呉座勇一史観考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).7.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「呉座勇一史観考」をものしておく。

 2019(平成31→5.1栄和改元).6.14日 れんだいこ拝


【呉座勇一史観考
 
 出版業界の最重要人物にフォーカスする「ベストセラーズインタビュー」。第97回となる今回は、角川新書より『陰謀の日本中世史』を出版した気鋭の歴史学者・呉座勇一さんです。呉座さんといえば2016年に出版された『応仁の乱』(中公新書)が大ベストセラーとなりましたが、本書『陰謀の日本中世史』も3月9日の発売から4日で重版決定、16日時点で7万5000部まで伸ばしており、2018年注目の一冊になること間違いなし。そんな本書のテーマは「陰謀論メッタ切り」です。私たちがよく一般書やドラマに小説、マンガで触れている日本中世史の話の中には、史料を念入りに洗っていくと、事実とは言えないものがたくさん出てきます。「本能寺の変に黒幕はいた」、「関ヶ原の戦いは家康の陰謀」、「義経は陰謀の犠牲者だった」――こうした陰謀論をロジカルに、そして徹底的に様々な角度から検証することで見えてくるものは、トンデモ説やフェイクニュースが生まれる原点でした。歴史学者の持つ視点やその仕事術は、情報が氾濫する現代に生きる私たちにとっても大いに参考になると感じた今回のインタビュー。本のエッセンスから情報との向きあい方まで幅広くお話を聞いてきました。(取材・文・写真/金井元貴)
 ■構想3年、日本史に蔓延る陰謀論をぶった切る新書がついに登場!

 ――「あとがき」にも書かれていましたが、この本は『応仁の乱』とほぼ同時期に構想を練り始めたそうですね。

呉座:そうです。今から4年以上前になるのですが、角川書店の編集者の岸山さんからお茶に誘われ、新著を書いてくれませんか? と。2人で茶飲み話をしながらテーマを検討していたのですが、その中で「陰謀」という切り口が出てきまして、これは現代の問題にも通じると思ったんです。というのも、ここ数年フェイクニュースや陰謀論が問題になっていますが、あれらはソース、情報の出所が良く分からない。それは歴史研究の世界でも同じで、例えば「本能寺の変」をめぐる議論に、歴史学者はほとんど関わっていないんです。学界の人間は「本能寺の変の黒幕はこいつだ!」みたいな本は書きません。では、誰が書いているのかというと、作家や在野の歴史研究家たちであり、彼らが考えたあやしげなトンデモ説が「新説」として広まってしまっている現状があります。それこそ衝撃を受けたのが、明智憲三郎さん の説ですね。明智光秀の子孫を称している方ですが、『本能寺の変 431年目の真実』で本能寺の変について奇説を展開されています。

 ――ベストセラー(*1)になった本ですね。呉座さんはこの『陰謀の日本中世史』で明智さんの説を徹底的に批判されています。

呉座:そうしないとまずいなと。というのも、おっしゃる通り明智さんの本がベストセラーになっている状況であり、「明智光秀の末裔を称する人が何かおかしなことを言っている」と笑ってはいられない影響力を持ちつつあります。
(*1…『本能寺の変 431年目の真実』は出版元である文芸社のウェブサイトによると現在40万部)

 ただ、学界はこういうことにはノータッチのスタンスですから、いつか誰かがどうにかしないといけないと思っていました。

 ――なるほど。そのような問題意識があって、このテーマで書く必要性を感じられたわけですね。

呉座:それが一つですが、他にもあります。ビジネス誌の「歴史に学ぶ」というような特集で、経営者や識者が歴史小説を推薦図書にあげることがありますよね。“これを読めば歴史が分かる”という文脈で薦められていることも結構多く、問題だなと思っていました。そもそも陰謀論は、小説の延長のようなところがあります。「これはフィクションです」と前置きしていればいいのですが、 作家の中にはフィクションであり、ノンフィクションでもあるような微妙な書き方をされる方もいるんですね。そうすると、読者が「これが真実なんだ」と思ってしまうわけです。一方で、歴史学界が「これはどうなの?」と突っ込むと、「あくまで小説ですから」と言われてしまう。陰謀論はフィクションとノンフィクション、史実と空想の境目が曖昧なところに生まれます。だから、小説のネタとしても使えるし、真実のように話をしても受け入れられるんですね。しかし本来、史実と小説は厳密に区別すべきです。本書で司馬遼太郎の『関ケ原』を批判的に取り上げたのも、そういう問題意識からです。

 ■一次情報でも信ぴょう性がないことも? 「史料批判」の大切さ

 ――よく「正しい情報を見極めるためには一次情報に当たりなさい」と言われますが、この本を読むと「一次情報」の正当性や妥当性、どんなバイアスがかかっているかまで考えないといけないことが分かりますね。

呉座:大学や研究機関に所属している歴史学者と、在野の歴史愛好家の一番の違いは、まさにそこにあります。専門用語で「史料批判」というのですが、歴史学者の仕事は史料の妥当性、正当性、信ぴょう性がどれだけあるかということを厳密に評価することなんですね。もちろん知識も大切ですが、特定の分野に限った知識量だけなら歴女の方々や在野の歴史研究家の方が詳しいことも多いんです。でも、そういった人たちは史料の信ぴょう性を評価しない。結果、信頼できるかどうか分からな いあやしげな史料を信じてしまい、トンデモ説を流布してしまうということが往々にしてあります。

 陰謀論トンデモ説を唱える人は、必ず何かしらの根拠を持ってそれを提唱します。ただ、その根拠となる記述が本当に正しいのか、信頼できるものなのかどうかまで厳密に精査できていません。自分が考えていた説に都合の良い記述があると、それを信じて鵜呑みにしてしまうことってよくありますよね。実はその部分がプロとアマを分かつ最も重要な部分であり、この本で強調している部分でもあるんです。

 ――信ぴょう性の話でいえば、あやふやな医療情報がネット検索のトップに来たり、専門外の医者ががんについての本を書いたりすることが問題になっています。書いた人はどんな人なのか、どの情報に基づいて書かれているのかまでちゃんと考えず、情報を鵜呑みにしてしまっている人も多そうです。

呉座:そこが最も重要なポイントですね。その史料がどのようにして成立したのか、いつ誰が何の目的でつくったのか、そこまで考えないと危ない。特に今のインターネットは玉石混淆で、さまざまな情報がありますし、検索上位にトンデモ情報がきたりするわけですよね。上にあるからといって信ぴょう性があるとは限りません。私が大学で非常勤講師をしていたときは、この情報を精査する力を重要視していました。歴史研究の根本は、「史料批判」を含めて史料をどのように読むかということです。それはつまり、情報の取捨選択をするということであり、玉石混淆の史料の中から正確な情報を引き出すスキルが求められます。これは、現代を生きる我々、特に社会人にとっては不可欠な能力ですよね。だから大学で教えるときも、このスキルを教えないといけないと思っていました。

 ――本書の終章「陰謀論はなぜ人気があるのか」を読んだときに、呉座さんはおそらくこの章を書くために、日本中世史の陰謀論をずっと検証してきたのではないかと思いました。

呉座:まさに終章が最も伝えたいことなのですが、そこだけだとお説教のようになってしまうので、実際にどう論破していくか実例を示していったわけです。ただ、陰謀論だからといって最初から馬鹿にするのではなく、きちんと歴史学的に精査していく、冷静に信ぴょう性を評価していくことに努めました。どんな情報でもそういう態度で対峙すべきですしね。

(中編に続く)

 ■呉座勇一さんプロフィール

 1980(昭和55)年、東京都に生まれる。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。2014年『戦争の日本中世史』(新潮選書)で第12回角川財団学芸賞受賞。『応仁の乱』(中公新書)は47万部突破のベストセラーとなった。他著に『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)がある。


 なぜ、陰謀論がはびこるのか? 本気で論破しまくる本を出した歴史学者が語る怖さ」。
 “本能寺の変に黒幕は......いない!” 歴史本にありがちな陰謀論の数々を、学者が本気でボコボコにする本が最高に痛快だ。「大人げないと私もわかってます。でも、誰かがマジレスしないといけない」。ベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著書であり、『陰謀の日本中世史』(角川新書)を3月に上梓した気鋭の歴史家・呉座勇一さんに話を聞いた。なぜ、マジレスが必要か。なぜ、陰謀論がはびこるのか。

 ――歴史学に照らして「トンデモ」と呼ばれるような説を、マジレスでバッサバッサ斬っていますね。この本を書くきっかけは?

 本屋に行って歴史コーナーを覗くと、フィクションだかノンフィクションだかわからない「歴史エンタテイメント」が山ほど積まれている。そしてそこには、「隠された真実」「メディアが決して報じない」などと帯文が書かれている。徳川家康が明智光秀と提携して織田信長を討った、という「家康黒幕説」があります。丹念に史料を読めば、まるで論理が成り立っていないことがわかる、この説をあつかった本が、出版社の公称で30万部も売れているんです。さすがにまずいんじゃないか。歴史学からのマジレスが必要だ、ということでこの本を書いたんです。Twitterでは、「プロボクサーが喧嘩自慢の不良を殴っている」なんて言われますが、歴史学からすれば事実とはとうてい言えない陰謀論がこれだけ支持を得ているのだから、仕方がないと思っています。この点は本気です(笑)。

 ――たしかに、「本能寺の変の真実」と言われると、私も興味をつい惹かれてしまいます。

 私たち学界にも、陰謀論が出回るようになった責任の一端はあると思っています。そもそも「歴史的事実」が社会でイシューになるのは、近現代の事象が多いんです。南京大虐殺論争や従軍慰安婦問題は、その最たるものでしょう。それは未だに国際政治に影響をもたらす重要事項だからですね。それに比べると前近代の陰謀論については、歴史学者はあまり関心を寄せない。では、なぜプロの研究者たちが学会で「本能寺の変」を取り上げないかというと、明智光秀が謀反を起こした理由を明確に語った信頼できる史料が存在しないからです。決定的な新史料が出てこない限り、光秀の動機は「わからない」し、まして黒幕・協力者がいたかどうかなんて、検討しようがない。史料が少ないので議論は既に出尽くしてしまい、研究のフロンティアがないんですね。だから、歴史学のプロが「本能寺の変」について語ることがなかった。もちろん想像を交えれば、いくらでも話は作れますが、それはもう学問ではありませんからね。しかし、日本史上屈指の英雄である信長がなぜ死ぬことになったのか光秀の後ろで糸を引いた黒幕はいるのか、いるとしたら誰なのか、というのは国民的な関心事なんですね。そこにプロと一般との間に、大きなギャップがあるんです。ミステリーとして「何か裏があるんじゃないか? 真相を知りたい」という需要につけこんで、「みんな騙されているんです。これが本当の歴史なんですよ」と囁き、「みんなが知らないことを知っている私」と読み手を自己満足させるために、ビジネスとして絶えず燃料を投下する。読者の欲求に応えるものを提供しているという意味において、ある種のポルノや、自己啓発本とも近い構図だと思っています。

――歴史への具体的言及だけでなく、「なぜ人は陰謀論に騙されるのか」という普遍的な問題にも触れています。陰謀論という言葉を、「特定の個人ないし組織があらかじめ仕組んだ筋書き通りに歴史が進行したという考え方」と定義していますね。

 陰謀論の特徴は共通しています。因果関係をあまりに単純明快に説明したり、論理の飛躍があったり、結果から逆行してそれらしい原因を求めたり。「教科書には載っていない」と謳って。それは、憶測や妄想を教科書に載せるわけにはいかないからですよ。後世の人間は歴史の結果を知っていますから、「勝者は全てを計算して見抜き、抜かりなく実行したに違いない!」と思いたい。このため、結果的に戦国乱世を勝ち抜いた織田信長は、全てを見通していた大天才と見られがちです。「本能寺の変」に多くの黒幕説が出てくるのも、信長へのある種の英雄願望と、あっけない最期を遂げた明智光秀への過小評価から来ています。つまり、「めちゃくちゃ優秀だった信長が光秀ごときに簡単にやられるわけない! 黒幕・協力者がいるはずだ!」という発想です。でも、現実はそんなに単純じゃない。信長も光秀もすべて先を見通して行動していたなんて、ありえないんですよ。私たちだってそうでしょう?納得しやすい、簡単な因果だけで過去を復元できると考えるのは傲慢だと思うのです。

 ――一方で、歴史は昔から、エンタテイメントを育む素材でもありました。

 私はエンタテイメントは否定しません。でも、今はフィクションだか、ノンフィクションだか、明確でないものが多いとは思います。きちんとした学問的検証の手続きを経ていないものを史実だと騙って売るのは、おかしいですよね。今の陰謀論と昔の陰謀論、一番の違いはここなんです。昔の陰謀論は、自分の正当性を確かなものにするために、プロパガンダとして政治権力が作っていた。だけど今は、お金儲けのために陰謀論を語る、ビジネスとしての陰謀論が多く生まれている。そこが現代的だと思うんです。

 ――マケドニアの少年たちが、政治的な意図を持たず、小遣い稼ぎのためにフェイクニュースを作っていたという話と、似ていますね。

 シュリーマンがトロイの遺跡を発見した例のように、本当にごく稀にそういうこともありますが、それも長年の追跡調査で確かめられること。通説は、さまざまな史料と状況証拠から成り立つものです。たったひとつの文書を見つけたとか、今までと違う解釈を少し試みただけで、いきなり崩せるほど、弱くはないですよ。たとえば、もし本能寺の変に徳川家康が関与していたのが事実なら、学界の通説を覆す大発見ですので、まずは学術論文として発表して、多くの歴史学者に当否を検証してもらうのが筋だと思います。明智憲三郎氏は日本歴史学会の会員だそうですから、論文の投稿は可能なはずです。しかし、学会発表や論文投稿はせずに、一般書の刊行と講演会の開催に専念している。その姿勢には疑問を感じますね。

 徳川家康を黒幕とする説もあるが…

 ――歴史学の営みについて、具体例を挙げていただけますか。

 たとえば、磯田道史さん(国際日本文化研究センター准教授)の『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』は、幕末の頃の、武士の家計帳簿を丹念に調べて、その生活の実態を示し、今まであまり知られていなかった「別の側面を提示した」点が画期的だったと思います。歴史学が明らかにできるのは、過去に起こった膨大な出来事のごく一部でしかないんです。史料を辿り、ほんのごくわずかの「確かなこと」を手掛かりに、因果や背景を紡いでいく地道な作業です。歴史学の発展とは、通説を一気にひっくり返すというものではなくて、膨大な史料を少しずつ読み解いて、未解明の部分に光を当てて行き、「ここまでは解明できた」という範囲を徐々に広げていくイメージです。皆さんが思っているよりも、歴史学はずっと地味な学問なんです(笑) 本当に起こったことであれば、色々な形で痕跡が残るので、様々な史料を読まなくてはならない。この文書がすべてを解き明かす、なんてものはありませんし、この本さえ読めばすべてがわかる、なんてお手軽なものもありません。…。

 陰謀論が受け入れられてしまう背景には、歴史エンタテイメントと歴史学、史実との区別があまり明確になされていないことが大きいと思います。この国で「歴史が好き」というとその実は、「歴史エンタテイメントが好き」ということを指しますね。「司馬遼太郎が好き」だとか。経営者もよく、『竜馬がゆく』や、塩野七生さんの『ローマ人の物語』なんかを挙げているのを見ます。長年読み継がれている良質なエンタテイメントですし、娯楽として消費する分には否定はしません。しかし、歴史的事実をある程度踏まえているとはいえ、フィクションの要素を含んでいることは忘れてはいけないと思います。歴史学と歴史小説は明確に違うものとして読むべきです。ここをゴッチャにしてしまうと、陰謀論に簡単に引っかかってしまうんです。

 ――書籍になった陰謀論という意味では、先の戦争や中国、韓国に触れたものも多いように感じます。

 ひどいですね。あえて名前を出しますが、ケント・ギルバートさんの本のように、史料をまともに読めない素人による極端な妄説が出版され、それが何十万部も売れています。明確にこれは問題だと思います。私たちは、歴史に対して、もっと謙虚でなければならない。「驚きの真実」「隠されていた事実」。そういうものから背を向けて、ひとつずつ、史料や仮説の確からしさを検討していく。謙虚さが必要です。教科書やマスコミが隠蔽しているわけではなく、慎重を期しているだけなんです。そうした歴史研究の難しさが、少しでも伝わればいいな、というのは強く思いますね。


【哲学者=山崎行太郎氏の呉座勇一批判】
 2019.6.30日、京都新聞配信「「陰謀論」にだまされないために 歴史学者・呉座勇一さん語る」。

 北京都政経文化懇話会の6月例会がこのほど、京都府福知山市土師のホテルロイヤルヒル福知山であり、国際日本文化研究センター助教の呉座勇一さんが「陰謀の日本中世史と現代社会」と題して講演した。「本能寺の変」に関する諸説を通して、現代社会で数多く唱えられている「陰謀論」の問題点や、だまされないための姿勢を語った。呉座さんは、戦国武将・明智光秀が主君の織田信長に対して謀叛を起こした背景を巡り、朝廷や将軍足利義昭、イエズス会などが関係していたとする「黒幕説」の存在を紹介。しかし、それらの説は証拠や史料が乏しいと指摘し、「学会では、突発的な単独犯行という見方が通説となっている」と強調した。さらに、こうした陰謀論は、通説よりも単純明快でわかりやすく、歴史に詳しくない大多数の人の支持を得ていると分析。一方、学会側にも問題があるとし、「陰謀論を否定しても学者の業績にはならず、議論が十分に行われていない」とくぎを刺した。現代社会でも、立証困難な疑似科学やフェイクニュースなど、陰謀論に類似した現象が多々あると説明。その上で、陰謀論にだまされないためには「自分に都合のいい情報に疑いの目を向けたり、情報源の信頼性を確認することが重要だ」と説いた。


【哲学者=山崎行太郎氏の呉座勇一批判】
 「哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』」の「歴史学者亡国論(22)★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体」。
 呉座勇一は、著書に『陰謀の日本中世史 』があるように、呉座勇一自身が、かなり「 陰謀論談義」が好きのようで、それを「売り 」にしているようでもある。しかし、私見によれば、呉座勇一の「陰謀論談義 」には、呉座勇一の思想的未熟さを象徴するような、根本的欠陥がある。呉座勇一は、STAP細胞騒動で知られた「小保方晴子事件」や明治時代の超能力スキャンダル「御船千鶴子事件 」も、陰謀論として扱っているように見える。二つの事件とも、私も興味ある事件だったので、少し、調べたことがあるが、私は、呉座勇一とは意見が違う。細かいことは、後で順次、論じていくが、まず、呉座勇一が、何かのインタビューに答えた「 陰謀論 」をめぐる記事があったので、参考資料として以下に引用=掲載しておく。「 そんなことは言っていない 」と言われないために・・・。私は、「 陰謀論 」という言葉を、呉座勇一のように否定的にのみ捉えていない。たとえば、「 田中角栄事件」や「 小沢一郎事件」・・・などは「 陰謀論的考察」や「陰謀論的分析 」にうおって迫るしかない。呉座勇一が信頼を置く歴史的史料であるかもしれない新聞や雑誌、週刊誌・・・などの記事類だけからは、真相は見えてこない。「陰謀論 」を全否定すると、権力者や御用学者たちの罠にハマる。「米国の陰謀 」「ジャパン・ハンドラーズ 」「ウォー・ギルト・インフォメーション・ プログラム」という言葉は、陰謀論的な言語かもしれない。しかし、我々は 、こういう陰謀論的な言葉を使った「陰謀論的思考」によって、多くの戦後史の闇を解明して来たと言っていいのではないのか。江藤淳が『閉ざされた言語空間 』などで言い出した「 ウォー・ギルト・インフォメーション・ プログラム」について、歴史学者の一人である秦郁彦は、最近も「 百田尚樹問題 」で登場してきて、「 陰謀論 」だと切り捨てていたが、私は、その記事を読んで、やはり、「 歴史学者は馬鹿ばかりだなあー(笑) 」と思ったものだ。私は、「歴史学者 」の大先生である秦郁彦が、「 馬鹿で、信用出来ない歴史学者」(笑)だということは、「 沖縄集団自決論争」の時、論証済みである。( 続く)
 「哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』」の
 呉座勇一の著書『 応仁の乱』から『一揆の原理 』『陰謀の日本中世史 』『 戦争の日本中世史』と読んでいって 、そこに「メタフィジック」がないことに気づく。事実や現実や史料や文献を重視するあまり、メタフィジカルな思考が、あたかも妄想や空想の類と、つまり「 陰謀論 」と捉えられているように見える。要するに思想や哲学がないのだ。言い換えれば、存在論や存在論的思考がないのだ。だから、呉座勇一の歴史研究には 、史実や事実や事件しか書かれていない。意味や価値が書かれていない。呉座勇一は、おそらく、それが「歴史学」であり、「 学問としての歴史学 」だと言いたいのだろう。もし、そうだとすれば 歴史学とはみすぼらしい、味気ない学問である と言わなければならない。むろん、歴史は歴史学や歴史学者のためにあるのではない。歴史を深くのために、歴史学や歴史学者があるにすぎない。極論を言うならば 、我々にとって、必要なのは「 歴史 」であって、歴史学や歴史学者などではない。たとえば 、呉座勇一は、陰謀論の見本の一つとして、『 オウム真理教事件』をあげている。「 あたまの良い奴ほど陰謀論にだまされやすい」好例として、オウム真理教事件をあげている。犯人たちの中には、確かに高学歴の若者たちが、沢山いた。しかし、オウム真理教事件を、陰謀論や高学歴問題に「 矮小化」することに、私は、同意できない。オウム真理教事件には、思想問題、宗教問題、哲学問題、つまり、「 メタフィジックな問題」が含まれていたはずである。そこを切り捨て、排除するのが、呉座勇一の「 歴史学」であり「学問としての歴史学 」である。我々が、歴史という学問を「 暗記もの」と言って軽視する所以である。呉座勇一の言う歴史学は、小・中学校や高校で学ぶレベルの歴史学にすぎない。オウム真理教事件が、我々につきつけたものは 、思想問題や宗教問題である。高学歴の青年たちは 陰謀論 に騙されただけなのか。そうではないだろう。それは、信仰や宗教の問題を、宗教社会学に還元することである。そこからは、信仰や宗教問題は抜け落ちている。言い換えれば、呉座勇一の歴史学は、思想問題や宗教問題、哲学問題を取り扱うことが出来ない。だから、呉座勇一を支持するらしいTwitterの住民たちの大半は、戦国ゲームにハマったゲーム青年や「 レキジョ 」である。

 2019.6.13、「「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る」。井沢元彦氏の批判に答えて/呉座勇一/国際日本文化研究センター助教歴史学者
 何が問題になっているのか

 今、書店には歴史学の最新成果を無視して作家などが思いつきを綴った「俗流歴史本」が溢れている。昨今では百田尚樹氏の『日本国紀』(幻冬舎)が何かと話題だが、ここ20~30年ほどで日本史学界に対して最も攻撃的だったのは作家の井沢元彦氏であろう。ただ『逆説の日本史』などの氏の一連の「歴史ノンフィクション」は、史料に基づかない想像を多く交えており、学問的な批判に堪えるものではない。そこで私が朝日新聞に連載したコラムなどで井沢氏の著作に対して苦言を呈したところ、氏が反論してきた(『週刊ポスト』2019年3月15日号掲載、『逆説の日本史』第1218回「井沢仮説を「奇説」「歴史ファンタジー」と侮辱する歴史学者・呉座勇一氏に問う」)。これに対し私は、『週刊ポスト』3月29日号で「井沢元彦氏の公開質問状に答える」という記事を書いた。すると井沢氏が『逆説』1221回で「「公開質問状」への呉座勇一氏の反論を読んで 「仮説」を「推理」と切り捨てる呉座氏の学者にあるまじき態度を糺す」と題する反論を発表した(『ポスト』4月5日号)。私はさらに『ポスト』4月19日号で井沢説の問題点を具体的に指摘した。だが井沢氏はなおも納得がいかなかったようで、『逆説』1221回で私との論争は打ち切ると宣言したにもかかわらず前言を翻し、逆説1227回(『ポスト』6月7日号)・1228回(『ポスト』6月14日号)で、私を「狭量で傲慢」と非難した。私が井沢説を認めようとしないのは、歴史学の専門家でない井沢氏を「身分差別」しているからだという。井沢氏の「仮説」の問題点を具体的に指摘したにもかかわらず、「作家を見下している」と誹謗中傷を受けたのは看過できない。紙幅の関係で『ポスト』では十分に論じられなかった部分も含めて、井沢説の問題点を改めて論じておきたい。それによって「俗流歴史本」の何が問題なのかが浮き彫りになると思う。 

 『信長公記』は「一次史料」ではない

 『逆説』第1218回での井沢元彦氏の主張の一つは、井沢氏が安土宗論(あづちしゅうろん)に関する日本史学界の通説を覆したのに、学界が井沢氏の功績を認めていない、というものだった。安土宗論とは、天正7年(1579)5月27日、織田信長の命令で安土城下の浄厳院(じょうごんいん)で行われた浄土宗と法華宗の宗教討論のことで、浄土宗側が法華宗側を論破したとされる。井沢氏は、織田信長が法華宗を弾圧するために意図的に浄土宗を勝利させたという「歴史学界の通説」(以下、井沢氏に倣って「八百長説」と略記)を批判し、安土宗論が八百長ではないことを明らかにしたのは自分であると誇っている。しかし井沢氏の「功績」とやらは、「八百長説」を批判した浄土宗の僧侶だった林彦明の論文(1933年)を『逆説』の中で紹介した、という点に留まる。仮に林説が正しかったとしても、功績があるのは提唱者の林であり、紹介者の井沢氏ではない。

 井沢説(林説)は、『信長公記』の記述が安土宗論の真実を伝えているという認識が前提になっている。つまり、『信長公記』を読む限り、浄土宗側が法華宗側を論破しているように見える、というだけの話である。一方で、『安土問答実録』など法華宗側の史料では、信長が意図的に浄土宗側を勝たせたと記されており、これが「八百長説」の発端になっている。井沢氏は逆説1227回で、二次史料である『安土問答実録』よりも、一次史料である太田牛一の『信長公記』やルイス・フロイスの『日本史』の方が信頼できる、と反論している。だが『信長公記』や『日本史』は一次史料ではない。歴史学における一次史料というのは、事件を見聞した当事者が事件発生とほぼ同時に作成した史料のことである。安土宗論の場合、たとえば山科言経の日記『言経卿記(ときつねきょうき)』天正七年五月二十七日条・六月二日条、(天正七年)五月二十八日織田信長朱印状(『知恩院文書』)などがこれに当たる。他方で『信長公記』の著者である太田牛一は織田信長に仕えており、信長の生前から備忘録をつけていたと推測されているが(現存せず)、備忘録などを元に『信長公記』を執筆し始めたのは豊臣秀吉が天下人になって以降と考えられるので、『信長公記』は後に編纂された二次史料である。フロイスの『日本史』も同様に二次史料である。

 このような基本的知識すら持っていない人と史料解釈をめぐる論争をしても不毛であるが、そう言ってもいられない。井沢説の根本的な問題点を一つだけ掲げておく。当時の法華宗が信者獲得のために積極的に他宗に宗論を仕掛けていたこと、他宗に対して攻撃的な法華宗の布教姿勢を織田信長が問題視していたことは、井沢氏も『逆説の日本史10 戦国覇王編』(小学館)で認めている。安土宗論を行えば、宗論を得意とする法華宗が勝つ確率の方が高く、法華宗が勝つことは信長にとって不都合である。にもかかわらず、なぜ信長は宗論の開催を認め、あまつさえ甥の津田信澄を名代として派遣するなど、積極的に関与したのか。信長主催の安土宗論で法華宗が勝てば、信長が法華宗にお墨付きを与えることになる。それが分かっていて、全くの無為無策、出たとこ勝負で信長は宗論に臨んだ、と井沢氏は考えているのだろうか。それでは信長は公正というより、あまりにお人好しすぎるように思うのだが、いかがだろうか。

 「ケガレ移転説」の問題点

 次の論点に移ろう。井沢氏は「持統天皇の宗教改革によって日本で首都固定が可能になった」という説を主張している。『逆説』1221回にこの説が要約されているので、引用させていただく。

 「古代において天皇一代ごとに首都が移転していたのは、死をケガレとする神道の信仰に基づく行為であった。ところが、それではいつまでたっても持続的な投資ができず国が発展しないと考えた持統天皇は、一部仏教の考え方を取り入れ遺体を火葬にすることによってケガレは除去されたと考えるように命じた。そして首都自体も中国式に改めた。その大英断によって最終的に日本の首都は固定の方向に向かい、最終的に奈良の都でそれが確定された」

 とのことである。この説の問題点は既に『週刊ポスト』4月19日号で指摘したが、その骨子を改めて示そう。ケガレ移転説は昔、歴史学界でも唱えられたことがあった。しかし考古学の発掘調査の進展の結果、持統天皇が即位する以前、飛鳥時代の後半には大王(天皇)の正宮が飛鳥京に固定化していたことが明らかになった。井沢氏は694年の持統天皇による藤原京遷都をもって日本が「首都移転時代」から「首都固定時代」に移行したと論じている。けれども近年の考古学の成果に従えば、飛鳥時代後半は既に「首都固定時代」だったということになるのだ。もともとケガレ移転説は、都がコロコロ移転しているという事実認識を前提に、この不可思議な現象を説明するために登場した。もし天皇の代替わりごとに既存の王宮を放棄して、別の場所でインフラの整備など街作りを一からやり直していたとしたら、著しく不合理であり、政治的・経済的な説明が困難だからである。だが当該期に過去の王宮の増改築・再利用などが多く見られることが判明した以上、ケガレ移転説のような無理な説明はもはや必要ない。もちろん難波遷都・大津遷都などに見られるように遷宮が消滅したわけではないが、政治的な要因で説明可能である。どうしても井沢氏が自説を堅持したいのなら、「〇〇宮から□□宮への遷宮はケガレが原因」といった形で、当該期に天皇代替わり(天皇崩御)を理由にしたと推定できる遷宮を一つひとつ列挙していくべきだろう。そうした地道な作業をせずに「日本歴史学界は宗教を無視している」などというレッテル貼りに走ることは許容できない。

 ついでに、紙幅の関係で『週刊ポスト』4月19日号に触れられなかったことを一点指摘しておく。天武天皇が亡くなったのは686年、皇太子の草壁皇子の死去を受けて持統天皇が即位したのが689年、持統天皇が藤原京に遷都したのは694年である。藤原京遷都まで、天武天皇が亡くなった飛鳥浄御原宮を持統天皇は使い続けた。天皇が亡くなると(天皇を火葬しない限り)ケガレによって宮が使えなくなるという井沢説が正しければ、持統天皇はなぜ8年間も飛鳥浄御原宮を使い続けたのだろうか。藤原京が完成していないから仕方ないと井沢氏は抗弁するかもしれないが、この時期には飛鳥浄御原宮以外に仮宮(臨時の宮)が存在する。ケガレが怖いのなら持統天皇は仮宮に遷宮したはずだ。これまた井沢説では説明できない事象である。

 『源氏物語』は「源氏鎮魂の書」か?

 さて井沢氏は近著『日本史真髄』(小学館)で、『源氏物語』は源氏鎮魂の書であるとの「仮説」を唱えている。『逆説』1228回にその要旨が記されているので、引用させていただく。

 「日本の平安時代、藤原氏はライバルの源氏を倒した後、その源氏の若者がヒーローとなって、あきらかに藤原氏と見られる一族に勝利する物語を、自分の陣営に属する女官紫式部に書かせた。『源氏物語』である。世界の常識であり得ないことが、日本ではある。それは無念の思いを抱いて死んだ敗者は丁重に鎮魂しなければならないという、怨霊信仰が日本の宗教の基本(その一つ)だからだ」

 とのことである。

 藤原氏がライバルの源氏を倒したというのは、969年の安和の変(源高明が藤原氏の陰謀により失脚した政変)を指すようだが、安和の変によって源氏が壊滅したわけではない。博覧強記の井沢氏がご存知ないとは思えないが念のため述べておくと、紫式部が仕えた彰子の母である倫子(道長の正室)は、源雅信の娘である。ついでに言えば、道長の側室である明子は、安和の変で失脚した源高明の娘である。道長の時代、道長一門と源氏は縁戚関係にあり、紫式部が源氏を主人公にした物語を執筆することは不思議でも何でもない。この件に限らず、井沢氏は何でもかんでも怨霊やケガレ、言霊といった呪術的概念で説明してしまう。井沢氏は「歴史学界は宗教を無視している」と批判するが、無視しているのではなく慎重なだけだ。結論ありきで強引に怨霊やケガレに結びつけるのは学問ではない。世間の興味を惹くオカルト的な話をひねり出す前に、常識的・合理的に説明がつかないかどうか検討するのが正道だろう。合理的な説明の余地がなくなって初めて、怨霊やケガレの可能性を考慮すべきである。

 3つの問題点

 以上の三つの事例から、井沢氏の歴史研究の問題点が浮かび上がる。第一に、安土宗論に関する主張から分かるように、井沢氏は歴史学に関する正確な知識(この場合は、一次史料/二次史料の区別)を持たずに歴史学を批判している。『孫子』の著名な言葉に「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」がある。確かに歴史学の研究手法は万能ではないが、それを批判し新しい方法論を提示するのであれば、まず歴史学の研究手法を正確に知るべきである。一知半解で批判しても、生産的な議論にはならない。井沢氏は研究手法のみならず、歴史学界の研究成果も軽視している。いちいち挙げるとキリがないので紹介は控えるが、近著『日本史真髄』においても、歴史学界ではとっくの昔に否定された古い説を前提に議論している箇所が散見された。井沢氏は『ポスト』5月17日・24日合併号に掲載された東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏との対談で(おそらく私の井沢説批判を念頭に置いて)「重箱の隅を突くように批判されても困ってしまう」と語っている。だが、歴史学は細かい事実解明を積み上げて歴史的真実に迫る学問である。大きく魅力的な「仮説」を提示できれば矛盾や間違いがあっても良いということにはならない。神は細部に宿るのである。第二に、ケガレ移転説に見られるように、自説への批判に正面から向き合おうとしない姿勢である。井沢氏は連載最新の逆説1228回でも、持統天皇の火葬によって「首都流転の解消」が実現したと再説しているが、既述の通り、持統天皇以前に首都流転は解消している。難波遷都・大津遷都時も飛鳥京は第二の首都(『日本書記』は「倭京」と記す)として維持されており(複都制)、飛鳥時代後半に首都の固定化が実現している。井沢氏が私に反論したいのであれば、近年の考古学の成果に対する自身の見解を述べるべきだが、逆説1228回でもその点に全く言及していない。ケガレ移転説の前提であった「首都流転」という従来の事実認識が考古学の成果によって覆ったと具体的に問題点を指摘しているのに、「歴史学界の宗教無視」やら「専門外の人間を見下す権威主義」などと論点をそらされては、まともな議論にならない。逆に言えば、まともな議論をする気など最初からないのだろう。井沢氏は自身の「歴史ノンフィクション」を「日本通史学」と位置づけているが、いやしくも学問を名乗るなら、自説への批判に対して感謝した上で真摯に応答すべきである。

 なお、井沢氏が敬愛する故・梅原猛氏はかつて『神々の流竄』(集英社)で出雲王朝虚構説を唱えたが、島根県の荒神谷遺跡などの発掘調査の進展を受けて、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮社)で自説を潔く撤回し、出雲王朝実在説に転じた。井沢氏が梅原氏から学ぶべきは、怨霊史観ではなく、己の誤りを認める誠実さと謙虚さであろう。第三に、『源氏物語』鎮魂説に典型的なように、確からしさより面白さを重視する点である。現代にまで伝わった史料は限られているので、過去の出来事を完全に解明することはできない。したがって、色々な解釈が考えられる局面はしばしば存在する。その時、歴史学者に求められていることは、選択肢の中から、一番ありそうな、最も確からしい解釈を選択することである。だが一番ありそうな解釈というのは、たいてい地味でつまらない。これに対し井沢氏は、読者の意表を突く奇説を提示する。それは歴史学界の通説より意外性があって面白いかもしれないが、歴史学者が思いつかなかったというより、まずあり得ないと思って捨てた考えなのである。

 「俗流歴史本」とどう付き合うか

 以上3点は井沢氏に限らず、「俗流歴史本」の書き手に共通する問題である。これらの特徴に気をつけていれば、「俗流歴史本」に引っかかることはなくなる。「俗流歴史本」のメッセージはみな同じだ。歴史学の研究手法に則って長年コツコツ研究しなくても、優れた作家が鋭い直感や推理力を働かせれば歴史の本質を捉えることができる。そして、その優れた作家である私が執筆した優れた歴史本さえ読めば、歴史の真実が分かるから、「専門バカ」の歴史学者が書いた本など読む必要はない。だから参考文献リストは不要だ——。そういう本を読めば気持ち良くなれるかもしれないが、自身の成長につながるとは私には思えない。想像の翼を広げて「歴史のロマン」を楽しむことと、歴史を学ぶこととは、明確に区別すべきである。


 2019年03月20日、八幡 和郎呉座 VS 井沢:歴史学者だけが歴史家なのか?」。
 週刊ポスト(3月15日号)誌上での井沢元彦氏の公開質問状に対して、呉座先生が今週発売の29日号で大反論。素晴らしい出来である。果たして週刊ポストが呉座氏の反論をきちんと扱うか心配していたが、表紙にも「作家vs学者の歴史大論争 応仁の乱 呉座勇一 反論寄稿 井沢元彦氏の『公開質問状』に答えよう」と出ているのは、呉座氏の反論の質の高さによる。このあたり、呉座氏が単なる学者でなく、46万部の大ベストセラー作家でもある実力の証であろう。ぜひ、井沢氏も負けずに次号の表紙に見出しが掲載されるような再反論を書いて欲しい。前回の公開質問状は、表紙にも新聞広告にもまったく紹介されず編集部から軽く扱われた。それがこうして大論争らしくなっているのは、呉座氏が真摯に高い質の回答をされたがゆえであろう。ただ、呉座氏の反論がすべての点において素晴らしいかといえば、疑問もある。やはり、学者としての自分の土俵の論理であって、一般読者に説得力があるかどうかといえば、やや不満足である。

 実は、この前、私が「呉座氏の学者としてのプライドは素晴らしいが」のなかで、「私は歴史学者をそれほどひどく罵倒しているわけでもないので、百田・井沢・久野氏と十把一絡げに批判されても困ってしまう。そこのところは、軽く苦言を呈しておきたい」と書いたら、FBのタイムラインに呉座先生から、「なるほど、『私は歴史学者をそれほどひどく罵倒しているわけでもない』つもりなんですね。良く分かりました」というコメントを私がかつてどっかのコメントで「歴史学者なんぞ政治も経済も基礎知識がない素人ですから」と書いたもののスクショが添えられてあった。なんでも5年ほど前のものらしいのだが、さすが、歴史学者と見つけてこられた調査力に驚いた。それに対しては、私は、次のように書いておいた。

「私が呉座先生の専門である文献史学について素人であるのと同じです。呉座先生は資料を分析し評価するプロとしての技術や見識をお持ちですが、その分析対象の政治、外交、経済については素人です。当たり前のことです」

「一般的な知識としてもそうですし、現実に中国や韓国の政府と厳しい交渉をしてきた経験は過去の同様の交渉を分析し評価するときにはかなりものをいいます。中央政府と地方自治体の関係はたとえば幕府と大名の関係を分析するときに力になります。武士の発想は現代の公務員の発想に実に似てます」

「百田氏や井沢氏のように歴史学者になんの価値もないようなことをいうのは賛成できませんがそれと一緒にされても困ります。また、官僚が官僚批判を聞いて腹も立つし、いかに何でもあんまりと思うことも多々ありますが、官僚批判を枕詞として使うくらいは我慢しますw」

 ここで文献史学と私はいったが、呉座氏の週刊ポスト反論の言葉を借りれば、「史料を読む能力、そして史料を見つける能力は小説家より上である」のはそのとおりである。しかし、それだけである。ほかの分野にはそれぞれ専門家がいる。ところが、文献史学にしろ考古学にしろ、学者は、自分たちが歴史家の本流だと勝手に決めてかかっている。だが、これは二重に間違っている。まず、学問領域として歴史を解き明かすためには、それ以外のさまざまな専門家も関与しなければならない。もうひとつは、歴史というものが世の中のためで何か役にたつためには、学者の世界で優勢であればいいのではない。世の中でどう判断するかが大事なのだ。それに似た議論はほかの学問でも多い。医学で学会で主流になることより大事なのは、医療現場で採用されることだろう。憲法学者の7割が自衛隊は憲法違反だとしているが、それが通説だと頑張ってみたところで、世の中では極めて小さい意味しか持っていない。歴史をなぜ人々は学ぶかといえば、もちろん、真実を知るとかいうこと自体に意味がないわけでないが、もっと重要なのは現実の政治や経済や生き方を考えるために役に立てるためだ。そうであれば、学者だって、学会で認められること以上に、世の中で認められることにもっと価値の重点を置くべきだと思う。

 呉座氏は、安土宗論について井沢氏のおかげで正しい説が知られるようになったとしても、それは、「歴史ライター」としての功績であって、「歴史研究者」としての功績ではないと切り捨てているが、歴史研究者も歴史ライターもいずれも歴史家であって、優劣はないと私は思う。井沢氏が呉座氏が所属する国際日本文化研究センター(日文研)について、その創設者の梅原猛氏が学者バカを嫌って日文研を創設したのに、呉座氏が正反対の立場で井沢氏を攻撃していると怒っていることにも、呉座氏は立派な反論をしている。最近の歴史学者は昔ほど宗教を開始していないとか、日文研では異業種交流で研究会に作家も呼んでることもあるとかいうことだ。それは結構だが、研究活動という土俵に異業種の人を呼んでいるということであって、異業種の人に学問成果を売り込むことは自分たちの仕事でないというように考えているように見える。しかし、それは、正しいだろうか。新しい薬を考案した研究者にとって、それを使ってもらう努力をすることは、大事な仕事だと思う。梅原氏は、論文を書いて学会で発表もしたが、一般の啓蒙にはことさら熱心で、日文研の研究者には地元の小学校で授業をすることを義務づけたり、自らも、孫の通う洛南中・高校で倫理の科目を自ら教員として年間を通じて教え、それを出版したりもしていたではないか。

 呉座氏は、また、たとえば、本能寺の変の動機をうんぬんすることは、あまり意味がなく、結果が大事だという。はたしてそうなのだろうか。人々がなぜ明智光秀が、本能寺の変を起こしたかを知りたがるのは、たんなる興味本位ではない。それを知ることで、世の中の動きを予想したり、あるいは、自分と部下や上司の関係のヒントにしようという意味合いも大きい。そういう意味において、光秀の動機を議論し探求することは意味のないことではないのだ。もちろん、井沢氏の『逆説の日本史』のとっている奇説はあまり好きでない。そもそも私の歴史本でよく使うのは、『◯◯に謎はない』というタイトルだ。呉座氏にはぜひとも、つまらんといわずに、井沢氏の「奇説」を反論の余地がないまでに論破していくことも大事な仕事だと考えてもらいたいところだ。週刊ポスト記事の後半にある安土宗論についての丁寧な反論に井沢氏がどう答えるか楽しみだ。ぜひとも、モハメッド・アリとアントニオ猪木の異種目格闘技みたいなすれ違いは誰も期待していない。





(私論.私見)