元 治 元 年 の 全 学 連
悪魔払いせむと値上げの烈しさに すめらの使徒は 今こそたためやも
文久三年から元治元年(1864)にかけ物価は三倍。厄よけに天狗面をつけ世直しに武装決起した彼らは、水戸の激党に混同され、名のった奇兵隊の称号も翌慶応元年
(1865)には高杉晋作に使われた方が有名になり、斬殺された三百の青少年のことは、天皇も知らずに忘れさられている! むかし「全館連(ぜんかんれん)」いま「全学連」
そこでは一日に何人も死んでいった。ひどい日には二十人も動かぬ屍体になってしまった。発疹チフスが蔓延していたからである。まだ死なないまでも、もう死ぬことになっているどす黝い人間が、蓆の仕切りの中には、まるで風に吹きよせられた病葉(わくらば)か、すでに腐土になりかけた朽葉のように重なりあっていた。どよんだように屍臭が、そこには渦をまいてたちこめていた。
1945年の秋。今では東北(トンペイ)とよばれている当時の満州国の奉天市。 いや、もうその時は瀋陽という名になっていたが、中心街区の春日町の北。つまり奉 天駅から放射線の大通りになっている浪速通りと交叉する向側に、日露戦争後に建立 された「春日神社」と「北春日小学校」があった。奉天の日本人街は平安広場先の青葉町方面が住宅区域であるなら、この春日町一帯 は商業地域で裕福な一角となっていた。だから八月十五日の終戦に先だって、十二日 にソ連軍が国境を突破して進入すると十四日から奉天駅前を皮切りに毎日四町四方ぐらいの割りで、当時の満人が馬車を烈ねて襲撃にきた。家財はもちろん床板まで剥が してもっていった。略奪騒ぎである。だから初めは、家を壊され奪われてしまった邦人の収容場所に、その北春日小学校の校舎は充当されていた。
しかし九月に入って、赤旗をつけたソ連戦車が進入してくる頃になると、衣服や荷物も奪われて麻衣に孔をあけて首だけだした邦人や、よれよれの満服をきた開拓団の生き残りが、まるで獣のように四つ足で疲れきって温かい南へと奉天へ這いつくばって流れこんできた。奉天の市街は南部は住宅街で、暴動の襲撃を恐れて硝子戸には板をはり戸口も釘づけだった。住んでいる日本人は裏口や屋根を伝って外部とは殆ど没交渉に、まるで殻
をしめた貝でもあるかのように暮していた。たとえ同じ日本人でも見知らぬ者は拒んでよせつけなかった。だから、奥地の難民は、暴動の巷となっている北部の春日町から浪速通りへと集まってきた。そして北春日小学校が、いつからとなく難民収容所と
なってしまっていた。混乱しきっていた。
もちろん浪速通りの中央郵政局脇や駅前には「派出所」の名目で十名位ずつの巡査はいたが、「警察」という国家権力の名の許に、付け届けをしない人民には、あくなき苛斂誅求をし、勝手に逮捕したり無実の罪を作りあげて陥し入れていた彼ら警官は、
八月十五日の終戦の放送が入ると、すぐさま官服をぬぎ棄て逃亡。一人残らず家族を 伴って官舎からも姿を昏ましていた。それでも九月の末には警察総局や各派出所は一
斉に襲撃されて、どうして残っていたのか、まだ官服をきた侭の日本人の警官が八人 余り見つけ出されて、満州中央銀行前のポプラの並木に一人ずつ首を吊らされて、一
列横隊にだらりと並ばされていた。すると当時の占領軍は「日本敗残兵の襲撃」と発表し、「旧日本兵の逮捕」つまり「男狩り」というのが十月一杯まで続いた。だから
北春日小学校の教室を分割した収容所へ、奥地から引揚げてきた女子供の中へ身を匿す為に脱走兵が混入してきて、俄か作りの夫婦も多くできたようである。
しかし十月に入ると満州は零下十度の寒さになってしまう。そして、おまけに発疹チフスの猖獗(しょうけつ)である。次々と収容所の日本人は屍体になっていった。終戦までは奉天の日本人墓地は北陵にあった。しかし、その頃の状態では、とても
屍体はそこまで運んでゆけるものではなかった。満人を苛めたのは軍と警察で、その被害はなにも彼らだけではなく、無力の在留邦人も、やはり軍人と巡査に虐げられてきたのだし、それらへの報復は、八名の警官の制服をきた人間を、まるで蝙蝠が逆さにとまったような恰好で首吊りさせてしまって
いるから、もう済んでいるようにも思うのだが、日本人に対しては略奪暴行勝手次第で、殺害しても殺人にはならぬような時代だったから、危険で北陵までは運搬できぬ
屍体はやむなく小学校の校庭へ孔をほって並べていた。なにしろ土が凍っていて深く掘れなかったし、それに一日平均十体ぐらいずつも屍体がでては、一列に並べ、またその上に重ねてゆくしか、他に方法はとれなかったの
である。
零下十度といっても十月の末になると、夜になると二十度ぐらいの酷寒の夜もある。 そんな晩、「キェイッ」と異様な声をはりあげて、積まれた屍体の下から、凍りつ
く衝撃に生き返って覚醒し、まるで泳ぐような手ぶりをしながら、学校の教務室をも って充当していた分区事務所の灯をめがけ、飛び込んでくるものがいた。初めの内は
びっくりした。 「‥‥死んだのが蘇ってきて、こりゃ珍しい」と、温かい湯をのませ、高梁粥の薄い のを与え、火の側へ寝かせておくと、三日ぐらいで、どうにかまた本復してしまう例
があった。屍臭に近い異様な香の漂う難民収容所には、誰もあまり近づきたがらないし、また 発疹チフスやペストの予防注射液も入手できず、うかつに入り浸ると感染の恐れがあ
ると、開業医の経験をもつ者や満州医大の連中までが、収容所へはきてくれず、それ より金儲けになる占領軍の男共の性病治療に、赤十字の手製の旗を掲げて商売して、
自分やその家族を守るのに必死だった頃。私は幼い時分から死を惧れないというか、 生きているより死ぬ方が良いと、そんな自閉症的な性格が強かったので、ふつうの人間の厭う難民処理を自分からかってでていた。しかも屍体始末を扱っていた。もちろ
ん人道主義的なものでもなく、唯みんな嫌うから、人の厭がる事だからと、あまのじゃくな精神でやっていたのであろう。
私は1945年の秋から1947年の春、北春 日大隊長として生き残りの難民婦女子二千人を錦県坪盧(きんけんころ)島から博多まで引率してくる日まで、足かけ三年にわたって、屍体と倶に暮してきた。当時まだ
二十代の若さだったから身体も元気で感染もしなかったのかも知れない。だが噎(む)せ返るような、饐(す)えるような屍臭は今でも鼻腔に今でも強く残
っている。そして時々私はそれを、なにかの折りに、はっとしたように嗅ぐ。 そして、今でもその匂いの幻臭に、なんでもない時にも嘔吐を催したりする。とく
に顔色の悪い人に逢ったりすると、何百いや千に近いむきだしの屍体の横列の山を、 自分が積ませて日々みて暮してきているだけに、すぐ咽喉がごくっとなって吐いてし
まう。女性ならば、悪阻[つわり]ですともその場を繕ろいもしようが、なにしろ私は男である。とても、そうした弁解は許されない。だから失礼があってはいけないから電話ではお話をするが、初見の方とはお目にかからない事に今でもしている。なにしろ自分が死ぬのは己れの屍体を見ないで済むからよいが、私の体験では他人の遺体
というのはまあ一体や二体ならばよいが、あまり集団で重ねて、毎日それを見るものではないようである。
さて、これは常識的には奇妙な話かも知れないが、前にも書いたように、 「脈膊が止まり、心臓の鼓動が停止し、鼻へ手を当てがってもスウスウしないような状態」、つまり生体が遺体に変化したと確認してしまい、
「校庭の屍体収容所へ運ぶよう」と使役の男共にいいつけ、届出の住所本籍氏名の欄に、「死亡」という記入をさせた後の状態になって、つまり屍体の山へ次々と横並べ
に、一列横隊に積ませてから、およそ、まる一日から三日目ぐらいになって、 「キェッ、助けてくれろ」と、蘇生して、まるで幽鬼のような顔をして、上にのっかっている人間の遺体をのけ、喘ぎながら這いだしてくる「更正人間」が、春や秋はすくなかったが、冬と夏には多い時は月に二人、三人いやもっとあったかもしれない。正確な員数は、博多の引揚援護局の役人が「提出して下さい」といわれてしまって
差出したきりなので、完全な数は覚えていないが、 「死亡のち更生」と朱筆させたのが、私の記憶では足かけ三年間に四十名はいたよう な気がする。 ろくに施薬もできず処置もとれぬ侭、(動かなくなったから死んだのだろう)ぐら
いの素人判断で、屍体置場へもっていってしまう占領下の混乱時代だから、仮死状態 の侭でおいてきて、それが蘇生してきたのが多かったのであろう。しかし、
「いったい<死>とはなんだろう」と手伝いの人々と、よく論議はしたものである。
なにしろよく見馴れてしまい麻痺もしていたが、やはり気になって仕方がなかった のだろう。 「動かなくなった車のエンジンの所を蹴飛ばしたり、聴こえなくなったラジオをボイ
ンと叩くと、エンジンが掛ったり電波が入ってくるようなもので、つまり衝撃で接続 が外れていたのがくっつき、活動し直すように、人間も最初は仮死の状態が初めに現れ、それが続いて完全な死になるのだが、酷寒や酷暑に刺戟されると外部の皮膚から
衝動が伝わり、それで止っていた心臓が動きだすのではないか」 というような結論になっていたと想う。そして、「死んでも、また蘇返ってくる例は ないこともない。だから茨城の水戸では今でも、火葬はせず、郡部へゆくと寝棺に釘もうたず一週間は埋めずに地上へおいておき、もう出てこないと判ってから、初めて孔をほって埋めるので」とも教わったものだ。
私は死そのものを、そんなに嫌っている方ではない。今でも、あけくれ、それしか 考えていない。しかしうっかり死んだことになって棺桶へ入れられ釘づけされ、さっさと火葬場へ
もってゆかれて、石油バーナーでガアッとやられた途端に、はあッと意識をとり戻したら、まさか消化器やハンマーは棺に入れておいてくれないだろうから、
「その時はどうしようか」などと、とりこし苦労をするようになった。勿論どうも我慢性がなく意気地のない性質なので、奉天の頃の体験を想い出すと、そんな事は、
「万が一」と判っていても(いやいや何十万や何百万に一の確立を狙って、宝くじを 買う人さえ多いんだ)と小心者特有の用心深さで、かつて「死後一週間はその侭でア
フターサービスしてくれる」ときかされた茨城県の寺々を念のためとみてあるいた。すると、水戸市や土浦の方は火葬が多いらしいが、筑波山の周囲は今でも棺桶の新し
いのは、地面にあって花輪やお供えの飯椀などがあった。しかしあまりに繁雑に墓地を覗いて歩くものだから、どこの寺でも「見たこともな い変な奴だ」と怪しまれ誰何されたり、又それが縁となって、
「あなたのなら腐るまで埋めずに待ってあげますよ」といった懇意になったお寺さん もできてきた。
<水戸藩党争始末>によると、下妻合戦の時、公儀本陣となった信福院とよぶ古刹が、 現在では「新福寺」の名で小さく狭くなって残っている。ここの住持も親しくなった 一人で、 「天狗党から奪った旗だそうです」と、何度目かに立ちよったとき、こうぞのかたま った黄ばんだ紙旗を拡げて見せられた事がある。 「全館連」と、一世紀前の墨痕がしなびて残っていた。 「館」というと大正時代は下宿屋の名、昭和に入ってからは劇場名であるが、一世紀前、つまり明治元年より四年前の元治元年の頃では、これは学校の呼称だったそうである。つまり現代のこれは、「全学連」の旗だったと判った。
なにしろ私などは水戸の天狗党といえば勤皇の義挙だと思っていたら、当時の、 「全館連二十三校の蹶起」であると、住持はいうのである。 「‥‥そんな、ばかな」と既成概念でかたまっている私が、本気にしないで反対すると、
「常陸太子町に建っている碑文をみてみなさい」 と窘(たしな)められた。だから太子へ行ってみると、「明治十八年」という年号も 明記され、 「元治元年十月二十五日、流賊あり、まさに本邑を掠めんとする。君(黒崎友山)ここに郷人を率いて、これを防ぐ。かたずして歿す。時に年四十三才にて、奸賊のため
致命す」 という堂々たる石碑が黒崎家の墓地である永源寺境内にたっている。題額は、時の大蔵大臣、松方正義公爵。 撰文は、帝国大学教授、内藤耻叟(ちそう)博士。
これを眺めると明治十八年までは、時の伊東博文内閣や権威ある東大もひとしく 「流賊」「奸賊」と水戸の天狗党を「賊」扱いにして、勤皇も尊王も、まったく無関
係だった事を証明している。又、水戸三十万石の菩提寺である爪連の常福寺の<寺務日誌>を拝観させて貰うと、 今でも、 「当御山へ、賊徒共、砲発して乱入仕り」
と、はっきりと天狗党は「賊徒」と主家の檀那寺からも烙印をおされている。つまり日清戦争以降の軍国日本のミリタリズムによって、故意に変貌させてしまう
まで、水戸天狗党というのは、あくまで賊徒であったという事実は、 「太政官日誌」にも、 「さきに常州野州の脱走の浮浪共に対して征討の勅を下し賜れ云々」の記録もある。だから、武田耕雲斉以下加賀へ入った者は「朝命抗敵」のかどで藤田小四郎とも全員
打ち首にされている。殺す時には「朝敵」で、死後三十年ぐらいたって、国家が戦争目的に人民をかりたてる段階には「勤皇」にデフォルメされてしまっては、明治百年も虚偽の歴史になっ
てしまい、どこに「真実」があるのか、てんで今となっては判らなくなってしまう。
また今日、有名なのは「会津白虎隊」であるが、その手本になったのは「二本松少年隊」。そして、その二本松の少年兵が生れたのは、元治元年に、この二本松の兵を撃破したのが、天狗面を冠った十二才から二十才までの奇兵隊の少年隊であり、それを二本松が真似し白虎隊はそのまたイミテーションにすぎなかった事も、現在は明らかにさ
れていない。そして満十二才ぐらいの少年までがなぜ一身を賭して戦わねばならなかったのかと いう事と、僅か二十才の大名の伜でもなく、士籍とも離れていた青年隊長の下に、老人や壮年の者までが加わって戦ったということ自体が、これが当時の、
「学生運動の草分けだった」という事実にもとづくものでなくて、なんであろうかと いうことになる。
現在の学生運動では、利口な教授や助教授は、傍観者の立場をとったり、ひどいのは学内へ警官の導入までするが、一世紀前の先生は純粋で、あく迄も教え子を守って、
講師も校長も身を挺して、当時の機動隊と果敢に戦い死んでいった。つまり老壮年層 の大半は水戸二十三校全館連の教授方であったからこそして、 「二十才の学生闘争委員長(しょせいかたもとどり)」の彼の指揮下にあって戦ったのだし、十二、三の少年も在校生として、先輩と共に銃をとり槍をとったのであろう。
<筑波水滸伝>とか<徳川十五代記>といったような講談本や絵草紙の類にかかると、 日露戦争前後の時代を反映し、みな「勤王精神」の「志士」にされているが、現実においては、初期の彼らの行動は、あくまでそれは、 「全館連」の紙旗をふりまわして、現代でいえば「無届け集会」をしてから、日光へ 向って、「無届けデモ」をしたにすぎない。なのに幕府の機動隊に包囲されてしまったから、栃木の太平山に篭城したまでの事である。 菊旗と戦って朝敵にされ、幕軍と戦ってこれを撃破した彼らの行動は学生運動から サンジカリズムになり、やがてしまいにはアナーキズムではなかったかとも想像され る。革命闘争だったのである。
が、勿論数の多いその集団の中には「勤皇」といった思想の持主も混じっていたろうが、それは一つのテーゼであったかも知れないが、実際にはそれを望んだ者は、朝廷に直接ご奉公している者か、主家がなくそれを求めていた浮浪の徒にすぎなかった
のである。ちゃんと主家をもつ者は、封建の時代にあってはその主家を立てることしか考えてはいなかった。
栃木駅からバスで十分で現在の太平山神社(当時の三光神社)があるが、明治中期迄は、ここに彼らの掲げていた「水戸幕府」の看板が蔵ってあったという。つまり明
治になる前の封建時代は、水戸人は「水戸幕府」長州人は「長州幕府」をつくって、 江戸幕府に肩替りして天下に号令する理想しかもっていなかったのが、有りの侭の現実の姿なのであろう。だから「寺田屋騒動」のごとく、薩摩の臣でありながら浮浪の
志士と提携したものは、島津の殿さまから上意討ちで主命で殺戮されている。
つまり「幕府」とは「征夷大将軍」を頭に頂く機構であるからこそ、 (自分のところの殿様を征夷大将軍にして自分らも陪臣の身分から天下の御直参にな
ろう) と思えばこそ、長州人は馬関で英米仏蘭の連合艦隊と戦い、薩州人は鹿児島を焦土と化してまで英国艦隊と戦ったのである。「攘夷」というのは今日伝えられる観念とは違い当時は、「自分らの殿さまを征夷大将軍にするため」の「実績づくり」に他ならなかったことを、維新史をやる者は改めて認識し直すべきではなかろうか。
この作品においては全部実名実存の人々である。しかし「志士」のごとく美化された話はとっていない。なぜかというと、これは浪花節ではなく、ひとつのノベルそのものだからである。 「なにが真実なのか」という命題と、「どうしても真実というものは、いつの世にあ っても為政者が勝手に歪めてしまい、まったくデフォルメされた形でしか伝わらない ものなのか」ということへの、これまたプロテクトである。 そしてこれは、僅か二十才の青年が、三百から五百の同志を率いて、「全館連」の 旗をたてて、最後は十二、三才の在校生まで伴って、当時生糸や蚕卵紙を輸出し悪性 インフレの発祥地とみなされていた栃木の陣屋と交戦し、水戸海岸で幕府の機動隊と戦い、現在は日立市になっている助川城で、二万の大軍に包囲されても脱出し、やがて少年ら共に斬殺されて死んでゆく、西暦1864年の四月から斬首される十月まで の半年間の、これは、生きとし生ける者のすべての想いを革命に賭けた青春の挽歌な のである。
われわれは年少者というと、すぐオルレアンの少女を想起する。しかしジャンヌ・ ダルクは聖霊の旗をもって進んでいった神がかりの一個の偶像でしかない。しかし、 この物語の青年は、神がかりでも仏がかりでもなく、ただ、ひたすらに、「学生闘士」 として、他校のグループと提携し、インテリ層の学生とは相剋するといわれる無産大 衆をも、その傘下に入れ、そして、いつも第一線に挺身して、まっ先に幕府機動隊へ 突入していったのである。もちろん講談のような武勇伝の存在でもなく平凡な学生で ある。 しかし、「世界戦争史」をひもといてみても、「名もなく貧しい家門の青年。しかも二十才の若者が、数万の大軍と半歳も交戦した例」などは一つもない。 オルレアンの少女などと違って、彼こそ行動派の青年としては、世界無比ではなかろうかと想う。
塙町長金沢春友編の「田中愿蔵年譜」によると、 「弘化元年[1844]に生れ、父は猿田元碩。母は水戸長谷川氏にて、久慈郡東蓮 地村に生れ、六才にして原忠寧の菁莪塾に入門」住込となっているが、当時の六才は
現在の五才である。まさか実の父母がいて幼児を預けるということは考えられない。だから、明治十九年刊の「水府要録」の「立て腹切り田中源之介の伜。長じて節度心に欠き、配下に博徒無頼浮浪を集め」という反説を加味すれば、源之介の伜だが、猿
田の許へ貰われたものと想われる。もちろん博徒無頼浮浪というのは、この時点では、 彼らは「賊徒」扱いだったから、当時の無産階級をさすのである。
またなぜ彼の許に全館連の学生ばかりでなく、一般庶民まで集まったかというと、 これは現在と同じような天井知らずの物価高のせいでもある。米価をもってしめすと、
田中源蔵十二才の安政三年(1856)には、越後米一升四十八文。翌四年にはこれ が七十二文。そして源蔵十六才の安政六年(1859)には、一升が九十五文。翌万延元年には、ついに一升が百三文。そして源蔵が二十才になって「全館連」の
紙旗と共に「物価安定」「生活擁護」のスローガンを掲げた元治元年(1864)五 月には、ついに「一升百八十文」まで昇っていた。もちろん、つれて他の物価も鰻登
りになっていて、学生は落着いて勉強できず、結婚した夫婦も生計難で別れたりせね ばならぬ世の中になっていた。
つまり彼らの蜂起は、勤王でも尊王でもなく、「政治の貧困」をつき、新しい物価安定の新政権をうちたてようとした革命運動に他ならない。もちろん二十才の青年によって、新しい人民政府が樹立されるとは、当人たちも思っていなかったろうが、その当時の日々の烈しい物価攻勢は、青年や一般大衆をして、じっと座して居られるような状態ではなかったらしい。しかし、‥‥果敢に彼らは戦った。しかし全員が殆ど殺された。まず高橋幸之介が十月三日。西山常蔵が九日。そして二十才の彼も十月十六日に、 福島県塙で斬罪に処せられている。土田衡平も翌十一月五日に相馬藩に捕えられ打首である。現今の少年紅衛兵にもあたる十二、三才からの学生たちは、坐らせては首が切りに くいという理由から、樹に吊されてみな斬殺、撲殺された。
翌慶応元年[1865]、長州の高杉晋作は、この全館連の「奇兵隊」の名称を利用して、そのまま踏襲した。この方が、後世有名になりすぎた。だから「関東奇兵隊」と、区別するために名づけたのは、これは私である。元治から百四年。彼ら全館連の青少年が鮮血をもって購ってくれた新しい時代とは、はたして吾々に住みよい世の中に、なってくれてるのだろうか。
ひとに顔ありて悲し 木刀で撲った痣みたいに、空が、ぽつんとしぎって来た。夜あけなのである。
錦着山で野宿した俺は、上人橋を渡ると、まだ薄暗い山道を、欠伸をかみながら登 って行った。随神門の朱い筈の紅殻塗りが、まだ渋柿みたいに、どす黝かった。なに
しろまだ暗い。門の左右には、見上げるばかりの仁王像が、山頂に向って立って居る が、覗いても昏すぎる。(昨夜は此処で眠ったから、門の屋根で夜露がしのげたんだ)と石畳に腰かけて、も
う一度、 (あーあ)と懸け声かけるみたいに欠伸した。小豆色の空の斑点は、水で薄めたみたいに、納戸色に拡がりだした。もう直き、あ れが赫くなって真っ赤な陽が昇る。と腕ぐみして待っていたが、なかなか日の出も上
らねば腰も持ち上らない。眉剣坂(びけんざか)の方を見降すと、表参道の石段が、はてしもなく、川のよう に眼下へ流れていた。それを屈んで見降しながら、
(なぁんだ。俺は手洗(ちょうず)の水を探しに、歩いていたのか) 自分で気がついた。すると莫迦らしいような情けないような気にもなる。俺は、また
欠伸を噛みしめながら、指さきで、目くそだけ、ほじくった。どうせ疱瘡やみで、で こぼこした菊面(あばた)である。水を探して洗面したからって、、どう変るもので
はない。顔を洗うのも億劫になる。 (たしか、此処を下りると神橋があって小川が、せせらぎを立て横切っていた)と、 やっと思いだし、 (その先は六角堂。紅い山椿の散る一本道を、降りてゆけば一の鳥居で、山を出てし
まう)が、さて、(どうしよう)吐息を洩らしながら俺は、また山頂へ繁ってる石段 を、振返って仰いだ。
なにしろ、坐りこむと、どうも動くのが面倒なのである。 「朝駆けで、いまから乗込んでみてやろうかい」 と自分に声をかけて言い聞かせても、よっしゃとは、すぐ腰はあがらなかった。なに しろ昨日訪れてきて、何度も入りそびれてしまった水戸義軍の本営だからである。 「まだ早い。もうすこし思案をさせて貰おう」 俺は、ものういみたいに朱い門に背をもたせ掛けて、義経袴の両脚を、どてんと投 げだした。 |