明治神宮考

 (れんだいこのショートメッセージ)
 
 2003.11.16日 れんだいこ拝


 2019.5.28日、「天皇に関係する場所が深い“森”に覆われている理由」。
 歴代天皇たちは、森に籠もって一体何をしていたのか? ──大阪府の古墳群「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録が、ほぼ確実となった。「天皇の墓」と伝えられる前方後円墳の形を空撮映像で見て、住宅地に突如あらわれる特異な形をした「森」に、違和感を持った方もいるのではないだろうか。中沢新一氏の著作『増補改訂 アースダイバー』から、天皇と「森」の知られざる深いつながりを紹介する。(JBpress)

 (※)本稿は『増補改訂 アースダイバー』(中沢新一著、講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。
 ■ 天皇と「森」の深いつながり

 都内の有数の森は、その多くが天皇家にかかわりをもっている。明治天皇の御霊を祀る、明治神宮の森の広大さは言うまでもないが、天皇ご自身も、深い緑におおわれた皇居の奥に、おすまいになっている。天皇ご自身が、森の中にサステナブルに身を潜められたというような事例は、近代天皇制の以前には、南朝の例以外にはない。その意味では、ここ百数十年の近代天皇制は、深い森にまもられて存続してきたと言える。

 それ以前の歴代天皇は、一時的に深い森の奥に身を潜めるということはあっても、皇居そのものが森の中につくられたことはない。皇居はふつう、広々と開かれた空き地に建てられたので、奥の方までは見られないとしても、視覚をさえぎる樹木は極端に少なかったから、どの方角からもりっぱな建物の存在を認めることができた。

 そのため、天皇に近い皇族なども、世界を見る視線の高さだけは、下々のものとほとんど同じであったし、家の門を出て気軽に外出する感覚で、皇居の内外を行き来することができた。

 歴代天皇たちは、こういう平地に開かれた皇居に暮らしていたのであるが、ときどき深い森の中に身を潜めるという、奇妙な行動をおこなった。そのころ熊野や吉野は、都から見ると、死の支配する野生の領域と考えられていて、多くの天皇はその「野生の森」に出かけて、森の中に何日間も籠もってしまうのだった。

 森の奥に籠もって、野生の森の放つ霊威を身につけようとしたのである。平地の皇居に暮らしている間に、衰弱してしまった「天皇霊」のパワーを、死霊の領域でもある深い森に籠もることで、復活させようとしていたとも言える。そういうわけで、天皇が森の奥に籠もるという行為には、どこかしら不穏なものがつきまとっている。

 皇位継承にからんで、皇子のご兄弟が不仲となり、一触即発の事態になったときなどは、形勢不利と見たいっぽうの皇子は、しばしば起死回生のために、命がけで神聖な森への脱出行をこころみたものである。

 森の霊威を全身に浴び、死霊の力を味方につけた皇子は、こうして死の領域からの決死の出撃をこころみた。じっさい壬申の乱でも南北朝動乱でも、クーデターを企てた皇子や天皇は、森の奥への退却行を実行している。■ 都心部にある、現在の「皇居」は例外? 

 このように、天皇と森とは、古来深いつながりをもってきたのではあるが、それはあくまでも日常とはちがう、「ハレ」の行為としての意味をもっていた。あくまでも、日常の政務や生活の空間としての皇居は、広々と開け放たれ、庶民たちの暮らしと地続きにある都市の一角にすえられていた。皇居はむしろ文明の象徴として、緑の少ない空間になければならなかったのである。ところが、近代天皇はみずからすすんで、森の奥に身を潜めた。

 昔の暮らしのやり方では、「ハレ」の日にしか許されなかったことを、年がら年中昼も夜もやる、というのが近代都市というものである。その精神にあわせて、文明開化とともにかたちを変えた近代天皇制は、「ハレ」の時空の表現であった野生の森を、都市の中心部にすえて、そこを皇居と定めたのだろうか。

 それとも近代天皇制そのものが、一種のクーデターによって生まれた「鉄砲から生まれた政権」なので、森の奥に皇居をすえることで、後醍醐天皇さながらに、魔術的な戦士としての臨戦意識を持続しようとしたのだろうか。

 いずれにしても、近代になって、天皇は日常的に、森の中に身を潜められるようになってしまった。このことに、外国思想はまったく影響をあたえていない。

 ■ 明治天皇の御霊、どこへ祀る? 

 こういう近代天皇制を確立した明治天皇が崩御されたとき、その御霊をどこにお祀りするかが、国民の一大問題となった。明治天皇ご自身は、京都の近くに戻りたいと考えていらっしゃったらしく、伏見桃山に自分の御陵をつくってほしいという遺志を残していた。

 おさまらないのは、東京市民である。けっきょく京都がいいのかい、東京は田舎で悪かったね、といささかプライドを傷つけられた彼らは、しかしすぐに気を取り直して、お墓がだめだというのなら、せめて御霊をお祀りする場所を、関東周辺に設けるべきだという運動を開始したのだった。

 いくつもの候補地が手をあげた。青山、代々木、戸山(とやま)、小石川植物園、白金、和田堀村、御嶽山(みたけさん)、富士山、筑波山、箱根山、国府台(こうのだい)・・・。1913(大正2)年に発足した神社奉祀調査会は、さまざまな条件を考慮にいれて、連日会議を重ね、知恵をしぼったあげく、このうちの豊多摩郡代々幡村(よよはたむら)代々木にあった「代々木御料地」が、神宮を創設するのにもっともふさわしい場所であるとの、決定をくだした。

 「『なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる』の歌あり初めて神宮設立の第一義にかなふなれ。神宮は装飾にあらずお祭騒ぎの俗地に安置すべきにあらず・・・崇高偉大かつ厳粛なる神々しき神境たることを要とすべし」(「明治神宮経営地論」)

 上記が、代々木に決定された最大の理由である。都心に近く、いまのような渋谷もなかった当時には、やかましい盛り場も近くにない、深い森に囲まれた場所。それが代々木だった。

 こうしてその日から、大正時代最大の国民国家的事業が開始された。皇居の森から神宮の森へ。まるで近代天皇はなくなられたのちも、森の奥に潜んでいなければならないとでもいうかのように、都心に森をつくる国民の事業が、はじまった。■ なぜ、代々木だったのか? 

 「帝都」東京の設計図を描いていた人々のなかには、象徴論的にものを考えることの好きな人たちもいて、この人たちの悩みの種は、東京を守護すべき守護霊の居場所が、はっきり定められていない、ということであった。

 京都には北東の方角に比叡山があり、そこに最澄は仏教の寺を構えて、国家の鎮護のための象徴的な場所とした。江戸にも北の方角に日光山があった。江戸の設計図を描いた天海僧正の提言で日光に聖地が開かれ、家康の御霊を祀ることで、そこが守護霊の宿る場所となった。こういう場所が、近代天皇の都である東京には、まだなかったのである。

 首都のほぼ西北の方角にあたる代々木の御料地が、明治天皇の御霊を祀る国家的な神社の建てられるべき場所として選ばれた背景には、あきらかに、そこを東京と国家を護るべき、守護霊のおさまり場所にしようという、象徴的な思考が働いていた。

 「東京は帝国の首府にして世界にたいして帝国を代表せり故に帝国を鎮護せらるべき地点は帝国を代表する帝都を鎮護せらるべき地点たるなり」(「明治神宮経営地論」)

 広々として小高く、白虎(西)青龍(東)朱雀(南)玄武(北)をあらわす吉相をそなえた地形をもち、水清く、深々とした針葉樹林につつまれた森といえば、最有力候補として、代々木が浮上してくる。

 その森に、帝都と帝国を守護する、強力な霊を祀る神社が建てられなければならない。そうしなければ、世界戦争の時代を生き抜いていくことはできない。そういう象徴的な思考によって、明治神宮はあの場所に選ばれたのだった。

 明治神宮は、日本という国家のための「鎮守の森」として、最初から構想されていた。入念な調査と、最新の森林生態学の知識を駆使して、慎重に設計が進められ、莫大な予算と多くの国民の作業奉仕を投入して、大正時代を代表する一大国家プロジェクトは、1920(大正9)年にいちおうの完成をみた。

 日光に祀られることによって、家康の御霊が将軍の権力の守護霊となっていたのと同じように、明治天皇の御霊は、代々木につくりだされた巨大な鎮守の森に祀られることによって、帝国の守護霊となった。結局、文明開化などによっても、深層で動いている日本人の思考は、すこしも変わらなかったわけである。

 ■ 現在の皇居が「森」で覆われた必然

 奈良や近江や京都にあったこれまでの皇居は、いずれも中国の王城を模して、平地の開かれた場所に、威風堂々とつくられていた。皇帝のすまいであり政治のおこなわれる場所である王城は、都市の理想をあらわしていた。

 自由と秩序ということが都市の理想であり、王城はその都市性のエッセンスをあらわしていた。だからそれは森の中ではなく、文明のおこなわれる平地につくられなければならなかったのである。

 中国の皇帝は、天帝から認められて王権をふるうことのできる存在だった。だから、平地に開かれた壮麗な建物をもつ王城こそ、そういう皇帝にはふさわしい場所だったわけである。 ところがわが天皇の権威は、いと高き天の観念に支えられているのではなく、神話に支えられている。神話はこの現実の空間や時間に属さない、特別な時空間のことを語る。オーストラリア・アボリジニーは、そういう時空間のことを「ドリームタイム(夢の時間)」という、すてきな名前で呼んでいるが、天皇の権威を支えてきたのは、まさにそのドリームタイムにほかならなかった。

 神話の語られるドリームタイムは、現実の世界には属していない。文明にも属していない。むしろそれは文明の外、野生の自然のうちに見出されるのでなければならない。そうなると、天皇の権威の源泉を、文明的な都市の中に見出すことなど、不可能なことになってしまう。

 そのために、権力の根拠について根本の考え方のちがう中国の王城を模して、平地に皇居をつくったことで、わが天皇制は矛盾をかかえこむことになった。天皇の権威の根拠を支える神話の時空は、文明の外、自然の奥にひそんでいる。ドリームランドは都市の中でも天上界でもなく、森の奥にこそ見出されなければならない。こうして、歴代天皇たちはしょっちゅう都を脱出しては、熊野や吉野の森への「隠退」をおこなってきたのだった。

 すると、明治になって皇居が東京に移り、それが都市の延長上ではなく、都市の中心部にありながら、都市で展開されている騒がしい開発からぽつんと取り残された、緑濃い森の奥につくられたということには、なにかいままで十分に考え抜かれたことのない、近代天皇制の本質にかかわる、深い意味が隠されているのではないか、と思えてくる。

 ■ 中心であり境界、不思議な空間「皇居」

 太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築城した当時、その城は、関東に広がる巨大な洪積台地が海に向かって突き出した「ミサキ」の場所に建てられていた。その城はまだ小さなものだったが、眼前に広がる雄大な江戸前の海水は、城の足許をたえず洗っていて、自分の立っているのが、ミサキの境界地帯だとすぐにわかった。中世の城は、よくそういう場所に建てられたのである。

 ところが徳川氏が太田道灌の城のあった場所を居城にしたとき、まっさきに考えたことは、もう中世じゃないんだから、いつまでも城をミサキのような境界領域に建てるのはやめにして、城というものを都市のエッセンスを象徴する場所に改めようではないか、という近代的な思いつきだった。

 そのためには、自分の立っている場所がミサキでなくなればいい。こうして、今日の銀座や新橋の基礎をなす、江戸前の海の大規模な埋め立て計画が、進行していった。

 ところが、近代天皇の御代になって、江戸城はふたたび森に戻されてしまった。たしかにそこはもう海水の寄せるミサキの境界領域ではなくなって、大都市東京のむしろ中心部にあった。

 しかし、この新しい皇居は都市の中心部にありながら、その内部に都市性の原理は及んでこないようにつくられた。皇居は都市性のエッセンスをあらわす場所ではなく、めまぐるしく展開していく都市の外にある、不思議な静けさをたたえた自然の森に、変貌をとげてしまったのだ。

 中心がそのまま境界である、という不思議な空間が、こうして東京のど真ん中に出現することになった。東京はその中心に、この奇妙な「メビウスの輪」のような空間をセットしたのである。中心がそのまま境界につながり、内側がいつのまにか外側に出てしまう、現代は過去にひとつながりになっている、このような奇妙な構造をした空間がど真ん中にすえられることで、東京の生活はじつに味のあるものになった。




(私論.私見)