淀江・三輪神社考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).2.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「淀江・三輪神社考」をものしておく。 2010.07.11日 れんだいこ拝 |
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【伯耆国の三輪神社考】 |
三輪神社は全国に数多いが、米子市淀江の三輪神社は別格で、大和国の大神神社との殊の外深いつながりが認められる。境内の資料館「想風館」の掲示資料によれば、紀元前90年、大和国の大神神社の御分霊を勧進してきたとある。873年、従五位下を賜る。1645年、現在の地に遷座する。かつての三輪神社は現在より800m程大山よりに位置していた(大山山頂より直線で約10km)そうで、大山の修験との関係も推せられる。但し、戦災などで記録が失われており不詳となっている。 「伯耆国の三輪神社は邪馬台国女王卑弥呼誕生の地」とする言い伝えがある。これを確認するのに、倭の大乱後、大和・出雲双方の代表が集り和平を希求した。AD185年、卑弥呼が大和 、出雲の双方に共立されて連合国女王に擁立されることで倭の大乱が終結された。「大和の倭迹迹日百襲姫が出雲の大物主の妻となる儀式により卑弥呼として即位した」との説もある。終結の儀式は、出雲の隣で、冬至の日に(三輪山に見立てた)大山山頂から昇る朝日を受けて行われた。この故事に基づき、三輪神社には、冬至の日に大山山頂から昇る朝日を拝む神事や、天の真名井にかかわる若水汲などの神事がある。いずれも卑弥呼誕生にかかわる儀式だ。これにより「淀江の三輪神社(旧社地)は、「邪馬台国女王卑弥呼誕生の地」として崇敬されている。この故事により、この地は大和朝廷の聖地となっている。 AD249(崇神天皇7)年、淀江三輪神社は、大和三輪山から勧請されて創建(鳥取県神社誌)された。大和朝廷による三輪山祭祀が大田々根子に託され始まったのが崇神天皇7年なので同時期になる。この年、諸国に疫病が流行り、崇神天皇が夢のお告げによって大神神社の祭神を祭らせたところ疫病が鎮まった。そこで天皇は、大神神社の分霊を諸国に移して祭らせ、 淀江の三輪神社もそのうちのひとつ(伯耆国の三輪神)と云われている。 大和三輪山の分霊を祀ることになった際、この聖地(三輪神社・旧社地)に領地を付け、毎年4.19日、米子市淀江・三輪神社に、大和三輪山・大神神社から2頭の狼(オオカミ、大神)が春祭りに遣わされ、秋祭り(10/19)に帰る、とされる謎に満ちた神事が執り行われる。「これが最古の疫病封じ神事かもしれない」と云われている。これを「狼神事」と云う。であるとするならば、伯耆国の三輪神社の歴史はそれよりも古く、他の三輪神社とは別格となる。 狼神事は、その別格さを物語っているのではないか? http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/amenomanai_2bu.htm... オオカミ神事の取材は @wolfmuzzle1さんで、ブログは http://oinuwolf.blog.fc2.com/blog-category-43.html |
以前、三輪神社一帯の佐陀・中間・小波・平岡の四地区を合わせて「大和村」と呼んでいた。三輪神社の氏神が大和とつながっている由緒に基づいてる。(現在、淀江公民館大和分館
、市立大和保育園、、大和郵便局、そして公園運動広場が「大和」の名前を残している) この四地区は三輪神社の荘園(大和の直轄地)として関わっていたものと思われる。「広報よなご(2014年2月 №107 最終頁)」によると、三輪神社は昔は、阿弥陀川 から日野川に至る 51カ村の総氏神だった。壮麗な社殿や大鳥居、三重塔のある神宮寺などが立ち並んでいた時期もあったという。その後、直轄の荘園が地頭らによって奪われ、又兵火で施設も焼失し没落していった。現在の三輪神社の佇まいを見ると、とても信じられないが、かつては大和朝廷の聖地であったという痕跡が、旧・大和村という名称と共に残っている。 |
(私論.私見)
奈良県明日香村の飛鳥歴史公園「甘樫丘(あまかしのおか)」。甘樫丘は飛鳥川西岸にある標高148mの丘陵。展望広場では眼下に飛鳥古京(明日香村)の集落や藤原宮跡(橿原市)をはじめ、たたなづく青垣を望める。遠くに金剛山や葛城山、二上山、近景には大和三山など大和国原の美しい風景が広がり一望できる。丘に続く約2.3㎞の園路の一部には、万葉集や古事記、日本書紀に詠われた40種の万葉植物があり四季折々に観察しながら散策が楽しめる。飛鳥の里へと繰り出し歴史を感じる古代日本の一等地といわれる甘樫丘へ、蘇我氏の邸宅があり645年の「乙巳の変(大化の改新)」の舞台となったとされる場所に立つと、歴史の重み。
美和神社
善光寺七社の一社。
長野市内では珍しい三輪鳥居が迎えてくれる。
境内には境内百末社が立ち並び、この石祠群の神々に祝膳を捧げる越年祭は特殊神事だと言われる。
写真は数年前「節分祭・福寿豆撒き式」に来席された岩下志麻さんです。日本を代表する女優の岩下志麻さんは、東京府東京市京橋区銀座生まれ。本名は篠田志麻で、俳優の野々村潔と元新劇女優である山岸美代子の長女として生まれた。四代目河原崎長十郎は義理の伯父に当たり、旦那さんは映画監督の篠田正浩で、松竹の看板女優の一人として活躍されました。これまでの議論において、文献だけで卑弥呼神社などの史跡がないことが問題となってきた。
ここで、大阪住吉大社に注目したい。年表冒頭によると
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〇211年※神功皇后摂政11年神功皇后、住吉大神を住吉の地に鎮斎(帝王編年記)
注釈※ 住吉大社鎮座伝承における神功皇后摂政十一辛卯年は『帝王編年記』によって推定される西暦を記載する。
実年代の表記については、学術的議論を含むものがあるが、以降の記事においてもこれに準じた。
〇313年仁徳天皇元年仁徳天皇、難波高津宮に都を定め、この頃に住吉津が定められる (日本書紀)以下省略
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以上の記録から見て、魏志倭人伝の作成より古い創建であることが推定される。
次に、住吉大社の位置と灯台跡の遺跡に注目すると。
社殿は、現在の大阪湾から離れた内陸に位置し、灯台があったことから、創建時は沿岸にあったことがわかる。
ここで、1800年前は河内湖が存在し、海岸線が内陸にまであったことと、法隆寺や奈良に通じる旧大和川の入り江だったことまでわかっている。。(参考図は600年ごろ)
文献記録と社殿及び灯台(鎌倉時代?)の遺跡、そして地形の変遷の4点から、神功皇后なる女帝の存在が真実味を帯びてくる。
大陸では卑弥呼と表記されても不思議はない。
さらに応神・仁徳御陵などの巨大古墳群もすぐそばにあり、この地域は時代は異なるものの、それなりの規模だったこともわかる。