補足/出雲王朝史5の3、れんだいこの国譲り論、その他諸氏の国譲り論考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).3.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 備中神楽の演目次第が「逸見芳春氏の神楽絵巻1」以下№11までサイトアップされている。早速これを購入してみる事にした。購入先は、「備北民報社の出版物のページ」の「神楽絵巻改訂版」。その後、神崎宣武氏編の「備中神楽の研究」(美星町教育委員会、1984.3.12日初版)を手に入れ、これらを参照に推敲した。

 いよ神楽考の本命中の本命、国譲り譚の考察に入ることにする。れんだいこは、神楽の演目はそれぞれ深い意味があり、どれも外す訳にはいかないことを承知しつつも、国譲り神楽さえあれば満喫できる。とは云うもののまだ観た事はないのだけれども。

 追伸。備中神楽は、他のどの神楽に比しても「国譲り譚」を正面から採り上げていることに意義はあるが、やはり想像していたようにかなり変質、こう云って良ければ高天原-大和王朝系の観点からする侵食を受けて居る。これを如何に当初の伝承原文に戻すか、これが課題になっているように思う。

 2008.8.1日、2008.8.13日再編 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評446 れんだいこ 2008/08/07
 【備中神楽に於ける国譲り譚の歴史的意義考】

 「国譲り」とは、葦原中津国(あしはらのなかつくにの司、大国主の命が、その国土を天照大御神の勅令で降臨したと主張する勅使に最終的には献上するという出雲神話である。れんだいこの判ずるところ、「国譲り神楽」は本質的に政治性を帯びており、危険な裏史実伝承神楽であるやに見受けられる。その「国譲り」が、地元の出雲神楽に於いてよりも備中神楽でこそより生き生きと伝承されており、その意味で備中神楽は稀有希少な神楽に成り得ている。これを逆から云えば、「国譲り」をメインに採り上げ、かくも正面から神楽しているのが備中神楽であり、素晴らしいということになる。してみれば、この価値を減ずる方向の改訂は存在意義をなくし、これを当初より伝えられているところの生硬な形で保持する事が使命と云うことになろう。

 「国譲り」が、なぜ出雲神楽にではなく備中神楽に於いて保存されてきたのかが興味深い。推測するのに、地元出雲の地での国譲り神楽が陰に陽に行政的に規制ないしは禁止されていた。為に、出雲圏にありながら出雲本地とは隣接しつつも中国山地で隔絶されていた備中に於いてこそ秘かに継承されてきたと云う事情に拠るのではあるまいか。

 「出雲王朝の高天原王朝への国譲り」は、日本古代史上の最大政変である。それは、高天原王朝による何の咎なき出雲王朝簒奪劇であった。それは、文明的に優れている方が、劣っている野卑な方に恫喝と武力で王朝を奪われた事を意味している。日本史は全体的にこの時より大きな歪みを伴って今日へ至っている。

 記紀はこの史実を、高天原(来航)王朝-大和王朝の正義を裏付けるべく詐術しながら記述することに並々ならぬ心血を注いでいる。これが当局肝いりの御用史観であるからそのプロパガンダ力は強く、通念となって今日に至っている。戦後になって、その通念的皇国史観は打破されたが、それはあくまで高天原王朝(来航)-大和王朝体制批判であって、先行して存在していた出雲王朝に対する論は依然として手付かずで現存している。この闇が知られ、探られねばなるまい。

 「備中神楽国譲り譚」は万巻の凡史書を退け、圧倒的迫力で史実をより克明に神楽で表現している。備中神楽は、その日本古代史上の最大政変である高天原(来航)王朝と出雲王朝の国譲り譚を、出雲王朝の正義と悲劇を語る観点から史実を忠実に神楽で伝承しているところに値打ちがある。

 御用史学が、当局ご都合主義的に編纂されている記紀神話に依拠して、高天原(来航)王朝-大和王朝史を正統的に記述する傾向があるのに対し、備中神楽は出雲王朝側からする政変ドラマを再現保存している。その史実性が高く評価されて然るべきほどに学問的水準以上のものを表現し得ている。ここに備中神楽の不朽の値打ちが認められる。

 加えて、面、踊り、囃子それぞれが有機的一体となって演じており、観客と一体になり、演劇的に堪能するのは無論、自ずと歴史を学ぶ効果を伴っている。しかもそれが、大和王朝的天皇制史観に拠らず、高天原(来航)王朝襲来以前の出雲王朝時代の政治を郷愁する役割を果たしている。神楽に興じながら触れるうちに自ずと裏歴史、実は本当の歴史が分かると云う仕掛けになっている。これは凄いと云うべきではなかろうか。
 
 2008.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評447 れんだいこ 2008/08/07
 【備中神楽に於ける国譲り譚のあらすじと史実証言】

 まず、高天原の勅使として経津主(ふつぬし)の命、武甕槌(たけみかづち)の命の両神が稲佐の浜をさして舞い下る。この神楽を「両神の舞」と云う。荒舞が荒々しく動きの激しい武装した舞であるのに対し、「両神の舞」は地舞であり、優美で端正な舞い方を特色としている。両神が一対となって舞うので高い技巧が要求される。それ以前にも複数の使者が派遣され、出雲王朝に取り込まれた経緯がナレーションで伝えられる。これにより、こたびの両神が有無を言わさずの国譲り使者として来朝したことが示唆される。

 次に、大国主の命が登場し「大国主命の舞」となる。大国主命は出雲統一王朝の国治めの神であり、日本書紀に「その子凡て百八十一神います」と記される福徳円満の神として尊敬されている。王者の気品と威厳を漂わせながら八畳の間一杯に舞い広げる。神楽では、葦原中津国の竈(かまど)廻りをし、餅の福蒔きをした後休息する。

 次に、両神が大国主命に出合い、国譲りの談判をする。これを「国譲りの掛け合い」と云う。その遣り取りがさもありなんと思われるほど双方論証的説得的であり興味深い。大国主命は拒否し、小競り合いとなる。

 次に、そこへ稲背脛(いなせはぎ)の命が仲裁に入る。史実性は明らかではないが、あるいはこういう史実があったのかも知れない。神楽では「稲背脛命の舞」から「稲背脛命と両神の掛け合い」へと続く。稲背脛命の仲裁は功を奏せず、事代主(ことしろぬし)の命に下駄を預けることになる。

 こうして、事代主命の下へ伝令を送り、事代主命が登場し「事代主命の舞」となる。興味深いことに、事代主命は島根半島突端の美保の関で鯛(たい)釣りしていたとされている他方で、「馬を駆り、関に着き、諸手船に乗って海を渡る」仕草を演じる神楽社もあり、 「急ぐには、風の袴に両の駒、千里の道も今ぞひっと飛び」と歌われており、これによるとかなり遠隔地、恐らく大和の神であることが示唆されている。大国主の命の子供とされているが、実際の子供と云うより親子同盟関係的なブレーンであり出雲王朝№2的地位にあった神と考えた方が適切と受け取ることができる余地を残している。案外これが史実ではなかろうかと思われる。

 次に、「大国主命と事代主命の親子勘評(かんひょう)」となる。「勘評」と云う言葉は漢和辞典をひいても見あたらない。「勘」は勘当の「勘」であり、「評」は評議の「評」である。語感からすれば、相当きつい相談、評定(評議)が為されたと云う事を伝えているように思われる。

 その結果、高天原王朝の命に従い国土を奉献することとなる。この時の遣り取りも興味深く、政治の実権を高天原王朝に譲り、幽界に隠れる経緯顛末が明かされている。それによると、出雲王朝は、無用な戦いを避け「万事和を以って尊っとし」と為し、高天原(来航)王朝が創出する新王朝に参画し勢力を温存する作戦に向かったと裏読みすることができる。案外これが史実かも知れない。れんだいこは、日本型和合政治の原型がここに定まったと窺う。とにもかくにもこうして国譲りが定まった。

 次に、この国譲りに反対する建御名方(たけみなかた)の命が登場し「建御名方命の舞」となる。建御名方命も類推すれば、事代主命同様に大国主命の息子と云うより親子同盟関係的なブレーンであり出雲王朝№3的地位にあった神と考えることができるのではあるまいか。建御名方命は、事代主命が和睦派となったのに対し武闘派として抗戦していくことになる。

 かくて、建御名方の命軍と高天原(来航)王朝軍との間に一大決戦が始まる。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。
 「建御名方命の面は凄まじい鬼面で、これにより荒鬼と呼ばれる。口は耳まで裂け、牙を剥き出している。蓬々たる髭髪が面を覆い、動くたびにその隙間からのぞく鬼面をより凶悪なものにする」。

 これによれば、建御名方命は鬼として表象されている。ということは、古代史上の「鬼退治」は、高天原-大和王朝に服属しなかった出雲王朝内の建御名方の命系残党派征伐であったと考えることができる余地を残していることになる。全国各地の鬼退治譚の真相は案外そのようなものであるかも知れない。

 この戦いは備中神楽上最大の激闘となる。前半は幣を使い、後半は刀を用いる。刀を使う合戦になると、両神側に助太刀と云う舞い手が加わる。これは、両神側の軍勢の強さを語っており、建御名方の命側が多勢に無勢で押されたことを暗喩して入るように思われる。

 建御名方の命軍は次第に追いやられ、信州諏訪大社へ逃げ込む。高天原王朝軍はこれ以上深追いできなかった。そういう拮抗関係上で和睦となる。神楽では、建御名方の命が遂に力尽き、両神に降参したことになる。実際には、建御名方の命は、大国主命、事代主命同様に政治的支配権を譲り、その土地の守護神として非政治的に生息する限りに於いて許容されると云う「日本型特殊な手打ち」を見せている。れんだいこは、日本型手打ち政治の原型がここに定まったと窺う。

 「祝い込み」で完結する。かくて国譲りとなり、高天原王朝への国土奉献が完了する。備中神楽はこの一部始終を神楽で表現している。 

 一般に、日本古代史上の歴史通念は、国史書である古事記、日本書紀の記述に従い、高天原(来航)王朝の渡来的正義を確認する意識下にある。ところが、備中神楽ではこの通念に棹差すかの如く、「記紀通念」に歪められることなく出雲王朝時代を追憶し伝承している。この神楽が悠久の歴史の中で保存され今日に至っている価値は大きいと云うべきではなかろうか。

 もっとも、このように自覚され保存伝承されてきたのではない。神楽太夫達は古来よりの伝承を非政治的にひたすら墨守する作風で神事芸能神楽として伝承請負して今日へ至っている。下手に政治性を帯びなかったことが弾圧される事なく生き延び得た要因でもあるように思われる。れんだいこ的には歴史の摩訶不思議と云うしかない。

 2008.8.7日 れんだいこ拝

【倉橋日出夫氏の国譲り観/考】
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「出雲の国譲りとは 出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」を転載しておく。
 出雲の神々は敵役
 出雲神話は古事記の神代記の3分の1を占めています。古事記に描かれる日本神話は、大きく高天原系と出雲系、それに海神系の話に分けられますが、それぞれが系譜でつながって一つのパンテオン(神界)を形成しています。なかでも、天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものの、両者を比べると、その性格はかなり違っています。

 出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。日本書紀では、その性格はもっと強調されており、スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴物といったところ。また、オオクニヌシの説話なども日本書紀ではほとんどカットされています。国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっています。これは記紀に特徴的な「天つ神対国つ神」、「天的な概念対土着的な概念」という対立構造からいえば、当然のことです。「天」というイメージを打ち出して、自分たちの優位性を主張したい記紀の編者たちにとっては、出雲や海神系の神々は無視することはできないけれども、どこか厄介者という扱いです。しかし、何といっても忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと、そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けていることです。
 八俣の大蛇伝説
 そもそもこうした神話の記述をどこまで信用するかという根本的な問題があるのですが、出雲神話には、象徴的な面白い説話が幾つもあります。そのひとつが八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説です。記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

 この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。

 考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。
 大きな土地の貴人
 スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神」(あしはらしこおのかみ)、「八千矛神」(やちほこのかみ)、「宇都志国玉神」(うつしくにたまのかみ)などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。また、出雲国風土記によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神」(あめのしたつくらししおおかみ)とも呼ばれています。また日本書紀によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。
 古代出雲文化圏の範囲
 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。

 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。また、日本書紀の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 出雲国風土記には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。
 出雲大社神楽殿の巨大な注連縄
 一方、出雲系の神社の分布についてみると、延喜式(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」古代出雲文化展図録)。これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。

 これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。
 武力で奪った国土
 出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(日本書紀では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。
 ところが、日本書紀の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。 その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです。
 出雲国か、葦原中つ国か
 こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。ところが、出雲国風土記はまったく別のニュアンスを伝えています。国譲りにさいして、オオクニヌシ(出雲国風土記では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」。つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。

 このように出雲国風土記では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。(2005年6月)





(私論.私見)