歴代天皇通史考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.14日

 「ウィキぺディア天皇」その他を参照する。


 神話期の天皇

 皇室の系図は、古事記、日本書紀を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、さらにはその始祖である天照大御神に始まるとされている。明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする紀年法(神武天皇紀元(皇紀))が採られていた。しかし、日本書紀は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいて、皇室の祖先にまつわる伝承や事績、および初期の天皇の存在について、その実在性を疑問視されることが多い。特に欠史八代の天皇については、古代中国の革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が現在では主流となっている。一方で実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王)が統治していた古墳時代あたりまでである。

 3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国の卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。


 古代の天皇

 中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代の劉宋王朝に朝貢した「倭」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を仁徳天皇履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。

これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王」が用いられていたと考えられている。

 『宋書』には、次のような倭王・武の上表文[13]が引用されている。

 「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います」[14]

 この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇・顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。


 皇統の不連続継承

 仁賢天皇の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された日本書紀などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。

 不安定な基盤に乗っていた王統が確立したのが継体天皇の皇子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。また、この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称した[15]と『隋書』に見える。このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。


 大化の改新

 天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに4半世紀経った天武朝以後である。大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。大化の改新の翌7月の詔(みことのり)には、「高麗(こま)の神の子」という表現があるが、高句麗王(こうくりおう)を神の子とする現人神 (あらひとがみ)の概念であった。同時に、この概念は、ペルシャかつ古代シュメールからのものだという説もある[4]

 特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。その治世において初めて天皇が十七条憲法の基幹を成す現人神とみなされるようになり、現人神という国体の概念は、天武朝において、初めて明確に打ち出された。天武天皇は聖徳太子の意思を引き継ぎ、倭を「日本」と改名し、倭王に初めて「天皇」という称号を用いた[4]。なお、天皇号が成立する以前の君主号は、倭国王・倭王(外国向け)および治天下大王(国内向け)だったと考えられている。

 天皇の即位儀礼と祭祀制度を定め、伊勢神宮を皇祖神を祭る国家奉祭の神宮として確立したのも天武天皇である。さらに、古事記や日本書紀を編纂させるなど、中央集権国家の礎を築いていった。そしてその後の「壬申の乱」を経て、中国の束縛から離れた「日本」という国の進路が決定されていった[4]律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。


 摂関政治

 しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。

 もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。


 院政期

 平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条天皇は譲位後半年足らずで崩御したのでその真意は謎のままである。

 後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王輔仁親王を帝位から遠ざけるため、今上天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。

 この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。

 治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。

 後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。

 院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い、朝廷も政府としての機能を失ったといえる。しかし、当然のことながら幕府の長である征夷大将軍や官位は、全て天皇から任命され、与えられるものであり、政治的な実権を持っていなかったとしても天皇が君主であったことにはなんら変わりはない


 鎌倉時代

 中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。


 南北朝時代

 しかし承久の変(承久3年(1221年))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統と持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した。鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐天皇による天皇親政(建武の新政)が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立した。この期間を南北朝時代という。


 室町時代

 足利方の北朝が南朝を吸収することで収拾された。なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の系譜であるものの、神器を保有した南朝を正統とすることで決着している。

 また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持がこれを固辞している。しかしこれは、義満が義持より義嗣をかわいがっていたため、父を快く思わなかったためともいわれているので、その真相については未だ定かではない。


 戦国時代

 戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名や織田政権・豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。


 江戸時代

 江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。

しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。

 江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。

 しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。


 孝明天皇

 幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。

 このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。

 その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。

 皇居の楠木正成の銅像(明治33年、1901年完成)。北朝の天皇の住んでいる皇居が、南朝に最後まで身をささげた家来に守られていることになる。結論をいうと、「北朝系の天皇は孝明天皇で終わり。明治天皇は南朝系の天皇である」ということ。明治天皇の正式の奥さん(3歳年上)が、「○○皇后」とは呼ばれずに、「昭憲皇太后」という天皇のお母さんとしての称号で呼ばれている奇妙さが説明できることになる。伊藤の死後、明治天皇は「南朝が正統」と自ら述べている。

明治天皇南朝説(明治天皇すり替え説)についての詳細については、上記文献のほか、手際よくまとめたものとして
http://www.ctk.ne.jp/~knagao/meiji.htm

 幕末維新のエネルギーは南朝を正統とする尊皇攘夷・水戸学が精神的な支えになっていた。吉田松蔭門下の連中は当然のことながら、西郷も先祖は南朝の菊池氏につかえた家柄であり、薩長それぞれの政治的なイデオロギーが「南朝の天皇を建て、異人を追い払い、独立を保つ」という共通した基盤に立っていなければ薩長連合も難しかった。それではなぜ、明治元年に、伊藤・岩倉・大久保らは、「北朝系の天皇を葬り、南朝(と称する)天皇を担いだぞ。正義は我々にあるぞ」と(五箇条のご誓文なんか出す前に)高らかに宣言しなかったのか。理由はわからない。

 昭憲皇太后は
孝明天皇の息子睦仁(旧明治天皇)の嫁。いつのまにか旦那が(新)明治天皇に入れ替わられてしまったという奇特な運命に生きた人。新明治天皇は自分が身代わりとなる前の旧明治天皇の妻を寝取るとのも気が引けたようで、御所の中で別居していたという。新明治天皇が生きているうちは彼女も生きていたが、新明治天皇がなくなって間もなくなくなつている。始末されたのではないかとの推理が生まれている。

 明治天皇

 この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。

 これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。

 なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制について、現在は一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられているが、「天皇制」という言葉はコミンテルンが最初に使い始めた用語であるとしてこれを忌避する人もいる。従来は国体と称された。

 1898年(明治31年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。

 その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。1911年(明治44年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳冨蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。


【大正天皇 】

 その後、2度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。

 しかし、1925年(大正14年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。1935年(昭和10年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。

 世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し満洲事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴声明を通じて勢力を強めていく。

 この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史的事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。それが頂点に達したのは太平洋戦争(大東亜戦争)時であり、1938年(昭和13年)の国家総動員法が発令された頃より、現人神と神格化され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。


【昭和天皇 】
 第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では、天皇を処罰し、君主制を廃止すべきだという意見(天皇制廃止論)が強かった。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤として君主制を存続させた。なお、マッカーサー元帥は、のちに「マッカーサー大戦回顧録」のなかで、昭和天皇との面会について、「私はその時、天皇の姿を通して神を見た」と書き残している[16]

 昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。当時、民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見を近衛文麿木戸幸一南原繁佐々木惣一中曽根康弘もしくは弟の高松宮宣仁親王三笠宮崇仁親王が唱えたが、一部にすぎなかった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である吉田茂[17]ダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回した。

 この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。なお、この時は複数の写真が撮影されており、中には天皇がソファに深く腰を下ろしてくつろいでいる姿もあったが、GHQは意図的に、天皇の権威を最も失墜させる写真を選択した。

 しかし第二次世界大戦で大元帥である昭和天皇が引き続き天皇の地位にあったことが、反日感情の根源ともいわれおり、諸外国訪問の際にそれが顕著となる。


【平成天皇 】

【令和天皇 】




(私論.私見)