諸氏のニギハヤヒ王朝論考

 更新日/2018(平成30).3.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、諸氏のニギハヤヒ王朝論を確認しておく。

 2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝


【大歳尊と父須佐之男尊の出自と系譜】
 「第4章大和建国の覇王大歳(饒速日)尊-1」を参照する。
 原田常治氏は、スサノオ尊やオオトシ尊(ニギハヤヒ尊)ら出雲族には何代も後まで日本名とは別に蒙古系の名前が残っているという。そして、これは日本人の先祖は満州・蒙古系のモンゴリアン民族で、出雲族は朝鮮(韓)民族のいた朝鮮南部経由ではなく、北満・北鮮から隠岐島ー出雲ルートで移住してきた民族である証拠だと云う。

 8世紀に女帝鵜野讃良(持統女帝)と、記紀の編者らが日向の伊弉諾尊の娘向津姫を天照大神として創作し書き換えた。皇祖天照魂神の神号の横領である。これに連動する形で天照大神を祀る伊勢神宮、大国主を祀る出雲大社が記紀の記述に合わせて8世紀に創建された。この動きに合わせてニギハヤヒの日本建国の史実が抹殺され神社の神名まで改竄されている。

 先立つこと、記紀編纂前の668年3月、近江に朝廷を構えた天智天皇は、大和朝廷の守護神ニギハヤヒを奈良の大神神社から近江一の宮「日吉大社」に勧請された。ニギハヤヒは、本来の皇祖天照御魂大神だったからである。

 記紀は、古代和国(倭国)の覇王スサノオ、大和国建国の始祖王ニギハヤヒの史実を神話でぼやかし、正しく伝えないばかりか、日向のイザナギの娘向津姫(大日霊貴)を皇祖天照大神にすり替えた。だから、国民はいまだに天照大神は女神だと思っている。国生みの親神スサノオ、オオトシ(ニギハヤヒ)の偉業は大国主の業績に重なっている。大国主(大穴牟遲命)は死後、八百年も経った霊亀二(716)年、巨費を投じて創建された出雲大社に祀られた。オオクニヌシは恵比寿さまと並ぶ大黒さまとして、人望の高い神様として崇敬されている。

 七~八世紀、百済族に乗っ取られた飛鳥朝廷のもと、黒幕の権力者藤原不比等のもとで編纂された記紀は、スサノオの創った和国、ニギハヤヒの日本王朝大和国の史実を抹殺した。記紀編纂の途中、女帝鵜野讃良(百済王の子翹岐=書紀名中大兄:天智天皇の娘)は都合よく整合させるため、691年、日本で最も古いとされる大神神社と石上神宮の古文書をはじめ、豪族16家の系図(墓記)を提出させ没収した。そして、スサノオ・ニギハヤヒを祀っていた全国多数の神社の縁起や祭神名までも書き換えさせた。また江戸時代以降の日本政府は、太平洋戦争終結まで記紀記述を正統とする皇国史観に拘った。しかし、記紀の成立以前に創建された多くの神社や地名が生きた化石として残っている。その縁起や伝承、古史古文が史実を今に伝えてくれる。

 新たに発掘される考古資料、C14(放射線炭素)の減衰法則を駆使した遺跡・遺物の年代特定、そしてコンピュータ画像解析による墓誌の解読が謎の弥生時代を甦らせてくれつつある。つい最近まで、記紀を基にして作られた日本の歴史を、私たちは史実と思い込んで学んできた。巧みに創作された記紀、それに基づいて書かれた書物に囚われ続けている。スサノオ・オオトシ(ニギハヤヒ)一族の建国偉業はもとより、史実を捏造して歴史を教えられた国民にとっても悲劇である。

 百済からの仏教伝来で、天平勝宝元(749 )年、国内の銅を尽くして聖武天皇が建造された奈良東大寺の大仏、国をあげての開眼供養から千二百年余。その大仏は今なお日本のシンボルでもある。その栄光の陰に、我々は日本の生みの親、偉大な覇王スサノオやニギハヤヒの名声没落の経緯が秘められていることに気づかされる。いや、気付いていない人たちがあまりにも多い。


【九州における「日本」という字地名考】
 「第4章大和建国の覇王大歳(饒速日)尊-1」を参照する。
 古田武彦氏は博多にも日本という地名が多いという情報を得て調べた結果、現在、室見川の中流、やや河口寄りに日本橋があり、その東には日本団地がある。博多湾岸に三カ所「日本」という字地名があった他、福岡県で五カ所見つけたとしている。筑前国那珂郡屋形原村日本。筑前国那珂郡板付村日ノ本。筑前国早良郡石丸村日ノ本。筑後国生葉郡干潟村日本。筑後国竹野郡殖木村日本(内務省地理局編纂善本叢書.ゆまに書房刊)である。他にも、長崎県(壱妓)、山口県、奈良県などにも各一、二カ所、「日本」という字名が見出されたが、博多湾岸が「日本」の最密集地帯だという。ことに、日本列島で最大の弥生前期の水田地帯板付の真ん中が「日本」である点が注目される。その上、なぜかこの地帯では、弥生中期以降、プッツリと水田が消滅している。何が起ったのであろうかと疑問を投げかけている。

 「第4章大和始祖王/饒速日尊-4」。
 ★死して皇祖天照御魂大神だった

 記紀が編纂される以前、ニギハヤヒ尊は皇祖天照御魂大神として祀られていた。多くの神社の伝承や祭神名で傍証される。歴とした史実が古代から在る神社の縁起や由来、祭神の諡号に記されている。ニギハヤヒ尊は皇祖天照御魂大神であった。古くからニギハヤヒを祀る天照神社や天照魂神社の祭神名が何よりもそれを物語っている。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という立派な諡が何よりの証左である。国語大辞典も「饒速日命」は「邇藝速日命」とも書き、天磐舟に乗って天降ったとされる神であるとしているが詳しいことは避けている。諡号が示すように「天照」、「国照」、即ち国土と国民はもとより万物万象を差別無く照らし慈くしんでくれた、まさに太陽に匹敵する神である。

 日本は弥生の古代から神道の国で、古代から漢字の意味がわかる優れた諡号の命名者が居た。スサノオは神の祖先、「神祖」であり、ニギハヤヒは「太陽神」としての天照国照の尊号を贈られている。記紀の成立以前は、本来の天照魂大神は皇祖神であって男性神だった。それはまさしく大和建国の大王ニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)だった。数多い神名に、これ程素晴らしい諡はない。皇祖神として相応しい立派な諡号であることは字意からも納得できる。記紀が編纂された八世紀の以前から祀られた古神社には天照大神という神名は、どこの神社を探しても全く見当たらない。すべて大日霊貴尊になっている。大日霊貴尊を主祭神とする主な古神社は、枚聞神社(鹿児島県揖宿郡開聞町)、揖宿神社(指宿市東方)、天の岩戸神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)、日原神社(島根県大原郡)、天津司社(山梨県甲府市)などがみえ、いずれも日向系の女王だったようで、その諡号は「撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊」となっている。

 御祖ニギハヤヒは、太陽神としての天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の尊称を贈られているのに対し、八世紀に伊勢神宮に祀られた天照大神の諡号はあまりにも寂しい。巫女は、古代には「霊女」と書いたが、それに日を加えて太陽神に仕える「日霊女」としたものである。記紀で云う天照大神(アマテラス)も、太陽神に仕える巫女だった。「ひるめ」などとは読まず「ひめこ」だったであろう。中国は古代から自らを中心の国で一番偉いところだとしていたようで、他国を見下げた呼び方をする。卑弥呼もその類で、卑しいという文字を女王に使う筈はない。卑弥呼=日霊女だったとすれば謎は解ける。九州には大日霊貴尊を祀る神社は沢山あると云う。

 余談になるが、中国は王女を卑弥呼と書いたもので、記紀や旧事紀は、すべて王女と訓じている。例えば、孝霊天皇の王女が倭迹迹日百襲姫命で、崇神天皇の王女は豊耜入姫命としている。ニギハヤヒが大和に東遷し三輪山を中心に新都を建設した。スサノオ崩御後、娘婿大己貴(大国主)。オオクニヌシ没後。記紀でいうアマテラスは大日霊貴で、魏志倭人伝に登場する卑弥呼であるとみる歴史家が多く、イザナギの娘で日向の向津姫だとみている。「天照大神は一名、大日霊貴という」と書紀も書いているが、本名は向津毘売尊である。魏志にみる女王卑弥呼は二~三世紀のことで、向津毘売尊の時代ではない。原田常治氏によると、「真の天照大神はニギハヤヒである。倭迹迹日百襲姫は、天照大神(大物主神=ニギハヤヒ)の妻(書紀の作り話)になったため、彼女自身も天照大神と呼ばれるようになったのだ。また、日向の女王は向津姫といい天照大神ではない。伊勢神宮に祭られている天照大神は、日向女王の向津姫に倭迹迹日百襲姫が重なったものではないか」と云う。一般に、天照大神といわれている神は天疎向津姫尊、または大日霊女貴尊と呼ばれているが、九鬼文書等には別人であると記されている。同書を調べてみると、「天照日霊天皇」と書かれていて、「大寶(701)元年辛丑年八月三日再寫不比等(花押)」とある。藤原不比等が手を加えているので内容はあてにならない。

 「真説日本古代史」の研究者も、神社の祭神名を調べて次のように詳しく考察している。天照大神については、籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本紀(以下、海部氏本紀と略記、京都府宮津市にある丹後国一宮である籠神社の宮司家・海部氏の所蔵するもので国宝に指定されている)や旧事紀など、神社伝承学からみた場合、海部氏本紀にみられる始祖彦火明天命や、旧事本紀の尾張氏系図にみえる始祖饒速日命・亦名天火明命こそ天照大神ではないかと云う。しかも海部氏本紀では火明命を「天照国照彦火明命」としている。聞き慣れない名ではあるが、この「天照」の部分に注目する必要がある。天に太陽が一つしかないように、天を照らす神も一神しかいない筈だという。また延喜式神名帳には「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載されている。延喜式神名帳は、平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で延喜五(905 )年八月に編纂を開始、二十二年後の延長五(927)年十二月に完成したもので、祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社(天神地祇三千百三十二座)を国郡別に羅列している。

 そのなかでも、記紀編纂以前の創建年の古い神社の祭神を調べてみると、
●他田坐天照御魂神社(奈良県桜井市)祭神天照国照彦火明命。
●鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡)祭神天照国照日子火明命。
●木島坐天照御魂神社(京都市右京区)祭神火明命。
●新屋坐御魂神社(大阪市茨木市)祭神天照国照天彦火明大神。
と云うように、その祭神をすべて火明命としている。しかも神社名は天照御魂神社である。これらから火明命は天照御魂神と称されていたことがわかる。新屋坐御魂神社にいたっては祭神名に大神を名づけているから「天照御魂大神」と称したほうが相応しい。

 ほかには、
●粒坐天照神社(兵庫県龍野市)祭神天照国照彦火明命。
●伊勢天照御祖神社(福岡県久留米市)祭神天照国照彦天火明命。
●天照神社(福岡県鞍手市)祭神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
●阿麻氏留神社(対馬下県郡)祭神天照魂命などがある。

 久留米市の伊勢天照御祖神社の社名は、天火明命こそ伊勢神宮の天照大神であり、皇祖神であると証明している。女神アマテラスは、書紀の編者の都合により、その地位を与えられたにすぎず、実状は全然違っていた。なぜなら全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからである。

 このように「天照」を名乗る古神社、その祭神天照国照彦天火明櫛玉饒速日命は「天照御魂大神」を何よりも雄弁に物語っている。また大歳御祖皇大神として祀られている神社も多く、皇祖神だったことも確かである。饒速日尊を主祭神として祀る海南市藤白の藤白神社には、「藤白皇大神社」と彫った大きな石碑が今も建っている。この神社は平安時代に饒速日尊の後裔である鈴木氏が、熊野坐神社(現熊野本宮大社)から神霊を勧請して氏神として祀ったものである。書紀も注意して読むと、「天照大神は、一書に曰く大日霊貴とも」と書いており、大日霊貴が天照大神尊だと言い切ってはいない。「一書にそう書いてある」と、逃げ道を残す強かさである。

 ともあれ、古代の陰陽の考え方は男性は与えるものであり、女性は受けるものであるという不文律がある。太陽は与える者、男性の象徴であり、月こそ女性の象徴なのである。従って女王卑弥呼や女神天照大神は絶対太陽神にはなり得ないという。ところで古典芸能としての謡曲は、古くから上流階級や武士の嗜みの一つだった。著者も学生時代に観世流の謡曲を習い、今も稽古を続けている。そのなかに「三輪」というのがあり、そのキリ(謡いの最後)の一節に、「思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一體分身乃御事、今更何と磐座や。・・」とある。この一節は「三輪」のなかでも小謡と云って聞かせどころである。作者は世阿弥( 1363~1443 年)で、室町前期の能役者、謡曲作者である。

 つまり「天皇家の祖神で太陽神の伊勢の天照大神と三輪山の大物主神は実は同体であったことなど、なぜ今更あらたまって云う必要があるのか。分かりきったことではないか。三輪山には磐座があるではないか」と云うのである。こうした伝承を能楽者たちは当時から大まじめに語り継いでいたことになる。

 ところで、関裕二氏は、能や狂言は漂泊する民の芸能が発達したものとされ、彼らは好んで鬼を舞い、怨霊の思いを語り継いできた歴史がある。彼らこそ鬼の末裔であり鬼の正体、無念をだれよりも深く知り抜いていた人たちである。ここに物部(祖神・饒速日尊)という鬼の残した古代の息吹きを感じずにはいられない。そして社会の裏側に潜伏した彼らの底知れぬ潜在力と深い歴史に驚きを禁じ得ないと云う。

 大物主大神(饒速日尊=天照御魂大神)を祀る桜井市三輪の大神神社では、春の大神祭で毎年4月10日に後宴能が奉納され縁の深い「福の神」と「三輪」が代々世々と上演されている。竹田昌暉氏によると、記紀編纂の途上、中国に渡った第次遣唐使( 702年渡唐、707年帰朝)が、「邪馬臺国の女王卑彌呼・・・親魏倭王卑彌呼」と記載された魏志を持ち帰ったこと。また7世紀以降、推古、斉明、持統、元明と、女帝が続いていたことから奈良朝も「女王卑彌呼」を無視できず、古事記に取り上げざるを得なかった。そして、天照日女の墓地と伝えられていた巨大な箸墓が大和に在り、それにまつわって「かつて偉大な巫女が大和に君臨していた」という微かな伝承が残っていたのであろう。記紀の編者はその卑彌呼情報と古来からの伝承をもとに卑彌呼を天照大神(大日霊貴)としたのであろうという。しかし、これには根拠がない。書紀は、女王卑弥呼を二世紀も後の神功皇后に宛がおうとしていることに竹田昌暉氏は気付いていないのだろう。池田仁三氏の画像解析により箸墓古墳(大市墓)の被葬者は倭迹迹日百襲姫(第7代孝霊天皇の皇女=第8代孝元天皇の異母妹)であることが、同古墳の環濠周辺から発見された。墓誌「倭母母曾毘賣命戊寅年十月二十日御歳八十四歳」が解読され、生存年は115~198 年とみられている。この生存年は、三国史記新羅本紀に登場する倭女王卑弥乎で、魏志が伝える景初三(239 )年以前に登場する耶馬台国の女王卑弥呼である。女王卑弥呼は記紀のいう天照大神で大日霊貴、即ち日巫女で、日向のイザナギの娘向津毘売尊であると主張する方も多い。女王卑弥呼の時代については第六章で詳述するので、ここでは概略に停めておく。先にも触れたように、島根県大田市にある物部神社の主祭神はニギハヤヒの次男宇摩志麻冶尊であるが、神社最大の行事として11月24日に鎮魂祭を行っているという。物部氏の総本社である石上神宮では、11月22日に行われ、この日は大和の大神であった初代統一者二ギハヤヒ大王の命日で、皇居でもこの日に鎮魂祭がとりおこなわれているという。また、大物主大神(饒速日尊)の陵墓を祀る大神神社では、11月23日に新嘗祭が行われ、新穀を神前に供えて五穀豊穣を祈ると云う。記紀がいかに古代の歴史を歪曲しようとも、皇室や神社は、二ギハヤヒを皇祖神としてちやんと祀っているという。

 しかし、今は宮中の鎮魂祭は「八神と大直日神を祀る」とあり、「大直日神は伊邪那岐命の御子」とあるから、これまた天照大神(向津毘売尊)の別名であろう。今の皇室は、大和政権を乗っ取った百済政権の後裔だからである。ともあれ、この国の皇祖は、正しくはスサノオ尊、あるいはニギハヤヒ尊とすべきである。スサノオ尊も、広島県三次市甲奴町の須佐神社では神天照真良武雄神として祀られていると云うが、今は須佐之男尊になっている。饒速日尊はもちろん大和朝廷の皇祖天照御魂大神である。


 ★倭(和)と日本

 ともあれ、統一国家の国名は正式には日本国となったが、和国という国名はスサノオがつけた貴重なもので抹消できず、しばらくは双方の国名を使っていた。特に、以前から中国との交易ルートがあったのは和(倭)国であり、日本国には伝手はなかった。こうしたことから、対外的には和(倭)国、大和(大倭)国で通していたとみられている。

 これらは書紀の記述における日本の国名の起源と一致している。そして「倭」の名が気に入らないから日本と改めたとする解釈説と、日本国と倭国が合併して日本国となったという説の二つある。

 中国の隋書にみられる「開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎、多利思比孤、阿輩ヶ弥(天足彦大王)と号し使いを遣わし云云」また、「大業三( 607)年、その王多利思比孤使いを遣わし(中略)。日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す云云」と、この時も、すでに「日出ずる処」つまり、日本を意識していたととれるが、使者が届けた国書には、倭王天足彦大王と書いていたのであろう。

 古事記では国号を「倭」に統一し、書紀では「日本」に統一して記述している。たとえば、古代の英雄ヤマトタケルを、古事記は倭建命と書き、書紀は日本武尊と表記している。書紀は御丁寧に、神代の国生みのところでも、我が国土を「大日本豊秋津島」と表記し、「日本、これを耶麻騰という」と、わざわざ読み方を注記している。これは、「ヒノモト」とか「ニホン」と読むなと云っているに等しい。果たして、いつから国号が「倭」から「日本」に代わり、我が国の正式な国号として「日本」が採用されたのか、記紀も続日本紀も、ともに黙して語らない。記紀には「大和」、「日本」、「倭」を、いずれも「ヤマト」と読ませているが、強引な当て読みというか、当て字である。和銅六( 713)年、奈良朝廷が公布した「諸国名を漢字二字で表せ」という勅命から「倭」を「大倭」と書くようになり、「倭」は字の意味から嫌われ「大和」と表されるようになったとも云う説もある。

 新唐書は、「日本はもと小国、倭の地を合わす」としていることから、合併が正しい解釈と云える。日本の国号起原については、本書第十一章で改めて詳述することにしたい。ところで、「和」は当時から国是だった。「一つ、和を以て貴しと為す」と、太子厩戸皇子の十七条憲法の第一条にも書かれている。これは書紀の造作だったが、創作した人々も、そう考えていた証しである。

 和(倭)国とは、スサノオが統一した小国連合体で、出雲をはじめ、中国地方(周防・長門・石見・隠岐・出雲・伯耆・因幡・阿岐・吉備・針間・多遅摩・丹波)と紀(木)・四国(伊豫・土佐・讃岐・粟・淡道)・北陸(若狭・能登・越=高志・佐渡)・九州地方(筑紫・豊・肥・対馬・隠岐・大隅・薩摩・日向)を指し、日本国はニギハヤヒが統一した河内以東を指している。

 日本国の連合範囲は、河内・山代・大倭(大和)・淡海・三野(美濃)・伊勢・尾張・遠江・科野・甲斐・相模・武蔵辺り迄といったところであろうか。中国の史書の一つ、945年完成の旧唐書・列伝・倭国・日本国条は、日本の使者が伝えたとして、この史実を次のように書いている。

 「貞観五(631 )年、使いを遣わし方物を献ず(中略)。日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるを以て日本と名をなすと。あるいは言う。倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは言う、日本は旧小国、倭の地を併わせたりと」と。

 また、「新唐書・列傳・日本条」によると、「咸亨元( 670)年、使を遣し高麗を平らげしを賀す。後に稍夏音を習い、倭の名を惡み、更に日本と號す。使者自ら言う、國、日出ずる所に近きを以っややかおんにくて名と爲すと。或は云う、日本は乃ち小國、倭の并す所と爲す。故に其の號を冒すと」と。この文面は、どちらが、どう吸収併合したのか混乱が見られる。中国の常識では考えられない政略結婚という対等合併だったから、こうした混乱が起こったのも無理からぬことと考えられる。ともあれ、日本をヤマトと読むか、ヒノモトと読むかは別として、中国に「日本」という国名が知られたのは、この記事から判断して唐の時代と考えられる。統一国家の名称として「日本」になったが、「日本」は当時の中国と国交ルートを持たなかった。その関係で、対外的には長らく「倭」を使っていたのではないかともみられている。国内でも書紀に見られるように当時はまだ「倭」は生きていたのである。弥生の古代には、西日本の銅剣・銅矛・銅戈の祭祀があり、東日本には銅鐸祭祀が残っていた。大和朝廷は、この双方の祭祀圏を同じ信仰で統一できている。祭祀は保守的なもので、異なる祭祀を受け入れるには大きな摩擦が生じ、戦乱が付き物であるが、そのような形跡もなく混じり合った形跡もなく、すんなりと統一されている。

 これは、双方とも同族系統の祭祀であったからである。つまり、スサノオの和国、ニギハヤヒの日本という親子関係と、その一族だったからである。ところで、日本と云う国号は、饒速日尊が大和に入ったとき、「この命(饒速日尊)、天磐船に乗り天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本国と名づく」とあり、ニギハヤヒは生駒山を越えて大和に入ったとき「日本」を命名していたのである。しかし、その後も長らく倭・大倭と自称してきたが、「倭」の字義に気付いて、自ら倭を悪み日本と改めたと、貞観五(631 )年の遣隋使が云ったのであろう。隋の貞観五( 631)年は、書紀では舒明天皇三年にあたるが、舒明天皇は架空で、この時代は蘇我善徳大王だったことは第十二章で詳述する。

 養老四(720 )年五月二十一日、「これより先、一品舎人親王、勅を奉けたまわりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀三十巻・系図一巻なり」と。続日本紀はここで日本紀としているところをみれば、もはや日本を「ヤマト」と読ませなくなったとみるべきであろう。これが国号を「日本」と読ませた国内での公式記録の最初であるまた記録にはないが、「日本」や「天皇」の称号を使い始めたのは、壬申(672 年)の乱を制して百済王朝天智政権から王権を奪還した大海人皇子(天武天皇)の時代だったとみられている。書紀に出自を隠され、中大兄皇子、後の天智天皇(実は百済族の翹岐)の同母弟にされている大海人皇子は、日本國の開祖饒速日大王の後裔蘇我氏や大海宿禰や海部直、海部氏らの一族だったことが判明した。

 書紀は、それを徹底的に隠していた。詳細は第十四章に譲るが、天武天皇の墓誌は、「大海人天皇墓丙戌年九月九日薨六十五歳」とあり、書紀の記した没年月日と整合している。

 いずれにせよ、書紀では大海人皇子は、天智天皇よりも年は8歳年下ではあるが、中大兄皇子の弟とした書紀の記述は真っ赤な嘘だった。

 記紀が、神代と書いた紀元前の世界を確かめる為、かつて世界各地の古代遺跡も確かめた。紀元前3世紀における中国は秦時代の遺跡兵馬俑と秦始皇帝陵や、ローマのポンペイ遺跡をこの目で確かめ、また本章を書きながらアジア大陸の西域、トルコの紀元前数千年に溯るカッパドキアやトロイ遺跡を見て廻り、この世に神代などと云うような時代はなかったことを確信した。

 記紀の「神代神話」は、曖昧な原史料しかなかったので神話にしたというより、須佐之男大王の和国や、大歳(饒速日)大王の大和での建国史実を抹殺する手段として、史実を歪曲して捏造されたものだった。記紀は、神武天皇が大和の橿原宮に即位以来、皇居に皇祖天照魂大神として、また各地の神社に祀られていた大歳(饒速日)大王の尊号「天照魂大神」を横取りし、須佐之男大王の妃向津毘売尊をモデルに天照大神を造作した。そして、書紀の編纂途上で伊勢神宮を祀ったのであった。






(私論.私見)