物部氏考 |
更新日/2020(平成31.5.1栄和改元/栄和2).5.1日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、物部氏を確認しておくことにする。 2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝 |
【物部氏考】 | |
物部連の遠祖はトヲチネ(十千根)。大和盆地西北部の生駒山麓部を拠点に河内湾沿岸の海の支配権を持つ登美国の支配者だった。要するに、二ギハヤヒの命の系統の豪族である。物部氏を考察する時、「先代旧事本紀」は無視できない文献である。桓武天皇朝以降急激に中央政界から姿を消した。 「物部氏考」を転載する。
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天理参考館。物部氏の古墳杣之内古墳群。古墳時代中期から物部氏が現在の天理市を中心に権勢を誇っていた。物部氏が蘇我馬子に破れた後も相変わらず勢力は衰えず権力を拡大し、石上氏に改名した。物部氏の拠点集落布留遺跡。渡来系の人々を従えて高度な生活文化を築いていただけでなく最高権力者に近い地位にまで上り詰めていた。反崇仏派の系譜である物部氏は石上神宮を祀ってきた氏族。七支刀は百済王から贈与された御神宝。石上神宮はヤマト王権の武器庫としての性格を物語っている。石上神宮は社殿を持たない大神神社と同じで禁足地が信仰の対象。御祭神のフツノミタマは武器神。
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「先代旧事本紀 天神本紀 みおや」は次のように記している。
これによると、物部氏は、ニギハヤヒノミコトのブレーンであったことになる。案外、これが正しい理解ではなかろうか。「先代旧事本紀によると、大国主命と宗像三女神の末妹、市杵島姫の間に出来た子が天道日女命であり、饒速日命と天道日女命の間に出来た子が、天香具山命=高倉下(尾張氏の祖)とされている」との記述がある。 松岡正剛の千夜一冊 関裕二「物部氏の正体」。
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石上麻呂(639−717)
@父;物部馬古 母;不明
A子供;乙麻呂、東人 注)物部麻呂とは異なる人物との記事もあるが、ここでは、同一人物として記す。
B初め物部連、天武13年八色の姓の制定により物部朝臣となりのち「石上」に改姓した。
C「壬申の乱」では最後まで近江方につき、大友皇子の首を吉野方に引き渡した。
天武朝でも重用され、676年遣新羅大使、690年持統天皇即位の際、大楯を立てる大役を果たした。(ここまで物部麻呂)
D701年藤原不比等、紀麻呂とともに大納言となる。
E703年42文武朝で刑部親王が最初の「知太政官事」に任じられた。この時右大臣;阿倍御主人(69才) 大納言;石上麻呂(64才)藤原不比等(46才)紀麻呂(45才)となり、石上氏浮上。
F704年右大臣になる。708年正二位 左大臣 710年平城京遷都の際、藤原京留守役となる。
G715年43元正天皇朝 左大臣;石上麻呂(76才)
右大臣;不比等(57才)中納言;粟田真人(55才) 阿倍宿奈麻呂(50才)巨勢麻呂(50才) H天武天皇崩御の際誄をした。(大役である)
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・石上乙麻呂(???−750)
@父;麻呂 母;不明
A子供;宅嗣、息継(この流れは、石上神宮宮司となる)
B732年従五位上 丹波守 738年従四位下 左大弁
C739年藤原宇合の室で「百川」の母であった「久米若売」と左大弁石上乙麻呂とが、通じたという事件発覚。
乙麻呂;土佐へ流罪 久米;下総へ流罪。 D744年西海道巡察使に任じられた。
E746年遣唐使派遣計画があり、大使に任じられたが、この計画は見送られた。常陸守
F748年従三位、多治比広足、石川年足、藤原八束らと参議となる。
G749年聖武朝、中務卿乙麻呂に、陸奥国で金が発見されたことを国民に知らす様指示 あり。
同年孝謙天皇即位。藤原仲麻呂が、大納言となった。参議、石上乙麻呂、
紀麻路、多治比広足、らは中納言になった。
左大臣;橘諸兄(命運は落ちていた)
H750年中納言従三位中務卿として没した。
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・石上宅嗣(729−781)
@父;乙麻呂 母;不明
A息子;継足
B763年恵美押勝の専制に反発する勢力は、暗殺計画を企てた。
藤原宿奈麻呂(良継) 石上宅嗣、佐伯今毛人など。 密告により未然に防がれた。宅嗣は、大宰府に左遷された。 C766年称徳朝大納言藤原永手が右大臣に、中納言白壁王、藤原真楯が大納言に参議吉備真備が、中納言に、新たに石上宅嗣が、参議になった。太政大臣禅師;「道鏡」 D770年称徳天皇が崩御(53才)その時の議政官組織
左大臣;永手 右大臣;真備 大納言;白壁王
参議;宿奈麻呂、藤原縄麻呂、宅嗣 近衛大将;藤原蔵下麻呂らであった。道鏡の失脚を謀り、白壁王の立太子を推進擁立に尽力した。
後継天皇の人選で吉備真備は、文室浄三(智努王78才)文室大市(大市王67才)を推した。藤原永手らは百川の策により白壁王を推して勝つ。
この後真備は、引退する。白壁王は、直ちに立太子、49光仁天皇として即位。
771年の光仁天皇大嘗祭に神楯鉾を立て、物部氏の面目を果たした。
775年物部朝臣となる。
E779年天皇が唐の使者に対面する儀に関し宅嗣大納言は、「天皇の降座やむなし」の記録あり。使者を迎えるにあたり天皇が、玉座を降りるということ。物議をかもしたことらしい。
779年石上大朝臣を下賜され以後ふたたび石上氏となる。
F文化人でもあったらしい。「経国集」。
781年正三位大納言石上宅嗣死去。 G最古の図書館「芸亭」(うんてい)を阿しゅく寺に作った。
ーーーーこれで物部系の人物が歴史上消える。ーーーー
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【唐松神社(からまつじんじゃ)】 | |
「神社仏閣愛好会(japanese shrine temple circle)」の「神社仏閣愛好会(japanese shrine temple circle)」。
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(私論.私見)