大正天皇をめぐるエピソード

 (最新見直し2007.10.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 以下、大正天皇の皇太子時代、天皇時代のエピソードを紹介する。これらは、明治・昭和天皇の二人の現人神とは別人のあまりにも人間的な様子を伝えている。



【和歌と漢詩の嗜み】
 大正天皇は和歌のみならず漢詩をも好み、生涯1300余の作をなしている。

【家庭的なご様子】

 天皇の子供達はしきたりにより養育されていたが、皇太子は子煩悩で家庭的であった。ちょくちょく子供達の様子をうかがいに立ち寄っている。毎週水・土曜日に親子で夕食をするなど、ワインが好きでグラスが空くと子供達に注ぐよう誘っている。晩餐が終わると団欒をたのしんだ。母宮のピアノ伴奏で学校唱歌や軍歌を歌った。父宮は、「広き世界の国々の、変わる姿を見て来んと---」に始まる「世界漫遊の歌」を好んだ。戦後の平和的、家庭的な天皇像を先取りしたところがあった。


【巡啓の時の気さくなご様子】
 日本の各地で多くの人たちに接した皇太子は、持ち前の好奇心を発揮し、意表をつく行動を取り、疑問に思ったことを質したりした。長野巡啓の時も人力車を止め、気軽に方向を変えさせた。全く皇太子は気兼ねなく、誰にでも声をかけられた。それは饒舌でさえあった。父明治天皇とは異なって、皇太子は人々に素顔を見せ、お声を聞かせられた。

 1900(明治33).10月から2ヶ月にわたる北九州一円への二度目の行啓の際のエピソードが次のように伝えられている。
 福岡では、知事が県政報告している際に、「タバコはどうか」といきなり勧めてビックリさせている。皇太子はタバコが趣味で、行啓中もタバコをくわえていることがしばしばあった。
 熊本の水前寺では、学生の寒中水泳を見学したが、水温を調べたところ極めて冷たいとして侍従に水泳を中止させるなど、やさしい心配りを示した。
 香椎(かしい)宮境内ではマッタケ狩りを楽しんだ。この時、皇太子は自分でマッチで火をつけてタバコを吸いながら険しい山坂を一気に登り、その健脚ぶりに周りの人は驚いた。「この辺りで鹿、イノシシの獣が出ればもっと面白いのに---」と知事に冗談を飛ばすなど気さくで、親しみやすい人柄を示された。

 1902(明治35、23歳).4月頃、約2ヶ月に渉る信越北関東大巡啓の時のエピソードが次のように伝えられている。
 皇太子は決められたスケジュールやコースを、その時の思いつきや気分で自由に変えたり、人力車の車夫に命じて別の道を進ませるなどしてお供の者達をあわてさせている。
 新潟巡啓の時には宿舎を抜け出して、早朝一人で散歩に出かけて知事達をあわてさせたこともあった。
 同じく新潟巡啓の時、連隊長に、「前日の演習で兵に病人は出たか」との鋭い質問を矢継ぎ早に出している。
 同じく新潟巡啓の時、中学校の視察の際、知事に対して「英語の教授は不完全と思うか」と尋ね、知事が「洋人を雇いますと完全になると思いますが」と答えると、「それなら雇えばよいではないか」と指摘している。
 同じく新潟巡啓の時、汽車の車中での雑談で、「なに予は非常に銃猟好きで、健脚なれば歩行は他に劣るところなし」と答え、「この辺は鳥は少なきや」と聞かれた。「多いと思いますが、雪の中に潜んでいるのを見つけるのが難しく思われます」、「その雪中は、かえつて面白いかも知れぬ。雁などたくさんおれば、雪中の銃猟に一度来て見たい」と答えている。皇太子は馬に関しては専門家はだしの知識があり、狩猟など多趣味であった。
 自分がどのように報道されたか、に強い感心をもってこの時の新潟新聞を二部、東京に送るよう命じている。

 これらのエピソードは、昭和天皇の能面と対比的であろう。大正天皇が開放的気さくな人柄であり、「旅行好き」な様子も窺える。

【巡啓の時の殖産興業奨励のご様子】
 1902(明治35).5〜6月の関東・信越地方の行啓の際のエピソードが次のように伝えられている。
 我が国のぶとうとワイン製造の父と云われる新潟県高田にある「岩の原ぶどう園」の川上善兵衛の会社を突然訪問した。皇太子はぶどう酒が大好きだったので予定を変更しての訪問だった。「日本人がおのれ一個の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至りなり」と言葉を川上にかけ、感激させている。
 皇太子が油田を見学した際の様子を新潟新聞が一言一句伝えている。それによると、「(油田を見て)これは国益だな」と述べられたこと、柏田知事に対して「本県における貧富の差の程度は如何」、「歳入出の増減について」、「学生の気風、学力、品行等は如何」、「普通教育において男性、女性のいずれが成績優良なるか」、「米穀生産額、その輸出額は如何」など10項目について尋ねている。

 次のような逸話がある。
 「丁度その折も折、明治四十一年の秋 東宮殿下(大正天皇)が奥羽史蹟御調査のため東北地方に行啓中であられたが 藤波侍従の配慮もあり御召列車が盛岡から仙台に赴かれる途中、駅でない松島村根廻新潜穴の下流橋上に一分間停車されることになった。殿下は御陪乗の寺田知事に対し『天下の大工事であるから 中途挫折等の事なく竣工せしめよ』とのお言葉を賜ったのである」(「鎌田三之助翁顕彰碑」)。

 東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事すぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。「元禄以来 幾度か企図して未だ果さなかった干拓工事が鎌田氏の熱誠あふれる努力により遂に貫徹したのである 殊にこの大工事は政府の補助金に頼らず 勧業銀行からの貸付金九十万円によって自力で成就したものである (組合費と新干拓地の収入で償還した) 明治四十三年十二月二十六日の通水式には知事をはじめ一千人が参列し 元禄穴川の通水以来二百十二年目の感動に満場しばし声なく 感激の涙をおさえるのであった」。

 この「1分間停車」は、干拓指導者の人々の宮内庁関係への陳情作戦が功を奏したものであろう。こういう形で政治が機能していたそういう時代の逸話として貴重であるように思われる。

【韓国皇太子との親交のご様子】
 1907(明治40).10〜11月の韓国行啓での韓国皇太子・李ウンとの交流の様子は次のように伝えられている。皇太子27歳、李ウンは10歳であったが、皇太子は若い李ウンに親近感を覚え、その後も交流が続いていくことになった。二人で話しあい為に韓国語の勉強を始めた。間もなく李ウンは東京に留学してくるが、皇太子は侍従に「朝鮮語を勉強してみたいので何か本はないか。届けて欲しい」と頼んでいる。李ウンと会った時は、「今日の話を朝鮮語のハングル文字で書いて、その発音と訳文を書いて出すように」と翻訳官に命じた。皇太子は韓国語の勉強を続けて、侍従にも韓国語で話し掛けることもあった、という。つまり、大正天皇の皇太子時代、韓国皇太子と接する機会があったが、属国属民視する横柄な態度を執らず、後の理知まで後々まで無続く親交を得たという事になる。

【大正天皇としての執務時代のご様子】

 大正天皇の執務時代の様子として次のようなエピソードが語られている。苦言を呈する山県を疎ましくしていたが、それでいて山県が伺候すると、天皇は自分でブランデーを開けてもてなしたこともある。この茶目っ気には大いに当惑したと伝えられている。天皇は晩酌にブランデーやぶどう酒を少々たしなみ、タバコには目がないほど好きであった。


【ロシア革命の影響】
 この時代、日本は日英同盟によって連合国側として第一次世界大戦に参戦、勝利を収めている。国際的地位は向上し、5大列強の一国になった。その一方、大正デモクラシーの波に乗り、またロシア革命の影響もあり、日本共産党も結成されている。ロシア、ドイツ、オーストリアの王室が倒れ、大戦締結のパリ講和会議に出席した元老の西園寺公望や、のちにない大臣となる牧野伸顕らは、それを目の当たりにしている。

【沼津御用邸でのご様子】
 晩年の大正天皇の様子として、沼津御用邸でのエピソードが伝えられている。「天皇は軍歌が好きで、兵隊に歌わせて食事が始まると、箸をタクト代わりに振って自分も歌っていた、という。特に、親しかった『橘中佐』の歌を好んだ」(印波南哲「天皇兵物語」)。

 しかし、このエピソードは変造されている可能性が考えられる。「天皇はお歌が好きで、時には箸をタクト代わりに振ってご家族で合唱することもなされた。軍歌では『橘中佐』の歌を好んだ」というぐらいが正確ではなかろうか。

【皇太子摂政就任考】
 
 「長期間の天皇不在は皇室の危機であり、若き皇太子を摂政に就任させて天皇の空白を埋めようとしたのである。そのため天皇の病気が宣伝されすぎ、それも『御脳病に原因する』と当局が発表したため、『遠眼鏡事件』のような脳に変調をきたしている大正天皇像が現在まで続いているのではなかろうか」(共同通信社・高橋紘)。




(私論.私見)