12月下旬、大室明治天皇らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し、薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。
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1.8日、徳川最後の将軍となる慶喜は、「インド、中国の怜にりこれ以上の内戦は英仏による日本植民地化にのみ利する」ことを見据えて「内戦の危機を憂い」、松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。 |
1868(慶応4).1.13日、鳥羽・伏見の闘いで、幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦い、討幕派が勝利する。 |
【大室明治天皇が、大阪湾に浮かぶ軍艦の上で成り行きを見守る】
この時、薩長軍は「錦旗」を掲げている。この時、大室明治天皇(大室寅之祐)自ら閲兵したというのはウソで、戦いの最中大室明治天皇(大室寅之祐)は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立っていた。(護衛は第二奇兵隊) |
【大室明治天皇が、大阪に初上陸】
鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利を見届け、大室明治天皇(大室寅之祐)が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり) 一同は京都御所をめざす。 |
1.10日から1.15日までの間、京都御所の人事の一新が行われた。この間の大室明治天皇(大室寅之祐)擁立の功労者に論功賞が与えられた。この一新が「明治維新」の語源となる。 |
1.13日、太政官代を九条道孝公の邸に置く。 |
1.15日、京都薩摩藩邸で待機していた大室明治天皇(大室寅之祐)が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰する。これにより、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位した。
「明治天皇紀」に「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と記されているとのことである。「中山日記」にも「寄(奇)兵隊の天皇」とある。 |
1.17日、国家機構として神祇、内国、外国、陸海軍、会計、刑法、制度の7科の職制を定め、太政官がこれらを一括統べることにした。2.3日、官制を8局とし、神祇官を諸官の最上に置いた。 |
3.13日、高輪の薩摩屋敷において、西郷と勝が江戸開城に関する交渉を開始する。 |
3.14日、新政府は政治方針として「五箇条の御誓文((ごかじょうのごせいもん)」を公布した。明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにした。
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3.17日(明治元.2.23日)、旧一橋家の床机衆と呼ばれた家臣が中心となって「彰義隊」を結成し、朝敵とされた徳川慶喜を守ろうした。徳川慶喜は謹慎していた上野寛永寺大慈院から水戸の弘道館に退去する。 |
3.20日、朝廷、慶喜謹慎、江戸城明け渡しを受ける。3.21日、大室天皇、大阪へ行幸。7月、江戸を東京と改称し、東京遷都する。 |
4.1日、 アーネスト=サトウが「睦仁
(大室明治天皇)」に会う。「木戸日記」に「睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮」と記されている。即位以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏の「明治天皇」上巻に詳しい。 |
4.4日、東海道先鋒軍、江戸城に入る。閏4.8日、大室明治天皇、京へ還幸。 |
4.11日、江戸決戦が予想されたが、勝海舟と西郷隆盛の談義により、「江戸城無血開城」となった。 |
これに従わなかった幕府側残党は彰義隊を結成して東京上野の寛永寺に立てこもった。寛永寺は門跡寺院として、代々、皇族が座主を務めることになっており、公現法親王も伏見宮家の血筋を引く皇族の一員である。この時、京都明治天皇に対抗して輪王寺の宮(後の能久親王)が押し立てられた。
輪王寺の宮は、元々江戸に住んでいた皇族で、1847(弘化4).4.1(旧暦2.16日)に伏見宮邦家親王の第9皇子として生まれ、1848(嘉永元)年、青蓮院(しょうれんいん)宮御相続。1858(安政5)年、輪王寺(りんのうじ)宮御相続。公現(こうげん)法親王と称せられていた。江戸決戦を控えて急遽、仙台青葉城に居を移し、上野寛永寺の門跡(もんぜき)となった。 |
彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→大室明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立てた。輪王寺宮はその後、上野を逃れ仙台に入り、奥羽越列藩同盟の盟主となる。 |
ちなみにこの頃の、宮家は次のように相関している。尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。水戸藩の「玉」は有栖川宮。長州藩の「玉」は山階宮。島津藩の「玉」は中川宮。紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。徳川幕府の「玉」は日光宮こと東武皇帝。
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西郷隆盛は、無血開城を推進した経緯もあって、彰義隊についてもなんとか穏便に解決したいと考えており、勝海舟を通じて彰義隊の解散を呼びかけたが、うまくいかなかった。事態を憂慮した新政府は、軍防事務局判事大村益二郎を江戸に派遣して、軍事的な打開を図ろうとする。 |
7.3(5.14)日、大村益次郎は東征大総督の名において彰義隊討伐の布告を出し、7.4(5.15)日、ついに上野戦争が始まった。 |
徳川幕府の不服従派は抵抗したが結果的に敗北する。東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇」と輪王寺の宮が講和を結び、1・睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。「能久親王」については「靖国神社の御祭神、御神体について」で考察する。 |
4.21日、東征大総督府、江戸入城。閏4・27日、新政府が政体書を発表。3職7科8局制を改め、太政官制度三権分立を定める。5.15日、太政官札5種が発行される。7.28日、天皇・皇后、京都を出発。 |
7.30日、大室明治天皇が、江戸城を皇居として入座する。この時、京都で仕えていた女官は全員解雇された。口封じの意味があったと推測される。京都から江戸(東京)へ遷都(せんと)する。各藩の選り抜きの藩士が抱えられ、東久世通禧が侍従長に、高島鞆之助・有地品之允・山岡鉄舟・米田虎雄らが侍従となった。側近が女性から男性に変更されたことにより、天皇教育は旧来の文学的なものから兵学・戦争・武術的なものへと転換していくことになった。 |
8.27日、明治天皇の即位の礼が執り行われる。
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9.8日、年号を明治と改める。一世一元の制度がここに確立される。 |