3章、森蘭丸は美少年か |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1188信長殺し光秀ではない7 」、「1189信長殺し、光秀ではない8 」、「1190信長殺し、光秀ではない9 」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
森蘭丸は美少年か |
青い実 |
「入ってもいいでしょうか」。ノックもしたが、声も一緒にかけてきた。ここのルーム・ボーイである。朝の食事をワゴンで運んできたのらしい。仏桑華の
紅い花を一つ、いつも糊のきいた白い制服の胸に挟んでいるガルソウン(給仕)である。おそらく、これが、この年頃の男の子にとって、他に優位を誇るたった一つのお洒落らしく、欠かしたことはない。勿論ホテルの裏庭には、この仏桑華がバラ畑みたいに一年中咲き誇っているのだが、そんなことは私も口にはしていない。「クーロン(九竜)、カムライン(錦田)、パパイヤ」。誉めてもらいたいように、黄色い果物を、まず私に突き出すようにして見せた。そう言えば、最初に飲んだ朝の果汁もパパイヤだった。この辺りといっても、東ラマ海
峡の先のことだが、パパイヤは、Deep Bayに面したカムラインにしかない。傷みやすい果物だし、熟しきってからもぐのだから、香港でも売ってはいない。だから、私にリザーブされた彼は、相当に辛苦して、この南国の果物を見つけてきたのだろう。USドル3ドルをチップにやった。こっちの貨幣換算では20ドルに近い。彼は嬉しそうに白い糸切り歯を見せた。 マカオのプリゾウレ(刑務所)は、ポリーレア(警官)と同じ食い物で内部の施設もよいから、入りたがる中国人の難民が多くて困るそうだが、私が日々通勤している ビブリオテーカ(図書館)は、裸の蛍光燈が二本ずつ天井へ走っているきりで、ろくに閲覧者もないひんやりした建物である。それに暴動の時に割られた硝子がまだ入らず、ボール紙ばりである。そこで羊皮紙に書いたものや、まるで図案みたいな華文字の羅列に、すっかりへこたれている。昔好きだったパパイヤでも食べないことには、私はとても元気も出なかった。黒いまんまるな艶のある種をスプーンで掬いとりながら、私は自分がこの給仕と同じ年頃の日を想いだした。ヨコハマの山下桟橋から日本郵船の船でサイパンへ行き、ポナペから赤道を越え、モンキーバナナと呼ぶ指くらいの細いのや、このパパイヤを何日も食べて暮していた時分のことである。何度目かの自殺に躓いて、それで自分の整理がつかず、まるで躰を放り出すように、そんな、身投げするようなつもりで私は海を渡って行った。それなのに、リーフ(礁海)の海はまるで虹のように美しかった。食べずに放っておかれる魚達も、手にしてみるだけなら黄と黒のだんだらや、透明に赤い線を走らせていて、うすっぺらな肢体から骨格を透かせていた。とても綺麗だったと、そんなことを久しぶりに考えだしていた。「ウップ」と呼ばれていた青い椰子の実の中の、まるで精液にも似た香のする果汁の味も、舌こけの何処かに、雫が残っているような、そんな気がしてきた。だから、まるでゼラチンに丸く包まれたような、ぶよぶよ歯にあたるパパイヤの種に透明な外殻を、吸うようにして舐めるように舌の先で押してみた。すると私は、イヴォンヌの柔らかな唇を、憶い出すともなく感じだしていた。あの頃、私達は語り合っても、簡単な言葉しか通じないもどかしさに、いつも小鳥のよう に嘴だけをこすりつけあっていた。といって、唇と唇を触れ、歯と歯をこするような 口づけではなかった。イヴォンヌが細く尖った舌の先に、このパパイヤのまんまるい 種を乗せて出すのを、私も舌を出してそっと受け取り、また此方から出すのを、彼女が落さないようにして吸い取るのである。自分達では、可愛い紅雀にでもなったつもりでやっていたのだろう。だが振返って想いだしてみると、長い舌をだらりと出して、腹這いになっての睦み合いなど、喘ぐ 夏の日の犬の戯れだったかもしれない。だが、タコ椰子の葉蔭で緑色に顔を翳らせながら、私は、それを愛だと想った。そして、二人の唇をゆききして、温かくなった円形のパパイヤの種を、これが真実なんだ。と、それを真珠の粒のようにさえ思いつめ もした。 蒼い空に、白い雲が鎖のように繋がって漂っていた日、16歳のイヴォンヌは、嫁 にいくのだと、灰色のペンキ塗りの船に乗せられて行ってしまった。が、汀の水中に 根を張ったマングローブ樹の濃緑の葉蔭で、イヴォンヌはサンパンに移る前に駆け寄ってきて、侘んでいる私に、最後の愛をくれた。ずうっと口の中に入れていたのか、そのパパイヤの種は、巴丹杏にも似たイヴォンヌの口臭がした。そして、いつもは舌の先しか触れ合わせていなかったのに、その時は急いでいたし周章ててもいた。だから私達の唇は重なりあった。いや、私の口の中へ彼女の唇が尖ったようにつきささっ ていた。柔らかい。まるで絹のようだと、そんなことも感じた。サンパンは直線に皓い水脈(みお)を、まるでロープのように曳いていった。灰色の船に近寄ってサンパ ンが止まると、その純白のロープも波間にのまれて泡沫のように消えた。やがてサンパンは、また翌日帰ってきた。だが、イヴォンヌは、もう戻ってこなかった。灰色の船は陽を受けて紫色に、虹のような海を斜めに消え去って行った。私の舌にイヴォンヌが置いていった愛の形見は、融けてしまったのか、のみこんでしまったのか。いくら搾るように下顎を尖らせてみても、もう何処にもなかった。私はたしかに哭いていた。そして、その時から、私は愛を喪ってしまったらしい。6歳の日に、光秀の舞台をみて、自分を喪ってしまった私が、赤道の彼方で、また愛 を見失ってしまったのだ。私はその後、2年ほどして日本へ戻ってきてからも、パパイヤの枯葉色をした果肉の中に、私の真実が、そっと、まるまって秘められてあるような、そんな気がしてならなかった。だから、千疋屋などで見かけると、矢も楯もた まらずに求めてきた。だが熟しきったのを樹からもいだ実と、青い実を、むろで赤く成熟させたのとは、果肉の味も、まるっきり違っていた。それに種を包んでいる円い、ぷよぷよした透明体の感触が違っていた。青いままでもがれて船で運ばれてきたパパイヤは外殻だけは色づいて黄ばんでいても、それは病葉(わくらば)のように斑点も残 っていたし、種は、まだ成熟しきっていないまま、まるで剔出された魚の眼球のよう に冷たく、そして硬かった。だから私は、そんなパパイヤの種に唇をふれるたび、愛だけでなく、真実までが、イヴォンヌの柔らかな唇と一緒に、虹のように紅く青く白く光っていたリーフ(環礁)の海から、うす紫色の船に乗せられ、遠くへ去って行ってしまった。と、そんな気が した。諦めもしていた。 そこで、やるせないままに、真実を、パパイヤの実ではなく、過去という具象の中で、 せめてなんなりとも掴みだしたいと、このマカオまで来ているのである。それなのに、 まさか、ここで樹からもぎたての実にありつけるとは、話にはきいて、給仕に頼んではおいたが、とてもあてにもしてなかった。だから、パパイヤの果汁を、ジュースでもってこられた時も、それと気付かなかったぐらいである。いや、それは嘘かもしれない。パパイヤが欲しくて言いつけたことは真実だが、こうして、この透明な種を瞶(みつ)め、そして舌の上へ乗せるまで、唇と歯で押しつぶした瞬間までは、私は、イヴォンヌの事など憶い出してはいない。今になって、やっと、あの日の白い綿雲がつながった蒼空や、透明の七色の浅い礁 海を瞼へ蘇らせたのだ。だから、こんなに今になって、イヴォンヌの事を考えているのに、亜麻色の髪の毛は記憶に残っていたが、どうしても他のところは、何も浮かんではこない。まるで正月の「福合せ」のおかめの顔の台紙みたいに、目も鼻も、唇の形さえも、何もついていない。のっぺらぼうな追憶だ。かつて、「愛」だと想い詰め、今でも「女を愛するのは、あの時で終わってしまったんだ」と自分で決めているのに、何もかも憶い出せないというのは、そんなに、愛とは虚しいものなのだろうか。そして「真実」とも考えた舌と舌との触れ合いも、こんな儚いものなのだろうか。いくらイヴォンヌを偲ぼうとしても、幻影さえも浮かび出てこないもどかしさに、その焦燥に、私はあせってしまった。匙をおいたまま目を瞑るしかなかった。 すると、 「‥‥ナウン メリヨール(おいしくないですか?)」。心配そうに声をかけられた。眼を開けて振返ると、スペアに持ってきたらしい茶褐色に近い成実したパパイヤを、給仕は捧げるようにして私にみせようとしていた。USドルのチップを受け取ったばかりなので、思いつめた顔をしていた。眼が、きっとすわっていた。 (こりゃぁ、蘭丸だ)と、イヴォンヌの貌を、なんとかして呼び起こそうと瞼をつりあげていた私は、ライト・グリンのタコ椰子の葉蔭の彼女のかわりに、絵本で見たことのある小姓姿の森蘭丸を。白晢な給仕の真剣な表情に視てしまった。あの日のイヴ ォンヌをのんでいった蒼い海原が、朱い炎に変化した。白い綿雲も、濛々と板戸の隙 から噴き出してくる白煙になっていた。「そうなんだ。今の私にはもうイヴォンヌどころではない。唯あるのは本能寺だけな んだ」とは想う。 だがである。なにしろ、ここの図書館での日々は、なまやさしいも のではない。日本語と、スペイン語の辞書は、南米渡航者もあるから刊行されているが、ポルトガル語の字引なんてものはありゃあしない。だから判らない字句にあたると、それをスペイン語に直して、また日本語にするという二段構えなので、心は焦っても仕事は思うように進まない。ちょっと誰かに聞けば、すぐ判りそうに想うことでも、なにしろ政庁内の図書館なので、上野や日比谷の図書館みたいなことはない。時たま跫音がして振返っても、みな、すうっと通り抜ける ように立ち去ってしまって、声をかける暇もない。それに、どれもこれも華文字に作ってあるから、まるでサンスクリット語か、梵字でも眺めているような情けない心地にさせられる。堪え性のない私は、当初の日は2時間でくたくたになった。眼鏡の鼻のところが痛くなって眼の裏側が刺すように辛くなった。ずきずき疼き通しだった。マカオには、ホテルが九つある。だが、エストリル・ホテルあたりのように、階下がカジノになって賭博場になっているところは、客も多いらしいが、私の泊っている ホテルなどは、こぢんまりとして客も少ない。だから私は泊った次の日から、朝食だけは部屋に運ばせているのだが、さすがに今朝は、スープは啜ったが、オートミルもムニエル・フィッシュも、ベーコン・エッグさえ手をつける気になれない。それなのに給仕は、ゴーダとクラフトのチーズの塊りをもってきて、ひん曲がったような恰好をした薄刃の包丁で切って、喰わせようとする。 「ナウン・ケーロ・マイス・サーダ(いらないんだ、何にもいらん)」。ナフキンをまるめてテーブルにつき出しても、絵本の蘭丸を連想させる給仕は、額に前髪を垂らしながら 「ヴオ・セジヤ・アルモーソウ(本当に、朝食はもうよろしんですか)」と念を押した。だから私は、パパイヤの皿だけを、「アインダ・ナウン(これはまだだ)」と指さし、「ポール・アリイ(あっちへ)」とサイド・テーブルの方へ運ばせた。給仕が皿を下げて出てゆくと、私は一人になった。そこで「アラジンの魔法のラン プ」のように、半分に切ったパパイヤを飾ったまま、なんとかして、イヴォンヌを憶 い出してみようと、又そんな気になってしまって、意地をはるみたいに、頬杖をつき ながら瞑想した。誰もいないのだから構やあしないと「イヴォンヌ」と名も呼んでみた。繰返して、二度も三度も声を立てた。だが徒労だった。いくら呼んだところで、パパイヤから紫色の煙が出て魔法使いが出てくるわけもなかったし、まして、イヴォンヌの幻が浮き出る筈もなかった。ただ瞼にちらついてくるのは、相変わらず絵本の中の森蘭丸の白い顔ばかりだった。さすがに私も自分で腹を立てた。愛を誓った女の貌のイメージを邪魔する蘭丸の実像は、はたして、あの絵本にあるようなのが真実なのか。と、つい、むしゃくしゃして愚かしくも、そんな事を考えだした。癪にさわってと、言ってしまえば、それまで だが、何かに突き掛かってゆかなければ、なんとも落着けない自分の感情を持て余したのだ。 |
利用 |
(あの森蘭丸が華やかな脚光を浴びた本能寺の絵画や、パノラマは、一体いつ頃から弘まったのだろうか)と、それがまず気になった。図書館へ出かけて行っても、こんな混乱した頭では、仕事になるまいと、そちらから調べにかかった。だが、あいにく、私も絵本までは、資料としてマカオへ持ってきていない。それでも、仕方がないので重い思いで、両手に提げてきたアルミトランクを拡げ、なにかな いかと漁ってみた。パノラマの方は、当時、本郷の団子坂にあった菊人形。その頃は「活人形(いきにんぎょう)」の文字を使っているが、その中で、「忠臣蔵の討入」とこの「本能寺」 が呼物になっていたと、これは、明治新聞全集に入っていた。さて絵であるが、これは絵本よりも早く錦絵が出ていた。錦絵というのは江戸時代のものと思っていたら、これも明治29年本所から極彩四色刷の三枚続きで刊行されていた。どうも蘭丸や本能寺は、明治に入っての産物らしい。では、なぜ、こんな頃になってからブームになり、その後、大正、昭和となって今も続いているのかと思ったら、終戦時までは軍部推薦のものだ、ということが判ってきた。 なにしろ、明治軍部は京城戦争のあと、思い切ってというか、おそるおそる日清戦争を始めた。ところが思ったよりも案ずるより産むが易しで買ってしまった。だが後がいけなかった。三国干渉を受けた。ロシアと衝突する立場に立たされた。そこで予想を、当時はまだ電子計算機はなかったから、算盤でやった。勿論しなくても判っていたろうが、国力の差があまりにも大きすぎた。小国が大国に勝つ方法が真剣に研究された。寡をもって大にあたる戦術を編み出すために、陸軍参謀本部は躍起になった。資料とすべき参考文献を漁った。そこで、ようやく見つけ、陸軍大学が採用したのが、明治14年刊「史籍集覧」第19である。つまり、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」というが、織田信長の(桶狭間奇襲 作戦)が採り上げられた。勿論これは、解明する意志さえあれば「あんな非常識な出鱈目はない」と、すぐにも解きほぐしてゆけたろうが、そんな不都合なことはしなかった。他には毛利元就の厳島合戦ぐらいで、これといって別に何もなかったせいらしい。そして、大正、昭和と軍の指導方針は、これを踏襲した。そして、軍部の都合において、「人間、僅か五十年、化転のうちに比ぶれば、あに定めなき人の世や」という「小敦盛」の謡曲も有名になったが、つまりは、 「死のうは一定。それ進め」とばかり、私たち国民はガダルガナルやインパールの桶狭間へ追い立てられていった。 もちろん奇勝する予定だった。だが信長みたいに義元の首級がとれなかった。なにしろルーズベルトもチャーチルも、本陣を、そこまで進めてこなかったせいだ。「戦局苛烈」という言葉が使われ出した。「玉砕精神」が国民精神総動員になった。青年が、ナパーム弾や火焔放射器のホースで、みんな真黒に焼かれて死んで行った。補充がつかなくなった。「産めよ増やせよ、地に満てよ」と、エホバの言葉まで蘇って出てきた。人間の増産を励行させるため、セックスを遊休設備として腰にブラブラさせておかないようにし、国策として「結婚奨励」が強行された。顔の美醜は問わず、第二の健全な少国民が産出できる母体こそ「愛国の花嫁」とされた。だから、ずんぐりした豚のような女がモンペをはいて、みな勇んで鼻をブウブウならしながら、戦時特別婚礼用配給五合の酒に酔いしれて挙式したものだ。だが、マカオの葡萄酒だって、まあ呑めるものは、少なくとも20年もの、30年ものである。だから人間も、インスタントに今日作らせても、それはまだ赤ん坊で、明日立って歩けて間に合うというものではない。しようがないから軍部はそれまでのつなぎに、青い果実のような少年を使いだした。しかし、それには模範的なサンプルを必要とした。Loyaltyつまり「忠義」というモラルの為に、その生命を提供させる雛型である。そうだった。当時は、これを「尽忠報国」というキャッチ・フレーズにしていた。「少年航空兵」、「少年戦車兵」ベタベタとポスターが、教務室の入り口に貼られていた。朝から晩までスフのゲートルを巻いて、痺れたような、むくんだ脚を組み合せながら、少年達は講堂で、よく森蘭丸の話をきかされたものだ。それでなければ、飯盛山で死んだという白虎隊のエピソードだった。そして、志願して、護国の英雄になれと、必ず終りに結びをつけられたものだ。「若い血汐の予科練」のレコードをもって、海軍からも、募集官が講師を伴って講演に廻っていた。「歌声喫茶」の元祖みたいに、声を揃えて「俺とお前は同期の桜」なんて唱わされると、酩酊したようなエクスタシーに酔わされて、一人で志願すればよいのに、仲間を誘ってしまったものだ。あれは 軍歌とか流行歌というより、今でいうコマーシャル・ソングだった。画壇報国会か翼賛会の日本画家の掛絵も、持って廻られて講演の背景画として掲示された。白虎隊は、山の上から小手をかざして若松城の焔を眺める二、三人の立ち姿に、既に屠腹してうつぶさった者。今や互いに刺し違えようとする組み合わせに決まっていた。だから、悲壮感はあるが、敢闘精神には遠かった。 軍部だって葬儀屋ではない。なにも死ぬことばかりを歓迎したのではなかった。散華させる前に、働かせるだけ、こき使わねば損だと考えたのだろう。そこで、当時の少年兵募集用の専門ピクチャーは、何といっても、イラストは蘭丸だった。まるで宝塚の男装の麗人みたいな小姓が、白い足袋を覗かせて戦っている絵は、少年期の誰もが抱いているSapphismを官能的に痺れさしたし、同性愛とはゆかないまでも、それは少年にヒロイックな幻想を与えたのだろう。だから、その情念が、いつとはなしに固定観念となってしまった。美しい森蘭丸の姿が瞼に焼き付いてしまったかわりに、本能寺の双方の激戦という場景も、真実として脳裡に刻みこまれてしまったものらしい。いくら私が、本能寺では絶対に戦闘はしていないと言ったところで、それは美少年蘭丸のイメージの前では、虚しく空廻りを してしまうに違いないだろう。とさえ想えてくる。つまり、そうして錦絵や、絵本や、少年兵募集用の掛図の中の本能寺が、真実と思い込まされている限りは、森蘭丸は島原で死んだ天草四郎時貞と並んで、日本美少年史の花形であり、攻めてきたのは、どうしても仇役で、悪逆無道な明智光秀、ということにされてしまう。「死せし児は眉目(みめ)よかりき」ともいうが、蘭丸というのは、そんなに美しい少年だったのであろうか。私などが調べたところでは、この時代の美童としては、「傾国」とか「傾城」を文字どおりに具象したのは「万見仙千代」の方である。「仙千代さまには及びもないが、わしが惚れとる若衆のきみに、花のひと枝ささげたや」と慶長時代まで哀切な唄が残っていた彼こそあげたいが、何しろ、これまで、誰一人として、仙千代を美少年として伝えた者もない。また書かかれたものもない。 さて、絵の中の蘭丸は大体15、6歳なのだが、本当は、いくつぐらいで、どんなふうだったのだろう、と私は気になってきた。なにしろ偶像化されてしまっている蘭丸を、まず裸に剥いてしまわないことには、本能寺の虚偽は破れもしない。というのは、絵巻の中では、信長よりも、何といっても彼の方が立て役者にされているからである。絵によっては、小姓組の敢闘だけが画面に横溢して、信長のごときは右隅の濛々たる白煙の中から顔だけをみせ、完全なバイ・プレイヤーになり下がっている。 さて、この時点、森蘭丸の身分はどのくらいかというと、これは信長公記によ れば、「天正10年3月29日、御知行割りを仰せ出され次第」とあって、「甲斐国を河尻与兵衛へ下さる。駿河国を家康卿へ」という箇条書きの末文に、「岩村を団平八へ、今度粉骨につきて、下さる。金山、よなだ島を森乱へ下さる。これは勝蔵も忝(かたじけな)き次第なり」とある。岩村とは、美濃国岩村城で、それまで河尻与兵衛の城で、これは八切武者シリーズの「ああ夫婦武者」の主人公の団平八が貰ったのである。 さて森蘭丸という名は、美少年として扱われる時だけの専用の愛情ネームとしての創作の当て字らしく、史書では「森乱丸長貞」である。天正10年の武田攻めの総司令官として、織田信長の嫡男信忠が進発した時、その先遣隊として団平八と共に戦陣を勤めた乱丸の兄の森勝蔵が、その手柄によって、武田勝頼の旧領の中から、信濃の高井、水内、更科、埴科の四郡を貰い、「森武蔵守長可 (ながよし)」として、川中島の海津城主として赴任のあと、それまでの居城であった「美濃金山五万石」と、「琵琶湖弁天浦よなだ島の一島」を拝領し、少なくとも5万5千石から6万石ぐらいの殿様だったのが、森乱丸のまことの実像である。兄は当時「鬼武蔵」と呼ばれ、容貌魁偉と云われている。彼は、その弟なのである。「何々丸」というと「牛若丸」の、やはり絵本的教養から、すぐ稚児や小姓を連想するが「大蛇丸(おろちまる)」といった四十男の泥棒だって実在していた。 さて、美濃の金山城というのは、故高柳光寿氏の<本能寺の変 山崎の戦>などでは兼山城の名称で現れてくるから、ちょっと気付かないが、ここは、「刀工関の孫六」で名高い関から入って、源氏野、八幡に到るまでの地域で、鋳掛屋部落といったの地名も、今日現存しているように、ここは当時、東海地方唯一の金山で、鉄も産出していたのである。つまり、金山城というのは、これは普通の城ではなく、毛利家記に出てくるところの、「石見銀山は、銀、金、鉄をも、あまた産し、本城常光が当家に帰参せしより、山吹城にて採掘一切を司り、その奉行職を励む」といった山吹城にも当る、鋼鉄監督所なのだ。だから単なる領地を貰っての城主ではない。 そもそも、信長が、尾張から出て、「天下布武」の基を開けたのは、美濃を占領し、ここの金山を掌握して、その採掘によって初めて実力をつけられたからである。だから森乱丸の兄の勝蔵にしたところが、団平八と競争しあって、平八は、僅か美濃岩村3万石にとり立てられたのに対し、その7倍の20万石に補せられたのも、もともと、この金山奉行の実績を買われたからに他ならない。それならば、その後釜の金山奉行という鉱山監督局長の重責を、15、6の白面の少年に、いくら勝蔵の弟だからといって引き継ぎさせる筈がない。と、私は考えたくなる。 そして、もし伝承されるように森乱丸が、当時それ位の年恰好のものであるなら、弟の力丸や坊丸は何歳だというのだろうか。上の乱丸が15、6なら弟共は、それより年弱の筈である。後年赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸へ討入りしたとき、13歳の茶坊主が、手当たり次第に物を擲げて抵抗し、もて余した浪士に斬殺されたという事件があったから、この本能寺においても、同じ様に考えられがちだが、吉良邸の茶坊主は、そこに住み込んでいたのだし、力丸や坊丸は安土から馬に乗って、早駆けして来ているのだ、という違いが現実にある。といって、まさか「はいしい、はいしい、歩めよ、子馬」と、力丸や坊丸は、小さいのに乗ってきたのではあるまい。といって10や12、3の子供が、普通の馬に乗ったのでは下まで脚が届くまい。といって、竹馬とも考えられないから、では誰かに背負われ、おんぶでも、してきたのだろうか。 しかし、信長公記や森家実録によれば「坊丸は長隆」、「力丸は長氏」と、既に元服を済ませているらしく名乗りをつけている。すると下の弟の力丸あたりでも14、5歳という勘定になる。 さて、この2年後の天正12年の小牧長久手合戦で、どうも故意に秀吉に棄て殺しにされたのではないかと思うが、森武蔵守長可が戦死し、末弟の生き残りの千丸が跡目を継ぐ。森忠政である。これは六男にあたっていて、生れた時は西暦1571年と記録に残っている。長男の長可の方は、これは1558年生れである。だから次男の乱丸以下は、この間の出生ということになる。ところがである。彼ら兄弟の父の三左衛門が、近江宇佐山の志賀城で討死したのは多聞院日記では、元亀元年9月23日、つまり1570年のこととなっている。すると、これは数学上の問題であるが、1570年から1558年を控除した12 という数字を6人兄弟の6で割れば、2となる。これは最後が6男だから、12年間における森三左の生産能力の平均値である。勿論オール男というわけもないから、この間に何人かの女子も、やはり産れているだろ う。すると年子も入っていることになる。そこで兄弟の間隔は1年又は2年となる。兄の勝蔵長可が、本能寺の変の当時28歳だから、「森乱丸は27歳か26歳」となる。これなら5、6万石の鉱山奉行でも訝しくない。 |
虚像 |
乱丸はなぜ、信長公記が3百年ぶりに陽の目をみて、かび臭い秘密写本から活字本になり、やがて明治の錦絵になり、人々に親しまれるようになった時、いきなり10歳も若返ったか。と私は不思議な気がした。だが、これは明治から大正へというジェネレーションが、「オレの稚児さん、さわらば触れ、腰の朱鞘は伊達じゃない」などという稚児趣味のはやったホモの時代で、陰惨な「西南の役」でさえも「馬上ゆたかに美少年」と唄われた「時代」のせいらしい。そして「武士道鼓吹」の時代になると、白虎隊と共に、青少年の「理想の典型」に、前髪だちの少年像のままで普及されてしまったのだろう。もちろん信長の側近の小姓でも、当時の言葉で「自愛のもの」と呼ばれる者も居るにはいた。当代記巻第2の谷河藤五郎のような者である。だが森兄弟は、森三左の遺児である。なにも器量で召し抱えられゲイで身を助けていたのではない。そもそも小姓組、近習組というのは、信長が、諸国の軍団へ派遣する為に養成していた、織田幼年学校の生徒である。年長の者は、士官学校から陸軍大学までの個人授業を受けていたのである。というのも、電信電話のなかった時代だから、一々早馬をとばせて指揮を仰ぎに来ておられては、信長としては勝機を逸する恐れがある。そこで、(その場に於いて、自分と同じような判断を下せるもの)をと、これを養成したのであって、つまりは幹部候補生である。 この翌年の天正11年の賎ヶ谷合戦で、信長の真似をして、荒し子小姓を飼育していた秀吉が、浮足立った敵が鎧も取って、身軽になって潰走しかけるや、「それッ」 と小姓共を訓練用に追いかけさせておき、世間には「織田信秀の小豆坂七本槍」を借用し、9人なのに「賎ヶ谷七本槍」と宣伝した例もある。芝居や映画で殿様の佩刀を捧げているのは、あれは本当の小姓の姿ではない。「蘭丸美少年説」の影響を受けたせいである。そこで「可愛子ちゃん」を探しても、なかなかいないから、化粧した少女を代用に出演させたりしているだけである。なにしろ、森乱丸が、明治大正期の「お稚児さんムード」で人気者にされてしまったから、信長の近習筆頭であった堀久太郎秀政も、彼が当時、信長のお気に入りだったというだけで、さぞかし美少年の小姓上りだろうと今では推定されてしまっている。 ところが、戦国時代の延長である天正10年頃は、美醜の観点が泰平期の徳川時代とは違う。なにしろ実用本意で通っていた頃である。「猛々(たけだけ)しき好き顔にて」と、武者物語にもあるように、この時代の好男子とは、「戦場へ出たら、敵がドキッと肝をつぶす様な、威嚇的効果のある顔こそ」よしとされていたのである。だから堀久太郎のことも、「お化きゅう武者」として詳細に書いておいたが、当時は、「三つ目小僧」の異名があって、天正5年に大和信貴城に立て篭って、松永久秀、久通父子が信長に背いたとき、久太郎が先陣をつとめて、まっ先に城門へ駆け向かったところ、松永勢の兵達は、「年こそ違え、今日と同じ日に吾等は奈良の大仏を焼き払った。だから降魔の利剣をふるって、こんな牛頭天王のような化け物が攻め寄せたのであろう」と、久太郎の異相に、びっくり仰天。みな城を捨て退散してしまったから、やむなく松永久秀父子は割腹の余儀なきにいたったという話が伝わっている。 多聞院日記にも、こういう話がある。「信長の小姓あがりの近習で矢部善七郎というのが来たから、おっかないから銭を出 した。それで済んだものと思っていたら、また明智光秀が来るという。なにしろ8月22日に、矢部善七郎が奈良の法隆寺へ来たというので奈良中は大騒ぎをしたものだが、自分は8月24日に銭百疋を贈って、よくしてくれるように頼んだばかりなのに、また違った者が来るとは、なんたる恐ろしいことであろうか。まるでエンマ大王が来たようなものだと、奈良の者は戦々兢々としている」と奈良興福寺内多聞院の住持の英俊が、その日記に書いているくらいだから、小姓出身の善七郎も決して見てくれの好い顔はしてなかったようだ。つまり森乱丸にしろ、当時の小姓は決して美少年ではなく、それより豪傑型であったようだ。当代記によると「柴田勝家が敵に奪われた旗を、その小姓の水野次郎右衛門が奪い返し、勝家に手傷をおわせた相手を難なく倒してしまった」と、元亀2年5月10日の条にある。私どもは「鬼柴田」と呼んで「柴田は強い」という概念があるが、実際は彼よりも遥かに勇猛な小姓が側にいたのだ。つまり乱丸兄弟だって容色より腕力で奉公していたのであろう。今日でいうボディーガードである。 さて、「湯浅甚介、小倉松寿の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中へ交じり入り、本能寺へ駆け込みにて討死」と信長公記の小姓名の羅列の最後に、こういう記載がある。だが、いかに解釈すべきなのか。「一万三千に包囲されている所へ、どうして二名が潜って入っていけたか。これはデフォルメであって、小姓組の悲壮さや健気さを強調するための造り事である」と、決めつけてしまえば、これは簡単である。だが、「もし事実かもしれぬ」と認めれば、こんなおかしな話があってよいものだろうか。当時、安土には各邸地を賜って、諸大名の安土屋敷があった。しかし京にも各大名の留守屋敷はあったのである。明智光秀の二条屋敷も、元亀元年の姉川合戦の後、信長主従のおもだった者を宿泊させているくらい宏壮なものであったと、毛利家文書には7月4日の条にある。つまり、秀吉時代の伏見城程には、各大名屋敷はぎっしり並んではいなかったろうが、それでも細川屋敷、筒井屋敷を初め、すくなくても50や60はあった筈である。家がある。ということは、そこに人間がいたということを意味する。留守(るうず) と呼ばれた者が、どの屋敷にも最低四、五十人はいた筈である。万一の際には、そこの屋敷に立て篭もって防戦し、あくまでも留って守るにたるだけの武者が、何処も待機していた。京の一条から九条までに散在していた大名屋敷を最低40とみて、平均五十名の留守武者がいたとすれば、ここに二千名の精鋭部隊ができ上がる勘定ではなかろうか。 そして、この時点。天正10年6月2日午前7時半に、本能寺が炎上する迄は、まちがいなく「織田信長は天下人」つまり国家主権者だったのである。そして、各大名屋敷の計二千の留守武者は信長の家来の又家来、つまり陪臣ではあるが、やはり命令系統には入っていたはずである。何故彼らは出動しなかったか?という疑問がどうしてもわいてくる。いくら当時の小姓は勇猛であったとしても、僅か二名の者が包囲中の本能寺へ入っていけたということは、なにも寄手が斬りこんで、それで辛うじて境内へ駆け込めたというのではない。もし戦って侵入しようとしたものなら、本能寺の外で討死とみるべきだろう。そうではなくて、木戸口から中へ入れたのは、「信長様の小姓です」、「そうですか。どうぞ」と、中へ入れてもらったとしか考えられない。そうなると包囲陣の態度も、従来の説明では通らなくなるが、なにより不審なのは、本能寺へ駆け込もうとすれば楽に通行できたのに、この時、一人も行かなかった大名屋敷の連中である。哀れにも悲しく、前髪だちの少年が小刀をふるって、群がる鎧武者の荒くれの長い槍に立ち向かって戦っている有様を描いた本能寺の絵は炎と煙に包まれて美しい。だが、現実は、絵では14、5歳の美少年の蘭丸が、筋骨逞しい26、7の青年であったり、他の者も小姓を長年してきて、信長の身の廻りを世話するのには熟練しているからと、元服を済ませてもまだ小姓にされている元気な青年達とみても、なぜ、京都にある各大名屋敷が彼らを見殺しに拱手傍観していたかは、これも謎の一つであろう。 後年、どうとも、ここは恰好つけにくいから、各大名とも、家来の京屋敷はあったが、自分らの邸宅はなかったようにと各家の家伝ではなっているが、多聞院日記や御湯殿上日記には各大名京屋敷は出ているし、徳川政権の江戸中心の時でさえ、幕末まで各大名は京屋敷を有していた。だから、天正10年の時点においても、各諸国大名は邸を置いていた筈である。又そうでなければ、前年2月に開催した馬揃えを、同じく京で再度、信長が、やや小規模だが、引き続き催している事情が納得できない。当時は貸ビルもマンションも、勿論ホテル設備もない頃である。どうしても自分の支度をしたり家来を泊める足場用に、各大名は自分の邸を購入するか築営するかしかしか途はない。そして作ったからには、己れの「取出し」と当時は砦のように邸を言っていたから、もし襲われては人のもの嗤いの種になると、何処でも護衛部隊の留守武者を、ここに常駐させていたのである。だから問題は、厳然と京にいた筈の二千以上の織田信長の息のかかった兵が、どう して信長救出に駆けつけなかったか。こればかりは、さっぱり理解できないのである。 どう考えても、まさか「知らなかった」ということはなかろう。 本能寺に信長の一行が泊まっていたのは、在京の武者は皆よく知っていた筈であろう。主人の大名が不在であっても、信長から何か通達があれば、それをもって主人の許へ火急の連絡をするのも、留守武者の仕事だからである。おそらく信長在京とあれば、みな用心して馬には水を与え、いつでも間に合うよう 準備はしていた筈である。もちろん弓鉄砲の備えをあったろう。 それなのに、彼らは、全織田系労組ストを起して一人も動かなかった。「小姓でさえも潜入できるくらい」という状態ならば、彼らが押しかければ、本能寺に楽に入れたろう。もし拒まれても、囲みを破って侵入しない迄も、背後から突き崩 して突破口も開けたであろう。このとき、二条の妙覚寺には、信長の嫡男で、かって秋田城介の官位から三位中将に昇っていた26歳の織田信忠がいた。これには直属の寄騎である城持ち大名が約六十三人衆。旗本と後年は呼ばれる子飼いの武者や、小姓。そして、それらに従う陪臣が少なく とも、初めの内は千はいた。だから、各大名屋敷の留守武者さえ行動をおこせば、信忠の手勢と共に、謎の上洛軍を一応はくいとめられるし、又そうすれば半日の距離である安土には、このとき、当代記や信長記にあるごとく、本丸留守番は、津田十郎、加藤兵庫頭、野々村又右、遠山新九郎、世木弥左、市橋 源八、櫛田忠兵衛。ニ丸御番衆は、蒲生賢秀、木村治郎左、雲林院出羽守、鳴海助右、祖父江五郎右、佐久間与六郎、箕浦次郎右、福田三河守、千福遠江守。といった陣容で、中国攻めの仕度をして、すぐにも出陣できる信長自身の旗本衆数万が揃っていたのだ。だから、これらが駆けつければ、本能寺は事なきを得た筈なのである。それなのに彼らは動かないで信長を見殺しにしてしまった。それも一糸乱れず何処からも打って出ず、まるで無人の如く、ひっそり閑として見送ってしまったのである。 この時代は、まだ後年のように「忠義」というものは流行していなかった。大名は領地を、武者は銭を貰う恩賞しか考えていなかった時代ではある。それにしても、これは、あまりにも極端すぎる。前もって、信長が死ぬ予報でも出ていたのであろうか。そうでなければ恩賞目当てに、みんなで本能寺へ駆けつけ、信長公に尽くして銭の一握りずつでも貰おうとした筈だろう。なにしろ儲かる機会だったのである。 . |
目的 |
次に訝しいのは、本能寺における信長自身である。といって、これは実像の信長が変だというのではない。あくまでも信長公記にあらわれている信長の行動である。その巻の15の<信長公御上洛のこと>原文によると、「御小姓衆二、三十人召しつれられ、5月29日ご上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御いっそう次第、羆りたつべきの旨、御触れにて、今度は、お伴これなし。さる程に、不慮の題目しゅったい候て、‥‥」となっている。ここで引っ掛かるのは、
「御いっそう」という語句である。さっと読んでしまうと、中国地方へ出陣するのだから、至急いっそう次第に出立するというので、意味がそのままのみこめるようでもあるし、判らなくもある。但し原文は「一左右(いっそう)」となっている。ということは、この時代も、まだ漢字の使用法は発音を当てはめて用いているのであって、今日のように熟語の定型はないのだから、なんともいいようもないが、「一つのものを
右から左へやる」のが「いっそう」ならば「一掃」という文字でも良いのではないかと思える。まあ、こう当てるが常識というものであろう。すると信長は、中国へ出陣するに先立って、「何かを一掃する目的」で上洛したことになる。そしてその何かは京都にあった。しかも、その何かは、信長が出陣に当って後顧の憂いのないように、自分で整理して行かねばならぬ程の大問題であるが、小姓三十騎を伴って行くだけでも、事足りてしまうような相手で、その示威のためであろうか、今度は「お伴これなし」それで、「舐めてかかったから」あべこべに「不慮の題目」が出来(しゅったい)してしまったというのである。
これを検討していくと、信長殺しの謎の中の一部分は判ってくる。つまり6月2日に洛中の大名屋敷の留守武者二千が動かなかったのは、これはストライキではない。命令によるものらしい。しかも、その命令たるや、皮肉な話だが、信長からの発令らしい。おそらく「何かを一掃するために」上洛してきたのだから、「洛中に騒動これありとても、構えて一兵も出すまじきこと」といったような指令が、本能寺門前にあった司所代役の村井長門守から、各大名屋敷へ通報されていたのでは あるまいか。当時のことだから、もとより詳しくは教えてなかったのだろう。だから四条の本能寺で大騒動が起きて、各大名屋敷は色めいて周章狼狽したが、前もって、天下びとの信長から「絶対に出勤すべからず」と命令されていたから、もし 違反したら大変であると、まさか当人の信長が包囲されているなどとは夢にも思わず、みな自分の屋敷だけを厳重に守っていたのではなかろうか。と、これなら納得できる。すると、その一掃すべきものは、これは、大物ということになる。 さて角川新書の織田信長を持ち出しては悪いが、その中に、左記のような記述がある。こと事件前日のことなので、徹底的に解明をしなければならない。「仙茶集というのに御茶湯道具目録と題する覚え書が入っている」と、まず 書かれている。 それは『日付は午(うま)の6月1日』、『宛名は宗叱(そうしつ)まいる』、『差出人は長庵判』とあり、38点の名物茶器の名が列記されている。つまり、この覚え書は、天正10年6月1日、本能寺の変の前日に、博多の島井宗叱に披露して見せる信長秘蔵の名器38種の目録をかきあげ、宗叱に与えたものである。また長諳(ちょうあん)の追記として『この他にも沢山あるが一々書き立てるのは止めた。また、三日月の葉茶壷、松島の葉茶壷、岸の絵、万里江山の絵図、盧堂の墨蹟などは、大道具で、持運びが不自由なので、安土の城に残してきたから、また次の機会に改めて拝見 させる』とことわりが出ている。だから、この目録にかいた38種を安土から本能寺に運搬してきて、本能寺の書院で茶会を催すために、信長は上洛してきたのである」と説明されている。そして、「信長は単なる武将ではなく、茶の湯好きの趣味家で風雅の道に志が深く武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあって、西国出陣の途中、わざわざ秘蔵の名物茶器を披露する茶会をやる為に、本能寺へよって、災難にあったのだ」と、これを尤もらしく説明しているが、はたして、この人の説は、どんなものであろうか。奇怪そのものである。 これによると、まるで楠長庵が、信長の代理人のように、「これとこれとを見せてやる。この他のものは沢山あるから書くのは止めた。大きな物は持ってこられないから安土の城へきたら、そこで見せてやる」と大言壮語をしているが、それ程のポストの人間だったのだろうか。吉川弘文館の戦国人名辞典においても、彼は、「文禄元年、朝鮮の役にて、肥前名護屋城にて、宿直番士の記帳にあたっていた」と 出ている程度の人間である。つまり「誰某は宿直、誰某は、あけで帰った」という人間のタイムレコーダ係である。しかも、これが本能寺の変から十年後の長庵という人物の現実の姿である。しかも初めは大場長左衛門といっていたのを、楠木正儀(まさのり)の子、正平の八代の孫だと自称して「楠正虎」とまで名のった人物である。だから戦国人名辞典では、彼に関しては「信用できない」という言葉を繰り返 して二ヶ所も出している。もちろん「楠」に改名したのは、信長の在世時代ではない。その頃は長左衛門といって、祐筆の下の書記ぐらいの身分らしい。というのは、その後、安土城が炎上して 実物が何も残っていないから、いいかげんなことを書いているが、「三日月の葉茶壷や松島の葉茶壷が大道具で、持ち運び不自由で安土へ残してきた」というが、この二つは普通の茶壷の大きさである。運び瓶の茶の大壷と、掌にも乗る茶壷との区別さえ、この男は知っていないのである。 それと、もう一つ訝しなことは、まるで彼が信長の側近として本能寺へ同行して来ているような書き方を、この筆者はしているが、6月1日に本能寺で茶会を催しているというのに、彼と島井宗叱は双方とも唖で口がきけず、当日二人は筆談を交したのだろうか。さもなければ、手紙なら、いざしらず、向き合った長諳が、眼の前の宗叱をつかまえ、「うま6月1日、宗叱へまいる。これこれと38点。この他に沢山あるが、いちいち書くのはやめた。また、あれとあれとは大道具で持ち運びできなかったから、後で見に来い」と、口で言ったというなら話の辻褄も合うが、なぜ紙に書いて、それに判を押して、手交しなければならないのか、いくら頭をひねっても、愚かな私には、納得できもしない。常識で考えても、向き合った二人が筆談して、判まで押しわたし合うという、そんな変てこな状態は想像もされない。もし筆者が書いているような。そんな「覚え書」があるものなら、それは楠長庵が書いたことに、385年後に誰かがしてしまった想像の創造であろう。 なにしろ、当日、その宗叱が主客だというのなら、「耳がつんぼだったかもしれないから、向き合って筆談をしたか」とも、ごま化しはきくが、「6月1日の信長の名物びらきの茶会は、本能寺の書院で催され、正客は近衛前久であって、地下人に相当する宗叱と宗湛は、相伴を命ぜられたのであろう」と、筆者は説明している。すると、主客は放りっぱなしにして、たった二人だけで紙に書いたり判を押したりして、やりとりしていたのか全然ピンとこない。そして、おまけにこの筆者は、しつこくも、その島井宗叱が初夏のころ、同じ博多衆の神谷宗湛を同道し、6月に信長が茶の供応をするというので本能寺に参上したところ、明智光秀の乱が起こった為に、早々と本能寺をひきとった。そのとき「弘法大師の真筆千字文の掛軸」を持ち帰ったという。又、神谷宗湛の方でも、宗叱と同伴上洛し、本能寺で信長に謁見したが、そのとき、明智の乱が起こったので、本能寺書院の床の間にかけてあった「遠浦帰帆の図の一軸」を持ち戻った。というが山科言経卿記では「近衛前久ら四十人の公卿が本能寺へ集ったが、それは『数刻御雑談、茶子、茶有之』という原文になっている。つまり、茶会など開いてはいない。御述するが、もっと大切な密談なのである。 それなのに筆者は、宗叱と宗湛の二人だけを、旅館のように本能寺へ勝手に泊めてしまい、夜明け方明智の乱にあったという。だったら、この二人や楠長庵は、全員玉砕だからヘリコプターでも使って脱出したのだろうか。しかも、生来、手癖が悪いのか、二人で共犯で床の間の軸や掛物をかっぱらったということを書き加えている。ふつう、他家の他人の物を黙って持ち出してきたということは、あまり賞められたことではないから、事実そうであっても、こんなに堂々とは書かないものである。ところが、この場合は、明白に「窃盗行為」の事実を示している。ということは、歴史屋である一面、書画骨董の鑑定をば営んでいる筆者が、前述二品の書画に折紙をつけて、その市場価値を高めて謝礼を得る者に頼まれ、出所を権威づけようとして、信長の遺愛品として証明したさに、彼自身の都合で、6月1日を尤もらしく茶会にしてしまったり、架空のフィクションをさも本当らしく舞文曲筆しているのではあるまいか。い くら宗湛や宗叱が泥棒にされたり、楠長庵を勝手に躍らせても、4世紀前の人間では、何処からも文句がこないからであろう。なにしろ、この筆者は歴史学者には惜しいくらい、小説家以上に創作能力があまりにも豊かにありすぎる。 さて、この茶会が6月1日という彼の発想は、私の想像では「忠臣蔵」からの借りものではなかろうか。「頃は元禄15年、12月14日の赤穂浪士の討入」が、「吉良邸の茶会のあと」だったという連想から、「茶会 疲れてみな寝ている 夜明け前に討入り」というプロセスを借りて、あわれ織田信長を吉良上野介と同じようにしてしまったのではなかろうか。明智日向守光秀が大石内蔵助役という「まぁ有りそうなことだ」、「そうかもしれない」と錯覚を与えようとする、尤もらしい手口であるが、やはり気が咎めるとみえ、「‥‥信長は、これだけ多くの名器を安土から京都まで運ばせ彼自身も、それを監視しながら天正10年5月晦日、本能寺に到着したのであった。つまり嫡男信忠の率いる二千人の軍勢とは別に、また馬廻りの武士達とも離れ、彼が単独行動したには、このような名物茶会を催すという事情があったからだ」と、しきりに弁解しているが、そうなると、「信長が御一掃なさる目的」にて出京されたのは、生活に困って、名物の秘蔵の茶器を一掃して、「織田家御売立て、於本能寺」と、オークション・セールをしにきたことになってし まう。美術倶楽部とかお寺というのは、よく道具類の売立ての競市に使われるから、その連想を伴って考え付いたのであろうか。 歴史家の中でも唯物史観にたつ若い人は、よく勉強しているが、この筆者のような、尤もらしく書く人は困る。私の父と同年輩なので、あまりいいたくはないが、「織田信長が安土から出洛してきた5月29日」。この日、京にいた徳川家康は穴山梅雪と共に堺へ行き、同日は津田宗及の昼茶席。 その夜は松井友閑邸へ泊り、翌日は堺衆の茶席が催されている。ということは、彼の説を採るならば、同時に二ヶ所で盛大な茶会が催されたことになる。ところが、千の利休が秀吉の御抱え茶頭になったのは、翌年天正11年5月からで あり、当時の信長の茶頭は、やはり堺衆で、皮革商武野紹鴎門下津田宗達の伜の宗及である。それなのに、信長の茶頭役が、本職の信長の方の名物披露を放りっぱなしにして、堺の方で当日は家康接待の茶席を催している。こんなことが有り得るのであろう か。そして、この天正10年6月の頃は、まだ北向道陳の、流れを汲む利休の時代ではな く、武野派の油屋紹佐、茜屋(あかねや)宗佐、銭屋宗訥に、今井宗久の全盛期である。だから宮内卿法印の官名を持つ堺の政所の友閑邸へ、6月1日、彼らは集まっていたのである。筆者の説によると、まるで徳川家康が信長に対抗して、同日に茶会を催していたことになるが、そんなことをしに、わざわざ信長へ献上の3千両を担いで出てきたのではない。しかも案内役というか随行に、安土から信長の近習の長谷川秀一がついてきている、信長が本能寺で名物披露の茶会をやるのに、何故同じ日に堺で同じ様なことをやらせるか、とても常識では考えられもしない。一流の茶匠の数は限定されていて、 しかも当時は圧倒的に堺在住が多い。それなのに堺で同時開催というのは、これは明瞭に信長への対抗であり妨害である。もちろん、松井友閑も信長の家来である。どうして邪魔になるようなことをするだろうか。この歴史学者は、今日の神風タレントの掛け持ちでも考えたかもしれないが、その頃の交通機関では、京と堺間の、同じ昼間でもトンボ返りは無理である。 |
デモ |
誤謬に対して、同情的な解釈を加えるならば、この日、6月1日、日中大雨なのに、信長のいた本能寺へ夥しい来客があったからであろう。つまり、人が来ればお茶を出したであろうから、それで茶会といった連想をしたのかもしれない。しかし、この日、集まってきた連中は茶飲み話に来たのであろうか。信頼すべき史料として、改めて、時の権大納言の言経卿記の6月1日の条から、その来客メンバーを列記してみる(客は近衛一人ではない)。 関白 藤原内基 太政大臣 近衛前久 左大臣 藤原内基(兼) 右大臣 近衛信基 内大臣 近衛信基(兼) 前関白 九条兼孝 前内大臣 二条昭実 つまり、宮廷における関白以下、前職まで、一人残らず揃っている。次に、五摂家を筆頭に、鷹司信房、聖護院道澄、今出川晴季、徳大寺公維、飛鳥井雅教、庭田重保、四辻公遠、甘露寺経元、西園寺実益、三条西公国、久我季通、高倉永相、水無瀬兼成、持明院基孝、予(言経)、庭田黄門、勧修寺晴豊、正親町季秀、中山親綱、烏丸光宣、広橋兼勝、東坊城盛長、五辻為仲、竹内長治、花山院家雅、万里小路充房、冷泉為満、西洞院時通、四条隆昌、中山慶親、土御門久脩、六条有親、飛鳥井雅継、中御門宣光、唐橋在通。 堂上公卿のオールメンバーである。筆者の言経も、この中に加わっている。間違いないところであろう。つまり、上の御所とよばれた内裏から、この本能寺へ来ていないのは、愕り多いが、主上とあとは中宮、女御の婦人方だけであり、下の御所と称されていた二条御所からみえていないのも、皇太子殿下の誠仁親王、及び皇弟殿下や、御皇族の方だけにすぎない。 言経卿記では、この人名を羅列したあとへ、もっていって、前述したように、「数刻御雑談、茶子、茶これあり、大慶々々」と結ばれている。(茶菓子が出て、茶が出たから、これは信長名物の茶器の披露の茶会であったのだろう。それで大慶至極と書かれているのだ)と推測するような粗雑な思考では困るが、一刻とは現在の2時間、つまり数刻といえば、これは5時間から6時間である。しかも当日は夕方まで雨である。平安朝のような宮廷勢力の強かった時代なら、彼等は自家用の牛車にでも乗ってきたであろうが、この天正10年では、せいぜい関白や太政大臣クラスが輿に乗ってきたくらいで、あとは、まだ雨傘なんか発明されていなかったから、簑をきて集まってきたものと思われる。だから茶会ぐらいのことなら、これは、「雨天順延」になるか、又は信長の方で、それほど見せたいものならば、宮中まで持参して一般公開をしている筈だ。というのは、なんでも信長の真似をした秀吉でさえ、この3年後の天正14年の正月には自慢の折畳み式黄金茶室を見せたいばっかりに、禁中へ運んで、これで茶会を催している。だから、この6月1日の本能寺は、接待用に茶は出しているが、茶会とか五十人あまりの大ティー・パーティーではないことは、はっきり言えると思う。 その例証として、言経卿記の6月1日の頭初に、「一、前右府ヘ礼ニ羆向了(まかりむかわれ)、見参也。進物者被返了(進物は返される)、参会衆者ハ‥‥」というのが、メンバーの列記の前についている。これを岩波書店の大日本古記録では(東大史料編纂所)が、「延臣ヲ信長ノ館ニ列参シテ、ソノ上洛ヲ賀ス。進物ハ受ケズ」と欄外に注釈をほどこしているが、これはどういう意味による解釈であろうか。すらっと読めば気がつかないが、ゆっくり読んでは、私ごとき頭の悪い者にはてんで、この注釈ではわけも判らないのである。 つまり前日の<廿九日、丙戌>の項に、一、前右府(信長)、御上洛了(おわる)。一、御局(おんつぼね)御出了、軈而御帰了(やがておか えりになる)。一、毘沙門堂ヨリ、入夜愛州薬所望(夜になってから薬所望)、遣了(やる)。一、(約十行分空白)」とあるからには、もし「信長の上洛祝賀」ならば、彼によって四月前から太政大臣にしてもらっていた近衛前久達の信長派だけでも、前日の29日に、つまり出京してきた日のうちに本能寺へ挨拶に行くべきである。それなのに同日は行ってない。5月は29日が月末だから、晦日で忙しくて行くことができなかったと、いうのでもあろうか。でなければ、みな協議しあって、御所の中で回覧板でも廻して、翌6月1日に、何処かで集合して、宮中の全員が一堂に集まり、そこから雨の中をてくてくと本能寺へ行ったのであろうか。まあ、385年前の人間のやることだから、今と違って、のんびりしていたろうから、それもよしとしても、見逃しては大変なのが、「‥‥進物者被返了」という6月1日の、一行の記録である。せっかく雨に濡れて持って行った進物である。勿論たいした物ではなかったろうが「気は心」ともいうし、受け取ってやるのが礼儀だし、人情というものだろう。それを、みな突き返したということは、何を意味するのだろうか。これでは「賀」にはならなかろう。 もしも、これが茶会だったら、たとえ半紙一枚を色代にもってきても、これは有難く受け取るのが作法というものである。だから、茶会なんてものではない。といって、東大史料編纂所みたいに「列参シテ信長ノ上洛ヲ賀シニ」来たものなら、その進物を断るのは、賀しにきたのを拒絶したことになってしまって、「その説明」は、到底ここでは成り立たない。成立は不可能である。「お公卿さんは貧乏だから、気の毒がって信長が『好意だけで結構です』と受け取らずに歓談して帰したのだ」とある歴史家の珍説もある。あまりに愚劣すぎて、これは書名をあげる気もしない。 「前右府」と信長の名称が一般に使われているが、彼は天正4年末に内大臣になり、翌年11月に藤原一門の二条昭実にそれを譲り、右大臣になった。しかし、またその翌年の天正6年4月限りで、これも僅か5ヶ月で辞任している。といってクビになったのではない。信長の方で辞めてしまったのだ。だから、何とか思い直してほしいと、主上も思し召されて、天正6年は、その4月から12月まで右府をポストは空けたまま待っておられた。だから信長の方で、また二条昭実を天正7年の正月には右府につけて逃げてしまった。よく小説では信長の事を「右府」とか「前右府」というが、正味ほんの半年も彼はやっていない。 つまり、天正10年6月の信長は、既に4年半前から宮廷の官位を自分から擲げ、民間人になっていたのである。だから、雨の中を、ぞろぞろやってきた連中は、正規にいえば、皆身分や官位の高い、目上の者達ということになる。それなのに、その進物を拒絶するというのは、こんな非礼な沙汰はない。これではまるで喧嘩である。もし、公卿衆が貧しくて気の毒だというのなら、それまでの信長の慣習どおおりに、たとえ末広(扇子)の一本でも快く納めてやって、返り際に、応分以上の銀一枚でもくれてやるべきだと思う。 これ迄でも信長は何かを恰好だけもらい、お返しとしてそうしていた。彼が気前よく金銀を撒いていたからこそ、信長派という堂上公卿の集団があった。前年の観兵式(信長公記に記載されている8月1日、安土挙行は、時日場所相違)の馬揃えの当日も、前関白近衛前久が、信長の家来の格で馬場に並び、天覧の主上をして、いたく慨嘆させられたものである。それなのに、そうした取巻き連中の公卿までが、この日は玄関払いの扱いである。 今でこそ持参した進物を帰り際に、「つまらないものですが」と差出しもするが、天正期から幕末までは、まず玄関で、持参の進物をおいて、それから挨拶したものである。だから当時は挨拶の事を「色代」といい、それをまず置く入り口の玄関の板台を「式台」という。なにも踏み石の代わりに縁台の様なものを置いたのではない。あれは手土産品の提示台だったのである。だから、進物を断られるという事は「本能寺の客殿へ通してやらない」という拒絶である。 つまり、関白一条内基以下、彼らは御所を空っぽにして四条の本能寺へと大雨の中をくりこんで行っても、この有様ではどうみても「招かれざる客」でしかない。といって、彼らの方でも、もちろん「面会謝絶」は承知だったのだろう。だからこそ、五摂家をはじめ堂上公卿が一家一名みな打ち揃って出向いているのが、メンバー表で、はっきりしている。つまり彼らは380年後の権威ある東大史料編纂所の意向に反して、「祝賀行列」をしに行ったのではない。あれは公卿を総動員して、デモに行ったのである。もちろん、表向きは信長の機動隊に棍棒で頭を殴られては痛いから、「嘆願」の形式だったのだろう。プラカードが発明される以前だし、手ぶらだったろうが、集団示威運動には違いない。それがなによりの証拠には、「玄関の式台で、進物を突き返された連中が、結局は上へ上がり込んで、数刻、つまり5、6時間も団体交渉」をしている。もちろんシュプレヒコールはしたらしい。そして、もし招いた客とか、普通の来訪者ならば、いくら人数が多くても、それだけの長時間ならば、今でもそうだろうが、飯ぐらいは出す筈である。なにも出前の店屋物を注文しなくても、本能寺の台所で「お寺のおとき」ぐらいは、すぐにも仕度はできたと思う。そして、この時代は「お振舞い」と称し、相手が呑めても呑めなくても、酒食を供応するのが来客への慣しであった。それなのに「お菓子とお茶」だけというのは、冷遇というより「酒食」など出せるような、そんな話し合いではなかったのだ、としか想像できない。 言経卿が「大慶々々」と結んでいるのは、びしょ濡れになって、みんなで本能寺へ行ったところ、「‥‥公卿は、みな甘党だから、酒など出されずにすんで、お茶のみだったから、胃潰瘍の吾々にとっては、大慶、大慶、ベエリ・グッドだった」などと言っているのではなかろう。これは「逢ってくれまいとデモをかけ、みんなで押しかけたところ、さすがの信長も往生して、上へ通してくれ、どうにか話ができて良かった」と、解釈すべきだろう。 では、何のデモをかけたか、ということになる。雨中を大挙して押しかける位だから、彼らの生活に掛かっている問題と考えられる。信長は、中国へ出陣して安土や京を留守するに先立って、「何か」を一掃する目的で上洛してきたのだから、その目的に対しての、これはデモとしか考えられない。それと、妙なことは言経卿記のメンバー表である。彼は自分のことを「予」という表現で、その19番目、つまり中央に目立たないように挿入している。初めは「権中納言」という彼の官位からして、中納言の順番の下へもってきて、これは宮中席次の配列かとも考えた。 ところが調べてみると、大納言や正中納言の名が、その後になっている。だから、これは、それでは本能寺への到着順かとも想った。しかし、これは日記である。別に公文書ではない。普通こういうメンバー配列の時に、自分もその一員に加わっている場合、「私を初めとして、誰某たち」と並べるか、「誰某達と一緒に、自分も参加した」と書くのが決まりきった定型のようである。それなのに言経は、わざと四十人列記した名前の、丁度まん中へ自分を入れている。どうも人数を勘定してから、書き込んでいる。しかも目立たないように「予」の一字である。 そこで考えるのだが、日記というのは、何も他人の為に書くものではない。山科言経だって、385年後の岩波書店の為に、これを書き下ろしたというわけではない。東大史料編纂所だって、勝手な注釈を上へつけて、印税をとったからといって、山科言経の供養祭をしてやったこともきいていない。つまり、これは、言経の都合において、片っ端から名前を書いているのだ。ということは、「AもBもCも行った。だから私も本能寺について行ったに過ぎない」という自己弁護である。子供が「悪いことをしたのは自分だけではない。甲も乙も丙もしている」と告げ口するのと同じことであるらしい。 そうなると、公卿達のデモというのは、最初は、勢い込んで雨中を蹶起して勇ましく赴いたものの、5、6時間の団体交渉のうちに、信長に圧力をかけられて軟化してしまい、所期の目的を果たすことなく、あべこべの結果になり、権中納言という官位の手前では、悪い結果に終わったのではなかろうか。だから彼は、その後ろめたさに、共犯者の名前を、ずらりと書き並べて、自分を丁度そのまん中に陥没させた日記をつけたのではないかと思う。しかし信長の方にしてみると、早く追い帰したいから「一掃すべき目的」に対しては譲歩をしなかったが、うるさい公卿達にしては、その生活の保証をしてやった他に、権中納言の山科言経には「一級上の中納言」といったようなことを洩らし、喜ばせた可能性もある。だから言経は、自分のために「大慶々々」と書き、信長の約束が反故になるのを惧れ、(書付の朱印状や沙汰書は貰っていないが、これだけの公卿衆が同席して耳にしている)と、証人のつもりで、ずらりと名前を書いたとも又、勘ぐりもできる。そうでもなければ、自分の為に書いた日記にしては、丹念に他人の名前が克明に並べすぎてあるからである。 |
避難 |
言経卿記の6月1日の条では、「大慶々々」の次の行には、 「一、七宮御方御腹中気ノ由、薬進了」とある。胃痛というのは、精神障害による中枢神経の作用によるものが多いというのは、現代医学解明されている。つまり、本能寺へ押しかけた結果、彼は「大慶々々」と戻ってきたが「七御宮方は心配されて病になられたと使いが来たから、薬を調剤してさしあげた」というのである。そして、次の行になると、「一、家中衆、礼ニ来、令飲盃了」となる。なんの前祝いかわからない。だがしかし、家中集まって祝盃をあげている。ところが呑んでるうちに気になってきて、「一、冷泉ヘ立寄了」となる。冷泉為満は親類である。庭ごしに行ったのだろう。そして二人で今日の本能寺での話 をした。やはり後めたいところがあったのだろう。話しているうちに、今日は一日だから、 禁中へ酒肴を届ける例だと想いだした。冷泉が、「麿もまだだから、一緒に届けよう」と言ってくれた。「では頼む」と戻ってきてから、冷泉為満の妹にあたる自分の妻に、立替えの銭を持たせて、礼に遣ろうとしたところ、「あたいも、ついてゆく」と倅も、はしゃいで一緒にいったという情景が、次の、「一、禁中ヘ一荷両種、如例月進上了。一、北向、阿茶丸オ里ヘ礼ニ被行了」となるのである。本来ならば、禁中への献上などは、まっ先にやるべきであるのに、どうも浮々して夕方まで忘れていたものらしい。 さて、その次の行は、 「一、========」 と、抹消されている。都合が悪くて削ったものらしい。この日記は、前日5月29日も、約十行は削除され空白になっているし、6月4日の条も、「4日、一、禁中徘徊了。一、洛中騒動、斜メナラズ」 で、後四行分が抹消空白。そして、5日、6日、7日、8日、9日、10日、11日、12日の8日分は、むしり取られて、残されてはいない。だから「信長の遺体が見当たらなくて、6月2日から4日まで大騒ぎして、京中を探し廻った」と、従来は、この日記の4日の条までの判明した分だけで言われているが、実際は、もっと後まで、信長の遺体が確認できなくて、洛中は大騒ぎをしていたのだろう。もちろん、空白の部分と、破棄された8日分の中に(信長が何を一掃しに上洛した のか)と言うことや(誰が信長を襲撃させたか) という、謎の問題は含まれていたであろう。 さて、この6月2日の経緯に関しては、他に、兼見卿記がある。この人は吉田山にあった吉田神社の神職で、光秀が安土城にいた6月7日には、勅使として下向して「ある種の沙汰」までした人物であるから、この日記のほうをも参考にしたいが、 彼個人の都合と、社会情勢の変化により、二重帳簿ならぬ二重日記になっている。だからデフォルメを承知では引用もできない。そうなると、現在の国内資料としては、この言経卿記の方が上質、というか、これぐらいしか他には信用できないもののようである。しかし、信長が、何を一掃しに来たのかという肝心なこととなると、この日記は、言経自身が何も知らされていなかったらしく、表面に出ているのは、6月1日の「七宮御方の御病気」とのことと、その前日の、「一、御局御出られ、やがて御帰りになる」の二ヶ所しか、鍵になる手掛かりはない。「おんつぼね様」というのは、時の主上の御寵愛遊ばされていた女性のことである。その御方様が、信長が上洛するや出て行かれて、やがて、お帰りになられたという記載である。だが、下々のように夫婦喧嘩などされて家出をされたが、やがて思い直されて戻られたというのではない。御所を出られて、一応は何処かにおられたが、やがて、お里方へお帰りになったと いう「椿事」である。重大事件なのである。でなければ、冷泉家から妻を迎え、その間に生れた阿茶丸という子をいつも連れて歩く家庭的な、マイホームパパのはしりのような山科言経が、現今の女性週刊誌のような興味本意な記事を、ことさらに自分の日記に書き込むわけはない。すると、その御方様というのは「絶世の美人で、唐の揚貴妃のような女性で、玄宗皇帝にもあたる主上をして、誤らせる事多きを憂え」、信長は、当時の毛利輝元という安禄山の叛乱に際し、彼女を一掃するために上洛したのだろうか。なるほど、相手が女御一人とあれば、鎧も武器を不必要だろうし、御伴も不要だったろう。 しかし信長というのは、はたして、そんなに皇室中心主義の男だったのだろうか。「桶狭間合戦」を奇襲戦法の典型のように、明治の軍部が、故意か無智かしらないが、 とりあげて以来、とってつけたように、「勤王の家柄、織田信長」という文句が生れてきた。なにしろ善玉は全部、勤王家でなければ都合の悪かった時代だから、「信長の父の織田信秀は、勤王の志が厚く、御所へ献金して、従五位下の官位を頂き、備後守に任ぜられたほどである」と、なった。(金を出して勲位や勲章を買ってはいけない、という天野賞勲局総裁の疑獄事件)が大正時代におきた。そして献金して官位についた連中が逮捕されたが、織田信秀の方は天文12年の400年も前のことだから、時効にかかっていた。別に、なんの問題にもならなかった。かえって、その買官行為が、そのまま勤王の事績とされ、徳富蘇峰の近世日本国民史第一巻にも、「織田信秀勤王心のこと」というのを別項目で、(献金したから、位が貰えた)と掲げている。そして、それをもって「父は子の縮図」と題し、「信長、彼も確かに勤王心を有した者の一人であった」と、まことに苦しい具合にこじつけられているほどである。 だが、もし信長の目的が、勤王の志から出た、その御局様の一掃であるならば、彼女は逃げてしまわれたゆえ、それでは信長が入洛した途端に、その所期の眼目は達成されてしまったことになる。ならば、なぜ、翌6月1日に、公卿達は雨中のデモ行進を本能寺へしたのだろうか。お局様を、もとの鞘へ納めてさしあげようという、「愛の運動」だったのだろうか。それにしても、前の大臣衆達が、丸一日も本能寺へ詰めかけて、まるで帝国議会でも 開催しているような騒ぎを、信長がもし勤王家ならば、叱りつけずに、あべこべに 「大慶々々」と喜ばせて戻してやるというのは、少し訝しすぎはしないだろうか。どうも、御局様が御所を出られたのは「緊急避難」のような感じがしてならないが、どんなものであろうか。 秀吉というのは模倣の天才で、なんでも信長の真似をしたといわれている。信長が外征用の織田艦隊を作ったのにあやかり、自分はその軍鑑を利用して、マカオならぬ朝鮮征伐を敢行したという。その秀吉は、読売新聞社刊・人物・日本歴史第7巻の「信長と秀吉」編において、「時の正親町帝に対し奉り、畏れ多くも譲位を求め、宸襟を悩ましめ給うた、主上が食を絶たれると、その中宮や女御を見せしめに磔刑にすると申し上げ、不届にも 恐喝申し上げたが、その後天変地異と火事が続いたので、秀吉は自分が生害させたようにも伝えられる誠仁親王の祟りかもしれぬと心配し、その遺孤をもって、後陽成帝になし奉った」という個所がある。もちろん信長には、(後年、秀吉が真似をしたような)そういう具体例があったかどうか、そんな不敬きわまる伝承は何もない。何故かというと、公卿どもが押しかけてきた翌朝、彼は髪の毛一本残さずに、何処かへ消えてなくなってしまったからである。 |
(私論.私見)