大正15年(昭和元年)、横浜市に生まれた。父は弁護士。早稲田大学法学部入学。在学中に司法試験に合格。卒業後、弁護士を開業。10年後、「天皇制の研究」を思い立ち、東大工学部出身の異色の歴史家・浜田秀雄(1906生)に師事し、古代史の研究に取りかかる。その後、韓国史の研究に向う。従来の記紀中心の日本史に対し、朝鮮との歴史的関わりに注目し始める。
1978(昭和53)年、処女作「倭と王朝」を新国民社から出版した。これが韓国で大評判を呼び、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、韓国の貴重な古文書類を委託された。この古文書類は全部「白文」であった為、当時の著名な漢文大家や中国語教授、有名な歴史学者などに協力を求めたが誰も引き受けなかった為、自力で翻訳と解読に取りかかった。
骨身を削るような苦難の三年間の努力を経て、全訳「桓檀古記」出版に漕ぎ着けた。その中には驚くべき史実が内包されていた。特に、「A,D214年、イワレヒコ=神武が九州糸島郡に上陸して伊都国を建てた」という箇所にさしかかると、さすがの鹿島も眠れぬ夜が何日も続いたという。
「檀君朝鮮の古代史」の研究は古代中国史へと視野を広げ、「司馬遷の『史記』がオリエント史の漢訳であり、偽史であることを証明せねばならない」という観点を生じさせた。この作業は、「アジアの歴史を全面的に解明し、世界史そのものも構築し直すという大事業になった」。鹿島学は、殷、周の中国の古代王朝の起源をバビロニアまで広げ、古代オリエントと中国、朝鮮、日本の歴史的に深い繋がりを実証的に指摘していた。次のように述べ、「異端の歴史家」となった。
「中国史はオリエント史の翻訳であり、日本史はアジア史および朝鮮半島史を日本語に翻案したものである」。 |
概要「(日本の皇統のルーツは、)秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して北倭となり、扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や南倭と混血し、近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散したものである」。 |
爾来、鹿島氏は次々と力作を発表し、読者を集めてシンポジゥムも開いていった。1980年夏、「歴史と現代」が新国民社の季刊誌として出版され、その巻頭に載ったのが朴蒼岩氏の「日本国民に告ぐ−歴史の略奪者は誰か」の名文である。1981年、シルクロ−ド正史・全訳「桓檀古記」が新国民社から出版され、その巻頭に古史古伝の先学者・吾郷清彦氏が「刊行に寄せて」という推薦文を載せ、その壮挙を讃えて、「われわれ同学の誇りである」と激賞している。
同年2.12日、55歳、東京帝国ホテルにおいて、「神皇紀」出版記念パ−ティが盛大に開催された。この頃が絶頂期と云える。
その後、アメリカやヨ−ロッパを始め世界中隈なく旅行して見聞を広め、著作に役立てている。遺物や宝石類の鑑定眼もあった。鹿島氏は、度々の海外旅行により数々のお手柄を挙げている。その1・タイのバンチェン遺跡を国の内外にいち早く紹介した。これは著書「バンチェン/倭人のル−ツ」として実を結び1981年発行された。その2・メキシコのマヤ文明が倭人の遺産であることを発見し、これを多くの著書の中で発表した。その3・秦始皇帝陵出土の兵馬俑が中国人のそれではなく、ペルシア軍団のものであることを考証した。その4・新たな地下宮殿の発見を中国政府が隠ぺい工作したことなどを鋭く指摘した。これについては日本に運ばれた兵馬俑しか見たことがない人にでも判るように、写真入りの「秦始皇帝とユダヤ人」で詳しく述べている。これによって人民中国の教科書までが歴史をゆがめていることを問題提起して、見事な中共批判論を展開している。
この頃、鹿島氏は松重氏と出会っている。「日本侵略興亡史」の450ペ−ジに次のように記されている。
「私(鹿島)は昭和六二年(一九八七)一〇月某日かねてからのお勧めによってルポライタ−の石川君とともに山口県柳井市に近い田布施町を訪問した。吾郷氏から同市の市会議員で郷土史を研究している松重正氏と大島町文化財保護審議委員会委員の平津幸男氏を紹介されていたので、まず柳井グランドホテルで懇談し、翌日、四人で熊毛郡麻郷村に住み、地元では大室天皇と呼ばれている大室近祐氏を訪問したのである・・・」。 |
つまり、1987(昭和62).10月、鹿島氏は、日本神道・歴史研究の権威である吾郷(あごう)清彦氏の紹介で、山口県柳井(やない)市田布施町麻郷(おごう)に在住する大室近祐(おおむろちかすけ、平成8年没)氏をを訪れた。この時、大室近祐氏はすでに80歳を越えていたが、「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末蕎であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」と、はっきりと語った。大室氏は、「大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった」と云う裏明治維新史を語り続けていた。大室氏は、地元でも
「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていた。
大室氏は古田武彦氏に接近したところ「私の専門外」と相手にされなかった経緯がある。鹿島氏は、この最初の訪問のときはさすがに半信半疑のようであったが、その後10回におよぶ訪問を重ね、「皇道と麻郷」をはじめとする大量の文書を見せられることにより、しだいにこの事実を確信するようになっていった。以来二人は意気投合し、たびたび出会うようになった。大室氏曰く、
「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていた。
鹿島氏はこれらの研究を通じて外国の学者たちとも交流を深めているが、何時までも国内で認められないことを残念がっていた。更に、「アカデミ−の偽史カ−テン」を開ける為に、明治維新の時に「天皇すり替え」が行われた史実を公開し、「万世一系」の虚構を証明する作業に取り掛かった。その一番手が「日本侵略興亡史」で、1990.4月、新国民社から刊行された。そこに至るいきさつは別紙・評論家西垣内堅祐氏の推薦文に載っている。それに続く「はじめに」は、鹿島氏本人の序文である。
同書で公然と部落差別問題の原点から説き起こし解明するとともに、その正しい解決方法にまで言及している。
1996(平成8)年、大室近祐氏が死去し、長男の大室照元氏と次男の大室弘樹氏双方が相続問題で告訴する事態になった。
鹿島氏が作成した大室近祐氏の遺言状の効力が争われた。鹿島氏は大室弘樹氏の弁護人に選任されていたが、2000(平成12).11月、「遺言書は無効」とする判決が山口地裁から下された。
1997年、「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」(新国民社)を世に出し、海外で評判になった。その後、自著の集大成として「歴史」、「国史正義」、「倭と日本建国史」などを次々と出版した。1998年、「明治維新の生贄―誰が孝明天皇を殺したか」(松重正、宮崎鉄雄との共著)が発表された。続いて「裏切られた三人の天皇」の増補版が出版されて、これもかなり話題となった。
1999〜2000年、「歴史捏造の歴史1、2」を出版して啓蒙活動に入った。このあと「近刊予告」(別紙)などもしていたのであるが、この頃から体調を崩し、11月には横浜病院に入院して、腎臓の片方を摘出した。
2001.4.24日、逝去した。葬儀は身内だけの密葬で行われた。 松重氏は、鹿島学について次のように弔辞している。
「最後に、彼の残した研究「鹿島史学」は日本にとっても世界とっても大変な価値があり、この重要かつ貴重な功績を残された事を讃えつつ、ご本人のご冥福をお祈り致します」。 |
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