「鹿島説幕末王朝交代論」考

 (最新見直し2006.11.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 一般に、知ることの重要性について次のように述べられている。
 情報はインフォメーション(information)とインテリジェンス(intelligence)の二つの異なった概念に分けられるのであり、情報≠制する者は21世紀を制すると云っても過言ではないのである。

 さしづめ鹿島学はそれに値するであろう。鹿島著「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」は現在入手不能であるが、次のように構成されているとの事である。
第1章 孝明天皇は暗殺された―毒殺説を検証する
第2章 孝明天皇暗殺始末―犯人は岩倉、伊藤と長州忍者
第3章 田中光顕、明治天皇すりかえを告白―南朝の末裔、大室寅之祐を天皇にした
第4章 自らの出自を否定した明治天皇の「南朝正統論」―なぜ天皇すりかえは可能だったか
第5章 岩倉欧米使節団の帝国主義参入―西郷隆盛はなぜ殺されたか

 「裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎」の紹介文で次のように付されている。
 本書のなかで著者が展開する史観は三人の天皇、すなわち孝明天皇、その子睦仁、及び実は大室寅之祐の明治天皇は、或いは明治維新を推進した岩倉具視や木戸、伊藤、山縣、大久保たちに暗殺され、或は裏切られた悲しい存在であったという事実である。まず孝明天皇は長州藩の忍者部隊によって暗殺され、その子睦仁も即位後直ちに毒殺された。そして、睦仁の身代わりになった明治天皇は実は南朝の末孫という長州力士隊の大室寅之祐であり、孝明天皇の子ではなかったというのである。

 
「鹿島説幕末王朝交代論」が、いま異様な光を放っている。以下、概略を見ておくことにする。

 2005.11.13日 れんだいこ拝


【鹿島昇・氏の履歴】
 鹿島昇・氏の履歴を検証しておくことにする。「鹿島f 氏のご紹介(松重 正)」、「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」、「日本史のタブーに挑んだ男―鹿島昇その業績と生涯」その他を参照する。
 大正15年(昭和元年)、横浜市に生まれた。父は弁護士。早稲田大学法学部入学。在学中に司法試験に合格。卒業後、弁護士を開業。10年後、「天皇制の研究」を思い立ち、東大工学部出身の異色の歴史家・浜田秀雄(1906生)に師事し、古代史の研究に取りかかる。その後、韓国史の研究に向う。従来の記紀中心の日本史に対し、朝鮮との歴史的関わりに注目し始める。

 1978(昭和53)年、処女作「倭と王朝」を新国民社から出版した。これが韓国で大評判を呼び、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、韓国の貴重な古文書類を委託された。この古文書類は全部「白文」であった為、当時の著名な漢文大家や中国語教授、有名な歴史学者などに協力を求めたが誰も引き受けなかった為、自力で翻訳と解読に取りかかった。

 骨身を削るような苦難の三年間の努力を経て、全訳「桓檀古記」出版に漕ぎ着けた。その中には驚くべき史実が内包されていた。特に、「A,D214年、イワレヒコ=神武が九州糸島郡に上陸して伊都国を建てた」という箇所にさしかかると、さすがの鹿島も眠れぬ夜が何日も続いたという。

 「檀君朝鮮の古代史」の研究は古代中国史へと視野を広げ、「司馬遷の『史記』がオリエント史の漢訳であり、偽史であることを証明せねばならない」という観点を生じさせた。この作業は、「アジアの歴史を全面的に解明し、世界史そのものも構築し直すという大事業になった」。鹿島学は、殷、周の中国の古代王朝の起源をバビロニアまで広げ、古代オリエントと中国、朝鮮、日本の歴史的に深い繋がりを実証的に指摘していた。次のように述べ、「異端の歴史家」となった。
 「中国史はオリエント史の翻訳であり、日本史はアジア史および朝鮮半島史を日本語に翻案したものである」。
 概要「(日本の皇統のルーツは、)秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して北倭となり、扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や南倭と混血し、近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散したものである」。

 爾来、鹿島氏は次々と力作を発表し、読者を集めてシンポジゥムも開いていった。1980年夏、「歴史と現代」が新国民社の季刊誌として出版され、その巻頭に載ったのが朴蒼岩氏の「日本国民に告ぐ−歴史の略奪者は誰か」の名文である。1981年、シルクロ−ド正史・全訳「桓檀古記」が新国民社から出版され、その巻頭に古史古伝の先学者・吾郷清彦氏が「刊行に寄せて」という推薦文を載せ、その壮挙を讃えて、「われわれ同学の誇りである」と激賞している。

 同年2.12日、55歳、東京帝国ホテルにおいて、「神皇紀」出版記念パ−ティが盛大に開催された。この頃が絶頂期と云える。

 その後、アメリカやヨ−ロッパを始め世界中隈なく旅行して見聞を広め、著作に役立てている。遺物や宝石類の鑑定眼もあった。鹿島氏は、度々の海外旅行により数々のお手柄を挙げている。その1・タイのバンチェン遺跡を国の内外にいち早く紹介した。これは著書「バンチェン/倭人のル−ツ」として実を結び1981年発行された。その2・メキシコのマヤ文明が倭人の遺産であることを発見し、これを多くの著書の中で発表した。その3・秦始皇帝陵出土の兵馬俑が中国人のそれではなく、ペルシア軍団のものであることを考証した。その4・新たな地下宮殿の発見を中国政府が隠ぺい工作したことなどを鋭く指摘した。これについては日本に運ばれた兵馬俑しか見たことがない人にでも判るように、写真入りの「秦始皇帝とユダヤ人」で詳しく述べている。これによって人民中国の教科書までが歴史をゆがめていることを問題提起して、見事な中共批判論を展開している。

 この頃、鹿島氏は松重氏と出会っている。「日本侵略興亡史」の450ペ−ジに次のように記されている。
 「私(鹿島)は昭和六二年(一九八七)一〇月某日かねてからのお勧めによってルポライタ−の石川君とともに山口県柳井市に近い田布施町を訪問した。吾郷氏から同市の市会議員で郷土史を研究している松重正氏と大島町文化財保護審議委員会委員の平津幸男氏を紹介されていたので、まず柳井グランドホテルで懇談し、翌日、四人で熊毛郡麻郷村に住み、地元では大室天皇と呼ばれている大室近祐氏を訪問したのである・・・」。

 つまり、1987(昭和62).10月、鹿島氏は、日本神道・歴史研究の権威である吾郷(あごう)清彦氏の紹介で、山口県柳井(やない)市田布施町麻郷(おごう)に在住する大室近祐(おおむろちかすけ、平成8年没)氏をを訪れた。この時、大室近祐氏はすでに80歳を越えていたが、「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末蕎であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」と、はっきりと語った。大室氏は、「大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった」と云う裏明治維新史を語り続けていた。大室氏は、地元でも 「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていた。

 大室氏は古田武彦氏に接近したところ「私の専門外」と相手にされなかった経緯がある。鹿島氏は、この最初の訪問のときはさすがに半信半疑のようであったが、その後10回におよぶ訪問を重ね、「皇道と麻郷」をはじめとする大量の文書を見せられることにより、しだいにこの事実を確信するようになっていった。以来二人は意気投合し、たびたび出会うようになった。大室氏曰く、 「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていた。 

 鹿島氏はこれらの研究を通じて外国の学者たちとも交流を深めているが、何時までも国内で認められないことを残念がっていた。更に、「アカデミ−の偽史カ−テン」を開ける為に、明治維新の時に「天皇すり替え」が行われた史実を公開し、「万世一系」の虚構を証明する作業に取り掛かった。その一番手が「日本侵略興亡史」で、1990.4月、新国民社から刊行された。そこに至るいきさつは別紙・評論家西垣内堅祐氏の推薦文に載っている。それに続く「はじめに」は、鹿島氏本人の序文である。 同書で公然と部落差別問題の原点から説き起こし解明するとともに、その正しい解決方法にまで言及している。


 1996(平成8)年、大室近祐氏が死去し、長男の大室照元氏と次男の大室弘樹氏双方が相続問題で告訴する事態になった。 鹿島氏が作成した大室近祐氏の遺言状の効力が争われた。鹿島氏は大室弘樹氏の弁護人に選任されていたが、2000(平成12).11月、「遺言書は無効」とする判決が山口地裁から下された。

 1997年、「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」(新国民社)を世に出し、海外で評判になった。その後、自著の集大成として「歴史」、「国史正義」、「倭と日本建国史」などを次々と出版した。1998年、「明治維新の生贄―誰が孝明天皇を殺したか」(松重正、宮崎鉄雄との共著)が発表された。続いて「裏切られた三人の天皇」の増補版が出版されて、これもかなり話題となった。


 1999〜2000年、「歴史捏造の歴史1、2」を出版して啓蒙活動に入った。このあと「近刊予告」(別紙)などもしていたのであるが、この頃から体調を崩し、11月には横浜病院に入院して、腎臓の片方を摘出した。

 2001.4.24日、逝去した。葬儀は身内だけの密葬で行われた。

 松重氏は、鹿島学について次のように弔辞している。
 「最後に、彼の残した研究「鹿島史学」は日本にとっても世界とっても大変な価値があり、この重要かつ貴重な功績を残された事を讃えつつ、ご本人のご冥福をお祈り致します」。

【鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎」】
 鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」を「鹿島説王朝交代論」と位置づけ解析する。明治天皇(1)」、明治天皇(2)」を参照する。

 「官学の不正史の扉を開ける」ことの必要性について、「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」は次のように記している。

 江戸時代の中頃、大阪の富永仲基という商人学者が「ものを隠すのがこの国の癖」だといったが、このような、官僚と政治家の情報独占が、天皇すりかえという破天荒の事件を可能にしたことはすでに論じた。

 勤皇を唱える人々によって暗殺された孝明天皇と睦仁はまず側近の岩倉たちに裏切られたのであったが、しかし、南朝再興を目的とした大室寅之祐の明治天皇も仮面の人生にたえられずして、革命の真実をようやく明治42年、元老や元勲たちの多くが死んでから、国民には何が何だかわからないという不完全きわまる形で南朝正統を主張することで、自分が革命の主役だったことにようやく言及したのみであったが、それは、元老や元勲たちが情報を独占して南朝革命をかくすことで結束して、自ら擁立した明治天皇を裏切ったからである。

 私はすべて歴史の事件は、人間の動きが中心であり、人間の行動の正邪すべてが合理的に説明できる、というごく常識的な考えにもとづいて取り組んできたし、そのことはいまだに正しいと思っている。そして歴史を合理的に説明するためには、情報の公開が不可欠なのである。 本書はこうした私の考えの帰結である。(p.34)

 およそ歴史家は時の政府の政治的な意見を超越して、永遠の理想を校正に追求しなければならない。政治家は明日を考え歴史家は未来を考えるべきである。天皇であろうと、元老であろうと、歴史家の前に聖域があってはいけない。この国の歴史家は情報を独占する人びとから、あらゆる手段をもって情報を奪い返さなければならない。(p.129)

 鹿島氏は、孝明天皇逝去に対して次のような見解を述べている。
 「1866年12月25日孝明天皇暗殺はまぎれもない事実であり、北朝という一つの王朝の消滅であった」。
 「孝明天皇弑殺は12月24日深夜というが本当は25日の早朝であった。暗殺の立会人となる人物は中山と岩倉の関係者となる。将軍家茂が慶喜と慶永によって毒殺されたあと、孝明天皇は妾の堀川紀子の屋敷の便所で、床下にかくれていた長州の下忍伊藤博聞の忍者刀によって高貴なるお尻をえぐって殺され、その子の睦仁は御所に潜入した長州忍者の猿廻の猿によって手を傷つけられ、岩倉が買収した医者がその手に毒を塗って暗殺した。今やこのことを知る国民は一人もいない] (堀川紀子は岩倉具視の妹である)。
 「南朝滅亡ののちに長州に潜んで南朝の光良親王の子孫と稱する大室 寅之佑が西郷に伴われて薩摩邸に入り、岩倉と中山忠能の助けを 借りて睦仁とすり代わってついに南朝の天皇家が復活した」。
 「中山や岩倉は天皇の遺体を洗い清めて食中毒という事にして睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して慶応3年1月9日に踐祚せんそした。先帝には同年2月16日、正式に孝明天皇の謚(おくりな)が贈られたが、 睦仁は宮中の慣習によって女装して女言葉を話すなど、16歳にしては体格も悪くて華奢な少年で、かって岩倉のオチゴさんであった孝明 の血統を引く天皇であった」。

 孝明天皇暗殺の背景事情について次のように記述している。
 基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

 次のように記述している。
 明治42年には伊藤博文が暗殺されたが、その翌年には南北朝いずれが正系かという史論が生じたときに、明治天皇は自ら乗り出して南朝正系論を正しいとした。しからば、孝明天皇までの北朝は偽朝であったということになる。 (p.21)
 昭和4年2月に、かつて宮内大臣として権勢を振った田中光顕が、「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。後醍醐天皇の第11番目の皇子ミツナガ親王の子孫で、長州萩で毛利氏が守護してきた。薩長連合には、この南朝の末孫を天皇にするといとう密約があった」と述べている。(p.22)

 次のように記述している。
 江藤の日露同盟論が岩倉使節団の英米追従策と正面から衝突したことが、実は大久保の江藤抹殺の真の理由であろう。大久保という殺人狂の奴隷頭的な政治家には、江藤にしろ西郷にしろ、反対意見を説得しようという発想がなく、反対者は殺す、それもきわめて卑劣な手段で殺す、というまさにオウム的な発想しかなかった。(p.338)

【松浦家側から見た明治天皇】
 Re: 参考資料(幕末〜明治)2」、「Re: 参考資料(幕末〜明治)3」。

 後の明治天皇となる祐宮(睦仁親王)は、大納言中山忠能卿と松浦家第34代松浦清山(1760ー1841)の第八女愛子との間に出来た慶子を母としている。「平戸の藩主家出身の松浦愛子と中山忠能との間に誕生した中山慶子が明治天皇の御生母」ということになる。『甲子夜話』の著者・平戸藩主松浦静山は母方の祖父、祖母は松平定信の娘である。

 そういう縁戚関係で、外祖父に当る大納言中山忠能卿が松浦家第35代松浦煕(ヒロム)(乾 斎)公(1791-1867)に宛てた添翰が遺されている。その中で、祐宮(後の明治天皇)の御誕生等について詳しく記されている。それによれば、 娘典侍慶子(ヨシコ)が皇子を懐妊し、9.22日、中山家の産所において若宮降誕とある。

 「松浦詮伯伝」の中に、次のような記述がある。
 明治10(1877)年1月5日、天皇及び皇后両陛下の御真影を拝戴す。21日、宗族規約を設け、始祖源融(トオル)公神影の前に於て、誓約書に連署す。署名人は正四位松浦詮、その長子従五位厚、次子従五位靖(ハ力ル)、分家従五位豊及び従五位渡辺章綱の5名でこれに詮の家令・家扶(何れも正四位)、靖の家令(従五位)、渡辺章綱の家扶(従五位)の4名が副著している。

 これは、「実質的に渡辺章綱だけを拘束する規約」となつている。何故この時期にそれが必要であったのか。実は、渡辺章綱(後に子爵)は、鹿島氏の著書によれば、泉州伯太一万三千石の藩主であり、役職は大坂城の定番であつた。徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが岩倉と伊藤であることを知り、後年設立した長崎の青年学校でこの事実を広言したため、伊藤の仕向けた刺客に襲われ、1894年、死亡している。実は、逃れて1911年まで生きたという数奇な運命の持主である。
 「私の考えでは、松浦家は維新の舞台裏を知つた上で、内乱等の不穏な動きに対処するため、宗族規約という名目で、渡辺章綱の言動を牽制することを図つたのではないだろうか。その背景には他よりの圧力もあつたかも知れない」。

 これにつき、作曲家の宮崎鉄雄氏による次のような決定的な証言が為されている。宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、幕末、伯太(はかた)藩1万3千石の小名として大阪城定番を勤めていた。渡辺家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として15五歳まで育てられ、のち、宮崎家の養子に出されている。平左衛門は、徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。しかし、そのために伊藤博文から命を狙われる羽目になり、実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。

 1997.7月、宮崎鉄雄氏(当時97歳)が、鹿島氏に次のような平左衛門の遺言を語った。

 「父が語ったところでは、伊藤博文が堀河邸の中二階の厠(かわや)に忍び込み、手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。そして、そのあと邸前の小川の水で血刀と血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」。

 さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が厠の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことになる。それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、鹿島fの著書を読んで公表する決心をした。「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、宮崎氏はその著書の中で語っている。

 幕末、藩主の命を受けて情報活動を行つた平戸藩士に籠手田(コテダ)安定(1840-1900)なる人がいる。1867年京に上り国事を偵察し、薩摩の五代、長州の伊藤の知遇を受けた。後に滋賀県令・貴族院議員となり、天皇の寵を辱くし、平戸藩士中ただ一人華族(男爵)に列せられたこの人こそ、明治天皇の出自を確実に知つていたといえるだろう。

 平戸島にはその北端に田助港というところがあり、幕末各藩の志士をのせた船舶が寄港し、多々良孝平という篤志家のところに、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)、山県狂介(有朋)、大隈八太郎(重信)等が屡々来て国事を談じたとのことである。その意味で平戸は、吉田松陰遊学のことと併せ、明治維新にゆかりのある地である。

【匿名者の指摘】
 「明治天皇の出自」(平成13年3月)は次のように述べている。
 一昨年、私は鹿島昇という人の「裏切られた三人の天皇−明治維新の謎」という本により、維新の際薩長間に、徳川家茂及び佐幕派であり鎖国に固執した孝明天皇、それに同調した睦仁親王を暗殺して、長州出身の南朝の後裔である大室寅之祐を睦仁親王にすりかえて明治天皇にするという密約があり、その首謀者は岩倉伊藤等であつた、とする異説があることを知つた。具体的には、伊藤博文が自ら隊長となつた長州力士隊にかつて吉田松陰が南朝再興の理想を託した一人の少年奇しくも睦仁親王と同年の16歳になる大室寅之祐なる者がいて、吉田松陰の命を受けた木戸と伊藤が掌中の玉の如くして養育し、孝明天皇と睦仁親王を暗殺した後で、睦仁親王とすりかえたというものである。

 
思うに、この問題は、将来天皇制を論ずる上で避けて通れないことで、これが解明されてはじめて日本の近代史の総括が可能となるのではないだろうか。前述の通り、すりかえの事実がもし本当であれば、正にそのこと故に天皇制の意義が増すものと考える次第である。

【皇室関係者から見た明治天皇】
 「高松宮発言」(昭和58年)として次の発言が伝えられている。
 「大室寅之祐の子が昭和天皇であっても大正天皇の父は多分、田中光顕であろう」。

 公望公(嘉永2〜昭和15)の息子・西園寺公一は、睦仁と明治天皇は別人だと述べたことが伝えられている。

 「明治天皇は睦仁親王ではない。明治天皇は睦仁親王ではなくて長州の大室寅之佑であった」との憶測が飛び交い始めたことに対して、伊藤は、 「同一人物だといって押し通す他ないじゃないか」といい張った、とも伝聞されている。

【鹿島説批判】

 明治天皇替え玉説の無稽と無惨」は、次のように鹿島説を批判している。れんだいこが意訳するが、批判ながら要領よく説き聞かせている。

 明治帝と補佐した大人物たちの鴻業こうぎょうを不当に貶めている。『裏切られたの3人の天皇』、『明治維新の生贄』という 2冊の本が巷間こうかんに出廻っている。これらの本は、明治天皇が孝明天皇の本当の皇子ではなく、幕末に現山口県田布施町麻郷に住んでいて「南朝子孫」を主張してきたという大室家の子供で、寅之佑という者とすり替えられた本人であり、このすり替え劇の当事者は伊藤俊輔、後の博文だという、2冊総899頁にわたり綿々と述べたものである。

 祐宮(後の明治天皇)は幼いとき弑せられ、あるいは他所に出され、代わりに長州藩によって周防田布施に長年に亘り匿かくまわれてきた南朝の子孫だという大室家から、ちょうど同じ年ごろの寅之祐という子供を岩倉具視と伊藤俊輔(後の博文)らが連れてきて、孝明天皇の皇太子として入れ込んだ。この人物が後の明治天皇その人である、という奇想を思いつき、この不逞無惨の説を巡って縷々陳述している。

 事はそこに止まらず、孝明天皇は弑殺しいされたのだ、と主張する。手を下したのは岩倉具視と伊藤俊輔で、その凶行の場所は岩倉の妹で孝明帝の愛人だったとする岩倉紀子の堀河邸だった、という。

 この2書は特定の思想か血脈を同じくする個人ないし集団が、何らかの意趣いしゅをもって造作したものと断定するほかはない体のものである。こんな有害な「猟奇小説」が一人歩きしてはたまったものではない。こんな文章が公刊物に表れるのは、我が国社会に前代未聞のことだろう。戦前にこんな書物を発表したならば、たちまち不敬罪として告発されて重刑は免れず、大騒ぎになる筋合いだ。平成なる泰平の御代の、隠された危険の露頭だろうか。 
 戦後半世紀間に、明治以後の天皇中心思想に反撥する 思想、行動が噴出してきたが、明治帝が替え玉だという成書が出たのは さすがにこれが初めてだろう。南朝が正系であり、以後の天皇家の血統を正統とは認められないとする立場は、それなりの根拠はあるので、南朝の帝系を引くと主張する家は、戦後高名になった熊沢天皇を始め幾つか存在した(名古屋の熊沢寛道という人が、自分は南朝正系の子孫であると主張した)。このくぐもった怨念が いろいろな形で時を得て噴出する。


【鹿島説の吉田松陰論】

 吉田松陰の歴史観は次のようなものてせあったと考えられる。1、日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた国である。2、日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた。3、その皇統は、南北朝時代に北朝と南朝に分かれ、足利将軍家の押す北朝が代々を世襲することになった。4、皇統は、後醍醐天皇の南朝が正系であり、北朝天皇が天皇の座にあるのはおかしい。5、孝明天皇の公武合体政策、日和見攘夷政策は北朝系譜の不正に起因している。今こそ偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系たる南朝の天皇を再興しなければならない。南朝革命を起こさねばならない。

 吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も上述の観点に立って南朝尊皇且つ攘夷を主張した。但し、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖ではその内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。

 吉田松陰は、更に民族主義の見地を色濃くしていた。次のように述べている。「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。それは、アジアの大国であるインドや中国までもが実質的に欧米の植民地にされてしまうという情況に対する松陰なりのアンチテーゼであった。

 吉田松陰は、「解放」理念をワンセットにしていた。「長州藩の奇兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた」。




(私論.私見)