大神神社東の桜井市出雲十二柱神社

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大神神社東の桜井市出雲十二柱神社」を確認しておく。

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【大神神社東の桜井市出雲十二柱神社】
 2012.12.4日、蜻蛉由岐彦(あきつ ゆきひこ)「とんぼ・ど・しろーと」の「桜井市出雲の十二柱神社」参照。
 十二柱神社・宿禰塚・武烈天皇泊瀬列城宮伝承地

  三輪山(h467)の東へ約2キロに巻向山(h567)がある。巻向山の頂上から初瀬川へと下る、釣り鐘の形をした一帯を出雲という。国道165号線の北を走る旧伊勢街道に面して、十二柱神社が鎮座する。十二柱神社はこの出雲の産土神社である。石灯籠の銘に「奉造立十二柱権現社寛文元(1661)年八月吉日」とある。御祭神は十二柱(実際は十五柱)の神様である。

神世七代の神 国常立神(クニトコノカミ)、国狭槌神(クニノサツチノカミ)、豊斟淳神(トヨクチヌノカミ)、土泥煮(ウイジニ)・沙土煮(スイジニ)神、大戸之道(オオトノジ)・大苫辺(オオトマベ)神、伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)神、面足(オモタル)・惶根(カシコネ)神。
土地神五代の神 天照大神、天忍押穂耳(アメノオシホミミ)尊、瓊瓊杵(ニニギ)尊、彦火火出見(ヒコホホデノ)尊、彦波瀲武草葺不合(ヒコナギサタケウガヤフキアエズ)尊。

 「十二所(じゅうにしょ)神社、十二社(じゅうにしゃ)神社、十二(じゅうに)神社という名前の神社は日本全国に存在し、十二社(じゅうにそう)と称するものもある。古くからの十二様と称する土着の山の神を祀ったものと、熊野神社の系列のものとがある。前者の信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして、東日本の山間部に分布する。後者は十二所権現社などとよばれる熊野三山(熊野権現)を勧請して祀ったものである。それらの中には、明治の神仏分離によって祭神を「天神七代・地神五代としている所もある」(wikipediaから)。

 「大昔は神殿がなくて「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700mの嶺の上にあった古代の出雲集落地)の磐座(いわくら)を拝んだ。明治の初めごろまで年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ登って出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲したり遊んだり食べたりした(昭和64年に採録された当時83歳の古老の話)。

 神社は巻向山の頂上から真南に位置しているので、元々は巻向山の山の神を礼拝していたもので、江戸時代に社殿を創建するときに、熊野権現の形を採用して十二柱神社としたのではないか。吉野裕子氏の「山の神」(講談社学術文庫)によると、「山の神の正体はというと、蛇か猪のどちらかということに決まっているのである」。十二支の亥(がい)は猪(豚)を表すことから、巻向山の神様も猪の神で十二様などと呼ばれていたのではないだろうか。

 私は猪のカミは原始的な製鉄法とともに、弥生時代の初め頃に、大陸から渡り来たったカミなのではないかと考えている。(→2012年3月4日「鐸と水辺の鉄(1)」,2011年3月12日「白鳥御陵(1)」ヤマトタケルに呪いをかけた伊吹山のカミは白猪であった。伊吹は息吹のことで、製鉄に関係する地名である。ヤマトタケルは琵琶湖周辺の鉄資源を求めて伊吹山を攻略しようとしたのではないか)

 また熊野のカミも製鉄に関わりの深いカミである。熊野のクマはカミの古語だとするのが通説である。しかし、タタラ製鉄では熔融銑鉄をユ(湯)、溶鉱炉の粘土製の覆いをユヤ(湯屋)と呼び、これに熊野(ゆや)の字を当てたので熊野=クマノになったのだとする説もある。北関東・甲信越地方の熊野信仰の広がりは、こちらの方が説明しやすいかもしれない。

 地元では野見宿禰(のみのすくね)はこの出雲に住んでいたと広く信じられている。野見宿禰の墓だとされる宿禰塚が明治16年まで出雲村大字小字塔にあった。この2.85mの巨大な五輪塔は鎌倉時代のもので、宿禰塚の上に立てられていたものである。宿禰塚は直径20メートルほどの大きな塚であったが残念なことに、明治16年に取り壊されてしまった。親子勾玉(子持ち勾玉)、埴輪、直刀、土器などが出土しているらしい。

 野見宿禰の野見とは出雲の地名で、現在の島根県飯石郡飯南町上赤名にあたる。私は野見の宿禰は、この野見からやってきて、三輪山の祭祀に用いる祭器を製作する技術者集団の長だったのではないかと考えている。5世紀の頃に、素焼きの土師器(はじき)に代わって、還元焰で焼成された、より堅緻な須恵器が用いられるようになるが、この技術の導入にも関わっていたのではないか(野見の宿禰については2008年9月21日「相撲神社」を見よ)。

 埴輪を造って殉死の風習を廃絶した功績により、野見の宿禰は垂仁天皇から土器臣(はじのおみ)の姓を賜り、天皇の喪葬(みはふり)や古墳の造営を司る土師氏の先祖となった。大阪府藤井寺市に近鉄南大阪線「土師ノ里」駅があり道明寺天満宮の境内に土師神社がある。土師氏が河内平野へ進出するに際して、葬送儀礼に関わる当麻(たいま)氏と職掌を争うことがあって、このことから相撲起源説話が生まれたのではないかともいわれている。土師氏は桓武天皇のときに分かれて、菅原氏、秋篠氏、大江氏と名を変えた。なお箸墓古墳の箸とは土師(はじ)が転訛したものだとする説がある。傾聴に価する。

 →2012年9月21日「相撲神社」
 
 この神社のあたりに武烈天皇の泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)があったといわれている。

  出雲の流れ地蔵

 室町時代に造られた石地蔵が御本尊。1811(文化8)年に大洪水があって、長谷寺の桜馬場というところから流れてきたのを、出雲村の人々が祀ったとのことである。

 白山神社・雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地・万葉集発耀鑽仰碑

 「桜井市黒崎の『天の森』が朝倉宮伝承地であろうとの説は『大和誌』や『日本書紀通証』などで述べられているが、立地的にみて、宮を営むのに適地ではない。保田輿重郎氏は、この白山神社付近をその候補地として神社境内に祈念碑を建立したものである」(桜井市教育委員会)。

 
 万葉集発燿讃仰碑は、万葉集第一巻第一歌が、雄略天皇の御製歌で始まっていることにちなんで保田與重郎が立てたものである。保田與重郎は、昔「日本の橋」を読んだことがあるが、日本浪漫派については、あまり詳しいことは知らない。初瀬川はこの辺りから、北西に向きを変え、大和川という名前になる。

 出雲的なるもの

 30数年前のことであるが、梅原猛氏は「神々の流竄」において、記紀における出雲神話はヤマトで成立した物語を、物部氏を顕に対する幽の世界に封じ込めるために舞台を出雲に移し替えたものだと主張された。たとえばヤマタノオロチは物部氏に祀られた三輪山のカミのことだとするような解釈である。オロチ退治に類した伝承が事実桜井市の出雲に残っていたことから、出雲の地名もヤマトの方が先だと言われていたように記憶している。

 天孫降臨神話と持統帝、元明帝の関係、中臣祝詞の解釈、藤原鎌足=豊璋説などはかなり勉強になったが、因幡の白ウサギが宗像氏のことをいっているとか、桜井の出雲をもとに出雲神話が出来たとかの説には、どうも納得できないという思いがあったのである。私はそのころから桜井市の出雲に興味を抱いていた。

 この本が出た当時は、出雲はヤマトにくらべて考古遺物に乏しいとされ、出雲に独立した勢力があったか確証出来ないという雰囲気だったらしいが、その後神庭(かんば)荒神谷遺跡から358本の銅剣が発見され(1984年)、加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が発見され(1996年)、また四隅突出形古墳、方墳、前方後方墳などの研究が進展し、出雲地方に独自の文化を持った大勢力が存在したことが確実視されるようになった。梅原先生も「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解く」(新潮社)で旧説を改められ、出雲王朝の存在を認めておられるようである。

 記紀の記述から出雲のイメージを描いてみると、出雲人とは、鉄器、青銅器、土器の製作、建築、薬、医療の分野で弥生時代の最先端の技術を保持し、蛇体のカミを崇拝し(ヤマタノオロチは勿論だが、櫛稲田姫の親のテナズチ、アシナズチも名前から判断すると蛇の精霊である)、「大きな袋を担いだ大黒様(=オオクニヌシ)」から推測するに商売で各地を周り、筑紫や越、信濃などと広範囲に交易していたようにみえる。

 私は三輪山のオオモノヌシも出雲人がもたらしたカミで、それとともに製鉄、製陶の職人集団が燃料を求めて巻向山に住み着くようになり、それでこの地が出雲と言われるようになったのだと考える。それもかなり早い時期、弥生時代の初めごろからヤマトに交易を目的に進出していたのではないだろうか。

 弥生中期に奴国から物部氏がやってきて出雲系の部族と協同してヤマトの経営にあたった。トミノナガスネヒコは出雲系なのではないか。

 このように考えるとオオクニヌシの国譲り神話には、ヤマトにおいての天孫族への権力の移譲と、出雲王朝の大和朝廷への服属という二つの意味が込められているように思われる。


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(私論.私見)