梅原猛「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―」考

 更新日/2019(平成31).1.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝


 2010.8.5日、梅原猛・氏の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―」(新潮社、2010.4.25日初版)を読了した。同書に対して次のような推薦辞が添えられている。
 「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―梅原猛 ヤマタノオロチや因幡のシロウサギなどで知られる出雲神話、それは天皇家につながるアマテラスの系譜とは別個の、スサノオを祖とした、もう一つの王家の物語である。もしこの王朝が歴史的に実在するものであったなら……。『隠された十字架』、『水底の歌』以来の、日本古代史を塗り替える衝撃的な論考!」。

 れんだいこは偶然にも梅原氏の他の著作は読んでいないのだけれども、本書が恐らく梅原史学の現段階を凝縮せしめた好著足り得ているだろうと思う。梅原氏は去る日、「神々の流竄(るざん)」(集英社文庫、1985.12.13日初版)を著し、出雲王朝否定説を展開していた。にも拘わらず本書でまさしく自己否定してみせ、逆に出雲王朝実在説を説くと云う芸に転換している。いわゆる功成り名を遂げた学者としてはできにくいことを平然として為した凄(すご)みこそ窺うべきであろう。れんだいこは、梅原氏のこの挙により、梅原史学をもう少し探索して見たくなった。これが「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―」の真の効果なのではなかろうか。

 もっとも、梅原氏の出雲王朝実在説は緒に就いたばかりの気がする。今後の展開こそ期待して余りあると云うべきだろう。いわゆる出雲王朝実在説は、邪馬台国論との絡みで言及されねば真価を発揮しない。梅原史学はそれには未だ遠い。


  「はじめに 出雲へ」で次のように述べている。
 「我々は学問的良心を持つ限り、出雲神話は全くの架空であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになる。旧説に対する厳しい批判が必要であるが、それは私にとっても大変辛いことである。しかし学者というものは、自分の旧説が間違っていたとすれば、自説といえども厳しく批判しなければなるまい。(中略)このような思想の冒険を行った私が齢84を超えて、あえて今まで多くの学者が信じてきた通説を批判し、新説を唱えることに何を恐れることがあろう。私が恐れるのは通説に安住することであり、真理を語って孤独になることではない。私の人生は残り少ない。遺された人生に於いて私は真理を語りたいのである。世間の評価など、何を恐れる事があろう。私はこの論文でそのような思想の冒険を行おうとしている」。

 本文でも次のように述べている。
 これで出雲神話が、決して古事記編集者が勝手に作り上げた全くのフィクションではなく、歴史的事実を正確に反映したものであることが分かっていただけたものと思う。(中略)それにはます、本居宣長と津田左右吉の説を批判しなければならない。戦前の記紀論は、おおむね本居宣長の説に支配されていたといっていい。宣長は、今まで軽視されていた古事記こそ日本の『神ながらの道』が表れた神典であると考え、古事記の注釈書を書くことに一生を捧げた。その書が有名な古事記伝である。

 それに対して、戦後の歴史学者の多くは津田左右吉の説によっている。津田はまことに綿密な考証によって古事記、日本書紀の研究を行った。それが昭和23年(1948)、日本古典の研究と題する一冊の書物としてまとめられた。この書で津田し、日本神話ばかりでなく、記紀の応神天皇以前の記事をすべて信用できないと否定する。そしてそれらの神話は、6世紀の末、おそらく欽明天皇の御世に、天皇家に神聖性を付与する為に創作されたフィクションであるとしてしまう。彼は『日本神話は偽造された』と一刀のもとに日本神話を切り捨ててしまった。戦時中、津田説は出版法に触れたが、そのことが却って津田左右吉の学者としての良心の証であると考えられ、津田説は、家永三郎氏の如き戦後左翼に転向した歴史家のみならず、井上光貞氏の如きマルクス主義を採用しない冷静な歴史家すら影響を受けるところとなった。

 つまり記紀を解明するには、この二人の説、本居宣長と共に津田左右吉を徹底的に批判しなければならない。さらにもう一つ、批判しなければならない説がある。それは誰あろう私自身の説である。(中略)日本神話を解明する為には、本居宣長説、津田左右吉説と共に、私の旧著『神々の流ざん』をも厳しく批判しなければならない。

【梅原履歴考】
 2019.1.12日、独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター(日文研、京都市西京区)の初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが死去した(享年93歳)。日本古代史に大胆な仮説を展開。

 1925.3.20日、宮城県仙台市で生まれた。実父は愛知一中、八高を経て、梅原の出生当時は東北帝大の学生だった梅原半二。実母は、半二が下宿していた仙台の魚問屋の娘・石川千代。ともに学生だった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため私生児として誕生した。乳児期に実母を亡くし、生後一年九ヶ月で知多半島の名士で、梅原一族の棟梁である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られ養子となる。実父の梅原半二(工学博士)は工学博士。大学講師を退職後、3軒のバー・キャバレーを経営していたが、豊田喜一郎に誘われ、技術の世界に復帰。後にトヨタ・コロナを設計した。著書に技術者としての経験をまとめた『純の中の不純』(黎明書房、1974年)、自伝的な『平凡の中の非凡』(佼成出版社、1990年)がある。小説家の小栗風葉は養母・俊の兄に当たる。同じく小説家の小中陽太郎は養母の姪の夫にあたる。戦後トヨタ自動車に入社、トヨタ自動車常務取締役や豊田中央研究所所長などを務めた。

 愛知県知多郡で育つ。

 旧制東海中学校(私立東海中学校・高等学校)卒業。東海中学には、南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半をかけて通学した。

 1942年、広島高等師範学校に入学するが二ヶ月で退学。

 1943年、旧制第八高等学校(名古屋大学教養部)に入学。理科系の父に似て数学が得意だったため、父や周囲から文科進学に反対されたのを、押し切っての進学だった。卒業。

 青年期に西田幾多郎、田辺元ら京都学派の哲学に強く惹かれ、大学進学に際しては東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都学派の影響が残る京都帝国大学哲学科で学ぶかの選択に迷った。

 1945年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。その年田辺は退官しており、西田もすでに1928年に京都帝国大を退職していたが、梅原は京都帝国大哲学科には西田の影響が存在すると考え、京大への進学を選択した。父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可した。入学直後、徴兵され、9月復学。 大学時代には、実父のところに戻り、父が務めていたトヨタ自動車に近い愛知県岡崎市矢作町や定光寺などにも居住した。

 1948年、京都大学哲学科卒業。

 1949年、京都大学特別研究生(哲学専攻)。大学院では山内得立田中美知太郎に師事、マルティン・ハイデッガー哲学に惹かれつつもギリシア哲学を専攻、しかし二度にわたって田中と対立した。20代後半、強い虚無感に襲われて、賭博にのめりこむような破滅的な日々を送る。

 1951年、最初の論文「闇のパトス」。哲学論文の体裁をとっておらず甚だ不評だったが、のちに著作集第一巻の表題となる。

 同年、養母・俊の勧めでピアニストの夫人と結婚、同年、長女が生まれる。この頃、ヘラクレイトスについての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味でひまりと名づける。ひまりはのちヴァイオリニストとなった。

 この頃、ハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「壬生忠岑『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。

 「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、フリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデッガー実存主義哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したのだと言う。寄席に通い、渋谷天外藤山寛美大村崑などを研究の対象として論文を書いた。 その後は精力的に神道、仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。 京都若王子(京都市左京区、哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住む。

 1952年、龍谷大学文学部専任講師
 1955年、立命館大学文学部専任講師。
 1957年、立命館大学文学部助教授
 1967年、立命館大学文学部教授

  60年代から日本文化研究に傾倒する。

 1965年、仏像案内のテレビ番組の司会をし、これを本にした『仏像-心とかたち』を佐和隆研望月信成との共著で刊行、毎日出版文化賞を受賞。40歳過ぎまで単著はなかった。自ら著作集の自序において語るところによれば、これは「処女作というものは頭の先からしっぽまでもすべて独創的であるべきだ」という自己の信念のためであったという。

 1967年、中公新書から『地獄の思想』を刊行し、古代から宮澤賢治太宰治に至る記述を行い、ベストセラーとなる。

 1970年、立命館大学文学部教授辞職(大学紛争に当たり)。

 1972年、京都市立芸術大学美術学部教授。

 1972年、奈良・法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたとする「隠された十字架―法隆寺論」を出す。第26回毎日出版文化賞。

 1973年、万葉歌人の柿本人麻呂は流刑死したとする「水底(みなそこ)の歌―柿本人麿論」を刊行。通説を覆す独創的な論は「梅原古代学」と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。第1回大佛次郎賞。

 その後日本仏教の研究を行い、釈迦からインド仏教中国仏教を経て鎌倉新仏教までを述べる長編の仏教史「仏教の思想(共著)」を著すなど、多くの対談等の本、『美と宗教の発見』等の論文集刊行ののち、創刊された文芸雑誌『すばる』を舞台に、古代史に関する研究的評論の連載を始める。該博な知識による大胆な仮説により、「梅原古代学」、「梅原日本学」、「怨霊史観」といわれる独特の歴史研究書を多数著している。梅原日本学は主に三つの柱からなる。 一つは、古事記の神話に関する独特の解釈。論文「神々の流竄」で展開。古事記の神話を史実でもなく、全くのフィクションであるということでもない、藤原不比等による律令国家の「イデオロギーの書」であるとする解釈である。同時に古事記を誦習した稗田阿礼は藤原不比等であるという説を打ち立てる。二つ目は、法隆寺に建立に関する独特の解釈。『隠された十字架-法隆寺論』(1972年)で展開。法隆寺聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説。その中から、大胆な仮説を刊行して毎日出版文化賞を受賞している。三つ目は、柿本人麻呂の生涯に関する新説。『水底の歌』(1972年 - 1973年)で展開。「柿本人麻呂は低い身分で若くして死去した」という近世以来の説に異を唱え、高い身分であり高齢になって刑死したとする説。正史に残る人物、柿本猨を柿本人麻呂とする。梅原説の信奉者の有名人には井沢元彦がいる(ただし『水底の歌』が成り立たないことは『猿丸幻視行』に書いてある)。

 1974年、京都市立芸術大学学長。

 1983年、京都市立芸術大学学長再選。

 1986年、京都市立芸術大学名誉教授。

 1986年、国際日本文化研究センター創設準備室長。80年代前半のこの頃、日本文化を総合的に研究する中心機関の必要性を訴え、当時の中曽根康弘首相に直談判するなど政府関係者を説得。日文研の創設にこぎ着ける。

 1987.5月、国際日本文化研究センター初代所長に就任。

 1991年、皇居歌会始に召人として出席。

 同年、「国際日本文化研究センターの創設と多年にわたる独創的な日本研究」に対して第44回中日文化賞。

 1992年、文化功労者顕彰。実存哲学について研究に取り組み、その後、「梅原日本学」と呼ばれる独自の世界を開拓した。また、「スーパー歌舞伎」、「スーパー能」を創作するなど、幅広い活動を行った。これらの業績が評価され、文化功労者に選出された。

 1995.5月、 国際日本文化研究センター退任。国際日本文化研究センター顧問・名誉教授。

 1997年、日本ペンクラブ会長に就任。以来、3期6年務めた。

 1998年、京都市名誉市民顕彰。

 1999年、文化勲章受章。

 他にも京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長を贈られている。平城遷都1300年記念事業特別顧問。

 2001.4月、ものつくり大学初代総長。

 2004年、「九条の会」呼びかけ人の一人となる。

 2006年、源氏物語千年紀の呼び掛け人となる。

  日本漢字能力検定協会の大久保理事長に依頼され、約10年にわたって同協会の評議員を務めていたが、その間、会議出席などの評議員としての活動を全く行っていなかった。2009年に発覚した協会運営問題に際し、このことについて「信用したことを後悔している。関連会社への委託などとんでもないことで、評議員の機能を果たせなかった自分への怒りも感じる」と弁解した。

 2011.4月、東日本大震災復興構想会議の特別顧問(名誉議長)。

 2013年、立命館大で講演。

 同年、「人類哲学序説」(岩波書店)を著わし、初期の西洋哲学実存主義研究、そして日本文化研究・梅原日本学を経て、哲学的・倫理学的な「人類哲学」を提唱した。まず梅原は、ギリシア哲学を起源とする西洋文明に特徴的な「哲学philosophía」のあり方を指摘する。「中国哲学」や「インド哲学」というような呼び方は、西洋哲学の基準に合わせてそう呼んでいるだけであり、「哲学philosophía」は未だ西洋哲学しかない、と梅原はいう。梅原は、西洋文明の枠内に留まらない、あらゆる文明・文化圏、地球のすべての人類に対応できる「人類哲学」を打ち立てようとし、その鍵となる概念を仏教用語「草木国土悉皆成仏」として提示する。『人類哲学序説』では、まず近現代哲学の批判的検証がなされており、ルネ・デカルトフリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデガーを主な批判対象(肯定的に評価している点や、梅原自身が影響を受けた点なども記されている)として西洋哲学における人間中心主義の問題とそれを西洋哲学の枠内で乗り越えようとすることの限界が論じられ、その上で「草木国土悉皆成仏」へ至る議論が展開されている。

 2019年1月12日、逝去(享年93歳)。

 臓器移植反対論者としても知られている。原子力発電所に対しても1980年代から反対論者の立場を取る。

 長男に芸術学者・美学者で京都造形芸術大学芸術学部教授の梅原賢一郎。その妻はノーベル賞学者福井謙一の娘の美也子。長女にバイオリニストで京都造形芸術大学非常勤講師の梅原ひまり。その夫は京都造形芸術大学副学長で建築家の横内敏人

 親友に京大哲学科からの同級生である橋本峰雄藤沢令夫立命館大学勤務時代に同僚だった白川静がいる。若い頃最も親しかったのは源了圓だという。京大哲学科の4年先輩に当たる上山春平も親友。上山に誘われ、当時・京都大学人文科学研究所教授の桑原武夫らと知り合い、交友を深め知遇を得ることになる。

 司馬遼太郎とも長年の交友がある。司馬の作品である『空海の風景』の正直な批評を出したが、彼を激怒させて以来、二人は犬猿の仲となる。その後は和辻哲郎文化賞の選考委員を互いに務めた縁で仲が直り、司馬の死去に関しては、追悼文も書いている(国際日本文化研究センター設立以前、梅原は司馬に評議委員として選出しようと懇願したが、断られた)。

 生前に交流はなかったが、三島由紀夫と同年齢であり、三島の死後に梅原の飛躍があったことから、「三島が自分に乗り移った」と思っている。高橋和巳とは交友があり、高橋の死後、自分は長いものを書くようになったから、高橋が乗り移ったと言っている。


【梅原猛語録】
 社会的発言も多く、日本人の死生観をもとに「脳死」の考え方に強く反対したほか、イラク戦争や自衛隊の海外派遣の反対、平和憲法擁護なども訴えた。一方で、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の創作など劇作家としても活動し、多才ぶりを示した。

 「21世紀にはこの科学技術の信仰に対する厳しい批判が起こるに違いない。脳死を人の死とする今回の衆院の決定は、科学技術万能思想に対する人類の英知の闘いの外堀を埋めることになると思う」(1997年、朝日新聞への寄稿で)

 「美なるもの、真なるものを求め続けるのが哲学者の精神」「デカルトからは通説を疑うことを学んだ。長い疑いの末に直観的に仮説が生まれる。ニーチェからは心の奥深い闇を見つめることを学んだ」(2013年、京都市での講演で)

 「デカルトの『方法序説』によって私は学問の方法を学んだ。学問にはまず『疑い』がある。その疑いは、それまでの通説に対する深い疑いである。そのような長い疑いの末、直観的に一つの仮説を思いつく」 

 梅原猛さんは米寿(88歳)の時の講演で、こう述べた。自らを哲学者と呼び、「すべてを疑い、権威に対して戦うことが哲学者の任務」と公言した。

 縄文論では、縄文文化が「日本固有のものでアイヌ文化と共通する」とした。日本文化を稲作とその上に成立した権威体制ととらえる従来説に対する革命的な論と評価される一方、文化の歴史的変遷を無視した「危険な日本賛美論」とする批判もあった。


 日本仏教を中心に置いて日本人の精神性を研究する。西洋哲学の研究から哲学者として出発したが、西田幾多郎を乗り越えるという自身の目標のもと、基本的に西洋文明(すなわちヘレニズムとヘブライズム)の中に作られてきた西洋哲学、進歩主義に対しては批判的な姿勢をとる。その根幹は、西洋哲学に深く根付いている人間中心主義への批判である。西洋哲学者が多い日本の哲学界のなかで、異色の存在である。

 鈴木大拙を近代日本最大の仏教学者と位置付け、その非戦論の重要性を訴える。また「梅原日本学」と呼ばれる一連の論考では飛鳥時代の大和朝廷の権力闘争を追求するなど、古代日本史の研究家としても知られる。天皇制への支持は強く、世界主義と排外的ナショナリズムの双方に批判的である。靖国神社や憲法改正には基本的に否定的な立場を採る。イデオロギーの学術への介入それ自体を批判している。

 熱烈な多神教優位論者、反一神教主義者である。多神教は一神教より本質的に『寛容であり優れている』と主張しており、続けて多神教が主流である日本文化の優越性を説いている。その説は多くの「日本文化の優越を語る日本人論」に影響を与え、そのため梅原は、中曽根康弘が創設を主導した「国際日本文化研究センター」の初代所長に就任することになる。一神教的な思想と多神教的な思想について、古代ギリシアの哲学者であるプラトンアリストテレスを対比させる。アリストテレスのように生物の多様性に目を向けることが重要だと語る。

 市川猿之助劇団のために『ヤマトタケル』や『オオクニヌシ』、『オグリ』などの歌舞伎台本を書き、これが古典芸能化した近代歌舞伎の殻を破ったので、スーパー歌舞伎と称している。また『ギルガメシュ叙事詩』を戯曲化した『ギルガメシュ』は中国の劇団が上演し、中国の環境問題の啓蒙に大きな役割を果たしている。ただ、演劇では自分の思い通りにならないということで、小説版『ギルガメッシュ』を執筆しており、売れなかったが本作が自身で一番の作品だと語っている。『中世小説集』や『もののかたり』など説話に基づく短編小説集も評判をとっている。また『王様と恐竜』、『ムツゴロウ』、『クローン人間ナマシマ』などのスーパー狂言の台本も書いている。

 単著[編集]
  • 『地獄の思想』(中公新書、1967年)のち文庫
  • 『美と宗教の発見』(筑摩書房、論文集、1967年)のち講談社文庫、また、ちくま学芸文庫(2002年)
  • 『哲学する心』(講談社、論文集、1968年)のち文庫、学術文庫
  • 『笑いの構造』(角川書店、1972年)のち文庫
  • 隠された十字架 法隆寺論』(新潮社、1972年)のち文庫
  • 水底の歌 柿本人麿論』(新潮社、1973年)のち文庫
  • 『黄泉の王 私見・高松塚』(新潮社、1973年)のち文庫
  • 『さまよえる歌集』(集英社、1974年)のち文庫
  • 『塔』(集英社、1976年)のち文庫
  • 『湖の伝説 画家・三橋節子の愛と生』(新潮社、1977年)のち文庫
  • 『学問のすすめ』(佼成出版社、1979年)(自伝を含む)のち角川文庫(1981年)
  • 『歌の復籍』(集英社、1979年)のち文庫
  • 『怨霊と縄文』(朝日出版社、1979年)のち徳間文庫
  • 『聖徳太子』(小学館、1980年 - 1985年)のち集英社文庫(1993年)
  • 『仏教の思想』(角川書店、1980年)のち文庫
  • 『日本の深層――縄文・蝦夷文化を探る』(佼成出版社、1983年、新版、1985年)のち集英社文庫(1994年)
  • 『「歎異抄」と本願寺教団』(小学館 1984年)
  • 『精神の発見』(角川文庫 1985年)
  • 『日本学事始』(集英社文庫 1985年)
  • 『ヤマトタケル』(新潮社、スーパー歌舞伎、1986年)
  • 『文明への問い』(集英社文庫 1986年)
  • 『飛鳥とは何か』(集英社文庫 1986年)
  • 『日常の思想』(集英社文庫 1986年)
  • 『仏像のこころ』(集英社 1987年)(「仏像-心とかたち」から梅原執筆分)
  • 『写楽仮名の悲劇』(1987年、新潮社) のち文庫
  • 『最澄瞑想』(佼成出版社、1987年)
  • 『赤人の諦観』(集英社文庫 1987年)
  • 『日本冒険』全3巻(角川書店、1988年 - 1989年) のち文庫
  • 『ギルガメシュ』(新潮社、1988年)
  • 『古典の発見』(講談社学術文庫、1988年)
  • 『日本人の「あの世」観』(中央公論社、論文集、1989年)のち文庫
  • 『三人の祖師 最澄・空海・親鸞』(佼成出版社 1989年)
  • 『小栗判官』(新潮社、スーパー歌舞伎原作、1989年)
  • 『誤解された歎異抄』(光文社・カッパ・ホームス、1990年)のち文庫
  • 『日本の原郷熊野』(新潮社・とんぼの本、1990年)
  • 『人間の美術10巻――浮世と情念』(学習研究社、1990年)
  • 『〈森の思想〉が人類を救う――二十一世紀における日本文明の役割』(小学館、1991年) のち『森の思想が人類を救う』(小学館ライブラリー、1995年)、また、新版(PHP研究所、2015年改版)
  • 『海人と天皇』(朝日新聞社、1991年)のち新潮文庫、朝日文庫 
  • 『人間の美術7――バサラと幽玄』(学習研究社 1991年)
  • 『混沌を生き抜く思想――21世紀を拓く対話』(PHP研究所、1992年) のち文庫
  • 『日本人の魂 あの世を観る』(光文社カッパ・ホームス、1992年)
  • 『古代幻視』(文藝春秋、1992年)のち文庫
  • 『百人一語』(朝日新聞社、1993年)のち新潮文庫
  • 『梅原猛の『歎異抄』入門』(プレジデント社、1993年)のちPHP文庫
  • 『中世小説集』(新潮社、1993年) のち文庫
  • 『饗宴 随想と対話』(講談社、1994年)
  • 『将たる所以――リーダーたる男の条件』(光文社、1994年)
  • 『思うままに』シリーズ(文藝春秋)
    • 『世界と人間――思うままに』(文藝春秋 1994年)のち文庫
    • 『自然と人生――思うままに』(文藝春秋 1995年)のち文庫
    • 『癒しとルサンチマン――思うままに 』(文藝春秋、1997年)
    • 『亀とムツゴロウ――思うままに』(文藝春秋、1999年)
    • 『シギと法然――思うままに』(文藝春秋、2000年)
    • 『宗教と道徳――思うままに』(文藝春秋、2002年)のち文庫
    • 『戦争と仏教――思うままに』(文藝春秋、2004年)のち文庫
    • 『神と怨霊――思うままに』(文藝春秋、2008年)
    • 『親鸞と世阿弥――思うままに』(文藝春秋、2011年)
    • 『老耄と哲学――思うままに』(文藝春秋、2015年)
  • 『心の危機を救え――日本の教育が教えないもの』(光文社 1995年)のち文庫
  • 『梅原猛の世界』(平凡社、1995年)
  • 『もののかたり』(淡交社、1995年、)
  • 『共生と循環の思想』(小学館、1996年)
  • 『あの世と日本人』(日本放送出版協会・NHKライブラリー、1996年)
  • 『京都発見』全9巻(新潮社、1997年 - 2007年)
  • 『オオクニヌシ』(文藝春秋、1997年)
  • 『芸術と生命―ディオニュソスに魅せられて』(岩波書店、1998年)
  • 『天皇家の"ふるさと"日向をゆく』(新潮社、2000年)のち文庫
  • 『浄土仏教の思想〈巻8巻〉法然』(講談社 2000年) のち文庫、『法然――十五歳の闇』上巻・下巻(角川文庫、2006年)
  • 『脳死は本当に人の死か』(PHP研究所、2000年)
  • 『古事記』(学研M文庫、2001年)のち増補新版、『古事記(増補新版)』(学研プラス、2016年)
  • 『三度目のガンよ、来るならごゆるりと』(光文社、2001年)
  • 『梅原猛の授業』シリーズ(朝日新聞社)
    • 『梅原猛の授業――仏教』(朝日新聞社、2002年)のち文庫
    • 『梅原猛の授業――道徳』(朝日新聞社、2003年)のち文庫
    • 『梅原猛の授業――仏になろう』(朝日新聞社、2006年)のち文庫
    • 『梅原猛の授業――能を観る』(朝日新聞社、2012年)
  • 『王様と恐竜 スーパー狂言の誕生』(集英社、2003年)
  • 『法然の哀しみ』上巻・下巻(小学館、2004年)(梅原猛著作集第10巻、小学館、2000年、より文庫化)
  • 『梅原猛、日本仏教をゆく』(朝日新聞社、2004年) のち文庫
  • 『母ごころ 仏ごころ――豊かに生きる知恵』(小学館、2004年)のち文庫、『仏のこころと母ごころ』(小学館文庫、2006年)
  • 『日本の霊性――越後・佐渡を歩く』(佼成出版社、2004年)のち新潮文庫(2007年)
  • 『最澄と空海――日本人の心のふるさと』(小学館文庫 2005年)
  • 『親鸞の告白』(小学館文庫 2006年)
  • 『神殺しの日本 反時代的密語』(朝日新聞社、2006年)のち文庫
  • 『歓喜する円空』(新潮社、2006年)のち文庫
  • 『親鸞のこころ――永遠の命を生きる 』(小学館文庫、2008年)
  • 『うつぼ舟』シリーズ(角川学芸出版)
    • 『うつぼ舟Ⅰ――翁と河勝』(角川学芸出版、2008年)
    • 『うつぼ舟Ⅱ――観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009年)
    • 『うつぼ舟Ⅲ――世阿弥の神秘』(角川学芸出版、2010年)
    • 『うつぼ舟IV――世阿弥の恋』(角川学芸出版、2012年)
    • 『うつぼ舟V――元雅の悲劇』(角川学芸出版、2013年)
  • 『日本の伝統とは何か』(2010年、ミネルヴァ書房
  • 『葬られた王朝――古代出雲の謎を解く』(2010年、新潮社)のち文庫(2012年)
  • 『京都鬼だより』(淡交社、2010年)
  • 『学ぶよろこび――創造と発見――』(朝日出版社、2011年)
  • 『梅原猛の仏教の授業――法然・親鸞・一遍』(PHP研究所、2012年) のち文庫
  • 『人類哲学序説』(岩波書店岩波新書、2013年)
  • 『縄文の神秘』(学研パブリッシング、2013年)
  • 『親鸞「四つの謎」を解く』(新潮社、2014年)のち文庫

編著・監修[編集]

  • 『日本とは何なのか』(日本放送出版協会NHKライブラリー、1990年)
  • 『脳死は、死ではない』(思文閣、1992年)
  • 『能を読む』(1)翁と観阿弥 能の誕生、(2)世阿弥 神と修羅と恋、(3)元雅と禅竹 夢と死とエロス、観世清和監修、天野文雄土屋恵一郎・中沢新一・松岡心平と編集委員(角川学芸出版、2013年)

共著[編集]

対談集[編集]

  • 『考える愉しさ 梅原猛対談集』(新潮社、1975年)
  • 『芸術の世界上下 梅原猛対談集』(講談社、1980年)
  • 『梅原猛全対話』全6巻(集英社、1984年)
  • 『少年の夢 梅原猛対談集』(小学館のちライブラリー、1994年)
  • 『九つの対話』(潮出版社、2000年)
  • 『美の奇神たち:梅原猛対話集』(淡交社、2013年)
  • 『人類哲学へ』(NTT出版、2013年)
  • 『少年の夢』(河出文庫、2016年)






(私論.私見)