吉野大峰熊野霊域考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.26日

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  更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.26日




【丹生川上神社】
 「ウィキペディア丹生川上神社」その他参照。

 丹生川上(にうかわかみ)神社は奈良県吉野郡東吉野村にある神社。式内社名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社

 現在の祭神は、1922(大正11)年にそれまでの「大穴貴神、表筒男命、伊邪奈伎命」を変更したもので以下の通り。本殿と東殿・西殿の三殿を中心として各殿に神々を祀る。本殿/罔象女神(みずはのめのかみ)。相殿に伊邪奈岐命・伊邪奈美命。東殿/大日孁貴命・八意思兼命・誉田別命。西殿/開化天皇・上筒男神・大国主命・事代主命・綿津見神・菅原道真公。

 895(寛平7)年の太政官符(「類聚三代格」所収)に、当時の丹生川上神社の祝や禰宜の解を引き、名神本紀に「675(白鳳4)年、人の声の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬き祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむとの神宣により創祀された」と記されているとしている。吉田兼倶撰といわれる二十二社注式には、吉野と浅からぬ関係にあった天武天皇の白鳳乙亥年(4年)に垂迹し創祀され、大和神社の別宮になったと記されている。社伝に因れば、鎮座地は神武天皇が天神の教示によって天神地祇を祀り、戦勝を占った地であり、675(白鳳4)年、罔象女神を御手濯(みたらし)川(高見川)南岸の現摂社丹生神社の地に奉斎し、その後現在地に遷座したものと伝える。

 古来大和神社(天理市鎮座)の別社とされ、祈止雨の霊験著しい雨師神として朝廷から重んじられ、773(宝亀4)年には神戸4烟が充てられている(続日本紀)。律令制時代を通じて祈雨神祭祭神に預かり、祈止雨祈願のために貴布禰社とともに奉幣がなされた例は枚挙に遑がないが、その折には奉幣使に大和神社の神主が従う定めとされていた延喜式神名帳では官幣大社(名神大社)に列格し、律令制の弛緩に際しても、二十二社の一社にもなるなど朝廷からの厚い崇敬は変わらなかった。平安時代初め頃から「雨師明神」、「龗神(おかみのかみ)」と称され、江戸時代からは「蟻通明神」とも称された。祈雨の神として二十二社の一つに数えられる。祈雨祈願には黒馬を、止雨祈願には赤馬か白馬を献上した事より絵馬の起源とも言われる。萬歳旗に刺繍されている鮎と川は、神武天皇が大和盆地を攻め入る前に、丹生川で魚で戦勝占いをしたという(鮎)伝説からだと言われている。応仁の乱の頃までに96回朝廷の奉弊祈願されるも、応仁の乱以降は次第に奉幣も減少するなど衰微していき、ついにその所在すら不明となるに至った。

 近世以降、神名帳の研究が盛んになり、特に式内社の所在地が問題とされるようになると、まず丹生川上神社下社が式内大社丹生川上神社に比定され、次いで明治に入って上社が比定されたが、1915(大正4)年、森口奈良吉が丹生川上神社考を著し、明治以降郷社に列していた当神社が式内丹生川上神社であることを考証し、その後の調査でそれが立証されたため、同11年、社名を「蟻通神社」から「丹生川上神社」に改称、上下二社に対して「中社」を称するとともに、三社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」として社務所が置かれるなど、「中社」がその中心に位置づけられた。第二次大戦後の官制廃止にともなって、1952(昭和27)年、吉野郡川上村の丹生川上神社上社、同下市町の丹生川上神社下社、同東吉野村の丹生川上神社中社の三社がそれぞれ独立し別の川上神社となっている。かく歴史に翻弄されている。

 「中社」は現在神社本庁に属して、その別表神社とされている。 社伝では中世以降たびたび造改築されたことが伝えられており、「中社」所蔵の1650(慶安3)年の造営の上梁文には、当初の鎮座地に丹生神社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎮守神に倣って「蟻通明神」と改称した旨が記されている。
 神階

 弘仁9年(818年)に従五位下が授けられ(『日本紀略』所引『続日本紀』)、その後承和7年(840年)正五位下、同10年従四位下(以上『続日本紀』)、嘉祥3年(850年)正四位下(『文徳天皇実録』)、貞観元年(859年)従三位、元慶元年(877年)正三位へと累進した(以上『日本三代実録』)。ちなみに、『大倭神社注進状』には、寛平9年(897年)に従二位へ昇ったと記されている。

 祀官

 中世以来安土桃山時代まで小川氏が神主職を襲い、また別当寺院として金剛峯寺末寺の摩尼山大乗院が奉仕してきた。小川氏は当地一帯(小川郷)の領主と宇陀郡雨師荘の荘官を兼帯し(従って同荘に鎮座する式内丹生神社をも所管した)、在地領主として勢力を誇った(南北朝時代には北畠氏に属し、また長禄2年(1458年)の神璽奪還(長禄の変)に活躍した小川弘光が著名である)が、天正6年(1578年)に筒井順慶に屈してから衰退し、同15年(1587年)に断絶した。以後、江戸時代を通じて大乗院が専管したが、これも明治5年に廃された。

 社殿

 本殿は三間社流造で南面し、その左右に配祀神を祀る東殿・西殿が建つ。東西両殿はそれぞれ、一間社流造の3宇を相の間で接続した正面5間側面1間の流造の形式となっている。また、本殿から石段による渡殿が、正面3間側面2間入母屋造平入の拝殿まで続く。以上いずれも檜皮葺で、本殿は文政12年(1829年)の、他も文政11年から天保元年(1828-30年)までの造替にかかるものである。
 摂社丹生神社/祭神:弥都波能売命

 御手洗川対岸の旧社地に鎮座するため「本宮」とも称される。本殿は春日造板葺。
上述慶安3年の上梁文によると、この時に鎮座したことになる。ちなみに、大正4年の「神社祭神変更並に社名変更許可書」に、当社の「御霊代ヲ本社ニ奉遷シ、丹生神社ニハ適当ノ御霊代ヲ奉安スルコト」とある。
 末社東照宮神社 / 祭神:徳川家康公
 末社 /木霊神社 / 祭神:五十猛命。昭和57年(1982年)に伊太祁曽神社(和歌山県和歌山市)から勧請して創祀。
 主な祭事
  • 例祭(10月16日) - 以前は旧暦9月16日に行われたが、大正11年に改めた。「壇尻(だんじり)祭」「小川祭」とも称し、氏子区内から8基の太鼓台が繰り出し、境内を乱舞する。大和三大祭りの一つである。




(私論.私見)