補足/出雲王朝史5の3、れんだいこの国譲り論、その他諸氏の国譲り論考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).3.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
備中神楽の演目次第が「逸見芳春氏の神楽絵巻1」以下№11までサイトアップされている。早速これを購入してみる事にした。購入先は、「備北民報社の出版物のページ」の「神楽絵巻改訂版」。その後、神崎宣武氏編の「備中神楽の研究」(美星町教育委員会、1984.3.12日初版)を手に入れ、これらを参照に推敲した。 いよ神楽考の本命中の本命、国譲り譚の考察に入ることにする。れんだいこは、神楽の演目はそれぞれ深い意味があり、どれも外す訳にはいかないことを承知しつつも、国譲り神楽さえあれば満喫できる。とは云うもののまだ観た事はないのだけれども。 追伸。備中神楽は、他のどの神楽に比しても「国譲り譚」を正面から採り上げていることに意義はあるが、やはり想像していたようにかなり変質、こう云って良ければ高天原-大和王朝系の観点からする侵食を受けて居る。これを如何に当初の伝承原文に戻すか、これが課題になっているように思う。 2008.8.1日、2008.8.13日再編 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評446 | れんだいこ | 2008/08/07 |
【備中神楽に於ける国譲り譚の歴史的意義考】 「国譲り」とは、 「国譲り」が、なぜ出雲神楽にではなく備中神楽に於いて保存されてきたのかが興味深い。推測するのに、地元出雲の地での国譲り神楽が陰に陽に行政的に規制ないしは禁止されていた。為に、出雲圏にありながら出雲本地とは隣接しつつも中国山地で隔絶されていた備中に於いてこそ秘かに継承されてきたと云う事情に拠るのではあるまいか。 「出雲王朝の高天原王朝への国譲り」は、日本古代史上の最大政変である。それは、高天原王朝による何の咎なき出雲王朝簒奪劇であった。それは、文明的に優れている方が、劣っている野卑な方に恫喝と武力で王朝を奪われた事を意味している。日本史は全体的にこの時より大きな歪みを伴って今日へ至っている。 記紀はこの史実を、高天原(来航)王朝-大和王朝の正義を裏付けるべく詐術しながら記述することに並々ならぬ心血を注いでいる。これが当局肝いりの御用史観であるからそのプロパガンダ力は強く、通念となって今日に至っている。戦後になって、その通念的皇国史観は打破されたが、それはあくまで高天原王朝(来航)-大和王朝体制批判であって、先行して存在していた出雲王朝に対する論は依然として手付かずで現存している。この闇が知られ、探られねばなるまい。 「備中神楽国譲り譚」は万巻の凡史書を退け、圧倒的迫力で史実をより克明に神楽で表現している。備中神楽は、その日本古代史上の最大政変である高天原(来航)王朝と出雲王朝の国譲り譚を、出雲王朝の正義と悲劇を語る観点から史実を忠実に神楽で伝承しているところに値打ちがある。 御用史学が、当局ご都合主義的に編纂されている記紀神話に依拠して、高天原(来航)王朝-大和王朝史を正統的に記述する傾向があるのに対し、備中神楽は出雲王朝側からする政変ドラマを再現保存している。その史実性が高く評価されて然るべきほどに学問的水準以上のものを表現し得ている。ここに備中神楽の不朽の値打ちが認められる。 加えて、面、踊り、囃子それぞれが有機的一体となって演じており、観客と一体になり、演劇的に堪能するのは無論、自ずと歴史を学ぶ効果を伴っている。しかもそれが、大和王朝的天皇制史観に拠らず、高天原(来航)王朝襲来以前の出雲王朝時代の政治を郷愁する役割を果たしている。神楽に興じながら触れるうちに自ずと裏歴史、実は本当の歴史が分かると云う仕掛けになっている。これは凄いと云うべきではなかろうか。 2008.8.7日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評447 | れんだいこ | 2008/08/07 | |
【備中神楽に於ける国譲り譚のあらすじと史実証言】 まず、高天原の勅使として経津主(ふつぬし)の命、武甕槌(たけみかづち)の命の両神が稲佐の浜をさして舞い下る。この神楽を「両神の舞」と云う。荒舞が荒々しく動きの激しい武装した舞であるのに対し、「両神の舞」は地舞であり、優美で端正な舞い方を特色としている。両神が一対となって舞うので高い技巧が要求される。それ以前にも複数の使者が派遣され、出雲王朝に取り込まれた経緯がナレーションで伝えられる。これにより、こたびの両神が有無を言わさずの国譲り使者として来朝したことが示唆される。 次に、大国主の命が登場し「大国主命の舞」となる。大国主命は出雲統一王朝の国治めの神であり、日本書紀に「その子凡て百八十一神います」と記される福徳円満の神として尊敬されている。王者の気品と威厳を漂わせながら八畳の間一杯に舞い広げる。神楽では、葦原中津国の竈(かまど)廻りをし、餅の福蒔きをした後休息する。 次に、両神が大国主命に出合い、国譲りの談判をする。これを「国譲りの掛け合い」と云う。その遣り取りがさもありなんと思われるほど双方論証的説得的であり興味深い。大国主命は拒否し、小競り合いとなる。 次に、そこへ稲背脛(いなせはぎ)の命が仲裁に入る。史実性は明らかではないが、あるいはこういう史実があったのかも知れない。神楽では「稲背脛命の舞」から「稲背脛命と両神の掛け合い」へと続く。稲背脛命の仲裁は功を奏せず、事代主(ことしろぬし)の命に下駄を預けることになる。 こうして、事代主命の下へ伝令を送り、事代主命が登場し「事代主命の舞」となる。興味深いことに、事代主命は島根半島突端の美保の関で鯛(たい)釣りしていたとされている他方で、「馬を駆り、関に着き、諸手船に乗って海を渡る」仕草を演じる神楽社もあり、 「急ぐには、風の袴に両の駒、千里の道も今ぞひっと飛び」と歌われており、これによるとかなり遠隔地、恐らく大和の神であることが示唆されている。大国主の命の子供とされているが、実際の子供と云うより親子同盟関係的なブレーンであり出雲王朝№2的地位にあった神と考えた方が適切と受け取ることができる余地を残している。案外これが史実ではなかろうかと思われる。 次に、「大国主命と事代主命の親子勘評(かんひょう)」となる。「勘評」と云う言葉は漢和辞典をひいても見あたらない。「勘」は勘当の「勘」であり、「評」は評議の「評」である。語感からすれば、相当きつい相談、評定(評議)が為されたと云う事を伝えているように思われる。 その結果、高天原王朝の命に従い国土を奉献することとなる。この時の遣り取りも興味深く、政治の実権を高天原王朝に譲り、幽界に隠れる経緯顛末が明かされている。それによると、出雲王朝は、無用な戦いを避け「万事和を以って尊っとし」と為し、高天原(来航)王朝が創出する新王朝に参画し勢力を温存する作戦に向かったと裏読みすることができる。案外これが史実かも知れない。れんだいこは、日本型和合政治の原型がここに定まったと窺う。とにもかくにもこうして国譲りが定まった。 次に、この国譲りに反対する建御名方(たけみなかた)の命が登場し「建御名方命の舞」となる。建御名方命も類推すれば、事代主命同様に大国主命の息子と云うより親子同盟関係的なブレーンであり出雲王朝№3的地位にあった神と考えることができるのではあるまいか。建御名方命は、事代主命が和睦派となったのに対し武闘派として抗戦していくことになる。 かくて、建御名方の命軍と高天原(来航)王朝軍との間に一大決戦が始まる。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。
これによれば、建御名方命は鬼として表象されている。ということは、古代史上の「鬼退治」は、高天原-大和王朝に服属しなかった出雲王朝内の建御名方の命系残党派征伐であったと考えることができる余地を残していることになる。全国各地の鬼退治譚の真相は案外そのようなものであるかも知れない。 この戦いは備中神楽上最大の激闘となる。前半は幣を使い、後半は刀を用いる。刀を使う合戦になると、両神側に助太刀と云う舞い手が加わる。これは、両神側の軍勢の強さを語っており、建御名方の命側が多勢に無勢で押されたことを暗喩して入るように思われる。 建御名方の命軍は次第に追いやられ、信州諏訪大社へ逃げ込む。高天原王朝軍はこれ以上深追いできなかった。そういう拮抗関係上で和睦となる。神楽では、建御名方の命が遂に力尽き、両神に降参したことになる。実際には、建御名方の命は、大国主命、事代主命同様に政治的支配権を譲り、その土地の守護神として非政治的に生息する限りに於いて許容されると云う「日本型特殊な手打ち」を見せている。れんだいこは、日本型手打ち政治の原型がここに定まったと窺う。 「祝い込み」で完結する。かくて国譲りとなり、高天原王朝への国土奉献が完了する。備中神楽はこの一部始終を神楽で表現している。 一般に、日本古代史上の歴史通念は、国史書である古事記、日本書紀の記述に従い、高天原(来航)王朝の渡来的正義を確認する意識下にある。ところが、備中神楽ではこの通念に棹差すかの如く、「記紀通念」に歪められることなく出雲王朝時代を追憶し伝承している。この神楽が悠久の歴史の中で保存され今日に至っている価値は大きいと云うべきではなかろうか。 もっとも、このように自覚され保存伝承されてきたのではない。神楽太夫達は古来よりの伝承を非政治的にひたすら墨守する作風で神事芸能神楽として伝承請負して今日へ至っている。下手に政治性を帯びなかったことが弾圧される事なく生き延び得た要因でもあるように思われる。れんだいこ的には歴史の摩訶不思議と云うしかない。 2008.8.7日 れんだいこ拝 |
【倉橋日出夫氏の国譲り観/考】 | |||||||||||||||
倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「出雲の国譲りとは 出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」を転載しておく。
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(私論.私見)