女官/久世三千子日記考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元).5.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)


【女官/久世三千子日記考】
 原武史の2016.8.6日付けブログ「明治大正期の貴重な証言/知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記」。「公表を許されなかった御内儀での御生活は、世上いろいろとあやまり伝えられておりますので、拙き筆をも省みず思い出すままを記して見ました」とある。
 明治天皇の一言で採用

 本書の著者、山川三千子(1892~1965)の旧姓は久世(くぜ)で、1909(明治42)年に宮中に出仕した。そして明治天皇より3歳年長でありながら、「世俗四つ目と称して之を忌む」(昭憲皇太后実録、慶応3年6月2日条)ことから公式には2歳年長とした皇后美子(はるこ)(昭憲皇太后。1849~1914)に仕える皇后宮職の女官(権掌侍御雇〔ごんしょうじおやとい〕)となった。採用試験に当たるお目見得(めみえ)のさいには皇后ばかりか明治天皇も立ち会い、「あちら〔三千子〕の方がいい」という天皇の一言で決まったという(17頁)。そのせいか本書では、明治天皇と皇后美子が理想の天皇と皇后と見なされており、この二人に仕えた日々が輝かしく描かれている。

 だが、皇后美子からは子供が生まれなかった。第三皇子として生まれた大正天皇を含むすべての子供が、女官(権典侍〔ごんてんじ〕)から生まれたのだ。「あのご聡明な皇后宮様に、お世嗣の皇子がお生れにならなかったことは、かえすがえすも残念なことで、根も葉もない私の空想が許されるならば、もし皇太子様でもおよろこびになっていたら、あるいはそのために日本の歴史の一部に変更がなどと、果無(はかな)い夢もふと浮んでまいります」(68頁)。この一文は過激である。もし皇后が皇太子を生んでいたら、あの敗戦はなかったかもしれないと言っているように見えるからだ。

 明治天皇に仕える日々は、長くは続かなかった。天皇は1912(明治45)年7月19日夜に突然倒れ、7月29日に死去したからである。三千子は、「もしもこのお上が、もっともっと長く御在世であったならば、我国もこんなみじめな姿には、なっていなかったのではないでしょうか」(58頁)と述べている。敗戦から15年を経て高度成長の時代が始まってもなお、三千子は敗戦を忘れてはいなかったのだ。それはそのまま、明治天皇を引き継いだ天皇に対する批判につながっている。先の一文と合わせると、大正天皇や昭和天皇に対する評価のほどがうかがえよう。

 大正天皇に"言い寄られる"

 実際に本書では、大正天皇に関して、それまで決して聞いたことのなかったエピソードが語られている。

 皇太子時代から三千子に目をかけ、火のついた葉巻煙草を三千子の前に出して「退出するまでお前が持っていておくれ」と話したこと(93頁)。臣下の言上が長くなると、退屈のあまり椅子から立ち上がってしまうこと(188頁)。輿(こし)のなかでも落ち着きがなく、ひょこひょこ動くこと(194頁)。女性の写真を集める性癖があったこと(313~314頁)などである。

 並み居る女官をさしおいて、三千子にだけ葉巻煙草を持つよう頼むくらいなら微笑ましいエピソードといえるかもしれないが、本書に描かれた大正天皇像はそんなレベルではない。明らかに三千子に好意をもち、天皇としての節度を越える振る舞いに及ぶことも一度や二度ではなかった。大正になったばかりの頃、三千子は御内儀の廊下で天皇にばったり会ってしまったことがあった。大正天皇が「自分の写真を持っていないか」と言いながら三千子に迫ってきた体験を語るくだり(224~225頁)は、本書の読みどころの一つといえる。おそらくこうした体験があったからだろう。三千子は皇后宮職に移って大正天皇と貞明(ていめい)皇后に仕えることを拒み、「今まで通り皇太后宮様にお使い戴くなら奉職いたしたいと存じますが、こちら様に御不用ならば生家に帰らせて戴きます」と女官の最高位に当たる典侍の柳原愛子(やなぎわらなるこ)(大正天皇の生母)に言った(228頁)。愛子から露骨に嫌な顔をされながらもこの願いは聞き入れられ、三千子は宮城(皇居)へは行かずに皇太后の住む青山御所にとどまり、女官の地位も本官の権掌侍へと上がった(236頁)。

 それでも、大正天皇の執心はおさまらなかった。天皇は、何かと理由をつけては青山御所にやってくると、「〔三千子の〕姿の見えない時までも必ず名指しをしてお召になって、何かとお話かけになる」(238頁)。三千子の気持ちを察し、天皇がやってくるときに三千子を病気欠勤にしたのは、昭憲皇太后であったようだ。三千子は1914(大正3)年に退官し、翌年に山川黙(しずか)と結婚するが、なぜか天皇は結婚披露宴の日を知っていて、三千子の弟で侍従職出仕の久世章業に見に行くよう命じたという。三千子は、「こんなつまらぬ話をどこからおききになったのか、なぜそうまで御心におかけ下さるのか、どうもちょっと」(315頁)と本音をぶちまけている。

 三千子が美人であったことは、三千子自身が「ある新聞が京都へ移転した旧女官たちをつぎつぎと、昔の写真とともに紹介しまして、私のときには、今は病気で静養しているが一番若くて美しいなどと、とんでもないことを書いたものです」(301頁)と述べている。ある子爵の息子から求婚されたこともさりげなく披瀝している(310~311頁)。大正天皇に気に入られたのもむべなるかなである。

 貞明皇后への「違和感」

 三千子は、女官に採用されるさい、「別の日に出られた烏丸(からすまる)花子さんが、東宮さまの方へゆかれることになったのだそうでございます」(17頁)と述べている。つまり三千子は皇后宮職の女官になったのに対して、花子は東宮職の女官となったわけだ。この違いが二人の運命を分けた。花子もまた大正天皇お気に入りの女官になるが、1917(大正6)年に退官している。それを伝える記事が、同年12月29日付の時事新報に掲載された。この記事を見た作家の徳冨蘆花は、「初花の内侍(烏丸花子のこと:引用者注)が宮中を出た、と新聞にある。お妾の一人なんめり」と日記に書いている(『蘆花日記』6、筑摩書房、1986年)。花子は大正天皇の「お妾の一人」であり、天皇との間に性的な関係があったと推察しているのだ。これがもし事実ならば、二人の運命の違いはまことに大きかったと言わねばなるまい。

 三千子は、大正天皇に対してだけでなく、貞明皇后に対してもあまりいい評価をしていない。最初に違和感を抱いたのは、明治から大正になり、烏丸花子も一員だった元東宮職の女官たちとたびたび会うようになったときであった。「何かと全体の風習が違うらしく、皇后宮様のピアノにあわせてダンスなどしていられたとか聞くとおり、皆なよなよとしたいわゆる様子のいい方ばかり、それに引きかえこちらは力仕事などもする実行型といった人が多く、ちょっとそりのあわないような感じを初めから受けました」(223頁)。これもまた痛烈な文章である。皇后の西洋風趣味に女官たちが毒され、外見ばかり女っぽくなっていることに対する嫌悪感が吐露されているからだ。

 後のことであるが、1921(大正10)年に皇太子裕仁(後の昭和天皇)が訪欧し、帰国するや生活全般を西洋風に改めると、皇后は正座ができなければ祭祀を行うことができず、神への信仰もおろそかになるとして危惧の念を抱いた(原武史『皇后考』、講談社、2015年)。

 昭和天皇の弟、秩父宮雍仁(やすひと)も、1951(昭和26)年に貞明皇后が死去した直後に「世の中の移り変りに従って宮中の例を改めるということには、きわめて消極的であった」と回想している(「亡き母上を偲ぶ」、『皇族に生まれて』、渡辺出版、2005年所収)。

 しかし三千子に言わせれば、貞明皇后はもともと西洋風だったのであり、宮中に悪しき風俗を持ち込んだということになる。しかも貞明皇后は、大正天皇が三千子に好意をもっていることを見逃さなかった。それもそのはず、天皇はたとえ皇后を同伴しようが、三千子に対する態度を改めようとはしなかったのだ。「ちょっと皇后宮様のおみ顔をご覧なさい」(238頁)とささやかれたということは、傍から見ても皇后の表情は明らかに変わったのだろう。三千子について皇后は、「あの生意気な娘は、私は大嫌いだ」(同)と公言していたという。一種の嫉妬であろう。ちなみに烏丸花子が退官したときには、徳冨蘆花は「お節(さだ)さんのいびり出しだ」と推測している(前掲『蘆花日記』6)。貞明皇后の名は節子(さだこ)であるから、「お節さん」は皇后を意味する。三千子が退官し、京都に帰ることを皇后に報告したとき、皇后は「殊のほか御機嫌よく、お笑顔で、『なかなか御苦労でした』などとのお言葉」(296頁)をかけたというのも、皇后にとっての「目の上の瘤」が一人減ったからのように見えなくもない。

 宮中という世界の「闇」

貞明皇后に対する三千子のトゲのある言い回しは、幾重もの陰影を帯びつつ、「あとがき」に至ってついに頂点へと達する。

 大正天皇を失われてからの皇后は、まるで「黒衣の人」といわれてもよいような、黒一色の生活をされ、自分自身の手で加えられるそのような鞭はなにがため、とありましたが、その謎はやはりご自分の心だけがとかれるものでしょう。お四かたの皇子もあげられたのですから、お睦まじい時もあったのでしょう。御賢明にわたらせられすぎて、となげいた人もあったとか。亡き天皇をしのばれる時があるなら、ふと浮ぶざんげのお心持がなかったとは申せませんでしょう。天皇があられたればこそ、皇后になられたのですから。(325~326頁)。

 不思議な文章である。一読しただけでは、何が言いたいかよくわからないからだ。だがよく読むと、三千子は大正天皇と貞明皇后との仲を疑っていることがわかる。天皇が女官に手を付けたがるのは、必ずしも天皇だけの問題ではない──三千子はこう言っているのだ。三千子自身も誤解されたように、貞明皇后は嫉妬深い性格であった。そして大正天皇の体調が悪化すると、天皇をさしおいて大きな権力をもつようになり、まるで自分が天皇であるかのごとく振る舞っているように、三千子には見えたのではないか。「天皇があられたればこそ、皇后になられたのですから」という最後の一文は、貞明皇后は決して自らの力で皇后になったのではないのに、本人はそのことをまるでわかっていないと言っているようにも読み取れよう。

 このように、本書には数多くの謎めいた文章が収められている。それらの謎が解かれることは、おそらく永遠にないだろう。管見の限り、公式の資料だけではわからない宮中という世界の「闇」をこれほどあぶり出した書物はない。そしてそうした「闇」は、いまなお完全に消え去ってはいないのである。

 原 武史(はら・たけし)

 1962年、東京に生まれる。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社、東京社会部記者として昭和天皇の最晩年を取材。東京大学大学院博士課程中退。現在、放送大学教授。専攻は日本政治思想史。著書に『「民都」大阪対「帝都」東京』(サントリー学芸賞受賞)、『大正天皇』(毎日出版文化賞を受賞)、『昭和天皇』(司馬遼太郎賞受賞)、『滝山コミューン1974』(講談社ノンフィクション賞受賞)など。







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