左派、その他の諸見解

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.14日



【日本共産党の天皇制見解】
 1998年9月27日、不破委員長「日本共産党の天皇制に対する見解」(第21会党大会期、第3回中央委員会総会での不破委員長の中間発言からの抜粋)は次の通り。
 綱領路線があらためて新鮮な注目をあびる時代に

 二つ目の問題は、そういう新しい発展段階を迎えたなかで、党としては以前から決まっている方針なのだが、あらためて新鮮な注目をあびている、という問題は、いくつもあります。

 70年代の政治的経験はおおいに研究する値うちがある

 暫定政権の問題もその一つでしたが、そういう角度からふりかえってみると、七〇年代の政治闘争でのわれわれの経験は、今日、なかなか重要な意味をもっています。党が綱領を確立したのは、六一年でした、しかし、当時はまだ、わが党は議会勢力としてはほんとうに小さい勢力でした。それ以後、衆議院でともかく十をこえる議席を獲得したのは一九六九年でした。つぎの七二年の総選挙では一挙に三十九の議席をえて、野党第二党になりました。つまり六〇年代から七〇年代にかけて、一定の議会勢力をもった党に成長したわけで、そのとき、われわれは、綱領路線をもって現実政治にとりくみ、この路線を具体化するために、さまざまな努力工夫、知恵をつくしたわけです。暫定政権論もその時期にはじめて提唱したことでしたし、また野党共闘のさまざまな問題も、その当時おおいに議論したことです。こうして、綱領路線を現実政治にどう具体化するかについて六〇年代後半から七〇年代にかけて検討した到達点がいろいろありますが、それがいま、情勢の新しい発展のもとで、現実政治とかみあい、ひじょうに意義ある力を発揮する時代になってきています。

 天皇制問題――党綱領の立場を整理して正確につかむ

 その一つに、最近話題になった、天皇制の問題があります。そのいきさつを話しますと、日本記者クラブのあつまりで話をしたあと、だされた質問の一つに、暫定政権で天皇制をどうするかという話があったので、それは別に問題がないという答えをしました。それが大きなニュースになったので、私のほうもびっくりしたわけですが、ニュースになってみると、この問題にかんするわが党の立場が正確に理解されていないということを、いろいろ感じました。

 たとえば、ある人から、私は日本共産党を「天皇制打倒」の一点で支持してきたのに、というはがきをいただきました。じつは、わが党はいま「天皇制打倒」という方針はもっていないのです。これは戦前、絶対主義的天皇制の時代の党の戦略方針であって、戦後、新しい憲法ができ、またいまの綱領を決めて以後は、わが党には「天皇制打倒」という方針はないのです。いまの政治体制では、天皇制は権力の実権者ではありませんから。

 綱領は、「君主制の廃止」という目標をもっていますがそれは、日本の政治制度の民主的改革の一つとしての目標です。しかも、それは憲法にかかわることですから、日本の国民の意思と世論が成熟し、憲法問題として解決できる条件がととのった段階に、日程にのぼってくる問題として、綱領もあつかっています。だから、当面の要求課題をかかげた行動綱領には、君主制の廃止という問題はでていないのです。

 天皇の問題で、われわれの現在の政治行動の基準は、憲法の関係条項を厳格にまもることです。

 この問題でも七〇年代には、重要な経験があります。一九七二年の十二月の選挙でわが党は野党第二党になり、その翌年一月に、わが党の国会議員団が、衆議院の議長あてに、いまの開会式のやり方を憲法にそってあらためようじゃないかという提案をおこなったのです。それでいま読んでみると、そのときの議論はなかなかおもしろい議論です。いまはそれから二十五年たっていますから、国会のなかでも決まりきったことになって、日本共産党が開会式にでないのは天皇制が嫌いだからだろうという程度のことですんでいるわけですが、そのときに衆議院議長にだした文書では、この問題をどの立場から提起するのか、ということをきちんと説明しています。わが党は君主制に反対しているが、その立場を国会におしつけるためにこの問題を提起しているのではない、日本の憲法の民主条項の完全実施という建前からいって、憲法で「国権の最高機関」とされている国会が、戦前なみに、何か国会のうえにたつ存在があって、そこから「お言葉」をたまわるという関係は、憲法とは両立しない、これは国権の最高機関としてあらためようという提起だ、ということで、われわれの問題提起が憲法の条項をまもる立場からのものだといことを明確にしていました。

 この要請はそのときは入れられませんでしたが、一定の影響はもちました。それまでの開会式では、天皇は国政にかかわる問題でも平気で発言していました。アメリカと平和条約をむすべば、それをほめる「お言葉」がある、また自民党政府が「高度経済成長」で公害をまきちらしていても、いま政治は立派にすすんでいると「お言葉」がある、まさに国政にかかわる評価がなんの歯止めもなしにでてくる場でした。わが党が問題を提起して以後、この内容はかなりあらためられました。

 その年の十一月に第十二回党大会があり、そこでは「民主連合政府の綱領提案」を決定しました。そのとき、民主連合政府と天皇制の関係はどうなるのかということが、マスコミでもたいへん注目されたのですが、そのとき、私たちが大会に提案し、決定した「政府綱領提案」では、民主連合政府は憲法の平和・民主条項の完全実施の立場にたつこと、天皇についても、自民党政府がかってにやってきた憲法からの逸脱を正し、国政関与を禁止した憲法第四条、国事行為の範囲を規定した第七条を厳格にまもる立場をとることをあきらかにしました。

 このようにわが党がいまの段階で、天皇の問題について、憲法の関係条項をきちんとまもる立場から対処するということは、一九七三年わが党が国会の運営に発言権をもった最初のときですが、そのときからすでに明確にしめしてきたことですし、この立場は今日まで一貫しています。

 われわれも国会質問でも天皇の問題をとりあげることがあります。たとえば、ペルーの大使館人質事件があったときはじめて知ったのですが、外国にある日本の大使館は、天皇の誕生日をナショナル・デーとして、最大規模のレセプションをやることになっています。調べてみるとこれは戦前から引き継がれたものでした。私は国会でこの問題をとりあげて質問したのですが、そのときの批判も、「天皇が神聖不可侵の絶対君主とされた時代にきめられた行事が、主権者は国民であると明白に宣言された現憲法下の日本で無批判に引き継がれている」ことを問題点として指摘し、これを再検討せよというものでした。

 このようにこの問題でのわが党の綱領上、政治活動上の立場は明確ですが、これまであまり整理して発言する機会がありませんでしたので、ここでのべておきたいと思います。


【創価学会の天皇制見解】
 創価学会の池田大作名誉会長の主著「人間革命」に、戸田城聖・創価学会第2会長の言葉として次の一節がある。((プレジデントオンライン)「創価学会 日本民族に天皇は重大でない」その他参照)
 「仏法から見て、天皇や、天皇制の問題は、特に規定すべきことはない。代々つづいて来た日本の天皇家としての存在を、破壊する必要もないし、だからといって、特別に扱う必要もない。(略)具体的にいうなら、今日、天皇の存在は、日本民族の幸、不幸にとって、それほど重大な要因ではない。時代は、大きく転換してしまっている」。

 これが事実上の「創価学会の天皇制教義」である。要するに、創価学会にとって天皇とはさして「重大」な存在ではないとしている。この観点から、生前退位や女性宮家創設論など近年に巻き起こった皇室をめぐるさまざまな議論の中でも、創価学会や公明党がそこに深入りして何か重大な提言を行った形跡もない。創価学会の機関紙『聖教新聞』の2019年5月2日号では、前日の新天皇即位を1面で報道。それを祝す原田稔会長の「謹話」も載せてはいるものの、熱狂的な雰囲気などはまるで感じさせない“落ち着いた”文言になっている。
 但し、宗教史的に創価学会は日蓮宗の系統に属する教団である。天皇を「重大」なものととらえない学会の姿勢は日蓮思想の中では異色である。鎌倉時代に生きた日蓮宗の開祖・日蓮は、天変地異や政争の相次ぐ混乱した当時の世相の中で、「自分の教えこそが日本国を救う思想である」と宣言。「国家諫暁(かんぎょう)」もしくは「国主諫暁」と言って、鎌倉幕府の要人などに対する“直撃布教”のようなことを繰り返す。これによって日蓮は時に殺されかけ、流罪にもされたのだが、その姿勢は生涯変わらなかった。日蓮にとっての布教とは“対民衆”よりも“対権力者”に重きが置かれていたきらいがあった。こうした姿勢は後世にも受け継がれ、戦前の日本を軍国主義に導いた思想家たちに日蓮主義者が多かった事実とも密接に関係する。彼らの言う国主諫暁とは「天皇への布教」を意味していた。

 古来、日本の思想家にとって天皇とは、常に重大な関心の的であった。現在でも、天皇制への見解は人を“右”と“左”に分ける重要なリトマス試験紙だ。ただ戦後、創価学会はそこから離れ、特殊な思想集団として歩んできた。日蓮系教団の多くは、戦争への反省などから露骨な政治関与を控えるようになったが、創価学会は新たなロジックを生み出す。「主権在民の世の中では『国主』とは民衆のことである」という大方針転換を獲得し、池田大作会長式「日本国民の3分の1が創価学会員になれば布教は完成する」とする観点から1950年代から「折伏(しゃくぶく)大行進」と呼ばれる布教キャンペーンを始め追々に日本最大の宗教団体の座に上り詰めていくことになる。




(私論.私見)