葛木王朝考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、葛木王朝説を確認する。れんだいこから見て参考にしたい所説を集めておく。れんだいこから見て葛木王朝の必要は、出雲王朝、三輪王朝との絡みの解明にある。葛木王朝には今ひとつ分かりにくい面がある。これを踏まえて考察する。 「大和朝廷の母体となる三輪王朝の前に存在した葛城王朝」、「2.「葛城氏」論考」、「高校生のためのおもしろ歴史教室 、「日本史の部屋」等々を参照した。宗教民族学者で大阪教育大学名誉教授・鳥越憲三郎(2007年3月23日に永眠)著『神々と天皇の間』(朝日新聞社の朝日文庫、昭和45年(1970)5月)

 2013.03.14日 れんだいこ拝


 「二人のハツクニシラススメラミコトの存在」。これをどう解くか。葛城山と三輪山を中心とする二つの王権の存在。鳥越氏は、神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝の始祖とし、三輪王朝に先行して葛城王朝が実在したと説いた。大和三山の畝傍山、天の香具山。神武、綏靖、安寧、懿徳の初期4代の墳墓は畝傍山の山麓に集められている。

 葛城氏は、高天彦(たかまひこ)神社に祭神として祀られている高皇産霊尊( たかみむすひのみこと )を祖神とする一族で、当初は葛城山麓の中央部に住んでいた。葛城族と鴨族との結びつきは深い。初代神武は、鴨族が祖神とする事代主神(ことしろぬしのかみ)娘・媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を娶って皇后とした。古事記では、この説話を三輪伝説に引きつけて潤色しており、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見初めた女に産ませた娘をヒメタタライスケヨリヒメが神武の皇后になった、としている。第二代綏靖も媛踏鞴五十鈴媛命の妹の鈴依媛(すずよりひめ)を后として迎え、第三代安寧も事代主神の孫である「鴨君の女」を后としている。即ち、葛城王朝の初期三代の天皇は葛城山麓に都を定め、その土豪の鴨族の娘たちを娶ることで、鴨族との政治的結合を強め、部族国家を発足させた。さらに、第6代までは尾張氏など外戚関係にある葛城地域の女を后に迎えて部族国家の紐帯を強めている。

 第7代の孝霊天皇のとき、大和平野のほぼ全域を平定したのか、宮を大和平野の中央に移すとともに、后には磯城(しき)の県主(あがたぬし)の娘を選んでいる。第8代孝元天皇は、大和北部をはじめ河内も占めていたと思われる物部氏から后と妃を迎えている。
第9代開化天皇は、物部氏の伊香色謎(いかがしこめ)命を后とし、さらに和珥氏の遠祖の娘や丹波国の竹野媛を妃としている。こうした后や妃選びからも、葛城王朝が部族国家から強力な統一国家に成長していった足取りが追えるという。そして、葛城王朝によって築かれた基盤の上に、第10代崇神天皇が三輪王朝、すなわち大和朝廷を樹立した、と結論される。

 葛城の地は蘇我氏の産土の地である。蘇我氏の家記には祖先の葛城王朝のことが伝承されていた。推古天皇のとき聖徳太子と蘇我馬子が協力して編纂したとされる「天皇紀」、「国記」などの史書には、当然のことながら葛城王朝の伝承が記述されたはずである。
皇極天皇4年(645)に蘇我蝦夷が殺されるとき、選録された「天皇紀」、「国記」などは焼かれた。これらの史書は推古天皇の勅撰書であったはずで、勅撰書そのものは焼失したが、各氏族は己の氏族に関する部分は筆写されて残っていたと見てよい。従って、記紀編纂時に欠史八代が新たに追加されたのではなく、推古天皇の時代に蘇我一族の史観をもとに日本の歴史と神話が方向付けされたと、鳥越氏は推測しておられる。

 日本書紀によれば、彦火火出見(ひこほほでみ)が日向の国を発って東征を開始してから6年、ようや大和の地を征服できたため、国中を一つに統べる都を造る場所を物色した。そのとき、「見れば、かの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真ん中である」として、ここに都を造ることにしたという。こうして造営されたのが「畝火の白檮原(かしはら)の宮」である。辛酉(かのととり)の年の春1月1日、彦火火出見は、新装なった白檮原(かしはら)の宮で初代神武天皇として即位した。また、事代主(ことしろぬし)神の娘・媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を娶って皇后とした。その年が、西暦に換算すると紀元前660年であるという。橿原宮で辛酉(かのととり)の年に即位して以来、神武天皇の治世は76年続いた。日本書紀はその間の業績として、神々の祀りの場を鳥見山に設けて高皇産霊尊( たかみむすひのみこと )を祀ったこと、脇上(わきがみ)の■間(ほほま)の丘に登って国見をしたことぐらいを記述しているにすぎない。

 治世76年、神武天皇は橿原宮で崩御した。127歳だった。日本書紀には、翌年、神武天皇を「畝傍山の東北の陵に葬る」とあり、古事記は「御陵は畝火山の北方、白檮(かし)尾上にある也」と記している。記紀編纂の頃には、すでに神武天皇の存在が信じられ、その陵墓も畝傍山の東北または北にあるとされていた。

 綏靖天皇は、神武天皇の第3子である。日本書紀では神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)という。48歳の時、父・神武天皇が崩御し、第3子の神渟名川耳尊が即位することになったが、それには以下のような理由があった。神武天皇が崩じた後、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)が、腹違いの弟たちを害そうとした。母・媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が詠んだ歌からそのことを察知し、同母兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)とともに片丘(現在の奈良県北葛城郡王寺町)のにいる手研耳を襲い、これを討った。そのとき、兄の神八井耳は恐怖で手足が震えおののいて矢を放てず、代わりに弟の神渟名川耳が矢を射て手研耳命を殺した。 この失態を恥じた神八井耳は弟を助けて天神地祇を掌り、神渟名川耳が天皇として即位することになったという。第2代天皇として即位した綏靖天皇は、葛城に宮を築き、これを高丘宮(たかおかのみや)といった。治世33年、天皇は病気で崩御された。日本書紀は享年84歳と記す。

 嫡子の安寧天皇が即位し、翌年、大和の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に埋葬した。なお、日本書紀は第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までを巻4一冊にまとめて記述している。綏靖即位前の上記の皇位継承争いを除けば、系譜(帝紀)のみを記し、事績(旧辞)を全く記述していない。このため、一般にまとめて「欠史八代」と称される。綏靖天皇の嫡子だった安寧天皇は、即位の年に父の遺骸を大和の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に埋葬した。そして翌年、宮を片塩に遷した。これを浮孔宮(うきあなのみや)という。安寧天皇は治世38年で崩御した。日本書紀は享年57歳と記す。

 安寧天皇の第二子である懿徳天皇が即位し、この年に父の遺骸を畝傍山の西南の御影井上陵(みほどのいのうえののみささぎ)に埋葬した。即位の翌年、宮を軽の地に遷し、これを曲峡宮(まがりおのみや)という。古事記には「軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)」と記す。懿徳天皇は治世34年に崩御された。その翌年、畝傍山の南山麓に埋葬された。

 孝昭天皇は、即位の年に宮を掖上(わきがみ)に遷した。日本書紀はこの宮を池心宮(いけのこころのみや)という、とある。古事記は「葛城掖上宮」と記す。伝承によると孝昭天皇の掖上池心宮は「よもんばら」 あるいは「よもぎ原」という場所にあったとされる。現在も御所実業高校の西側の一帯を「よもんばら」と呼ぶ。孝昭天皇は治世83年で崩御された。

 孝昭天皇の第2子である孝安天皇が皇位を継承し、父の遺骸を掖上博多山上陵に埋葬したが、日本書紀はその時期を治世38年目と記す。父の崩御を受けて即位すると、翌年に宮を室(むろ)に地に遷した。これを室秋津島宮(むろのあきつしまみや)という。孝安天皇崩御。

 孝安天皇が崩御すると、孝安天皇の皇太子だった孝霊天皇が第7代天皇として即位した。その年に父を玉手丘上陵(たまてのおかのうえのみささぎ)に埋葬した。その年、父の遺骸を片丘馬坂陵に埋葬した後、宮を黒田に遷した。これを庵戸宮(いおとのみや)という。孝霊天皇は治世76年目に崩御した。

 皇太子が皇位を継ぎ孝元天皇として即位した。日本書紀は孝元天皇の治世6年目に、父の遺骸を片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に埋葬したと伝える。第8代孝元天皇は孝霊天皇の太子だった。父天皇が治世76年の春崩御すると皇位を継ぎ、4年後に宮を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいはらのみや)という。その宮の伝承地が橿原市大軽町にある。孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御した。

 日本書紀は第二子の開化天皇が皇位を継ぎ、即位から5年後に父の遺骸を劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)に埋葬したと記している。開化天皇は、孝元天皇の第二子である。日本書紀は孝元天皇の治世22年に、年16歳で皇太子になられたと記す。しかし、孝元天皇が治世57年に崩御されたのを受けて皇位を着いたのは、それから35年後のことである。即位の翌年、都を春日の地に移された。これを率川宮(いざかわのみや)という。

 日本書紀は、第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣(かのかき)池、厩坂(うまやさか)池と共に剣池を造った、とある。
 葛城氏は、実在が確認できた日本最古の豪族である。葛城襲津彦は、朝鮮半島でも活躍しその記録が、朝鮮の古書に記されてある。5世紀前半倭の五王の時代の人物とされている。記紀にも詳しく記されている。その娘「磐之姫」は、仁徳天皇の皇后となって多くの天皇を産んだ。「磐之姫」は、万葉集にもその歌があり、奈良時代藤原不比等の娘「光明子」が、聖武天皇の皇后になる時、皇族以外で皇后(単なる妃には過去多くの皇族以外の出身の娘がなったが、皇后になったのは、磐之姫しかなかった。)になった先例にされた女性である。この一族は、「葛城王朝」(鳥養氏の提案した葛城王朝という意味ではない)と言われる程強大で、天皇家と並び立つ存在であった。ところが雄略天皇の時(5世紀後半)、一族主流は、完全に滅ぼされた。

 しかし、この葛城氏こそ、その後の日本の歴史に陰に陽に影響を及ぼす種を蒔いた豪族であった。先ずその公知にされている系図を下記に記す。武内宿禰:この人物は古来天皇家に仕える大臣の神様的存在であった。即ち数代の天皇に仕え、朝廷 を支えた大番頭的存在として記紀に記されている。よって記紀ではこれ以降大臣になれる氏族は、総て武内宿禰の子孫に限られる、とした。特に神功皇后と一緒になって、応神天皇の即位を助けた功労は大としている。ところがこの人物は記紀上では、数百年生きたことになっており、現在では、その実在性は全く無理で、架空の人物、記紀の想像上の人物とされている。紀氏、葛城氏、、蘇我氏、巨勢氏、平群氏。記紀に記されている系図では、武内宿禰は、紀国造氏(系図上は天神族)の娘と天孫族の男との間に産まれたとされている。
紀国造氏が本当に天神系であったかについては、多くの疑問点があるとされ、出雲系であるのを隠して、天神系もどき系図を作成し、保身をはかったとする説も多し。系図でも分かるように武内宿禰は、非常に紀国造氏の臭いが強い。
 紀氏については、別途検討したいが、この武内宿禰と葛城国造氏の女との間に産まれたのが葛城襲津彦である。という記紀には記されてない、。なお、ここで発生した皇別紀氏の流れから「紀橡(とち)姫」が出現する。天智天皇の子である「志貴皇子」との間に光仁天皇を産み、その子が桓武天皇となる。よって平安時代以降も、紀氏はある程度の勢力を保った、数少ない古代豪族である。紀貫之は有名。蘇我氏:武内宿禰に出自を有する後の大豪族である。「馬子」、「蝦夷」、「入鹿」など多くの実力者を輩出。天皇家と姻戚関係を結び、天皇の外戚となる。勿論その出自には疑問ありとの説多し。筆者は武光 誠等が主張している、葛城氏庶流説を採用した。(別系譜参照)勿論実在した豪族である。大化の改新(乙巳の変)の一方の主役である。
 巨勢氏:これも上記武光説を採り、葛城氏庶流と考える。
 平群氏:この氏族は、葛城氏が滅んだ雄略朝頃から勢力を増し、「真鳥」という人物が、仁賢天皇の時大臣となったが武烈天皇に真鳥の子供の「鮪(しび)」とともに殺され滅んだ。歴史順に栄えた葛城系?の氏族は、葛城氏ー>平群氏ー>蘇我氏ー>巨勢氏ー>紀氏となる。葛城氏は、武内宿禰を元祖とする奈良盆地西南部(葛城郡)に古くから土着していた豪族である。
 3世紀末から4世紀にかけ長期間にわたって奈良盆地東南部(三輪山麓)にある「大王家」から独立する体制を築いてきた。4世紀末葛城地方に古墳が出現した。そのことは、この時期に葛城氏が、「大王」の支配下に入ったことを示している。との説あり。少なくとも5世紀前半の間は、朝廷は、「大王家」と葛城氏との連合政権ではないかと思われるほど葛城氏の勢力は、強かった。その時期の葛城氏をまとめたのが「葛城襲津彦」である。彼は、百済系の史料にも登場するので実在した人物と見て良い。
 大和の葛城地方には鴨神がたくさん祭られている。延喜式神名帳に載る「名神大社」クラスの4つの鴨神のうち3つまでが出雲系神々との合体である。「葛城王朝論」で名高い鳥越憲三郎・元大阪教育大学教授の著書。葛城王朝があり、大和全体を統治するほどではないにせよ、王朝に準ずるものがあったことを否定する理由はない。葛城の鴨神社が出雲系の神社名を名乗っている。

 1 巻四 (歌番 485)
 神代より 生れ継ぎ来れば 人多(さわ)に 国には満ちて あぢ群れの 去来は行けど わが恋ふる 昼にしあらねば

 2 巻四 (歌番 486)・・・1の本歌への返し
 山の端に あぢ群れ騒ぎ 行くなれど 音はさぶしえ 君にしあらねば 

 3 巻十一 (歌番 2555)
 朝の戸を 早くな開けそ あぢさはふ 目が欲(ほ)る君し 今宵来ませる

 4 巻十一 (歌番 2751)
 あぢの住む 渚の入り江の 荒磯(ありそ)松 吾(あ)を待つ児らは ただ一人のみ

 大和王朝初代の神武は、東征後に三島のミゾクイミミの孫娘に当たり、事代主命の子でもあるヒメタタライソスズヒメを新しく后妃とした。また二代目はイソスズヒメの妹を后妃に、四代目は事代主命の孫の鴨王の娘を后妃に立てた・・・というように王権の初期に出雲系の后妃が次々に立っている。

 葛城王朝説。葛城王朝は、鳥越憲三郎氏の命名。王宮が金剛・葛城の山麓付近にあり部族国家にであった。七代孝霊朝の時代になり、大和盆地中央部の磯城郡に進出、国号を秋津嶋と称した。そして開化朝の時代に畿内を中心にかなりの版図を広げた。しかし、突然終焉を迎えた。葛城王朝論は、葛城に出自を持つ蘇我氏の伝承により成り立っている。上田説では三輪王朝。プレ大和王朝。ニギハヤヒ(饒速日命)を始祖とするプレ大和王朝。奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏。仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。

 2-1)葛城襲津彦(???-5世紀前半)
①父;武内宿禰? 母;不明(葛城国造荒田彦娘葛比売説:紀氏家牒)
②娘;磐之媛を16仁徳天皇の后とした。17履中、18反正、19允恭の母となる。
③朝鮮経営に活躍。弓月君を招いた。これ以後渡来系豪族と繋がる。 
  
 2-4)葛城円大臣(???-???)
①父;玉田宿禰 母;不明
②20安康天皇時大臣になっていた。
③16仁徳の孫眉輪王が、20安康天皇を殺害する事件発生。20安康の弟「稚武皇子」 (21雄略)が眉輪王を討とうとした。王は、葛城円大臣の自宅に逃げた。雄略は、円の屋敷を軍勢で包囲した。円は、娘の「韓媛」と領地7区を差し出し許しを 請うた。しかし、それを許さず二人を焼き殺した。後に「韓媛」は21雄略の后となり 22清寧を産んだ。
④この時宅7区が天皇直轄領である葛城県となった。
⑤この後同族の平群氏が、大臣についた。
ーーーーー葛城氏は、5世紀末に衰退した。ーーーー

【物部王朝】
 記紀の記録に従って記せば、2綏靖天皇ーーー7孝霊天皇までを時代的には物部王朝とする。8孝元天皇は物部氏の娘を妃にして、物部王朝は新王朝にとって替わられたことを記してある。9開化天皇も物部氏の娘を妃にした。この2代が葛城王朝と称することにした。この中に「円大臣」なる人物(襲津彦の孫又は曾孫)が記されている。記紀ではこの大臣の時雄略天皇から葛城氏は勢力が大王家を脅かす恐れ有りとされ家屋敷一族郎党総て焼き払われ滅ぼされた。但し娘の韓媛だけは雄略天皇の后に差し出されたので助かった、とされている。

 ところで、京都府長岡京市に「角宮神社」なる古い神社がある。古くは「乙訓神社」と言われたらしい。(記紀にも記事あり)京都上賀茂神社の祭神「賀茂別雷神」の母親(玉依姫)を祀ってある。この地は元々葛城地方にいた賀茂族が、大挙して葛城の地を離れ山代岡田を経て久我ー乙訓そして賀茂県主となっていったとされている。この賀茂族と葛城王朝、豪族「葛城氏」の関係を知ることに興味がある。葛城氏の血筋を引かない雄略天皇の頃(5世紀中頃?)その葛城氏は 、滅ぼされた。(参考文献)
・門脇禎二「葛城と古代国家」講談社学術文庫
・門脇禎二「古代王朝の女性」暁教育図書
・網干善教ら「古代葛城とヤマト政権」学生社(2003)
・井上光貞「帝紀からみた葛城氏」(日本古代国家の研究)岩波書店(1965)
・鳥越憲三郎「女王卑弥呼の国」ーーー物部王朝論三王朝交代説は、水野祐が昭和29年(1954年)『増訂日本古代王朝史論序説』を発表したことに始まる。


 水野祐によれば、大和政権の時代、初代神武天皇から第9代開化天皇ほか、18代の天皇は創作された架空の天皇であるとしている。その上で紀元200年ころ成立したとされる第10代の崇神天皇より始まる王朝、363年頃の第16代仁徳天皇より始まる王朝、そして500年頃の第26代継体天皇より始まり現在の天皇家に至る王朝があるという。これによると、大和政権の成立は、纒向遺跡(まきむくいせき)の成立の頃の200年頃になる。現在の天皇家は継体天皇より始まり、1500年の歴史を経過しているということになる。 

 これに対して、鳥越憲三郎は、神武天皇より第9代の開化天皇までは、実在の天皇であるとして 葛城王朝説を唱えた。現在では、崇神天皇より始まる王朝を三輪王朝、仁徳天皇より始まる王朝を難波王朝とか河内王朝、継体天皇より始まる王朝を近江王朝などと呼ばれている。

【第21代雄略天皇譚、ヒトコトヌシ】
 
 或る時、雄略天皇は葛城山に登り、大きな猪と遭遇した。天皇は鳴鏑を猪に向け放った。矢を射られて怒った猪は唸り声を出し、天皇の方へ向かってきた。唸り声を聞いて恐ろしくなった天皇は木の上に逃げ登った。

 日本書紀雄略天皇4年春2月の条。古事記にも同様の記述があり、以下の如く推論する。

 また或る時、天皇が葛城山に登ったとき、お供のたくさんの官人たちはみな、紅い紐をつけた青いすりぞめの衣服を着ていた。向かいの山の尾根伝いに天皇の行幸の列そっくりに歩む姿が見えた。「この大和の国で私以外に大君はいないはずなのに、一体誰が私と同じ様子で行くのか?」。このようにお供のものと話していると、同じような内容の言葉がその山からも聞こえてきた。「無礼な!」。こういうと天皇は矢を弓につがえ、大勢の官人もみな矢をつがえた。すると、向こうの人もみな弓に矢をつがえる。「それでは、そちらから名を名乗れ! そして、互いに名を名乗ってから矢を放とうではないか」。「分かった、そうしよう。私が先に問いかけられたのだから、私が先に答えよう。私は悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城のヒトコトヌシの大神である」。

 それを聞いた天皇は恐れかしこまってしまった。「それは恐れ多いことでございます、わが大神よ。現実のお方であろうとは気づきませんでした」。そういって天皇は、自分の太刀や弓矢をはじめとして、多くの官人の着ている衣服を脱がせて、拝礼し献上した。ヒトコトヌシはお礼の拍手をして、その献上品を受け取った。そして、天皇が皇居に帰る際には、ヒトコトヌシの一行は山の頂きに大勢集まって、泊瀬の山の入り口まで送った。

 
 或る時、雄略天皇は葛城山に登り、大きな猪と遭遇した。天皇は鳴鏑を猪に向け放った。矢を射られて怒った猪は唸り声を出し、天皇の方へ向かってきた。唸り声を聞いて恐ろしくなった天皇は木の上に逃げ登った。

【金剛山葛木神社】
 金剛山葛木岳頂上に鎮座する葛木神社。御祭神は葛木一言主大神。神社の創祀は今から約2000年前の崇神天皇の御代、事代主神を奉祀したことに始まると伝わる。..また1300年前、役行者が金剛山寺(現:転法輪寺)を創建した際に、鎮守として祖神である葛木一言主大神を奉祀したとも云われている。古事記では雄略天皇に【吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神】と名乗った事が記されている。また日本霊異記では、一言主神を役行者が使役したとされている。

【葛城座一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社】
 奈良県御所市森脇にある。社式内社(名神大社)で旧社格は県社。全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社。一言の願いであれば何事でも叶えて下さる神様として「いちごんさん」や「いちこんじさん」と呼ばれ、古くから里びとはじめ全国各地から信仰を集めている。

 一言主大神は、第21代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をした時、天皇と同じ姿で葛城山に顕現したと伝わる地、神降(かみたち)に祀られている。雄略天皇は大神であることを知り大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献して深く崇敬、大いにご神徳を得られたと伝えられている。葛城古道の傍に深緑の中に清々しい静寂な神社として鎮座している。

【高鴨(たかかも)神社】

 但し、続日本紀の天平宝字8年(764年)11月の条は次のような伝承を記している。

 「かって葛上郡(かつらぎかみのこおり)では高鴨神(たかかものかみ)を祀っていた。賀茂氏らが云うには、『その昔、雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、老人が姿を見せ、天皇と狩りを競った。天皇はお怒りになり、この老人を土佐国に流した。それは我々の先祖が祀っていた神が老夫となって現われたものだったのです』。時の淳仁(じゅんにん)天皇は、土佐からこの神をヤマトに戻すことを許した」。


 縄文・弥生時代祭祀の 強い霊力持つ高鴨(たかかも)神社。奈良県御所市。高鴨神社は大阪府との県境にある金剛山の山麓に鎮座する古社。京都の上賀茂・下鴨神社はじめ全国賀茂社の総本宮で日本最古とうたわれる神社のひとつ。特に霊験が著しいとされる名神大社のうちの一社に列し、何と紀元前4世紀~5世紀、縄文時代の最晩期から弥生時代前期の頃に最初の神殿が造営され、祭祀が執り行われていた云々。悠久の地・葛城古道ウォーク。神気に満ちた東神社・西神社。


【九品寺】
 奈良県御所市楢原の「九品寺(くほんじ)」。葛城古道、葛城山の麓にある浄土宗の寺院。山号は戒那山(かいなさん)で本尊は阿弥陀如来。境内や裏山には「千体石仏」と称される多数の石仏がある。開いたのは大仏建立の功績により日本で最初に大僧正となった奈良時代の僧・行基。「神々のふるさと葛城古道」。九品寺を訪れると山門前の丘から美しい大和風景が広がる。手前の蓮畑の向こうに大和三山がぽっかりと浮かんで見える。お寺の左手にある十徳園。

【葛城二十八宿】
 河内長野市立ふるさと歴史学習館。河内長野市にある葛城二十八宿を巡拝。第14経塚から第18経塚までが本市に位置しておりますが、第14経塚に関しては、光瀧寺と鏡ノ宿の二つの説がある。光瀧寺は滝畑なので河内長野市ですが、鏡ノ宿は南葛城山の東にあり、河内長野市の境界を少し越えて橋本市になる。鏡ノ宿は、楠木正成公が遠見して鏡を埋めたと言われている。第15経塚から第18経塚までの写真。




(私論.私見)