三輪氏関連系図解説・論考
出雲神話から現世に繋がった代表的古代豪族こそ三輪氏である。古来日本の神話は単なる神話ではなく、史実を反映するデフォルメになっている。古事記も日本書紀も先代旧事本紀も神代の記述にかなりの精力を使っている。それぞれ記述のし方に差があるが、伊弉諾尊・伊弉冉尊の国産み神話をはじめ、高天原神話、出雲神話の類、八百万の神々が登場し、それぞれの神の系譜まで詳しく記述されている。また、平安時代初期に編纂された新撰姓氏録には、皇別氏族の他に神別氏族という分類があり、上記記紀などに記された八百万の神々にその出自を有するという氏族の名前が多数記録されている。記紀編纂の目的の一つとして、中央集権化の手段として、中央・地方の豪族、氏族の出自をはっきりさせ、その氏族がいかなる氏族であるかを天下に知らしめることにあったとも言われている。よって、皇族出身でないことがはっきりしている氏族にとっては、上記記紀の神代に記された神々のどれかにその出自を求めざるをえなかった。そうしないとどこの馬の骨か分からない、出自がはっきりしない氏族出身の人物に社会的地位を与えることはできないという風潮が少なくとも、32推古天皇の頃(6世紀末)にはほぼでき上がっていたとのことである。(氏姓制度の確立)聖徳太子はこの風潮を打破するため,冠位12階の制度を設け、実力主義による人材登用をはかろうとした。日本国家の人材登用の根幹思想は、古代から江戸時代末まで厳然と存在していたことが確認できる。
神別氏族にも1)天孫族、2)天神族、3)地祇族などに分けられている。三輪氏はこの3)に相当する氏族である。即ち各氏族のことを述べるレベルでは、神話時代と現世は完全に繋がっているのである。その代表例が天皇家である。高天原神話ー天照大神(神の中の神)ー天孫降臨ー初代天皇「1神武天皇」となっている。即ち1神武天皇は神の子である。しかし、物部氏も先代旧事本紀によると、天照大神を祖とする天孫族にごく近い神(ニギハヤヒ)の子孫として現世に繋がっている。大伴氏や中臣氏などは天神族で高天原系の神の子孫と位置づけられている。即ち神の子である。三輪氏は、記紀の神代の英雄「素戔嗚尊」(天照大神の弟)、出雲神話の中心人物「大国主命」の末裔とされている。神の子の流れとして記録されていることになる。三輪氏の元祖は、記紀・旧事紀共に「大田田根子(オオタタネコ)」とされている。表記は、古事記では「意富多々泥古」など色々ある。読みは未だ定かではないらしく、オオ・タタ・ネコ、オオタ・タ・ネコなど諸説ある。三輪君・鴨君祖となっている。ところがこの「大田田根子」の出自に関しては記紀・旧事紀で色々異なっている。先ず素戔嗚尊と大国主の関係が古事記では素戔嗚尊の6代孫が大国主であるのに対し、日本書紀本文・旧事本紀では素戔嗚尊の子供が大国主(大己貴神)となっており、書紀のその一書に5世孫となっている。事代主神はいずれも大国主の子供となっている。
問題は大神神社の祭神であり三輪山の神とされている大物主神である。古事記では大国主と大物主は別々の神として記述されている。ところが日本書紀、旧事紀は大物主と大国主は同一神であると記されている。次に事代主神の子供であるが、古事記には記事がない。ところが日本書紀、旧事紀では、ほぼ似ており(妻の名前のみ異なる)
娘は1神武天皇、2綏靖天皇皇后になっている。ところが男児が異なる。日本書紀は鴨王であり3安寧天皇皇后になった渟名底仲媛の父親である。一方旧事紀では、天日方奇日方命となっており、この5世孫が大田田根子となっている。それぞれの子孫の妻の名前も記録されている。一方日本書紀では「大田田根子」は大物主(大国主)の子供となっている。また、古事記では大国主とは別神である大物主の4世孫と記されている。しかし、この大物主の娘が1神武天皇の皇后となっている。708年に作られたとされている但馬国一宮「粟鹿神社」に残されてきた「粟鹿大明神元記」なるものに記されている神部氏系図を参考として載せた。どれだけ信憑性があるかは不明であるが、上記古事記と旧事紀を併せたような系図である。
これには大物主も事代主も出てこない。正に出雲神族直系で太田田禰古が出てきてその子太多彦(恐らくその他系図で田田彦と表記されている人物と同じであろう)が但馬国朝来郡粟鹿村に来住。これが神主「神部氏」祖となり、以降この一族が神主家であるという系図が現存している。この系図で筆者が興味あるのは、大田田根子の4代も前に「丹波道主女」が記されていることである。丹波道主は、記紀では有名人物である。どうみても10崇神天皇・11垂仁天皇時代の人物である。丹波道主娘は11垂仁天皇の妃となっている。大田田根子は10崇神天皇時代の人物と記紀では記されている。これをどう解釈すべきか。大田田根子は、それより4代も後の人物であるとすると、5世紀15応神天皇以降の人物ということになる。この系図の不整合は、何かを暗示していると思う。この神部氏から戦国大名朝倉氏が興ったとされている。ところで、古来この重要?部分の系図の違いが歴史研究家の議論の火種になってきたようである。
マクロに見れば大同小異でことさら問題にすべきことではないように思えるが、その道の専門家?には、日本の古代史の根幹にも関わる重要事項らしい。
1)大国主は素戔嗚尊の子供であるか、養子であるか、累孫であるか。
2)大国主と大物主は異名同神であるか、別神であるか。
3)1神武天皇の皇后は大国主の子供である事代主神と三嶋溝杭の娘との間に生まれた娘であるか、大国主とは別神である大物主と三嶋溝杭の娘との間に生まれた娘であるか。
4)鴨君・三輪君祖「大田田根子」は、大国主の子供か、直孫であるか、大国主とは別神である大物主の直孫であるか。などで出雲と大和王権との関係の解釈が異なってくるらしい。
ところで話は一寸横道に逸れるが、古代出雲について軽く触れておきたい。古代出雲論は、1984年の神庭荒神谷遺跡における弥生中期の銅剣358本の大発見、翌年の銅鐸6個、銅矛16本の発見、1996年の加茂岩倉遺跡の大量の銅鐸の発見などにより、それまでの出雲論の見直しがされている最中である。詳しい事は門脇禎二「古代出雲」講談社(2003年)、瀧音能之「出雲」からたどる古代日本の謎 青春出版社(2003年)などを参考にしていただきたい。筆者の調べた範囲では
イ)記紀などの出雲神話などと新たな考古学的発見とを結びつけようとしているもの。
ロ)神話は、全く無視して、新古代出雲論を構築しようとするもの。
ハ)上記2者の中間的なもの。
に分類出来る。門脇・瀧音などは基本的にはハ)に属すると判断した。素戔嗚尊も大国主命も一般的には学者の間では、作り話であり、史実とは無関係であるとされている。勿論それに異論を唱えている学者もいる。但し、出雲臣族という出雲国造家・出雲大社(杵築大社神主家)に関しては、その出自が天照大神の子供とされる天穂日命であるという「出雲国造世系譜」は疑問なるものの一部は参考となるとし、奈良時代の出雲風土記、出雲国造神賀詞などに記録された記事は古代出雲のことを知る資料として非常に有効と判断している学説も多々ある。「出雲神族」「出雲族」なる言葉は以前は、一般的に用いられていたようだが、現在ではこの表現は、抽象的で実体がよく分からない表現だとして、一部の人しか用いないようである。筆者は逆にこの表現の方が理解し易いのでこの表現をすることにする。現在では、古代出雲国は主に出雲西部の中心、出雲郡と東部の中心、意宇(オウ)郡に分けて論じられている場合が多い。出雲郡の方がより古くから弥生文化が発達したようである。神庭荒神谷遺跡(弥生中期:紀元0−50年頃)加茂岩倉遺跡(弥生中期末:50年前後)は西部にある。一方四隅突出形方丘墓と言われる特異な古墳(弥生後期:150−200年頃)は東部に多発した。東部にいた首長一族が後世(7世紀ー8世紀)出雲国造家・出雲臣氏となり西部と東部を併せて出雲国の首長となったようである。この出雲臣氏が出雲大社(西部にある)の神主家となった訳である。最近の出雲での大量の青銅器製の剣、矛、銅鐸などの発見はそれ以前までの出雲における古代史上の位置づけを根本的に変えざるをえないくらいの価値があるとされている。従来までに高校の教科書で用いられてきた青銅器文化圏を示す地図を一新することになったらしい(前述 瀧音能之 著書)。従来までは銅鐸文化圏は近畿が中心で出雲はその西端であった。筆者の理解しているところによると、銅鐸文化を近畿にもたらしたのは出雲族であるがその発展は近畿でされ、主生産地は近畿であるとされた。(大和王権誕生前)銅矛・銅剣などは北九州中心であり、いずれも弥生時代の象徴みたいに考えられていた。ところがこれらの新発見で銅鐸も銅剣・銅矛総ての青銅器に関して出雲が中心であったことが判明したのである。
しかし、この繁栄は古墳時代に入ると急激に衰退したような感じになる。一体その原因は何なのであろうか。未だ解明されてない。(吉備国の出雲への進出説がある)原初的な意味での杵築大社がいつ頃創建されたかははっきりしない(記紀では神代大国主が国譲りをしたときに杵築の地に天穂日命の子孫によって祀らせたとある)が、現在のような形の杵築大社は奈良時代らしい。祭神は原初より大国主(大己貴神)であったらしい。では素戔嗚尊は何処に祀られていたかであるが、これは東部にある熊野大社に祀られていたようであるが、これがすっきりしないのである。出雲風土記には出雲には、大神が4名、大社が2社ある。第1は熊野大社、第2が杵築大社と記されてあるらしい。この熊野大社も原初的創建の時期ははっきりしてない。この熊野大社の祭神が風土記には「熊野大神」となっており、伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈古に坐す熊野加武呂命と記されている。素戔嗚尊かどうかはっきりしないのである。しかし、現在の熊野神社の見解は前述したようにこれぞ「素戔嗚尊」のことだととしている。
出雲国は一体いつ頃大和王権に帰順したのであろうか。前述の門脇は6世紀末ー7世紀はじめ(欽明朝)になってヤマト朝廷にイズモ王国の祭祀権、政治権をさしだした。と記している(筆者解釈)。すなわちそれまでは出雲国は未だ大和王権の範囲外だったことになる。しかし出雲国の大和王権に服属した時期に関しては未だ定説が無い状態である。日本書紀では10崇神天皇の記事に出雲の神宝を探させたと記されている。吉備津彦らが出雲振根(出雲西部勢力の首長?)を誅殺した記事もある。出雲の勢力は大和の地に進出してきたのは史実か、またいつ頃進出したのか。これについても古来諸説ある。その多くは大和王権が誕生する前に出雲族が大和地方の弥生文化を発展させていた。それが銅鐸文化である。とした。前方後円墳に代表される古墳時代の始まる以前に近畿地方を中心に東海地方をも含めた出雲文化圏が築かれていた。これが新文化をもった大和王権の出現により、衰退していった。しかし、庶民レベルでの神様は出雲族が進出したのにあわせて出雲の国造り神である大国主に変わりはなく、大和の神奈備山である三輪山に鎮座した大物主(異名同神)と呼ばれた神であった。とする説。これに邪馬台国近畿説が合わさった説もある。よって大物主神は出雲族出身ではない大和王権にとっては、祟り神的因子をもっていたのである。と。
寺沢 薫:日本の歴史「王権誕生」三輪山の祭祀の原像と成立 によると、
@三輪山付近にある遺跡・遺物から祭祀は、4世紀前半に始まり5,6世紀を中心とする。 Aその原像は水と火の祭り同様農業生産や万物の豊穣に関わる二元的世界の調合、地霊の増幅にあったと考えられる。
B弥生時代のヤマトでの三輪山に対する農耕生産に関わる土着的な信仰に端を発し、王権の誕生とともにそのまま王権の祭りとして三輪山祭祀が完成した、との考えは強い。
Cしかし、ーーー三輪山祭祀の成立は、4世紀前半になってのことであるから、王権の系譜と同様、弥生時代のヤマトでのマツリをそのまま引き継いだものではない。
D天皇の大殿に並び祀っていた天照大神(太陽神)と倭大国魂神(地神)の分祀。大国魂神の分祀先、狭井神社付近が三輪山祭祀の始まりだと考える。
E三輪山の祭祀の直接の原型は巻向の火と水の祭儀だといってもよい。 ーーー王権の祭祀には相異なった性格をもつ二神が重なっていた。
ーーー太陽神祭祀(王権の神)ーーー弥生時代以来の農耕のマツリに通じ王権が制圧すべき地域の伝統的土地神ーーー三輪山の神とは本来、王権とは異質な性格を持った神の象徴であり、王権が伝統的に奉じてきた神であったわけではない。とある。
さて話を系図3−4)に戻す。
大田田根子こそ出雲神族の神裔だとされてきたのは、前述の系図に裏付けられたものである。古事記だけが正確な意味では一寸異なる。古事記が編纂される100年も前から出雲国造神賀詞は朝廷に対して行われており、その中で明らかに大物主神と大国主は同一神であると言われている。にもかかわらず古事記が敢えてこの系図を記したのはそれなりの裏付けと、意図があったのではないかとする説も根強くある。現在の主流の説は、大物主と大国主は同一神であるとする説である。さて話をややこしくしているのは、ここに1神武天皇が絡んでくるからである。所詮神話・神様の世界は人間の創造の世界であり、一種の象徴的・暗示的なものとして時空を超えたものとして割り切れる。ところが1神武天皇とか大田田根子というのは、それと同一には扱えない現世の人物である。古代豪族の研究では、ここのとこが最も怪しい眉唾物のところである。学者の立ちいりにくい領域である。記紀及び旧事紀などは、何故この部分に異常なまでの詳しさで記述しているのであろうか。アマチュア古代史ファンの領域である。
記紀の欠史8代こそヤマト王権誕生の秘部である。10崇神天皇辺りからは三輪王朝とかイリ王朝とか言われ、紀元3世紀末から4世紀初頃に史実としてヤマト王権が誕生したと考えてもおかしくないという説が最近の主流である。ところがその初代大王(10崇神天皇と呼ばれるようになった大王)は、一体どこから、どのような血脈を有した者として誕生したのかは、未だスッキリしてない。(最新の学問的な考えは上記 寺沢 薫著を参考に)記紀編纂者らは、その当時分かる範囲で欠史8代として暗示的に記したのか、分かっていたが都合の悪い部分を削り、創作・捏造した記事にしたのか、全く分からなかったので、辻褄合わせだけ行ったのか。謎である。その一説を紹介しておこう。欠史8代の7孝霊天皇の娘に倭迹迹日百襲媛がいる。この娘は、三輪山の神「大物主神」の妻となった。一方この娘の墓が箸墓古墳(最古の大型前方後円墳)とされている。(以上記紀記事)古来この倭迹迹日百襲媛こそ魏志倭人伝の邪馬台国女王「卑弥呼」であるという説が、近畿邪馬台国説を主張される学者などに指示されてきた。ところが箸墓古墳の築造年代と卑弥呼の死亡年代(248年)にズレが大きく、無理とされてきた。しかし、近年箸墓古墳の築造年代が当初思われていたより約50年古い(270年頃)ものと算定され直された。これにより、卑弥呼の死亡年代と墓の築造年代が近接した。さらに箸墓古墳の側にある巻向遺跡の発掘調査の結果、ここが邪馬台国であった可能性が大とする意見が強まった。(単なるそれまでの近畿の弥生文化とは異なる遺物の発見)三輪の地に3世紀末ー4世紀初に大和王権が誕生したとするこれまでの主流的学説と邪馬台国近畿説とが結びついてきた。即ち10崇神天皇は、邪馬台国と血脈的に繋がった人物であるとする説が再誕生した訳である。倭迹迹日百襲媛=卑弥呼 箸墓古墳=卑弥呼の墓(又は台与の墓) 卑弥呼が鬼道を行った所=三輪山 この三輪山祭祀を引き継いだのが10崇神天皇となる訳である。となると記紀の欠史8代の系譜は、現実味を帯びてくる訳である。はたしてそうであろうか。記紀の記述と発掘調査の符合(年代は別)には、驚かされている。但し記紀は、別の事情により魏志倭人伝の時代を15応神天皇辺りとして、神功皇后を卑弥呼に比定するように書かれている。この問題はまた別の機会に改めて考察したい。
さて、「大田田根子」であるが、記紀の記事では10崇神紀に登場する。そのまま現在の換算だと4世紀初頃となろう。10崇神天皇の命により、その神の血族とされる大田田根子が国中に祟りの災いを起こしていた大物主神を祀って、大物主神のお怒りを鎮めたとなっている。なんと、上記寺沢氏の遺跡・遺物の調査からの三輪山祭祀の開始時期と時期的に符合している。一方、茅渟県陶邑は須恵器の生産地である。三輪山周辺の遺物として祭祀用として用いられていた須恵器が大量に発掘されている。これは大田田根子が陶邑の出身であったとする日本書紀の記述と符合する。しかし、須恵器が生産されるようになったのは、5世紀以降である。とされている。よってこの記事は10崇神天皇紀に記されているが、時代的に異なるものをここに入れたものと考えるべき、とする説もある。また視点を替えた説も古来あるようである。前述の太田氏文献では、出雲神族の嫡系は、系図3−2)に示した大国主の子供である「鳥鳴海神」の末裔である「遠津山岬多良斯」(参考:長岡京市にある神足神社の元々の祭神は、天神立命である。この神は天神系の神であるが、本当は、出雲系の「遠津山岬多良斯」であるという説がある。)に出雲神族の庶流として陶邑にいた「大田田根子」が養子に入ったのである、との説また同文献には、欠史8代で多くの天皇妃を輩出した磯城氏(出雲系の氏族?)が三輪山の大物主を古来祀ってきたが、崇神天皇の頃血脈が絶えた。そこで磯城氏の流れを引く大田田根子が、三輪山の神を祀るようになった。のではとの説も記している。さらに別説では大田田根子の「大」は欠史8代に始まる最初の皇別氏族である「多氏」の出身である。と言う説もある。この場合は厳密に言えば出雲族ではない。しかし、多氏は大氏とも意富氏とも表記される。1神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛との間に生まれた神八井耳命を祖としており後に古事記を編纂した「大安麻呂」もその末裔とされている一族である。神八井耳も母親は、明らかに出雲神族系といってもおかしくないので、その子孫である多氏は出雲系とも言える。ちなみに大田田根子は大直禰子、意富多々泥古などと表記され「大氏」ともとれる。系図3−3)参照 旧事紀によれば大田田根子の母親は鴨部美良姫となっており、明らかに鴨族の娘である。記紀共に大田田根子を三輪君・賀茂君祖としている。大田田根子以前から葛城国にはカモ族が住んでいた。このカモ族は既稿「賀茂族考」で述べてきたように出雲系と天神系とが共に葛城にいた(異説多し)。賀茂君は鴨県主系(咫烏系)とは異なり、後に賀茂朝臣となる出雲系とされている賀茂氏である。大田田根子は,母の関係でこの葛城賀茂の名跡をもらったのではないかと言う説がある。よって子供(別系図1,2)または孫(旧事紀)とされる大鴨積が、この鴨氏の祖となったというのある。この鴨氏のこれ以降奈良時代で再登場するまでの途中の系図は明らかではない。三輪氏については,古事記の記事はほとんどない。しかし、日本書紀ではこれ以降も色々記事が出てくる(人物列伝参照)。その系図は、系図3−3)にその代表的なものを示した。三輪君の祖は大友主(11垂仁天皇朝)とされている。特記すべき人物は,三輪君逆(敏達天皇朝)と大神高市麻呂である。三輪君逆は、29欽明天皇、30敏達天皇の時代に仏教伝来にともなう排仏運動が起こったが、急激な仏教の浸透に慎重であった30敏達天皇の三輪山信仰の高揚とも相まって朝廷内で重用された。三輪氏勃興の画期だったように思える。さらに、8世紀に入り、日本書紀編纂の時18氏の墓記の提出が朝廷より命じられた。その中に大三輪氏も入っている。この頃大神高市麻呂は中納言という三輪氏始まって以来の高官についていた。これは壬申の乱での貢献が高く評価されたと言われている。日本書紀に三輪氏の記事が多いのは、この時提出した三輪氏が作成した墓記の影響が多いのではとされている。高市麻呂の子供「忍人」が大神神社大神主に任命され、以後中世に高宮氏に改姓されるが,今日に至るまでこの一族が大神神社を祀っているのである。「大神比義」という人物が「逆」の叔父として系譜上登場しているが、この人物は宇佐八幡宮創建の旗頭的人物であり、この流れから宇佐八幡宮の宮司も輩出ことになる。しかし、彼が三輪氏の系図に何故入ってきたのかは、謎とされている。ここでは詳しくは述べないでおく。
3−1)に以上に示された公知系図の大田田根子までの長いもの、詳しいものに注目して、筆者創作系図を載せた。この中で素戔嗚尊の子供である「五十猛」の流れとして、宇佐八幡宮に関係してくる辛島氏系図なるものを付記した。かなり眉唾もののようであるが、ここに紀氏系図(既稿「紀氏考」参照)と重なるところがあり、参考までに載せた。一般的に言えば、古代系図は短い系図の方が史実に近い。長い系図は色々架上して、架空の人物を載せている。といわれている。逆に筆者のようなアマチュアには概略系図は一種の一覧表みたいなものとして、理解を深めるための道具として、作成したものである。これが正しいと主張するものでは全くない。以上で三輪氏の概観的解説を終わり筆者はどう考えるか述べてみたい。
色々な筆者の入手した情報をもとに三輪氏を考察すると下記のようになる。・3世紀末から4世紀初め頃、三輪の地(狭い意味での倭国)に大和王権が誕生した。
大王が国を治める場合、この当時は、祭祀の最高責任者として自らが神々を祀った。古来からのこの三輪の地の神奈備山は、三輪山であった。ここには弥生時代・縄文時代からの自然神がいるとされてきた。それが「蛇神」「雷神」「水神」「竜神」などであろう。弥生時代にはさらに農業神・五穀豊穣神・国造り神的な神として大物主神・大国魂神と呼ばれるような土地神も生まれた。そして新たに誕生した大和王権は、自分らの始祖神・守護神である太陽神(後世になって天照大神と称するようになる)をも併せて、自分の宮殿の近くにある三輪山及びその周辺に祀った
。勿論、祭主は大王自身である。そして5世紀頃になると、須恵器の製造が茅渟県陶邑付近で渡来人らの手により可能となり、祭祀器具として大量の須恵器が三輪山及びその周辺の神を祀る所に持ち込まれた。一方王権内部には祭祀を司る氏族も色々発生した。物部氏、中臣氏、忌部氏などである。これらは主に太陽神を重んじる勢力である。
その後、ついに土地神と太陽神を分けないと朝廷と人民との乖離が起こりかねない状態になった。そこで6世紀頃(記紀では崇神朝)には、王権の祖先神・守護神である太陽神を別の場所に遷すことになった。これが転々として最終鎮座地が伊勢になった。「伊勢神宮」の原点であろう。土地神である大物主神は、そのまま三輪山に、大国魂神は三輪山の近くの大和神社に祀られることになった。いずれも王権の守護神としてである。さらにこの頃から出雲国の国造り神「大己貴神・大国主」を祀る動きが大和地方にも普及してきた。三輪山の大物主神も単独に祀られるようになった。この辺りでこの神同士の合体化が起こった。そして7世紀頃から始まる出雲国造神賀詞の中で大国主の和魂が大物主であり、これが大和王権の守護神であることが述べられるようになった。大和王権に対し抵抗を続けてきた出雲国が最終的に大和王権の支配下に入ったのは、6−7世紀頃とされるのでこれと合わせた形で、大和地方の土着の弥生時代からいたと思われる民衆(出雲系といわれていた)にとって、大和の地で作り上げた守護神である大物主神と出雲の国造神である大国主との合体は、そんなに受け入れ難いものではなく、王権側が強制的にそうさせたものではなかろう。史実的には、以上のような経過だったのではなかろうか。
それでは「大田田根子」「三輪君 」などはどう関わってきたのであろうか。筆者は、王権も参画した形「王権祭祀」の中心としての三輪山祭祀が確立したと思われる4世紀初め頃には、三輪君は未だ関わっていなかったのではないかと思う。5世紀の須恵器祭器の大量採用あたりから三輪君の祖(恐らく須恵器の祭器への応用を考案し王権に採用を薦めた土着の出雲系の人間)となる者が現れ、三輪山祭祀に関わりをもつようになった。そして6世紀以降大王家が太陽神を分離し、大王自身がじきじきに三輪山祭祀をやらなくなった時点で、既に三輪山祭祀に何らかの関わりをもっていた、土着出身の三輪君にその祭祀権がまかされた。但し、物部氏、中臣氏、忌部氏のいずれかがその上で関与はしていただろう。しかし、未だ豪族といわれるような力はなく、朝廷の守護神であることを全面に出しながら三輪山信仰を地方にも普及させていった。本格的に三輪山信仰を出雲の力も借りて強力に進め出すのは、新政権である継体天皇以降であり、三輪君逆の出現により、完全に朝廷と密着した勢力となった。以後大神高市麻呂の出現で三輪氏はピークを迎え、大神神社の総ての祭祀権を取得し、大神主となり、以後世襲した。「大田田根子」から始まる三輪君の系図は、三輪君逆ー高市麻呂辺りで造られたものと推定する。32推古朝頃には、少なくとも天皇家の系図の概略は出来ていたものと判断する。その大物主神系図に入り込んだと推定(大田田根子なる人物だけは、既に天皇家の系図に入っていたかもしれない)。そして日本書紀編纂時の墓記提出の際その多くが日本書紀に採録されたものと思う。筆者は,三輪君身狭ー特牛辺りから以降は、実存の可能性があるであろうと判断している。大田田根子に関する記紀の記事及び系図は,三輪氏が出雲氏族であることを象徴的・暗示的に示す為の手段に用いたものと判断する。実体のない始祖神的位置づけである。(多くの神別氏族といわれる古代豪族と基本的考え方は同じであろう)。賀茂君の系図は大鴨積以降しばらく不明。古事記には三輪君の記事がない。なども暗示的である。三輪君逆にしても自分らの祖先が三輪山祭祀に関与し、土着の氏族出身ということぐらいは認知していたかも知れないが、はっきりしたことは分からなかったと思う。それが出雲神族の神裔であり嫡孫であるとしたのは、大神神社の威力がいかに大きかったかを示している。
・三輪氏という古代豪族は間違いなく存在した。
・その元祖は出雲神族の神裔であるとする「大田田根子」であるとしているが、これは簡単には受け入れ難い。
・神の系譜を、言い伝え、何かの暗示、象徴的具象化の方法として、創造・想像して後世の人間が作成することは、神話・信仰などに関係することなのでその時代、時代で変化もするし、改変されることもそれが意図的であれ、非意図的であれ致し方ないものであり、許されるものである。しかし、史実としての人物の評価とを混同してはならない。
・出雲神話部と欠史8代の天皇家部は、大田田根子とは全く別に創作された系図と思われる。3−5)3−6)のような更にこれを補う形で形成されたのであろう。先代旧事本紀が一番工夫を凝らした系図になっているが、これは記紀の欠史8代なども考慮に入れてより合理的に辻褄合わせをしているように思える。
・三輪山信仰と魏志倭人伝の邪馬台国「卑弥呼」の鬼道を結びつけ、又は史実として、倭迹迹日百襲媛を大物主神の神妻として(これは暗示として)、これを卑弥呼に比定するような説が強くあるが、筆者は現段階では、このような説には興味はあるが組せ無い。さらに科学的根拠が必要である。
・大神神社が41持統天皇以前くらいまで伊勢神宮より天皇家にとって重要な位置づけであったという説に組する。
・その一方で「倭大国魂」を祀ったとされる大和神社の陰が10崇神天皇以降非常に薄く、現在まで存続しているが、存在感がないのは何故であろうか。筆者には分からない。途中で神仏混淆により寺の勢力が強くなり過ぎたためであるとの説もあるが。
・三輪山の大物主神は、物部氏の祖とされる「饒速日命」であるとする説が現在もあるがこの説には筆者は組しない。
・出雲の弥生文化・勢力と大和王権誕生前における大和の弥生文化・勢力の関係及び物部氏勢力の関係・邪馬台国・大和王権の出自の関係は未だ謎である。最近の寺沢氏の説は注目されているが、発掘考古学の今後の成果を待たないと、結論が出たとはいえない。
・三輪山・大神神社・三輪氏が大和王権誕生にどう関係してきたかも、本当は現在も謎であるが、筆者は三輪氏そのものは、直接関係はなかったと判断している。
・伊勢神宮の創建の時期、何故伊勢の地であったのかは、色々な人が論じているが、筆者には未だよく理解できない。謎である。
・記紀に記された出雲神話、及び「出雲風土記」に記された神話は、多くの点で創作・改竄がされているとのことであるが、今後の考古学的発掘結果を解析する上で、参考にするべき事項を内在しているのではと筆者は思っている。
・大田田根子以降の三輪氏の系図には、筆者の調査した範囲では、あまり異系図が残されていない。不思議である。これだけ古い氏族の系図は、色々な伝承が複雑に絡むので異系図が多数あるのが普通である。考えられるのは、大神神社の社家系図しか、この辺りでは無いためであろう。これは逆に怪しいと思うべきである。
・三輪君逆は実在の人物と考えられている。殺されたのが586年である。
ここから逆算すると、一代は通常20年で計算すると、太田田根子まで7代であるから、太田田根子は、400年代初め頃の人物になる。崇神天皇時代とは約100年後の人物であることになる。即ち常識的には、おかしいのである。一方高市麻呂は708年に死亡している。生年が不明だが50歳だったと仮定しても、逆からはほぼ合理的範囲である。参考基準として天皇家の10崇神天皇から、29欽明天皇までは直系として11代である。また40天武天皇までは15代である。大田田根子を10崇神天皇と同時代と仮定し、逆を29欽明天皇と同時代とし、大神高市麻呂を40天武天皇と同時代とすると、逆は、7代、高市麻呂は11代となり、天皇家との代数の乖離が約100年位生じる。ここからも三輪君の系図は一寸おかしいと言わざるをえない。即ち公知になっている三輪氏の系図が総て正しいとするなら、大田田根子は、5世紀頃の人物となるし、大田田根子以降は、不明部分があり、5世紀頃に大田田根子を祖先とする人物が現れ、それが例えば大友主と名乗り、以後系譜が繋がったとするべきかのいずれかであろう。筆者は後者に近いと考える。大田田根子なる人物は、伝説的に出雲系の象徴的人物として、また三輪山祭祀の元祖的人物として、記憶されていたのであろう。それに後に三輪君と称するようになる豪族が、自分らの祖先系図を、結びつけたと考えられる。全くの出鱈目とは言えない過去の実績をふまえた経過があったのであろう(大神神社の祭祀的仕事を代々やってきていた)。
・三輪君・鴨君以外に出雲系と言われている氏族に紀国造家がある。こちらの方は異系図が多数ある。(本稿「紀氏考」参照)。こちらの方がその存在が真実臭い。
よって豪族三輪氏は、かなり新しい出雲系豪族といってもよいのではないであろうか。 そのような説を主張されている学者もいる。筆者は、この説に組する。
(参考) 出雲神族系といわれる氏族として系図が残されているもの(大田田根子系以外)
1)八坂神社「八坂造氏」津島神社「堀田氏」
2)須佐神社「須佐氏」
3)宗像神社「宗像氏」
4)日御碕神社「小野氏」
5)宇倍神社「伊福部氏」この系図はややこしいが面白い。
6)諏訪上社「諏訪氏」 後に戦国大名となる。
7)隠岐・玉若酢神社「隠岐氏」
など
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