平成天皇の履歴

 (最新見直し2015.1.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平成天皇の履歴をしておく。「ウィキペディア(Wikipedia)明仁」その他参照。

 2015.1.2日 れんだいこ


平成天皇の履歴

 第125代天皇平成天皇(へいせいてんのう)という追号は2021年4月時点では存在しない。また、 西暦1989年昭和64年)1月7日に即位し、2019年平成31年)4月30日をもって退位した第125代天皇が、死後、この追号で呼ばれる事が確定している訳ではない(明治天皇大正天皇昭和天皇と3代続けて追号と元号が同一になっているが、そのように追号を定める規則が存在する訳ではない。なお、明治大正昭和元号明治憲法に基づく天皇大権により天皇自ら決定したものだが、平成は国民が選んだ政府が決定したものであるという差異がある)。

 明仁(あきひと1933年昭和8年〉12月23日 - )は、日本の第125代天皇(在位: 1989年〈昭和64年〉1月7日 - 2019年平成31年〉4月30日、(上皇(在位: 2019年令和元年〉5月1日 - )。御称号繼宮つぐのみやお印えい敬称陛下勲等大勲位昭和天皇香淳皇后の第1皇男子。皇子女に徳仁(第126代天皇)、秋篠宮文仁親王皇嗣)、黒田清子がいる。

 1989年〈昭和64年〉1月7日の父帝・昭和天皇の崩御を受けて、日本国憲法及び現皇室典範下で初めて皇位を継承した。翌8日元号法並びに元号を改める政令(昭和64年政令第1号)に基づき「平成」へ改元が行われた。2019年(平成31年)4月30日に施行された皇室典範特例法に基づき、憲政史上初めて譲位した。現在の住居は、東京都港区にある仙洞仮御所(高輪皇族邸)。

 1933年(昭和8年)12月23日、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区千代田1-1)宮城(現・皇居)内の産殿にて、昭和天皇香淳皇后の(2男5女のうち)第5子かつ初の皇子(第一皇男子)として誕生。12.29日、諱/明仁あきひと命名。 称号/繼宮つぐのみや)。 お印/「榮(えい)」。「草花が盛んに茂る様子」を意味する

 明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅大教宣布』より「…立極垂統、列皇相承、之述之…宜治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名された。


 栄木(さかき)忠常(一九〇九~九五年)。東京帝国大卒業後、宮内省学習院の事務官などで皇室にかかわり、終戦直前の四五年八月十日、陛下を支える東宮職の発足と同時に東宮侍従に就任し、五〇年三月まで務めた。
 姉に東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、弟に常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、妹に島津貴子(清宮貴子内親王)がいる。
 1936年(昭和11年)3月29日、皇室の伝統的慣習に基づき、将来の天皇になるべくして皇太子明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった

 1940年(昭和15年)、学習院初等科に入学。学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、内舎人信国鉄蔵を師として剣道を練成した。

 1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦

 1944年(昭和19年)、学習院初等科5年の時、第二次世界大戦の戦火の拡大により、初めは栃木県日光市田母澤御用邸に、後に奥日光、湯元の南間ホテルに疎開。当地で翌1945年(昭和20年)8月15日に、他の疎開児童らとは別室にてラジオでの父帝による玉音放送を聴き、終戦を迎えた。終戦後に帰京。

 1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な女性の児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。

 1949年(昭和22年)6月27日、ヴァイニングとともにGHQの設置された第一生命館を訪問して連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと面会した。このときマッカーサーは「殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった」と好印象を持ったといわれる。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を与えられ、父、昭和天皇とたびたび対戦して知恵を磨いた

 1950年(昭和25年)、学習院高等科2年の際に馬術部の主将となる

 1951年(昭和26年)10月、学習院高等科の修学旅行に参加。学友とは前半別行程で、20日夜に青森行きの夜行準急列車で出発。青森県内を回った後の26日、岩手県平泉で修学旅行に合流、29日に帰京した
 1952年(昭和27年)、新制学習院高等科(高等学校)卒業。
 1952年(昭和27年)、皇室典範に基づき18歳で成年。同年11.10日、皇居、表北ノ間で立太子の礼と皇太子明仁親王の成年式(元服)が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。
 1953年(昭和28年)、3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、人生初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ合衆国、カナダを歴訪。同年6月2日、エリザベス2世英国女王(1952年2月6日:父のジョージ6世国王の崩御により即位)の戴冠式へ父帝、昭和天皇の名代として各国王族らと共に参列。この時の地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果(皇太子という身分とはいえ特別待遇されることはなく)、学習院大学の単位が不足して進級できずやむを得ず中途退学したものの、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学業を継続する

 欧米訪問からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。この時、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした

1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世英国女王戴冠式への台臨のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊、人生初の外国渡航。
 1954年(昭和29年)、学習院大学政治経済学部2年次中途退学
 1955年(昭和30年)11月、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世と。
 1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れていた長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢会テニスコートでのテニストーナメントで日清製粉グループ会長(当時)であった正田英三郎の長女、正田美智子と出会い、テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に『女ともだち』と題した彼女の写真を出品した。しかし、「皇太子が積極的に正田美智子との結婚を考えている」ということが分かると、皇室内外からの反対もあった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「『東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん』と母、香淳皇后秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えた」という内容の記述がある。
 1959年(昭和34年).1.14日、納采の儀。4.10日、 皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の皇族、華族以外からの皇太子妃(将来の皇后)であり、また成婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が起る。成婚のパレードは盛大に行われ、多数の国民から祝福を受けた。2人の成婚の様子を生中継放送で視聴するために、当時高価であったテレビも一般家庭に普及し始めた。また婚礼を祝して『祝典行進曲』が作曲された。同年7月15日に、皇太子妃美智子の第一子懐妊が発表された。正田美智子は皇太子妃皇后上皇后になる。
 二男一女の3人の子女をもうける。
1960年2月23日 第1子/長男 浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)親王 第126代天皇
1965年11月30日 第2子/次男 礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと)親王 秋篠宮 皇嗣
1969年4月18日 第3子/長女 紀宮清子内親王(のりのみや さやこ)親王 結婚により皇籍離脱。現:黒田清子
 1960年.3月、妹ノ清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。
 
 同年9月22日から同年10月7日にかけて、妃美智子を伴って夫妻で日米修好100周年記念のためアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。日米修好100周年記念晩餐会にて(ドワイト・D・アイゼンハワー大統領夫妻とワシントンD.C.ホワイトハウスにて)。

 1975年(昭和50年)、沖縄県の祖国復帰(沖縄返還)が実現して3年後、沖縄国際海洋博覧会に際し、父、昭和天皇も大正期の皇太子時代に行啓した沖縄県に立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍『海 その望ましい未来』、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に親覧した皇太子および同妃の姿が収録される


 同年7月17日、皇太子妃美智子を伴い夫妻でひめゆりの塔に献花のため訪問したところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。

 なお、この皇太子夫妻訪沖については同事件の犯人の所属する組織など以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会や、全日本学生自治会総連合(全学連)・県学連などによる1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)に及んだが、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。皇太子は当時より沖縄に関心をよせ 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している

 1976年(昭和51年)1月18日、海洋博閉会式にも揃って出席している。
 1987年(昭和62年)、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪問し、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇のことばを代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。
 1987年(昭和62年)、皇太子夫妻としての最後の外国訪問(アメリカ合衆国、アンドルーズ空軍基地にて)。
 1989(昭和64年).1.7日、実父である昭和天皇崩御。これに伴い皇位継承し、歴代3位の年長となる55歳で第125代天皇に即位。 同日、皇位継承の儀式(剣璽等承継の儀)を執り行い、翌8日、元号法に基づき「平成」に改元された。9日に執り行われた即位後朝見の儀では「国民とともに日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」との「おことば」を発した。2月24日、昭和天皇斂葬の儀。新宿御苑において国葬・大喪の礼に臨む。

 諒闇
が明けた1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所京都府京都市上京区)から皇居東京都千代田区)へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、

 1990年平成2年)11月12日、第125代天皇明仁即位礼正殿の儀( 於 皇居)。 祖父の大正天皇及び父の昭和天皇とも即位の礼を京都御所で挙行しており(即位礼紫宸殿の儀)、関東東京都)の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼「祝賀御列の儀」としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が埋め尽くし平成時代(1989年1月8日 – 2019年4月30日)の天皇と皇后を祝福した。11.22-23日、皇居内で大嘗祭の中心的儀式・大嘗宮の儀斎行。
礼正殿の儀にて高御座に立つ。父の昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている
「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父昭和天皇六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」
1991年(平成3年)に雲仙普賢岳噴火の際には、被災地を見舞い、床に膝をついて直接被災者らと同じ姿勢で言葉を交わしたが、天皇が一般国民と対面して会話をする際に「床に膝をつく」という行為は史上初めてであった。これは美智子妃と夫妻ともに昭和期の皇太子時代から行っているものだったが、その後の被災地の見舞いでも続けられ、平成に入ってからは他の皇族もこれに倣っている。
 1992年(平成4年)10月、中華人民共和国政府の招待で同国を訪問する日中関係史中国大陸に渡ったのは歴代天皇で初の出来事であり、生前の昭和天皇が希望していたことであったが、当時の中国外交部長外務大臣)だった銭其琛は回顧録で「天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあった」と明かしている
 1993年(平成5年)、父の昭和天皇が実現できなかった沖縄県行幸を自身の在位中で果たした。この折には皇后美智子(当時)とともに、予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑への訪問を行った。2003年(平成15年)までに、47都道府県の日本全国の巡幸を達成した。
日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」
  • 1998年(平成10年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[96]
 1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に「御即位十年をお祝いする国民祭典」が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
 2000年(平成12年) 6月16日、香淳皇后崩御。7月25日、香淳皇后斂葬の儀。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
  • 2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[97]
2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后美智子のピアノ伴奏に合わせて演奏を行い、故人を偲んだ[72]
「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」
  • 2003年(平成15年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[98]
「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」
  • 2004年(平成16年)10月28日、秋の園遊会にて、東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。
皇太子記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」- 人格否定発言を受けて
  • 2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より[99]
 2005年(平成17年)6月28日、米国自治領・サイパン島訪問時、皇后美智子と共に。
2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の予定に含まれていなかった「韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)」に皇后美智子を同伴で立ち寄った。これは天皇の配慮だったとされている[73]
 2005年(平成17年)11月12日、紀宮清子内親王と黒田慶樹が結婚。内親王皇籍離脱(黒田清子)。
 2005年(平成17年)11月22日、ロシア大統領ウラジーミル・プーチン(右)と。
  • 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」
  • 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」
    • 以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて[100]
「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人(濱口雄幸犬養毅高橋是清斎藤実)が亡くなり、さらに総理1人(岡田啓介)がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」- 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込むことが、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対して。
「残念なことは、愛子幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」
  • 2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[102]
2008年(平成20年)9月8日、新潟県中越地震の被災地を見舞うための行幸の折、被害が甚大であった被災当時の山古志村(現・長岡市山古志)を視察。その後、山古志の被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ[71]
2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、「慶應義塾大学創立150周年記念式典」に皇后美智子と共に夫妻で出席し「おことば」を述べた[74]
皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」
  • 2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて[103]
  • 大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」
  • 「2人のそれぞれの在り方についての話し合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」
    • 以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて[104]
 2009年(平成21年)7月10日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州訪問時。
  • 拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」
  • 皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」
    • 以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて[105]
 2009年(平成21年)11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」が執り行われた。
 2009年(平成21年)12月15日、習近平中華人民共和国副主席(後の中国最高指導者)と会見。この会見の申請が、慣例の1か月前を切って行われたことから騒動となり、羽毛田信吾宮内庁長官が記者会見で政府・民主党政権・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。
 2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対し異例のビデオメッセージを放送した
2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)については前述のように、異例の「ビデオメッセージ」を全日本国民向けに送ったほか、各地の避難所を皇后美智子と共に巡幸啓している[75]。後年、震災発生時の菅直人政権が、当時天皇在位中であったら明仁(上皇)らに「京都か京都以西に避難するよう」非公式に打診していたと、元政権幹部が2020年12月29日までに証言した。宮内庁側は上皇の意向として「国民が避難していないのに、あり得ない」と伝え、菅直人政権側は断念したと伝えられた[76]
  • 「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。
  • 「(公務の)負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています」
    • 2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[106]
2013年(平成25年)4月15日、即位後初めて定例の静養や公的行事ではない1泊2日の私的旅行として皇后美智子と共に長野県千曲市にある「あんずの里」に行幸啓した[77]。同年7月には福島県に行幸した。その後、年2回程度私的旅行が行われている。2014年(平成26年)5月には栃木県渡良瀬遊水地など、同年9月には青森県八戸市、2015年(平成27年)6月には宮城県刈田郡蔵王町の北原尾[78]、同年7月には福島県の復興公営住宅、2016年(平成28年)11月には愛知県入鹿池[79]、2017年(平成29年)9月には埼玉県日高市高麗神社渋沢栄一生地などを巡幸している[80]
  • 天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」
    • 以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[107]
 2014年(平成26年)4月24日、皇居にてアメリカ合衆国大統領(当時)バラク・オバマ(左)と。
 2016年(平成28年)7月13日、NHKや毎日新聞が、天皇の位を生前に皇太子(次期皇位継承者)に譲る「生前退位譲位)」の意向を、宮内庁関係者に示したと一斉に報道。諸報道によれば、天皇として「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、「数年内の譲位を望んでいる」とされ、「天皇自身が広く内外に『お気持ち』を表わす方向で、調整が進められている」とされた。しかし、宮内庁の山本信一郎次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。」と報道内容を否定した。8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』として表明。自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた
  • 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」
 2017年(平成29年)12月1日開催の皇室会議において、天皇退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定した。同8日、政府は同日付での退位を閣議決定した(第4次安倍内閣
「明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」
  • 2018年(平成30年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[109]

 2019年(平成31年)2月24日、政府主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典」が、皇后美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催された。

 在位中の2019年(平成31年)4月1日、元号法に基づき新元号「令和」が公表され、元号を改める政令に署名し、公布した[57]。なお、新元号が政府より事前発表されるにあたり、この影響で日本の情報システム業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、西暦のみか、2018年(平成30年)までとするかで動きが分かれた。カレンダー業界は印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧していた

 退位の日である2019年(平成31年)4月30日の午後5時から、国事行為として退位礼正殿の儀が皇居宮殿正殿松の間で行われ、これが天皇としての最後の公務となった。

 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定により、明仁はこの日を以って退位し、翌5月1日午前0時に上皇となり、自身の第1皇男子である皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。同時に元号法の規定により、「平成」から「令和」に改元された。これにより2019年は、「平成31年(1月1日-4月30日)」と「令和元年(5月1日-12月31日)」という2つの元号が存在することとなった。

上皇として

天皇の退位等に関する皇室典範特例法第三条
前条の規定により退位した天皇は、上皇(読み:じょうこう)とする。
上皇敬称は、陛下とする。
上皇身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例による。
上皇に関しては、前二項に規定する事項を除き、皇室典範(第2条、第28条第2項及び第3項並びに第30条第2項を除く。)に定める事項については、皇族の例による。

 2017年(平成29年)6月9日の国会参議院本会議での議決により『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』が成立し、7日後の16日に公布された。2019年(平成31年)4月30日に同法が完全に施行され、天皇の地位と職務は全て皇太子徳仁親王へと引き継がれた。明仁は、1868年(慶応4年/明治元年)の一世一元の制制定後、かつ憲政史上初めて譲位した天皇となった。天皇退位特例法施行にともない、宮内庁には上皇と上皇后の家政機関として「上皇職」が設置された。

  • 4月1日、新元号「令和」公表。元号を改める政令公布。
  • 4月30日、皇居宮殿正殿にて退位の礼挙行。天皇退位特例法が施行され、この日限り退位。「平成」最後の日。「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」
    • 2019年(平成31年)4月30日、退位礼正殿の儀にて
  • 5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位。「令和」に改元。明仁は上皇となる。
  • 2020年(令和2年)1月2日、退位後初めて一般参賀に姿を見せる。

 天皇在位中は高齢となっても、年間約1,000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年/2011年度)、20件近くの宮中祭祀や祭儀を執り行うなど精力的に活動していた。しかし、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王・同妃雅子(当時)および秋篠宮文仁親王・同妃紀子に引き継いだ。

 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行により、2019年(平成31年)4月30日限りで退位。5月1日0時に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し、明仁は上皇となる。譲位に伴う皇位継承が行われたのは、光格天皇から仁孝天皇への譲位以来202年ぶりである。明仁は、歴代天皇の中で最初に譲位した皇極天皇(斉明天皇として重祚)より数えて、59人目である。譲位時の年齢は85歳であり、歴代天皇の中で最高齢で譲位した。

上皇である明仁は、天皇や皇族とともに皇室を構成している。存命中の男性皇室構成員としては最年長であり、退位特例法により、皇位継承権を有しない唯一の(天皇以外の)男性皇室構成員となった。

 2019年11月1日、日本で開催されたラグビーワールドカップ2019の3位決定戦(ニュージーランド対ウェールズ、会場:東京スタジアム)をプライベートで観戦する上皇と上皇后。
 86歳となった同年12月23日は、前年まで天皇誕生日(祝日)であったが、退位後は平日となり、翌年2020年(令和2年)より第126代天皇・徳仁の誕生日である2月23日が新たな天皇誕生日となった。
 2020年(令和2年)1月2日、妻の上皇后美智子、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。退位後に初めて公の場で姿を見せた。
 宮内庁は同年1月30日、上皇が29日午後6時半ごろ、私的外出ののち吹上仙洞御所に戻って約1時間後に倒れたと発表した。意識はしばらくして戻り、翌30日に宮内庁病院で頭部MRI検査と専門医による診察を受けたが、症状の原因となる所見は見られず、当面は経過観察を続けるとした。また同庁によると、上皇が倒れた際に上皇后が非常ブザーで侍医を呼んだ。上皇はいびきのような息づかいだったが、侍医の診察開始から間もなく意識を回復したという。夕食を取らずにそのまま就寝した。30日朝は通常通り朝食をとったという。2019年(令和元年)7月には脳貧血のため立っていられず、かがみ込む症状があった。宮内庁は、上皇の最近の体調に問題はなかったとし、仙洞仮御所(旧:高輪皇族邸)への引越準備に加え、ハゼ科魚類の研究や上皇后との日課の散策、読書などをして静かに過ごしているという
 同年3月31日に、上皇后と共に仮住居である港区にある仙洞仮御所(高輪皇族邸)に引っ越す。




(私論.私見)