孝明天皇暗殺考

 (最新見直し2007.11.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 幕末動乱過程を検証すると、重大事変が次から次へと発生していることがわかる。根強い疑義が指摘されているにも拘わらず、通史はこの辺りを通り一遍の解説で済ましている。れんだいこは、両論を聞いた上でやはり異変を感じるので検証して見ることにする。

 何が異変かというと、1・将軍家茂の急逝(1866.6.20日、20歳)、2・孝明天皇の急逝(1866.12.25日、36歳)が偶然過ぎることにある。更に、3・睦仁親王(京都明治天皇)急逝(1867.7.8日)が指摘されており、これが事実とすると、将軍家茂の急逝後5ヵ月後に孝明天皇が急逝し、その7ヵ月後に孝明天皇の後継者の睦仁親王(京都明治天皇)が急逝していることになる。

 前二者の急逝は史実で確認されているところである。これだけでも異変なのに、睦仁親王(京都明治天皇)急逝まで重なると偶然とみなすわけには行かないであろう。ところが、不思議なことに、歴代の歴史家はこれらの政変にあまり関心を払っていない。在野的に問題にされて燻り続けているというのが実際である。その燻りを史実考証的に採りあげたのが、鹿島昇・氏の著作「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」であった。以来、俄かに「幕末政変に於ける王朝交代問題」がクローズアップされつつある。

 こうなると、れんだいこのアンテナが作動しない訳にはいかない。れんだいこの分かる範囲内で、「孝明天皇暗殺考」をサイト化することにする。

 2005.11.14日 れんだいこ拝


【孝明天皇急逝の歴史的意味考】
 孝明天皇在位晩年当時、政情は誠に緊迫していた。これを逆から云えば、政情が誠に緊迫していた最中に孝明天皇が急逝したことになる。ならば、如何なる緊迫下にあったかというと、この頃、それまでの将軍権力に対抗させるかのように俄かに朝廷権力が浮上し始め、任にあった孝明天皇は、攘夷派に押し出されつつあった。しかし、幕府打倒によるご一新に向うのではなく、「尊皇佐幕」による局面打開を図ろうとしていた。孝明天皇のこの政治的立場が、ご一新に向おうとする攘夷派、開国派の双方から標的にされつつあった。倒幕派の公卿は追放ないし謹慎された。しかし、宮中内でご一新派と気脈通ずる動きが醸しだされていた。こうした折に、孝明天皇は急逝した。憶測が生まれるに十分な下地があったと云えよう。

 孝明天皇の死に対する疑問は次のように記している。

 「最後まで公武一和を願っていた孝明天皇の死によって、慶喜は最大の後ろ盾を失いました。どうも疱瘡(今で言う天然痘のこと)を患っていたことは確かなようですが、病状の悪化があまりにも早い。何せ密室内の出来事ですから、その死には昔からいろいろな噂がありました。お上は毒殺されたのか?誰が?何のために?謎は深まるばかりです。

 ともあれ、慶喜が将軍に就いてわずかひと月足らずの間ので事件です。タイミングが悪すぎるというか、まさに出鼻をくじかれるとはこのことです。そしてそれを一番喜んだのは、倒幕を決めていた大久保であり、岩倉具視でした。この二人、動機という点では十分ですが、証拠がありません。ただ史実として、孝明天皇崩御の後、岩倉は幽閉を解かれ政界復帰を果たすのです」。

【孝明天皇死因諸説考】
 孝明天皇の死をめぐって、死の直後より怪しまれてきた。まさに字義通りの「火のないところに煙は立たない」であった。しかし、孝明天皇の変死は囁かれ続けているものの死因解釈は諸説分かれている。これを列挙して図示すれば次のようになる。
疱瘡病説 通説
毒殺説 異説1
刺殺説 異説2
疱瘡病+刺殺併合説 異説3
毒殺+刺殺併合説 異説4

 ちなみに、4と5の併合説は、れんだいこが初めて推定する新説である。従来の説を検討すれば、自ずと導き出される。 以下、諸説を概述していくことにする。

【孝明天皇急逝「通説」、疱瘡による病死説】
 「孝明天皇急逝」の様子は、宮内省の編纂した公式記録である「孝明天皇紀」や、「中山忠能日記」などによって、天皇の死に至るまでの経過をある程度たどることができる。

 特に、「中山忠能日記」は、これを記した大納言・中山忠能が孝明天皇の御子・睦仁親王の外祖父にあたるという縁戚性と、その娘慶子が孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)の生母でありつつ女御(宮中女官の一つ)として孝明天皇崩御の前後を常時詰めして見守っており、その刻々情報を一日数回にわたって父大納言に克明に病状を知らせていたとのことであり、これを受けて中山公卿が孝明天皇崩御の様子を記しているという点に於いて、特筆の信頼性を持つというべきであろう。

 中山公卿は、「正心誠意」と題して膨大な日記を遺している。一般には「中山忠能日記」と云われているが、慶応2年12月半ばから年末までの記述が、孝明天皇崩御の前後事情を克明に記している。

 「中山忠能日記」は次のように評される歴史文書である。「明治天皇替え玉説の無稽と無惨」は、次のように述べている。
 「孝明天皇の突然の崩御に対して、疑問を抱いた向きは崩御の当日から存在した。以後113年の今日もこの問題を詮索する人が後を絶たない。『中山忠能日記』の『正心誠意』の該当記録が唯一の歴史資料である。これは孝明帝崩御の真相を開示する、現在得られるかぎり殆ど唯一の確実な資料である。これは天皇に日夜文字どうり膚で接して侍る女性からの同時報告を無心の従者が記録した ものであるから、これ以上信頼出来るものはないと見るべきだろう」。

 以上を予備知識として、「中山忠能日記」の該当記録を読み込んでいくことにする。その解読本として、尾崎秀樹氏が、1963.1月号の「歴史と旅」で「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」を著している。鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」にその一部が引用されている。インターネットサイトでは、「明治という時代」、「・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」(「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」に所収)等々で概述されている。

 れんだいこが、これらをテキストにしながら他の資料をも参考にしつつ整理してみる。
 1866(慶応2).12月
10  【異常なし】 快晴で春のように暖かく感じられた日であった。この陽気が風邪を忍び込ませた可能性がある。
11  【風邪模様の潜伏期】 暁方に雨が降ったが寒くはなかった。風邪気味だったのをおして、内侍所(ないしどころ)で催された臨時の御神楽を見るために出御した。沐浴され、夜の7時から11時頃まで内侍所で過ごされた。沐浴が体に障った可能性が有る。
12  【発病】 高熱を発し、苦痛を訴える。典薬の一人高階(たかしな)典薬少允が診断にあたり、風邪だろうからと発汗剤などを献じている。
13  【高熱】 熱は下がらず、汗もない。食欲はまったくなく、高熱でうわ言がつづいた。風邪気味で伏床するに至った。
14  【高熱】 山本典薬少允が診察、この時はじめて痘瘡(天然痘)と診断が下された。
15  【高熱】 高熱がつづき、痘瘡の特徴である吹出物が少し手に一対あらわれはじめた。
16  【高熱】 朝から吹出物があり、顔にも出来る。一睡も出来ず、吐き気と下痢が激しい。典医たちはそろって痘瘡と診断、ここではじめて病状が公表された。
17  【回復の兆し】 この頃から、便通があり、食欲も起こり熱も下がり、典医も「まず順当」と診断している。回復過程に入ったことにんなる。

 典医ら15名が連名で、「12日より熱を発せられ、一昨朝より吹出物あり今日痘瘡と診断した。総体に御順よろしく、御相応の容体である」といった報告を武家伝奏に提出している。宮中がにわかに騒がしくなる。
18  【回復の兆し】 吹出物はますます多くなったが、変色して落ち着く。睡眠もとれはじめた。典医は「益々御機嫌よくなられた」と報告し、「吹き出物もご順症」とのべている。

 京都守護職松平容保などがお見舞いに参内。京都上京区にある護浄院の湛海僧正が宮中に招かれて祈祷を行った。また誓願寺の上乗坊も参内し、七社七寺へも祈祷が命じられた。
19  【食欲が出始める】 この頃から丘疹期。朝から食欲がでる。
20
21  【順調に回復】 この頃から水痘期。天皇の機嫌が良くなる。吹き出物から膿が吹き出し始めてさらに楽になる。典医は「何の申し分あらせられず」と報告している。徳川慶喜もお見舞いに参内。中山忠能の日記は、「全て御順道との儀承り、恐悦に存じ上げ候」と記している。
22  【順調に回復】 こ食欲も排泄の方も順調に回復。次のように記されている。
 午前二時に葛湯一碗、唐きび団子三つ。さらに二時過ぎに唐きび団子五つ。十一時半にお粥一碗。正午には御大便少々。午後二時に唐きび団子七つ。五時にお粥一碗。八時過ぎにほしいい一碗。十二時前にお小水、そして午前一時前にお粥半碗と大根おろし少々。
23  【ほぼ回復】 この頃から膿庖期に進み、ウミも止まって吹出物のカサブタが乾きはじめた。湛海の日記に「御静謐(せいひつ)」とある。食欲も次第に回復し始めた。大体において全快にむかった。

 その間の報告は次のように記されている。
 「昨夜から痘の色が紫色になり、薬をぬり毒を抜く薬を調献した。夜中も安眠され通じも小便もあり、さらに食欲もすすみ、お粥を召し上り、吹出物も多くなり御順正であり、ますます御機嫌よくなられた」。

 妃の中山慶子が父に宛てた手紙にも「まず御順当に御日立あそばされ」とか「天機御不都合もなく万事御するの御事、めでたく祈入承はり……」とあって、天皇の病状回復が順調に経過していることを裏づけている。
24  【ほぼ回復】 「この日も葛湯、お粥、ほしいいをとり、便通もあり、天皇の機嫌はますます良好」(湛海は、「咋日から御召し上り物も相当あり、御通じもよろしい、しかし少々お疲れの様子」だと記しているとのこと)。祈祷は24日で満期になるのだが、慶子からなお続けるように命じられたという。
同夜半  【容態急変】 ところが、その夜半から病状が急変する。発熱し、叶き気がひどく、下痢が3回あった。典医は体内に残っていた毒の作用だと診立てている。
25  【危篤、逝去】 容体急変で危篤状態に陥った。睦仁親王が訪問。「中山忠能日記」には側近の者が暗澹として、ひたすら天に祈るありさまが読まれる。野宮定功(ののみやさだいさ)の日記では、この日も叶き気ひどく食欲なく、典医の手当ても湛海僧正の祈祷もむなしく、ついに大事に及んだという。

 「中山忠能日記」(「正心誠意」)は次のように記している(抜粋)。
 慶応2年12月25日(丙戊 雨)

 慶子ヘ状をもって御容体伺いのところ、未刻返事来る。昨夜より御大便度々御通し、御容体御宜しからず、御えづき強く御召し上がり物御食されず、なんとも恐れ入る御様子。既に親王御方をも、今日午刻前御様子宜しからずとの御事にて、御違例中ながらにわかに御前に御参りと申様の御事、唯今還御誠に御按し御悲嘆ならせられ、御側に在る者皆々落涙候事ニ候。実々御示し候通リ御天運のみ懇祈いされ候。

 夕方又内々状を以て伺う、先御同様にして御惣体御宜しからずと申し来たり、唯々天を仰いで苦心千万也。

 [孝明天皇は、1866(慶応2).12.25日戌刻(午後7時から9時)、逝去した(享年36歳)。死因は痘瘡(ほうそう)とされた。国内外の緊張がたかまっている時だけに、崩御のことはしばらく伏せられ、29日になって公けにされる。
27  なお喪を秘し、その夜、関白二条斉敬公は諸臣 を召して、主上大漸につき、儲君(ちょくん)御踐祚あらせられるべき旨を内示された]
29  孝明天皇崩御が公にされた。御陵は洛東にあたる泉涌寺(せんにゅうじ)となった。江戸初期以来、陵墓の簡略化が慣例であったが、孝明帝崩御に際してその慣例が改められ、壮大な山陵が営まれる。手厚く葬られたことになる。
 1867(慶応3)年
1.9  新帝(明治帝)が践祚(せんそ)した。
2.16  正式に「孝明天皇」の諡号(しごう)が贈られた。

(私論.私見)

 「孝明天皇紀」では、12日から15日までがなぜか欠落しており、16日に飛んで、いきなり「天然痘を患い給ふ」となる。しかしなぜか、24日の夜半からの容態急変の典医報告が記載されていない。

 つまり、「中山忠能日記」に従う限り、孝明天皇は痘瘡(ほうそう)による急死ということになる。

 尾崎秀樹氏の「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」は、「中山忠能日記」を請けて次のように解説している。
 痘瘡には真痘、仮痘、出血性のものがあり、真痘の致死率は20及至30パーセントだといわれる。潜伏期が10日から11日ほどで、発現期に入ると、まず寒けとふるえが来て40度前後の高熱が出る。そして腰痛や頭痛があり、その翌日ぐらいから、ハシカに似た赤い発疹が上胸部の外側から全身におよび、まもなく消滅し、さらに4日目ぐらいになると、小さな赤いもり上がった発疹が出はじめる。痘瘡の吹出物は普通、腕の外側に出はじめるものらしいが、孝明天皇の場合も、まず吹出物が手に少し現われ、16日になるとかなり顔に出てきた。そこで典医たちが合議の上、全員一致で痘瘡と診断を下している。

 その後の経過は順調で、食欲も出はじめ、17日から普通に便通もあり、熱も下り出し、水痘が脹れ、膿をもち、つづいて膿が出はじめる。これは病状が膿疱期に入った証拠だ。やがてカサブタができる。このカサブタは褐色になり、乾き固まってゆく。護浄院の湛海は宮中の命令で祈祷に従事した一人だが、この時の祈祷は効果があったとみなされ、「叡感ななめならず」、とりあえず金30両をたまわっている。

 22日にはかなり食が進み、朝の8時に葛湯一椀と唐きび団子3つ。その後すぐに団子を5つ追加、11時ごろに粥一椀、午後2時ごろに団子7つほど、5時には粥一椀、8時には糒(ほしいい)、午前1時前には粥半椀と大根おろしとすべて順調で、周囲の者も安堵の思いだった。湛海の22,23日の日記が「御順症、御静謐」となっているのは、その現れだ。24日はすでにのべたように加持祈祷満願の日に当っていた。

 孝明天皇はアレルギー性の体質だったことが推測される。アレルギー性だと、天然痘に罹った場合、その症状が普通より強く出ることがある。ここまでくればもう安心というような時でも、アレルギー性体質だと、死への転機となるような出血性、紫斑性の病状をみせることがある。しかしそれまで順調に経過していた孝明天皇の病状が、たとえアレルギー性の体質だったとはいえ、1日で急変し死につながるというのはどうも納得ゆかない。

 ジェンナーの牛痘種痘法の発表は1798年、わが国では嘉永2年(1849年)に、長崎の楢林宗建が蘭館の医師モーニッケに頼んでバタビアから種痘痂を輸入している。またシーボルトはすでに1826年に江戸参府のおり、道中で子どもたちに種痘を施しているし、蘭館医リシュールも1839年に接種したことがある。しかしいずれもうまくゆかず、その2年後に、大槻俊斎が高島秋帆から牛種痘を得て江戸でこころみ、成功した記録がある。安政3年(1856)に、伊東玄朴が江戸で蘭方医と協力して種痘所を創設した。ロシアに拉致されたエトロフの番人小頭中川五郎治が伝来した種痘書もあった。

 日本では、中国伝来の人痘種痘が一部でこころみられていたが、一般化するまでにはいたらなかった。それにしても、いろいろ牛痘種痘が模索されていた時期に、孝明天皇が痘瘡で崩御されたのは不幸というほかはない。朝廷では、蘭方医はしりぞけられ、専ら典薬は漢方に限られていた。その他は加持祈祷に従う人たちである。吉田常吉の「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」によると、側近の稚児のなかに痘瘡にかかっていたものがおり、そこから感染したのではないかという推測がなされた。

 宮廷とか大奥にいると流行性の病などに感染する率は低いけれど、一度罹患すると、免疫性も弱く病状も軽くないことが考えられる。ましてや天然痘は庶民ならば子どもの頃に罹る病気だ。孝明天皇はすでに36歳で、致死率もそれだけ高くなったということになる。

【孝明天皇急逝異説その1、毒殺説】

 戦後いち早く歴史家のねずまさし氏が、孝明天皇は病死ではなく暗殺であることを学問的に論証した。ねず氏は、「孝明天皇は病死か毒殺か」(「歴史学研究」173号所収)で概略次のように述べている。

 意訳概要「岩倉具視の義妹、堀河紀子が宮中女官として入っており、彼女が加担していたことは容易に推察される。典医によって調合された痘瘡の薬が、堀河紀子女官の手を経て天皇のもとに運ばれた。その間に、そっと毒物が混入されたと考えられる。その後、彼女は、口封じの如く薩摩と思われる手によって殺害されている」。

 しかし、事が事だけに、論証の正否などには関係なく、学会からは無視された。

 次に、天皇の最後の病床に立ち会った宮廷医師、伊良子光順の曽孫に当たる伊良子光孝氏が、光順の手記について発表した。次のように指摘している。
 意訳概要「日記の中には、毒殺ではないかと疑っているような表現があります。私も医師であり、その立場から手記を明細に検討した結果、砒素系毒物による急性中毒症状であると診断せざるをえない。(石見銀山あたりの)亜砒酸である可能性が高い。死因を痘瘡だとすると、痘瘡が殆ど全快した段階における様態の急変、異常な症状を説明することが出来ない」。

 平凡社の「大百科事典」でも、「孝明天皇は疱瘡(ほうそう)を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い」(羽賀祥二・著)と書かれている、とのことである。

 尾崎秀樹氏の「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」は、通説を踏まえつつ次のように「異説その1、毒殺説」を唱えている。 鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」はこの説を紹介している。まずこれを確認しておく。次のように記述されている。 (れんだいこが必要な範囲で説明を補うことにし[]に記す)
 その臨終の模様を、「中山忠能日記」は「25日は御九穴より御出血、実もって恐れ入り候」とあり、その後紛失したとされている上乗坊の日記にも、「天皇の顔に紫色の斑点があらわれて血を叶き脱血した」と書いてあったらしい。
 しかし[孝明天皇の]突然の病変はいろいろな疑惑を生んだ。五代将軍綱吉も痘瘡で突然の死を迎えたが、それについて後世いろいろな噂が立った。夫人に刺殺されたというのまであった。
 孝明天皇と同じ年に大阪城で急死した将軍家茂についても、遺体が江戸へ運ばれたおり、和宮との対面を老中が許さなかったのは、家茂に毒殺特有の症状が見えたからだ、などという噂さえ立った……。
 戦前は孝明天皇の死の謎にふれるのはタブーであった。サトウの『一外交官の見た明治維新』の訳本も、戦前版では削除されている。
 昭和15年7月に、大阪で開催された日本医史学会関西支部大会で、佐伯理一郎博士が孝明天皇の典医だった伊良子家に伝わる口記にもとづいて、「12月22,23日までの経過は詳細に記されているのに、それ以後はプツリと絶えており、『孝明天皇紀』にある公表された報告さえのせていないのは、天皇が毒殺されたことを知って、意識的に記載をひかえたのではないか」と論じ、しかもその犯人については、「岩倉具視の姪で女官となっていた人物であり、洛東の寺で尼となった当の女性からそのことを直接聞いた」と述べたことがある。

 この時は(帝国憲法の下だったから)佐伯博士の発言は採り上げられず、そのまますぎたが、戦後、昭和50年になって第19回日本医学会総会で、子孫に当る伊良子光孝医師から再度公表され、その日記の筆者は陸奥守光順で、直接「毒殺」の文字は見当らないが、その可能性をうかがわせる内容だとされた。
 また昭和17年春、京都大学教授赤松俊秀が京都府の史跡名勝天然記念物調査委員として、京都の寺宝調査に当っていたとき、その調査に同行した奈良本辰也氏は真言宗の誓願寺で、『上乗坊の日記』を発見した。その日記の12月25日の個所には、「天皇の顔に紫の斑点が現われ、虫の息で血を吐き……」とあったので仰天したという。しかし、史学界の元老だった西田直二郎博士からその記録の公表をさしとめられ、やむなくやり過ごしたところ、間もなく寺は廃絶となり、日記もなくなったという……。
 岩倉には、天皇暗殺未遂の噂がそれ以前に流されたこともある。和宮降嫁問題について天皇が頑固に反対するので、その毒殺を企て、筆先をなめる癖を利用して筆の先に鴆(ちん)毒を塗ったというのだが、その噂が流れたため、尊攘派の浪士たちから脅迫状を送られたこともあるらしい。
 岩倉具視とともに、反幕派の恨みを買ったのは異母妹の堀河紀子(もとこ)だ。紀子は孝明帝の寵をうけて二女をもうけている。岩倉と堀河紀子は文久2年に宮廷を追放され、慶応2年12月の段階では、洛北の岩倉村、洛西の大原野村にそれぞれ蟄居していたはずだ。それが毒殺の下手人に擬せられるのは、和官降嫁の際に疑惑をかけられたことの持続というより、いろいろの状況証拠によるものだろう。もしそうだとすれば、岩倉は洛北の一角から何者かをして遠隔操縦し、一服盛ることに成功したことになる。『朝彦親王日記』には、岩倉のいきのかかった女官が宮中に入りこんでいたと書いてあるが、そういう推測はやりだすときりがない。
 岩倉具視は(謀略好きの)公卿のなかでも抜群の(謀略家であり)政治的能力の持ち主だった。狂信的な攘夷論者だった孝明天皇はやっかいな存在だったにちがいないが、毒殺することでそれが除去されると単純にうけとめていたのであろうか。もしそうなら政治的能力としてはいささか欠けるところがある。
 明治新帝の践祚は慶応3年1月、満14歳の若さだったが、その前後、新帝の枕許に孝明帝の亡霊があらわれるという噂も、また不慮死説の根拠とされた。

 「孝明天皇陛下が刺殺されたのか」が、次のような「アーネストサトウ日記妙4」(萩原著、朝日新聞社)を紹介している。アーネストサトウは、当時、日本に駐在していたイギリスの外交官であり、「日本における外交官」と云う日記を残している。「一外交官が見た明治維新上・下」( 訳/坂田精一、岩波文庫、1960年初版)がこれを紹介している。

 「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私(アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。

 重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、、東洋諸国ではごくありふれた事であり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋(慶喜)によって(他の文献では、「の為に」と書いてある)消されたという噂は、かなり流布したものである。天皇陛下の死に戻れば、確かに、私は、当時そのような噂を耳にした事はなかった。しかし、まだ15、6歳という少年(睦仁親王)を継承者に残して、天皇陛下が政治の舞台から姿を消した事が、極めて時宣にかなった事であった事は、否定できない」。

 「日本の下層階級は支配されることを大いに好み、機能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。伊藤(伊藤博文)には、英語を話せるという大きな利点があった。これは当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合には、きわめてまれにしか見られなかった教養であった。もしも両刀階級(武士)の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。だが外国人が日本を統治するとなれば、外国人はみな日本語を話し、また日本語を書かなくてはならぬ」。

 アーネストサトウの「日本における外交官」の日本訳は、「天皇陛下は毒殺された云々」の下りをカットしていたとのことである。

 「アーネストサトウ日記妙4」(萩原著、朝日新聞社)は、これに次のようなコメントをつけている。
 サトウは、事柄の性質上、孝明天皇の「毒殺」を教えてくれた「ある日本人」の名前を記録していないし、サトウがそれを聞いたのは、天皇崩御の「当時」ではなく、「数年後」、即ち倒幕勢力が政権を獲得したあとである、明治年間の事である。因みに、サトウの日記は、この「毒殺」云々について、一言もふれていない。

(私論.私見)

 これは変な文章である。「因みに、サトウの日記は、この『毒殺』云々について、一言もふれていない」とあるが、現に書いているではないか。どこをどう読めばそういう記述になるのだろう。


 孝明天皇陛下が刺殺されたのか」管理人は、次のようにコメントしている。
 アーネス・サトウは、「孝明天皇陛下が刺殺された」事実を隠す為に、毒殺の偽情報を流し、フリーメーソンの本部である英国が、伊藤博文を使っての刺殺の事実を隠す為に行ったでしょう。


【孝明天皇急毒殺説を裏付ける侍医証言考】
 孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である」は、次のように記している。
 孝明天皇の死亡は、慶応2年12月25日(1867年1月30日)である。公武合体派の孝明天皇の突然死により、岩倉具視、大久保利通らの王政復古派は勢いづき、今日では偽文書とされる「倒幕の密勅」を、新天皇の名で薩摩・長州に対して発した。以降、事態は朝廷側対幕府側との全面対決へと急展開してゆく。

 孝明天皇の突然死については、早くから毒殺だと語られてきた。しかしこれに関して、明治政府側から書かれた研究書や小説は一切触れることはない。「毒殺説もある」と記してあるものは、むしろ良心的な部類である。孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。

 孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。

 光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」。

 伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。

 当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。岩倉具視の実の妹、堀可紀子。匂当内侍だった高野房子。中御門経之の娘で典侍だった良子。孝明天皇の死の最大の受益者は誰かということと、状況証拠から、黒幕は明らかである。

 上記の事実について、要約された記述としては『戊辰戦争』佐々木克、中公新書、昭和52年刊が入手しやすい。その後の研究成果をまとめたものとしては、『諸君!』99年2月号、『孝明天皇は亜砒酸で殺された』という中村彰彦氏の論考が詳しい。

 「阿修羅空耳の丘51」の投稿者「脳天気な醜男」氏の2007.11.7日付け投稿は、 「歴史読本1975.7月号290P、孝明天皇は薬物死?、宮廷医のカルテを発見」を紹介している。(この記事は、冒頭に[サンケイ]とあり、文末に(4.4)ある。サンケイ新聞の4月4日号の記事紹介と思われる、とある)。これを転載しておく。
 孝明天皇はやはり“毒殺”された疑いが強い。明治維新史の中で、最大の謎とされている孝明天皇の急死の原因をめぐって“暗殺説”を裏付ける幕末の宮廷医のカルテが滋賀県近江八幡市の開業医の倉から発見され話題をよんでいる。孝明天応は討幕運動に反対する公武合体派として知られ慶應2年(1866)天然痘で死亡されたとされているが、歴史学者の間には暗殺説を唱える人もあった。問題のカルテを発見したのは同市十王町の伊良子光孝博士。伊良子家は南蛮外科医術の流れを汲む医学者の家系で、発見されたカルテは四代前の伊良子光順意思が書き残した物。この光順医師は孝明天皇の主治医を務めた人。日記形式のカルテには孝明天皇の発病から死に至るまでの経過が詳しく記録され表紙には「他見をゆるさぬ」と書かれていた。

 それによると、孝明天皇は死の直前、約十日間天然痘にかかっている。その後、一旦病状が回復、安心したという。ところが二日後の慶應2年12月24日の夕刻突然吐血、まる一昼夜苦しんだ後、翌25日の夜死亡した。光順医師は死因については何も触れていないが死の模様を「吐しゃ、うわごと激しく、折々お漏らしになり非常にお苦しみになった」と、暗に「薬物中毒」を想像させるように描写している。

 医学史学会員成沢邦正さんらはこのカルテ、「拝疹日記」を分析、(1)天然痘に感染しにくい宮中で孝明天皇一人だけが罹ったのはおかしい;(2)吐血、苦しみ方が薬物中毒の症状に酷似している;(3)天皇の死後、光順医師は理由もなく突然解雇されている。等の点から毒殺の疑いが強いと推測している。

【孝明天皇急逝異説その2、刺殺説】
 鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」は、通説(疱瘡による病死説)、異説その1(毒殺説)を紹介しつつ新たに刺殺説を述べている。これを異説その2(刺殺説)とする。

 
れんだいこが必要な範囲で説明を補うことにし[]に記す。まずこれを確認しておく(残念ながら、本書を入手していないので、流布されているところのものを記すことにする)。
 「1866年12月25日孝明天皇暗殺はまぎれもない事実であり、北朝という一つの王朝の消滅であった」。
 意訳概要「孝明天皇が堀河紀子邸において急逝したが、岩倉が便所の箱番を買収し、伊藤博文に刺殺又は毒殺されたとする説がある。これが史実と思われる」。
 「孝明天皇弑殺は12月24日深夜というが本当は25日の早朝であった。暗殺の立会人となる人物は中山と岩倉の関係者となる。将軍家茂が慶喜と慶永によって毒殺されたあと、孝明天皇は妾の堀川紀子の屋敷の便所で、床下にかくれていた長州の下忍伊藤博聞の忍者刀によって高貴なるお尻をえぐって殺され、その子の睦仁は御所に潜入した長州忍者の猿廻の猿によって手を傷つけられ、岩倉が買収した医者がその手に毒を塗って暗殺した。今やこのことを知る国民は一人もいない」(堀川紀子は岩倉具視の妹である)。
 この頃、薩長同盟と岩倉具視らは、孝明天皇の佐幕攘夷に対抗して「倒幕南朝革命」を指向し始めていた。慶応2年12月25日に攘夷佐幕で凝り固まっていて手を焼いていた孝明天皇を暗殺する為に、英国駆逐艦で大阪湾に刺客になった若き伊藤博文を送り込んだ。当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えてい た。 実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。

 伊藤らは、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備についていた。天然痘が快方に向かったので久しぶりに愛妾だった岩倉具視妹の堀川紀子邸(下京区岩滝町)に夜這いに行った孝明天皇が用をたそうと厠に入った際に、厠の下に隠れていて槍か刀で刺し殺した。(便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時 、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいた) 隊長の伊藤俊輔 (博文)は、殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って 引き揚げた、との説がある。
 著名な歴史作家の南原範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)は、御殿医で当日突然呼び出され絶命した孝明天皇を診察した。その事実を詳細に記録した日記が残されている、との説もある。それによれば、次のように記述されている。
 「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣 を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・・。斜め下から上 に向かって突き上げられた 格好」。

 土肥十一郎氏は、その40歳位の貴人を「お上」と断言し、槍による刺殺と検視している。(「明治維新の真相」参照)。 
 孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。 そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしてい た。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名 前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。 大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。

 孝明天皇暗殺の背景事情について次のように記述している。
 基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

【孝明天皇急刺殺説を裏付ける侍医証言考】

 「孝明天皇刺殺説」は、「孝明天皇陛下が刺殺されたのか」が早くより刺殺説を唱えているようである。筆者は次のように記している。これを仮に「土肥一十郎(春耕)日記」とする。

 孝明帝の崩御については、毒殺説が広く流布されているが、私は、それがどのような根拠によっているものであるか、詳しくは知らない。だが、私は偶然の事情によって、それが毒殺ではなく、刺殺ではなかったろうかと憶測するものである。

 私の母方の祖父土肥一十郎と号し、幕末の頃、京都松原に医業を開いていた。医は春耕一代の業ではなく、遠く十数代前からの家業であり、多く堂上の衆を患家としたらしい。春耕の時代には、閑院宮家の侍医であった。

  その春耕の書き残した日記の残片を、私は中学時代に見つけ出し、読めなくて、父に読んでもらったのであるが、孝明帝の条に至って父が顔色を変じ、 「これは大変な事だ。誰にもこんな事を話してはいけないよ」と念を押し、判読を中絶してしまったのである。

 そして、その後再び読み返す暇もなく祝融の災(火災)(この火災の原因は何であろうか。霊現象か又は人災か。オーム真理教の事件を思い出して欲しい。テロ・サリン事件の発覚後、オーム真理教と深い関係のあるロシアのある大学が火災になった事を思い出して欲しい。つまり証拠隠滅の為である!愛)に遭って、その手記は灰燼に帰してしまった。

 それによれば慶応2年(1866)12月某日夜半過ぎ(この年月は父の誕生と同年同月であり、その手記を読みながら、父はそう言ったので、その時の父の口調まで記憶にある)祖父春耕は突然、激しい門戸を叩く音に夢を破られた。家人が出てみると、閑院宮家からの急使で直ちに伺候せよの事である。

 何らかの椿事によって負傷者の生じたものと考えた春耕は、所要の器具を用意し、慌しく迎えの駕籠に乗った。ところが、意外にも駕籠の行く方向が、いつもと違っているようなので、小さな覗き口の垂れを上げて外を見ようとすると、外部からしっかりと閉めつけられている。駕籠際について小走りについてくる者に不審を尋ねても何の返事もない。幕末擾々たる折である。不安の念にかられながらも自分の職業を考え、何人かが秘密の治療を必要として宮家の名を騙ったのであろうと判断した。

 駕籠はやがてどこかの門内に入ると見えて地下に下ろされると、思いの他城代な玄関である。そこに待ち受けていたのが、宮家において数回顔を合わせた事のある公卿の一人であったので、春耕はホッと一安心した。

 しかし、その公卿は春耕に一言の質問も許さず、手をとる如くにして長い廊下を導いていった。幾度か廊下を曲がるうち、それが明らかに御所である事を知って愕然とした時、春耕は広い座敷の奥の小屋に導き入れられた。見ると座敷の中が5寸程高くなっており、そこに寝具が敷かれ、40には未だ若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥していた。その周りに5,6人の人が、心も空に立ち騒いでおり、傍らに、熟知の同業者が顔面蒼白となって座している。

 医師としての職業本能から物問う間もなく、横臥する人の傍らににじり寄ってみると、白羽二重の寝衣や、敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至るまで、赤黒い血汐にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下し様も無い程、甚だしい出血に衰弱しきって、只最後の呻きを力弱く続けているに過ぎない。

 春耕は仔細に調べた上、絶望の合図をした。絶対に口外を禁止された上、再び駕籠に厳しく閉じ込められて自宅へ戻された、春耕が手記を認めたのはその直後であるらしい。甚だしく興奮した筆到で、はっきりと上記貴人を「お上」と断定している。彼の連れて行かれた所が、まことに御所であるとすれば、周囲の人々の態度から見て、それ以外ではあり得ないと見たのであろう。

 又、かの傷は恐らく鋭い槍尖で斜下方から突き上げられたものと断定している。と同時に、自ら疑問を提出して、当今いかに乱世の時代とはいえ、天子が御所内においてそのような目に遭う事があり得ようか、もしあり得べくんば、後架(便所)に上った後、縁側で手を清めている時、縁下に潜む刺客が下から突き刺したものであろうか。到底思議すべからざる椿事、畏るべし畏るべしと結んでいた。

 雑誌「ムー」(平成14年12月号)が、財川外史著「天皇と忍びー聖と闇の血脈」の次の記述を紹介している(「孝明天皇陛下が刺殺されたのか」より)。

 菅と同職の閑院宮家の侍医の話がある。土肥一十郎(春耕)と云う、作家・南条範夫氏の母方の祖父で、この春耕も急遽呼び出されて瀕死の男も診察した。その屋敷には、「熟知の同業者が顔面蒼白となって座して」いたというから、或いは先の菅修次郎だったのかもしれない。春耕が横たわっている男ににじりよって見ると、「白羽二重の寝衣や敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至る迄、赤黒い血潮にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早手の下しようもない」状態だった。そうした記述が、今は失われた春耕の手記に記されていたと、南条氏は書いているのである。

 雑誌「ムー」(平成14年12月号)の財川外史著「天皇と忍びー聖と闇の血脈」は他にも幾つかの証言を記しているようである。それによれば、「土肥一十郎(春耕)日記」以外にも次のような侍医の証言があるようである。これを仮に「菅修次郎日記」とする。

 孝明天皇は毒殺ではなく「刺殺」だという説もある。閑院宮家の侍医に、菅修次郎と云う中国人の医者(本名・菅之修)がいる。法制史学の大家・瀧川政次郎氏によれば、この菅が、何者かに急に呼び出されて、御所とおぼしき場所で瀕死の男を診察した。瀕死の男が何者かは一切告げられなかったが、菅が診た時点で、男は「脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早絶望状態」だったと日記に書いているというのである。

 他にも、「蜷川新証言」を記している。これを確認する。

 又、幕府御小姓番頭だった蜷川相模守の子孫の蜷川新氏も、驚くべき証言を残している。
 「元来は実業家ではあるが、後に維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎と云う人がいた。その人が私に『それ(孝明暗殺)は本当だよ、岩倉がやったのだ、岩倉は二度試みている』といった事がある。岩倉は自分の妹(義妹の堀河紀子)を宮中に入れ、女官にしておいて、天皇を風呂場で殺したと云う。更にその妹はその直後に薩藩の浪人によって殺されたと云う事である。岩倉は死ぬ時、『俺の家は女で祟るぞ』といったと云う話があるが、この事を指すのであろう。

 又植村氏は若い頃、京都のある未亡人の家に行った所、菊の紋章に付いた置物等を持っているので、その理由を問うた所、『自分の亡夫は医者であり、孝明天皇が亡くなられる際、その傷付いた体を診察した為、記念として頂戴したものだ』と語ったと云う事実を私に語った事がある。」

 作家の村雨退二郎氏は、元御所の医師の山本正文の孫から、こんな秘話を聞かされた。「毒殺と云うのは誤りで、本当は天皇が厠から出て手を洗っておられる時に下から手槍で突き上げた者があり、天皇は急所を刺されて其処に倒れ、其れから縁側を這って居間に帰られた。縁側は血だらけになっていた。自分(山本正文)が呼ばれて駆けつけた時、次の間に二十五、六の女官らしい女が、襖の蔭から天皇の御様子を伺っていたが、自分の方を見てニヤリと笑ったと思うと、其の後どこかへ行ってしまった」
 作家の村雨退二郎氏は、元御所の医師の山本正文の孫から、こんな秘話を聞かされた。「毒殺と云うのは誤りで、本当は天皇が厠から出て手を洗っておられる時に下から手槍で突き上げた者があり、天皇は急所を刺されて其処に倒れ、其れから縁側を這って居間に帰られた。縁側は血だらけになっていた。自分(山本正文)が呼ばれて駆けつけた時、次の間に二十五、六の女官らしい女が、襖の蔭から天皇の御様子を伺っていたが、自分の方を見てニヤリと笑ったと思うと、其の後どこかへ行ってしまった」。

 もう一人、明治42.10.16日、満州ハルピン駅で伊藤博文を狙撃したテロリストとして知られる朝鮮独立運動家・安重根の公判陳述が注目される。安重根は次のように述べている。

 「今を去る四十二年前、現日本皇帝の御父君に当らせらるる御方を伊藤さんが失いました其の事は皆韓国民が知って居ります」。

 どこまでが信憑性に足りるのか定かではないが、あながち無視するわけにもいかないように思われる。


【孝明天皇急逝異説その3、薬物投与暗殺と刺殺併合説】
 れんだいこは、以上を踏まえて、新説「薬物投与→刺殺の併合説」を主張したい。「薬物投与→刺殺の併合説」とは、「中山忠能日記」の記述を請けて12.12日頃よりの疱瘡病状を認め、これを砒素のような薬物投与による症状とみなし、それが回復過程にあったところ、何としてでも暗殺を企図する勢力が12.24日の夜半に厠に忍び込み、孝明天皇が厠に入り用足し中に刺傷し、孝明天皇はそのまま重態危篤となり結果的に刺殺せしめられた、とする説である。これによると、孝明天皇は「堀河紀子邸において刺殺された」のではなく、れっきとして御所内での変事であったことになる。以下、これを論証する。

 「中山忠能日記」は、12.24日から25日の深夜に関して異様な記述をしている。このことが確認されねばならないだろう。「中山忠能日記」は、12.12日頃よりの疱瘡病状を認め、それが回復過程にあったことを12.24日までの日記に記している。しかし、疱瘡病状か砒素ないしはトリカブトのような薬物投与による症状かは判じ難い。れんだいこは、後者と見立てる。12.24日の前半は、「咋日から御召し上り物も相当あり、御通じもよろしい」と記している。これによれば、孝明天皇は奇跡的な回復過程にあったことになる。

 ところが、その夜半から病状が急変する。「発熱し、叶き気がひどく、下痢が3回あった。典医は体内に残っていた毒の作用だと診立てた」。12.25日の記述では、「容体急変、親王が訪問、危篤状態に陥った」とある。「側近の者が暗澹として、ひたすら天に祈るありさま」を記している。

 実際には次のように記されている。
 慶応2年12月25日(丙戊 雨)

 慶子ヘ状をもって御容体伺いのところ、未刻返事来る。昨夜より御大便度々御通し、御容体御宜しからず、御えづき強く御召し上がり物御食されず、なんとも恐れ入る御様子。既に親王御方をも、今日午刻前御様子宜しからずとの御事にて、御違例中ながらにわかに御前に御参りと申様の御事、唯今還御誠に御按し御悲嘆ならせられ、御側に在る者皆々落涙候事に候。実々御示し候通リ御天運のみ懇祈いされ候。

 夕方又内々状を以て伺う、先御同様にして御惣体御宜しからずと申し来たり、唯々天を仰いで苦心千万也。

 これにつき、野宮定功(ののみやさだいさ)の日記では、「この日も叶き気ひどく食欲なく、典医の手当ても湛海僧正の祈祷もむなしく、ついに大事に及んだ」と記されている、という。

 不思議なことに、「孝明天皇紀」には肝腎のこの時の典医の報告が記載されていない。これは何故なのかが詮索されねばならない。恐らく、「中山忠能日記」、「野宮定功(ののみやさだいさ)日記」のようには記せなかった、と窺うべきではなかろうか。れんだいこは、「孝明天皇紀」の不記載の方に軍配を挙げたいと思う。

 注目すべきは、
「中山忠能日記」が、「異様な記述」を遺すことにより異変を示唆していることである。「中山忠能日記」は肝腎なところを削除されている箇所があるようで、次の件がそれである。正本には、「25日は御九穴より御出(脱)血、実もって恐れ入り候」との記述が為されているとのことである。その後紛失したとされている上乗坊の日記にも、「天皇の顔に紫色の斑点があらわれて血を叶き脱血した」と書いてあったとのことである。両書に共通するのは「御出血、脱血」であり、「中山忠能日記」は「御九穴より」と記すことにより肛門出血を示唆している。いずれにせよ、七転八倒の苦しみのうちにその夜遅く亡くなった。

 「中山忠能日記」の正本には、孝明天皇逝去の前日の深夜の奇怪な「火の玉」話が記されているのにこれまた削除されているようである。正本には次のように記されているとのことである。
 「昨夜勘ケ由家来北野邊行向処、戊刻頃自西方小茶碗バカリ火飛来凡禁中上辺ニシテ見エザル由ナリ 奇怪奇怪」。
 (崩御の前日夜(24日)、勘解由の家来が北野あたりに行く途中、戌刻天空を小茶碗くらいの大きさの火の玉が西方から飛んで来るのを見た。およそ御所の上あたりで見えなくなったとのことである。奇怪千万なことである)。

 れんだいこは、これは重大な記述と見る。この異様な記述は何かを隠喩しているのではなかろうか。「明治天皇替え玉説の無稽と無惨」のように、忠能が「人魂の出現は死人の出る予兆で、人魂の落ちた家からは翌日死人が出る」という超常現象が実際にあったとして、そのことをそのまま記している、と受け取るべきだろうか。この記述を請けて、「自然な病死であって、言われているような 刺殺など人為によるものではない」と理解すべきだろうか。

 思うに、それは余りな凡庸な受取りではなかろうか。これは歴史的文書に見られる典型的な隠喩表現であり、1・「勘解由家来」、2・「北野あたり」、3・「戌刻天空」、4・「小茶碗くらいの大きさの人魂」、5・「西方から」、6・「飛んで来る」、7・「見た」、8・「およそ御所の上あたりで見えなくなった」のそれぞれの箇所が暗喩しているとみなすべきだろう。「中山忠能日記」は、「孝明天皇の不審死」を関係者並びに後世の者に示唆することに腐心している、と受け取るべきではなかろうか。

 この疑惑に、鹿島説の刺殺説を接合させたらどうだろう。鹿島説の堀川邸云々の部分を削除し、刺殺実行行為箇所の記述即ち「孝明天皇が用をたそうと厠に入った際に、厠の下に隠れていて槍か刀で刺し殺した」を繋げれば、真相が見えてくるというべきではなかろうか。

 ちなみに、「7.19日の中山忠能日記」には、「寄(奇)兵隊の天皇」、「明治天皇紀」には、「7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり」との記述があるとのことである。暗殺された睦仁親王(京都明治天皇)に代わり、大室寅吉が睦仁親王(京都明治天皇)にすり代わったとする説を受け入れれば、これらの記述が整合することになる。

 この説を否定するためには、件の記述が虚偽であることが証されねばならない。件の記述が真正ならば、れんだいこのこの推論には十分な根拠があると云うべきだろう。否、卓見であるかも知れない。

 2005.11.15日 れんだいこ拝


【孝明天皇逝去後の孝明天皇派の公卿のその後の動静】

 「日本の歴史学講座」の有馬範顕卿御一代記」の「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」は、孝明天皇逝去後の孝明天皇派の公卿のその後の動静を次のように伝えている。

 天皇の急死におかしいとかんじた範顕ら公武合体派公卿は中川宮に天皇が暗殺されたと通告し、即座に進退をきめなければならなくなった。しかし公表は避けたのである。証拠もなしに暗殺を主張すれば墓穴を掘る結果になりかねなかったからである。範顕は倒幕派公卿の暗殺を計画し、慶応3年3月に復帰して京都にはいった岩倉具視の帰路を有馬家家人の大宮主膳グループに襲わせ、岩倉家護衛の何人かは斬り捨てた模様だが肝心の岩倉本人にはにげられてしまった。これにより岩倉を中心とする倒幕派公卿と中川宮・範顕を中心とする佐幕・公武合体派公卿との対立の溝はかなり深くなっていったのである。

 岩倉は一泊だけの条件で京都に戻ったとはいえ、倒幕派に与えた影響は大きく、なりをひそめていた倒幕派はいっせいに京内で暗躍をはじめ、台頭しはじめていった。岩倉らの強い影響力をもつ人物のバックアップをうけた倒幕派志士は会津藩の後ろ盾により最後の抵抗をみせはじめてきた範顕らを各所で襲撃、範顕は新選組・見廻組ら身辺警護役や自らの伊勢新刀流剣術で撃退し、一応自らの生命は守りきったが、邸宅は何度も放火され、累代の宝物や文献も倒幕派の悪の炎によって焼かれ、出入りする商人や雑役のものまで殺害されたのである。範顕の妻や長男の有馬丑之助(麿)、次男の有馬酉松(麿)(兄弟ともまだ元服していないので諱はまだない)などの家族は有馬家家令の城島則頼により京都はずれの隠れ家にかくまわれ、難を逃れた。

 範顕も襲われてばかりではなく、手代木直右衛門と共謀して岩倉具視をはじめ桂 小五郎・坂本竜馬などの殺害を命じたのである。大政奉還後といえどもまだ会津藩の力は強かったが、その結果は坂本竜馬・中岡慎太郎の殺害だけでした。(殺害方法については諸説がある)そして最後まで会津の味方であったということである。しかしすでに佐幕・公武合体派は風前の灯火で、重要な同志のひとりだった原市之進が慶応3年8月14日に幕臣に殺され、旧一橋家家臣も梅沢孫太郎がひとりできりもりするかたちとなり裏部隊も壊滅しかけてきたのである。

 範顕もすでに実権を倒幕派公卿に奪われ、慶応3年1月27日の孝明天皇の大喪には出席を拒否され、自邸で軟禁されていたのである。範顕は孝明天皇の崩御後の後継に睦仁親王(のちの明治天皇)ではなく、中川宮朝彦親王を即位させようと試みている。しかし時すでに遅く、明治天皇即位を前提とした孝明天皇暗殺だということで野望ははかなくもやぶれた。これにより公武合体派公卿は勢いを完全に失って衰退し、下級の公武合体派公卿は倒幕派に寝返ったり、野に下って存在消滅させられたり離散を余儀なくされた。範顕はまだ残って中川宮擁立の機会をうかがって絶望的な抵抗をつづけていくのである。





(私論.私見)