梅原猛「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―」考 |
更新日/2019(平成31).1.14日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝 |
2010.8.5日、梅原猛・氏の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―」(新潮社、2010.4.25日初版)を読了した。同書に対して次のような推薦辞が添えられている。
れんだいこは偶然にも梅原氏の他の著作は読んでいないのだけれども、本書が恐らく梅原史学の現段階を凝縮せしめた好著足り得ているだろうと思う。梅原氏は去る日、「神々の流竄(るざん)」(集英社文庫、1985.12.13日初版)を著し、出雲王朝否定説を展開していた。にも拘わらず本書でまさしく自己否定してみせ、逆に出雲王朝実在説を説くと云う芸に転換している。いわゆる功成り名を遂げた学者としてはできにくいことを平然として為した凄(すご)みこそ窺うべきであろう。れんだいこは、梅原氏のこの挙により、梅原史学をもう少し探索して見たくなった。これが「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―」の真の効果なのではなかろうか。 もっとも、梅原氏の出雲王朝実在説は緒に就いたばかりの気がする。今後の展開こそ期待して余りあると云うべきだろう。いわゆる出雲王朝実在説は、邪馬台国論との絡みで言及されねば真価を発揮しない。梅原史学はそれには未だ遠い。 「はじめに 出雲へ」で次のように述べている。
本文でも次のように述べている。
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【梅原履歴考】 |
2019.1.12日、独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター(日文研、京都市西京区)の初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが死去した(享年93歳)。日本古代史に大胆な仮説を展開。
1925.3.20日、宮城県仙台市で生まれた。実父は愛知一中、八高を経て、梅原の出生当時は東北帝大の学生だった梅原半二。実母は、半二が下宿していた仙台の魚問屋の娘・石川千代。ともに学生だった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため私生児として誕生した。乳児期に実母を亡くし、生後一年九ヶ月で知多半島の名士で、梅原一族の棟梁である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られ養子となる。実父の梅原半二(工学博士)は工学博士。大学講師を退職後、3軒のバー・キャバレーを経営していたが、豊田喜一郎に誘われ、技術の世界に復帰。後にトヨタ・コロナを設計した。著書に技術者としての経験をまとめた『純の中の不純』(黎明書房、1974年)、自伝的な『平凡の中の非凡』(佼成出版社、1990年)がある。小説家の小栗風葉は養母・俊の兄に当たる。同じく小説家の小中陽太郎は養母の姪の夫にあたる。戦後トヨタ自動車に入社、トヨタ自動車常務取締役や豊田中央研究所所長などを務めた。 愛知県知多郡で育つ。 青年期に西田幾多郎、田辺元ら京都学派の哲学に強く惹かれ、大学進学に際しては東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都学派の影響が残る京都帝国大学哲学科で学ぶかの選択に迷った。 1948年、京都大学哲学科卒業。 「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの実存主義哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したのだと言う。寄席に通い、渋谷天外、藤山寛美、大村崑などを研究の対象として論文を書いた。 その後は精力的に神道、仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。 京都若王子(京都市左京区、哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住む。 60年代から日本文化研究に傾倒する。 1965年、仏像案内のテレビ番組の司会をし、これを本にした『仏像-心とかたち』を佐和隆研、望月信成との共著で刊行、毎日出版文化賞を受賞。40歳過ぎまで単著はなかった。自ら著作集の自序において語るところによれば、これは「処女作というものは頭の先からしっぽまでもすべて独創的であるべきだ」という自己の信念のためであったという。 1972年、奈良・法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたとする「隠された十字架―法隆寺論」を出す。第26回毎日出版文化賞。 1999年、文化勲章受章。 |
長男に芸術学者・美学者で京都造形芸術大学芸術学部教授の梅原賢一郎。その妻はノーベル賞学者福井謙一の娘の美也子。長女にバイオリニストで京都造形芸術大学非常勤講師の梅原ひまり。その夫は京都造形芸術大学副学長で建築家の横内敏人。 |
親友に京大哲学科からの同級生である橋本峰雄と藤沢令夫、立命館大学勤務時代に同僚だった白川静がいる。若い頃最も親しかったのは源了圓だという。京大哲学科の4年先輩に当たる上山春平も親友。上山に誘われ、当時・京都大学人文科学研究所教授の桑原武夫らと知り合い、交友を深め知遇を得ることになる。司馬遼太郎とも長年の交友がある。司馬の作品である『空海の風景』の正直な批評を出したが、彼を激怒させて以来、二人は犬猿の仲となる。その後は和辻哲郎文化賞の選考委員を互いに務めた縁で仲が直り、司馬の死去に関しては、追悼文も書いている(国際日本文化研究センター設立以前、梅原は司馬に評議委員として選出しようと懇願したが、断られた)。 生前に交流はなかったが、三島由紀夫と同年齢であり、三島の死後に梅原の飛躍があったことから、「三島が自分に乗り移った」と思っている。高橋和巳とは交友があり、高橋の死後、自分は長いものを書くようになったから、高橋が乗り移ったと言っている。 |
【梅原猛語録】 |
社会的発言も多く、日本人の死生観をもとに「脳死」の考え方に強く反対したほか、イラク戦争や自衛隊の海外派遣の反対、平和憲法擁護なども訴えた。一方で、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の創作など劇作家としても活動し、多才ぶりを示した。 「21世紀にはこの科学技術の信仰に対する厳しい批判が起こるに違いない。脳死を人の死とする今回の衆院の決定は、科学技術万能思想に対する人類の英知の闘いの外堀を埋めることになると思う」(1997年、朝日新聞への寄稿で) 「美なるもの、真なるものを求め続けるのが哲学者の精神」「デカルトからは通説を疑うことを学んだ。長い疑いの末に直観的に仮説が生まれる。ニーチェからは心の奥深い闇を見つめることを学んだ」(2013年、京都市での講演で) 「デカルトの『方法序説』によって私は学問の方法を学んだ。学問にはまず『疑い』がある。その疑いは、それまでの通説に対する深い疑いである。そのような長い疑いの末、直観的に一つの仮説を思いつく」 |
日本仏教を中心に置いて日本人の精神性を研究する。西洋哲学の研究から哲学者として出発したが、西田幾多郎を乗り越えるという自身の目標のもと、基本的に西洋文明(すなわちヘレニズムとヘブライズム)の中に作られてきた西洋哲学、進歩主義に対しては批判的な姿勢をとる。その根幹は、西洋哲学に深く根付いている人間中心主義への批判である。西洋哲学者が多い日本の哲学界のなかで、異色の存在である。
鈴木大拙を近代日本最大の仏教学者と位置付け、その非戦論の重要性を訴える。また「梅原日本学」と呼ばれる一連の論考では飛鳥時代の大和朝廷の権力闘争を追求するなど、古代日本史の研究家としても知られる。天皇制への支持は強く、世界主義と排外的ナショナリズムの双方に批判的である。靖国神社や憲法改正には基本的に否定的な立場を採る。イデオロギーの学術への介入それ自体を批判している。 熱烈な多神教優位論者、反一神教主義者である。多神教は一神教より本質的に『寛容であり優れている』と主張しており、続けて多神教が主流である日本文化の優越性を説いている。その説は多くの「日本文化の優越を語る日本人論」に影響を与え、そのため梅原は、中曽根康弘が創設を主導した「国際日本文化研究センター」の初代所長に就任することになる。一神教的な思想と多神教的な思想について、古代ギリシアの哲学者であるプラトンとアリストテレスを対比させる。アリストテレスのように生物の多様性に目を向けることが重要だと語る。 市川猿之助劇団のために『ヤマトタケル』や『オオクニヌシ』、『オグリ』などの歌舞伎台本を書き、これが古典芸能化した近代歌舞伎の殻を破ったので、スーパー歌舞伎と称している。また『ギルガメシュ叙事詩』を戯曲化した『ギルガメシュ』は中国の劇団が上演し、中国の環境問題の啓蒙に大きな役割を果たしている。ただ、演劇では自分の思い通りにならないということで、小説版『ギルガメッシュ』を執筆しており、売れなかったが本作が自身で一番の作品だと語っている。『中世小説集』や『もののかたり』など説話に基づく短編小説集も評判をとっている。また『王様と恐竜』、『ムツゴロウ』、『クローン人間ナマシマ』などのスーパー狂言の台本も書いている。 |
単著[編集]
編著・監修[編集]
共著[編集]
対談集[編集] |
(私論.私見)