大正天皇の御歌考

 (最新見直し2015.07.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、大正天皇の御歌考をものしておく。「大正天皇御製歌」その他を参照する。

 2007.10.31日 れんだいこ拝


大正天皇の御歌考
 「大正天皇御集おほみやびうた」(邑心文庫.2002.10月)が発行された。日本教文社から、小田村寅二郎・小柳陽太郎両氏の共編になる「歴代天皇の御歌(みうた)―初代から今上陛下まで二千首―」が発行された。この中に、大正天皇の御製118首(総数465首の内)が謹選されている。近代の天皇方の中で、明治天皇、昭和天皇の御製は御製集等によって一般に知られている。しかし、大正天皇の御製は目に触れる機会も少なかった。その意味で、大正天皇の御歌の公開には意義が深い。

 大正天皇は、三島中洲の指導を受け、創作した漢詩の数は実に1367首に上る。質量とも歴代天皇のなかでも飛びぬけている。これを確認するのに、2位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下となっている。天皇は「歌よりも詩のほうがいい。お前たちも作れ」と侍従たちに盛んに詩作を勧めていた。和歌の数は岡野弘彦の調べによると456首が確認されている。岡野は、大正天皇の御製集の解説の中で、歌の出来は相当のレベルに達しており、特に、「清涼さ」、「透徹した描写」においては明治天皇や昭和天皇よりも優れていたと分析している。

 インターネット・サイト「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」、2002.10.27日付毎日新聞書評欄「
近代の帝はなぜ恋歌を詠まない?」、「大正天皇の大御歌を参照しながら以下のように整理してみた。(評はほぼそのまま転写させていただいている、ご容赦をば請う)

 「大正天皇は天才肌の歌人であられた」との評がある。丸谷才一氏が次のように評している。その代表的秀歌を論じながら大正天皇その人をも評している。
 「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である」。
 「とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない」。
 「ひょっとすると、大正という十数年間の憂愁と古典主義との結びつきを最もよく代表する文学者はこの帝だったという想念を抱かせるかも知れない」。

 五木寛之氏も又「大正天皇の短歌を絶賛し、「彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているとのことである。

 2007.10.31日 れんだいこ拝

【大正天皇の御歌考】
 大正天皇の歌には次のようなものがある。これをジャンルごとに編集してみる。
 「新年の年賀歌」として次のようなものがある。 
 「あらたまの 年の始めの 梅の花 見る我さへに 微笑まれつつ」
(評) お題は「梅」。
 「船毎に しるしの旗手 うちなびき 浦にぎわしく 年立ちにけり」
(評) お題は「*」。
 「あらたまの 年の始めに 仰ぎけん 君が御稜威の 彌高の山」
(評) お題は「山」。
 「たひらかに 年浪かへる 五十鈴川 神の恵みの 深さをぞ汲む」
(評) お題は「河」。
 「民は皆 年のはじめを 松の枝 門に飾りて 御代祝ふらん」
(評) お題は「松」。
 「年立ちて 降る雪見ても 大君の 深き恵みを 人仰ぐらん」
(評) お題は「雪」。
 「男山 みさをを変へぬ 若松の 末たのもしき 君が代かな」
(評) お題は「社頭松(しゃとうまつ)」。
 「ふり積る 頭の雪ぞ あはれなる 老木の松は 人ならねども」
(評) お題は「雪中松(せっちゅうまつ)」。
 「影冴ゆる 月にきほひて 咲く梅の 花の心ぞ 雄雄しかりける」
(評) お題は「寒月照梅花(かんげつてらすばいか)」。
 「こまつばら 末はるかにも 聞ゆなり 友よびかはす 雛鶴のこゑ」
(評) お題は「松上鶴(しょうじょうつる)」。
 「軍事歌」として次のようなものがある。 
 「波風に あひし御船を すすめむと 皇子にかはりて 身をしづめけり」
(評) お題は「橘姫」。橘姫とは日本武尊の妃の弟橘媛のこと。夫の東征に際し海路の安全を祈願して走水の海で入水された妃である。

 「みるかぎり 波もさわがず 大ふねに 心ものりて進む 今日かな」 

(評) 明治33年、千歳艦上にて、皇太子であられた御年22歳の時の御歌である。拝誦する者をして思はず大海原に誘はれるやうな気がする。そして「心ものりて」といふご表現には、若き皇太子のあふれるやうなご感動が伝ってきて、天皇といふ御位につかれるべきお方の天稟さへうかがはれる。
 「軍人(いくさびと) 国の為にと 打つ銃(つつ)の 煙のうちに 年立ちにけり」
(評) 戦中新年。新春と来れば普通なら霞みなのに銃の煙に取りなしている。歌としてこの奇想が素晴らしいが、大正天皇の時代への憂愁さえ見て取れるように思われる。
 「軍人 力尽くして 鳥船(とりふね)の 大空かける 時となりにき」
(評) 飛行機。飛行機を鳥船と歌う奇想と優雅な構図が素晴らしい。且つ、この歌にも又大正天皇の時代への憂愁さえ見て取れるように思われる。
 「いざ行かむ かなぢの車 乗り捨てて 手馴れの駒に むちをあげつつ」
(評) 演習。高槻停車場を出でて演習地に向かう。車をかなぢの車と詠む着想が面白い。且つ、この歌にも又大正天皇の時代への憂愁さえ見て取れるように思われる。
 「ますらをが 世にたぐひなき 功こそ あら波よりも 高く立ちけれ」
(評) 日露戦争時の御歌。詞書に「広瀬中佐の戦功をめでて」とある。広瀬中佐とは、旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫のこと。「功」は「いさを」と読む。
 「御軍に わが子をやりて 夜もすがら ねざめがちにや もの思ふらむ」
(評) 日露戦争時の御歌。「御軍(みいくさ)」とは、天皇の軍隊即ち皇軍のことをいう。詞書には「従軍者の家族を思ひて」とある。
 「秋深く なり行くままに つはものの 敵うつ野辺を 思ひやるか
(評) お題は「秋日憶遠征」。この年に第一次世界大戦が勃発し、日本も8月23日に参戦。10月31日から11月7日にかけて、ドイツの中国における租借地で要塞化されていた青島の攻略すべく戦った。その遠征を思いやった歌である。
 「沈みにし 艦はともあれ うたかたと 消えし武夫の をしくもあるか

(評) 詞書には「膠州湾外にて軍艦高千穂、敵の水雷のために沈没して艦長以下戦死し、十二名あまりいきのこりけるよしをききて」とある。青島攻略での犠牲を嘆いた歌である。

 「國のため たふれし人の 家人は いかにこのよを 過ごすなるらむ
 「ぬきがたき 塁ぬがんと 捨てし身を したふ妻子や いかに悲しき 」
(評) お題は「戦死者遺族」。「戦死者の家族をおもわれて」。
 「 もののふの 命をすてて 戦ひに かちしえものは 尊かりけり
(評) お題は「戦利品を見て 」。
 「情景歌」として次のようなものがある。

 「鳴神の おと近づきぬ 山のはに 一村雲の 立つとみしまに」(大正4年)

(評) 雷。鮮やかに夏を歌ひ上げられた叙情詩である。「夕立」の御歌が目に見る静寂の余韻を感ぜしめるのと対照的に、ここには耳と目で捉へられた緊迫の感動がある。「鳴神(なるかみ)」といふご表現もさはやかである。

 「庭木みな ぬらしもはてず 晴れにけり 待ちにまちつる 夕立のあめ」(大正5年)

(評) 夕立。一瞬にして走り去った夕立の口惜しさ。それを「庭木みなぬらしもはてず」と詠まれた心憎いばかりのご表現に、そのお気持ちがよく伝わって来る。
 「山水の 清きながれを 朝夕に ききてはすます わが心か」な
(評) 詞書には「あるときに」とある。
 「かぎりなき 山田の里の 賑わひも 立てる煙に 知られけるかな 」
(評) 田家煙(でんかけむり)
 「吹き騒ぐ 嵐の山の 巌根松 うごかぬ千代の いろぞ静けき」
(評) 巌上松(がんじょうまつ)
 「ここちよく 晴れたる秋の 青空に いよいよはゆる 富士の白雪」
(評) 汽車中に富士を見て。大正5年の作。
 「国見の叙情歌」として次のようなものがある。
 「木のまより 煙ひとすじ 立つみれば 山のおくにも 人はすみけり」
(評)
 「誰が為に 花は咲くらむ みむ人は すまずなりぬる 故郷の花」 
(評)
 「乗る汽車の 窓より見れば 秋草の 花盛りなり 毛野の国はら」 
(評)
 「あたたけき 沼津の野辺を 辿りつつ 霞みの奥の 富士を見るかな」 
(評)
 「釣り舟も あまた浮かべり 近江の海 比叡の高峯(たかね)の 晴れわたる日は」 
(評)
 「よさの海の 霞みの奥に なりにけり さみやかに見えし 天の橋立(はしだて)」
(評)いずれも構図が大きく且つ繊細優雅であり、技量が並でない。
 「降り積る 真垣の竹の 白雪に 世の寒けさを 思ひこそ遣れ」
(評) 「雪中竹(せっちゅうのたけ) 」。
 「愛国歌、国憂歌、日本論歌」として次のようなものがある。
 「外国のさまをうつせる家もあれど白木づくりぞゆかしかりける
(評) お題は「家」。大正の御代も今は遠くなり、悲しいかな、現代の帝都は「外国のさまをうつせる家」があまりにも多くなってしまった。大正天皇の御心にこたえ、もっと和風の建築をふやしたいものである。「外国」と書いて「とつくに」と読む。
 「ゆたかにも 雪ぞつもれる 秋津しま めぐりの海は 朝なぎにして
(評)お題は「朝晴雪」。第一次世界大戦も連合国の勝利で終わり、日本は名実ともに世界の一流国となった。束の間の平和に安堵している詠みが伝わる。
 「降る雨の 音さびしくも 聞ゆなり 世のこと思ふ 夜はのねざめに」 
(評)お題は「夜雨」。まことに世のゆく末を憂う天皇の大御心は休まることがない様子が伝わる。
 「かきくらし 雨降り出でぬ 人心 くだち行く世を なげくゆふべに」 
(評)お題は「夕雨」。「人心」は「ひとごころ」と読み、人々の心のあり様のこと。「くだち行く」とは、衰えてゆくこと。すなはち近代化にともない、社会が低俗化してゆくことを嘆かれたか。
 「」 
(評)
 「」
(評)
 「人生歌」、「政情歌」として次のようなものがある。

 「いとまえて ひとりひもとく 書(ふみ)の上に 昔のことを 知るがたのしさ」

(評) 大正5年。読書。政務多端なご生活の中で、わづかの暇を得て読書にいそしまれるひとときは、いかばかりかお心を慰められるひとときであられたらう。そしてまた、いにしへの御世を心の支へにされたのであらう大正天皇のお心がしのばれる。(ここで併せて思ひ起こされるのが、明治天皇の「歌」と題された「ひとりつむ言の葉ぐさのなかりせばなにに心をなぐさめてまし」の御歌である。

 「かきくらし 雨降り出ぬ 人心 くだち行く世を なげくゆふべに」

(評) 大正9年。夕雨。時あたかも前年(大正8年)のベルサイユ条約調印の後、欧米列強の日本に対する圧迫は強められ、翌大正10年には、ワシントン会議に於いて既得権益の返還や、軍備の縮小を迫られるに至るのであった。また国内に於いては、政府の英米屈従・軟弱外交を糾弾する世論の次第に高まる中に於いて、大正天皇はいかばかりかお心を 悩まされたことであらう。この「夕雨」といふ御歌には、さういふ大正天皇の人知れぬお苦しみがしのばれるのである。また、さういふご心労のご政務が、大正天皇のご病気を重くしていったのであらう。
 家庭団欒、子供好きな様子が窺われる次のような歌もある。

 「こどもらの手を取りながら親もまた しほあみすなり 浦の遠あさ」

(評) 大正4年。海水浴。
 「汐(しお)引けば 葉山の裏の 岸づたひ あしがに取りて 遊ぶわらはべ」
(評) わらはべ
 「学舎(まなびや)は 遠くやあるらむ 朝まだき 野道を急ぐ うなゐ子の群れ」
(評) 学舎(まなびや)。読み人の温かいご気性が知られる歌である。
 かたつむりや蛍などの生物に関心が深かった様子が窺われる次のような歌もある。
 「這(は)ひし跡 さやかにみせて 蝸牛(かたつむり) いづこに今は 影を潜める」
(評) 蝸牛(かたつむり)。
 「夕闇の 空に乱れて 飛ぶ蛍 遠き花火を 見るここちする」
(評) 蛍。読み人の天真爛漫なご気性が知られる歌である。
 「池の面に しだり柳の かげみえて 水の緑も 深くなりぬる」
(評)
 「春の野に 筆かとみゆる つくつくし みやび心の 人やつむらむ」
(評)
 「かげろふの もゆる野路を わが行けば 小草の花に 蝶もあそべり」
(評)
 「 山松の 梢にすだく 雛鶴も 親に習ひて 千代呼ばふなり」
(評) 「松上鶴(しょうじょうのつる)
 次のような恋歌もある。
 沼津御用邸にて詠まれた御歌二首。詞書きには、一首目「沼津用邸にて庭前の松露を拾ひて」、二首目「その松露を節子に贈るとて」とある。
 「はる雨の はるるを待ちて 若松の つゆよりなれる 玉拾ひつつ」
(評)
 「今ここに 君もありなば 共々に 捨はむものを 松の下つゆ」
(評) 「婚約者/九条節子に寄せる思い」が充分に且つ平明に表現されている名歌だろう。松の下つゆとは、高級トリュフとして知られる幻のキノコの松露のことであろう。
 「恋歌」が少ないことが惜しまれる。その理由として、明治10年頃より軍人達が天皇を大元帥に持ち上げていく過程で、恋歌を邪視し禁歌したことによる。丸谷氏曰く「近代日本最悪の文芸統制であり、古代以来の宮廷詩に対する不遜極まりない蛮行であった。それまでは、代々の天子は恋歌を詠み続けたし、元々日本文学の中心にあるものは帝の相聞歌だったのである。『古今』、『新古今』、『伊勢』、『源氏』も、それが無ければ有り得なかった。とすれば、御製の主題を制約した者たちの不心得は明らかだろう。好んで忠を説く人々の中にこれを咎める者の一人もなかったことは不思議である」という。

【大正天皇の李王に寄せる御歌考】
 「十とせへてふたたび会ひし君にまた別るる今日はかなしかりけ」。

 詞書に李王の国へかへるわかれに」とある。李王は、日本に併合された李氏朝鮮の王族。大正天皇 は、併合後の朝鮮王族とも良好な関係を築かれていた。

【大正天皇押し込め時の大正天皇と皇太子の御歌考】
 大正10年、大正天皇が押し込められ、今上陛下(昭和天皇)が摂政として政務をお執りになられることになった時の御製と思われる貴重な次の御歌が明らかにされている。「社頭暁」と題して、大正天皇が次のように詠んでいる。
 「神まつる わが白妙(しろたえ)の 袖の上に かつうすれ行く みあかしのかげ」

 これを評するのに、「白妙の袖」と「みあかしのかげ(御神殿のともし火)」といふ対照が、幽寂な美しさを点じている。「かつうすれ行く」といふご表現は厳粛にして寂しい。あたかも、この時点まで一身にもちこたへられた大正天皇のお心そのものが、この「みあかしのかげ」といふみ言葉に映ぜられてゐるかのやうである。

 「天皇と短歌(二)大正天皇の御製は、次のように評している。
 「この御歌からは少なくとも、世に伝へられるやうな狂気であられたなどといふことは、さらにうかがひ知れぬことであるし、また事実そのやうなご病気であられたとすれば、そのご病気と渾身の力で対峙されながら、かくまでお心を統一された御歌を詠まれたといふことは、驚くべきことと言ふほかはない」。

 興味深いのは、同じ時期に摂政となられた裕仁皇太子(後の昭和天皇)が同じく「社頭暁」と題し詠まれた次の御歌である。

 「とりがねに 夜はほのぼのと あけそめて 代々木の宮の もりぞみえゆく」

 これを評するのに、「とりがね(鶏の声)」とともに「夜はほのぼのとあけそめて」と、さらに「代々木の宮のもりぞみえゆく」と、大正天皇の御世から皇太子の御世への交代が厳かに歌われている。

 「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」は、次のように評している。

 「この2首の御歌が同じ日に詠まれたものであるか否かは不明であるが、「あたかもお二方が早朝の神事に並び立たれてのご感慨であるかのやうに思はれてならない。たとへさうでなかったにしても、単に題材が似通ってゐることにとどまらず、お二方のご心境が対照をなしながらも、深淵なところで一つに溶け合ってゐるやうに思はれてならない。この時お二方の置かれてゐた内外の情勢は実に厳しい。ここに大正天皇のご病気のこともあって、天皇としてのご政務の委譲が行はれたのであらうが、それは単に政治的なご決断と見るべきものではない。天皇としてのつとめを譲らうとされる方も、またそれをお受けになる方も、共に敬虔な祈りによって受け継がれてゐることを見落としてはならないと思ふ」。

【大正天皇の漢詩考】
 2012.7.8日付けブログ「大正天皇御製詩1」、「大正天皇御製詩2」、「大正天皇御製詩3」、「大正天皇御製詩4」を参照する。
 歴代天皇のなかで大正天皇の断トツのものといえば御製詩の数である。二位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下。では大正天皇は何首作られたかと言うと、1367首。何よりも、東宮職御用掛となった三島中洲の手ほどきがよかったからだ。ときに皇太子(大正天皇)18歳。三島中洲67歳。二人のコンビの良さは、御製詩にも散見されて、「じつに天の配剤の妙趣を感ぜしめる」と石川忠久氏は書いておられる。西川泰彦編『天地十分春風吹き満つ』と石川忠久著『漢詩人大正天皇』。
 「春夜聞雨」(春夜雨を聞く)

 春城瀟瀟雨(春城瀟瀟の雨)  
 半夜獨自聞(半夜独り自ら聞く)  
 料得花多發(はかり得たり花多く発き)  
 明日晴色分(明日晴色分るるを)  
 農夫応尤喜(農夫まさに尤も喜ぶべし)  
 夢入南畝雲(夢は入る南畝の雲)  
 麦緑菜黄上(麦は緑なり菜黄の上)  
 蝴蝶随風粉(蝴蝶風に随ひて粉たり)  

 春の夜更けに一人しんしんと降る雨を聞いている。この雨で地多くの花が咲くだろう。明日は晴れ、農夫はきっと喜ぶだろう。夢は日当たりのよい南の畑の上に行く。そこは、緑の麦、黄色い菜の花が辺り一面に咲いている。蝶が風のまにまに舞っている。

 大正三年の御製詩である。この年、シーメンス事件(三井物産と海軍首脳との贈収賄事件)が起こり、ねじれ国会の末、山本内閣辞職。第一次世界大戦参戦。
 『過目黒村』(目黒村を過ぎる)

 明治29年。大正天皇18歳(数へ歳)。三島中洲の手ほどきを受け始めた。その年の5月18日、嘉仁皇太子(大正天皇)は、東京郊外の目黒村付近をご遊行のおり、西郷従道侯爵の別邸でお休みになった、とある。たぶん村に入って行かれた、すぐその時の印象ではないかと想像する。

 雨余村落午風微  雨余の村落午風微なり
 新緑陰中蝴蝶飛  新緑陰中蝴蝶飛ぶ
 二様芳香来撲鼻  二様芳香来たりて鼻をうつ
 焙茶気雑野薔薇  茶を焙る気はまじる野薔薇に

 雨余(雨上がり)が潤いの気を導き、これが後の芳香を準備する。村落の明るい昼には緑陰のコントラストが目に心地よい。微風にのって蝴蝶がゆっくり舞っている。その行方には野薔薇が咲き、微風はこちらに芳香を運ぶ。それは野薔薇の香だけではなく、どこかわからぬが村人が焙る茶の香も混じっている。
 
 石川忠久氏は、「特に構えるところのない自然な筆致でありながら巧みな句作りとなっており、恐らくは生得の才なのだろう。」「後半の二句に詩人のセンスが閃く。」と述べている。

 遠州洋上作(遠州洋上の作)

 夜駕艨艟過遠州(夜艨艟に駕して遠州を過ぐ)  
 満天明月思悠悠(満天の明月思い悠悠)  
 何時能遂平生志(何れの時か能く平生の志を遂げ)  
 一躍雄飛五大洲(一躍雄飛せん五大洲)  
 
 夜、軍艦に乗って遠州灘を通れば
 空には明月が皓々と輝き、思いは広がる
 いつか、日頃の念願を果し
 世界へ雄飛したいものだ

 明治32年、嘉仁皇太子21歳。沼津御用邸より軍艦「浅間」に乗って神戸の舞子の浜の有栖川宮別邸に向かわれた。10月19日、出航。その夜、軍艦は遠州灘を通る。折から満月が皓々と海を照らす。この時、作歌されている。「生涯の名作」と評されている。

 石川忠久著「漢詩人大正天皇」によれば、「遠州洋上作」に感動した伊藤博文は、友人の中央新聞社社長の大岡育造に紹介し、大岡が色紙の写真を撮り、新聞に掲載された。これが当時評判になった」。西川泰彦氏が伝える所によれば、皇太子には海外への御旅行を強く願望しておられ、時の東宮補導顧問であった伊藤博文に、御父明治天皇にお伺いを立てられたところ、それにはまずフランス語の習得が先決との仰せにより、皇太子は御熱心にフランス語習得に励まれた、とのことである。思えば、大正天皇こと嘉仁皇太子は、歴代天皇の中で、初めて外国とくに西洋に行ってみたいと本気で望まれた人であった。それは時代的に、ヨーロッパ諸外国の皇族、皇太子が遠く海外視察に出かけるようになったこととパラレルであり、それはまたわが国が西洋諸国と帝国化=近代化という点で足並みを揃えるようになったことを意味する。山本五十六は大東亜戦争開戦の翌年に「遠州洋上作」を書にしたためた云々(「山本五十六 大正天皇御製「遠州洋上作」詩 七絶六行」)。

 石川氏は、この御詩は皇太子の漢詩の先生であった三島中洲作「磯浜望洋楼」の影響があったのではないかと書いている。

 夜登百尺海湾楼(夜登る百尺海湾の楼)  
 極目何辺是米州(極目何れの辺りかこれ米州)  
 慨然忽発遠征志(慨然忽ち発す遠征の志)  
 月白東洋万里秋(月は白し東洋万里の秋)  

 夜、海辺に立つ高楼に登る。見渡せばどのあたりがアメリカなのか。思わず遠くへ行きたい心が湧き上がる。折から秋の明月が海を照らしている。東洋の秋そのものだな。

 明治6年、三島は、下僚を引き連れ、太平洋を望む楼上で詠じた。この詩は、広々とした海、そして皓々たる月を背景に、遠い世界への旅を夢想している。この構図が似ていると云えば似ている。但し、皇太子の詩の方が肩肘張らず趣を感ぜしめる。

 「夢遊欧州」(「夢に欧州で遊ぶ」)

 春風吹夢臥南堂(春風夢を吹いて 南堂に臥(が)す)
 無端超海向西方(端無くも海を超えて西方に向かう)
 大都楼閣何宏壮(大都の楼閣 何ぞ宏荘なる)
 鶯花幾処媚艶陽(鶯歌(おうか)幾処か 艷陽(えんよう)に媚ぶ)
 倫敦伯林遊観遍(倫敦(ロンドン) 伯林(ベルリン) 遊観 遍(あまね)し)
 文物燦然明憲章(文物 燦然(さんぜん)として 憲章明らかなり)
 誰問風俗弁長短(誰か風俗を問うて長短を弁ぜん)
 発揮国粋吾所望(国粋を発揮する 吾が望むところ)

 春風が吹いて南の部屋にまどろめば
 思いがけず、夢は西方へとめぐる
 大きな都の楼閣は何と立派なことか
 花や鳥がそこここに春の光に映えている
 ロンドン、ベルリンへと経巡って
 文化や制度の素晴らしさを見物した
 誰か諸国の風俗を問い、その長短を弁ぜよ
 我は国粋を発揮して弁じてみよう、これが我が望みだ

 これも皇太子嘉仁親王の21歳の時の御詩である。明治天皇は、皇太子の西洋行きを認めなかったので、まさに「夢遊欧州」(「夢に欧州で遊ぶ」)となった。
「夢遊欧州」 

     春風吹夢臥南堂   
     無端超海向西方   
     大都楼閣何宏壮  
     鶯花幾処媚艶陽   
     倫敦伯林遊観遍   
     文物燦然明憲章   
     誰問風俗弁長短   
     発揮国粋吾所望  



   春風が吹いて南の部屋にまどろめば
   思いがけず、夢は西方へとめぐる
   大きな都の楼閣は何と立派なことか
   花や鳥がそこここに春の光に映えている
   ロンドン、ベルリンへと経巡って
   文化や制度の素晴らしさを見物した
   各国の風俗を訪ねて長短をあげつらうなど誰がしよう
   わが国の良いものを発揮することが吾が望みだ


欧州は実に素晴らしいところであり、それぞれの国で文化も制度も異っている。
しかしそれは良いとか悪いとか、優劣の問題ではない。
日本は日本の良いところを発揮すれば良いのだ・・・


「日本は日本の良いところを・・・」
なんとも深い考察です。

いくつかの漢詩を読んでみると、大正天皇の人となりがさらに見えてくるようです。


大正天皇の欧州への夢はとうとう叶うことはありませんでしたが、後に裕仁皇太子が父の願いであった欧州外遊を果たすことになります。


~(4)に続きます。
たぶん後2回くらいで終わると思いますが長くてごめんなさい( ̄∀ ̄*)
 大正天皇の御生涯(明治12年~大正15年)のあいだに作られた詩歌数では、田所泉氏の集計によると、漢詩は大正2年から6年までが圧倒的に多く(7年以後はまったくなし)、和歌は大正3年から大正7年までが群を抜いて多い。両者を併せると大正3~4年がピークである。(『大正天皇の〈文学〉』)

 大正天皇は御即位早々、大変な政変に巻き込まれた。いわゆる桂園時代が坂道を転がり落ちてゆくときであった。緊縮財政をとる第二次西園寺内閣は、陸軍の増設要求を拒んだが、それに対して陸軍大臣は大正天皇に辞表を提出し、軍部大臣現役武官制を利用して、西園寺内閣を総辞職に追い込んだ。

 まだ実権を握っていた元老たちは、桂を後継首相に指名するも、これを契機に閥族打倒・憲政擁護の運動が広がった。桂は大正天皇の詔勅をもって政府批判を封じ、犬養・尾崎らの立憲政友会・国民党は内閣不信任案を提出。この時の尾崎行雄の演説。-「彼らは常に口を開けば、ただちに忠愛を唱へ、あたかも忠君愛国の一手専売のごとく唱へてをります。玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」。

 突然即位された大正天皇の困惑やいかに。それでも新しい時代に向けて天皇は前向きにお仕事に励もうとされていたに違いないと思う。大正2年から6年までの詩歌数の多さは、それを物語っていやしないか。この間こそ充実の数年であったと思う。

 午前六時起床。八時半には大元帥の軍服を着用し、表御所に出御。9時から正午まで多忙な用務を執られた。昼食後は散歩、乗馬。6時に夕食。その後は皇后や皇子たちと歓談・玉突き・合唱。十時過ぎに就寝。もちろん大臣らの上奏も聴かねばならないし、硬栗粉のような山県有朋の小言も乗り越えていかねばならなかったし、全国順啓もせねばならなかった。

 大正天皇の次男であられる秩父宮雍仁親王によると、「父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。東京御所時代には乗馬をなさっているのも見ても、御殿の中での御動作でも子供の目にも溌剌としてうつっていた。それが天皇になられて数年で別人のようになられたのである」。

 魑魅魍魎、百鬼夜行の政界の中で多忙を極める純潔な青年を思う。あるときぷつっと心の張りが切れるのは時間の問題だった。小生に言わせれば、天皇は、自らおかしくなってやったんだ、と仰っているようにも感じる。

 このとき、こんな御製詩が小生の心にひっかかる。

 「貧女」(大正6年)     
 
 荊釵布被冷生涯 けいさいふひ冷たし生涯
 無意容姿比艶花 容姿艶花に比するに意なし
 晨出暮帰勤稼穡 晨に出で暮に帰り稼穡に勤む
 年年辛苦貧家 年年辛苦貧家に在り

 イバラのカンザシと煎餅布団との清貧の生活。
 容姿を艶やかな花で飾ろうとは思いもしない。
 朝から夕まで懸命に農業に従事する。
 来る年も来る年も貧しい家で辛苦を重ねている。

 べつにどーってことない漢詩のようだけれど、例えば、田舎で小雪舞う夕がた、畑仕事をしている中年女性を見ている大正帝の目を思う。これは叙景詩である、自分の心の中の。自然で何の余計な解釈を許さない。

 田所泉氏は、「貧しさとはどういうものかという知覚も、貧しさとは差別の原因でもあり結果でもあるのもなのではないか、といった省察も、抜け落ちている。権力者が被抑圧者にたいしてしばしば示す〈同情〉とは、たいがいその程度のものだろうか。」などという、まるきりお門違いの意見を述べている。田所氏には主義があって心がない。

 また、西川康彦氏は、「この御製詩は〈貧しい女〉を、ただ〈憐れ〉とお詠みあそばしたのではなく、貧しくはあるが、真面目に働く女に、仁慈の大御心をかけさせた給ふ御作と拝し奉る」と書いている。この意見にも小生はぴんとこない。贔屓の引き倒しのように聞こえる。

 むしろ、大御心を一生懸命演じておられた天皇の中の天性の詩人が、夕暮れ時ふと顔をだして漏らした吐息のような歌、哀しいと言うにはあまりに純潔な自然の詩のように小生には響く。

 嘉仁は、家族で合唱する際、「広く世界の国々の、変わる姿を見て来むと」という歌詞の「世界漫遊の歌」を特に好んで、3人の皇子が直立し声を振り上げて歌うたびに、嘉仁の表情は和らぎ、じっと聴きほれていた、と秩父宮殿下は回想している。



     広き世界の国々の 変わる姿を見て来んと
     勇む心にはるばると 万里の旅に出で立ちぬ

     過ぎて名残のをしまるる 飽かぬ船路の太平洋
     ああ国民よいざ奮へ 起ちて四海に雄飛せよ
     日本は世界の日本なり 世界は日本の世界なり

     (正式なタイトルは「國民唱歌・世界萬國」)




(私論.私見)