何が問題になっているのか
今、書店には歴史学の最新成果を無視して作家などが思いつきを綴った「俗流歴史本」が溢れている。昨今では百田尚樹氏の『日本国紀』(幻冬舎)が何かと話題だが、ここ20~30年ほどで日本史学界に対して最も攻撃的だったのは作家の井沢元彦氏であろう。ただ『逆説の日本史』などの氏の一連の「歴史ノンフィクション」は、史料に基づかない想像を多く交えており、学問的な批判に堪えるものではない。そこで私が朝日新聞に連載したコラムなどで井沢氏の著作に対して苦言を呈したところ、氏が反論してきた(『週刊ポスト』2019年3月15日号掲載、『逆説の日本史』第1218回「井沢仮説を「奇説」「歴史ファンタジー」と侮辱する歴史学者・呉座勇一氏に問う」)。これに対し私は、『週刊ポスト』3月29日号で「井沢元彦氏の公開質問状に答える」という記事を書いた。すると井沢氏が『逆説』1221回で「「公開質問状」への呉座勇一氏の反論を読んで 「仮説」を「推理」と切り捨てる呉座氏の学者にあるまじき態度を糺す」と題する反論を発表した(『ポスト』4月5日号)。私はさらに『ポスト』4月19日号で井沢説の問題点を具体的に指摘した。だが井沢氏はなおも納得がいかなかったようで、『逆説』1221回で私との論争は打ち切ると宣言したにもかかわらず前言を翻し、逆説1227回(『ポスト』6月7日号)・1228回(『ポスト』6月14日号)で、私を「狭量で傲慢」と非難した。私が井沢説を認めようとしないのは、歴史学の専門家でない井沢氏を「身分差別」しているからだという。井沢氏の「仮説」の問題点を具体的に指摘したにもかかわらず、「作家を見下している」と誹謗中傷を受けたのは看過できない。紙幅の関係で『ポスト』では十分に論じられなかった部分も含めて、井沢説の問題点を改めて論じておきたい。それによって「俗流歴史本」の何が問題なのかが浮き彫りになると思う。
『信長公記』は「一次史料」ではない
『逆説』第1218回での井沢元彦氏の主張の一つは、井沢氏が安土宗論(あづちしゅうろん)に関する日本史学界の通説を覆したのに、学界が井沢氏の功績を認めていない、というものだった。安土宗論とは、天正7年(1579)5月27日、織田信長の命令で安土城下の浄厳院(じょうごんいん)で行われた浄土宗と法華宗の宗教討論のことで、浄土宗側が法華宗側を論破したとされる。井沢氏は、織田信長が法華宗を弾圧するために意図的に浄土宗を勝利させたという「歴史学界の通説」(以下、井沢氏に倣って「八百長説」と略記)を批判し、安土宗論が八百長ではないことを明らかにしたのは自分であると誇っている。しかし井沢氏の「功績」とやらは、「八百長説」を批判した浄土宗の僧侶だった林彦明の論文(1933年)を『逆説』の中で紹介した、という点に留まる。仮に林説が正しかったとしても、功績があるのは提唱者の林であり、紹介者の井沢氏ではない。
井沢説(林説)は、『信長公記』の記述が安土宗論の真実を伝えているという認識が前提になっている。つまり、『信長公記』を読む限り、浄土宗側が法華宗側を論破しているように見える、というだけの話である。一方で、『安土問答実録』など法華宗側の史料では、信長が意図的に浄土宗側を勝たせたと記されており、これが「八百長説」の発端になっている。井沢氏は逆説1227回で、二次史料である『安土問答実録』よりも、一次史料である太田牛一の『信長公記』やルイス・フロイスの『日本史』の方が信頼できる、と反論している。だが『信長公記』や『日本史』は一次史料ではない。歴史学における一次史料というのは、事件を見聞した当事者が事件発生とほぼ同時に作成した史料のことである。安土宗論の場合、たとえば山科言経の日記『言経卿記(ときつねきょうき)』天正七年五月二十七日条・六月二日条、(天正七年)五月二十八日織田信長朱印状(『知恩院文書』)などがこれに当たる。他方で『信長公記』の著者である太田牛一は織田信長に仕えており、信長の生前から備忘録をつけていたと推測されているが(現存せず)、備忘録などを元に『信長公記』を執筆し始めたのは豊臣秀吉が天下人になって以降と考えられるので、『信長公記』は後に編纂された二次史料である。フロイスの『日本史』も同様に二次史料である。
このような基本的知識すら持っていない人と史料解釈をめぐる論争をしても不毛であるが、そう言ってもいられない。井沢説の根本的な問題点を一つだけ掲げておく。当時の法華宗が信者獲得のために積極的に他宗に宗論を仕掛けていたこと、他宗に対して攻撃的な法華宗の布教姿勢を織田信長が問題視していたことは、井沢氏も『逆説の日本史10 戦国覇王編』(小学館)で認めている。安土宗論を行えば、宗論を得意とする法華宗が勝つ確率の方が高く、法華宗が勝つことは信長にとって不都合である。にもかかわらず、なぜ信長は宗論の開催を認め、あまつさえ甥の津田信澄を名代として派遣するなど、積極的に関与したのか。信長主催の安土宗論で法華宗が勝てば、信長が法華宗にお墨付きを与えることになる。それが分かっていて、全くの無為無策、出たとこ勝負で信長は宗論に臨んだ、と井沢氏は考えているのだろうか。それでは信長は公正というより、あまりにお人好しすぎるように思うのだが、いかがだろうか。
「ケガレ移転説」の問題点
次の論点に移ろう。井沢氏は「持統天皇の宗教改革によって日本で首都固定が可能になった」という説を主張している。『逆説』1221回にこの説が要約されているので、引用させていただく。
「古代において天皇一代ごとに首都が移転していたのは、死をケガレとする神道の信仰に基づく行為であった。ところが、それではいつまでたっても持続的な投資ができず国が発展しないと考えた持統天皇は、一部仏教の考え方を取り入れ遺体を火葬にすることによってケガレは除去されたと考えるように命じた。そして首都自体も中国式に改めた。その大英断によって最終的に日本の首都は固定の方向に向かい、最終的に奈良の都でそれが確定された」 |
とのことである。この説の問題点は既に『週刊ポスト』4月19日号で指摘したが、その骨子を改めて示そう。ケガレ移転説は昔、歴史学界でも唱えられたことがあった。しかし考古学の発掘調査の進展の結果、持統天皇が即位する以前、飛鳥時代の後半には大王(天皇)の正宮が飛鳥京に固定化していたことが明らかになった。井沢氏は694年の持統天皇による藤原京遷都をもって日本が「首都移転時代」から「首都固定時代」に移行したと論じている。けれども近年の考古学の成果に従えば、飛鳥時代後半は既に「首都固定時代」だったということになるのだ。もともとケガレ移転説は、都がコロコロ移転しているという事実認識を前提に、この不可思議な現象を説明するために登場した。もし天皇の代替わりごとに既存の王宮を放棄して、別の場所でインフラの整備など街作りを一からやり直していたとしたら、著しく不合理であり、政治的・経済的な説明が困難だからである。だが当該期に過去の王宮の増改築・再利用などが多く見られることが判明した以上、ケガレ移転説のような無理な説明はもはや必要ない。もちろん難波遷都・大津遷都などに見られるように遷宮が消滅したわけではないが、政治的な要因で説明可能である。どうしても井沢氏が自説を堅持したいのなら、「〇〇宮から□□宮への遷宮はケガレが原因」といった形で、当該期に天皇代替わり(天皇崩御)を理由にしたと推定できる遷宮を一つひとつ列挙していくべきだろう。そうした地道な作業をせずに「日本歴史学界は宗教を無視している」などというレッテル貼りに走ることは許容できない。
ついでに、紙幅の関係で『週刊ポスト』4月19日号に触れられなかったことを一点指摘しておく。天武天皇が亡くなったのは686年、皇太子の草壁皇子の死去を受けて持統天皇が即位したのが689年、持統天皇が藤原京に遷都したのは694年である。藤原京遷都まで、天武天皇が亡くなった飛鳥浄御原宮を持統天皇は使い続けた。天皇が亡くなると(天皇を火葬しない限り)ケガレによって宮が使えなくなるという井沢説が正しければ、持統天皇はなぜ8年間も飛鳥浄御原宮を使い続けたのだろうか。藤原京が完成していないから仕方ないと井沢氏は抗弁するかもしれないが、この時期には飛鳥浄御原宮以外に仮宮(臨時の宮)が存在する。ケガレが怖いのなら持統天皇は仮宮に遷宮したはずだ。これまた井沢説では説明できない事象である。
『源氏物語』は「源氏鎮魂の書」か?
さて井沢氏は近著『日本史真髄』(小学館)で、『源氏物語』は源氏鎮魂の書であるとの「仮説」を唱えている。『逆説』1228回にその要旨が記されているので、引用させていただく。
「日本の平安時代、藤原氏はライバルの源氏を倒した後、その源氏の若者がヒーローとなって、あきらかに藤原氏と見られる一族に勝利する物語を、自分の陣営に属する女官紫式部に書かせた。『源氏物語』である。世界の常識であり得ないことが、日本ではある。それは無念の思いを抱いて死んだ敗者は丁重に鎮魂しなければならないという、怨霊信仰が日本の宗教の基本(その一つ)だからだ」 |
とのことである。
藤原氏がライバルの源氏を倒したというのは、969年の安和の変(源高明が藤原氏の陰謀により失脚した政変)を指すようだが、安和の変によって源氏が壊滅したわけではない。博覧強記の井沢氏がご存知ないとは思えないが念のため述べておくと、紫式部が仕えた彰子の母である倫子(道長の正室)は、源雅信の娘である。ついでに言えば、道長の側室である明子は、安和の変で失脚した源高明の娘である。道長の時代、道長一門と源氏は縁戚関係にあり、紫式部が源氏を主人公にした物語を執筆することは不思議でも何でもない。この件に限らず、井沢氏は何でもかんでも怨霊やケガレ、言霊といった呪術的概念で説明してしまう。井沢氏は「歴史学界は宗教を無視している」と批判するが、無視しているのではなく慎重なだけだ。結論ありきで強引に怨霊やケガレに結びつけるのは学問ではない。世間の興味を惹くオカルト的な話をひねり出す前に、常識的・合理的に説明がつかないかどうか検討するのが正道だろう。合理的な説明の余地がなくなって初めて、怨霊やケガレの可能性を考慮すべきである。
3つの問題点
以上の三つの事例から、井沢氏の歴史研究の問題点が浮かび上がる。第一に、安土宗論に関する主張から分かるように、井沢氏は歴史学に関する正確な知識(この場合は、一次史料/二次史料の区別)を持たずに歴史学を批判している。『孫子』の著名な言葉に「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」がある。確かに歴史学の研究手法は万能ではないが、それを批判し新しい方法論を提示するのであれば、まず歴史学の研究手法を正確に知るべきである。一知半解で批判しても、生産的な議論にはならない。井沢氏は研究手法のみならず、歴史学界の研究成果も軽視している。いちいち挙げるとキリがないので紹介は控えるが、近著『日本史真髄』においても、歴史学界ではとっくの昔に否定された古い説を前提に議論している箇所が散見された。井沢氏は『ポスト』5月17日・24日合併号に掲載された東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏との対談で(おそらく私の井沢説批判を念頭に置いて)「重箱の隅を突くように批判されても困ってしまう」と語っている。だが、歴史学は細かい事実解明を積み上げて歴史的真実に迫る学問である。大きく魅力的な「仮説」を提示できれば矛盾や間違いがあっても良いということにはならない。神は細部に宿るのである。第二に、ケガレ移転説に見られるように、自説への批判に正面から向き合おうとしない姿勢である。井沢氏は連載最新の逆説1228回でも、持統天皇の火葬によって「首都流転の解消」が実現したと再説しているが、既述の通り、持統天皇以前に首都流転は解消している。難波遷都・大津遷都時も飛鳥京は第二の首都(『日本書記』は「倭京」と記す)として維持されており(複都制)、飛鳥時代後半に首都の固定化が実現している。井沢氏が私に反論したいのであれば、近年の考古学の成果に対する自身の見解を述べるべきだが、逆説1228回でもその点に全く言及していない。ケガレ移転説の前提であった「首都流転」という従来の事実認識が考古学の成果によって覆ったと具体的に問題点を指摘しているのに、「歴史学界の宗教無視」やら「専門外の人間を見下す権威主義」などと論点をそらされては、まともな議論にならない。逆に言えば、まともな議論をする気など最初からないのだろう。井沢氏は自身の「歴史ノンフィクション」を「日本通史学」と位置づけているが、いやしくも学問を名乗るなら、自説への批判に対して感謝した上で真摯に応答すべきである。
なお、井沢氏が敬愛する故・梅原猛氏はかつて『神々の流竄』(集英社)で出雲王朝虚構説を唱えたが、島根県の荒神谷遺跡などの発掘調査の進展を受けて、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮社)で自説を潔く撤回し、出雲王朝実在説に転じた。井沢氏が梅原氏から学ぶべきは、怨霊史観ではなく、己の誤りを認める誠実さと謙虚さであろう。第三に、『源氏物語』鎮魂説に典型的なように、確からしさより面白さを重視する点である。現代にまで伝わった史料は限られているので、過去の出来事を完全に解明することはできない。したがって、色々な解釈が考えられる局面はしばしば存在する。その時、歴史学者に求められていることは、選択肢の中から、一番ありそうな、最も確からしい解釈を選択することである。だが一番ありそうな解釈というのは、たいてい地味でつまらない。これに対し井沢氏は、読者の意表を突く奇説を提示する。それは歴史学界の通説より意外性があって面白いかもしれないが、歴史学者が思いつかなかったというより、まずあり得ないと思って捨てた考えなのである。
「俗流歴史本」とどう付き合うか
以上3点は井沢氏に限らず、「俗流歴史本」の書き手に共通する問題である。これらの特徴に気をつけていれば、「俗流歴史本」に引っかかることはなくなる。「俗流歴史本」のメッセージはみな同じだ。歴史学の研究手法に則って長年コツコツ研究しなくても、優れた作家が鋭い直感や推理力を働かせれば歴史の本質を捉えることができる。そして、その優れた作家である私が執筆した優れた歴史本さえ読めば、歴史の真実が分かるから、「専門バカ」の歴史学者が書いた本など読む必要はない。だから参考文献リストは不要だ——。そういう本を読めば気持ち良くなれるかもしれないが、自身の成長につながるとは私には思えない。想像の翼を広げて「歴史のロマン」を楽しむことと、歴史を学ぶこととは、明確に区別すべきである。
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