言葉があるから、何世紀か後には、やはりオズワルドが犯人として扱われるだろう。なにしろアメリカは一世紀前にもリンカーン大統領を、やはり暗殺で失っている。その時、大統領は観劇中だったから、舞台から射殺された想定のもとに、出演俳優の一人である道化役者が、やはり素早くズドンと一発、「真犯人」として射殺されている。だが、すぐ、これは南北戦争に負けた南軍の残党の報復であるとか、次期大統領を狙った者の行為であると噂され、未だに迷宮入りのままである。そして、歴史はそれっきりである。だから、ケネディ殺しの真犯人も、とうとう判らずしまいで、結局は終わってしまうだろうから、やがてはオズワルドが定説になろう。なにしろ、普通の一個人の死でさえも、都合よく下手人が自害して出てこない限りは、殆ど半数まで不明のままで終わってしまう。それでは困るからと、まぁ適当な者を しかるべき犯人に仕立てると、これが獄中から、本当は違うんだと「無実」をば叫んで厄介なことになる。これが殺人事件のおおかたのケースのようである。

 まして、その被害者が「国家主権者」ともなれば、利害関係が錯綜している。永遠に、その真犯人は殺人教唆者の名が洩れるのを惧れて、闇から闇へと葬られるのが実状である。オズワルドの射殺後に「ケネディ暗殺について何かしら目撃をした」と申し出たダラスの市民が、次々と交通事故や原因不明な怪死を遂げ、みんな消されていくのも、その秘密洩れを防ぐためだろう。そして、犯人が検挙されないのも、テレビで見せられるFBIやCIAの活動は、アメリカの国家権力に反抗するギャングや、好ましからぬ人間への取締まりであって、その国家権力の犠牲になって消しとばされる市民などは、どうでもよいと、見向きもしないせいなのだろう。なにしろ、「道徳再武装計画」とかいう芝居を各国にもって廻っている国でさえ、こうなんであるから、それをお手本にしている国が、きわめて不道徳であったとしても、それは非難をされることはなかろう。とはいえ、20世紀の今日でさえ、なかなか犯人が判らないものとされる国家主権者の暗殺が、どうして16世紀の日本では、 きわめて明瞭に明智光秀とされてしまっているのだろう。

 オズワルドが光秀だと仮定すると、ジョンソンが秀吉なのであろうか。そういえば、アメリカのデモ隊は、プラカードに堂々と「暗殺者」とかいて持ち廻っている。今のところ、誰が家康なのかは、州警察か、連邦賢察しか判っていないだろうが、ああいうところを聞いても、嘘は言っても決して本当のことは教えはしないであろう。なにしろ口では容易に話しもするが、真実とは難しいものである。よく、本に載っていたから、みんながそう云うから「それは真実なんだ」という。これもつまり類従制の多数決である。だが、<真実>とは、そんなものであろうか。選挙や評議会の投票みたいな形式で選ばれるしか、この世に実存しないというのであろうか。他人に教えられ押しつけられるものでしか、私達は<真実>を掴めないものなのか。まるで一人ずつが持っていては、霧のようにはかないもので、多数の人間にわたっ て凝固し、やっと雲になって、空間に漂える存在なのであろうか。そして<真実>は 一つきりだというが、それが雲なら、一つということはない。入道雲でないかぎり、綿雲や鰯雲は、いくつも散らばって漂っているものだ。そして光の色を浴びれば、それは夕焼け空ではモチーブ色の茜がかった朱色にさえみえる ものなのである。すると、「真実」にあたる「雲」とは「白いものだ」と思っていた観念が崩れてしまい、真実とは「一つではなく、いくつも分かれて漂ったり」、「白いはずだが、青く も桃色にも見えもする」ということになるだろうか。雨天は休んでも、晴れている日には蒼穹にアドバルーンみたいに浮かぶのが<真実 >というものだったら、誰もがもっと安心して生きとし生きてゆける筈なのだ。私だって上を向いて歩きさえすれば、それが(真実一路)につながるコースなら、(路傍の石ころ)みたいに(真実、鈴ふり旅をゆき)躓いて転げるたびに、自分で、何度も自己喪失を企てたりはしてこなかったはずである。それだからこそ、どう考えたって、「真実は雲ではない」と私は思うのだ。

 十人の眼がそうだと視て、十人の手が、あれだ、あれだと指を指したところで、それが何だというのだろう。多数制で採決されるものが真実なら、もはや個人の真実などというものは認められもしない。また、通用もしなくなる。虚しすぎる。だが、真実というものは国家が握ったり、多数の人間が、その都合によって守りと おすものではない。それは一人ずつの個人が、自分自身の中に持ったり、また私のように、それを、なんとか見つけようと探し求めようとして、それだけで生きている者だって、きっといるはずなんだ。一と一を足せば二となるというのは定理だが、真実というものは、黒板にチョークでかけるものではない。それは自分の心に描くものな のだ。だから、私以外の人間がみんな、光秀を、信長殺しとみたところで、私は自分の< 真実>を追ってゆけばよいのだろう。自分の感じる<愛>に、真実を求めようとする のだって、本能寺に自分だけの理念を投影するのだって、観念的には同じことかもしれない。だが、<真実>というものが、そんな雲みたいに浮かんでいる一つの具象でないことさえ確かめられたら、それこそ、こんな不快な想いをして生きてきたことへの慰めにはなるだろうし、ささやかな満足にもなろう。と、そんなことばかり思いふけって、「真実」、「真実」とぶつぶつ呟きながら、ホテルの赤い曼珠沙華の植込みまで戻って来ると、「コーモ・ヴァイ・セニョール(おかえりなさい)」と、マカオの森蘭丸が、にこにこして迎えてくれる。なんだか、あっけらかんとした気分にされる。「オブリガード(やぁ、すまん)」とは返事をしてやった。此方はそれどころではない。保険証書は確認しなければならないし、オズワルドを犯人と決めつけたテキサス州最高裁判所判事のウオーレンレポート(報告)にも匹敵すべき、明智光秀の断罪報告書を、まずあたらねばならない。

 贋作 信長公記を書いたという大田牛一は、その後、秀吉に仕えた。そして彼は、 太閤様軍記のうちというのを残している。現存しているのは太閤軍記2巻の内の抜粋したもので、鳥の子半紙154枚の一冊である。その中に、織田信長の最期という短い一章がある。これには、もはや、「明智が(手の)者と見受けられ」などという表現は使われず、そのものずばりに、頭初から名を使っている。原文は、「一、明智日向守光秀、小身たるを、信長公一万の人持ちにさせられ候ところ、いくばくもなくして御高恩を忘れ、欲にふけり、天下に望みをなし、信長御父子御一族のお歴々がいらか(瓦の如く肩を)並べて居られた京本能寺において、6月2日に、情けなく討ち奉りをはむぬ(原文どおり)」。

 これが全文である。伝わっているものは、用紙が、当時では高価だった鳥の子半紙 を使い、でっちょ綴りに仕上げてあるといわれる。そうなれば、これは草稿や原稿ではない。「売り本」の体裁である。現行のように印刷して何万と刷って広告して、不特定多数の読者に売りさばくのとはわけがちがう。一冊きりだから、もし相手に気に入らない個所があったら、せっかく書上げても、銭にならんのである。だから、相手次第で内容も、違ってくるのはやむを得ない。とはいうものの、これがはたして大田牛一のものかどうかは、その奥書に、「この一巻、大田和泉守、愚案をかえりみず、これを綴る。頽齢すでにしずまって、渋眼をのごい、禿筆をそむるものなり」と、あまりにも尤もらしいことが書いてあるだけに、眉唾ものと考えさせられる。そんなに無理して書いたものなら、「XX年X月」とか「大田牛一X十X歳」とでも入れるべきである。それに「大田和泉守」と堂々と入っているが、これまた変である。安土桃山期では、何々守とよぶのは、敬称つまり、他人が呼ぶ「他称」である。山科言継のことを「言継卿」と呼ぶようなもので、本人は自記に、そんな「自称」はしていない。もし、公文書上の署名ならば、「大田和泉守牛一」が正しい。でなければ、本名の「資房」か「又助」である。(宮本武蔵の五輪の書の奥付に武蔵守と入っているから、 怪しまれて、贋物と思われているのと同じことである)

 6月1日に本能寺で茶会をさせてしまった歴史家が、この太閤史料集の校注もしてるが、それに、「これは信長公記と同じく、慶長15年(1610)の著述と推測できなくないが」と前書きしているが、まことに失礼だが、大田牛一はその前年に死んでいる。戦国人名辞典においても、彼の生涯は(1528〜1609)と明記されている。つまり、これは死人の書いたものということらしい。道理で信長に仕える前から「溝尾庄兵衛以下何百という家士を持ち、京の二条には、信長一行を何日も泊められる大邸宅のあった光秀」を、講談本なみに小身と書いている。そして、信長公記の本能寺では「素肌に湯かたびらの小姓達」と書いたのを失念してしまい、まるで「鎧武者でも並んでいたように角ばった屋根瓦」で表現をしている。もしそうでなくて、お歴々と言いたいのなら、二条御所の方と書き違えている。短文だから、あまり矛盾がみえないにしても、いくら死後の執筆とはいえ、ひどすぎる。これも大方、源内グループの偽造売本の類ではあるまいか。と思いたくなる。

 大村由己。この人はペンネームを「梅庵法印」とよぶ。作家である。だが当時は、そうした職業はなかったから豊臣秀吉の祐筆となって固定給をもらっていた。つまり御用作家である。老人雑話に、文録3年の吉野山の花見に秀吉が行った時、
**に随行していったと出ている人物である。今日、中小企業の個人会社が、その御用作家に「社長奮闘記」を書かせて配布するように、彼もまた秀吉事記を書いた。こういう伝記本というのは、何も他人の読者の為に書くのでなく、また自分の文学でもない。ただひたすらに御用命を賜った社長のために、その喜びそうなことを創作してでも、これをおおいに書かねばならぬことは、今も昔も変わりはないらしい。 さて、この作家のものに、天正記12巻。但し現存8巻がある。

 続・群書類従第589に「惟任退治記」として、その内の一冊がある。水戸弘道館の蔵本にも、この一冊は納まっているというから、数がある点において、これも海賊版らしいことは云うまでもない。なにしろ奥書に、その著作年月日が、水戸弘道館本は天正10年10月15日、続群書類従本は天正10年10月XX日 と出ているが、その10月15日というのは、言経卿記、兼見卿記によれば、「京の大徳寺にて、故信長公の葬儀。位牌は故信長公八男の長丸君、秀吉、次に太刀をもって従い、葬列美麗をつくす」とある当日である。まさか秀吉主宰の葬式に、家来であるところの、この作家は欠席をするわけにもいかず、原稿用紙と筆をもって、大徳寺で、きっと走り書きでもしたのであろう。だから故人信長の葬式というのに、ずいぶんとおかしな箇所が多い。次章のおわりに原文をつけるが、例えば、信長の生前についても、<第1章の安土の城>の終わりなどには、「夕には、翠帳紅閨に入りて、三千人の寵愛を専らにす。夜々の遊宴、日々の徳行、 楽しさ猶ほ余りあり」と堂々と書いてある。なぜこう書いたのか、秀吉の女狂いを弁護して、(この信長の乱行に比較すれば、 百分の一にもあたらぬ)と言いたかったのか。だが、もし、そうだとすると、秀吉の女狂いは、この十年後が絶頂だから、奥付の月日に合わない。だから、これは多分 (信長は一人一晩ずつ訪れても十年もかかる程の若い女を、一人占めしていた悪い奴だ)と、世の男共の妬情を煽り、反信長熱を煽るためのものではなかろうか。この計算でいくと、20歳の娘でも、運悪く最終コースにまわった者は、30歳になってしまうはずだが、そこまでは、これには書いていない。だが、 第5章の本能寺の変になると、「信長将軍、光秀の押寄すを、夢にも知り召されず、深閨に入りて、桂妃、好嬪を召し集め、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)、連理の枕、夜半の私語、誠に世間の夢の限りに非ずや」と、まず情景描写からして、これである。

 といって大村由己は、何も我々に読ませるために書いたのではない。彼にとっての読者は秀吉一人である。つまり、こういう具合のものを書いて聞かせなくては、秀吉という男は機嫌がよくなかったということになる。しかし、男が女狂いをするのは仕事に行き詰まったときか、目的を失いかけたときと、これは今も昔も変わりはないはずである。しかも信長は、この時(何かを一掃する雄図を抱いて)上京してきているのである。まさか、京女の肉体を一掃するために来たのではあるまい。馬で安土から来た信長の一行に、女が混じっている筈もない。いたのは本能寺門前村井邸から参上している手伝いの女たちにすぎない。

 そして、この6月1日は、言経卿記にあるように、招きもしない公卿ども四十人がデモを掛けてきて5、6時間も愁訴嘆願され、夜になって雨がふり止んでからは、妙覚寺の長男の信忠を呼んで、夜半まで密議をしている信長である。常識から考えても、それから女をつかまえて、喋々喃々など喋っていられるわけはない。時に信長は49歳。男の生理は今も昔も変わらないと言いたいが、バターもチーズも、九竜虫も当時はなかったのである。おかしいものではないだろうか。(それに私の天正美少年記や男郎花武者を読めば判るが、信長という男はもともとホモなのである)

 それに、歴史小説というものは、一ヶ所でも事実相違の点があれば、それだけで唾棄されてしまうものだから、大村由己なんていうのは、あまり感心できないように思う。なにしろ、(本能寺の周囲には塀も壁もないのに)、「夜の昧爽(まいそう)時分に、合壁を引き壊り一度に、さっと乱れ入る(中略)たまたま御供の人々も、 洛中所々に打ち散り、思い思いの遊興をなす。御番所にようやく小姓百人」とある。これは変だけれども原文そのままなのである。もし、大村由己が天正10年の10月に、事実これを書いたものなら、僅か4ヶ月前の ものなのである。本能寺に塀があったか、なかったか、人にきいてもわかるはずである。それに夏の夜の暗いうちに一度に、さっと乱れ入って、それから4時間の後まで、どうして出火せずに、城でもない、たかがお寺の本能寺の客殿が、そのままで保たれていたか。書いていて自分でおかしくなかったろうか。なにしろ、主に書かれているのは艶笑記事で、上様(信長)が女を集めて遊んでいるのをみて、お供の小姓までもが、それにつられて、女買いに出かけ、思い思いに外泊してしまったというのである。そして、だから残っていたのは小姓の未成年者百人しかいなかった。だから負けたのだと、ここで辻褄を合わせているが、初めから伴ってきたのは小姓だけで三十人と、この点は他の史料に明白に出ている。それなのに最後になって、また、「将軍この頃、春の花か、秋の月かと弄び給う紅紫粉黛、ことごとく皆、刺し殺し、 御殿に手ずから火をかけ、御腹を召されおはんぬ」とかいて筆をおいている。

 つまり信長は、やきもちやきのいやらしい男で、それまで散々に肉体を弄んできた女たちが、他の男達と交わるのを嫌われて、ことごとく皆刺し殺して処分してから、 自分で放火して腹を切った。つまり「女の数が多くて、名残りを惜しんでは殺していたから、出火するまでに、踏み込まれてから4時間もかかったのだ」と説明をつけている。すると寄手は、みな覗き趣味で、せっかくワアッと一度に侵入しながら、明り障子にでも唾で孔をあけ、4時間も見物をしていたのであろうか。それとも大村の書く信長の家来どもと同様に、寄手の兵も、みな堪りかねて攻撃をやめ、洛中の所々へ散り、おもいおもいに遊興をしに行って、改めて戻ってくるまでに4時間かかったというのであろうか。

 さて、ここのところを信長公記には、「これまで、御そばに女ども、つきそいて居り申し候を、女は苦しからず、急ぎ、まかり出よと仰せられ、追い出させられ」とある。本能寺の生存者は皆無で、どちらも直接に取材したものではなく、双方ともに、想像で書いたフィクションには相違ないが、天正記のほうは出鱈目がひどいし、きわめて悪意が露骨である。しかし、これは御用作家の彼が「こういう具合に信長の最期を書いて、朗読しなければ、主人の秀吉が承知しなかった」という点に、これはおおいに問題があるようだ。もし今日に伝わるように秀吉が信長思いで、それが実際のものだったら、まさか御用作家の大村由己だってこんなものは書くまい。仮りに、もしそうだったら、手討ちにされて殺されていただろう。
 デフォルメ
 この他に小瀬甫庵の太閤記がある。やはり、見せ場として本能寺は書かれているが、これはまるっきり講談で引用のしようもない。次に田中吉政の臣の川角三郎右衛門が元和年間に綴めたと伝わっている川角太閤記がある。これは大村由己の艶笑ものや、甫庵太閤記よりは、まあ、ましであろうと(史料)扱いを今ではされている。というのは、尤もらしい記述をしているからである。第1巻の明智勢、本能寺に乱入のことは4章で構成されている。1は、光秀が桂川へつくと、軍勢の者共に火縄を切り点火し、草履を履き換え、戦闘準備をせよと命令を出したということ。2は、(まだ本能寺へも向かっていないのに)光秀が本日から上様になられると、家来どもが喜び勇んだということ。3は、主格が、いつの間にか光秀から斎藤内蔵介に転換されてしまい、彼が下知するには、「町へ入ったら、いつものごとく、町木戸の潜り戸は開いているだろうから、その戸を押して開けて中へ入れ。入ったら後からの者のことを考えて、閉めずに戸は開けておいてやれ。次に目標は本能寺の森のさいかちの樹か竹薮と決めておけば、まぁ暗くても、月明かりでも道を踏み違えることもなかろう」と声高にいうのが聞えた。4は、この後は信長公記に詳しく出ているから、向こうを読め。ただ違っているのは、二の家来が喜んだ話と、3の斎藤内蔵介の命令であるが、これには二人も証人があって、直接に聞いた。だから正しい、と書いてある。

 まことに尤もらしい点に於いては、これは完全無欠である。但し、うっかり読むとである。これは元和元年に、大坂夏の陣が終り、どうも泰平ムードの時代のものかと思ったが、とんでもないもっと後年の贋作らしい。1の章に、原文では(馬のくつ切り捨て、かち立ちの者共、新しき草履足半(あしなか)をはくべきなり、火縄一尺五寸にきり、その口々に火を渡し、五つずつ火先を逆に捧げよ、との触なり。さて桂川をのりこし候こと)とある。だが、相州兵乱記に「急坂を駆け降りなむと、馬の藁沓の結びを縮め」とある。つまり結んだ端がピンと立っていては、馬が勾配にかかったとき、前脚の切れ端が後脚を刺してはいけないからというのである。だが、これからは桂川へ入るのである。たいていの藁は水に浸かると柔らかくなる。ピンと刺さる筈はない。あべこべに、水にふやけるから後で締め直さなければならない。そのとき、前もって端を切っていたら、どうして後から締め直しをするのだろう。おそらく、これは摂戦実録にもある「大坂夏の陣で、木村長門守が、決戦の心構えで、二度と兜をはずすまいと、その結び目を短く切って出陣した」という高名な話からヒントを得て、兜の緒と馬沓の紐をうっかり書き間違えたのであろう。

  次に、川を渡ってから新しい草履に履きかえろと言うのならわかるが、今から水に浸るのに、履きかえろではこれは二重手間ではないか。(足半(あしなか))というのは、半分の草履という誤説もあるが、雪沓みたいに藁で編んだ半長靴である。川を渡るのだから、これを履けというのだろうが、6月1日は雨である。桂川の水位は増している。まさか、そんなものを履いたところで、浅瀬にしたって膝まであったろう。だったら、わざわざ6月に雪沓を履くことはない。それに第一、そんな物を持ってきて いる筈もない。次に、火縄を点火して逆にしろというのは、携行ランプの代用のことらしいが、普通は、川を渡るときは、濡らさぬように桐油紙で包むか「雨火縄」とよぶ革袋に入れ、頭のてっぺんへ結いつけて渡河したものである。この川角太閤記みたいに、当時所定の五本全部に火をつけ、しかも、ぶら提げて川を徒歩で渡ったら、びしょ濡れで廃品になってしまう。これは、どうも、桂川に橋があったと間違えているらしいが、ここへ架設されたのは、ずっと後年のことである。

 当時ここは細川藤孝領で、細川番所の渡船があったきりである。だから、細川家で手伝ってくれても、せいぜい二、三艘の小舟で、一万三千が渡っていては、夜が明けてしまう。やはり徒歩で水中を渉って渡河したのだろう。 それから、兵器物具考によると、「火縄一尺五寸は、風なく一刻なり」とある。つまり一尺五寸という寸法は、点火させてから風の吹かないときでも2時間しか保たないと決まっていたのだ。桂川を渡る前に、火を5本ともつけてしまうというのは、徒歩では3時間半かかる 本能寺へ急行できるように、川向こうにジープやトラックでも待たせてあったのだろ うか。そうでなければ、あまりにも変である。なお、当時の軍用草履は、水中へ入っ て切れないように木綿の心が入っていて、これを武者草履と言い、高級品は皮編みになっていた。だから、江戸期の博徒の出入りみたいに、それっと言って新しいのに履きかえるようなことはしなかったものだ。

 よく読むと、これはまこと愚劣きわまる本である。ところが、この程度の低級なものに書かれてあることが、後に、明智光秀が本能寺に攻め込んだという例証。つまり動かしがたい信実として、今では完全に<真実>とされてしまっている。だが、まった く内容が訝しい、てんで変である。だから、それを糊塗するためにか、苦心してまず、信長公記では「明智日向守逆心のこと」として180字。天正記では「本能寺の変」の冒頭に194字で、計画的謀叛であったと、説明を先に入れている。ところが、どちらも、明智秀満の名を、講談の湖水渡りの有名な左馬助に間違えていたり、又は「年来の逆意、推察する所なり」といった説明で、なにがなんだかわからない。ところが川角太閤記だけは、2千字に及ぶ長さで<明智日向守、謀反を企てること>というのが出ている。これがまた、最初に証人らしき個人名を二人出して、まことに尤もらしく書かれている。そして、これだけ詳述してあるものは、他にないから、(ケネディ殺しのオズワルド犯人説)の「ウォーレン・レポート」に匹敵するものとし、これが後世の「光秀犯人説」の決め手になっている。そして奇怪なことは、秀吉時代は、大村や太田の光秀犯人説が通り、ついでに大阪落城後の徳川期においても、やはり、この角川レポートの光秀犯人説が通用している。何故なのか謎であるが、別個の二大国家権力に跨って、(その都合よろしきをもって)光秀を犯人にして罷り通っているのである。そして、一説だけでは心許なく思われるのか、豊臣期において、大村、太田の二本立であったように、徳川期にあっては、この川角太閤記と小瀬甫庵の信長記が、さながら車の両輪のように助け合って、「信長殺しは、光秀である」という定説を、固めてしまうのである。そして、350年たつと、<真実>というものに化けてしまって、もはや何ともならなくなってしまうのだ。
 分析
 まず川角太閤記レポートを分析してみる。「光秀は、西国出陣の命を出し、5月29日には、鉄砲の玉薬以下長持などの荷物約百荷を西国へ向けて発送させ、そして、次の日の6月1日の酉の刻の午後6時に物頭を集め、『京都の森蘭のところから飛脚があり、出陣の用意ができたならば、信長が、それを検閲するから、早々軍を率いて京都へ出てこい』といってきたといい、そして出発を命じ、亀山の東柴野へ打って出た時は、すでに子の刻であった。だから、そのまま、こうして南へ進み、途中で聟の弥平次秀満を使いとして、斎藤利三ら五人を召し寄せて決意を告げた」と、でている。ただし、小瀬甫庵の信長記になると、これよりも、もっと話ができていて、「光秀は、亀山出発前に謀叛のことを、明智秀満、同治郎左、藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛の五人に心中を打ち明け、五人から起請文をとり人質をとった」とある。こうなると、川角太閤記は6月2日午前1時頃に光秀が決意した話が、甫庵信長記では6月1日以前に起請文を書かせたり、人質をとって亀山城へ集めている。すこし繰り返して書くが、丹波亀山が光秀の本城だから、そこへ起請文のような重要秘密文書や五人の者から受取った人質をおくのは当然なことにちがいないが‥‥現実の問題として、明智光秀の一行は、6月1日に、この丹波亀山を出たとしても、6月13日に死んでしまうまで、この亀山へは一歩も戻ってない。殺されたと俗称される小栗栖村も、これは坂本へ向かう道順で、けっして亀山へ向かう途中ではなかった。作り話までがそうなのは何故だろうか。もし人質や起請文といった重要文書のおいてある本拠なら、何故、光秀は亀山へ行かずじまいだったのだろうか。又は、戻ることができなかったのか‥‥。これが、この本能寺事件の匿された鍵ではなかろうか、ということにもなりそうである。

 
さて川角太閤記はその次の条に、「日向守殿は腰掛から敷皮の上に居直って、存ずる旨を申し出すなり」と、まるで浄瑠璃のような語り口で始まって、「さて、わが身3千石のとき、俄かに25万石を貰ったから、家来をあまり持ち合わせず、他から止むなく引き抜きをしたところ岐阜で3月3日に叱られ、その後は、信濃の国の上諏訪では、暴力を受けて殴られた。そして今度の家康卿ご洛のとき、安土に御宿をいいつかって泊めたところ、ご馳走の次第が、どうも手を抜いて油断しているように叱られ、俄かに西国出陣を仰せつけられた。こう再三にわたって苛められていては、終には(所領没収又は切腹追放)という我が身の大事に及ぶべしとも想う。だが、よく熟考してみると、以上あげた三つの怨みは、或いは目出度いことかもしれん。なにしろ有為転変は世のならい。老後の思い出に、たとえ一夜たりとも天下をとった上で、その痛快さを味わってみたいものであると、この程、この光秀は思い切ってついに謀叛の覚悟をつけた。だから、家来のその方らは気が進まなくば同意しなくともよい。そのかわり、それならそれで、今から、この光秀一人で、本能寺へ乱入し、そこで暴れ廻ってやってから腹を切って‥‥思い出をつくる決心なのである」と、まず一息に光秀が言う。

  これが川角太閤記における、犯行自白の録取書なのである。つまり光秀自身の口から、犯行の動機と、これが怨恨を目的とする犯罪で、決して突発した精神錯乱ではな く、謀殺であって、この殺人予備罪にも該当する相談は、光秀自身の発案で、言い渡 されたのであるとされる。つまり共同謀議や、家臣共がすすめたのではない。光秀が、齢をとってからの「思い出」のために「せめて一夜なりと」と、まるで女でも買うような口調でアジ演説をやって、「もし同行を承知しないのなら、単独で出かけて自爆してしまうぞ」とまで脅かしたから、止むなく家臣共は、見殺しにもできず、ついて行ったにすぎない。だから悪い奴は光秀一人である。他の者は巻き添えにされた、言わば被害者である、という話なのである。そして、これが、このままで<真実>になってしまう。「光秀自身が自白したものだから間違いあるまい」と額面通りに受け取られて、今日の俗説の基礎になっているのだ。

 もちろん光秀の怨恨説というのは、この他にも数限りなくあるから、それはそれで 一括して解明するにしても、さっぱり理解に苦しむのがここへ出てくる「我が身3千石の時に、頼みもしないのに一躍、25万石にされた」という段階である。この時点を、「岐阜城で、3月3日の節句、大名高家の前にて、面目を失いし次第」と原文にはあるが、「高家」というのは、慶長13年12月に徳川家康が関白二条康道と相談して、持明 院の末孫の大沢基輔と、足利氏の裔の吉良義弥をもって、それにあてたのが嚆矢とされ、後に江戸幕府の職名になったものである。ところが信長が美濃井の口城を奪って、岐阜城と改め、そこにいたのは永禄7年から天正4年まで2月までである。すると、ここ江戸期までに35年間という最低のギャップが生じる。つまり高家などと呼ばれる者が、岐阜城にいた筈はない。まだ、そう呼ばれる者は作られていなかったからだ。次に3月3日の節句というのもおかしい。これは桜井秀の雛祭考に時慶卿記を引用して説明されているように、「上巳の節句は寛永6年3月3日より始まる」か。又は「お湯殿日記」を史料にする有坂与太郎の雛祭新考に、「上巳の節句の始りは寛永2年3月3日」の、どちらかが正しく、いずれにせよ信長時代にはない節句で、これは江戸期からの年中行事である。それまでは宮中において(周や魏の風俗で3月3日に汚れを川へ流す風習をうけつぎ)この日を「曲水宴」といって酒宴にしたり、漢詩はつくっていたが、大陸の行事なので、節句とは決して呼んでいない。また武家は絶対に、この遊びはしていない。つまり、3月3日を節句にしたのは徳川秀忠の五女の東福門院が、後水尾天皇の中宮になられてから、関東の「おしら神」を祀って白酒をあげ(白木のままで彩色したのが子消し神)そして白桃を供えだしたのは、信長の死後40余年経過した後のことである。それでも江戸初期は、まだ「三季」とよばれ、「節句」と決められていたのは、「5月5日の端午」、「9月9日の重陽」、「12月21日の歳暮」の三日である。

 つまり「3月3日の」が節句になったのは、ずっと後年の江戸中期以降のことなのであるから、この川角太閤記が、「元和7年から9年までの著作」とする校注者の説はおかしい。3月3日の節句だとか、高家といったような書き方からみれば、これも、天和、貞享、元禄の頃に一大流行をした古書贋作ブームによるもの。やはり源内たちのような偽作者達がせっせと書いて、それを故買(けいず)業者が、わざと灰汁につけて古色蒼然とした用紙に、筆耕させて仕上げたものだろう。なにしろ天下に浪人が溢れていて、コピーライターに不自由しなかった時代である。だが、右から左へ、その通りに筆写するのは、つい億劫で、リライトした結果が、<桂川を渡る場景>みたいに馬の藁沓の紐を切ったり、雪沓を夏に履かせたり、当時は桂川に渡橋があったから、光秀の頃にもあったものと間違えてしまったようである。

 なにしろ、この川角太閤記が偽書であると明確に指摘できるのは、その書かれ たと称される元和7年から寛永20年までの時代は、明智光秀の家老斎藤内蔵介の娘阿福が「春日局」として権勢を振るっていたからである。その彼女の父のことを書いた ものが、写本とはいえ流布できるわけがないと考えられる。いくら、このクーデターは光秀個人の発案で、他の者は知らないんだと書いてあったにしても、その<本能寺乱入のこと>の章の第3節に、内蔵介が「門に入るときには、自動ドアではないから、手で押し開けよ」と言ったなどと、ばかみたいな記述のある川角太閤記が、その娘の春日局の逆鱗にふれずに出せたかどうか、考えても わかることである。いくら早くみたところで、これは春日局の死後の、元禄以降。まぁ博徒の喧嘩華やかな天保時代が正しいと思える。だから光秀の頃は、何貫とりと言うのが単位だったのに、江戸の旗本なみに「我が身3千石の時」と書かれてしまい、それが俄かに83倍にベースアップされて「25万石拝領仕り候時」といった荒唐無稽なものになるのであろう。だが本当のところは、光秀は最初から、細川家記によれば、信長に仕える前の永禄11年7月25日に、既に溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら五百余の家来をもっている。だから江戸期ならば、赤穂浪士で名高い浅野内匠頭よりも上級の10万石くらいの身分である。
 講談
 それなのに、この川角太閤記にあるように3千石で、信長に就職し奉公したものなら、いくら当時のほうが物価が安かったにしろ、やはり二十人くらいしか養えなかったのではあるまいか。すると初めにいた五百余の家来の9割5分を、光秀は人員整理しなければならない勘定になる。と思うと、また忙しく川角太閤記では、「3千石から一躍俄かに25万石拝領仕り候とき、人手がないから他からスカウトしたところ、信長に叱られ続けた。よって、我慢ならぬから謀叛をするのだ」と光秀自身の口から宣言をさせている。80倍のペースアップというのは大変なものであるが、この25万石は何を基準にしているのだろうか。

 浅野旧侯爵家史料によると、天正11年に「江州坂本21万石のところ、城代として2万石を拝す」という浅野長吉時代のものがあり亀田高綱記では2万2千石とある。つまり旧坂本領は20万石ぐらいらしい。そして丹波亀山城主羽柴秀勝(信長の子)が天正12年、突然変死したあと、前田法印が伜の前田利勝に先だち5万石にて亀山城主になっているから、その合計で25万石割出したものと想像するが、それは後年の話である。江州坂本の支城でさえ20万石の余を拝領している明智光秀に、「本城として丹波亀山旭城」を持たせる時に、支城の4分の1以下ということはない。丹波丹後に跨って、その頃やはり30万石以上はあった筈である。つまり天正10年当時の明智光秀は50万石以上と思えるのに川角太閤記は、後年の慶長分限料や伏見城作事割当表の石高から割り出して、すっかり間違えている。----これは後から重要なキーポイントになることだが、丹波は誰某、丹後は誰某と、今日の歴史附図のように国別に領主制が、はっきり決まったのは、あれは慶長5年の関ヶ原合戦後のことである。信長時代は、そうではない。山崎合戦の後、有名な細川ガラシャ夫人が隠れていた「あど野の庄」も丹後であっても明智領だったくらいである。

 さて川角太閤記では、光秀が「人一円も持ち合わせず」つまり、めぼしい家来が一人もいないのでと言わせているが、光秀と最期まで生死を共にしている三宅藤兵衛や溝尾庄兵衛にしろ、昔からの家来である。ところが、川角太閤記には変な家来が現われてくる。まず最初はその溝尾と、斎藤内蔵介を二つ合わせて、二で割ったような「溝尾内蔵介」という人物である。初めのうちは別々に書いてあるから、二人のことかとも思うが、それなら溝尾や斎藤とか、庄兵衛内蔵介と併記するべきなのに合体させているのは何故だろうか。なにしろ筆頭の名前からして、江戸後期に流行した講釈の「湖水渡りの明智左馬助」である。実存は「明智秀満」で、これは荒木村重の嫡男新五郎の許へ嫁にいって戻ってきた光秀の長女の婿である。

 さて怪人物の溝尾内蔵介が言うのには、「目出たき御事を思召されました。では明日からは上様と仰せ奉れるでしょう。さて今日は、夜が短いから急いで本能寺を五つ前に片づけ、それより、二条の御所をお討ちはたしなさったら、ごもっともと思います」と賛成している記述が出てくる。だが二条城へ、信忠が妙覚寺から移ったのは、実にこの6時間後の午前8時である。当時はまだ行っていない。千里眼でないかぎり予測ができるはずはない。だから怪人物であるとしかいいようもない。なにしろ御所に当時いられたのは誠仁親王なのだから、信長を倒したついでに、二条御所におられる皇太子も亡きものにし、光秀を明智帝にしようという魂胆なのであろうか。どっちみち、でたらめもよいところである。

 なにしろ(結果)を先に出しておいて、それに話を結びつけてゆくので、てんでわけが判らない。そのくせ、一方ではリアリズムぶって、「沓掛の在所にて兵糧を使い、馬を休ませてから『味方の者で本能寺へ注進する心いやしい奴が居るかも知れないから、見つけ次第に斬りすてぇ』と天野源右衛門を尖兵隊長にして先行させた。天野は東寺辺の瓜畑の百姓を、もし本能寺に知らせに行かれてはまずいと追いかけまわして、二、三十人も斬りすてた。別に罪や科はないのだが、天野は(武者の心得)として、念のために処分したのだと、筆者は、うけ給って(感心した)」と結んでいる。いかにも本当らしい。だが尖兵として早駆けを言いつけられた者が、徒歩で、てくてく行くとは考えられない。乗馬だろう。すると、(瓜畑の百姓が、彼らより早く本能寺へ注進するのを気遣った)というからには、きっと百姓も馬に乗って畑仕事をしていたのらしい。しかし、そんなばかげたことはなかろう。

 だが、そんな百姓よりも、続いて並んでいた細川番所の方はどうしたのであろうか。江戸期に入って細川は九州へ転封され、豊前小倉から寛永9年10月には、肥後十二郡、豊後三郡に加増移封され、肥後熊本54万石になっていたから、この本の筆者は、天正10年6月2日には、(この一帯が、洛中警護のために当時丹後宮津城主だった細川の飛び地支配になっていて)細川番所というのが並んでいたのを、まるっきり知らなかったのではあるまいか。罪もない百姓を殺すより、番所の者を始末しなければ、大変なことになる筈である。ところが、そんな事は一行も出てこない。だが、出ていないには出ていないわけがある。この天野源右衛門というのが、これまた明智左馬助同様に、江戸後期の張り扇から叩き出されてきた人物である。後述もするが、「あいや暫らく、お待ちあれ、右府様とお見上げ申して、御首級(みしるし)頂戴」と大身の槍をつきだし、信長の肘に傷をつけたところを、「あいや推参なり」と前髪だちの花も恥らう美少年の森蘭丸に邪魔をされて、怪我をして階段からころげ落ちる安田作兵衛という髭もじゃの50男が、この男だそうである。講談では、安田作兵衛が九州の立花家へ奉公した時に、世をはばかって、天野源右衛門と名を変えたことになっているが、川角太閤記では、早手廻しに、まだ本能寺へ行かぬ先から名を改めている。講談を利用しても、結果を先に出している一例である。

 さて昔の江戸時代の辻講釈というのは、連日、読み続けて「さて、あとは明晩のお楽しみ」と客を引っ張っていかなくてはならなかったから、信長も死に蘭丸も死んでしまう本能寺の続編に仕組んだのが、傷はさせたが命は助けておいた安田作兵衛である。これを天野とかえ、立花宗茂の家来にして、次の読物にしてしまった。おかげで現在なら、まだ高校一年か二年の宗茂が、張り扇のおかげで豪傑になり、やがて朝鮮の役になると、「朝鮮碧蹄館、天野源右衛門と十時(じっとき)伝右衛門との一番槍の争い」という講釈になる。正確にいうと、本能寺の変後17年たっているから、50歳の彼だって67歳のわけだが、そこはアンチ・リアリズムで勇ましい。だから講釈で相当にあたったらしく、天野源右衛門覚書という当時の赤本も幕末に出たくらいである。

 その<覚書?>なるものによると、源右衛門を主にする立花宗茂の二千か三千の兵が、「明軍三十万人を斬り殺した」と面白おかしく書いてある。一人が平均百人を斬ったことになるが、テレビや映画のジュラルミンの刀ではあるまいし、そんなバッタバ ッタとやれたものであろうか。なにしろ天保期ぐらいの戦争を知らない連中が、ただ客受けする為に書いたものだから、もし当人が、本当に昔は実在していたにしろ、全然関知しないところであろう。

 さて、こういう具合に、江戸後期の辻講釈の演題の人物が活躍するのが、川角太閤記という本で、これが現在、より良すぎる誤解のもとに、「明智光秀の謀叛」を立証する肝心な証拠史料とされているのである。もちろん、といって、この川角太閤記の筆者が、勝手に「光秀を信長殺し」に仕立て上げてしまったというのではない。なにしろこれは三世紀後の幕末の本である。事件直後から、その方が、まず山崎合戦で光秀を倒した秀吉には都合がよかったろうし、他の勢力家にも、そうした空気がみなぎっていたから、俗に云う「死ぬ者貧乏」で、みな彼のせいにされてしまった形跡はある。

 徳川家の史料とされる当代記にしろ原本信長記の類でも、みな「明智日向守逆心」とか「謀叛」で片付けられてしまっている。その他でも、次々と筆者が変わって転写されているうちに、世評と同化して、そう なってしまったのか、どうかわからないが、中には、光秀が桂川でなく、もう出発に あたって、亀山城で、その独立宣言をしたというように、老人雑話や蓮成院(れんじょういん)記録といったものには堂々と書かれて ある。ただし、まるっきり同じ事では曲がないから、「斎藤利三は、時期尚早と反対したが、秀満が、四頭だての快速馬車だって、一旦口にしてしまった事には追いつけやしないから、口外したからには、やるべしと主張した。そこで光秀も所信を発表した」とか、「光秀は29日に亀山へ登ると、初め秀満に打ち明けたが反対され、利三らの重臣にきいてみたが、これにも反対された。そこで光秀は躊躇したが、6月1日になって、さらに秀満に語ったところ『私以外の者達にも、既に仰せられたとあっては、いつかは洩れて信長公のお耳に入るかもしれませぬ。もはやこうなっては事をあげるしかあ りますまい』と、強硬になって旗上げさせてしまった」と(賽は投げられた)というか、(ルビコン河は渡った)式の話を作っている。

 しかし、こうした群書に対して、川角太閤記は、まっこうからそれを否定している。だからその反撥によって信頼もされている。その部分を引用すると、「いま前田肥前守利長殿の許で武者奉行している山崎長門守や、福島正則に仕えた事のある林亀之助は共に旧明智の遺臣で、この二人の話はよく聞いています。何しろ山崎合戦にも加わった者達の云う事ですから、間違いなどあろう筈がありません。二人が口を揃えて言いますには、光秀は決して重臣の五人衆などには何も話さなかったそうです」。初めに信長記の五人に起請を書かせ、人質をとったという話を引用してから、それを、この手法で否定している。つまり、(亀山城を出発する前に光秀が、重臣に胸中を洩らしたような事実は、旧光秀の家臣の山崎長門守や林亀之助に聞き出したがない。そんな事実誤認の他書と、この川角太閤記を同一に見られては困る)と強調している。逆手をとっての説明でもある。

 ということは裏返せば、このルポルタージュは、当時この6月2日の暁の出撃に実地に参加した山崎や林から直接に取材したもので間違いない、という言外の証明であろう。だが、勿論これは虚構である。かの二・二六事件にまきこまれた近衛連隊の兵士が、そのまま満州へ派遣され、あらかた消されてしまったように、本能寺襲撃部隊も、みな「明智残党狩り」の名目で処分されている。山崎合戦後、坂本城をまかされた丹羽長秀の家来長束正家は、城代として、その遺臣狩りの大虐殺に功をたてた。そのため長秀の許から独立し、近江水口の5万石にまで出世している。丹波亀山衆の方も、秀吉の養子であった於次丸が城主となってから、前田法印父子が、やはり明智の残党狩りをやり、羽柴於次丸の怪死後、法印が先に、次いで伜前田利勝が御褒美に城主になっている。そして前田も長束と同じ手柄だからというのか、共に同高の5万石ずつになっている。こうした事情であるから、山崎や林は、かっては明智の家来だったかもしれないが、天正10年6月においては、後で述べる木村一味の与党だったか、又はユダと目される重臣についていたか。それとも前に退身していて、この桂川越えに従軍などしているわけはないのである。そうでもなければ、二人とも無事なわけはない。山崎が命を長らえて前田へ仕えたり、林が関白秀次や福島正則に奉公できたのは、もし実在した者なら、それなりのわけがあったのだ。なにしろ、山崎合戦の後、「故信長様を討ち奉りし悪逆無道の輩は、たとえ一人なりとも許す事あるまじく」 と秀吉が天下にふれして、徹底的に余類を草の根をわけて探索させているのに、のうのうと、秀吉とは親しい前田や、秀吉の甥の許へ、本能寺を攻めた残党が、大きな顔をして仕官していたとは、とても考えられもしない。

 さて、この川角太閤記という本は「光秀が、家臣達と相談したという他書の合議説」を否定して、彼が一人だけで考えて、この謀叛をしたという特異性において、これは貴重に考えられ、「こういう天下の一大事をやたら口外するものではないから、これが本当かもしれん」と信用されもしたし、また、そういう人は、この本が元和年間に出たものと疑いもしないから、非常に高く評価されている。「偽書」であるなどと言い出したのは、私が初めてであろう。とはいうものの、他の本とて、皆同様に、「信長殺しは、明智光秀」という点においては、みな揃っている。いくら探してみても、「そうでない」というのは一つもない。だから瀬山陽の日本外史の中でも、「濠の深さは、どれだけあるか。それッ、敵は本能寺にあり」と作詞されてしまい、これが幕末になると、まるで日本版の「ラ ・マルセーエーズ」の如くに流行し、浮浪の徒の口にひろまり「革命歌」として口ずさまれた時代から、「敵本主義」という言葉も生れだした。そして、光秀自身も信長を倒して、たとえ三日にしろ「革命政権」を樹立した大立者として、俄かにクローズアップされてしまった。

 もう、ここまで既成概念ができ上がったものに挑戦しようもない程である。丹念に調べ上げ、関係書を漁ってみたところ、この380余年間において、「信長殺しの明智光秀」または「何故、光秀は信長に叛いたのか」という本は、野間文芸賞を受けた中山義秀の咲庵まで入れると、400に近いという。もしこれを、全て光秀の伝記とみるならば、この数量はナポレオンに匹敵する程である。故亀井勝一郎先生も、その亡くなられる前に、本能寺事件の黒幕をお書きになられた。だが、それも、光秀が信長を殺した犯人という基盤に於いて、それを使嗾させたものが、信長によって焼き討ちされた延暦寺や高野山の与党の陰謀ではないかといった発想によるものであって、根本的に、はたして光秀がどうであったかまでは筆は進んでいなかった。なにしろ光秀関係の刊行物が、全部揃えられるわけでもないし、みな通読できもしないが、大別すると、江戸期のものは、頭から罪人あつかいで、これが大正期の自然主義時代以降は変化して、光秀の心理を扱った、やや同情的な傾向のものが多いようである。しかし、何と云おうとも、「<真実>とは虚しいものなのか」と考えざるをえない。

 参考までに、後の必要もあるから川角太閤記の「光秀、連歌を催すこと」以下の原文を、そのままで引用する。今日の常識をもって、よく判読すれば、校注している歴史家が説くような、元和年間に書かれたような信頼性のあるものでない。これはあくまでも江戸後期の木製バレン刷りの読本印刷ブームの頃に、当時の大衆作家によってデフォルメされ、さも尤もらしく書かれただけのものである。つまり歴史家が尊重するような文献ではなく、当時の黄表紙ものに比べて硬派出版物だったに過ぎぬことも判って頂けると思う。




(私論.私見)