2章、光秀にはアリバイがある |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1185 信長殺し光秀ではない4」、「1186 信長殺し光秀ではない5」、「1187 信長殺し、光秀ではない6」を転載する。
2013.5.4日 れんだいこ拝 |
光秀にはアリバイがある |
何処 |
殺人者つまり加害者は、殺された人間の、殺された現場にいなければならないことに、<密室の殺人>という例外を除いては、推理小説でも、これは決まっている。ところが、信長殺しに限っては、被害者の側に光秀がいた形跡は全くないのである。殺害された日時は、今の暦なら7月1日だが、当時は太陰暦なので6月2日。時刻は、夜明け前というから、午前4時とみて、それから出火炎上する午前7時から7時半までの間。推定で計算すると、およそ3時間半の長時間であるが、この時間内において、明智光秀を本能寺附近で見かけた者は誰もいない。これは動かしがたい事実である。つまり光秀は本能寺どころか、京都へ来ていなかったのである。いやしくも謀叛を企てて信長を殺すならば、間違いのないように自分が出てきて監督指揮をとるのが当り前ではなかろうか。もし失敗したら、どんな結果になるか、なにしろこれは重大なことである。それなのに、従来、加害者とみられている光秀は来ていないという事実。もし彼が真犯人であるなら、世の中にこんな横着な殺人者はいない。ということは、「信長が害された殺人現場に光秀はいなかった」という具象を明白にし、現代の言葉でいうならば、「光秀の不在証明説」の成立である。 もちろん、これに関しては、日本歴史学会の会長であり、戦国期の解明にあっては、最高権威である高柳光寿氏も春秋社刊行の戦国戦記の、「本能寺の変・山崎の戦い」の54頁において、はっきりと、「6月2日、つまり信長弑逆の当日。午前9時から午後2時までしか、光秀は京都に現れていない」と、これは明記している点でもはっきりしている。念のために当時の山科言経の日記。つまり大日本古文書、大日本古記録の言経卿記の内から、事件当日の原文を引用する。「その日、午前9時から午後2時までしか、京にいなかった光秀のために」それは必要だからである。「(天正10年)6月2日戌子。晴陰(曇)一卯刻前(註、卯刻というのは午前6時、又は午前5時から午前7時をさす。だが、この場合、何刻から何刻というのでなく、ただ午前6時から前であったいう、つまり時間的な例証になる。なにしろ午前9時すぎに上洛してきた光秀には、これでは関係がない) 本能寺へ明智日向守謀叛ニヨリ押シ寄セラル(註、この言経記にも、一応は、こう書いてある。いないものが押寄せるわけはないが、みなこう書いてある。つまり、こう書くほうが、この11日後に光秀は死んでいるから、死人に口なしで、何かと、みんなに都合が良かったかもしれない) 前右府(信長)打死。同三位中将(岐阜城主にして跡目の織田信忠)ガ妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王の二条城)ヘ取篭ノ処ニ、同押シ寄セ、後刻打死、村井春長軒 (村井長門守貞勝)已下悉ク打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻(午前7時から午前8時)ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語同断之為体也、京洛中騒動、不及是非了」。 つまりこれは、四条通りの本能寺が炎上してから、織田信忠が妙覚寺から引き移った二条にある御所へ押し寄せたから、誠仁親王が、まだ早朝なので、お乗物がなく、辛うじて里村紹巴(しょうほ)という連歌師の見つけてきた町屋の荷輿に乗られ、東口から避難されたという当時の状景を現してたものである。ただし、この時代は陰暦なので、6月2日は初夏ではなく、もう盛夏である。そして当時は、今のように電気はなかったから、一般は灯火の油代を倹約して、早く寝て夜明けには起きて働いていた。だから、「早朝で輿がなかった」というからには、午前7時前が正しいかと想える。遅く見ても午前7時半迄であろう。農家は午前4時、町屋も6時から、当時は起きていたものである。ということはとりもなおさず、まだ明智光秀が京へ入ってくる迄には、2時間以上のずれがあった。という事実がこれで生じてくる。 さて二条城に立て篭もった織田信忠達が何時頃全滅(脱出できたのは織田有楽と苅屋城主水野宗兵衛の二名のみと当代記にある)したのかは記録がない。しかし前後の経過からして、本能寺炎上後、二条御所も炎上して、全てが終わったのが午前9時頃とも思える。そうなると、明智光秀が上洛したのは、もう、すべてが終わってしまった後という ことになる。もし、そうでないにしても、光秀が京へ入ったのは二条御所が包囲され、親王が脱出されてから既に2時間経過した後である。もはや、やはり「万事終われりの時刻」でしかない。これは推理でもなんでもない。当然な計算である。 そうなると、ここで疑問になるのは、「明智光秀は、それまで何処にいたのか」ということになる。もちろんヘリコプターもなかった頃だし、午前9時には現場に到着していたというのだから、午前5時頃には、馬に跨って京に向かっていたことは事実であろう。そうなると、この問題は、「何処からスタートしてきたのか」ということなる。これに関しては正確なものは何も残っていない。ただ判っているのは3日前の5月28日に(この時の5月は29日までしかない)愛宕山へ登って、同日は一泊 しているという証言が、里村紹巴らによって後日提出されている。 さて、言経卿記によって天候をみると、「5月27日 雨 28日 晴 29日 下末(どしゃぶり) 6月1日 雨後晴」となっている。28日は晴天だから、この日に登山したのはわかるが、問題は29日である。これまでは、この日の下山となっているが、下末とは「どしゃ降り」のことである。だから、馬で愛宕の山頂までかけ登った光秀が、今と違い鉄製の馬蹄ではなく、藁で編んだ馬沓の駒の尻を叩いて、相当に険阻な山頂から血気にまかせて、滑り落ち転落する危険を冒してまで、降りてきたとは考えられない。 勿論、今となっては正確には明智光秀の年齢は判らない。だが明智軍書という俗書に 「五十五年の夢」という辞世の一句がある。その本では真偽の程は判らないが、時に信長が49歳なら、やはり、それくらいかも知れぬ。そうなると、今でも昔でも人間は似たようなものである。どうして50過ぎの男が血気にはやって、雨の中や、まだ地肌がぬるぬる滑る山道を、駈け降りてくるなどとは、とても常識では考えられないことである。だから、通説では28日登山。一泊して29日下山となっているが、正確な当時の天候から推測して、下山は6月1日が正しかろう。しかも、この6月1日も夕方まで沛然たる雨で、小止みになってから妙覚寺滞在中の織田信忠が、夕刻から本能寺を訪問しているくらいだから、光秀が下山したのも、家来に足許を照らさせて山道を降りたのは、やはり雨が止んだ後と、考えるべきが至当であろう。だが、京と愛宕とは、後者が山だけに、なお降り方は悪かったとも想える。そうなると、光秀が、もし丹波亀山に着いたとしても、一万三千は出陣した後ということになってしまう。だから、光秀は後を追い、まさか一人ではなんともなるまいから、 「支城の坂本へ引返し、そこで三千余の兵を率いて、至急、京へ駆けつけたという次第ではないかと」とも思われる。 もう一回ここで、この日の順序を追ってみると、6月2日(新暦7月1日)午前4時、本能寺包囲される。午前7時 炎上、信長行方不明。引き続き二条御所包囲 誠仁親王御所へ動座。信忠軍と包囲軍交戦。午前9時 明智光秀入洛。午後2時 明智光秀出洛。午後4時 光秀、瀬田大橋に現れる。午後5時 三千余の軍勢のみにて光秀は、坂本に帰城すといったような経過を光秀は辿っている。そして、これは吉田神道の兼見卿記によるのだが、この2時以降の光秀の行動はわりと詳しくわかっている。(だが、この兼見という人は、この時点の日記を、後から別個に書き直している) つまり日記の二重帳簿である。そして、その表向きのしか、残念ながら今は伝わっていない。それでも、それによると光秀は当日、持城の山崎勝竜寺城(つまり占領して奪ったのではなく、前から自分の支城)へ寄って、そこで城番をしていた重臣の溝尾庄兵衛と相談した結果、午後2時に、そこを出発し大津へ向かい、午後4時に、安土へ伺候するため瀬田へ向かったとある。さて、現在残っている、その表向きの日記では、これからの状態を原文で引用すれば、「誘降せんとするに、(瀬田城主)山岡景隆は、かえって瀬田大橋を焼き落とし、己 が城(瀬田城)にも放火し、光秀に応ぜずして山中へ入る。(止むなく光秀は残火を消し止めさせ)橋詰(めに足場にする砦)を築かす。夕景に入って、ひとまず光秀は、坂本へ戻る」となっている。もちろん、これは明智光秀犯人説が正論化されてからの日記であるから、一応は、白紙に戻して考えてみる必要もある。そうなると、「元禄14年3月14日に、浅野内匠が吉良上野に刃傷し、即日処刑をされてしまったと伝わるや、主家の大事とばかり赤穂城へ大石内蔵助以下家臣の面々が集まったように‥‥この時点でも、信長の異変の善後策に、家臣の光秀が安土城 へ駈けつけようとしたのは、自然な行為ではなかろうか」と考えるのは無理であろうか。 さて、それなのに、それを阻止して橋を焼き払ってしまうというのは、これは一体どういうことなのだろうか。もちろん後年のように、光秀謀叛説が確定してしまった後から書かれた兼見卿記では、さも光秀が安土城占領に赴くのを防ぐために、防衛の見地から、これを邪魔したようになっている。また、そうとしか読めない。だが実際は、6月2日の当日のことである。本来ならば山岡景隆は光秀を迎えに出て、「一体いかなることが出来(しゅつたい)したるのか」と話を聞き、共に善後策を講ずるのが、ごく普通の途ではなかったろうか。なにしろ、かっては15代将軍足利義昭に共に仕えた仲であり、この10年前に、山岡景隆は、その弟山岡景友と共に信長に叛き誅されるところを、光秀に助命され、つつがなく瀬田城主の位置を保てた男である。もしも山岡景隆が、当日の午前中に在京し、この異変が「明智の謀叛」と確認しているのならば、いわゆる正義感をもって、僅か三千の兵力では占領は考えられなくても、「おのれ、逆臣、光秀め。通しはせじ」と、橋を焼いてしまったことも理解できる。ところが本能寺の異変は、午後3時頃になって、安土への急使か、又は通行人によ って、この景隆は耳にしたにすぎない。何も詳細は知っていない。それなのに何故、確かめもしないで1時間で断固として橋を焼き、自分の居城まで焼き落とす様な、思い切ったことを企てたのであろうか。 まず、このひっかかりから先に考えてみたい。もともと、明智勢をば対岸の山頂から湖水越しに望見していた山岡景隆というのは、 先に足利10代将軍の義稙(よしたね)が、近江半国の守護代六角高頼(たかより)を討つため、延徳3年8月に出陣した際の大本営の三井寺(みいでら)の光浄院の出である。この時から室町幕府に奉公しだした光浄院は、その後、山城半国の守護に任ぜられていて、天正元年2月には、15代足利義昭の命令によって、当主の暹慶(せんけい) が西近江で挙兵。「打倒織田信長、仏敵退散」の旗印のもとに一向宗の門徒を集め、石山の本願寺と連絡をとりながら、石山と今堅田に砦を築いて抗戦。2月24日に、柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀の連合軍に攻められ石山陥落。29日には今堅田の砦も力戦かいなく落されて、改めて信長に降人。その名を山岡景友と改名して助命され、勢田の城主の地位は遠慮して、兄の山岡景隆に譲った。この兄こそ、10年後、橋を焼きすて、じっと山頂から、光秀の様子をしかと眺めていた山岡景隆になるのである。なお、彼の弟には近江膳所(ぜぜ)城主の同景佐 (かげすけ)。次が玉林斎景猶(かげなお)、そして四男が山岡景友である。 慶長見聞録案紙によると、この男は2年後において伊勢峰城にあって秀吉方と激戦し、「徳川家康の黒幕」と言われた「山岡道阿弥」に名のりを変え、秀吉の死後、伏見城に家康が入ると、その守護に、伏見城後詰に取出し屋敷を構えて、鉄砲隊で固 めたり、関ヶ原戦においては、長束正家を破ったり、ついで尾張蟹江の城を攻略し、懸命に家康に奉公するのである。それは後年の事であるが、この山岡景隆・景友らの兄弟はなぜか、この時つまり本能寺の変の2年後には、事実不明の柴田方加担の罪のもとに秀吉の為に城地を追われてしまい、やむなく家康を頼って行ったと武家事記、寛政譜には残っている。 さて、こういうことは、とりもなおさず6月2日の午後3時から4時までの間に、急いで「安土への通行を止めるように」瀬田の大橋を焼き払ってしまったということは、これは秀吉又は家康から前もって予告され、密令が下ったのではあるまいか、と不審 に想える。どう考えても、このやり口は山岡兄弟の肚ではない。もし光秀が当日安土へ入っていたら、信長の生死不明のままにしろ、重臣の一人として、なんらかの善後策をとっていたであろう。そうなれば天下は動揺することなく、当時、伊勢にいた織田信雄か、住吉の大物浦で出航するため大坂城にいた織田信孝かの、どちらかに跡目は落ちつくに決まっている。だからこそ、それでは困る人間が、安土へ光秀を入れないようにと、橋を落させてしまったのではないか。勿論これは想像であるが、架橋するために砦まで構えたということは、琵琶湖の対岸から山岡勢に弓鉄砲を撃ちかけられ、修理を妨害されていたことになる。もし、それほどまでに山岡一族が安土城に忠義ならば、光秀が引揚げた後、すぐにも彼らは安土へ駆けつけるべきである。なのに、全然行ってはない。これでは信長のために、瀬田の大橋を焼いたことにはならない。自分らの私益の為である。兼見卿記の記述と事実はここに於いて相違している。つまり何者かが、光秀を陥入れる為にか、彼を安土へ行かせず孤立させることによって、全てを彼に転嫁させようとする謀みではなかろうかという疑惑が、色を濃くしてくる。 |
火薬 |
次に奇怪な事は、まだある。光秀が、丹波亀山の本城から出てきたのなら、そちらへ戻るべきである。ところが、光秀は本城へは行かずに坂本へ向かっている。ということは、その伴ってきた武者共が、丹波亀山衆ではなく、別個の近江坂本衆であったということになる。いくら取り違えても、丹波から出てきた連中を、間違えて近江へ連れ戻す様な気遣いはない。つまり光秀がこの6月2日に上洛してきた時に、同行してきた(推定三千)ぐらいの連中が坂本城の者となると、これは、とりもなおさず光秀が、坂本から上洛した、という例証になるだろう。亀山ではないのである。すると、光秀が京へ姿を見せるより早く、夜明け前から丹波方面より上洛していた 連中は、それでは、どこの部隊かということになる。幻の軍団である。 まず二つに分けて想定できる。なんといっても、その第一は織田信長の軍団編成のもとに、近畿管区団となった各師団である。これは寄親(よりおや) 明智光秀1丹後衆、細川藤孝、倅 忠興。2大和衆、筒井順慶。3摂津衆、高山重友(高槻)、中山秀清(茨木)。4兵庫衆、池田恒興(伊丹)、倅 元助。ところが、この連中はその10日後の山崎合戦では、秀吉方となって戦っているか、さもなくば細川みたいに中立している。だから、これまでの歴史は、彼らは上洛しなかったことにしている。合計の兵力がちょうど一万二千から一万五千であって、謎の上洛軍と員数は合うのだが、どうであろうか。 なお、有名な話だが、ルソンへ後に流される高山重友は「ジュスト右近」といわれて、こちこちの信者だし、他の者も、1507年9月19日臼杵発ルイス・フロイス書簡によれば、池田恒興も、入斎という名の他に「シメアン」の洗礼名をもち、その娘は岡山城主ジョアン・結城に嫁し、みな神の御為には何事もいとわなかった信者だそうである。中川瀬兵衛清秀にも「ジュニアン」の洗礼名がある。だから、ヨハネ黙視録にあるように、「この後、我見しに、見よ。天に開けたる門あり、初めに、我に語るを聞きしラッパの如き声にていう。『ここに登れ』。我、この後に起るべきことを汝らに示さん」といった具合に、本能寺から一町もない四条坊門の三階建の教会堂へ登って、その上から、「我らの主なる神よ、栄光と尊貴と能力とを受け賜うは宜(うべ)なり。神は万物を造りたまい、万物は、みな御心によりて存し、かつ造られしものなればなり、アーメ ン」。ドカーンと爆発させてしまって、本能寺を葬り去ったのかもしれない。永遠の神の恩寵を得るためには、現世の信長を吹き飛ばしたところで、別に高山や池田、中川といった切支丹大名は、良心の呵責に苦しむようなことはなかったであろう。もし、そう したことを<罪>の意識で感ずるぐらいなら、その2年後、現実的に彼らは秀吉の部下となって故信長の伜と戦いなどできない筈である。 というのは、当時のポルトガル商人は、火薬を輸入するにあたって、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい木樽に詰め替えて、さも、マカオが硝石の産地のように見せかけて、日本へ入れていた形跡がある。これは、ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵のジャバーウン(日本史料)の中に、木樽の発注書や受取りが混っているのでもわかる。まさか日本へ樽の製作を注文する筈はないから、当地の中国人細工物師に、西洋風の樽を作らせたものだろうし、それが日本関係の古い書付束に入っているのは、日本向け容器として、新しく詰め替えされたものと想える。古文書の岩淵文書の火薬発注書にもあるように、当時の輸入火薬は湿気を帯びていて、発火しないような不良品も尠なくなく、一々「よき品」と但し書きをつけな くては注文できぬような状態だ。そこで良質の火薬ほしさに、切支丹に帰依した大名も多かったのである。だから、ポルトガル船の商人は「これはマカオで詰め替えてきて、樽だけは新品ですが、中身は保障できません」などとはいわず、「マカオでとりてたの、ほやほやです」ぐらいのことは言っていたかもしれない。だから信長としては、鉄砲をいくら国内で増産しても、火薬がなくては始末につかないから、てっきりマカオが硝石の原産地だとばかり、間違えて思い込んでいたと考えられるふしもある。 津田宗及文書の天正2年5月の項に、当時岐阜城主だった信長に招かれて行ったところ、非常にもてなしを受け、宗及ら堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、彼らの初めだした「わびの茶」を自分もやっていると茶席を設けてくれた。それまでの「ばさら茶」では唐金だった茶器を、宗及らの一派が「竹の茶筅」に変えたのに目をつけた信長は、この時初めて「茶筅髷」とよぶ、もとどりを立てた髷に結って、その席に姿をみせ、おまけに給仕役に召した次男の信雄を、この時から「茶筅丸」とよばしたことは、私の<利休殺しの雨がふる>に詳しく書いてある。 つまり安土城を築く前から「天下布武」の目標のために、信長は良質の火薬の輸入確保に焦っていたのである。が、従来の歴史の解明では、近江長浜の国友村で鉄砲を大量製産させたとか、紀州の雑賀部族に量産命令を出したとか、といったような銃器の方だけに捉われていて、鉄砲というのは、火薬がなくては使い物にならないのを失念している傾きがある。当時の火薬の配合は75パーセントが輸入硝石で、こればっかりは日本ではどこを掘っても見つかっていないのである。そして、その硝石、当時の言葉で云えば「煙硝」の原産地を、仲継地とは知らず信長はマカオと思っていた。普通ならば国内を平定してから、国外へ勢力を伸ばすのであるが、天正10年の情勢では、九州へ輸入される硝石によって、西国の毛利や、豊前の大友、秋月、竜造寺、 薩摩の島津が武装を固め、信長に敵対をしていた。こうなると抜本塞源の策は、硝石の原産地がマカオであるなら、そこを先に奪取して、西国、九州への火薬輸入をくい とめるしか、この場合、完全な打つ手はない。 信長が天正8年あたりから、ポルトガル風の長いマントを羽織ったり、ラシャの大きな南蛮帽をかぶりだしたのを、今日では「珍しい物好き」とか「おしゃれ」といった観察で片付けているが、あれは外征用の準備ではなかろうか。19世紀の明治初年でも、外国旅行をするとなると、横浜関内の唐物屋へ行って、洋服を注文して仕立てさせ、それを着込んで出かけたものだが、信長の場合にも、これはあてはめて考えるべきであろう。 |
巨鑑 |
さかのぼって1571年の9月30日。日本暦の9月12日に信長が延暦寺の焼討ちをした時には、フロイス書簡は、 「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、賛美されるべきかな」と、天主教布教の障害であった仏教の弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マカオから来ていた宣教師は褒めた。この年の10月、カブラル布教長の一行は、九州の豊後から、まず堺へ入り、マカオ火薬輸入業の櫛屋(くしや)町の日比屋了珪(りょうけい)宅へ泊まった。河内、大和、
摂津、山城と次々に廻って歓迎を受けた。といって、彼らが天主教の司祭だから尊敬されたというのではない。マカオから来ているカブラル達には、硝石という後光がさしていたからである。「良質の硝石を入手できるか、できないか」が、この時代の戦国大名の生死を握っていたから、よき硝石をマカオ商人から分けてほしさに、反天主教徒の松永久秀や三好義継も丁重にもてなしている。中には宗教よりも硝石欲しさに参詣にきた武将達も
多かったという。12月には、カブラルは、フロイス、ロレンソの使僧を従え、堺の火薬輸入代理業 者に案内されて岐阜城の織田信長を訪れている。火薬が欲しい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍しい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は貴重品だった美濃紙80連をプレゼントに贈っている。 1573年4月30日。日本暦の天正元年3月29日に僅か十二騎の小姓だけを引き連れた信長は、突如 として岐阜から上京し、洛北知恩院へ入った。やがて軍令を四方に出してから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には一万余の兵が終結した。フロイス書簡によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、「仏教徒を庇う足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。 さて、本能寺へ、信長が小姓三十騎連れてきたのが疑問視されているが、当時マカ オから来ているポルトガル人は「信長は、いつも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて編成し、自分から引率して行動を開始する習慣がある」のを知悉していた。つまり、日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向かって進撃すべきなのに、大江山の老の坂より途中で変心して、『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向こうの資料とはこういう点がはっきりくいちがう。 つまり京都管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼らは「5月29日に安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌6月1日は雨降りだったが、2日には、また黒山のような軍勢を、ここに終結し、自分から引率してゆくもの」と従来の慣習どおりにみていたようである。----ということは、日本側の史料では、「6月2日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近寄ったことは、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、「本能寺の門前に早朝から集ってきたのは、従来通りの軍団の命令受領」と、彼らは、そういうとりかたをしているようである。そして、従来の日本歴史では信長とか家康、秀吉の個人のバイタリティーに重点をおき、英雄主義を謳歌するあまり、天文12年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸をとばす火薬を無視しきって、「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、持ってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、「自分達がマカオから輸入してくる硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗が決まっている」と、明瞭だったことだろう。 なにしろ足利15代将軍義昭にしろ、「仏教側だから火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止。鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も和簡礼経によると、4月27日付で、信長の申し出のとおりに泪をのんで無条件降伏をしてしまう。 こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたのは、我らの火薬供給である」という信念を抱いていたことは疑いない。また、信長も、事実そのとおりだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。のち秀吉や家康が切支丹を弾圧したり鎖国したりするのも、彼らが仏教徒だったから、嫌ったということより、本質的問題は、やはり、この輸入硝石である。他の大名の手へ宣教師を通じて入っては困るからと、治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は長崎から自分らだけが独占的に硝石を輸入することによって、その平和を守ったのである。信長がマカオを狙って、輸入に頼らず硝石を押さえたがっていたのは、その部下の信者の大名達の密告で既に宣教師達は知っていた。 オルガチーノ書簡1578年、月不明に、「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が堺へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を調べに行った」と出ているぐらい神経質になって、彼らは用心していたのに、本能寺の変の1ヶ月前に、従来の友好的な態度を、信長は自分から破棄しだした。これは後で詳しく書くが、「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師達が「天にまします吾らの神」と、教えを広めているのに、信長は従来は安土城の五層で祀らせていた白目(しらめ)石の自分だという神像を、5月1日、總見寺(当時は寺とは言ってない、社であろうか)を建て、ここで一般公開し、「我こそ、まことの神なり」と宣言した。参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている。 「天地に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、挑戦以外のなに ものでもない。マカオから来ていた宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目にうつったであろう。そして、「我々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」。畏れ疑っていた矢先、5月29日、信長は小姓三十騎をひきいて本能寺へ現れた。そしてその日の午後、大坂の住吉の浦の沖合いに、オルガチーノがかねて警戒していた7隻の巨艦と、夥 しい軍用船が集結された。司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男織田三七信孝。副司令官は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である。「出帆は6月2日」と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっているが、だが、彼らは、「マカオへ出帆?」と勘ぐったのではあるまいか。 1579年、日本へ巡察に来たルイス・フロイスは、日本準管区長コエリオより「日本歴史」の草稿を求められて、それを書いたという。だが、原本がマカオにあったから、18世紀まで所在不明で、その後モンタニヤ、アルバルズの両修道士により、イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されてポルトガル本国へ写本として送られた。これがアジュダ図書館に保管され伝えらたが、なぜか、織田東洋艦隊が建造された天正7年から、本能寺の変。および、その後の天正16年までの間の分は、どうしたことか欠本にされていた。おそらくなにかと都合が悪いからであろう。フランシスコ派の宣教師シリングが1931年3月に、その前半をトウールズで、翌年リスボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、フロイス日本史は神の恩寵により定本になったというが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。2百年もたって同一人のシリングが相次いで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その間のものは何処まで真実か判らない。それが何よりの証拠には、織田艦隊のことは少しは出ているが、肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。そんな「日本史」なんてあるものではない、と私には思える。老人雑話というのに、明智光秀の言葉として、「武者の嘘を、計略といい、仏の嘘を、方便という」とあるが、「神様の嘘は恩寵というのだろう」とさえも言いたく なる。あまりにおかしい。リットン報告書が出された頃である。 さて「何か知っていられては都合の悪いことを、知っている者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について、アメリカ のニューヨーク・ポスト紙は書いているけれど、天正年間の日本においても、やはり 同じ事であった。ジュスト右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンへ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から1年10ヶ月目に、何の御手柄か、一躍、 岐阜城主、大垣城主と栄典させてもらえたのに、長久手合戦で「討死」という形式で 共に抹消。ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、10ヶ月で大岩山で消されている。残った者は誰もいない。だが、俗説では、「6月2日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが 第二の答えで、定説である。もちろん光秀も、丹波亀山から彼らを率いてきたと、(途中で6時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、辻褄が合わないが)そういうことになっている。しかし、もし亀山から丹波衆を率いて、光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後4時、瀬田から右折せずに光秀は坂本へ左折している点は、先に指摘した。だが、こんな明白な事実さえ、誰からも今日まで問題にもされていない。そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、 丹波亀山へ戻っていない。 (もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で動いたものなら、亀山は光秀の本城であるし、なぜそれを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱりわからない)だが、何人も疑いを抱かない。変に思わない。もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しの後、光秀から離れてしまったために、6月12日、13日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は旧室町幕府の奉公衆を加えても一万に満たぬ寡兵となってしまい、三万に近い秀吉軍に対して破れ去ってしまうのである。そうでなくて、もし、この6月2日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備にまわしていた秀満らの坂本衆三千は別計算にしても、天王山の険を押さえることもできたし、これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかつ二万の直属部隊でもって、この決戦に臨めたわけである。なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたのかということも、やはり、「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。 |
奇怪 |
攻め寄せてきたといわれる一万三千の丹波衆の軍勢もわけがわからないが、攻められたと称せられる信長の方も、常識では、てんで理解に苦しむものである。これまでの小説、映画、テレビのどれをみても、白綸子か白絹の寝間着を着たままで、かなわぬまでも必死に敢闘精神を発揮し、やがて傷つき、力尽き、「さらば、これまでである」と、信長は一室に入って、心静かに切腹するような具合になっている。また、読む側も見る側も、これに対して何らの疑点を抱くこともなく。いと素直に、そのままで受け取ってしまい、「信長というのは強い男だった。だから、おめおめ座して敵の手に殺されるようなことはあるまい。かなわぬまでも弓を引き、槍をとって戦い、そして潔よい最後を遂げたであろう」としか想わないようである。後で原文は引用するが、これは信長公記の巻末の(その15)に、「信長公、本能寺にて御腹召され候こと」というタイトルで載っているものの、これ皆焼き直しである。 筆者の大田牛一というのは、尾張の人間で、信長の祐筆で、今でいえば、秘書課勤務のような人間だった。そして、まさか彼が臆面もなく、あつかましくも書いたものとも想えないが、その第13の巻頭に、「本記事に、一点の虚飾なきを誓い、除く箇所もなく、また書き添える部分もない」と、はっきり「不除有」、「不添無」といった、ことわり書きさえつけられている。と、大正11年刊の尾張の勤王には明示されている。(人間の社会では、尤もらしいことをいうやつは、あらかた嘘つきで腹黒い人間だし、尤もらしい話こそ、それは、みなデフォルメされた眉唾ものでしかない)と、私なんかは、これまでの人間関係で蒙った被害体験からして、「巧言令色それ仁すくなきかな」とは思う。だが、普通の人は疑うよりは信じる方がきわめて楽だし、それに手軽だから、ついこれを、さも信頼できるもののような受取り方をしている。ひどい人になると「大田牛一も信長の家臣の端くれだから、本能寺へ伴して行っていて、その最期まで身辺近くにあって、立ちあって書いた、これは記録ルポである」と、その著書に説明しているのもある。びっくりさせられてしまう。 そして現在のようなマイホーム時代になると、この本能寺の場面に、美濃御前までが現れてくる。テレビなどでは、お濃の方をつかまえて信長が「コイ、コイ」という。だから、花札賭博でもやるのかと興味をもって視ていたら、どうやら、それは、呼び名を知らずに間違えたらしく、本能寺では夫婦共働きの敢闘ぶりをみせ、死んでしま う浪花節調になっていた。後述する話だが、その当時にあっては、最初に「信長殺し」の真犯人として扱われていたのは、他ならぬ、この美濃御前こと奇蝶であったのである。 さて、これも後で詳しく説明するが、当時本能寺で包囲されていた信長の一行で、生きて脱出した者は一人もいない。なにしろ、まる3日間にわたって百にも及ばぬ黒焦げ焼死体を、血眼になって検屍しても、信長の遺体が判らず、大騒動したと言経卿記や兼見卿記にもあるくらいだから、瞬間的に全部がふっ飛ぶか、すごい高熱で白骨化されているのである。黒焦げや生焼け程度なら、仔細に検分すれば、鑑別もまだつく。腹を切ったり、小姓が介錯をしているならば、どの遺体が信長かは、誰が見てもこれなら直ぐにも判った筈である。それに、もし、それが普通の出火なら、周囲を囲んでいた一万三千が、すぐ消火に 築土をかけのぼって入り込んでいたであろう。なにしろ全部焼けてしまっては、まるっきり元も子もないからである。それに、当時のことだから消防自動車や消火栓はなかったろうが、一町四方の本能寺の周囲は2メートル幅の濠があって、連日の降雨で溢れていて、防火用水には、こと欠かなかったはずである。 それなのに火力が強く濠を越して四方の民家に類焼させている。といって、この場合どう考えてみたところで、一万三千の寄手が、砦や城攻めではあるまいし、お寺にすぎない本能寺を持て余して、包囲後3時間半もたってから火攻めにして片付ける筈もない。今でいう「不審火」。どうしたって、これは寄手からすれば意外な火の筈である。だったら寄手は驚いて飛び込んで、水をかけたり、筵で叩き消しにかかっているとみるのが、それこそ常識というものであろう。吉川太閤記では、茶碗屋の阿福が、無事に茶碗を抱えて脱出してくるが、あれは話を面白くするためのフィクションである。また、大田牛一が、このときルポライターとして同行していることなどもあり得ない。だいたい、有名人に報道部員やカメラ マンが随行するのは、これは新聞や週刊誌ができてからのことで、385年前には瓦版といった木版の印刷物も、まだまだありはしなかったのである。 もともと大田牛一は織田の臣である。だから、信長に伴していた小姓達や、その馬の口取りの仲間の名ぐらいは知っていただろう。そこで、その連中の名を組み合わせて、(かくもあろう、こうもあろう)とイマジネーションで書いたものが、「本能寺の情景画」であろう。後年、「講釈師、見てきたような嘘をつき」という川柳が江戸中期に現れるが、大田牛一は、つまり、その元祖のようなものだったらしい。そして、受取る側も、信長というイメージから、アッと云う間に吹っ飛んでしまったのでは面白くもない。また猛火に呑みこまれ、腹を切る暇もなく、あっけない最期をとげても、これまた、もの足らない。それではとても承知できなかったのであろう。だから、いわゆる死花を咲かせて、「白綸子の寝間着のままでも、ヒュウ、ヒュウと弓をひかせて、矢継ぎ早やに何人かの敵を仕止めさせ」、そして、おまけとして「槍までふるって次々と敵を突きまくらせ」、それから肘を負傷してしまったから、「やむなく切腹」というように、納得しやすいように順々と話を追っていって、「人事を尽くし天命を待つ」といった段取りにしたのではないだろうか。 もちろん、それが事実であっても、なくても、‥‥その方が真実らしく、受入れやすいから、迎合するために、そう書かれたものであろうし、また今日まで、如何にも そうらしいと思われるから、誰も疑義を挟まず、そのまま、<真実>に化転(げてん) して伝わってきているような気がする。なにしろ「そうである」ことより、「そうだったらしい」ほうが、どうも<真実>というものにされてしまう可能性が、現実的には、極めて多いようである。 ついでに、大田牛一の素性も解明すると、これなども現在の富山房の国史辞典などでは、はっきりと、「尾張春日井郡安食村に生まれ、通称又助。近江の代官を勤め、のち秀吉に仕え、天正17年、伏見の検地奉行。その功により、和泉守に任官。のち秀吉の側室松丸殿つきとなり、慶長15年8月、84歳まで生存と猪熊物語の奥書にあり。信長記の他、著書多し」ということになっている。ところが、木曽川を越えた岐阜には「印食上人」でも知られている「印食」というのはあるが、国史辞典に明記されている「安食」などという地名は、愛知県春日井郡 はもとより当時の尾張美濃の古書をみてもありはしない。つまり、これは「尾張万歳」の発祥地とされているところの、「尾張春日井郡味鋺(あじま)村」の間違いである。これは山崎美成筆・民間時令に、「無住道跡考に曰く。正応5年(1292)頃より万歳楽と号し、正月の初めに寿(ことほ)ぎの謡をうなり、家家にて唱わしむ」と出ているような、関西の唱門師と同じ様な集団結成である。1738年の元文3年に、尾張藩の郡代役所へ提出されている、尾張万歳由緒書上げ書にも、 「あじま村のものは、往古より陰陽師を代々相いつとめ、村内に頭分となる家名十六人も、今これあり」とある村なのである。つまり大田牛一というのは、尾張万歳を神前に供える陰陽師の出身者である。ということは、信長の時代は、仏を信じる者と神信心の者が、かっきり二つに分かれていて、両者の間は、全く仇敵同志だったから、牛一のように神徒に属する者は、主取りをするのでも限定されていたということである。そして、こうした地域は、別所とか、東海では院内(いんだい)といった名で呼ば れていた。 もちろん、織田信長の出身も、荘園志料という古文献によれば、その中に集録 されている妙法院文書によれば、「越前国の八田別所」という文字が康永3年7月の記録として入っていて、その附記に、「八田別所は、越前丹生郡の織田庄の内。この地より、尾州織田家は発祥せり」 とある。この年号は南朝のもので、北朝の興国3年つまり1242年にあたっている。なぜ南朝年号がついているかというと、これは妙法院という仏教徒側の記録であって、八田別所の神徒である異教徒を、加賀平泉寺の僧侶で、良寛禅師というのが、これを「はち開き」と称えられる改宗をさせ、仏徒に転向させたという功名帖。つまり彼らの勝利の記録であるからに違いない。おそらく信長の先祖の織田の庄の神徒は、良寛坊主が国家権力を背景に、改宗を迫ってきた時点において、越前から尾張へ集団で逃亡してきたらしいと想われる。というのは、群書類従に収録されている大江匡房のものにも、「東国美濃参河遠江の神を祀る者は、徒党を組み豪貴をなす」と出ているくらいである。だから美濃と参河に挟まれた尾張だって、大いに徒党をつくって、豪貴な生活をしていた筈と想像ができる。 だから、今でも信長の出た名古屋市には、八田、八坂の地名が、そのまま各地に残っているし、かの有名な安国寺文書にも、今名古屋駅のある中村の出身者の木下藤吉郎を、毛利家に対して、「さりとて藤吉郎は八の者にて候」といった具合に扱っている。そして名古屋市自身が、その八の字を○に入れて、郷土の生んだ英雄秀吉を偲んで市章にして、現在も用いている。昔の旗印である。 さて、信長の父の織田信秀のいた愛知県の名鉄線の勝幡(しょうはた)の城跡には、今は何も残っていないが、千葉県の香取郡小見川へ、「織田の幡」をもって分離したと伝承される織幡(おりはた)地方には、現在も遺物は残っている。(斎藤道三に追われた土岐頼芸も、織田信秀を頼って美濃奪還に攻め込んで敗れた後、千葉の親類の許へ行き、そこの城内で眼を患って治療していた記録があるが、美濃や 尾張と千葉は、戦国期には相当に行き来が密接にあったらしい。さて、織幡は、古書によると「別所千軒」という異名があるくらい昔は賑やかな土地だったということで、その別所の白山権現の社殿には、高さ三十糎あまりの白山神の神像が今でも祀られている。つまり「八の幡」を祀る八幡神社と、加賀の白山信仰の白山神社が、当時はこれら神徒側の者の信仰の二大神柱であったようである。 |
彦左 |
大田牛一の信長公記を「あれはあやしい」と筆誅を加えた者もいないではない。信長の死後40年たった元和8年4月11日に、原文のままで紹介すれば、「さてまた信長記を見るに、偽り多し。三つに一つは事実だか、あとの二つは似 たようなことはあったが、まあ出鱈目か。根も葉もない嘘っぱちである」と、その著の三河物語で論破しているのは、大久保彦左衛門忠教(ただのり)で、ほぼ信長とは同時代の彼は、「誤りだらけだ」とその具体例まであげているが、さて「信長殺しは、誰だった」とまでは書いていない。だから、この点においても彦左衛門の主人の徳川家康が疑惑に包まれてもくることになる。しかしである。信長記という本は、織田信長の晴れ舞台である「桶狭間合戦」の記事さえ、あろうことか永禄3年なのに、天文21年と、7年も間違える程度であるし、この信長の対今川義元合戦の有様も、現在では調べもせず、鵜呑みで、そのまま踏襲され信じられているが、当時の彦左にすれば、まこと噴飯ものの「桶狭間合戦」であったろう。だから、三河物語を手掛かりにして、どこの三分の一が正確で、あとは出鱈目なのかと、解明する人がいてもよい筈なのだが、なにしろ彦左衛門は、後に「一心太助」という講談に引張りだされ、副主人公にされているから、ともすれば歴史と講談を混同する傾向上、タライに乗って登城するような人間の書いたものはと、てんで顧 られていない。それに変な話だが、「天下の御意見番、大久保彦左衛門」という講談は、徳川家の御政道讃美のPRとして、江戸期から辻講釈に出ていたのに、肝心な信長記の方は、ずっと年代が遅れて、明治44年になって初めて史籍集覧の第19集に収録されて、一般には公開されたのである。つまり江戸期においては発禁扱いの<お止 め本>の流通禁止のものだったから、その史籍集覧の解説にも、「これ町田久成秘蔵に係る寛永期の珍写本にして、世にも稀らし」と書かれている。 信長記は、この町田氏が秘かに隠匿していた一揃の他には、内閣文庫の寛延3年に筆写されたという原本信長記と、やはり旧前田侯爵家で秘密に蔵われていた一部きりの古写本の三点しか現在には伝わっていない。もちろん、この他に(總見寺本)で俗に織田軍記と言われるのや、類似した軍談めいたものも有るにはある。しかし、明治44年刊の、史籍雑纂第3巻に納められている亨保年間に発表された建部賢明の大系図評判遮中抄によると、「寛文より元禄にかけて、近江の百姓の倅にて源内なる者あり、偽って『近江右衛門義綱』と詐称し、米塩の資を得るため系図偽作を業となす。また、この者は戦国期に材をとりて、古書にみせての贋作書も多くかき、いま世人これを知らずに真実として扱いているもの、中古国家治乱記、異本難波戦記、浅井三代記、武家盛衰記、三河後風土記、曰くXX軍記など、その後、枚挙にいとまなし。北越軍談のごときも、源内の偽書を引用し、それを論証とするは、これ愚なり。そもそも、この源内というは、青蓮院の尊純親王に稚児奉公中、銀製仏具を窃取し放逐されし後も、その盗癖生涯やまずして云々」とある。青蓮院とは昨年重要文化財を執事の役僧が、無断で盗み売りしたが無罪になったと いうので、有名になった京都の寺である。 さて、この「贋本つくり」の天才ともいうべき源内は、元禄戌辰つまり1688年まで生きていて、書きまくったと伝わる。すると町田本信長記として伝わる一部が、寛永期といえば、それは彼が贋作生活を始めた26歳頃までの年号にあたるし、町田侯爵家本の写本も元禄期のものである。原本信長記のごときも、それより後期の写本である。これぞ、まさしく源内の筆写でないとは、誰が言い切れるだろう。(なにしろ、こうした本は印刷されたのでは なく、一冊ずつ手書きされて造本されたものである) もしも大田牛一自身のものならば、なんぼなんでも、大久保彦左に指摘されるように、三つに一つしか事実に符合せず、誤りだらけというのはひどすぎるから、彦左が晩年に入手して読んだものは、ことによったら源内がリライトした海賊版でなかったか、という疑念さえも生じてくる。もちろん源内も商売として盛大にやっているからには、源内グループというライターを多く抱えていて、彼らに書き写しを次々とやらせていたのであろう。そうなると、今日伝わっている信長記は、どれも三種とも、これは贋造物ということになってきて、真実性はもてなくなってくる。といっても、今日、信長を解明したり、その死因を追求するとなると、残念ながら、これしか日本には他に手掛かりはないのである。だから、根本史料と目されているこの信長公記の肝心な部分を、ややくどいが、どうしても原文そのままで、ここで引き写しにして、まず、それに基いて解明するしか、「信長殺し」の緒口は解いてゆきようもないのであろう。短いものだから全文を、そのままで転記することにする。 |
「信長公、本能寺にて御腹を召され候こと」 |
六月朔日、夜にいり、老の山(大江山)へ登り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国への道なり。左へ下れば京へ出ずる道なり。ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候。すでに信長公御座所の本能寺を取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。信長も、御小姓も、「当座の喧嘩を、下々の者共が、しでかし候や」と、思召され候のところ、一向に、そうではなく、彼らは、ときの声をはりあげ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。「これは謀反か。如何なる者の企てか」と御諚があったところ、森乱丸が申すようには、
「『明智が者』と見え申し候」と言上したところ、「‥‥是非に及ばず」との上意に候。隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ、面御堂(めんごどう)の御番衆も御殿へ一手にな
られ候て、御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て、討死。この外、厩仲間衆の藤九郎、藤八、岩新六、彦一、弥六、熊、小駒若、虎若、その倅の小虎若を初めとし二十四人が、そろって御馬屋にて討死。御殿の内にて討死をされた衆。森乱丸、森力丸、森坊丸の三兄弟。小河愛平、高橋虎松、金森義入、魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎、菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松
、山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松寿らの御小姓掛かり合い、懸り合い討死候なり。この内、湯浅、小倉の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中に交じり入り、本能寺へ駈け込みて討死のもの。お台所口にては、高橋虎松が暫く支え合せ、比類なき働きなり。 信長、初めには、御弓をとりあい、二、三つ遊ばし候えば、いずれも時刻到来候て、御弓の絃が切れ、その後、御槍にてお戦いなされ、御肘に槍疵をこうむられて引き退がられると、「女は苦しからず、急ぎ、まかり出よ」 と、これまで御傍にいた女共の附き添っていた者共に仰せられ、追い出され、「御姿を、敵にお見せあるまじき」と、思召し候にてか。もはや、すでに火をかけて、次第に焼けて来たり候ゆえ、信長はそのまま殿中の奥深くへ入らせたまい、内側より、御納戸口をたてて閉め、それにて無情にも、御腹を召され。 これだけが問題になる原文の全貌である。最後の「御腹を召され‥‥」などという結び方など迫真の表現で、疑う余地もないような如実的描写で締めくくられている。だから、これが織田信長の最後を伝えるところの、唯一無二の史料として扱われ、徳川方の史料であるところの当代記6月2日の条も、殆ど、これと同一内容のものが納めて入っている。ただ原本信長記の方だけは、「明智が者と、見受けられ」が「明智が手の者」となっている。これも同一視されやすいが、いざ解明にあたると、これはこれで相当な差異が、当時の用兵上にはある。勿論これは対比してあとで解明する。 さて、種々疑わしい点は多いにしろ、<信長殺しは光秀ではない>ということを引き出すのには、何といっても、解明するには、国内ではこれしか伝承されている資料はないのである。もちろん、歴史家が説くような「大田和泉守牛一」の著述であるとか、よって「紛うことなき真実」といった意見には、二十余年これ一筋に打ち込んできた私は、とってもついてゆけないし賛成もしかねる。私などが思うには、当初は大田牛一の書いたものであったにしろ、それが源内グループの筆耕屋の手にかかって一冊一冊が手写しされているうち、時代の影響でリライ トされ続け変化したものとみる。たとえば兵法雄鑑、甲陽軍鑑の手書き写本にしろ、これらはおそらく勉学のための写本と考えられるが、そうしたものでさえ、写 している間に誤ってくるとみえ、同一のものは全然二つとない。まして売本の筆耕ときたら、どこまで忠実に書き写したか疑問である。といって信長公記も江戸期の筆写だからと、それと同一視するのではないが、なにしろリコ ピーのなかった頃のことである。だから、これが不完全な写本であるという点においては、異見をはさむ人もでないだろうと思う。 それと、もう一つ。源内の贋造本として、江戸中期に既に書名を並べられてるものと、この信長公記の文章や用字法が相似している疑問である。「時代時代でそういうものは同一であっても不思議ではない」と説く人もあるが、そんなことを言ったら昭和期の文学などは、みな同一文体でなくてはならない。だが、それでは文学全集など出しようもない。「文体は、その人間そのものだ」と考えている私などには承服できない。とはいえ、定説化してしまっている信長公記という<真実>を冠せられた古文献に挑むのは、それは、やや冒涜かもしれない。だがである。(アポストロ(使徒))パウロは叫んだそうである。「オムニヤブロバーデエト、クオツドボスムエスト、デネデー(あらゆるものを探し出し、その信じうるものをこそ見つけよ)」と。これは使徒行伝のテサロニカ第5章のたしか第20節か21節の言葉である。よし、背徳であるにしても、私の試みを、必ずや、主は赦し賜うであろう。と想うことにする。 さて、である。この信長公記の引用した一章。まず最初に、第1行から7行目までを、繰り返して読んでみると、ここに何んとも判読しにくいところがある。この為に原文は改行していないのを、わざと三つにわけたのであるが、これを順を追うてA、B、Cにしてみると、こういう内容らしい。 (Aの行)は、6月1日の夜という時日の設定と、大江山の老の坂からのコースの説明である。今日のガイド・ブックと同じらしい。 (Bの行)は、原文をパターンすると、 「ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候」とあっ て、この桂川をわたるコースはわかるが、夜も明け方という午前4時に<夜>自体がまかりなったのか、誰かが歩いてきて、まかりなったのか、ここのところがわからない。主格が欠けているためである。といって、夜明けがまかりなって、朝に近づいたというきりではわからないから、それを誰か判らないが、まずXと擬人化して仮定すれば、(A+B)は、「X氏らは6月1日の夜になってから、老いの山へ登って、摂津へのコースをとらず、 左へおりる京都コースをとった。桂川を渡ったら、夜も明け方近くなってきた」というのだ。ところが、(Cの行)になると、AやBの平板な記述とは全く相違して、俄然、「すでに」という過去形を頭にのせて、「信長公御座所の本能寺を取り巻きの衆」が、その本能寺へ五ヶ所から「乱れ入るなり」という行動の描写に、支配されているので ある。しかも、「乱れ入ったり」なら主観であるが、「乱れ入るなり」では客観である。こうなると(A+B)までにおいては、主格であったX氏らは(C)の行に入ると、単なる傍観者でしか、ならなくなる。 「‥‥桂川を越えて京へ入ったら(そこには兵が充満していて)既に(もはや)本能寺は包囲されていた」ということになり、そして、その後が、「その本能寺を取り巻いていた衆が、X氏らが到着した時には、既に五方より『ワアッとばかり』乱入していたあとだった」。これがCである。つまり(AとB)には、X氏らが主格であったものが、(C)になると、(既に取巻いていて本能寺へ乱入した衆)とよぶY集団が主格として、ここに登場してくる。つまり両者は全く別個のようである。だから6月1日の夜半に行動を起し、本能寺へ向かった集団が、この描写によれば、 (主となっているX)と、(実行部隊のY)との二つに分かれている。そしてXとY との関連があったのか、なかったのかという点になると、「取り巻きの者」なら、Xの指揮下とも解釈できるが、「取巻きの衆」では、まるっきり同格で、これは指揮下の勢力ではない。これは例えば、「‥‥おい、皆の衆」という三橋美智也の唄にもあるように、衆というのは、その家来や、使用人をさすものではない。ほぼ同格の他人である。 だから、ここまでを繰返して読むと、 「桂川を渡って入洛したXと、本能寺を既に襲っていたYとは、まるっきり無関係な存在であったこと」が、この冒頭に、既に匂わせて書かれているのである。とも読むことができる。つまり、何処の箇所にも「桂川を渡った部隊が、そこから本能寺へ乱れ入った」とは出ていないし、XがYらに逢って、「早く到着して、よくぞやった。御苦労様である」などとは言っていないからである。だから本能寺襲撃の謎。信長殺しの加害者が誰かということは、つまり、このXと Yの解明に掛っているのではなかろうか、とさえ想えてしまう。それなのに、この肝心なことを信長公記では、信長をして「Who are it」(誰なのか)と言わせているだけなのだ。彼自身の口からは、何も背定も確認もさせていない。それに対して、また森蘭丸も、これも漠然と、原本信長記の方では「(明智が手の者)と見受けられる」としか記述されていないのである。 この「‥‥の手の者」というのは、後年の江戸期になっても「何々御差配の手の者」といえば、その指揮下にあるという意味だけであって、直属ではないことになっている。だから、奉行役所人ではない民間の岡っぴきなどは、正式の給与形態をもって奉公している訳ではないので、これを「お手先き」といったものである。つまり、その同心の下僕や小者とは違って、家事の手伝いや庭掃除などはしない。ただ役目の上での繋りだけだ、と断っているのである。だから、 (明智が者)といえば、これは明智日向守光秀を寄騎親として、その指揮下に入って いた寄騎衆のことであって、これは、その直属を指すとは限らないようである。つまり、信長の軍団編成制にあっては、これは安土城の最高統帥部から「明智が手 につけ」と命ぜられていた、丹後宮津の細川藤孝や大和郡山の筒井順慶、摂津の高山重友、中川瀬兵衛らである。地域ブロックの単位編成だった信長の兵制は、その天正9年2月28日や翌10年の京都での馬揃えの観兵式でもわかるように、これは判然としていたものである。いわば、これは近世の「方面指令軍」の制度である。だから、蘭丸が、「明智が‥‥」と個人名を言わずに、現今のように、「あッ、関東軍」とか「近畿管区司令軍」と報告していたら、すっかり感じは変って くる。しかし、そうなれば、信長公記の後に続く、(「‥‥是非に及ばず」との上意に候)という、まことに簡単な場景描写では納まら なくなる。なにしろ普通の場合でも 「何々と見え申します」といえば、「そうか、間違いないか」ぐらいなことはいうものである。まして蘭丸の報告では、「明智が者」または「明智が手の者」と言っているだけである。けっして信長公記でも、「‥‥明智光秀の謀叛」などと、そのものずばりなことは言っていないのである。また信長自身も聞き返してもいない。明智の家来にしろ、その寄騎の者にしろ、そこに指揮系統を明白にするために光秀自身の出馬か、代理を現わす馬印が出ないことには、これは明智光秀の行為とは認められないからである。 現行法によっても、たとえば交通事故を起した車体に、その所属会社の代表又はそれに代る者が乗っていない限りは、事故責任は、その車の運転手だけに止まり、損害補償の枠が、その所属会社まで拡大され摘要されるに到ったのは、きわめて最近の判例である。だから、385年前においては、家来や寄騎が企てたことに対し、その主人や寄親は、都合のよい時には、さも自分が指図をしたように顔を出しても、都合の悪いときは「一向に相存ぜず」と頬かむりをして通したものであるし、また、それで通ってい た。元亀元年に木下籐吉郎が横山城の城代をしていた頃、その寄騎に江州蒲の穂の城主堀二郎及び、その倅の樋口之介というのがいた。彼らの守っていた箇所へ浅井勢が攻め込んできた時、藤吉郎は横山城を逆封鎖されていたから、百騎ばかりの精兵だけを率いて応援に駆けつけた。ところが当時、寄親の木下籐吉郎は江州長浜5万貫なのに、土地にいついたまま信長方についた堀家の方は藤吉郎の倍の10万貫の身代だったから、つい見下げていて、「‥‥5万貫武者の藤吉は、たった一束の兵をつれ、寄親じゃからと、大きな顔をし くさって、やってきおった」と耳に聞こえるように、わざと雑言をした。それでなくとも、やっと江州長浜城主に成り上がったとはいえ、コンプレックスの塊のような籐吉郎にとって、これは聞き捨てならぬ一言だったから、すぐさま種々のでっち上げをして、これを自分直接にはきり出せぬから他の者の口を使い、さも尤もらしく「近江蒲の穂の堀二郎父子は浅井久政と通じ、お味方に仇をなす裏切り者」と信長に直訴をさせた。この場合、寄騎の堀二郎が敵と内通していることが発見したのなら、その直属の寄親の木下藤吉郎も、「監督不行届」のかどによって謹責処分されて、しかるべきなのに、結果は反対である。「寄騎の悪行には、さぞ手をやき、迷惑したであろう」と没収した蒲の穂の10万貫を、そっくり信長は、慰籍料として籐吉郎に与えている。だから木下藤吉郎たる者、私憤を晴らした上に、所得倍増どころか3倍になってしまったという話が当代記や信長公記に出ている。つまり「木下の手の者の堀二郎」が内通しても、責任者たる木下藤吉郎には何の咎もなく、かえって加増までされている時代なのだから、「明智が手の者」とか「明智が者」と聞いただけで、「明智の手の者の誰か。家来の何者か」とも確認もせず、さっさと諦めてしまうのは訝しい。ここに無理があり、謎がある。 |
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とは言うものの、なにしろ、「本能寺を襲った者は、それは明智光秀」という定説が一般化してしまっているから、語句の上の注釈で、私がとやかく言っ
たとしても、詭弁を弄しているようにとられるかもしれない。また、その危険性も充分にあろう。だから、私は話を反転させて、今日まで<真実>として伝わっているように、「明智と見受けた」という、一つの仮定のもとに、立ってみることにする。
さて、当時の習慣では、主人が存在することを示すためには「馬印」を立てる。そして相手方に対して、その責任の有無をはっきりさせる筈であり、これが定法である。 そこで明暦版の「御馬印武艦」によると、「あけち、ひうかのかみ」は「白紙たて一枚に切目を入れた旗もの」とある。これが總見公武艦にいうところの、 「白紙のしでしない」である。これは神棚にあげる神酒の壷にさす、鳥の羽の片側のような物、つまり白紙の左耳 を袋状にして竿に通し、右側に切れ目をずうっと入れ、風にはためくようにしたもので、風圧を受けるから貼合わせなしの一枚ものである。当時の寸法として計れるのは美濃紙縁起・日本紙業史によれば、手漉きの枠が30センチから70センチ幅が最高だったというから、美濃全紙を用いたにせよ、およその形体は想像できる。勿論、このサイズは、眼の前に拡げた大きさであるから、本能寺のような周囲が1.2キロ平方であれば、信長のいた客殿を中央とみても、これに築土外の堀割1メートル80を加え、やはり600メートルの距離ともなるから、これは、「遠見物体に対する被写距離計数の算出法」という旧日本陸軍の「砲術操典」の測定法に従って計算すると、縦1メートルの物でも600メー トルの間隔で割り出すと3センチ弱にしか視えないとある。 ところが、である。これは視界が良好な、晴天の太陽光線による肉眼識別のものであって、 (「ようやく夜も明け方にまかりなり」で、京都へ入ったところ、「すでに信長公御座所本能寺を囲み居る」)といったような、午前3時から4時と推定される刻限において、はたして肉眼で、その3センチ弱が視えるだろうか。高橋賢一の「旗指物」によると、「水色に桔梗の紋をつけたる九本旗。四手しなえの馬印。つまり旗の方は『水色桔梗』 といって、紋自体が青い水色をもち、むろん旗の地色も水色だった。これは『明智系図』といって、光秀の子で仏門へ入った玄琳が、父の五十回忌に編したものに出ているので間違いない」とある。純白の馬印さえ見えない時刻に、水色の桔梗の旗が見える筈も、これまた考えられない。 さて、うっかり全文を引用してしまったから、ついでに解明しなければならないが、光秀の男児は二名しかいない。それなのに、この明智系図というのは鈴木叢書に所収のもので、寛永8年6月13日に、妙心寺の塔頭にいた玄琳という坊主が、喜多村弥兵衛宛に差出したものとあるが、これでは実子だけでも男子六人、女子五人。子福者になっている。そして作者は己を光秀の伜にしてしまい、姉の一人などは、講談で大久保彦左と渡り合う隣家の川勝丹波の奥方にしているし、弟の一人を(筒井伊賀守定次養子、のち左馬助と改め、坂本城にて自害)としている。が、俗に明智左馬助というのは、狩野永徳の陣羽織をきて「湖水渡り」で有名な講談の主人公である。実在の明智秀満の方ならば、これは明智姓でも光秀の娘婿で、その実父の三宅氏は、「天正10年6月14日に丹波横山で捕えられ、7月2日に粟田口で張付柱にかけられて殺された」と兼見卿記に記載があり、言経卿記には、「その年齢が63歳」とまで明確にされている。つまり高橋賢一は「間違いない」と言い切るが、明智系図や明智軍記といったものは、なんの真実性もない「為にするためのもの」であって、料にはならないものである。こういうのを資料扱いされては困る。 なお、この寛永期というのは、明智光秀の家老斎藤内蔵介の娘の阿福が春日の局となって権勢をふるい、その寛永6年10月10日に後水尾天皇に強訴をして、翌月8日、堪りかねた帝が、徳川秀忠の娘の東福門院の産んだ7歳(又は2歳)の女一官に帝位を譲られたりして、物情騒然としていた。そして、これから28年後の明暦2年。つまり由比正雪の謀叛騒ぎがあって5年目に、玄琳の俗世の時の伜というのが、やはり妙心寺にて得度し、密宗和尚というのになる。さて、この人は、自分は光秀の孫だと、「明智系図」の代りに「明智風呂」というのを、妙心寺の本堂参拝道の脇に建てた。30坪ほどの豪勢な桧造りの蒸風呂である。これに参詣人の善男善女を入れて、おおいに明智光秀のPRを、その当時はしたようである。現今のトルコ風呂、サウナ風呂のようなものであるが、今は閉め切ったままである。京都駅から車で20分程のところの花園に現存している。 さて、こういう時日は、玄琳にしろ密宗にしろ、事実上はなんらの血縁がないにもかかわらず、「謀叛人と定説のあった光秀の子や孫だ」と自分から宣伝するのは訝しいから、もはや、この時点では、「光秀無関係説」が一度は一般に流布され、ことによったら慰藉料でも出るような噂があったのではあるまいかと思われる。これは後でも説明する。 さて、である。動物と違って夜目のきく筈もない森蘭丸の目玉に、どうして、まだ暗く、夜の幕もあけていないのに、そんな保護色めいた水色桔梗の旗や、ペラペラした紙ばたきみたいな馬印が、識別できたというのであろうか。まがりなりにも「明智の手の者」とか「明智が者」と見受けたというからには、一体彼は何を視たというのだろう。現在ならば、こうした視野のきかない時には、超赤外線望遠レンズというのが、国庫援助で、コダックで開発されているそうだが、当時のドイツは、免罪符騒ぎである。カール5世陛下はレンズ事業などは知ったことではなかったろう、と想像される。だから、そんな便利な望遠鏡はまだ発明されず日本へも輸出していなかったろう。 それに、この本能寺包囲という限定状態は、どう考えても合戦ではない。だから源平合戦や当今の選挙運動のトラックみたいに、まさか、「明智党公認の○○が、ご挨拶に参りました」とは、声もかけなかったろうし、連呼もしなかったろう。そうなると、目からは視えず、耳からは聴こえずである。あとは臭覚の鼻であるが、本能寺に信長は軍用犬をつれてきている形跡はない。シェパード種は嗅覚がすぐれている点で警察犬にも採用されているが、当時は、今のように犬屋がなかったから輸入されてもいない。もし本能寺自体に飼犬がいたとしても、これは日本犬であろう。そうなると、お人好しの忠実さしか取柄のない純日本犬のことだから、人間のお伴をして焼け死んだぐらいが落ちで、とても外部の偵察などはしてない。また信長は、鷹によって鳥をとるスポーツが好きだったから、鷹匠の名前は信長記の、この時の一行には見えないが、一人ぐらいはついてきていたかもしれない。だが、鷹や雉が空をとんで「ご注進」とやるのは、あれは「桃太郎」の譚である。するとである。眼で視えずに耳に入らず、臭いも嗅げない状態で、まさか手さぐりに撫ぜもしない寄手の実体を、どうして森乱丸は判別したというのだろうか。つまり、 これは識別したというのではなく、当時の常識によって、もし答えたものなら勘だろ う。 なにしろ‥‥当時、関東派遣軍は滝川方面軍は上州厩橋。北陸方面軍の柴田勝家は富山魚津で攻戦中。中国方面軍の羽柴隊は備中高松で功囲中。四国派遣軍の丹羽隊は住吉浦から出発。指を追って数えていけば、どうしたって兵力を集結して、まだ進発していないのは中国応援軍の明智隊しか残っていないということになる。だから引き算をして、そこで差引きして残ったのを、「明智が手の者と見受けられ候」と答えた。という「原本信長記」の一章ができ上るのである。そして、この言葉の用法は、今でも 「〜さんと見受けますが、違いますか」といった具合に、必ず後にダブドがつき、?の疑問符をつけて、これは使用される。だから、信長公記の方でも、「明智が者を見受けられ候も、しかと分別仕つれず」というニュアンスを残している。つまり「如何でございましょう」という疑問なのだから、これに対して信長自身も、「そうか。そうであったのか」などと肯定もしていなければ、「まさか」と否定も、していない。ここの一節が(信長殺しは光秀か)どうかという分岐点になる微妙なところである。 しかし、講談や、それに類似した娯楽読物では、「花は紅、柳は緑」といった発想で、(信長殺害犯人は光秀)という純な決めつけ方で、判りやすくというか、読者に反撥を持たせないように媚びてしまって、ここを脚色し、「おのれ、光秀め、よくも 大恩ある、この信長に対して」と、はったと戸外を睨みつけ「おのれ、無念残念、口惜しや‥‥」と作っている。だが現実は、そうはゆかない。いくら20年考えたって、そんなことには、なりはしない。いくら首をひねっても、とても変なのである。 今の時点では「光秀が信長を殺した」というのが、一般大衆に植えつけられてしまった定説であり、常識であるが、この信長公記が筆写された寛永期というのは、 「明智系図」の説明でも触れたが、「光秀は信長殺しではない、寃罪であった」というのが、その時代では常識であり、定説になりかけていたのだ。でなければ、何も玄琳なんて坊主が、わざわざ大金をかけて、総桧造りの銭湯ぐらいの広さのある蒸風呂を、山門の入口に建てて、参拝人に入浴させ、これを「明智風呂」と命名し、「何を隠そう、私こそは」と、天一坊になって、儲けを企む筈はない。また、「明智系図」 だって、まさか素人の坊主の玄琳には作れっこないから(現代でも、泥棒のとってきた品物を売り買いする商人を「故買屋」つまり「けいずや」というが、その専門である系図屋の、源内のような専門技師に頼んで、相当の銀を払って何通も贋作してもらって、これを諸方にばらまいたのか、理由を考えればわかる。 そもそも坊主というものは、古来「坊主まる儲け」といわれるくらい、取るものはとって懐へ入れても、出す物は紙一枚でも惜しむとされている。それなのに玄琳や、その伜の密宗が、現在の観点からみれば、おかしいみたいに、「私こそは、謀叛人で主殺しの、光秀の忘れ形見であります」と、わざわざ、そうでもないのに名乗りを上げ、貰い溜めた銀を惜し気もなくばらまいたというのは、この寛永7、8年に、京では「光秀に贈位の沙汰が出て、その遺族には特別の沙汰」という評判が相当にあったものとみられる。今でも「ブラジルで死んだ一世の遺産」など新聞記事が出ると、「我こそ、その縁者である」と無関係な者まで名乗り出るのと、これは同じケースのようだ。 つまり、寛永期という17世紀は、「光秀は信長殺しではなく、故人の供養料として、遺族には慰藉料として、莫大な恩賞か、位階の褒美がいただける‥‥」といったような風評のあった時代だったらしい。だから、信長公記を、売本にするため、せっせと筆写する人間も迷ってしまって、是とも非とも書けぬままに、ここは徹底的にボカしてしまって逃げをうったのらしい。でなければ、「明智が(手の)者と見受けられ候」に対し、「是非に及ばず。と信長が上意候」というのでは、ぜんぜん文章が繋らないのである。なぜ、(是非に及ばず)なのかも判らない。ふつう私共が、この文句を使うのは、いよいよ万策尽きはてて、なんともならない最後の時のこれは終局語である。それなのに、この場合は、あべこべに冒頭に用いられている。だから、後年になると「明智と名を聞いた途端に、是非に及ばずと、すぐ観念してしまうからには、信長には思いあたるものがあったのだろう」と、揣摩臆測されて、後述するように、光秀怨恨説が40近くも作られてしまう。しかし、本当のところは、「是非に及ばず」と信長が言ったことにしてあるのは、筆写者自身が、原作と世評の板挟みになってしまい、途方にくれて、自分自身が(是非に及ばず)と、こう書いたものと私は考えている。また。それしか想えようもない。 |
(私論.私見)