1章、てきは本能寺

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1182信長殺し光秀ではない1」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 誤解
 天正10年6月2日。おれは、まだぐっすり瞑って居るところを、「ご謀叛にござりまする」と起された。「この本能寺へ‥‥して、何奴が押しかけて来たぞ」。「はい、白紙の四手(しで)しないの馬じるし。紋は桔梗‥‥明智惟任(これとう)日向守光秀と見うけます」。小姓薄田余五郎が、うわずった声で告げた。「そうか。表御堂(みどう)の番衆をあつめろ」。はね起きざま、おれは言いつけた。表御殿の広縁へとび出したが、空は桃色で、まだ薄暗かった。「調度もて」と、おれは四足の塗篭(ぬりごめ)剛弓を取りよせ、塀がないから四方より迫って来る敵に、矢つぎ早やに防ぎ矢をくれた。だが、小姓近習に厩仲間まで加えても百にもたりぬ小勢。やがて、敵影が築地を踏み越え、眼の前まで出てきた。弓弦が、上の大鳥打あたりで、ぶつんと剪(き)れ放った。もはや、これまでと見てとったか、森蘭丸が、かけよってくると、「お腹、召しませ」と切れた弓を頂きながら言った。だが、それに対して、「道具もて」。知らぬ振りをして、おれは怒鳴った。月剣と呼ぶ宝蔵院献上十文字槍を受取ると、段階から飛降りざまに、黒革胴の面頬武者を、思い切り根深く突き立て、抉り抜くと、返す穂先で、馬革胴の寸法(ずんぼう)武者の胴を、ぐさりと刺し貫いた。

 すべて、昔のままだが、誰もおれのことを「乱妨武者」とは呼ばず、「天下さま、お覚悟っ」と、突き立ててくる。日帰りの野駆けのつもりで出てきたので、誰も具足櫃など背負って来ぬから、みな素肌で、寝着ひとつで戦っている。小姓共、大塚又一郎、落合小八郎、小川愛平。けなげにも、おれを庇おうと、血みどろになって戦ってくれたが、なにしろ敵勢ども、おれ一人を目印に突き掛かってくる故、七、八人は倒したが、おれも肘の肉を削られて、槍が持てなくなってしまった。「お大事に、なされませっ」と小姓の菅屋角蔵がとんできて、己れの袖を破って肘をまいてくれたが、やはり痛くて腕は動かない。(室町の薬師寺の方はどうかな)と、ずっと気になっていた。そこの妙覚寺には、成人した嫡子の奇妙丸、今の城介信忠が居るからだ。「早よ、かくなる上は、お腹を召しませ。われら、おん供、仕る」。蘇芳を浴びたように真っ赤な顔をした小八郎が、おれを上縁までおしあげて言った。「うるさい」。口早に俺は叱りつけた。しかし、登って、板戸をあけると、黒煙が紅い火の粉を、絣(かすり)模様にしている。噴きだす熱気がむんむん、逆巻いていて熱くて、むせそうでもある。(死のう。死んでこまそ)と覚悟した時は、いつも死ねず仕舞いで、こんなに伜のことが気になって、すこしも死にたくない時に、何故おれは腹を切らねばならん。死にとうはない‥‥いやだ。と、俺は唇をかんだ。そして、ごうごう音させて、渦をまく炎を、ぐっと睨みつけて居るうちに、(その熱い火炎の芯を、辛抱して駆け抜けたら、その先に道がひらけて、妙覚寺の伜のもとへ行けそうな)そんな気がした。そう感ずると、矢も楯も耐らなくなった。昔、小豆坂で敵陣へ、まっしぐらに駆け込んだように、「奇妙」「奇妙」と吾子の幼な名を呼びながら、迸る深紅の火炎のまっ只中へ、おれは融け込むように走って行った。


 ----これは私の書いた本能寺の描写である。一人称で信長を扱い、その長子の信忠を、幼い日の奇妙丸という実像でなくしては、捉えにくい、男親の儚い愛情の虚しさと、 「人、いくたびか死を想う」。つまり人間は誰でも生きている間に何度も「死のう、死にたい」と想うものだが、案外、死にたい時には死ねもできず、今は死にたくないといった場合に、不本意に死んでゆくものなんだという、皮肉さをモチーフにした作品の最後の一章であったが、どう考えてみても、本能寺にこんな情報があったとは想えもしないから、これは、その作品(昭和40年4月号の小説現代所載の「乱妨武者」)を単行本に収めるにあたって割愛した部分である。


 と書くと、まるで廃物利用でもしたようにも想えもするが、従来の「信長観」というものは、こういうものであり、これが世俗における常識でもある。つまり、「織田信長という人の最期は、かくもあったのであろう」、「こんな風に壮烈きわまりない敢闘をしてから、潔よく、人事をつくしてのち、従容として死についたろう」 と、読む方も、そういう期待をもっているから、書く方も、抵抗を避けるように、それにおもねって、書いてきたものである。つまり、どの作家の書くものでも、みな似たりよったりなので、殆ど大同小異である。ただ変り種としては、この中へ、茶碗屋の阿福が出てきたり、忍者が出てくるくらいのデフォルメでしかない。しかし、「こういう莫迦げたことはない」、「こんな本能寺の場面はあり得ないことだ」といった例証として、ありふれた概念的な信長の最期の場面の見本として、初めに掲げるのに、まさか他人の書いたものを持ってくるわけにもゆかないので、自分のものをのせたのである。こうした描写のもととなる下敷、つまり種本という資料は、当代記、天正記、太閤記、信長公記と揃っている。そしておかしな話だが、まるで言い合わせたように、「本能寺における信長の最期」は、みな筆を揃えたように同一なのである。だから現代の、もの書きの書くものも、これまた、みな同じようになってしまう。


 さて、江戸時代に「番町で目あき、盲にみちをきき」で知られた塙保己一(はなわ ほきいち)という先生がいて、正続の群書類従という、それまで散逸していた写本、版本の類を集めて編纂したとき、「類従制」とよばれる方式をとった。今日で云えば「多数制採用」というのか。同じ時代、同じ具象を扱ったもので、同じような事が書いてあるものは、比べてみて、それが同一か相似していたときは、双方が例証となって、これは良質とされ、他と内容が相違しているものは、これは「信用すべき対照物がないから」と悪書にされた。仏教の「十目のみるところ、十指のさすところ、それ正しきかな」という、昔の民主主義採決法である。一つの方法には違いないが、それが今日まで、古文献、古史料の鑑別法には、この類に従う方式が、今も生きて使われている。


 従って、「6月2日、明智光秀に包囲され、弓をひき槍で闘って、のち火をつけて死ぬ信長像」がみな、類は類をよんで内容が同一なところから、先にあげた古書は、「第一級の史料」と目されている。そして、それと相違するような物は、古来、一冊たりといえど陽の目はみていない。「信長殺しは、光秀ではない」などというものは、1582年6月の事件のときから今日まで、385年間に一度も出ていない。つまり、この本は、1世紀に1冊どころか、4世紀にわたって、初めて、この世に現れたものである。できることなら、読んだ後で、すぐビニールの袋へでも入れ、罐に入れ、地中へでも埋めて頂きたい。


 これだけ調べあげるのに、今の時代でも20年の余かかったから、後世の人が、やるとなると、もっと大変なことだろうから、せめて、その労を省くためにと、これはお願いする次第である。それから、これは珍しい形式であるが、これも小説である。といって、ロマン、フィクションというように一概に考えられても困るから、引用文献と長いものは原文を挿入し、引用書名は<型で囲った史料扱いのものと、「型の似て非なるものに分類したが、前述の、信長公記以下のものは、私は史料として認められないと想うが、世間の評価に妥協して<型で、これを用いた。そして、これは「信長殺しは誰なのか」という究明のレポートではなく、「信長殺しは光秀ではない‥‥という想念に憑かれてしまって、世俗的には一生を台なしにしてしまった愚直な男の物語」として、これを読んで下さることを初めに約束していただく。つまりノンフィクション・ノベルなのである。

 まず初めに「信長公記や、その他の各書の内容が、こと信長殺しに関しては、同一であるから、本当らしい」という誤解について、言いたいのは、「なにも学校の試験のように、同一の時刻に一緒に書かれたものではない」。つまり、「あの中の一冊が種本で、あとは、みな、それを下敷きにして作成されたもの」。これが試験の答案なら、「みなカンニングして写しとったものにすぎない」ということである。各書別にその不条理はついてゆけるつもりだが、なにも十人が空を指差して「青い」 と言ったとて、それだから「空は青色」とは決まらない。なにしろ「虹の見える空」だってあるのだということをいいたい。


 天正記というのは、信長の次の国家主権者の秀吉政権の御用作家が書いたもの。当代記は、筆者が、松平忠明などともいわれているが、次の徳川政権の資料。信長公記と太閤記はリライトされ焼き直しをされ、なんともいいようもないものだが、今日では誤解され過大評価をされている。---といって、何も、誤解している歴史家をここで責めようとしているのではない。なにしろ人間というものは、誤解されたり誤解してこそ、その社会構造も成り立つ。もし、誤解ということがなければ、人間関係というものは持てなくなってしまう。なにしろ自分を「頭脳明晰」と世間から良く誤解させようと思えばこそ、小さい時からよく勉学して一流校へ入ろうと努力するのだろうし、女性が化粧や服装に細心に気をくばるのだって「良く誤解されたい」の一心で、真剣にするのだろうし、あらゆる人間の努力精進というものは、「いかにして、うまく誤解され得るか」という命題にかかっているようである。なにしろ人間社会では、実際の能力や、それ自体より、「どれ位まで巧みに勘違いされるか」ということに、すべてが掛っているかのようにさえ見うけられる。そしてみんなが(良いように誤解しあっている) その間はよい。それは、時には<愛>といったものの発生にも繋がってゆくだろう。そうして、そうした場合には、誤解といった言葉が<理解>といった呼び方にも美化されて装われもする。

 しかし、なんといっても<誤解>というものは、本質的には、それは誤解でしかあり得ない。なにも誰も彼もが、みんな都合よく誤解されてしまって、その(好ましい快適な誤解)の中に安座して、ふんわりと雲の上に浮かんで居られるというものではないようである。なんといっても大多数の人間は、みんな自分にとっては(好ましからざる誤解)ばかりを受けているのではなかろうか。そして、その汚辱と劣等感の中に、ともすると挫けてしまいそうな自分を奮い立たせ、なんとかして(良き誤解)を周囲からしてもらいたさに、そのように思わせようとして精進もしようとする。これを、ふつうは努力ともいう。そして、そうすることが「生きる」ということなんだと、自分で悲壮感にかられて陶酔したり、感傷的になったりもする。だが、生きている者はいい。しかし、もう死んでいるものは、どうするんだろう。「良き誤解」とは、全く反対に「より悪すぎる誤解」を死後も烙印のように押されっぱなしの男さえいる。「何事も年月が押し流していって解決する」という言葉もあるが、彼のように、星霜ここに385年も誤解されっぱなしなのも気の毒である。


 京都の福知山市へゆくと、日本で唯一つの彼を祀った神社がある。「御霊社」という。宮司の森本孫兵衛が、気の毒がって毎日慰めてやっているそうだが、その宮司だって、やはり、より悪く誤解している知識しか持ち合わせていないだろうから、いくら柏手をポンポンうってもらっても、彼は、池の鯉みたいに浮かび上がれはしないだろう。「誤解」というものは、良きにつけ悪しきにつけ、それは生きている人間のものであって、死んだ人間には、それこそよけいだろうと私は想う。


 そこで‥‥ 「1582年6月2日の午前4時から8時までの間に、織田信長という男は死んだ。しかし、あんな死に方はしていない。これは荒唐無稽なデフォルメにすぎぬ」ということ。そして‥‥ 「明智光秀を信長殺しに仕立て上げているが、彼は信長が<死>という状態に追い込まれた同日の午前7時半までは本能寺へ近寄ってもいない。初めて光秀が京都へ姿を見せたのは、二条城の信忠も焼死した9時すぎである。つまり現代の言葉でいうならば、明智光秀にはアリバイが成立している」という事実。それなのに‥‥ 「誰も彼もが光秀を、信長殺し、と決め込んでしまって、一人として怪しむ者がないのは、何故だろうか。もちろん、385年前は『信長殺しは光秀』としておいた方が、当時の国家権力者には都合はよかったろうが、なんぼなんでも、もう本当のことが判って、彼の誤解はそろそろとけてもよいのではなかろうか」と考える。


 さて、何故これが今日まで解明できなかったかというと、日本国内の史料では、とてもその参考になるものが見つけ得なかったからである。そして吾々が怠惰であり、一つの具象を飽くまで追求してゆくという真摯さに欠けていたせいではあるまいか。つまり、これは385年間にわたって誰も遂行できなかったことを、私が初めてしたというのではない。ただ労多くして酬われることのない、そうした徒労は、私のような愚かな者でなくては他にしなかったというにすぎない。

 それと、もう一つ。これは世界史から孤立していた日本史の断層にも起因している。「戦国期」というものを、英雄とか豪傑といった人間関係においてのみ把握する従来の帰納法は、あれは三国史の模倣でしかない。もちろん今日の我々の常識では‥ ‥大東亜戦争の終末を、(広島や長崎へ投下されたアトムのためだとは想う)だが、それをトルーマンや、投下した飛行士の名では考えもしない。それと同様に、
戦国時代を回顧すると、天文12年に日本に伝来した鉄砲が、まず念頭に浮かぶ。だが、日本国内では、その弾薬の煙硝は生産されない。当時の「死の商人」は、マカオから季節風にのって、夥しい硝石を売り込み、彼らの手によって、日本の戦国時代は演出されていたといっても、それは過言ではあるまい。すべての謎は、海の彼方のマカオに、こそある。

 マカオ
 香港の海は青い。南支那海の水面は透き通るような翡翠の色を視せている。だが、東(イースト)ラマ海峡をわたって、ポルトガル領のマカオに近づくと、まるで水脈(みお)が、くっきりと、イギリス領との境界を示すように変化してくる。波のうねりは同じ勾配でも、起伏の涛(なみ)は、なだらかに続いていても、水の色がレッド・テーみたいに染ってくる。そして、陸へ近づくにつれてココア色になって、まるでチョコレートの海になる。突堤に小屋掛けした出入国管理処の役人の顔も(MACAO HYDROFOIL CO:LTD)の看板をだした船会社の事務員の皮膚も、赤黒い艶がまず目をひく。黄色人種とはいうが、レモンのようにすべしべした広東人に比べると、葡萄牙人は 浅黒い色素を、まるでドーランでも塗ったように、てかてか輝かせている。そして、広東人と違って、細い口髭や刈りこんだ顎髯をたくわえている。植民地の威厳の表徴なんだろう。「ファーサ・ファボール・デ・エントラール(やあ、よく来てくださいました)」。教わってきた電話番号の4433と5353の、どちらにかけようかと考えながら、パスポートの査閲をすませ、入江の陸地へ足を踏み出した途端、印度人ほど黒くはないが、渋紙色の顔をした長身の男がやってきた。指さす胸には、(CABLE:MACTOVRS)のバッジをしていた。ここの交通公社(ツーリスト)の出迎えだった。

 昔は軍港で、サンチャゴ砦とかバラ砦とかいうのだそうだが、とっつきの丘陵は、楊樹が緑色に茂り、海桃の紅い花が、まるでバラのように咲いているのが目についた。車にのってから、フロントのガラス越しに、重なり合うように三つ続いた丘を指さし、そのまん中のベンハの丘に、「クレーリゴ(司祭)はおられます」と、彼は指さした。そこで「エンコントラール(面会は?)」ときくと、剛毛の目だつまるで植物的な、根茎をやたらにつけた山芋みたいな指で十字をきりつつ、「一日前に申込むのです」と告げた。そして黙り込んだ此方を、何か気にさわったかといったように、心配そうに、大きく首を曲げて覗きこみながら、「この通りはグラン・プリ・レースの道。11月15日には、各国の人が集まります。先月の大会には日本の車、いくつもきました。三位と四位とりました」と、その自動車会社の名前をあげた。彼は、機嫌をとっているつもりで、よいニュースとして教えてくれたらしいが、こちらはテレビで(我が車のナントカはドコドコのグラン・プリで、またも優勝し、1位、2位を独占)なんてのばかりコマーシャルされているものだから、3位や4位をとったなどと聞かされても、なんとも返事のしようもなかった。言われて判ったのは、これまでマカオのグラン・プリなんてのは、てんで耳にしたこともなかったのは、ここでのレースでは 日本の、メーカーは勝ったためしがないから、それで喧伝されていないんだなということだった。


 「アベニーダ・アルメイダ・リベイロ」と、彼は困ったような笑顔をつくって、ゆっくり発音してみせた。なんの意味かと考えていると、「This is Makao's main street」 と、リーダーでも読むような口調で左右を指さした。三十階建て、四十階建まである香港に比べると、せいぜい二階建てしかない。この目抜き通りは、まるで嘘みたいな静かさで、これが市街を二分している大通りとは、とても信じられない程だった。 「ラルゴ・ド・セナード」と広場へ入ると、車をとめて、また発音した。市政庁のまん前である。白い立像が立っていた。近寄ってみると、「16世紀に初めて、このマカオへ上陸した最初のヨーロッパ人」と刻まれ、その名は、Jorge Alvares となっていた。何国人だったろうかと、フットボールの球より大きな顔を仰いでみると、右腕が肩からなかった。さては海賊で、片腕のジョージとか言われた男だったのかと、ひとり合点していると、「バルーリコ(暴動です)」と、彼は小声で言った。そして、「もう終わりました。心配ありません」とつけたした。そう言われて左右を見廻すと、目ぬきの場所なのに、商店が硝子を割られたまま板をはりつけ、廃屋のように並んでいた。まだ補償の金額が決まらないから、中国人の店主は沢山取ろうと、わざとああしているのだと、彼はヨーロッパ風に掌で掬う恰好をして、肩をすくませて苦笑してみせた。つまりツーリストの彼としては、視せたくない所を、うっかり見物させてしまったという表情だった。

 それを、わざと無視して、さも興味をもったように訊ねてみると、なんでもマカオに附属しているポルトガル領のタイパ島に、中国人が学校を建てるというのを、新たに本国から赴任してきたばかりのノブレ・デ・カリパリヨという総督が、その必要なしと許可をしなかったところ、それに憤慨した島民が大挙陳情しに、ここのマカオ政庁へ押しかけてきた。ここの中国人も一緒になって騒いだから、千人あまりの群集になったという。そこで面喰った新任総督は、4年交替で本国から進駐している兵隊を、聖フランシスコ兵営から呼んだ。日本の機動隊と違って棍棒をもっていない兵隊は、押し寄せる群集に発砲した。「死者七人。重傷七十人。あとから二十人が死んだが、みんなセント・ドミンゴ教会の先のラファエル病院で、残りの者は手厚く看護されています。勿論、ただです」。言いわけをするように彼は言った。そして我々はアメリカ人みたいにベトナムのような乱妨はしない。暴徒に襲撃されたから、それはやむを得ない自衛行為であったと、ぶつぶつと聞き取れないような早口で言った。


 「アーケン(何故)」と「ケーエー(どうしたんだ)」の二つの単語を繰返して、執拗に喋舌りたがらない彼の口を割らしてしまったものの、渋面を作っている彼を眺めると、なんだか後味の悪い想いにさせられてしまった。なにしろ、「ヌンカ・ウビークル・バルーリコ(こんな暴動は初めてです)」。彼は、くりかえしてそればかりを言った。つまり、ポルトガル人の立場として言訳をしているのかと、初めは聴いていたが、彼の取り越し苦労は、どうも、そうではないらしい。せっかく観光に来た旅行者が、この暴動のあとをみて気が変わり、せっかくリザーブしたホテルもキャンセルして、治安が悪いのを心配して早々に引揚げてしまうのではないかという心配をしているらしかった。だから、(ツーリストからせっかく案内にきたのに、変なところを見られてしまい、この日本人に逃げられでもしてはといった表情)が、ありありと彼の黝(くろ)ずんだ顔に懊悩の翳をやどしていた。だから、何んとかいって彼を慰めねばと、「ナウン・ファーズマール(まぁ、たいした事はないね)」と、ゆっくり首をふって滞在の意志表示を簡単にしてみせた。すると案の定、「よかった」という意味であろうか、「エーエノールメ」を盛んに連発してみせた。


 車へまた乗せられた。だからホテルへ案内されるものとばかり思った。そこで昔アマラール総督の暗殺された記念碑だとか、柵で囲まれた円い石の場所が、その息を引取った地点だといった説明も、うわの空で聞き流していると、小さな石作りの門が見えてきた。右側にポリスボックスがあった。変なホテルだが、門前に交番があるとは、こりゃあ用心がいい。きっと彼が、まだ心配をして、わざわざこういう治安上安全なのを選んでくれたのかと思った。そこで、「ボイズ・ナウン(こりゃあ、いいね)」と降りかけると、彼は周章て、こちらの肩にかけてあるカメラをはずして首をふった。だから此方も、訳が判らず妙な表情を見せたらしい。彼も困ったように片目を瞑って「セルカ(国境)」と、続けて二度も発音した。なんだ、それで撮影禁止地帯になっているからカメラは車内へ置いて出るの かとようやく納得した。だが、うなずいて見せたものの、国境関門だというのに、小さなコルトのケースを提げたきりの警官では訝しかった。初めは香港の啓徳空港で見かけた英国領の巡査が、両肩から白い袖をとってつけたようにくっつけているのが、もの珍しく印象に残っていたから、それで黒一色の制服は兵士かとも考えたが、まさか銃を持たぬ軍人もあるまいと思い直し、「センティネーラ(歩哨は)」と訊いてみた。エゼルシト(軍隊)という言葉が咄嗟に出てこなかったからである。
彼は首を振った。関門のところに菩提樹の大きなのが、まるで両手を一杯に拡げるように枝を伸ばし若葉を茂らせていた。彼は、その木陰に入ってから前方を指差し、向うに中共軍の兵士が銃口を、こちらへ向けていると気兼ねするように注意した。楊樹の茂みを透かして眺めると、百メートルおきに電話ボックスのような紅塗りの屯所が、ずらりと並んでいた。よく見詰めると、まるで人形みたいに二名ずつぐらい身動きもせず、兵士が此方に鉛筆ほどの銃を向けていた。

 12月3日の暴動のあった日、中国人がポルトガル兵に撃たれて死傷者が出たと伝わると、昔は川にかけられた橋だったという真空地帯の通路を、中共軍の兵士が、同胞を救えと殺到してきたそうである。その時はここにポルトガル兵の立哨もいたし、一個小隊のメトラリヤドラ(機関銃隊)もいた。だが、それが、まずかったのだと彼は言った。なにしろ中国人は8億いる。全世界の人類のうち、4人に1人は彼らなんだ、とそんな言い訳を木陰から付け加えた。つまり多勢に無勢でポルトガル兵は、この国境が防ぎ切れず、殺されたか捕虜にされたのだろう。なにしろ中共軍はプライア・グランデ湾にそったパニヤン並木を埋め尽くすぐらい一杯やってきて、ラルゴ・ド・セナード広場で傷ついた中国人の同胞を助け、マカオ政庁の上に飜っているポルトガル国旗を、「デエイテオ・バーイショ(下へ引きずりおろせ)」とまで要求したそうである。その結果、中共軍が引きあげた12月4日から国境の立哨は換ってポリーシア(警官)がしていると、彼は言うのだった。なにしろ、まだ20日とたっていない。だから無理もないが、彼は関門の真ん中に突っ立って向こうを透かし見しているのを「ケー・ジャポネース(さすがに日本人ですな)」などと、お世辞を言いながら、自分は、まるでポルトガル人ゆえ狙撃でもされるというのか、菩提樹の幹を楯にしたまま動こうとはしなかった。


 国境の関門の左右は、昔は河だったというだけに、ところどころ沼地になっていて、葦が青々と茂っていた。車に戻ってから、当時の新聞をあとで見せてくれと言ったところ、彼は何も出てはいないと断りを言った。そして車を運転しながら、「エーラス・テイマ」と何度も、こちらは黙っているのに、ひとりでぶつくさ言っていた。中国語でいうと(メイファーヅ)、仕方がないといった諦めの文句らしかった。車は南西へ向っていた。海岸へ出た。対岸の小島が見えた。名をきくと、ラッパ島とこたえた。そうか、喇叺の語源はポルトガル語だったのかと考えたりしていると、「ビューティフル」と、彼は英語でこの辺りのパラカ・ポンタ・ホオルタはマカオで一番美しい景勝地だと言った。しかし、ウスリー河やヤンツーキエン(揚子江)みたいな泥色をしたこの水面の何処に、そんな美を感じるのかと、返事もせずに黙っていたら、アーチ型のアーケードの商店街へ出た。中央に噴水があって、バニヤンの並木が12月の下旬だというのにまぶしい陽射しを遮っていた。樹々の長く尾を引く影を眺めながら、やっと美しいという意味がのみこめてきた。この配置は、スペインやポルトガルのあるイベリヤ半島のイミテーションである。だから本国から来ている連中は、ノスタルジアにかられて、ここの南欧風の風物に旅愁をかきたてられ、望郷の念を催し、つい、美しいなどと言い出したのであろう。


 だが、商店街に入ると、一軒の店に長い行列が続いていた。何を求めているのかと、瞳をこらすと、そこの縦のウインドに大きな肖像写真が掲げられ、毛沢東選集という文字がみえた。書店であった。振返って行列を眺めていると、「中共側の国境に、向こうのあのくらいの子供が沢山集まってきて、一日に何度も大声をあげて吾々を脅迫するのだ」と、彼は所在なさそうに訴えてきた。そして、こんな唄を合唱するから、こちらの中国人も真似する。自分も覚えたと、ハミングでメロディーをきかせた。毛沢東讃歌と、それは東天紅の節廻しだった。


 こんな静かな眠ったような土地に、はっきりと如実に刻みこまれた民族の対立を、まざまざ見せつけられると、早くホテルへ案内させて、そこで、まずシャワーでも浴びようなどという、そんな安易な気持ちもとんでしまった。だから、荷物を置いて一休みしてからまた出かけようと思っていたビブリオテーカ(図書館)へ、このまま場所を覚えておくだけでもいいから、すぐ行ってみたいと話してみた。すると、「ナウ ン」とうなずいて、彼は微笑んだ。ポルトガル本国のアジュダの図書館やエヴオラ図書館に比べれば劣るかもしれないが、エジンバラ大学の図書部の手で整頓された3万5千の蔵書が、そこにはある。だから彼処へ通うのなら長滞在になるだろうと、彼は彼なりに職業柄すっかり気をよくしたらしい。車のスピードが百まで上がった。だから、さっさとついてしまった。降りてみて、どうも見た事がある所だと思ったら、片手を叩き壊されたジョージの白い像が斜めに見えた。なんのことはない。狭い土地なので一周して、また、もとの広場へ戻ってきたのである。


 だったら何故、おっかなびっくりで中共の国境まで、わざわざ案内していったのか訊いてみようかと思ったが、おそらくツーリストの観光コースにでも入っていて、彼は習慣で行ったのだろうと考えたし、それより早く日本では見られない16世紀の戦国史料が見たかったから黙っていた。うっかり何か言って、また他の観光コースへでも案内されてはと用心したのである。典型的なポルトガル邸の構えをした政庁の建物の中へ、彼はつかつか入っていった。「ビブリオテーカ(図書館)」と言ったのに、こちらの発音が悪くて、聞き違いをされたのかと狼狽した。だが、もし違っていたら、その時に言い直してもよかろうと、すこし危ぶみながらもついてゆくと、石造りから木造の廊下へ入っていった。マホガニーらしい階段を上りつめた二階に、図書館のアブイゾーズ(標識)が出ていた。その文字を見た途端に、ほっとして莨(たばこ)が吸いたくなった。だがポケットからピースを出すと、ここは禁煙になっているらしく、彼は大きな掌で、それを上から押さえるようにして止めた。板碑が突き当たりにおいてあった。莨を止められた恰好の悪さに、一人でつかつかと側へ行った。古びた華文字が、かすれていて読めもしなかった。だがツーリストの案内所の彼は、すぐついてきて、もう暗記でもしているのか、碑面も視ないで、そらでゆっくり説明した。「神の名の都市。かくまで忠節な所は他にはあらず。我らが帝王Don Joao四世陛下と、この地に派遣されし陛下の総督のJoao de Souza Pereiraの名において、比類なき住民の忠節を嘉みし、ここに、これを証明するものである」。


 文句はのみこめたが、人名が一度きいたぐらいではわからなかった。また聞き直すのも厄介だったから、ノートを出して陛下の御名と総督の姓名を、そのままに写しとった。すると消滅しかけているが1654と、この板碑が刻まれた年号があった。そこで日本の歴史年表をひいてみると、承応3年。徳川家光が死んで由井正雪や丸橋忠弥の叛乱未遂のあった慶安4年から3年目の時点にあたっていた。19日前に暴発した騒動を、こんな事はマカオでは初めてだと言って、盛んに彼が強調していたのも、あながち嘘ではないらしい。なにしろ織田信長が24歳だった1557年に、ここを占領してから、徳川家綱将軍の時代に「他に比べようない忠節さ」と賞められて折紙をつけられているくらいだから、この1966年の12月3日まで、4世紀にわたって穏やかな所だったのだろう。「‥‥せっかくの定説が覆されました」。案内の彼は、さも残念だったと唇を曲げた。「定説を、覆す‥‥」と、私も無意識に鸚鵡返しに、その言葉を日本語で繰り返していた。
 想念
 定説を一挙に変えてしまうということは、暴動のように集団の行為でしめすのなら、多少の犠牲はあっても不可能ではないかもしれない。だが、これが歴史的な事実となると、これは難しいものである。1582年の6月事件。世にいう「本能寺の変」は、これは、「明智光秀が信長を討った」という定説になっている。そして、その後、385年にわたって何の異説もない。そもそも、このマカオがポルトガル領になった弘治3年とは、当時、清洲城にいた織田三郎信長が、その異母弟にあたる(土田下総久安の娘が生んだ22歳の)織田武蔵守信行を倒し、ついに織田一族の棟梁の位置を確保した年にあたる。そして、その25年後には京の四条仙洞院にあった本能寺に宿泊中に、クーデターにあって、敢えなく生涯を閉じた。これは一つの事実である。だが、その下手人。当時の言葉でいえば「解死(げし)人」は誰なのか。もちろん、はっきりした「定説」は光秀である。だが、私がひねくれているのか。どうしてもそうとは想えもしなかった。

 だいたいこの発想は、横浜の花咲町で生まれてから四谷の大木戸へうつった私が、当時大国座という芝居小屋へ初めてつれてゆかれた、確か6歳の時に始まる。それは義太夫のチョボにのって、「夕顔棚の彼方より、現れ出でし明智光秀」デンデンと太棹が入って、そこでカンカンカンと柝(き)が入って、蓑をつけた彼が現れ、笠をとって、赤塗りの顔をグッと見得をきる。いわゆる見世場なのである。観客は手を叩いた。だが6歳の私はボロボロ泣いた。「怕(こわ)いのかえ」と伴ってくれた祖母は言った。私は首をふった。そして、そのまま泣きじゃくった覚えがある。どんな感情かというと、幼稚な単純な同情。棄てられた猫をみて憐れを催すような、そんな衝動的なものだったかも知れない。唯、その前後をよく想い出してみると、当時の新聞紙は総ふり仮名だったから、4、5歳ぐらいから、パズルを解くように漢字を眺め読んでいた。だから6歳の年頃でも「こどものくに」といった幼稚園むきの絵本ではなく、もう「日本少年」や「少年倶楽部」をみていた。当時の附録は今とは違って、とてもシンプルで「組たてパノラマ」が多かった。一枚の厚紙に人間や松の樹や御殿が刷りこんであって、点線でそれを切り取り、「ノリ」と明示された白紙のところで折り曲げ、台紙にはりつけ、サンプル通りのパノラマ舞台をこしらえるのである。これは、この時代に流行した菊人形の名場面と、まったく軸を同じにしていた。「忠臣蔵の清水一角の斬り合い」、「曽我兄弟の裾野の敵討」といったようにジャンルが決まっていた。もちろん「本能寺の森蘭丸」もレギュラーだった。中心は蘭丸と安田作兵衛の戦闘であるが、上手には白衣を着た白い顔の信長。下手には赤い顔をした敵役の光秀が左右にたって、この運命の決戦のパノラマは構成されていた。


 たしか、あの頃は、少年雑誌の附録としては毎年どれかにはつけられていた。そして幼い私などは、白塗、赤塗などという言葉は、まだ知らないから、ただ「良い方」、「悪い方」つまり善玉、悪玉といった単純な鑑別をしていた。そして、おかしな話だが、子供の精神において、それが、この世の真実というものだと固く信じて込んで疑わなかったのだ。それなのに大国座へつれてゆかれたら、悪玉の筈の赤塗の光秀が、ボール紙の附録と違って生きて動いている。そのうえ、悪人の筈の彼が、とても悲しそうだったから、びっくりして哭いてしまったのだろう。ということは、幼いながらも自己に植えつけらていた信念の崩落に愕き、光秀に同情するというより、自分自身がすっかり狼狽し、どうとも表現をしてよいか判らず、ただワアワア泣いたのではあるまいか、と考える。なにしろ私という人間は、今でも途方にくれると、昔ほどには泪も枯れて出ないが、それでもウウと哭く。だから当時も、三つ子の魂というくらいだし、それに人間それ自体の形成は、いくら歳月がたったとて、そう変わるものではない。だから、きっと、そのようなことではなかったか。とも想うのである。つまり判りやすい言葉で言うならば、私という人間は、6歳にして、すでに自信喪失をしてしまったということらしい。だから、そのコンプレックスが、ヒステリックな泣き声を上げさせたのであろうし、明智光秀という昔いた一人の人間の具象に、世間の通念とは、まったく裏肚な同情をもってしまったのだろう。そして、その時点から、可愛気のない疑りっぽい暗い子供になってしまい、成人してからも、私には他人には好かれない、そんな陰湿な性格が翳りを濃くしたようである。

 その頃、私は「作家群」という同人雑誌のグループに、最年少者として入っていた。まだ学生だった。昔は、今のようにアルバイトの口はなかった。だから、日本の四国で死んだモラエスを飯の種にして、その翻訳にあたっていたT・Hという先生の助手をしていた。その先生が、いつか酔払って、「お前は光秀の真似をして謀叛をしようとするアナーキストのグループに、近頃は入っとるそうじゃがいかんぞ。
だいたいモラエスも『信長殺しは光秀ではない。ちゃんとした目撃者がいる』と書いとる。なんでもそれはポルトガル人のバートレ(坊主)で、マカオで死んだそうだが、ちゃんと記録まである、といっとるぞ」と怒鳴りつけられたことがある。これは「作家群」の同人の一人で、ローレンスものの翻訳をしていた酒豪が、呑み仲間で評論家の某という人が、新宿の喫茶店の女の子とできて、早稲田で当時下宿屋をしていた奥さんの許へ帰れず困っているところを、イガクリ頭で一見まじめそうな私を子役にして、当時のアナーキストのグループのOのところにいるようにアリバイ工作させた。つまり私はアナーキストの方の使いとして、彼の生活費をうまく、奥さんの許へ貰いにいく役目をしょわされていたのである。だから軽率な私は、先生の口にした信長殺しの話を、もっと確かめておけばよかったのに、それより自己弁護に周章てふためき、長火鉢の前に座っている奥さんが、いかに怖ろしく、なかなか金を出してくれないとか。しかもその彼ときたら「早稲田文学」に原稿を載せてやるという口約束のもとに、電車賃もくれず、時によると私の小遣いまで貸せと持っていってしまうなどと、そんなつまらないことばかりを同情をひこうと、多弁になって喋舌ったものである。

 そんな愚昧な私だから、その後、生きてゆくことに何度も失望した。繰返して、いくたびとなく死んだ。だが自分では、そのたびに、それで清算したつもりなのに、死は、いつも私につれなかったようである。早いときは数分間で見放されてしまった。最高記録だって、アルセニックを呷ったときの一週間である。私は今でも、月に一度は死を想う。なにも生命保険の年々の掛け金が莫大すぎて勿体ないと、吝で考えるばかりでもない。窒息しそうに、やり切れないからである。だが、そのたびに内股に左右から交錯して刺されっぱなしの食塩注射の太い針の鈍痛や、胃洗浄の黒いゴム管をすぐ連想してしまう。
あれは、いやなものである。思い出しただけでも、こみあげる嘔吐に辟易させられる。酸っぱい胃液が口の中にひろがってきて、きまって激しい痛みが身体の中心を揺さぶってくる。といって連想の暴風といったような感覚的ものではない。なにしろ私の胃壁はかって服用した種々の毒物によって、すっかり爛れきってしまっているからだ。こんな激痛に襲われるなら、毒になるもんなんか呑まなきゃよかったと想う時もあるが、なにしろ、その時は、まさか、あとで生きるとは思いもしなかったのだから、これは悔やんでも仕方もない。だが苦しみだすと、のたうち廻って反転する凄じさなので困ってしまう。鎮痛剤には、死を想うしか逃避はない。「もう直きに死なしてあげるからね」と自分の肉体にいいきかせてやるしか慰撫策もない。そして、そんな時は決まって幼い日に見た、夕顔棚の彼方より現れ出たる明智光秀が、赤い顔でまぶたに蘇ってくる。長いつきあいである。お互いに口こそききあっていないが、友情みたいなものは感じあえる。だから、私は、うんうん唸りながら、苦しがって腹這いになりながら、「こんなに辛い想いをして、ひどいめにあうのも、みんなあんたのせいなんだ」と怨みごとを言ってやる。いやなことは自分のせいにするより、人のせいにする方が、これは痛み止めの精神安定剤になるからである。といって別に言いがかりをつけているのでもない。私が初めて自己喪失を願って、それを試みた6歳の日から、彼は瞼にいた。繰返して自己を見失い、観念的に死を想い、自己嫌悪を、そのパターンの中にエスカレーションしてゆく段階において、彼は白い手袋や制服はつけていないが、蓑をつけてエスカレーター娘のように立っていた。つまり私のい想点においては、光秀というイマジネーションは<死>をいつも意味していたようである。そして‥‥私はそれに対して<真実>というものを追いかけ廻して反撥しようとしていたらしい。

 だが、結果としては、なんともならない虚しさに、自己嫌悪を持ち続けているのかも知れぬ。だから、もちろん生きていることが素晴らしいなどと、そんな、だいそれた己惚れはしたこともない。だが、何度も死んでは、追い返されるように、また蘇ってくるたびに、蝿には蝿の真実があり、蚤にだって蚤自体の真実があるのなら、人間がより集まって作っているこの人の世にも、真実はあるのではあるまいかと、そんな期待を持ったこともある。また、そんなことでも考えなければ、とても生き直しなんてできるもんじゃない。
なにしろ、死に損って、ぼんやりながら眼がさめ、意識がついてくる状態というのは、酔払って、うたた寝しているのを起こされた時と、自分の気分では相似しているが、なにしろ普通の朝の目覚めとは違う。爽快なんてものではありゃしない。死が、まだ澱りをのこして、身体中をけだるくさせているから、覚醒したからといって、パッと起き出せやしない。たいてい黒いゴム管の紐つきである。それも口中から押込まれた胃洗浄の管や、食塩注射のゴム管ばかりならよいが、いつか肛門に挿入されているのには、まるで有尾人に生れ変わったのかと瞬間、さすがびっくりしたことがある。何故かと訊きたかったが、そこへ看護婦が無理矢理にはめこんだ時の状況が、まるで冒涜されでもしたように、羞恥と屈辱をおぼえたから聞かず仕舞いだった。しかし、おかげで、どうも、その時から脱肛の気味がある。まあ、何しろ生き返ってくるということは、それ自体だけでも厭なものである。

 いつも気がつくと、解剖台に寝かされたみたいに下着はみんな剥ぎとられていることが多い。うっかり眼でも明けようものなら、たいてい大きな口を開けた若い看護婦が、素っ頓狂な声で何か叫んでいる。すると手当をしていたインターンみたいな若い医師や、他の看護婦共がワアーッとは言わないだろうが、さも凱歌をあげるみたいに、口をパクパクさせ目を輝やかせる。もちろん聴覚は戻ってくるのが遅いから聞えはしないが、しょっちゅう病院なんてところは、ベッドで人を殺してばかりいるから、こういう反対現象は嬉しいのだろう。「よかったですね」とこっちが聞えるようになると、毎度言われる。最近は馴れてしまったから、自己満足の独り言だと知らんぷりをしているが、初めて聞かされた愛知一中[現在の愛知県立旭丘高校]の3年生の時は「何がです」と逆ねじをくわせたものである。せっかく人が死のうとしているのを、本人の意志を蹂躪し、精神喪失の状態を奇貨として弄んでおいて、なんたる言草であろうかと、憤然として15の時は喧嘩したものである。


 次に迷惑するのは、たいてい意識がつくと、その日の午後か、翌日の午前中に、旧制の中卒ぐらいの所轄所の私服が来ることである。生れた時には、どうして、どんな具合にできたのかとは聞きにこないくせに、こういう時だけは、何故死のうとしたのかと、事情聴収に来る。あわよくば、どこかで女でも殺しての後追い心中ではあるまいか。とか、又は会社の金でも横領しての申訳ではないかと、期待をもってやってくるから相当にしつこい。あまりにくどくてうるさいから、横浜の病院で喧嘩をしたら、いくら自分の身体とはいえ、あんたも人間なんだから、つまり、これは殺人未遂だと、すっかり脅かされたことがある。

 だから、「死にもまさる辱め」という表現があるが、死に損なう辱めも相当のものである。誰一人として、「残念でしたね、次の機会にはぜひ頑張りましょう」なんて、慰めてくれる心優しい人間なんかはいない。みんな、こちらとは裏腹に「よろしゅうございましたね」と言う。つまり目をさました時から、周囲の人間とは全く反対な自分自身を、そこには如実に見せつけられ孤立する。そして、なんともならない違和感を、圧迫されるよう、ひしひしと押し付けられてしまう。そして、どこの病院でも同じことだが、まず意識を回復するが早いか、帯紐類は取り上げられる。布団のシーツやカバーも剥がされてしまう。せっかく蘇生させたのに、また首でも吊られたら、入院費がとれなくなるからと、事務局の方の指図らしい。いつだったか誤って前と同じ病院へ担ぎこまれてしまったことがある。そしたら歓迎してくれて、常連だからと看護婦が同じベットで退院するまで寝てくれた。だから、そこを出る時に同衾してくれた彼女に、「好きだったのか」と囁やいてみたら「用心のため見張っていたのよ」と大声でやられた。自身喪失した。また、その病院へうっかり運ばれないようにと、次回のために、私は地域外へと転居した。

 求めよ、さらば与えられん。といった言葉が残っているが、どうも、あれは昔のことらしい。私だってTasteやDevotionで死を追いかけているのでもなければ、何もかも信じられなくなって、どうしようもなく、そうした感受性を持つ自分を消滅させたいと、ついガス会社をメートルを上げて儲けさせたり、睡眠薬をかためて売ってくれる薬屋に、その売上げ増加の協力をしたにすぎない。だが、それなのに、唯一の真実とも思われる死それ自体に対しても、あまり繰返してすげなく扱われ、返品ばかりされ通すと、これまた信ぜられなくなって、ただ、そこに醸し出されるものは、絶望の靄でしかなくなる。虚しさなんて、そんな漠然とした空間みたいなものではなく、亜硫酸ガスが充満したような、泪がポロポロ出る息苦しさに喘いでしまう。ひどいものである。だが、死ねない限りは、生きていなくてはならない。生きているのには、何かが要る。何かをやらねばならぬ。それは、やはり堂々巡りになるが<真実>といったものの追求になってしまう。他に、それしかない。
考えてみれば、これを追い索めまわし、そして、あげくのはてが失望しては自己嫌悪ばかりを性懲りもなくくり返し、誰かに見つけられては病院へ担ぎこまれてきたのだ。だから、いつまでもゼミナールのくり返しをしていても、きりがないし、もう世俗の大人みたいに達観するというか、超越してしまうべきだろうとは、自分でも想う。だが、そうしても私には、それに取って換われるものが何もない。そりゃ人間の一生というものは、どう考えたってばかばかしいくらい、大したことはない。はたで何と言おうと、当人の立場になってみれば、いかに無駄なもので、徒労の生涯であるかということも、自惚れや自己満足を引けば、答えは出てくる。おそらく自分だけでなく、誰しも自己追求してみれば同じことだろうとは考える。といって、毎日いらいらするからと睡眠薬ばかりは嚥んではいられもしない。だからTruthというものが索めても、なかなか与えてもらえないものならば、せめてディスカントしてSincerityつまり<真実>というものを見つけたいと、私は想うようになった。なりゆきである。死ねないし、生きていねばならぬし、そのためには何かをせねばと、段々自分自身に切羽詰まってきたのだろう。

 そこで私が必死になって縋ったのが<信長殺しは、光秀>という、あまねく知れわたった一つの真実への挑戦だった。やってみようと考えた。もちろん、これは賭けかもしれない。しかし385年もの間に、定説とされ固まってしまっている具象に、そこに<真実>をみつけ、<光秀は信長殺し>でないと例証を引き出すことができたとすると、それは賭けとしても無謀すぎる張り目だとばかりは言えまい。
なにしろ、もしもである。これ一筋に打ち込んで、その結果<信長殺しは光秀ではない。他のxかyらしい>と解明できたら、4世紀間に、私が唯一人であるという自己満足と、何度も死に損ないながらまだ生き続けてきた自分というものの、これは<生きてきた証し>になるのではなかろうかと、そんな具合に考えるようになった。ところが思いついたからといって、すぐにどうなるものでもなかった。初めは1年か2年で、なんとか突破口がひらけそうな気がした。自信過剰だった。とても、そんな、なまやさしいものではなかった。それは私は世間的には愚直で、あれもこれもとできる方でもない。だから<信長殺し>の真因を追いかけ廻すために、他のものを書くのをやめた。唯ひたむきに私なりの<真実>を追った。ところが5年、10年、15年とたってしまった。ようやく曲りなりにも、<信長殺しは光秀ではない>と解明できたときには、それを発表したいにも、20年間筆を断っていた私は忘れられていた。仕方なく今の新しい筆名を一昨年作った。この、私としては半生をかけて追い込んできた<信長殺し>の鍵をとく、最後のしめくくりに、またマカオまで来ている。

 振返ってみると、信長公記を自分で原稿用紙に転写して解読にかかってからの22年間の歳月は長かった。当時の武将、武者約三千を繁雑を免れるために、単語用のカードに記入分けした結果が、出身地と姓との結びに関連しているのが明白になってきて、<八切姓の法則>となり、あまり知られていないが、当時は著名だった人々の物語が<八切武者シリーズ>になり、戦国期も源平期も、外来系の仏徒と、原住系のみなもとの神徒との宗教闘争だったと解明できたのが<八切裏がえ史>である。だが、それらのものは、みな、この副産物にすぎない。
これが上梓される日、すべては、もう終わってもよい。なにしろ、私は疲れ切った。すべてに見放され、すべてを放り出して、ばかの一つの覚えでこれに一生を賭けてしまった。もし、この後、何年かまだ私が生きていたら、それは惰性で仕事の続きに溺れているのか、それとも、また死に損なって生き恥をさらしているだけだろう。
 虚実
 光秀の実体は知られていない。講談では、「明智十兵衛は浪々の生活をしていたから、ある日客を招いたが、そのもてなしに、はたと困った。ところが手拭いを姐さん冠りした妻女が、いそいそと酒や肴をみつくろって出してくれて、それで客に対し十兵衛は恥をかかずにすんだ。が、さて、客の帰ったあとで、『今日の食事にも事欠く吾が家の暮らしに、よくも銭の調達ができたものよな』と十兵衛が不審がれば、妻女は、無言のまま畏って、かぶっていた手拭いをぱらりと取った。それを見た途端、十兵衛は思わず『ウウン』と唸り、『そちゃ、己が黒髪を、女ごの命と知っていて切ったのか。それを売って銭に換え、この十兵衛のため、客のもてなしをしてくれたのか‥‥』と泪ぐめば、『いとしきお前さまが為ならば、髪の毛など切り売りするも、いとやすきこと‥‥夫婦の仲じゃありませぬかいな』と妻女は首をふり、にっこり笑ってみせた。『済まぬ。きっと立身して、そなたを仕合せにしてみよう。なあ、それまで待ちや』と十兵衛は、己の妻の手をとって感謝する」という、仕組みになっている。

 つまり人間の感情の中の底辺ともいうべき人情話で、ホロリとするものを意識的にかきたてようとする俗受けを狙った趣向で、そして、「かく貧窮の中にて浪々していました十兵衛をば、織田信長が召し出され、とりあえず5百貫にて奉公させましたところ、妻女がよくできました方ですから、貧しいながらも、こざっぱりとした身仕度で登城させますし、朋輩衆が家へきても、これも快く接待する。だから、段々出世して、ついには近江坂本20万石から、丹波亀山50万石にまで立身しましたなれど、時に天魔に魅入られましたか。その大恩ある信長公を討ち奉り、これが世に言う『明智の三日天下』たちまち日ならずして、太閤様に攻め滅ぼされ、自分は、小栗栖村の百姓長兵衛に首をとられてしまう羽目になるという、因果応報。天は正しきを助け悪は必ず滅びるという物語」となるのである。


 ----この講談が、今日の光秀に対する常識になっている。もちろん虚像である。実際には、信長と光秀が初めに正式に逢っているのは永禄11年7月27日であるが、細川家記によって、すこし詳しく引用すれば、「明智光秀は、その臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって7月16日に、朝倉の一乗谷から出てきた足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋を越え仏ヶ原のところでは、明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺へ25日に赴き、27日に信長と対面」とある。

 いくら妻女がロングロング・ヘアーであったとしても、又、女の髪の毛は象をも繋ぐといったところでアラジンの魔法のランプであるまいし、六百名に近い家来が、毛髪の切り売りぐらいで賄えるものではないと想う。一人平均5万円給与とみても、六百名では現在なら、人件費として3千万円の計上である。年間3億6千万の棒給を出すためには、企業収益は年間30億は必要である。そうなると、当今なら5百億ぐらいの売上げのある会社でないと、このバランス・シートは保てない。まぁ話半分とみて、光秀の率いている私兵の半分が、寄せ集めの臨時雇いか、野次馬的な者とみて、これを除外したとしても、江戸期においては10万石。(1万石で百人出兵の定法だった豊臣時代でも、これは5万石以上の実力であり格式である) しかも当時、牢人の光秀には所領というべきものはない。つまり土地からの「作毛」である収穫物の米麦で、これは賄っていたのではない。そこで、この記述によると、光秀は貨幣で給与を払っていたことになる。だから牢人とはいえ、えらい金満家だったということになる。


 
しかしである。細川家記では、なお、この時代たるや、「明智光秀は大砲の妙術を心得え、朝倉家にて、5百貫の禄を得ていたが、細川藤孝が越前に滞在していたとき、足利将軍家の衰徴をなげき、深く交り互いに談合した。その後、義昭から直接に、光秀に対して、織田へ頼れるようにと依頼した。ところが、鞍谷某に密告されて、光秀は牢人させられた」という時点が、これに当たる。つまり、「一貫一石」という換算でゆけば、5百石どりから、光秀は扶持離れした状態である。それでは全然計算が合わない。まったく矛盾しきっている。それに当時の5百貫取りというのは、鎧冑をつけ馬にのり、左右に護衛の為の脇武者をはべらせて出撃する一人前の将校の最下位のことである。家来が二人と六百人とでは違いが甚しいと思う。それに(山内一豊の講談)で間違って伝えられているが、この時代は、女房が臍くりで金を払ったからといって、馬に乗れたり、勝手に旗指物などつけられるものではない。身分によって、初めて馬乗りになれたり、許可があって旗指物は背に立てられたのである。これは戦前、九段の軍装店へ行けば、銭さえ出せば将校の肩章でも軍帽でも売っていたが、それを買ってつけたからといって、自分勝手に兵士が将校に昇進できなかったのと全く同じことで、これでは光秀の話も辻つまが合わない。さらに細川家記では、あくまでも、「永禄11年10月9日。光秀は岐阜城へ赴き信長に逢う。信長喜んで、これに朝倉家同様に、5百貫の扶持を与えて召抱う」とある。しかし、これに対して、(それでは光秀の当時の勢力からみて、なんぼなんでも、5百貫では安かろう)というのでもあろうか。悪書とよばれている、明智軍記というのは、禄高を修正して、約十倍にして、「猪子兵助の推挙により、美濃安八郡で、4千2百貫の闕所の地を与えられた」とする。だが、この本は、当時の講談本以外の何物でもないから、あまり信用できない。もっとひどいのに、この他、古書では、校合(こうごう)雑記というのがある。これでは、「光秀は、もと細川藤孝の徒歩(かち)武者で、のち細川家より出て信長公に仕え、その当座も徒歩武者の身分であったが、やがて信長の気に入られ、知行を増やされ、疲れ馬一疋にも乗れる身分と出世し、信長が近江を手に入れると、坂本城を築いて、これを光秀に預けた」となっている。ところが坂本城というのは信長が築いたものではない。これは森蘭丸の父の三左が篭城して討死した近江宇佐山の志賀城の北東4キロの戸津ヶ浜に、光秀が自力で建築したものである。

 志賀城を信長から貰って一時居住したことは元亀2年記という史料に出ているそうだが、その翌年の正月には、つまり、兼見卿記の元亀3年正月6日の条に、「明十於坂本、而普請也」と出ている。年代記抄節によると、「前年12月より起工」とも出ている。そして、兼見卿記の元亀3年12月24日に、「坂本城の天主作事工事以外は、あらかた落成し、その結構壮美なるには眼を愕かす」と出ている。もし信長が建ててやるのなら、戦時目的であるから、きっと実用一点ばりの筈である。しかも悠長に1年余もかけるわけはない。これは志賀城の古い石畳も利用しただろうが、明智光秀が自腹をきって身銭で建てたものである。こんな判り切ったことでさえ、385年後になると、すっかり間違えられてしまい、「信長から坂本城を貰った」と言われている。まあ時日の隔りが遠いから、これはやむを得ないが、その当時の校合雑記が誤記しているのは、あきらかに作為である。(明智を細川家の下風にあったもの)として世に宣伝したい為の、これは意識的にばらまかれた(ある種の目的)を明確に露骨に提示した、当時の、今いうところの「怪文書」に他ならないと考えられもする。


 
さて、このすでに2年前の時点において、言継卿記によると、元亀元年2月30日(太陰暦)の条に、「信長、岐阜城より上洛し、明智光秀邸を宿所となして泊り、3月1日に禁裏へ伺候」とある。姉川合戦の後でも、7月4日に上洛し、7日まで、信長は近臣数百名と共に、当時はホテルはなかったから、ゆっくりと明智邸に滞在している。5百貫どりや4千9百貫取りの身分で、まさか、何百人も収容できる大邸宅を、いくら当時はギルト制で大工の手間代が安かったにしろ建てられるものではない。それに、泊めるのに、貸し布団屋は当時なかったろうと想像される。つまり光秀は豪勢だったのである。そして、「信用とは、金である」と今でも言うが、当時とて、それは同じだったのだろう。光秀が初めから金持ちで、京では大邸宅を構え、私兵も相当に抱えていて、信用ができたからこそ、信長は彼と交際し、やがて自分の幕下へ引き込んだのではあるまいか。それが立証できるのは、原本信長記によれば、秀吉が、5万貫の江州長浜城主に登用されるより、既に1年有半前に、別説である吉田文書によれば、もう明白に2年前に、「(滋賀郡の内にて扶持を与う地侍の進藤らは、光秀の寄騎たるべきこと)と、佐久間信盛への信長さまの朱印状の中に記載これあり」と、それらの資料にはある。つまり滋賀郡一帯は既に光秀領となっている。明智光秀は、秀吉よりも先に、もう一国一城の主だったのである。つまり講談本や俗説では、貧窮しきっていたか。又は、せいぜい5百貫ぐらいの乗馬将校の最低、旧陸軍なら、せいぜい中尉どまりであったといわれ、それゆえ出世したいばかりに努力をしたはよいが、ついに慾を出しすぎ信長殺しをしたのだと、その謀叛説を説明する。

 しかし事実は全く違うようである。彼は信長に逢う前から極めて裕福だったからこそ、永禄13年つまり元亀元年正月23日に、織田信長と15代将軍の足利義昭の間に取換された文書、この内容は、きわめて重要なもので、「一、諸国へ将軍家として内書を出す時は、信長に仰せ聞かされ相談してくれたら、信長も、それに添状をつけて出すから、むやみに勝手に内書の乱発はしないでほしい。一、公儀である足利義昭に対し忠義を尽くした輩に、褒美や恩賞を与えるのに、しかるべき土地がなければ、言ってさえ下さったら信長の領分から、差上げも致しまする。一、天下の政治を信長に一任されたからには、誰彼の区別はせず、また一々将軍家の意向を聞かなくとも、信長が、これを成敗する。つまり思い通りにやらせて頂たいものである。一、天下を安穏にするためには、禁中の諸公卿の動きに対して油断され、これに乗じられたり煽動されるようなことがあってはならないと、御留意下されたい」というものであるが、その書面に光秀の地位は明白にされている。


 
この五ヶ条の通達にあたって、足利義昭の墨印が頭書にあって、末文に「天下布武」の信長の朱印があるが、双方の代理人として、織田信長方は日乗となっていて、足利義昭側代理人は光秀。しかも実物は、成簣堂文庫にあるが、信長の朱印の上部において、「明智十兵衛光秀尉、殿」と、敬語がついている。つまり形式的であったとしても、この時点においては、光秀は信長から公文書においては、敬称をつけて扱われる上位、または対等の地位にあったことの例証である。なにしろ(地位)とは、力であり、そして金である。

 しかし美濃の明智城を出てから流浪した光秀が、一時にせよ朝倉義景に仕えていたことは、故高柳光寿著・明智光秀の14頁にも、「光秀が朝倉に仕えたと思える良質の史料は、五十嵐氏所蔵の古案のいう古文書集の中にある」と出ている。だが名の通った家来としては、他の史料には、現れていないという。そんな、名もなく貧しき一武者にすぎなかった明智光秀が、なぜ一躍、そんな大金持になってしまったのか、この不可思議さえ解明できないままに、他の史家は見ぬふりをして逃げてしまい、高柳氏のみが摘出して引例しているが、その謎は解けていない。しかし、これが後の「信長殺し」の決め手にもされる理由で問題である。一つの鍵である。
さて牢人した途端に何百と召し抱えた家来の中の溝尾庄兵衛や三宅藤兵衛は、小栗栖村で光秀が倒れるまで、陰日向なくつき従っている。世にも得がたき人材で、これは決して虚妄の幻の軍隊などではなかった信実である。
 二君
 永禄11年10月18日、織田信長に擁せられて上洛した足利義昭は、15代足利将軍の宣下を受けた。だが室町御所以来の奉公衆の細川藤賢、上野信恵、一色藤長、細川藤孝、三淵藤英、上野秀政、和田惟政といった連中が頑張っていたから、公卿補任記などをみると、信長を斯波管領家の跡目に推す内書には 「なほ藤孝、惟政に申す可きなり」と「申次(もうしつぎ)」と呼ばれた最高位の、官房長官名には、光秀などは、まだ入ってない。骨折って織田家に橋渡しをしたとはいえ、金の力でのし上がってきた光秀は、歴々の譜代の奉公衆に比べれば、まだ、まったくの新参なのである。翌年正月5日に、三好三人衆や美濃の残党に、義昭が本圀寺で囲まれた時、光秀も防戦したことが、御湯殿上日記に出てくるくらいの身分なのである。

 ところが3年後の元亀2年7月5日になると、曇華院文書(どげいんもんじょ)に、はっきりと、 「同院の領地である山城国の大住の荘に関する信長よりの、室町御所への抗議書の名宛人は、上野秀政、明智光秀」となって現われてくる。つまり、この頃になって光秀は、その財力にものを言わせて、足利義昭の申次衆として上野と同格にまで昇進しているのである。


 翌年9月24日には、足利幕府奉行衆の一員として、明智光秀は兵千を率いて、今の大坂の高槻城へ入ったと、その出陣ぶりが言継卿記には出ている。なお、年代記抄節の同年4月の条には、これもはっきりと、「河内出兵の織田方へ加勢のために出陣した公方(くぼう)衆の一人」として、光秀の名前が見えている。ところがである。毛利家文書に入っている元亀元年5月4日付の一色藤長から波多野秀治宛書状には、「朝倉征伐に出陣した信長は、秀吉、光秀を金ヶ崎に残して引き揚げてきた」と出ている。そして、同年9月の志賀山の宇佐城が落ちたとき、光秀は、柴田勝家と共に、京の二条城防衛に21日夜、摂津から帰洛している。もちろん、この時は、15代将軍家の足利義昭も信長に合力して出陣している。


 高柳光寿氏の明智光秀では、この時点では「光秀は義昭と信長の双方から扶持を貰って、二君に仕えていたもの」と推定されている。江戸中期以降、「貞婦は二夫にまみえず、忠臣は二君に仕えず」という言葉が大陸から持ち込まれ、そういう観念からゆくと判らないが、私はこれを問屋の店員が百貨店の売り場に勤務しているような出向社員と考えたい。なにしろ足利将軍家の仕えていれば直臣(じき)であって、信長とも同輩の立場でいられる。それが信長の臣となってしまっては陪臣(また)に落ちてしまう。この差異は、江戸期に入っても、河内山宗俊のせりふではないが、「こうみえたって、お直参(じき)だぜ」といって雲州松江侯の家老を堂々と、玄関先で脅かせるぐらいの箔があったのである。

 
さて、信長は、近畿地方をば手馴ずけるために、今の大阪西成区にあたる当時の摂津中島城主へ、於市御前の妹にあたる於犬(おいぬ)を嫁がせていた。この男は、初めは喜んで信長の一字を貰って「細川信良」といっていたが、やはり 将軍の直臣がよいとみえ、いつか足利義昭側になり、右京太夫の官位を貰うと、昭の字を頂いて「細川昭元」と改名してしまった。これでは頼りにならないと、信長が目をつけ秘かに身代りにスカウトしようと、手心を加えていたのが、光秀ではなかったかろうか。と私は考えたい。

 公然と、光秀が信長の為に奉公しだしたのは、こののち天正元年2月に足利義昭が信長に宣戦布告し、西近江守護代の三井寺の光浄院暹慶(せんけい)に兵を上げさせた時である。原本信長記によれば、2月24日に石山の砦を攻め、26日には陥落させ、29日には今堅田を、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、蜂屋頼隆の四軍に攻撃させたところ、光秀の攻め口から破って、ついに光浄院を降伏させたとある。この光浄院が、のちの山岡玉林房景之(かげゆき)であり、その長子の山岡景隆が、天正10年6月2日の午後4時に、瀬田の城主として、光秀が安土へ渡れぬようにと瀬田の大橋を焼き払ってしまう男なのである。簡単に考えると、「天正元年の仇を十年後に討った」ということになるが、背後関係を調べると、そんな、なまやさしいものではない。これは後の話だが、いったい光秀という男はどんな人間だったのだろうか。現代でも、頭が良いということと、賢いというのは違うが、どうも彼も、頭脳の回転は早かったが世俗的にはあまり利口だったとは考えられない。


 多聞院日記の天正2年の記載に、「大和多聞城へ入った光秀が、同じ奈良の大乗院尋憲に命じて、寺宝になっていた法性五郎の長太刀の差出しを命じた。見せてほしいという指図だが、取り上げられるものと覚悟して出したところ、後になって礼をいって返してよこした。意外さに、戻された側はびっくり仰天した」とある。つまり、国家権力を振舞わせる立場にある者としては、愚直な振舞いであると呆れてしまったというのである。正直というのは他人に利用価値のあるモラルである。だから光秀は、死後ずうっと、利用されっぱなしのままである。「正直者は損をする」という江戸期の言葉は、光秀から起きたような気がしてならないこともある。なにしろ、その為、どこを探しても<信長殺しは光秀ではない>に役立つようなものは見つかりはしないのだ。


 ただ、そんな時、ふと想い出てきては、おおいに元気づけをしてくれるのは、昔聞いたことのあるモラエスが洩らしたという言葉である。だから本国から、その全集を取り寄せてもらった。英文の方も揃えてみた。だが日本の全集だと書簡や日記の類まで再録されているが、あちらでは、そこまで丹念には集めていない。たまたまポルトガル駐日大使館に、文学の好きな若い参事官がきていたから、本国へ色々照会してもらった。私も四国へ一月ほど行って調べるだけは調べに回ってみた。解明にかかって10年目ぐらいだから、 昭和30年頃のことであろう。


 それから4年ほどして、戦時中、東洋堂で刊行されていたキリシタン研究の三集が、米軍爆撃で消滅していたのを、吉川弘文館から、改めて再刊されることになった。 その中の岡田章雄・布教機関の分布についてという研究論文をみると、天正16年(1588)フロイス報告書とリニヤニ目録並びに天正9年ガスパ ル・クエリヨ書簡を引例して、その128頁に、「安土のセミナリヨ神学校建築に使って残った木材を、オルガンチノが京へ運び四条の坊門の姥柳(うばやなぎ)町つまり現在の蛸薬師通り室町西入るの地点に、三階建の礼拝堂と住居を作った。そして、この建物は四条西洞院にあった本能寺とは、一町とは離れていなかったから、1582年つまり天正10年6月2日の暴動の時は、もう少しで類焼の厄にあうところであった」と、当時の、「ドチリナベル・ダデイラ(真の教えの会堂)」とよばれていた礼拝堂のことを説明している個所が見つかった。


 この建物は、狩野元秀の洛中洛外名所図扇面画にも残っている。だから真実あったものと断定できる。疑いを挟む余地はない。なお、天正11年バリヤニ摘要録によれば、「ここにはポルトガルパードレ(司祭)1名、イルマン(使僧)1名が常駐している 他に、神学校寄宿のコレジョ(屯所)として日本人神学生11、2名も宿泊していた」とも明記されている。つまり、本能寺の変があった時に、信長が死んだ現場から一町以内の地点に、三階建ての礼拝堂があって、そこにポルトガル人2名と10余名の日本人神学生が寝泊りしていたという事実である。しかも、危うく類焼しかけた程だったから、いくら6月2日の夜明けから午前8時近くまでの椿事とはいえ、彼らは朝寝坊などはしていなかったろうということ。しかも、この時代に、城は別にして三階建ては珍しいから、彼らは高見の見物というか、見晴らしのきく所から、つぶさに実状を観察しているに違いないという結論も、これから引き出せないことはない。

 ということは、とりもなおさず、本能寺事件に対しては、はっきりした目撃者がいたという<真実>になってくる。そして10余名の日本人神学生と一人の使僧の方は、その後の足取りはつかめないが、ポルトガル人の司祭の方はマカオへ戻っている。これはその翌年の、1583年における日本プロビンシヤ及び、その統括する事項のアレッサンドロ・バリヤニ報告書にも出ているし、それから9年後の、1592年11月現在・イエズス教会の日本管区における教堂、駐在所の目録。並びにそこに居住するパードレ(師父)、イルマン(使僧)の異動名簿においても、これは裏書きをされている。こうなると、「信長殺しは誰なのか」を実地に見聞した目撃者が「マカオへ行った」というT・Hのモラエス説は、全集本に載っていなくても、そうまんざら頭ごなしに否定もできはしない。なにしろ当時のマカオというのは、今のようにカジノで知られたギャンブルの名所ではなく、そこは神の名による都市、つまり東洋一の神学校をもっていたからである。


 1606年度耶蘇会(天主教派)年報にも、「プラチェンカ出身のザカリヤス・ ワリニヤノ司祭は、日本からマカオへ戻って神学校を教え、そして1600年1月2日に昇天されるまで、彼はよき神のオブレーロス(司牧者)であった」とあるように、天文12年(1543)8月25日、種子島へポルトガル船が寄って、鉄砲を伝来させた信長の11歳の頃から、マカオは、東洋における神の福音の都市であると共に、その13年後からは、火薬という新兵器を輸出する死の商人の港とも変貌していた。
 プロ
 日本語の資料によると、この当時は、白人はみな、南蛮人、彼らの持ってきた神の教えは、当今の字なら「吉利支丹」その頃の当て字ならば「貴理師端」と概念的に一括されている。だが、どうもそんな単純なものではなかったらしい。というのも鉄砲伝来の23年前の1517年、ローマ法皇レオ10世が、サン・ピエトロ寺院の建築費用捻出のため免罪符を売り出した。今でいえば宝くじである。しかし、くじの場合はたとえ1等が1千万円であっても当たりは1枚きりで、殆どは求めた人々の百円札が紙屑にされてしまう。また、これが、くじの非情さだが、博愛なる神の代理人である法皇猊下に、そんな残酷な冷たい仕打ちができよう筈もない。よって1枚残らず、これことごとく神の思し召しをもって、皆当りにされた。

 もともと Indulgentia 免罪という思想は原始キリスト教会にもあった。善行さえつめば贖罪されて、天国へゆけるという保証だった。だからレオ10世猊下においては、命から2番目とも言われる金を出して、教会の建築基金に出すような善行を施す者は、もうそれだけの功徳で天国に入れるものとみな認められたのである。今の日本だって、社会事業に寄附金を出せば、紫綬褒章なんて勲章をくれる。昔は5円以上だすと「赤十字なんとかの家」という木の標札をくれて、戦時中なんかは、町内にたいして恰好がいいからと、どこでも献金して、そのお礼を入り口に掲げておいたものだ。昨今だって、白衣に青い袴をつけた人が「家内安全」といったお守りを「思召しです‥‥」と、セールスに来ることだってある。成田山なんかになると、あすこは、こちらから車でいって「交通安全」のお札を、大きいのはいくら小さいのはいくらと言い値通りで皆頂いてくる。誰も値切りはしないところをみると、あれだって、神様に認めてもらえそうな善行をしている人間ばかりが行くとは限らないから、やはり免罪符の購入に他ならないのである。


 それに金なんてものは、なんでも購えるからこそ、それで、その流通価値があるにすぎない。もし私がレオ10世であったとしても「愛は金では買えない」などと、尤もらしいような口調は使わず、もっぱら「金で仕合せが求められるなら、いいじゃないですか。天国行きの座席指定券はいかがです」と、まさかダフ屋みたいには言わないが、せめて交通公社の宣伝部ぐらいのPR方法は採ったであろう。本当のことをいえば、私なんか、他人に売るより、もし頂けるものなら、何とかして今からでも自分が是非とも一枚欲しいくらいである。

 
ところが、いつの時代にも、いやあな奴はいるものである。私も大学講師を何年もやってきたから言うのだが、頭の悪いくせに自己優位を誇示したがって、愚にもつかぬことを、さも尤もらしく言ったり書いたりして、それで銭儲けをしたり人気とりをしようとするProfessor という種族がいる。レオ10世の時代にもいた。Wittenberg大学にいたMartin Lutherという男だ。なにも命は一つしかないのだから、それに合わせての切符なんだから免罪符だって一枚でいい。だから、欲しければ一枚買えばよし。いやなら買わなければいい。ただそれだけのことなのに、その男たるやヴィッテンベルグ大僧院の門扉に95項目からなる抗議ポスターをはりつけた。まあケチ精神の現れであり、彼の売名行為であろう。おかげでゲルマニヤ地区の免罪符大売捌元のテッツェルは、その営業を妨害された。世に、これを「ルーテルの宗教改革」という。

 なぜかというと評論家の彼をサクソニアのフリードリッヒ公が早速、御用作家として匿い、時の国家主権者のカール5世が、トルコ戦争後、また国内の新教徒を弾圧しだしたのに、対抗馬として利用したからである。つまり、織田信長が生まれる5年前の享禄2年のシュバイエル国会において、フリードリッヒ公をはじめ、打倒カール5世の陰謀派は、ここにProtestatio(抗議書)を提出した。今で云えば「国王不信任案」の上程で、その退位要求である。この時点から、新教徒はプロテスタントと呼ばれ、草案起草のルーテルみたいな男の職業はプロフェッサー。商売人はプロフェッショナル。身体で商売して身売りする女はプロスティスト(彼女等が営業的に使用しだしたゴム製品も、当初は彼の名をとってルーテルのサックと呼ばれる)そして、ルーテルみたいに、ポスターなんか貼ることはプロパカンダ。それを見て騒ぐ大衆のことをプロレタリアート。そして、ルーテルみたいに申込みをすることが、皮肉に意味を置き換えられ、今で言うプロポーズ。彼のように文句をつけてダメ出しをしたがる人間を後世、プロデューサー。彼みたいな爆発したらドカンと被害を受けるガスをプロパンガス。なお危険を防ぐための野球の捕手の胸あてなどをプロテクター。また彼のような一か八かの商売をするのをプロモーター。今では興行師や香具師のことをいっている。数え上げたら際限ないくらいに、プロのつく言語が旧教のカトリック国で、憎悪と恨みをこめて作られ相当数が今や日本語化して私達も使用しているようだ。


 さて信長が14歳の天文14年には、シュマルカルデン同盟のプロ派の諸侯がカール5世に宣戦布告した。勿論プロが弱いわけはない。相手のカール5世は敗けた。だから信長22歳で、美濃から嫁に来ている奇蝶御前に内緒で、生駒将監の後家に、後の三位中将信忠になる奇妙丸を生ませてしまった弘治元年。アウグスブルク宗教会議でカール5世は、ルーテル側の布教プロパカンダを認めざるを得なくなった。もちろん、その間の(信長の義父の斎藤道三が29で、まだ油屋渡世をしていた)大永2年には、「騎士戦争」や「ミュンツァー暴動」もあった。その2年後、毛利元就が多治比猿掛3百貫の身分から、一躍安芸吉田城主になった時点には、原始キリスト教の共産制を理想とする、中世紀コミュニストの大規模な農民戦争も勃発していた。


 こういう情勢では、神聖なるローマ法皇のカトリーコ(旧教)の方は、俗界で言えば営業不振。従って新しい販路拡張に迫られた。そうなればセールスマンによる新規 開拓のパイオニア精神しかない。ヨーロッパでは英国のヘンリー8世までが、カザリン妃を離婚して侍女のアン・ボレインと一緒になるため、カトリックを捨てて、侍僧のクランマーをカンタベリーの大僧正にして新教に走り、「愛は何物よりも強し」 なんて勅語を出していたし、一般的にも「離婚できないカトリックなんて、亭主の乗り換えができないじゃないの」と、きわめて進歩的な婦人達にも不人気であった。だから、やむなく神のセールスマンであるカトリックの修道使達は、南米、何阿、東洋と、当時の低開発国へ向かって、トランクをぶら捧げ、思い思いに散らばって行った。

 だから、織田信長が15歳で那古屋城で結婚式をあげた天文18年、まさかウェディング・ケーキなど、お祝いに持ってきたとも思えぬが、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へやって来た。そして山口、豊後、京都と布教して廻って、やがてマカオへ引きあげ、そこで神の途を教えつつ天文21年に昇天。死んでいる。その5年後、マカオがポルトガル領になると、そこから日本へ、もちろん火薬商売もしに来たが、売れ残りの免罪符をさばくつもりか、ポルトガルのカトリックのゼズス会の宗教セールスマンがどんどん入ってきた。

 
さて、私は村上直次郎氏の多年の労作に文句を言うわけではないが、彼が長崎叢書・日本耶蘇会年報とか、異国叢書・耶蘇会日本通信史料といったタイトルで、南蛮史料を刊行するものだから(耶蘇教=切支丹=キリスト教)といった誤謬を与え、そのため日本における中学校高校に教科書に採用される世界史が一冊残らず、皆同じように間違いをしてしまっているが、Ignatius Joyolaが海外布教のために1534年に創立したCompany of Jesus, Jesuitsは、これを「耶蘇会」と訳すのは誤りらしい。「耶蘇会」という日本語をあててよいものは、1530年のルーテル派のヒランヒトンの書いたアウグスブルグの信仰告白による懺悔録を参照すれば、よく判ることだが、これはプロテスタントの新教の方である。明らかにこれは困った誤訳である。

 
つまりフランシスコ・ザビエルによって、日本列島へもたらされ、マカオをば宗教基地として、天正11年(本能寺の変の翌年)アレッサンドロ・バリニヤンよりの、ポルトガル本国のエボラ大司教報告書にも記載されているところの、「この日本列島において、神の御名は讃うべきかな。わが聖堂は既に2百に近く、祈祷所程度のカザやコレジョは、その数に加えず、されど、これとて20余ヶ所に、その建物あり」 という宗教分野は、これは「耶蘇教」ではなく「天主教」のカトリックの方である。

 つまり、「日本耶蘇教会」というのは、根本的な間違いで「日本天主教会」でなくては、すべてが混乱してしまうのである。即ち「耶蘇教」と区別されて呼ばれるべきプロテスタントの新教が東洋へ入ってきて、その布教活動をしだしたのは、これは300年あとの19世紀の清朝末期で、日本へ伝わったのは明治からである。そこで村上直次郎博士および、その門下生の記したものを引用するにあたっては、私は、この根本的な誤訳を避けるために<天主教>という文字に改めて用いる。


 さて、本能寺の変の起きる4年前。マカオにとって、それは重大な事が起きた。領主にして君主であるポルトガル国王セバスティヤン1世が、事もあろうに南アフリカへ攻め込んで、モロッコ人の騎馬隊に殺され、ついに敗戦してしまったのである。だから、その2年後の天正8年の1580年8月12日に、当時マカオから日本へ赴任して1年目のアレッサンドロ・ワリニヤノ神父は、九州の口の津から、「カスチリア人(西班牙)のフランシスコ派(原始会則派会派)の修道者が、フィリピン(当時は西領)からマカオへ来ています。吾々ポルトガル人の勢力圏内を荒らしているのは、これは、きわめて不快をおぼえます」 といった意味の書簡も本国へ送っている。マカオに当時の原文がある。これは、のちに彼がゴアから送った、「聖にして偉大なるローマ法皇アレッサンドロ6世猊下は、新しく発見された世界の分配を、神の僕である宣教師になされましたが、西インドと東インドを境にして、スペイ ンとポルトガルは境界線を引いている筈です。それなのにポルトガルのセバスチャン1世陛下が戦死されてから、わが王国は隣国スペインのフェリッペ国王の統治になりました。もはや自分達の王様や政府を持たぬ哀れな亡国の民であるポルトガル人は、こうなっては、もはや優越と名誉を少なからず奪われてしまったのでございます」 という一文と対照してみると、よく納得できる。


 そもそも初代フィリピン総督のミゲル・ローベス・デ・レガスビというのは、本能寺の変の勃発した天正10年から、遡って15年前に、アグスチン派の修道者を伴って来た。そして天正5年になると、フランシスコ派の修道者が、スペインから大西洋を渡ってメキシコへ行き、そこから貿易風を利用。フィリピンのマニラへ集まってきた。そして本能寺の変の1年前の1581年には、初代ドミニコ会のドミンゴ・デ・サラサールが、「ポルトガル人の天主教派を一掃して、日本占領のため」強力な修道士をあまた率いて、本国からやって来ていたのだ。これは、その、1581年・ガスパールコエリ年譜にもあるように、「日本列島は東洋一の有望地で、すでに信徒は15万人を越え、天主堂が2百もあるのに、ポルトガル人がマカオから来ているのは僅かで、日本人の助司祭のパードレ・ イルマンを加えても80余人で、とても手がまわりかねている」という実状に目をつけて、手薄を狙って乗っ取りに来たものらしいと想像される。
 疑惑
 なにしろ私が、このマカオへ来たのは、「もしかしたら(信長殺し)は、このスペインのドミニコ教会の初代司教のサラサールの手の者か、日本を奪われまいと焦慮したポルトガルのマカオ司祭の内の、いずれかの謀略ではあるまいか」 といった疑念を、スチュワーデス殺しと目されるカトリックの宣教師が、日本から脱出して、さっさと本国へ逃亡してしまった、あの時点から偶発的に想いついたということも確かである。というのは、ワリニヤノ書簡にも、「マカオの司祭は3千エスクードに価する一修道院の許可を、渡来したカスチリヤ人のフランシスコ修道士達に与えました。しかし彼らは、マカオより中国本土の方を、メキシコやフィリピンのように、自分達の手で征服したがっています」というのが明白に書かれてあるからである。

 いくら神の光栄が偉大であっても、その国自体を占領するとしないとでは、布教活動がまるで違うはずである。それに当時、ポルトガル国王セバスチャン1世が死ねば、まるまると、その国が統治できたスペインである。その3年後に、また野心を起し、当時の日本の主権者の信長を倒せば、否応なく日本列島に君臨できると考えたとしても、これは少しもおかしくない。なおワリニヤノは、スペインのカスチリヤ人の中国本土征服の野心しか、書き残していないが、あの広大な中国より、どう考えたって、こじんまりとした日本列島の方が、占領する足場としては手頃ではあるまいか。そして「安土か京にいる織田信長一人さえ亡きものにすれば、この国は手軽く奪えるもの」とでも考えたのでなかろうか、と想える。


 また、このワリニヤノ書簡を裏返しに判読すれば、「先んずれば人を制す」のたとえで、「スペイン人に奪取されるくらいなら、まずポルトガル人がやろう」とも受けとれるし、当時、インドを東西に分けて、その勢力を二分していたポルトガルとしては、ローマ法皇に対し、「スペインが中国本土を狙うのなら、我々は対抗上、まず日本列島をいただかねばなりません」と献言していたのかもしれない。と、疑惑が持てるのは、ウイジ・タードル(インド派密使)の資格をもって、天正7年7月にマカオから日本へ来朝したアレッサンドロ・ワリニヤノは、翌天正8年10月に、豊後府内の教会堂において、天主教の神父達を集め、スド・コンスルタ(九州協議会)を開き、続いて安土の天主堂でスエ・コンスルタ(中央協議会)。そして天正9年12月には、長崎のトドス・サントス会堂で密議がもたれた。そして、これを最後にして正式の会合は姿を消し、翌天正10年の6月2日に、京都四条の三階建の天主堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのである。もし、当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天主堂の三階へ運び上げていて、一階建の眼下の本能寺の客殿へ撃ち込むか、もし、それでは人目を引くものならば、その火薬を本能寺の境内へ持ち込んで導火させてしまえば、ドカンと一発。それで容易にかたのつくことである。


 詳しい状況は後述するが、本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前7時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで 類焼した。そして、信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいの強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。当時の化学発火物といえば、文字どおり火薬であるが、小銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいしたことはない。性能の強い火薬による本能寺焼討ちとなれば、コムンバンド(火裂弾)しかない。もちろん、これは皆目、日本側の史料にはない。だが考えられることである。


 さて、当時のワリニヤノ協議会草稿というのは、<Cousulita>の名目で、ローマの バチカン法王庁に<Japsin1-34・40-69>の註がついてスペイン語とポルトガル語で現存している。しかし、まさか神の書庫に納められているものに、今となっては殺人計画書など附記されている筈もあるまいと考えられる。(‥‥念の為に7月末に私はローマへ見に行く)


 さて、ここに、もう一つ訝しな事実がある。ワリニヤノは天正9年12月の長崎会議の後、翌年2月20日。つまり本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三候の子息を伴って、秘かに日本脱出をしている。これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この三人の中の一人を、ローマ法皇グレゴリオ13世に選ばせるためではなかろうか。
昔から「三つに一つ」 とか、「三位一体」というように、カトリックでは、ものを選ぶときに同じ様なものを三個並べてその一つを神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからである。ところがである。マカオへ彼が渡った時、「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フィリッ ペ2世が、新たにポルトガル国王フィリッペ1世を名乗って、ここに改めて二つの王を正式に継承した」。つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。だから、ポルトガルの勢力を一挙にもり返そうとしたワリニヤノの計画は挫折した。しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めないから、日本列島へ指令を出して計画変更を訓令する暇がなかったのではあるまいか。かくて同年6月2日。本能寺の変。そして、ワリニヤノはローマへ行く筈だったのに、急に、日本の異変によって禁足され、インド管区長に任命され、途中で雄図空しく足止めされてしまった。だから九州三候の子息達は、日本語の通じる彼と別れて、バードレのロドリーゲスに伴われてヨーロッパへ行き、手土産の屏風などをプレゼントして歩いた。何をしに出かけたか、いまだに訪欧の目的はわからない。疑問とされている。

 さて、さらに奇怪な現象が、ここに発生する。本能寺にて信長が殺害されたという日本列島の政変が本国へ伝わった後、直ちに新しいポルトガル王になったフェリッペ1世は、インド副王のドン・ドアルテ・デ・メチーゼスに対し、(スペインとポルトガルは今や合併し、一つの国になっているにもかかわらず)スペイン領のフィリピンと、旧ポルトガル領のマカオの交通を、まったく、だしぬけに、断固として、固く禁止させてしまった。しかも、その上、インド副王は、突如として、マカオのカピタン・モール宛に対し、マカオ・ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵 「陛下の御名により、特に許されしパードレ以外の者は、いかなる聖職者は修道者も、これが日本に渡航することは固く禁止する。支那人の司教といえども、マカオに今いる宣教師は一人といえども、これを日本へ行かせてはならない。もし彼らの中で、既に日本へ赴いた者あると耳にしたら、陛下の御名によって余が命令するところであるから、いかなる方法をもってしても、直ちに追いかけ引っ捕らえて、これをマカオに送還せよ。本命令は、何らの疑念故障を、これにはさまずして完全に履行することを命じ、その命令通りするよう通告する。なお本書はフェリッペ一世陛下の御名に於いて認可され、陛下の御玉章を捺印されたものと全く同一効力を有するものである」と発令をしている。もちろん表向きの理由は、色々な宗派の宣教師が日本へ入り込んでは混乱するからだというのである。


 しかし、この当時フィリピンのマニラへは、ドミニコ派のサラサールが初代司教として、スペインの国策として、本国から集団で来ていた。もちろん、日本列島に勢力を植えつける為である。あまたの戦闘的なフライレ(托鉢修道士)も率いていた。だから、それゆえ当初は、マカオのゼズス教派のポルトガル人は邪魔をした。しかし国王の戦死によってスペイン統治下におかれていたから、本能寺の変の後では、もう反対の余力もなかった筈である。だったらサラサールの率いる宣教修道士の一行は堂々とマカオへ渡り、そこから日本へ行くべきである。それなのにサラサールを保護する立場のスペインの王様が、あべこべにこれを断固として禁止してしまったのである。


 ----何を危惧したのであろうか。続いてマカオ在住者の禁足。日本へ行った者は、逮捕してでも連れ戻せという緊急命令。こんな不審な話があるだろうか。2百2十の大小の教会にポルトガル人の師父が数名で、あとは改宗した日本人の俄か助司祭。それも合計して80名。これでは、あとの140の教会は信者が集まっても、それを司ってアーメンを言う者もいない。つまり二千人の信徒に一人の宣教師では、手が足らないのはわかりきった話なのに、たくさん日本へ渡航しては混乱するから、一人も遣るなという。この弾圧は、全く奇怪であると言わざるを得ない。


 しかも、こうした宗教上の問題ならば、(ローマ法皇のグレゴリオ13世から、ゴアのレアルコンセ・ホデラストインジャアス(王立インド参事会)を経て、マカオのセズス教会の大司祭へ通達されるのが、当時としては順序というものである。それなのに、この命令系統は無視され全く違う。「カピタン」というと、江戸期に入って長崎の出島へきていたオランダ商船の船長を考えがちだが、信長の頃の「カピタン」とは、何十門かの青銅砲を積んだ軍艦の艦長で、「マカオのカピタン」といえば、今日のマカオ・アドミラール(海軍総督)に当たるものである。(国王からインド福王。そして海軍総督)という伝達は、これは宗教問題というより、どうみても明白な軍事命令としか受け取れぬ。まるでマカオに一大異変でも発生したかのように、(フィリピンからは渡航を厳禁し、マカオ在住者は一人も日本へやるな)という、この武力通達は、何に起因しているのだろうか。


 私は、これを(本能寺の変)は、スペイン人であるフェリッペ国王は、前もって聞いていない寝耳に水の事なので「東洋の利権を失っては」と驚愕した、と考える。そこで陛下は善後策をとるため、新法皇に連絡して帰国中のワリニヤノを途中のインドに足止めさせた。ついで、その部下として日本にあって、四条坊門にある天主堂から本能寺を爆発させたのを見て、その場からマカオへ逃げ戻ってきたポルトガル人と日本人のパードレやイルマンを、他と接触させては厄介であると、監禁させた。そして、その秘密の洩れるのを警戒し、マニラに待機中のスペイン神父らの渡航を禁じた。勿論マカオは非常警戒で、もはや天主教の大司祭などには委せてはおけぬから、モール海軍総督の兵力によって、戒厳令をしいて、ポルトガル人の謀叛事件を極力隠蔽しようとした‥‥といった具合にも解釈できるのである。


 これに関してポルトガル系の資料はないが、マカオ及び日本への渡航を禁止されたフィリピンのドミニコ派の宣教師が、同じスペイン人であるフェリッペ陛下へ送った陳情書は今も残っている。天正18年、つまり、これは本能寺の変から8年目のものである。1590年6月23日附・フィリピンのマニラに於て、フランシスコ教派監督フライ・ペトロ・バフチスタより、陛下に奉る上訴文という書簡である。「当地からマカオへ渡る途が絶えてしまってから、もはや本国から来る宣教師もいなくなりました。ですから既に受洗させた信者も放りっぱなしの有様で、これでは新しい芽として育て、その徳行を増すための教理の伝道にもことかきます。なんとか本国の修道士達が当地へ来てくれるよう、つまりマカオや日本へ入れるように理解を加えられ、どうか渡航禁止の軍令を解除していただきたく、ここに神の御名により、切に懇願するものであるます」(Porez,Cartas-y RelacioneeT収録)。


 この当時、スペイン船はマカオへ行って、中国の生糸や絹布。そして日本から運んできた金銀や銅の地金を求め、メキシコやインドへ運んで巨利を占めていた。渡航禁止というのは宣教師だけではなく、船舶自体の渡航を遮断したものであるから、スペイン兼ポルトガル国王として、フェリッペ陛下の損害は、きわめて莫大なものだったろうと想像される。それなのに天正18年の時点でさえ、まだ禁止は解かれていない。つまり陛下は、 極東貿易の巨利を、すっかり放棄されているのである。スペインの国策が本能寺の変を境にして、こんな変更を余儀なくされたのは何故であろうか。これでは、マカオへ戻って行ったのは単なる目撃者ではなくて、殺害者自身ではなかろうか。


 そんな疑問さえも、はっきり言って抱かざるをえない。だから海を越え、こうして私も、また マカオへ来たのである。----だが、いきなりこうした発想を書いては、読まれる人は戸惑われるかもしれない。そこで、これまでの経緯、つまり私が、ずうっと丹念に探し集めて調べた信長殺しに、ここからは筆をバターンさせ、また戻さねばなるまい。




(私論.私見)