後のことであるが、1921(大正10)年に皇太子裕仁(後の昭和天皇)が訪欧し、帰国するや生活全般を西洋風に改めると、皇后は正座ができなければ祭祀を行うことができず、神への信仰もおろそかになるとして危惧の念を抱いた(原武史『皇后考』、講談社、2015年)。
昭和天皇の弟、秩父宮雍仁(やすひと)も、1951(昭和26)年に貞明皇后が死去した直後に「世の中の移り変りに従って宮中の例を改めるということには、きわめて消極的であった」と回想している(「亡き母上を偲ぶ」、『皇族に生まれて』、渡辺出版、2005年所収)。
しかし三千子に言わせれば、貞明皇后はもともと西洋風だったのであり、宮中に悪しき風俗を持ち込んだということになる。しかも貞明皇后は、大正天皇が三千子に好意をもっていることを見逃さなかった。それもそのはず、天皇はたとえ皇后を同伴しようが、三千子に対する態度を改めようとはしなかったのだ。「ちょっと皇后宮様のおみ顔をご覧なさい」(238頁)とささやかれたということは、傍から見ても皇后の表情は明らかに変わったのだろう。三千子について皇后は、「あの生意気な娘は、私は大嫌いだ」(同)と公言していたという。一種の嫉妬であろう。ちなみに烏丸花子が退官したときには、徳冨蘆花は「お節(さだ)さんのいびり出しだ」と推測している(前掲『蘆花日記』6)。貞明皇后の名は節子(さだこ)であるから、「お節さん」は皇后を意味する。三千子が退官し、京都に帰ることを皇后に報告したとき、皇后は「殊のほか御機嫌よく、お笑顔で、『なかなか御苦労でした』などとのお言葉」(296頁)をかけたというのも、皇后にとっての「目の上の瘤」が一人減ったからのように見えなくもない。
宮中という世界の「闇」
貞明皇后に対する三千子のトゲのある言い回しは、幾重もの陰影を帯びつつ、「あとがき」に至ってついに頂点へと達する。
大正天皇を失われてからの皇后は、まるで「黒衣の人」といわれてもよいような、黒一色の生活をされ、自分自身の手で加えられるそのような鞭はなにがため、とありましたが、その謎はやはりご自分の心だけがとかれるものでしょう。お四かたの皇子もあげられたのですから、お睦まじい時もあったのでしょう。御賢明にわたらせられすぎて、となげいた人もあったとか。亡き天皇をしのばれる時があるなら、ふと浮ぶざんげのお心持がなかったとは申せませんでしょう。天皇があられたればこそ、皇后になられたのですから。(325~326頁)。
不思議な文章である。一読しただけでは、何が言いたいかよくわからないからだ。だがよく読むと、三千子は大正天皇と貞明皇后との仲を疑っていることがわかる。天皇が女官に手を付けたがるのは、必ずしも天皇だけの問題ではない──三千子はこう言っているのだ。三千子自身も誤解されたように、貞明皇后は嫉妬深い性格であった。そして大正天皇の体調が悪化すると、天皇をさしおいて大きな権力をもつようになり、まるで自分が天皇であるかのごとく振る舞っているように、三千子には見えたのではないか。「天皇があられたればこそ、皇后になられたのですから」という最後の一文は、貞明皇后は決して自らの力で皇后になったのではないのに、本人はそのことをまるでわかっていないと言っているようにも読み取れよう。
このように、本書には数多くの謎めいた文章が収められている。それらの謎が解かれることは、おそらく永遠にないだろう。管見の限り、公式の資料だけではわからない宮中という世界の「闇」をこれほどあぶり出した書物はない。そしてそうした「闇」は、いまなお完全に消え去ってはいないのである。