元号「令和」字義考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元).6.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「元号「令和」字義考」をものしておく。今はスケッチ段階であるが追々精緻にして行くことにする。

 2019(平成31).4.5日 れんだいこ拝



【張 衡 87-139 /帰田賦】
 新元号「令和」の出典は万葉集の「初春の令月、気淑しく風和らぐ」。この句は文選の句を踏まえていることが新日本古典文学大系「萬葉集(一)」の補注で指摘されている。 張衡(78〜139)は後漢の役人・学者。その張衡が残した「帰田賦」(きでんのふ)は6世紀の文選に収録されている。後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五」に「於是仲春令月、時和気清」(「仲春令月、時和し気清らかなり」)とある。万葉集の成立は8世紀とされるが、当時は漢文・漢詩の教養が当たり前であり、「帰田賦」を参考にしたのは確定的。
 遊都邑以永久 無明略以佐時 徒臨川以羡魚 俟河清乎未期 感蔡子之慷慨

 感蔡子之慷慨 従唐生以決疑 諒天道之微昧 追漁父以同嬉 超埃塵以遐逝 
 與世事乎長辞

★於是仲春令月 時和気清★ 原隰鬱茂 百草滋栄

王睢鼓翼、鶬鶊哀鳴 交頸頡頏 関関嚶嚶 於焉逍遥 聊以娯情 
爾乃龍吟方沢 虎嘯山丘 仰飛繊繳 俯釣長流 触矢而斃 貪餌呑鉤
落雲間之逸禽  懸淵沈之魦鰡

于時曜霊俄景 係以望舒 極般遊之至楽 雖日夕而忘劬 感老氏之遺誡 
将廻駕乎蓬蘆 弾五絃妙指 詠周孔之図書 揮翰墨以奮藻 陳三皇之軌模 
苟縦心於物外 安知栄辱之所如

 田園に帰ろう 張 衡 87-139 (書下し文と和訳)
 都邑に遊びて永く久しきも 明略の以って時を佐くる無し。徒らに川に臨みて魚を羡い、河の清むを未だ期せられざるに俟つ。 都住まいも久しくなるが、世をよくする功績なく、網も持たず、川岸で魚を得たいと望むばかり。黄河の澄むよい時世を待つも、何時のことか 計られぬ。 蔡子の慷慨にして 唐生に従いて疑いを決せるに感ず。諒に天道の微昧なる、 漁父を追いて嬉みを同じうせん。埃塵を超えて遐に逝き 世事と長く辞さん。その昔、思いあぐねた蔡沢は、唐挙の占いに賭けて、迷いの霧をはらしたが、まこと人の運命は見通し難く 漁父をさがし求めて楽しみをともに分ちたいものだ。いざ、この世の塵芥から抜け出て遥かな彼方に去り、生臭い俗事との縁を永遠に絶とう。 是に於いて 仲春の令月 時は和し気は清む 原隰し鬱茂し 百草 滋栄す。 おりしも今は 春も半ばのめでたい月よ。時節はなごやか 大気は澄んで 岡も湿地も鬱そうと 百草は繁り花さく。 王睢翼を鼓し、鶬鶊哀しげに鳴く 頸を交えて頡り頏り 関関たり嚶嚶たり。焉に於いて 逍遥し 聊か以つて情を娯しましめん。 爾して乃ち龍のごとく方沢に吟じ 虎のごとく山丘に嘯く。 仰ぎては繊繳を飛ばし 俯しては長流に釣る。矢に触れて斃れ、餌を貪りて鉤を呑む 雲間の逸禽を落し、淵沈の魦鰡を懸く。 睢鳩(みさご)は羽ばたき、倉庚(うぐいす)は悲しげに鳴き、頸すりよせて、上に下にと飛びかけり。仲睦まじく伴を求めて呼び交わす。いざやこの地に遊び歩き、しばらく情を楽しませよう。そうして私は、大きな沢で龍の如く吟じ 山や丘で虎のように嘯き、仰いで細い繳(いぐるみ)を放ち、俯し見ては長い流れに釣り糸を垂らすのだ。鳥は矢にあたって斃れ、魚は餌を貪って鉤(はり)を呑む。かくて雲間を飛ぶがんも射落され、深い淵にひそむ魦鰡も釣りあげられる。 時に曜霊は景を俄け 係ぐに望舒を以ってす。般遊の至楽を極め、日の夕なるも劬るるを忘れる。老氏の遺誡に感じ 将に駕を蓬蘆に廻らさんとす。五絃の妙指を弾じ、周孔の図書を詠ず。翰墨を揮いて藻を奮い 三皇の軌模を陳ぶ。苟くも心を物外に縦にせば 安んぞ栄と辱の如く所を知らんや。 いつしかに 日は西に傾き、月さし昇る。心ゆくまで遊び楽しみ、暮れがたになるも疲れを覚えぬ。しかし、狩を戒めた老子の遺訓に気づき、車駕を草蘆(いおり)に帰すことにする。すぐれた五絃(こと)の調べを奏で、周公・孔子の書を口吟み、筆走らせては詩文を綴り、時には三皇の功業を書きしるす。執らわれぬ境に 心を解き放つならば 此の世の栄誉(ほまれ)も恥辱(はじ)も 問うところではない。

 http://www.geocities.jp/no_tohoku/kansi/kansi.6.htm(リンク切れ?)

 「帰田賦」を口語訳すれば「田舎に帰ろう」といったところだが、「遊都邑以永久、無明略以佐時」(都暮らしも長くなるが、世を良くする功績もない)で始まる内容は、安倍首相がアピールする「ひとりひとりが輝く新しい時代」とは程遠く、政治の腐敗を嘆き、中央政府に愛想を尽かして故郷に帰る喜びをつづる厭世的な独白である。

 張衡は、「後漢書」によれば、年少時から文才にたけた秀才で、天文学、数学、地理学などに通じていた。地方の役人だったが、6代皇帝の"安帝"に都に呼ばれ、中央政府の官僚になる。その治世は宮廷官僚の宦官が幅を利かせ、忖度や賄賂の横行を招いた。嫁の閻后も、側室の子を殺したり、縁故政治を増長させるなど、やりたい放題だった人物として評判が悪い。中央政府の腐敗に我慢できなかった張衡は順帝(8代皇帝)の時代に朝廷を辞し、「帰田賦」を書いた。135年に書いた「思玄賦」には、朝廷の腐敗やそれに媚びる役人を厳しく糾弾する記述がある。こちらも『文選』におさめられている。
 「超埃塵以遐逝 與世事乎長辭、於是仲春令月 時和氣清」(さあ、この塵芥の世界から抜けてはるか彼方に去り、生臭い俗世との縁を絶とう。折しも今は春も半ばの良き月だ。時はなごやか、空気も澄んでいる)。
 「原隰鬱茂。百草滋榮。王雎鼓翼、倉庚哀鳴…」さて、仲春の佳い時節ともなれば、気候は穏やか、大気は清々しい。野原や湿原に植物は生い茂り、多くの草が一面に花をつける。ミサゴは羽ばたき、コウライウグイスは悲しげに鳴く)。
 「世の風俗は次第に変化し、規範に順う正しい行為を消し去ってしまった。ヨモギを大切そうに宝箱にしまうくせに、蘭やヨロイグサは香りが良くないと言う。美女の西施を捨てて愛さず、駿馬に荷車を引かせたりする。邪な行為をするものが志を得て、法を遵守する者が災難に遭うご時世である。天地は無窮で永遠だが、それに比べて人の世は、何と無原則であることか。しかし私は、志を低くして、とりあえず認められようとは思わない。舟無くして黄河を渡ろうとするような状態だ。巧みな笑顔で媚びへつらうようなやり方は、私の願い下げとすることだ」。
 「折り合わないことなどは、本当の憂いではない。真に悲しいのは、多くの偽りが、真実を覆い隠してしまうことである」。

 張衡はこの腐敗と忖度にまみれた朝廷で官吏として働くことの苦悩をこう書いている。
 「人々に邪悪な行為が多いのを見るにつけても、自分だけ法に従うことが、かえって身を危うくするのではないかと恐れるのだ。心中にこのような煩悶を重ね、我が心は乱れる。ああ誰に向かって、この思いを告げたらよいのか」。

 張衡は実権力者であった宦官勢力に睨らまれ、136年に首都・洛陽から河間(現在の河北省あたり)へ移り行政官を務めた。『後漢書』によれば、2年後に辞職願いを上書するも徴され、再び都の官職に就いたのち引退する。139年、62歳で没。その頃に書かれた隠居の書が「帰田賦」だ。張衡はこのなかでその心情をこう語っている。
 「まことに天道は微かで見定めがたいものである以上、いっそかの漁夫を追って隠棲し、彼の楽しみを見習おうと思う。塵の如き俗界を離れて遠く立ち去り、世間の雑事とは永久に別れることにしよう」(『新釈漢文体系』通釈より、以下同)。
■主な参考文献
『新釈漢文大系』81巻(明治書院)
『後漢書』列伝7(岩波書店)
鈴木宗義「張衡「帰田賦」小考」(「国学院中国学会報」2005年12月号所収)
富永一登「張衡の「思玄賦」について」(「大阪教育大学紀要」1986年8月号所収)

嘉徳、文長…新元号は未採用案から? 「元号」「日本年号史大事典」から(8)」、「久礼旦雄・京都産業大准教授と京都府教育庁の吉野健一・文化財保護課副主査」その他参照。

 「令」の文字は、これまで日本の元号に使用された72字の中にない。昭和の「昭」、平成の「成」に続いて、元号の文字にニューフェースが加わった。中国の漢から清までの元号354に使われた148字の中にも入っていない。昭和の「昭」、平成の「成」に続いて元号の文字にニューフェースが加わったことになる。「令」は過去の改元論議で提案された元号未採用案の中ですらも、ほとんど見られない。1回の改元時に、学識者らから提案される元号案は10を超えることも少なくない。その中から1つが選ばれ、あとは有力な元号候補として温存される。江戸時代以降では、こうした未採用案の中から正式な元号に登用されるケースが約8割を占める。これまでに約500の元号候補が確認されている。令を使ったケースは、幕末に論議された令徳だけ。

 「令和」で初めて元号に使われた「令」の字は、これまでに案の段階で2度挙がったことがある。漢文学者の高辻修長から提出された。同じ人物が同じ元号を続けて提案したが採用には至らなかった。高辻家は、平安時代の右大臣菅原道真の流れをくむ名家の一つで、修長は元治の直後の元号「慶応」(1865~68年)改元時には、平成を提案している。しかし、延べ24案を提出したものの、存命中に自らの案が採用されることはなかった。「令徳」初登場は14代将軍・徳川家茂の文久(1861-64年)で、京都の朝廷は「文久、令徳、明治、建正、萬保、永明、大政」の候補を江戸幕府に送り、幕府からの返答で文久が内定した。2度目は尊皇攘夷の動きが全国に広がっていた元治改元(1864-65年)。朝廷は令徳、元治を候補として示した上で、特に令徳が孝明天皇のお気持ちに沿うと伝えた。しかし幕府は「令徳は徳川に命令すると読める」として嫌い、様ざまなルートで朝廷への政治工作をはかり元治に落ち着いた。

 「和」はこれまでに19回使われ(上で使うのは和銅のみ)これで20回目。1文字目に使われたのは「和銅」(708~15年)だけで、今回や「昭和」を含め残り19回は2文字目。元号では「永」(29回)、「元」(27回)、「天」(27回)、「治」(21回)に続いて「応」(20回)と並び5番目に登場回数が多い字となった。中国でも「元」(46回)、「永」(34回)、「建」(26回)のベスト3に続いて「和」(21回)が多い。しかし昭和で長期間使われていたので、平成の後にすぐ再登用され難いのに採用された。近世で元号の字が重なるケースは、元治(1864年)と明治(68年)がある。ただ元治は1年1カ月で慶応へ再改元したから、印象は薄い。それ以前は、寛保(1741)から延享を挟んで寛延(48年)、文化(1804年)から続けて文政(1818年)としたケースが目に付くくらいだ。享和、明和、天和、元和……「和」を後ろに持ってくると、落ち着きのある元号になる。第3のサプライズは、「万葉集から採用されたこと」(久禮氏)。日本の古典からの採用される場合は、日本書紀などが有力で、万葉集のような歌集からの引用は難しいとされていた。政府案は国書・漢籍からそれぞれ3候補づつ挙げていた。日本の古典からの採用というアイデアは以前から一部で考えられており、1960年代初めの国学者の坂本太郎・東大教授を中心とした日本書紀研究会では、聖徳太子の十七条憲法や嵯峨天皇の漢詩などが具体的に挙げられたという。万葉集や古事記を推すメンバーもいたという。

 新元号の出典となった「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」は漢文による歌の序文。久禮氏は「書聖・王羲之の代表作『蘭亭序』を基にしており、漢籍を日本の古典に取り入れた」と指摘する。これまで漢籍から採用してた元号の伝統も、新元号の中に引き継ぐ形となった。

 「元号」(文春新書)、「日本年号史大事典」(雄山閣)などの著者である所功・モラロジー研究所教授説参照。「明治は天皇のくじ引きで決まった。それまでに10回落選していて、やっと日の目を見た。明治が最初の候補になったのは室町時代の正長改元の時(1428年)で、正式採用まで480年かかったことになる。江戸時代末期に何度もノミネートされていた。有力案の場合、何度も提案される。平成も、幕末の慶応(1865年)の際に検討されていた。2度目で早くも昇格した。源頼朝が鎌倉幕府を開いた建久3年(1192年)から今日まで約930年間に元号は140あり、初出の候補がそのまま起用されたケースは38回。江戸時代からの約400年間では元号39に対し8回で、最も新しい初出採用の元号は昭和(1926年)。ひとつ前は元治(1864年)まで遡る。逆に言えば、近世から現代までで未採用候補からの登用は約8割。中国の古典を基にして考案する。これまでの年号は約80種類の漢籍から出典されている。一番多かったのは書経からの35回(未採用案は85回)という。248番目の今回は日本の古典からの候補もありそうだが、

 聖徳太子の十七条憲法などをみても、元号にふさわしい語句の出典は漢籍に由来するケースが多い。これまでの大化から平成の247元号は、典拠がわかっているものはすべて五経や史記など中国の古書(漢書)からとられてきたとされる。各元号は、平成は『地平天成』、昭和は『百姓昭明・協和萬邦』。大正は『大亨以正』。明治は『嚮明而治』。日中で共通して使われたことのある元号は少なくとも貞観、建武、弘治の3つがある。中国稀代の名君と謳われる唐の太宗の時代に使われた貞観が日本でも859~877年に使用されている。

 近世の元号で、最も多く候補に挙げられたのは天保(1831年)の15回。最初は平安中期の正暦(990年)。用いられるまで約840年待ったことになる。朝廷は7つの元号案を徳川幕府に送り、特に天保を推していることを伝えたところ、幕府も同意したという。幕末に近づくと朝廷が主導権を握って元号を決めたケースが多い。未採用の元号案で最も落選回数が多いとみられるのが嘉徳。春秋左氏伝にある『上下皆有嘉徳、而無違心』のほか、史記などにも『群臣嘉徳』といった表現がある。28回以上の改元時に論議されながらいま一歩及ばなかった。学識者が別々に答申したり、異なる漢籍からの引用で提案されたケースも重複して数えると40回提案されたことになる。嘉徳は延久(1069年)から文久(1861年)まで登場した。惜しかったのは弘化(1845年)の改元時。朝廷は弘化、嘉徳、万安、万延、文久、嘉永、嘉延を幕府に提示し、弘化か嘉徳を選ぶように伝えた。嘉の字を使った3案のうち嘉徳がトップ候補だった。しかし結局、弘化が採用された。嘉徳ファンとしては字画数の多い点が気になる。

 「主な元号未採用候補」(日本年号史大事典などから)は次の通り。

・嘉徳・寛安・建正・文長・大応・文承・政和・文仁・嘉延・永安・延祚・威徳・寛裕・文元・文昭・延寿・天祐・和元・万割・延寿・万安・恒久・文弘・弘徳・長祥・承宝・延嘉・貞久・久承・永寧・正永・康徳・弘保・正永

 落選24回の文長も惜しい元号案のひとつ。史記に『文武両用、長久之術也』といった記述がみえる。南北朝時代から幕末の万延(1860年)まで候補に挙がった。文も長も、たびたび元号に使われている縁起の良い字である。文政(1818年)改元では最終2候補のうちの1つにまで残った。さらに黒船来航などを理由にした安政改元(1855)では、朝廷は文長、安政、和平、寛裕、寛禄、保和を幕府に送り、文長を第1候補とした。しかし幕府が推薦したのは安政だった。ほかにも寛安、建正、大応、貞正などが数多く候補に上っている。未採用案のいずれもが、良い時代を表象しようという希望が込められている。今後の元号に採用されても不思議ではない。(松本治人)


【元号「昭和」命名時の新元号スクープ誤報事件考】
 河西秀哉/名古屋大学大学院准教授「皇室タイムトラベル11、光文事件」(2019.2.10日づけ山陽新聞)参照。

 明治以来、日本は「1世1元の制」(一人の天皇に対し一つの元号だけにする)を敷いている。それまでは、天皇の即位、天変地変などがあると改元されるのが通例だった。この改元を巡る事件を確認しておく。

 1926.12.25日午前1時過ぎ、大正天皇が逝去した。これを受け、東京日日新聞(後の毎日新聞の前身)は号外や朝刊最終版で、新元号が「光文」とスクープ報道した。ところが、その日の午前11頃、宮内庁が発表した新元号は「昭和」だった。社長は辞意表明したが、最終的に編集局主幹が辞任することで決着した。

 新元号の選定は、現在は宮内庁が関係せず政権中枢が極秘裏に進めているが、当時は宮内庁が中心となって行われていた。この時も、宮内大臣の一木喜徳郎(いつききとくろう)の命令を受け、図書寮編修官の吉田増蔵が案を作成していた。図書寮は、皇室に関係する史料の管理保存、歴史の編纂などを行う部局である。この部局が元号の策定に大きく関わっていた。吉田案の中に「光文」はなかった。

 この宮内庁の動きとは別に、内閣の策定もあった。首相の若槻礼次郎の命令を受けた内閣官房嘱託の国府犀東(こくふさいとう)が新元号案を作成していった。こま国府案の一つに「光文」があった。

 大正天皇死去直後、東京日日新聞の社会部長から「政治部の特ダネで元号が『光文』に決まったそうだ。宮内省で確認してくれ」と云われ、皇室担当記者だった藤樫準二(とがしじゅんじ)が宮内庁で打診したところ「報告がない」と云われ、社へ報告した。ところが既に印刷に回っており報道済みだった。

 新元号「昭和」は25日午前6時45分から9時25分まで枢密院審査委員会・本会議が開催され諮問された。枢密院議長であった倉富勇三郎の日記によれば、既に大正天皇死去前の12.8日には「昭和」を最終候補にすることが決まっていた。

【「令」の字義、語源】
 会意文字。(亼+卩)。亼(シュウ,會ー集まる)と卩(セツ、割り符)の合字。上に立つ人の下命・戒告の意。「頭上に頂く冠の象形」と「ひざまずく人」の象形から、人がひざまずいて神意を聞く事を意味し、そこから転じて、「お告げ」、「命ずる・いいつける」を意味する「令」という漢字が成り立った。立命館大の白川静名誉教授の名著「字通」によると、「令」とは、「礼冠をつけて、跪いて神意を聞く人の形。神官が目深に礼帽を著けて跪く形。神意を承ける象」(日本においては、八百万の神々に日々、世界の恒久平和と繁栄を祈っておられる神官の最高位・天皇陛下を意味している)という。なお、鈴も初めは「令」に従って鈴に作り、神を降ろし、神を送るときに用いる。

 「令」の読みが「りょう」と「れい」の二通りある。

 りょう【令】
 古代、国家制度全般について定めた法典。律とともに中国で秦・漢時代に発達、隋・唐時代に大成。日本では唐令を模して、天智朝期の近江令から持統朝期の「飛鳥浄御原令あすかきよみはらりよう」を経て701年、律を加えて「大宝律令」として制定。718年改定して「養老律令」とした。「古代において、律と共に根本をなしたおきて」を意味している。

 れい【令】

①のり、おきて。法律、法規、法令。律令制で、左京・右京の四つの坊を統轄する職。坊令。条令。戒厳令の令。「布告書(広く国民に知らせる書類)」。
②おおせ、「教訓」(教え)、いましめ(前もって注意する事)。
③いいつけ、命令。「 -を発する」 「出撃の-が下る」。
④おさ(長)。古代中国で、地方の長官。特に、県の長官。鎌倉時代、政所まんどころの次官。明治初期、府県の長官。県令。 
⑤「よい」、「立派な」、「優れた」 を意味するほめ言葉→巧言令色(こうげんれいしょく)。言葉をうまくかざり、顔色をうまくつくろうこと。令和とは、和を取り繕うこと。
⑥良い(よし)。清らかで美しい、立派という形容詞で「他人の親族に対する敬称」として用いられる。「令聞(レイフ゛ン)(清らかなことばや、よい評判)」、「令兄・令姉・令弟・令妹・令夫人・令閨(れいけい)・令室・令息・令嬢・令孫」。
⑦~「しむ」(~させる)、「せしむ」。使役。
⑧「しめば」(~だとしたら)
⑨「もし」、「たとい(たとえ)」(例:仮令、縦令)
⑩「年」(とし)(例:年令)。日本のみで用いられる意味。

 名前(音読み・訓読み以外の読み):「なり」、「のり」、「はる」、「よし」
 画数/「5画」
 明朝体の「令」の下の部分「刀」を、小学校では教科書体と称して「マ」として書くように教え、筆記体として許されるとしている。一方、文化庁では常用漢字表として「刀」を採用し、「鈴木」性などの「令」の表記方法については、既に戸籍照合をする実務においてトラブルを招いている。
 「令」はアとへを組み合わせたもので「ア」、「ヘ」が紛れ込んでいると指摘されている。

 2019.4.17日、西日本新聞配信「新元号「令」の字のナゾ “点スタイル”と“線スタイル”両方ある理由」。

 新元号「令和」の令。最終画が「、」の字形と「│」の字形が併存し、疑問だ。

 「、」の令は、手書き文字の規範である楷書体の字形である。7世紀、中国・初唐の時代に完成した。「│」の令は、印刷文字である明朝体の字形である。楷書体が変形し、17世紀、明の時代に成立した。印刷文字は版として彫刻されるので、刃を入れやすくするため字形が直線化した。「言」の1画目の点が「一」で表現されるのと同じ理屈で、令の「、」は「一」および「│」になった。

 新元号の「令」が示され、改めて2字形併用の現実に直面した。しかしこの問題は、既に2016年の文化庁・文化審議会国語分科会報告で指摘されていた。ある金融機関の窓口で書類に記入する際に「、」の令でなく明朝体と同じ「│」の令に書き直すように言われた事例をあげ、「印刷文字に見慣れてしまった」ため、手書きでは「、」の令を書くという習慣が「理解されにくくなっている」と説明した上で、どちらを使ってもよいとの見解を示している。

 点と線を巡る疑問は、以上の説明で一応、氷解する。しかし実は、はるか昔にもこの問題は存在していたのだ。もっとも当時は印刷文字が原因ではなく、古代文字が「│」の令だったからである。

 楷書体を完成させた初唐三大家の1人、※チョ(※「しめすへん」に「者」)遂良(ちょすいりょう)は「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」の中に二つの「令」を書いている。私は、ここにチョ自身が、わざわざ点と線の2字形を用いて書いているのを見つけて驚いた。

 字源をたどると、「令」は人が集会する様子を表す「△」と、人がひざまずく姿を表す「卩」という、二つの象形文字を組み合わせて作られている。古代の篆書(てんしょ)は硬直した刻線で記すので「│」を用いて令を書いた。しかし、漢の時代に紙が発明されて自在に書く技術が普及すると、「、」の令が生み出され、好まれた。後世のあまたの書家はこちらを書いた。チョは、皇帝の補佐官であり書記官庁長官であると同時に、古今の名蹟(せき)を鑑定する学者でもあった。古典的な字形を葬り去るに忍び難く、自作に併記したとみられる。字形は規則に忠実であるべき記号だが、人が用いる道具でもある。不便が生じないのであれば選択の自由は鷹揚(おうよう)に認められるべきであろう。楷書体の完成者の書から、そんな声が聞こえてくる。「令」の点と線について、さらに得心した。(記者コラム)


【「和」の字義、語源】
 『和』◆成り立ち

 形声文字です。「口」の象形と「穂先が茎の先端に垂れかかる」象形(「稲」の意味だが、ここでは、「會(か)に通じ、「会う」の意味)から、人の声と声が調和する「なごむ」を意味する「和」という漢字が成り立ちました。和らぐとか争わずの意。和ぎ=凪、風がやむ。

 「和」は古くはシナで「倭」ナと云っていた日本国の意がある。

 わ【和】
1 仲よくすること。互いに相手を大切にし、協力し合う関係にあること。「人の和」「家族の和」
2 仲直りすること。争いをやめること。「和を結ぶ」「和を講じる」
3 調和のとれていること。
「大いに身体の―を傷(やぶ)り」〈中村訳・西国立志編〉
4 ある数や式に他の数や式を加えて得られた結果の数や式。


【「令和」の出典】
 奈良時代の公卿にして一流の歌人にして漢籍に明るい大伴旅人は、隼人の乱の鎮圧に成功して朝廷の評価を受けていたが、太宰府長官として左遷された。その父親である大伴安麻呂は、壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立って天武のクーデター成功に寄与した人物である。 

 新元号「令和」の出典となった葉集第五巻梅花歌卅二首は、730(天平2)年正月の春、
その大宰府の邸宅で催した庭に咲く梅を詠み比べる歌宴を催した時のもの。招かれたのは対馬や鹿児島など九州一円の役人や医師、陰陽師(おんみょうじ)ら31人。「梅」をテーマに1人1首歌を詠んでいる。その「梅花(ばいか)の宴(えん)」で詠まれた32首の序文に記されている「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ」から「「梅花(ばいか)の宴(えん)」から採られている。「令月」とは、1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰(かしん)令月」、2 陰暦2月の異称。新暦では2月下旬から4月上旬ごろに当たる。 2月の別名は如月(きさらぎ)である。辞には続きがある。「天空を覆いとし、大地を敷物として、くつろぎ、ひざ寄せ合って酒杯を飛ばす。さあ園梅を歌に詠もうではないか」。旅人が、酒席で述べた挨拶(あいさつ)。

 大伴旅人の有名句は「なかなかに人とあらずは酒壺(つぼ)に成りにてしかも酒に染みなむ」(いっそ人間をやめ、ずっと酒に浸れる酒壺になりたい)。60余年の大伴旅人の生涯に、元号は驚くほど頻繁に代わっている。吉兆の亀が発見されたと言って「神亀」。奇跡の水が見つかったと「養老」。ほかに「朱鳥」「大宝」「慶雲」「和銅」「霊亀」「天平」。

 歌は万葉仮名で序文は漢文。作者は旅人や山上憶良などと推測されている。宴の開かれた前年、時の左大臣が自死に追い込まれる「長屋王の変」が発生している。その緊張した雰囲気の中で催されたのが梅花の宴だった。

 「武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿」
 万葉集/第五巻[歌番号]815-846歌群の序文"梅花歌卅二首[并序] / 05/0815

[題詞] 梅花歌卅二首[并序] / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠
万葉集五巻原文:
天平二年(西暦730年)正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠"
 黒路よしひろ氏の「万葉集入門」解説。梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序
 天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述※1(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
※1:「述」は原文では「手」遍+「慮」
 天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
[原文] 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿]
[訓読] 正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
 この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとある。当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあった。この序では、前半で梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えている。中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいる。旅人たちが、中国の古詩を念頭にして「いにしへと現在と何の違いがあろう」と記しているのも面白い。この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっている。後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌となっている。

 さてそこで、巻五の32からなる歌群を眺めて見ます。確かに梅の花を愛でる歌が連なっています。その中で目についたのが、下にあげる831歌です。
巻五・0831歌
 原文:
"波流奈例婆 倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尓
作者:
[壹岐守板氏安麻呂]",
訓:
"春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに
仮名:
"はるなれば うべもさきたる うめのはな きみをおもふと よいもねなくに"
 この歌についても上掲黒路よしひろ氏の解説を転載させていただきます。
%%%%%春なれば宜(うべ)も咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝(ね)なくに
壱岐守板氏安麿(いきのかみはんしやすまろ)
巻五(八三一)
-----------------------------------------------
春になってなるほどよく咲いた梅の花よ。君を思うと夜も眠れないよ。
-----------------------------------------------

この歌も大宰師の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で開かれた宴席で詠まれた「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の歌のうちのひとつ。この「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の歌は三十二人が八人ずつ四つの集団に分かれて詠んだもので、この歌は第三集団の最初の一首。板氏安麿(はんしやすまろ)は、板持安麿(いたもちのやすまろ)のことでしょうか。

そんな板氏安麿が詠んだ「春になってなるほどよく咲いた梅の花よ。君を思うと夜も眠れないよ。」との、梅の花への呼びかけが素敵な一首ですよね。四句目の「君」は梅の花を擬人化したものですがどことなく想い人への恋歌のようにも読めて、この歌から始まる第三集団の歌が第一集団、第二集団の歌とはまた違った自由な広がりを見せてくれるようなそんな予感も感じさせてくれます。

 32首の十七番目の歌の作者名に「安」があり、歌には[倍]が使われているのです。つまり、「安倍」なる文字が潜んでいる。

 本ブログでしばしば書いてきたように、日本語では「マ」行の音と「バ」行の音はしばしば相互に転換します。たとえば「木」(ぼく)は「モク」に、美(び)は「ミ」に、馬(ば)は「マ」という具合です。従って歌中の「宇倍」は、「うべなる」という副詞と「梅(ウメ)」の両方を連想させる技巧です。万葉集初期歌群には目を見張るようなこうした技巧が使われていますが、万葉学者はそれには気づかないようです(たとえば万葉集二十二歌、2009年9月30日記事)

 因みに「万葉集」には「令」なる漢字は「律令」など頻繁に出現します。「令」の出典に、わざわざ万葉集五巻を示唆することには、それなりの意図があったからです。「阿倍」なる漢字表記も出現しますが、それらは阿倍女郎(いらつめ)といった女性の呼称であったり、短命を恐れた安倍廣庭(万葉集六巻)など、新元号にはふさわしくありません。それらの歌の意は元号にこじつけるには相応しくない。と、考えたのでしょう。 そもそも「安倍」なる漢字列がそのまま登場したのでは、あからさま過ぎます。実際、828歌には「阿蘇倍](あそべ)なる表現が登場しますが、残念ながら「安」ではなく「阿」です。
 国文学者が安倍氏の意に沿うべく必死に見つけてきたのがまさに831歌であったのです。単一の歌にこの[安倍]の二文字が登場する歌を国文学者は丹念に探したのでしょう。分厚いめがねを掛けて舐めるようにして4500余の歌に登場する漢字を探す学者さんの姿を思い浮かべると滑稽というよりは哀しくなります。


「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」。
「初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。」

 初出は、“中国屈指の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人である後漢時代の張衡(78-139)の「帰田賦」にも 「於是仲春令月時和氣清 原隰鬱茂 百草滋榮」とある。万葉集の編纂者は、張衡の漢詩「帰田賦」も読んでいた。これを踏まえて(新日本古典文学大系『萬葉集(一)』岩波書店の補注で指摘)『万葉集』巻5(集歌815から集歌852まで)の詞書(ことばがき)として
于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地が記述された。こうなると純然たる正式な漢文ということになる。国文学が専門の山崎健司・明治大学教授も〈「令和」に使われた万葉集の第5巻の序文は中国の六朝時代の政治家で、書家として名高い王羲之の書「蘭亭序」や同時代の詩文集の「文選」を参考にしたのではないか〉(NHKニュースより)と指摘している。

 当時、日本には平仮名がなく漢字文化圏漢詩が貴族の嗜み。元号、令和の由来は、中国にあった。「令和」は『万葉集』からとってきたといっても、万葉仮名である歌の部分ではなく漢文調の序文が出典。「梅は鏡前の粉を披き」の部分の梅の木も、中国から日本列島に輸入された樹木といわれている。

【「令和」の評価】
 「令和」は日本最古の和歌集「万葉集」巻五の『梅花の宴』の序文は漢文で、しかも変体漢文ではなく中国語そのものの純漢文。「初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」との一文から取られたもので、初めて日本の古典から選ばれたという。しかし、万葉集の『令月』は中国古典からの引用。儀礼の『士冠礼』などに見える。万葉集の当該部分は後漢の張衡『帰田賦』の『於是仲春令月、時和氣清』を踏まえたものであり中国古典からの孫引きが明らかである。

 「令の字は中国語で美や謙遜といった意味を持ち、和の字は柔らかいという意味を持つことがあるため、一見して柔和な感じのする元号だと思いました」。

 元号としては失格だ。理由は2つ。『令』が人に与える“直観的”なイメージの悪さ。そもそも、「令」という表意文字には、言いつける、命ずる、掟、規則といった「権力の冷たいイメージ」しかない。「令嬢」も「令夫人」も所詮は、格式・形式的尊称・建前美称であり、もはや“死語”である。“死語”を元号にして良いのか? 

 2019.4.18日、令和の考案者であると有力視されている国文学者・中西進さんが朝日新聞編集委員・塩倉裕の取材に応じ次のように語った。(「議論しても、たぶん令和が一番いい 中西氏が語る元号」参照)
 「議論しても、たぶん令和が一番いい」。
 「僕などの意見を聞くまでもなく、世論調査で8割を超える人々が良いと答えています。僕自身もその人たちの中に入りますね」。
 「令和の典拠である万葉集の『梅の花の歌の序』は、九州の大宰府に役人ら32人が集まって開かれた梅花(ばいか)の宴についての説明文です。誰か一人が歌を詠んでいるのではなく、32人が歌を通して集い、心を通じ合わせている姿。その和がいいと思います」。
 「国と国との間に和がある状態、それが平和です。だから令和には平和への祈りも込められているのだと、僕は考えます」。
 「辞書を引くと、令とは善のことだと書いてあります。つまり、令の原義は善です。そこから派生して、文脈ごとに様々な別の使い方が前に出てくる。人を敬う文脈では『令嬢、令息』にもなるし、よいことを他人にさせようとすれば『命令』にもなります」。
 「品格のあること、尊敬を受けること。そういう意味での『よいこと』が令です。そして、令に一番近い日本語は何かといえば、『うるわしい』という言葉です」。

【「令和」解釈考】
 新元号【令和】 は「倭に命令す!」。日本民族に従属強制。令なんて政治的或いわ支配的な字を入れて来る。不吉でしかない。 これは、征倭会による隷倭宣言とみた。清和会は実は“征倭会”(日本人を征服する勢力という意味)と言われている。清和会議員を主体とする議員の大半は帰化人(半島系)ではないかと言われている。“令”と言う漢字から連想するのは、召集令状(赤紙)の“令”であり、この清和という漢字自体にも、和(日本)を制するという意味が含まれている。今回の新元号「令和」も、和人(日本人)を律するという意味が含まれる。徳仁天皇には「ご愁傷様」と言う他にない。

 初めて、中国から脱して日本の古典を典拠にしました、と宣伝しまわって、結局は、その古典も、それ以前の中国古典を典拠にしてましたって、どう見てもお笑いだろう。

 「『しょせん、日本人にとって漢字はわが国からの借り物。漢字のなんたるかをわかっていない。その証拠がこの元号だ』。まず、『令』という字は、中国人からすると『零』と音が同じで、どちらも中国語では『リン』と発音するため、『令和』すなわち『零和』(平和ゼロ、平和な日はない)という極めて縁起のよくない元号ととらえられます。これは「諧音(シエイン)」という同音異義語のことで、避けるべき用法です。中国人であれば常識中の常識、安倍はそんなことも頭が回らないのか、というわけです」(中国在住ジャーナリスト)。『日本人は教養がない』『センスがない』という意見も相次いでいる。
 

 4.3日、本郷和人氏「「令和以外の5つはケチのつけようがない」東大教授が指摘する『令』が抱える3つの問題」。
 「『令』は上から下に何か『命令』する時に使う字。国民一人ひとりが自発的に活躍するという説明の趣旨とは異なるのではないかというのが、まずひとつ批判の対象にならざるを得ない。もうひとつは、『巧言令色鮮し仁』という故事。“口先がうまく、顔色がやわらげて、人を喜ばせ、媚びへつらうことは、仁の心に欠けている”という意味で、この『仁』は儒教で最も大切な概念。今でいう『愛』を意味し、それに一番遠いのが巧言令色だと言っている。そこが引っかかる。皇太子殿下は日本中世史の研究者で、当然『令旨』という言葉もご存知だと思う。これは皇太子殿下の命令という意味で、天皇の命令ではない。つまり、『令』という字は皇太子と密接な結びつきがあるもので、天皇の密接な関係があるのは『勅』『宣』などの字。(天皇の生前退位で定める)新元号とは少しずれている」。

 本郷氏はこれらを踏まえ、「普通に使うと使役表現となり、中世の人に読ませると『人に命令して仲良くさせる』となる。日本の古典から取ることは何の問題もないと思っているが、どうも自発的な感覚ではなくなってしまう」と改めて述べた。


【「令和」の和訳考】
 外務省は、平成に代わる新元号「令和」について外国政府に英語で説明する際、「Beautiful Harmony」(美しい調和)という趣旨だと伝えるよう在外公館に指示した。新元号発表後、「令」を「order」(命令、秩序など)と訳す外国メディアがあったのを受けた措置で、外国メディアにも個別に説明している。「令和」の発表後、国際的に影響力が大きい英BBC放送が「order and harmony」と表すと報道。「令」については「Command」(指令)を意味すると報じる欧米メディアもあった。外務省の担当者は「令和の意味を正確に訳すのは難しいが、全く異なる解釈をされるのを避けるため、趣旨を伝えることにした」と述べた。外務省内では「令」が律令など法律の意味で使われることがあることから、「『令和』は『法の支配に基づく平和』とも解釈でき、日本の外交姿勢になじむ」といった声も出ている>(以上「毎日新聞」より引用)。

【「令和」商標登録考】
 AbemaTimesの報道によれば、中国で「令和」が既に商標登録されている。2017年11月16日に出願され、本出願は2018年10月21日に登録され、既に商標権が発生している。権利者は河北省の個人の方。指定商品は(日本酒を含む)酒類。新元号選択時に商標登録されていないものという条件があるが、外国の登録までは調べていなかったことになる。商標権の効力は基本的にその国の中だけなので、この商標登録が日本国内でのビジネスに影響を及ぼすことは基本的にありえない。

 「★阿修羅♪ > カルト20 」の氏の日付け投稿「はちま・令和にアベの文字、ゲン・元ネタは腐敗政治を嘆く内容の漢籍。と医学書と清史と酒名で圧巻は和坤に自尽を迫る内容である」。
 正月十四,嘉慶(帝)說:「朕若不除和珅,天下人只知有和珅而不知有朕」。下令判和珅死刑。
 https://zh.wikipedia.org/zh/

 「和珅下獄時作了絕命詩一首」。
“夜色月如水,嗟而困不伸。百年原是梦,卅载枉费神。
 暗室难换算,墙高不见春。星辰环冷月,缧绁泣孤臣。
 对景伤前事,怀才误此身。余生料无几,空负九重仁。”


 2019年05月04日、「自民党的政治のパンツを剥ぐ」の「令和の令 という字は えらぶべき字ではない」、「」。
 令和の令 という字は えらぶべき字ではない

①見ての通り 字の重心が中央にない。②地に足が一本支えだが 見えない補助足がなければ 字が転ぶ。③さらに 令は ウヤムヤ字だ。「マ」のように書いても、活字と同じように書いてもかまいません。④横やり審議会では 全員身の保全を考え オベッカ審議会となり機能しなかった。⑤これから 年月日を記入する際 数十%単位で 令のマと活字となる。⑥生い立ちが首相横やりでは 天皇陛下はお飾りの逆証明 誰も言えない社会閉塞の証明。 

 平成の平は芯重心に足があるがら安定し平和が叶う。サデスティックで安定しない政権の「恐怖」が「令」に現れた。
****
◆川岸 令和(かわぎし のりかず、1962年 - )は、日本の憲法学者。早稲田大学政治経済学術院長と政治経済学部長、法務研究科の教授を兼任。新司法試験委員。

◆【マジで?】「令和」考案者と報道された中西進氏は、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動」の賛同者?
◆まあ、2度と元号に使われることのない漢字であろうことは間違いない。
◆令和。非常に違和感のある元号だと思った。令に美しい素晴らしいなどという意味は最後に出てくる字義としては付け足しだ。万葉集も文選(帰田賦)も令月に麗しい月という意味はなく、単純に2月ということに過ぎない。日本には如月という言葉があるが大伴家持はインテリだったから大陸文化を真似て令月としただけ、おまけに用法にも疑問符が付く。初春とは1月の別名である。だから、帰田賦では仲春の令月とした。家持ははこれを初春とした。
◆中西は朝鮮系日本人だろ、戦前の日韓併合で来た両班の。安倍李晋三もだし。いずれ令和のホントの意味がバレる、その時は武家の怒りがどうなるか。しかし自衛隊の存在感がゼロだな、社会の中で。考えられるのは朝鮮系に活動が監視されている、もしくはフリーメーソンに乗っ取られているか。ただ不思議なのは防衛省は夜遅くまで残業しているんだよね、何しているんだろ?

 「「令和」の時代を考える」の日付け「「令和」が専門家を驚かせた3つの理由 「元号」「日本年号史大事典」から(9)」。
 新元号は「令和」(れいわ)に決まった。出典は「万葉集」で「非常に美しい、きれいな元号という最初の印象を持った」という山中伸弥・京大教授(有識者懇談会メンバー)のコメントと同じ感想を持った読者の方も少なくないだろう。一方、初めて「令」の文字を採用するなど、元号史を専門とする研究者を驚かせる新基軸も少なくない。久禮旦雄・京都産業大准教授と京都府教育庁の吉野健一・文化財保護課副主査に聞いた。

 ■「令」は元号未採用候補に1つだけ

 「正直かなり驚かされた」と、吉野健一氏は新元号が発表された瞬間を振り返る。まず「令」の文字が、これまで日本の元号に使用された「72字」の中になかった。昭和の「昭」、平成の「成」に続いて、元号の文字にニューフェースが加わった。さらに、中国の漢から清までの元号354に使われた148字の中にも入っていないという。「『令』には良い、素晴らしいという意味がある」と吉野氏。

 専門の研究者が注目するのは、「令」が過去の改元論議で提案された、元号未採用案の中ですらも、ほとんど見られない点だ。1回の改元時に、学識者らから提案される元号案は、10を超えることも少なくない。その中から1つが選ばれ、あとは有力な元号候補として温存されてきた。江戸時代以降では、こうした未採用案の中から正式な元号に登用されるケースが約8割を占めるという。これまでに約500の元号候補が確認されているものの、「令を使ったケースは、幕末に論議された『令徳』だけだった」と久禮旦雄・京都産業大准教授は指摘する。

 初登場は14代将軍・徳川家茂の「文久」(1861年)で、京都の朝廷は「文久、令徳、明治、建正、萬保、永明、大政」の候補を江戸幕府に送り、幕府からの返答で「文久」が内定した。2度目は尊皇攘夷の動きが全国に広がっていた「元治」改元(64年)。朝廷は令徳・元治を候補として示した上で、特に令徳が孝明天皇のお気持ちに沿う、と伝えた。3年前に比べ、政治情勢の変化を背景に、朝廷が幕府に対して強気に出ていることが読み取れる。

 ■国家理念ではなく永遠の自然との調和うたう

 しかし幕府は「令徳は、徳川に命令すると読める」として徹底して嫌った。100年前ならば正面切って反論したただろうが、当時の幕府にそれだけの力はなかった。さまざまなルートで朝廷への政治工作をはかり、結局「元治」に落ち着いた。久禮准教授は「朝廷と幕府が対立した過去のエピソードよりも、『令』の持つ意味や読みやすさ・書きやすさに重点を置いた形だ」としている。

 「『和』の採用も驚きだった」と吉野氏。「和」は丸く収まる、といった意味だから、これまでに19回使われ(上で使うのは『和銅』のみ)、元号では「永」(29回)「元」(27回)「天」(27回)「治」(21回)「応」(20回)……に続いて6番目に多い漢字だ。中国でも「元」(46回)「永」(34回)「建」(26回)のベスト3に続いて「和」(21回)が多い。しかし吉野氏は「『昭和』で長期間使われていたので、平成の後にすぐ再登用されるとは思い浮かばなかった」としている。

 近世で元号の字が重なるケースは、「元治」(1864年)と「明治」(68年)がある。ただ元治は1年1カ月で慶応へ再改元したから、印象は薄い。それ以前は、寛保(1741)から延享を挟んで「寛延」(48年)、「文化」(1804年)から続けて「文政」(1818年)としたケースが目に付くくらいだ。ただ久禮准教授は「長く親しまれてきた『和』が戻ってきたというとらえ方もできる」としている。享和、明和、天和、元和……「『和』を後ろに持ってくると、落ち着きのある元号になる」と久禮氏。

 第3のサプライズで、研究者らが一番驚いたのは、「万葉集から採用されたこと」(久禮氏)。日本の古典からの採用される場合は、日本書紀などが有力で、万葉集のような歌集からの引用は難しいとされていたからだ。政府案は国書・漢籍からそれぞれ3候補づつ挙げたとされる。何が何でも日本の古典から、というわけではなさそうだ。

 日本の古典からの採用というアイデアは以前から一部で考えられており、1960年代初めの国学者の坂本太郎・東大教授を中心とした「日本書紀研究会」では、聖徳太子の十七条憲法や嵯峨天皇の漢詩などが具体的に挙げられたという。万葉集や古事記を推すメンバーもいたという。

 新元号の出典となった「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」は漢文による歌の序文。久禮氏は「書聖・王羲之の代表作『蘭亭序』を基にしており、漢籍を日本の古典に取り入れた」と指摘する。これまで漢籍から採用してた元号の伝統も、新元号の中に引き継ぐ形となった。

 久禮氏は「『令和』に国家理念や政治スローガンを感じさせないのも斬新な試みのひとつだ」と指摘する。これまでの元号は国のあるべき姿を、漢字2文字で表象することが求められてきた。「『令和』には、自然との永遠の調和といった意味合いで、具体的な思想や事物は指していない。今後の元号の新しい流れとなるかもしれない」としている。





(私論.私見)