八切止夫評論1

 (最新見直し2009.11.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2009.11.29日 れんだいこ拝


 歴史まがいに注意
 昔のことをやっているのだから歴史だろうとテレビをみる人もいる。昭和の敗戦までは、やはり昔の事を談じるのだから、講談は歴史だろうと、寄席でも昔噺をする講釈師と浪花節語りは、紋付羽織姿で、着流しで出る落語のような色物を演ずる人々からは先生先生といわれたものである。もちろん、「講釈師みてきたような嘘をつき」 とは江戸時代の川柳にもある。 「何々」によれば、と裏書するみたいに援用引用する例も多いが、平田門下で日本書紀をも書いた伴信友にしても、若狭人ゆえ、事さらに「水上のオンボ(隠亡)」を隠 して、「水上は雨降りの阿夫利神」などと曲筆する。郷土愛といってしまえばそれまでだが、藤原系となると、御所全体をもって一致団結して同じように筆を揃えて書くのは、公卿日記が、どれもみな「将門謀叛」と筆を揃えてデッチあげを、それぞれが、みな記録しているような例でもよく判りうる。会社の社史みたいに藤原王朝のすべてを美化してしまい、例証として引用した本などは「まんまと罠にはまった」みたいで読むに堪えない本になってしまう。

 が、日本人の御都合主義というか、長いものには捲かれろで、過去に文字で書かれたものは、頭ごなしに郭ムソウこと藤原鎌足の法令の昔からお上の布令と信用してしまうように、今も教える側が仕向けてしまう。文字で残されているということ自体が、そうする必要があったからである。つまり、これでは真実など判りっこはありはしない。その時代その時代のオカミの都合のよいようにしてしまい、過去はすべて美化して葬り去り、わけがわからなくしてしまいたがるのだから仕方がない。また庶民も過去のみじめさは知りたがろうとはせず、嘘とは薄々は内心では疑っていても、美化された過去の方が恰好が良いみたいだと、それを信用しているにすぎないうらみがある。なにしろ江戸の享保二十年頃までは、庶民の先祖は大名領でも天領でも、居付き部落に収容されていて、逃散すれば斬罪になる閉じ込め暮し。その昔、寺へ寄進された子孫が、その寺を、「ダンナ寺」とよんで台帳に書き込まれ、寺奴にされ百姓をし、奴百姓つまりド百姓とよばれる。海浜で漁をなしてアー元つまり今いう網元に人頭税として納めるのはヤン衆とみなされていた。

 喜田貞吉全集がいま刊行されているが、「民族と歴史 特殊部落研究」も含まれているが、大正八年七月には二十五銭現在の五百円で雑誌をだした途端に勤務先の大学を追われ、その雑誌も発禁処分となったのは前述。が特別部落の研究発表をした反体制的な存在と今もみられている。しかし翌年の大正九年一月一日に、半年たらずで最後の313頁から318頁の読者の投稿の「紀伊の特殊部落 土井為一」の一文だけを削除しただけで発禁解除となり、今度は定価を四倍とし「壱円」としたから、小冊子でも二千円の高値になって、雑誌だが発禁本というので六版から十八版まで古紙型で次々と刊行。喜田貞吉の日本 学術普及会でだしたのだから、一冊千九百円の差益の七掛けでも数が多いので莫大な、 今ならば数億円の儲けと初めから作為がみえそうである。が、この一冊で反体制歴史家として令名が大いに広まり、菊池山哉も「日本の特殊部落」の原稿を文学博士の彼を信用し次々と送ったが、大半を握り潰されて、使える ものだけを自分の名で発表したから、堪りかね菊池は送稿をやめ自分も雑誌をと「多摩史談」を自費で次々とだし、まだ無名だった棟方志功が毎号の表紙をその版画で飾った。「長吏と長吏部落」は、その合本所産。

 大正年間で、一度発禁になった雑誌は紙型も没収され処分のもので、[喜田のように]末尾の数頁のみの一部削除だけで紙型もその侭で返されて十余万冊も新しく再発行できたというのは、内務省警保局傘下の「民族事業融和会」の前身である「同情融和会」や、官製の「大日本公道会」の御用を勤める事を条件にしての、内務省の特別考慮による特殊な計らいだったものであるらしいと考えられる。 「広く日本民族といっても、数百十万(実際は大正初年でも約五百万人)にも達する 特殊の一大部落あり(中略)明治四年エタ非人の称を廃されてから、半世紀もたつ今日なのに、まだ特に限定社会とされ、その必要なき者まで一括して救済改善をいうのは、まったく無用な事である」 と、彼[喜田]は巻頭言で、被差別して何が悪いのかと極言までし、日本人でない他民族だと決めつけ、 「彼らは貧困、汚らしくトラホームやカサ[瘡]っかきの患者多く、その品性下劣にして犯罪者が多いといった理由の他に、深い昔からの因縁が、その根底に存する為で犯罪人が多く検挙者が多い」。つまり、犯罪をおかすのは彼らゆえ、全部が彼ら犯罪予備集団だから、疑わしきは捕え罰せよとの論を、彼は言っているけれど何も判っていない。

 幕末まで「八つ」の部落の、道とか堂の者が朱鞘と捕縄を亨保年間から渡されていた、本可打ちとよばれた二足草鞋の親分が、今でいう地方警察署長。警察庁にあたる大目付の配下の町奉行では非農耕漁業の「四つ」の飼戸の民を「千金の子は盗賊に死せず」の中国の格言で、捕物課役には部落に人数を割りあてて「御用ッ御用ッ」と捕方にした。「四つ」や「八つ」が目明かしや捕方にされ、「その筋のもの」とよばれていたからして、明治までは「おのれっ、不浄の縄目にかかるかっ」と、ばったばったと斬りたおしても、彼らは寺人別にも町人別にも入っていないから殺人罪にはならなかった。

 ところが岩倉訪欧団が戻ってきて警察国家にすべく、警視庁ができ、旧士族が羅卒となった。そこで以前の警察勢力であった彼ら「四つ」や「八つ」の者らを新しい威信を示す為に片っ端からデッチあげ(野史辞典[参照?])で検挙し犯罪者にした のである。彼[喜田]は解放のためと称し己が雑誌への各史料の投稿を読者によびかけ、その所見や成果を集め、それで他人の褌で相撲をとっているのだが、数十年前の明治初年の警察権の異動も知らぬ男が、 「一学究の自分は平素より研究してきた日本民族成立上の知識から、何故に彼らが被差別されてきたか(中略)と彼らに自覚反省するの資料にさせよう(中略)と過去の特殊の部落の由来を明らかにして、その調査をすべく諸氏の投稿を待つ。長く世の落伍者として悲境に沈んでいる条理を、これは内務省地方局に於て開催された細民部落改善協議会席上における講演なしたる筆記」と、自ら官製歴史の立場に立ち、「四つ」「八つ」は縄文原住日本人なのに、高千穂に降臨されたとするトウの天孫民族を純日本化し、被差別の社会への落ちこぼれが落伍者と決めつける。つまり天孫民族と自称したのは郭ムソウこと日本名藤原鎌足だったとは御存じなかったらしい。

 講演の速記だけを自説として雑誌の巻頭から掲げているが、秩父事件につぐ富山の米騒動も、部落民の蜂起となれば、治安維持上、なんらかの名称をつけて区別排斥する必要もあるとして、細民部落、後進部落、密集部落と改名するべきかとも述べ、不潔不衛生とも極限して差別を説く。が、「特殊部落という名称には少しも悪い意味はない」と言い切っているが、私の「特殊部落発生史」でも読み比べれば、いくら官制歴史でもひどすぎ、また大宝律令の良賎までもってくるものの、 「トウ体制の大宝律令での良はトウ渡来の大陸系、日本原住民は前からゆえ賎」の差別も知らぬ。しかし官制というか不勉強のゆえ何も判らぬみたいに匿したがりエタと非人の区別もできぬ。が、まさか大儲けするための発売禁止処分とは知らずに、「特殊部落研究」の反体制歴史屋のごとく一般い思い込まれて、大正九年からの信奉者も多く、大研究家のごとく信用している向きも多いからして、その講演部分を分析して、彼の誤りを訂正しておかねばならぬと想うのである。

 が、予め言っておきたいのは、彼の趣旨はあくまでも「特殊部落でも新平民でも良いではないか。真の部落開放とは、彼らが犯罪をおかさぬ善良な民となり、信頼すべき部落となって、被差別された新平民の侭でもよいからして、新進気鋭の人民なりと の心意気をもち、実質を改良するよう心をみな入れかえ、内からのもので部落開放はなされるのである」という、きわめて高尚な国益につながる説で、この論説のため上海の「爆弾三勇士」に部落民はなるのである。つまり郭ムソウは武力をもって原住民 を討伐し王化しようとしたが、筆は剣よりも強しのやりくちなのである。

 さて、大正九年一月一日発行の喜田貞吉主筆の「民族と歴史特殊部落研究」日本学術普及会発行の20頁より、漢字はみな当て字ゆえ判りやすく直して引用して、この部分をみると、 (特殊部落は、大部分もとの江田[オリジナルでは『穢多』?]であります。もと江田と非人とはどちらが卑しかったかと申すと、徳川時代の法令の上では同一に越多 [ママ]非人と並称しまして、もし区別するならば、むしろ非人の方が低いものになって居りました。その制度は、江戸を中心にした関東と、京を中心とした関西とでは相違もありましたが、大体非人は共に天下の公民として認めて居りませぬ。さうでありましたから、幕府の法律は直接越多非人には及びませぬ。彼等にはそれぞれ頭がありまして、人頭税をとってその自治に任して居りました。よって越多非人の犯罪者でもそれぞれ此の頭に引渡して、彼等の仲間の刑法に任すといふ有様であったのであり ます。その越多と非人とどちらが多かったかと申すと、今日正確な数を知る事は出来ませぬが、少なくとも京都附近では、非人の方が非常に多かった。正徳五年[1715)」(今より二百四年前)の調べに、洛外の非人の数八千五百 六人に対して、越多の数は僅に二千六十四人しかありません。その後非人といふ方はだんだん減じまして、明治四年非人開放の際には、全国で越多二十八万三百十一人、 非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千九十五人とあります。この皮作はやはり越多の仲間です。つまり維新前に於て既に多数の非人が消えてしまった、つまり良民に混じてしまった証拠であります。維新後に於て既に多数の非人といふ方は解放され、もはや世の人は彼らを特殊部落民であるとは、考へなくなつて居るのが多いのであります。京都附近でこれまで小屋者と言はれて居た悲田院の部落のものの中で、今でも特殊部落として認められて居るものは、僅に柳原の一部に住んで居るもののみで、一般民からはなほ多少の区別をするのがあつても、今は公署の統計上にも区別は認めて居らんのであります。

 これらのもと非人と言はれたものの中で、最も種類の多いのは雑多の遊芸者でありますが、その中でも散楽(さるがく)即ち能役者のごときは、室町時代から解放せられて、立派な身分となって居るのであります。もっともこの仲間にも、手猿楽(てさ るがく)・辻能(つじのう)などと称して、後までも非人扱いになつたのもありますが、近ごろ著しいのは俳優即ち歌舞伎役者であります。彼らは、もとは非人の一つに数えられて、河原者・河原乞食などといふ名称があつたのみならず、名優であっても、もと非人部落と言はれて居た中から出た者も多いのでありますが、今日では芸術家といふことになりまして、貴頭紳士とも交際し、だれも特に賎しいものだとは認めなくなりました。かうなつてまいりますると、もとからの非人でない、立派な身分の人々までも、進んで仲間に入つて参ります。某文学博士の令息とか、某代議士の令嬢とかいふ方まで、俳優となつて少しも恥かしいとは思いません。もとは河原乞食と言われて居ても、今は俳優として立派に大道を濶歩して行けるやうになつて居ります。近ごろ世にもて囃される少女歌劇も、昔であれば乞胸(ごうむね)と云つて、その頭の仁太夫の支配を受けなければならなかったのでありませうが、今日ではよい身分の娘さんの寄り合いで、監督も厳重だし、教育の手当もよく行き届き、内容実質共まったく賎しいものでありません。これは‥‥役者という者が事実上、非人階級から 解放された結果であります。今日に於てだれも、役者を以て特殊部落の仲間だなどと考へる者はありませぬ。しかし地方に依りますと、彼等がまだ非人時代からの、もとの部落に住んで居るが為で、附近のものからは、特殊民の待遇を受けて居る例がないでもありません。播磨・但馬などにも、この例があるさうであります)  

 屋根つきで興行するのが弾家の「四つ」の支配。乞胸とよばれる青天興行は、「八 つ」の方で東は車善七、西は山崎仁太夫の取締をうけていたのを、喜田博士は誤っている。また、越多と非人との区別も、てんで判っていないのは大正初年ゆえ仕方がないとしても、引用を続ければ、 (皮作りはもと賎民の仲間ではありません。彼等は雑戸と申して、賎民よりは資格のよいものでありました。賎民といふのは此の以外にあります) とも喜田貞吉説では説明される。

 その雑誌の二六頁に、はっきりと言い切っているが誤りである。江戸時代の五街道地図にも、「かわた」の地名は多い。四つ足の獣の皮をはぐゆえに「四つ」と、彼らはよばれる騎馬民族系。 かつて裏日本から入ってきた部族で蘇我氏となり白を民族カラーとして、後の源氏 となる。「雑戸」とは「雑色」の名でよばれる騎馬系や古代海人族より先に日本列島に住みついていた種族であって、朽葉色を民族カラーとしていたが、大宝律令では、いずれも 先住日本原住民として賎。それなのに賎民とは、皮作りや雑戸ではないというのは、暴論というか事実誤認で しかない。わけが判らなくするのが目的なのか、賎民の解明はせずに奴婢とよぶが、やはり賎のことである。 (官戸・家人は奴婢よりも資格がよく、同じ奴婢でも官の奴婢は私の奴婢よりも資格がよい。それで官戸や家人と公私奴婢との間にも、結婚は出来ぬといふことになつて居ります。こっらの家人・奴婢は一国の元首たる御方の御眼から御覧になれば、陪臣 とも云うべきもので、公民の資格は認められません。中でも私奴の如きは、すべて主人の財産で売買譲渡も出来る、殆ど人間としての権利は認められて居なかったのであります。

 この外には陵戸というのであります。即ち墓守で、後世で云へば穏坊の類です。この陵戸は屍体に触はり、葬儀に係るものでありますから、次に申す雑戸の中に属すべ きものではありながら、特に賎しいものとして、五種の賎民中に置かれる事になつて居ります。即ち陵戸らは職業が賎しかつたからして、賎民として蔑められたのであり ますが、家人・奴婢に至つては、まったく社会上に於ける境遇上の問題でありまして、人その物が特別に卑しいとか、汚いとかいふ訳ではありません。当初賎民ができた時には、良は被征服民とか、被掠奪者とかいう者であつたでありませうが、それも民族の別からではない。後には貧乏して金が返せぬとか、父兄に売られたとか誘拐されたとかの原因で奴婢になるのもあれば、みずから好んで家人になるのもあります) とまで出鱈目を喜田貞吉は述べています。

 陵戸が穏坊と同じ、というのはひどい。陵戸は騎馬民族で非農耕非漁業非製塩の遊牧の民で、大江匡房の「くぐつ記」にあるような有様だったのは、初めは捕えられて 副葬品として生きながら埋められていたのが、「飼戸」の民としてナラ王朝の頃から 馬飼いをさせられ、食糧作りをせぬからシコの御楯として防人として出征させられ、普段は陵の番人として森林の中に住まっていたから「森戸」「守戸」というのがこれで、血税を払う賎民として江戸期は奉行所の捕方の「四つ」である。穏坊は隠坊とも書くが、彼らは四方拝の中でも火を崇ぶゆえ、その火で屍体も葬ったので「髪剃り法師」ともいわれ、素焼きの土器もその火で焼く処の「八つ」の民 で全然相違するのである。

 つまり江戸末期のヤジさんとキタさんを一緒くたにしている。歴史まがいであるから、これで古代史を勉強しようとしても、根本的にどだい無理な話と、いわざるをえないとしか書けぬ。 なにしろ官戸奴隷や家人とかの、家の子郎党、蘇我氏の頃の氏人、氏族とは、その部落に捕えられて臣属した連中で奴隷市場で購入の奴婢とは違うが、官戸や家人は働き者を増やすため結婚は許されたが、捕虜とされた奴婢は男は生涯酷使されるだけで生涯にわたって独身。女は買主の慰安用で双方の結婚などはなく、男女共に結ばれたいとの悲願信仰が今も残るコケシなのである。

 何故、学生は?
 「1094 論考・八切史観6」より転載する。
 さて、今や映画館はエロダクションものでなければ、白鞘の日本刀を振り回す任侠ものが全盛である。東映の当事者などは、あれは時代劇であると言い放つが、映画館には、「汝の敵を愛せよ」というのだろうか、やくざでない学生の観客がきわめて多いのである。彼らは高倉健が映画に現れても、掛け声をかけたりカッチョイイといった声援はしない。おとなしい観客であるが、熱っぽい瞳でじっと見入っている。だからして、全共闘の学生運動と、やくざ映画についての関連性といった事も口にされる。つまり「唐獅子牡丹」においては、主人公は白鞘の短刀を厄介になっている志村喬に預ける程に、あくまで暴力否定である。だが隠忍自重して自分を押し殺していても、あくなき挑発に堪りかね、しまいには 「もはやこれまで」と、背中の刺青を出して死地へのりこんでいくのである。

 また、「懲役三兄弟」は、高倉健の扮する旅人が、病気の子供を救われた恩に対し、その子を亡妻の里へ預けて出直してゆき、中古軍袴の恰好のまま中国人の別府東洋会の本拠へ、殺された恩人への義理を果たしに、日本刀を抱え斬死覚悟でのりこむとい うストーリーである。「博徒百人」で高橋英樹の扮する主人公も、父を殺され、義兄弟の江原真二郎を倒 された仕返しに、仇の許へ単身んのりこんでゆく。

 つまり、こうした話の組み立ては、相手が「組織暴力」で、武装も優れ、衆をたの んで向こうの方から命令一下襲いかかってくる設定になっている。たとえば、長屋住まい者達が広場に集まって、皆で仲良く歌など歌っていると、ここは立ち退きだから座り込んだり立ち止まってはいけないと、圧倒的な数で意地悪を され、追い立てられるようなものであるとする。もし、そこで抗議でもしようものなら、すぐさま、 「こっちへ来い」 と、乱暴な子分にごぼう抜きにされて、叩かれたり蹴られたりする。時には親のない子のように、娘っ子までが引っ張ってゆかれ悪親分に苛められる。 そこで、我慢に我慢し、耐え難きを堪え、忍び難きを忍んでいたのが、 「もう、辛抱できん」 と、捕まればどんな目にあうか判っていながら、向こうの悪い親分の家まで止むに止まれぬヤマトダマシイで突入していき、 「男なら、桜の花みたいに散ってくれよう」 玉砕精神をもって果敢な抵抗をする。もちろん映画では、相手の悪い親分は、「あっ」 と最後血を噴いた額を手で押さえて倒れるように設定されている。また、画面の高倉健や高橋英樹は、「いざ」という時は、もろ肌脱ぎになるが、学生達はあべこべで、そればっかりは真似などできない。うっかり素肌なんか出して恰好よくしようものなら、催涙ガスにかぶれて全身に炎症を起してしまうからである。だから、夏でも、なお暑苦しくタオルで顔まで二重に覆って突っ込まねばならない。それに、手にするものも、三尺の秋水とはゆかず、せいぜい2メートルの角材くらい である。しかし、心情的には、(勝ち目がないと頭から判っていても、どうしても決起し突入するしかないのだ)といった気持ちが、<任侠仁義>の、「一人ぐらいはこういう馬鹿がいなきゃあ、世間の目はさめぬ」に共通するものを、ぐっと感じるらし い。

 学生にしてみれば、文科、法科と志願学科の選択をするように、ML、革マルをサ ークル活動にしなければならない必然性はない。ノンポリを決め込んでいても、誰からも「惰情」とそしられる事もない。かえって「賢明」そのものなのかもしれないのである。なのにヘルメットをかぶって、あけくれ訓練しているプロに衝突してゆくのは、や はり、(一人ぐらいは、こういう馬鹿が‥‥)の心境と同じもの、つまり連帯的悲壮感からだろう。また規制された場合、学生側は手出しをしなくとも捕らえられ、相手は仕事だから殴っても罰せられないという矛盾にも曝される。 「向こうは法秩序を守る任務だから当然だ」と思うのは世俗的な大人の考えで、若い世代の学生にそれは通用せず、 「警棒とヘルメットに身を固め、大きなジュラルミンの楯を持ち、学生の足を突き、 頭をボカスカ殴る。こんな恰好のよい仕事はない」 などと、彼らは<機動隊ブルース>を合唱しつつ、 「車の衝突でも人間の喧嘩でも、先にぶつかった方が悪いに決まっとるじゃないか」 殴られながらも不条理をおおいに訴える。つまり彼らがすぐ、カエレカエレと一斉に シュプレヒコールを始めるのも、 (一人ぐらいは、こういう馬鹿が)とは思っても、殴られれば痛いし持ってゆかれる のも辛い。だからして、(無病息災、帰路安全)を願い、(お祓い)の意味でのシュ プレヒコールとは祝詞で、「退散」を祈る呪文に他ならないようにも見える。 が、そんな呪いをかけたからとて、 「帰れ、帰れと蛙が鳴くから帰ろ」とは、それまで給料をとっている連中が「ピイッ」 と口笛一声、引き上げる筈もない。職務に忠実な側は、あべこべに、「わあっ」とジュラルミンの楯をかざし、アーサー王の騎士の如く勇ましくかかってくる。時と場合によるだろうが、一度捕らえられると、後は向こうのペースで処理される。学校みたいにエスケープもできない。 (危険率が高い割には効率の少ない、目先の判断では、無償みたいな行為)とは、学生達にも判っている。そこで、(一度死んだら二度とは死なぬ)と、やくざ映画を手本みたいに瞼に浮かべ、突入する勇気を奮い立たせるのではなかろうか。

 つまり、映画の高倉健や若山富三郎の扮する主人公が、成功報酬を貰いためとか、 金で雇われた殺し屋として殴り込むなら、とても「共感」は呼ばないだろうが、任侠 映画のヒーロー達は皆言い合わせたように、「馬鹿を承知で」淋しく微笑んでみせ、 多人数の中へきわめて少数、時には単身で孤独な斬り込みをかけてゆく。ここに観客 である学生層は若い血潮をたぎらせ、「おのが姿を影とみて」つまり高倉健や高橋英 樹の主人公に、自分の顔や姿をオーバーラップさせてしまい、主義主張とはまったく隔絶した物語とは承知しながら、いざとなった時、整列して合唱したり、その幻想の中に、「行くか血の雨、男の意気地」とつっこんでゆくのではなかろうかと想像されるのである。

 孤独の点と点
 1094 論考・八切史観6」より転載する。
 昔の髷ものの任侠映画では、 「死んだ親分さんにはお前も厄介になっている。さぁ、後はかまわず男らしくやって おいで」と気丈に励まし、その後ろ姿を泣いて見送る母親の場面もあったが、ここ二十余年は 「出征」という現象はないし、今時、危なっかしい所へ出かけてゆく伜を、大いに励まして出してやるような母親もいない。そこで、 「親でさえ手を出さずに育ててきた息子を、他人さまにぶん殴られる所へなどやれますか」 と止めるか、または、 「頭を叩かれたらバカになる‥‥後遺症が残ったらどうしますか」と、息子をつかまえて、親は医学的に反対する。父親だって、『巨人の星』は漫画の世界の話で、ああいった男親なんか滅多にいないし、「自分の信念でしっかりやれ。捕まったら、俺が酒をやめても息子達のために保釈金は作ってやる、安心しろ」と、そこまで物わかりのよいのもいない。だから、母親とも父親とも結び付かないまま、 「男がこの手を振った時は、腹を決めたという事さ。泣いてくれるなおっかさん、俺は俺らの道をゆく」 と、やくざ映画のバックミュージックに流れる演歌に、すうっと心をもってゆかれ、 (俺の事を唄っているようだなぁ‥‥) と、ほろりとする学生がいるのもこの為であろう。

 なにしろ日本は四面を海に囲まれている。国外への脱出は殆ど不可能だったため、 遥か昔から家畜の如く飼い馴らされ、「長いものには巻かれろ」式で、生きてきたこれまでの伝統の諦めをもつ親が、お上に追われるような運動に、己れの子女を加えたがる筈がない。権力へ従順なのが良民とされ、少しでも反対意志を示せば、これまでの日本では、「非国民」という烙印を押された過去もあったから、どの親でも、みな 心配して反対するのである。だから、当人達にしてみると、「親は何故ああなのか」 と恨めしくなり、 「俺の親が‥‥はたして彼らなのか?」 といったエスカレートした疑問までもってしまい、「時には母のない子のように」と いった歌が、かつて流行したのもこの背景があったからであろう。つまり絶望にも似 た孤独感から、「親はあっても、なきに等しい」といった観念がどうしても生まれてくるものらしい。だからして、現在のやくざ映画では、主人公やその同調者は、これことごとく、親に死別したり生別したことに設定がなされているのも、やはりこれに迎合する為であるらしい。

 つまり、戦後のやくざ映画や、そのジャンルの演歌は、家畜の仔としてでなく野生の生物として解放された世代の「孤独」に合致させるため、彼らの類は類をもって集まるというか、同じ境遇の孤独の個と個の繋がりを、しきりに強調しその連帯感を、 「親の血をひく兄弟よりも、固い契りの義兄弟。こんな小さな盃だけど‥‥」 といった表現、つまり同志的結合を義兄弟といった形で表現し、また最近の若い世代 は、男も恰好よいのに憧れるから、「俺の目を見ろ、何にも言うな。男同士の腹のうち‥‥」といった歌詞でそれを支える。 もちろん親に反対され周囲の大人からも、 「そんな事をしていると、大会社や官庁に就職できなくなるぞ」 と言われて、時には自分でもむなしく感ずる事がないでもないだろうし、同じように デモっても、運悪く捕まる者と逃げられた者とでは両者差もきつい。だから、 「ばかと阿呆の兄弟がらす、あばよで別れてゆこうじゃないか‥‥」。自嘲というか、自虐めいたのも流行するが、さて、この「義理」とか「人情」といっ たものは、NHKなどでは浪花節で復活させようとしているらしいが、また日本には、 これが時代に逆行してカムバックする機運ができているのであろうか。演歌が怨歌にならぬようしみじみ考えざるをえない。






(私論.私見)