「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」を転載しておき、後日検証する。
八切説では、中国大陸よりの藤原氏が律令体制による日本全国統一がなされるまでの日本列島には、少なくとも八っの王朝が存在したと説きます。
1)奈良王朝===大和、河内
2)吉備王朝===中国系の(華夏)で岡山
3)白山王朝===裏日本北陸
4)東日流王朝==東北津軽
5)蘇我王朝===神奈川、曽我
6)淡海王朝===琵琶湖から中部地方にかけて
7)富士王朝===富士山の麓
8)阿蘇王朝 隼人王朝===九州
【注】王朝といっても、大きな部落で、この部族の長が統治していて、人口は数万と思われる。そしてこれらは、さして争いもなく、日本列島に棲み分け、していたのである。
そしていわゆる大化改新の前は、この中で、蘇我王朝と白山王朝(いずれも新羅系の騎馬民族)が提携して主導権を握っていた。だから、大化改新なるものは、百済系の奈良王朝(中大兄皇子)と中国系の吉備王朝(藤原鎌足)が連合して、蘇我(白山連合)の実権を打倒したクーデターということになる。
次に、白村江の戦いで、唐、新羅連合軍が、百済、日本連合軍(但し、ここに日本というのは誤解を招く。実質的にそれは百済系の日本内分国、植民地としての奈良王朝ということである。奈良王朝は母国百済存亡の危機にみまわれ、総力を挙げて母国救援の軍を出した)を壊滅させた後、いよいよ唐が日本占領に乗り込んで来るのであるが、唐の占領政策は、日本列島内で主導権争いを続けていた高句麗系、新羅系、百済系の対立抗争を巧く利用する。即ち、百済系を重用し、これを主たる代理人として、日本の全国統一権力体系を作ること。それゆえ百済系をして、高句麗系、新羅系、古代海人族を駆逐させること。この辺の八切史観はきわめて示唆的である。
こうして唐の占領軍は日本原住民の大叛乱の抵抗に対して、百済系を手先として全国統一の律令体制を確立し、その支配のイデオロギーとして、彼らの仏教を利用する。七世紀末から八世紀初頭にかけての、三、四十年を準備期間として、日本はこのように一変したのだが、それから千二百年の間、現在に至るまで、天皇を頂点とする、この律令体制の大枠は維持されている。そして文部省の学校歴史とされている。
八切説は、日本史を天武天皇以前と以後に大きく二分するのだが「日本奴隷史」を書いた阿部弘蔵氏も、八切説と根本的には一致している。この律令体制に於いて、貴族と賤民が区別される訳だが、ここにいう貴族の正体とは唐占領軍の幹部連中、百済の亡命王族、貴族のことを意味し、律令制の位階制では、五位以上が宮中に入れ、貴族としての身分と、経済的特権が保障されている。
賤民とは、江戸期の大名でも従五位下であり、彼ら貴族以外の全ての日本列島の原住民を指すのだが、その種類として
○日本列島に最も早く移住してきた西南系海人族(これが縄文時代、及びそれ以前からの日本原住民である) これは後に七福神信仰でまとまっていく。
○弥生時代になって、大陸、朝鮮からやって来た侵略者の為、マレーシア、雲南方面からの水田稲作農耕の奴隷、農奴とされた人々。これを八切説では古代海人系という。
○弥生時代に大陸の影響のもとで日本列島に始原の国家が出来てゆくが、これを天の朝と名付ける。この天の朝は、古墳時代に朝鮮からやってきた騎馬民族武内宿弥のために滅ぼされた。しかし、天の朝の残党は日本各地に生き続けて、現代も多くいる。
○古墳時代の権力は朝鮮半島の三国、高句麗、百済、新羅の分国(植民地出先権力)に他ならないが、律令体制下では百済系が唐系の権力に組み込まれ高句麗系、新羅系は権力の座から追放され、蕃族として圧迫され、迫害された。
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以上大別して、四つの種類の民族が賤民とされたわけである。つまり、庶子の民とされる現代我々が使う「我々庶民の生活は苦しい」等と使う庶民であり、平民とされた。その後の千二百年はこれら四種の賤民たちの下克上の時代と云いうるのであるがその中でも
イ)文治革命(西南系海人族の伊豆の北条氏と新羅、高句麗系騎馬民族で頼朝に代表される源氏の同盟によって、律令体制に挑戦して、鎌倉に幕府を立てる。しかし、北条政子は夫である頼朝を殺し、その子たちも殺し、頼朝の血脈を断つ。ついで源氏の主立った者たち、三浦、梶原なども殺す。その為、生き残った源氏の残党は各地に分散し、隠れ住む。結局、源氏は政子に利用され、使い捨てにされた)
ロ)信長による革命(織田は平氏を名乗っているように、古代海人族の系統で信長は日本各地の同族達の解放を目指しただけで、日本全土の征服まで考えていなかったと思われる)
ハ)幕末維新革命(当初、これは神祇による、仏教打倒の革命として始まったがつまり、源氏と平氏の大同団結で革命が成就しかかったが、隼人族の末裔である、薩摩や長州のため失敗する。この三つが特記される。
明治以降の日本の体制は、律令体制の土台の上に(あくまでも律令制の大枠は破壊されていない)欧米の資本主義制度を設営し、国益尊重を第一としたものである。それゆえ、現代の日本的資本主義の変革は、欧米系制度のみを目標にする訳にはゆかない。その下にある律令制の土台、即ち官僚制をひっくり返さなければならない。そうするための不可欠の第一の前提、準備作業こそ、律令体制の産物としての記紀に始まる日本史の偽造の正体を暴露し、日本原住民の真実の歴史を明らかにしてゆくことである。八切史学は、その為の口火を日本で始めて切ったわけである。戦国時代から切り込み、そこから上代に遡り、現代にまで下がった。これが八切史観の概説なのである。
だから私の批判の矛先はアカデミイズムに胡座をかき、記紀を金科玉条としている歴史学会にどうしても向けざるを得ない。以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏で週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。
ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。
医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もできずこれらは無視です。そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっているのが現状である。何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが、先日、官学理系の助教授と話していたら「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。
現在、大前さんが提唱しているように、日本的システムの世界化が急務ですが、前記したように、21世紀を見据えた、大学改革も含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。
さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書、即ち国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。
朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です以前飛鳥を発掘した時、大化改新のクーデターの舞台の板葺宮の跡が出てきました。「古事記」「日本書紀」では火事で焼けたと在りますが、全くやけた形跡が無い。大化改新の舞台は板葺宮ではなく、浄御原宮ではなかったかという、誠にあやふやな話しがあります。
天皇陵の発掘をすれば、日本史の謎の部分が解明されるのだが、宮内庁は絶対に許可しない。よく大和朝廷、と言いますが、この当時まさに日本に強大な独立国家が在ったような印象ですが、まだ大和だけの勢力で、色々な王朝があって群雄割拠であった。それが遣隋使を送ったということは、大陸から攻められないため貢物を送り各王朝が臣従していたということです。
日本に対して決定的に大陸勢力が強くなるのは西暦663年以降で、唐の時代からです。遣隋使は朝鮮の王朝も送っていますし、岡山以西の各王朝も送っていたと考えられます。贈り物の多少によって、どちらの方が勢力が在るらしいとか、向こうから判定されて、金印や鉄剣を貰っていたと思われます。これが倭の五王と称する讃、珍、済、武までなのです。
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