諸氏の出雲王朝考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).1.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこが秀逸と思われる、あるいは津田左右吉史学のように言及せざるを得ない諸氏の出雲王朝論を確認しておく。

 2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝


 明治時代の作家で日本文化を海外に広めた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850-1904)はギリシャで生まれ、米国での新聞生活などを経て39歳の時に来日、1890年8月から翌年11月まで神々の国の古代出雲の首都である島根県松江に居住し、尋常中学校に英語教師として勤めた。この間、出雲神話を渉猟し、説話を紹介している。小泉八雲が敢えて出雲の国を探求した叡智を察知すべきだろう。

【出雲王朝存在論争考】
 サイト検索で「日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》」に出くわした。貴重な見解を披歴しているので転載しておく。
 「古事記、日本書紀の朝廷によってまとめられた出雲の神話を出雲系神話とも呼ぶ。出雲系神話は記・紀神話の三分の一以上にあたるとされ、とても大きなウェイトを占めており、内容的にも魅力的な物語がたくさん含まれ、最後には国譲り神話へと収斂していくのだ。それに対して、出雲国風土記、出雲国造神賀詞の在地でまとめられた出雲の神話を出雲神話とも呼ぶ。地名由来伝承に関わるものが多く、記・紀にはない国引き神話などがあり、またスサノヲ命やオホナムチ命の姿も違い、神話の質的相違を感じる。神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡などの考古学的発見は、ヤマト政権に対抗しうるような高い技術力と独自の文化を持ち、古代日本のなかで、重要な役割を果たしてきた古代王国があったことを裏付けている(青銅器の国)。また、出雲では良質の砂鉄が採れ、古代より鉄生産は行われていた(製鉄の国)」。

 「出雲系神話」と「出雲神話」を識別せんとするこの指摘は貴重で鋭い。素の出雲王朝譚を探り当てる為に必要な営為ではなかろうか。
 同様趣旨で「邪馬台国はどこか?」の「オオクニヌシの国こそが邪馬台国」が次のように記している。
 「古事記の記述は出雲に1/3を費やしており、近年ではオオクニヌシの国譲りが何らかの実話に基づくものだったのではないかと言われている。それと言うのも1980年代から90年代にかけて、大規模な遺跡の発掘が相次いだのだ。荒神谷遺跡からは358本の銅剣、16本の銅矛、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が発見された。また鳥取県でも環壕や楼閣があったとされる妻木晩田遺跡(遺跡の面積は1566ヘクタールと国内最大級)が見つかっている。ただし一般的には『ヤマタイコクよりも少し前の時代に出雲にも有力な王国があった』というのが一般的な解釈のようだ。とはいえ邪馬台国やヤマト政権を考える上では、出雲周辺地域(山陰地方)を精細に見直す必要がある」。

【津田左右吉史学考】
 関裕二氏の「出雲抹殺の謎」(PHP文庫、2007.1.25日初版)参照する。

 1923(大正12)年、津田左右吉氏は、「神代史の研究」(岩波書店)の中で、次のように述べている。
 「(日本の神話は民族が語り継いできたものとは異なり、)神代史は我が国の統治者としての皇室の由来を語ったものにほかならぬ」。
 「(記紀神話に登場する神々の活躍が、天皇家の権威に関係する物語である事に注目し、)本来、神話とは、民族が共有するものであるにも拘らず、記紀神話は天皇家による日本支配の正統性を証明するために、調停の貴族の手で6世紀中葉に記され、8世紀に完成した代物に他ならない」。

 津田のこの説は、「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」というレッテルを貼られ批判された。

 1940(昭和15)年、津田の著書が発禁処分を受け、出版法違反で起訴され(津田事件)、昭和17年、禁固3ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。理由は、「神武天皇から仲哀天皇に至る歴代天皇の御存在に疑惑を抱かせるような講説を展開した」というものであった。原告、被告ともに控訴したが、その後審理は再開されず、いつの間にか時効が成立し、津田は免訴された。
(私論.私見)
 れんだいこは、津田左右吉氏の「神代史の研究」を読んでいない。関裕二氏の「出雲抹殺の謎」で知った一文であるが、文面をそのまま読めば、出雲王朝の存在をも視野に入れており時の皇国史観を的確に批判しているように思われる。

 2008..4.10日 れんだいこ拝

【三浦 佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」考】
 「文藝春秋SPECIAL」2009年秋号(2009年8月27日)の三浦佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」に次の一文がある。これを転載しておく。(れんだいこ責で編集替えした)
 わたしの古事記研究史

 和銅5(712)年正月28日に太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が撰録したという「序」をもつ古事記は、もうすぐ成立千三百年の節目を迎える。そこで、現存最古の歴史書を記念するイベントがさまざまに企画され、わたしもそのおこぼれにあずかって講演や原稿執筆の依頼をいただく。ところが、間の悪いことにというか、ひねくれているというか、ここ数年来、唯一の身分証明書である古事記の「序」は九世紀初めに付けられたもので、本文が書かれたのは七世紀後半に遡るのではないかと考えるようになった。こうした見解は江戸時代からあり、古事記伝(こじきでん)を書いた本居宣長(もとおりのりなが)の師である賀茂真淵(かものまぶち)も序文は後世の作と考えていた。近代に入ると、「序」はおろか本文にも疑いの目を向ける研究者が出てきて、古事記偽書説はにぎわった(詳細は大和(おおわ)岩雄『新版 古事記成立考』大和書房、2009年、参照)。

 ところが、1979年1月23日を境に偽書説は雲散霧消する。理由は、撰録者とされる安万侶の墓と墓誌が発見されたことだった。すでに三十年も前の出来事だが、翌24日の新聞各紙に大きな活字が躍ったのを今も覚えている。その銅板の墓誌には、住所や没した日付が書かれていただけで古事記の情報は何もなかったのに、多くの学者は、古事記は和銅5年に安万侶が書いたに違いないと思い込んでしまった。それはわたしが教員になって4年めの駆け出しで、ご多分に洩れず偽書説を否定する多数派に属していた。

 わたしが大学に入学した1966年からの4年間は、どこの大学も授業料値上げやベトナム戦争・70年安保への反対闘争で揺れ続け、勉強どころではなかった。そんな中で古事記を研究対象にする時代錯誤の学生などほとんどいなかったが、古事記をやるなら偽書説を踏まえねばというアカデミックな風潮はあった。そうした共通理解は墓誌が出土するまでは存したので、1975年に出た大和岩雄の旧版『古事記成立考』で展開された偽書説に対して、古事記や古代史の研究者たちは熱い議論を交わしていた。

 それが、今考えると理に合わないのだが、証拠能力のない墓誌が出て偽書説は消滅した。おかげで古事記研究は平穏なものとなり、若い研究者もふえた。それから時が過ぎ新世紀に入ると、わたしは古事記「序」の偽書説に親しみを感じるようになった。そして、2004年の古事記学会大会で「古事記『序』を疑う」と題した講演を行い、学会誌『古事記年報』に掲載された。ドン・キホーテよろしく古事記研究の総本山に戦いを挑んだわけだが、当時も今も、研究者にはほとんど無視され、冷笑されている。
 なぜ偽書説に向かったのか

 わたしの研究方法は、正統的な古事記研究者とは違うのかもしれない。古事記というテクストを金科玉条として、文字表記にこだわって文脈を説明したり、古事記内部で完結する読みを提示したりするよりも、古事記の神話や伝承を外に開こうとする志向が強い。たとえば、語りという視点を導入し、沖縄やアイヌの口頭伝承と比較して叙事の様式を考え、古事記以前の表現を見ようとする。その成果の一部が『古代叙事伝承の研究』(勉誠社、1992年)になった。

 その後、わたしの古事記研究は二つの方向へと展開する。一つは、歴史書として古事記をどこに位置づけるかというテーマである。日本書紀や風土記など古代律令国家によって編纂されたのが明らかな歴史書に対して、古事記が律令国家の内部に成立の根拠を見出せない理由を解明しようとしたのだ。それは『神話と歴史叙述』(若草書房、1998年)にまとまったが、見えてきたのは古事記の居心地の悪さであった。

 一方、「語り」論の実践として『口語訳 古事記[完全版]』(文藝春秋、2002年)を書いた。ありがたいことに一般の読者に広く支持されたが、それよりも、研究上の転機になったのがうれしかった。一語一語にこだわる口語訳をしたことで、今まで読めていなかったところに、いろいろ気づかされたのである。

 そして、この二つの方向を一つにつなごうとするうちに、従来の古事記成立論に対する違和感が大きくなっていった。そのことをおずおずと表明したのが『古事記講義』(文藝春秋、2003年)第4回「出雲神話と出雲世界」と最終回「古事記の古層性」であった。古事記が、日本書紀にはまったく存在しない出雲神話を大きく取り上げる理由を問いつめていくと、その古態は明白になり、「序」の新しさが否定できなくなったのである。その結果、古事記本文は7世紀後半に書かれ、「序」は権威化のために9世紀初頭に付けられたという2004年の古事記学会での講演となり、それが『古事記のひみつ』(吉川弘文館、2007年)へと結実した。
 出雲神話の先に見えるもの

 出雲神話をどのように位置づけるか、それは古事記という歴史書の根幹にかかわる認識であるために、さまざまな議論が展開されてきた。西郷信綱が『古事記の世界』(岩波新書、1967年)で説いた世界観は魅力的な仮説で、長くわたしをとりこにした。しかし近年の考古学的な発見や日本海文化圏に関する研究が深まるとともに、ヤマト(倭/大和)を唯一の中心として古代の日本列島を考えようとする単線的な歴史観への疑問がふくらみ、わたしの古事記論は急転回を余儀なくされたのである。

 いちばん大きなきっかけは何だったのか、今となっては判然としない。ただ、出雲神話が古事記に占める大きさと、それが日本書紀にはまったく存在しないということに気づいたのは大きかった。具体的にいうと、『古事記講義』に掲げた対照表「記紀神話の構成」(文庫版、295頁)を作成することで、記紀の違いが一目瞭然になったのだと思う。対照表を最初に作ったのは、パソコンファイルの作成日で確認できるが、2002年4月24日である。それは『口語訳 古事記』の校正をほぼ終えた頃で、おそらく授業資料として作成したのだろう。その表からさまざまなことが閃いた。

 たとえば、オホクニヌシの子タケミナカタという神がいる。アマテラスの命令で高天の原((たかまのはら)から降りてきた戦士タケミカヅチとの力競べに敗れて州羽(すわ)に逃げ、背かないと誓う神である。タケミナカタは諏訪大社の祭神になるが、古事記のオホクニヌシ系譜には名前が出てこず、州羽へ逃げる神話はあとから付け加えられたのではないかという説も根強い。

 タケミナカタは、出雲から州羽へどのようなルートを辿って逃げたのか。古事記では記さない母を、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)(10世紀初頭以前成立)や諏訪大社の伝えではヌナカハヒメとするが、それは古いのか。そのヌナカハヒメは、出雲国風土記によれば、オホクニヌシ(国作らしし大神)と結婚してミホススミ(島根半島先端に鎮座する美保神社の古い祭神)を生んでいる。また古事記の神話では、高志(こし)の国に出かけたヤチホコ(オホクニヌシの別名)が求婚した女神もヌナカハヒメであり、その名は「玉の川」(硬玉ヒスイが採れる川の意で、新潟県糸魚川市を流れる姫川とその支流)に由来する。

 このように、いくつもの糸口を探っていくと、出雲と高志・州羽とは、日本海を通して太いパイプでつながっていたことがわかってくる。とすれば、古事記に伝えられるタケミナカタの逃走譚は架空の話などではなく、出雲と州羽とをつなぐ何らかの歴史を秘めているのではないか。そのことを確認したくて日本海沿岸を歩いたのが、『古事記を旅する』(文藝春秋、2007年)の第一部「対馬海流とともに」であった。その旅を通して見えてきたのも、古事記の神話や伝承の古層性であり、ヤマトとは別の文化圏をもつ世界だった。

 古事記の真実を見ようとして古事記に振りまわされて一生を終える、それがわたしかもしれない。そうなっても仕方がないと思えるほどに古事記には遊んでもらった。お礼として、また古事記研究者の責任として、膂力を鍛え、古代と近代とに誤って填(は)められた「国家」という足枷(あしかせ)を外してやりたい。

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(私論.私見)

 三浦佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」の値打ちは、古事記に於ける出雲神話の比重の重さと日本書紀に於ける出雲神話の抹殺ぶりを対比的に明確に論じているところにある。且つ、「いくつもの糸口を探っていくと、出雲と高志、州羽とは、日本海を通して太いパイプでつながっていたことがわかってくる。とすれば、古事記に伝えられるタケミナカタの逃走譚は架空の話などではなく、出雲と州羽とをつなぐ何らかの歴史を秘めているのではないか」と問い掛けているところにある。これは、どちらも重要な指摘である。これを云いたいが為に全文を転載しておく。

 2011.7.13日 れんだいこ拝

【倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」考】
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」は「出雲の国譲りとは出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」で次のように述べている。これを転載しておく。(れんだいこ責で編集替えした)
 出雲の神々は敵役

 出雲神話は古事記の神代記の3分の1を占めています。古事記に描かれる日本神話は、大きく高天原系と出雲系、それに海神系の話に分けられますが、それぞれが系譜でつながって一つのパンテオン(神界)を形成しています。なかでも、天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものの、両者を比べると、その性格はかなり違っています。出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。

 日本書紀では、その性格はもっと強調されており、スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴物といったところ。また、オオクニヌシの説話なども日本書紀ではほとんどカットされています。国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっています。これは記紀に特徴的な「天つ神対国つ神」、「天的な概念対土着的な概念」という対立構造からいえば、当然のことです。「天」というイメージを打ち出して、自分たちの優位性を主張したい記紀の編者たちにとっては、出雲や海神系の神々は無視することはできないけれども、どこか厄介者という扱いです。しかし、何といっても忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと、そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けていることです。
 八俣の大蛇伝説

 そもそもこうした神話の記述をどこまで信用するかという根本的な問題があるのですが、出雲神話には、象徴的な面白い説話が幾つもあります。そのひとつが八俣の大蛇(やまたのおろち)伝説です。記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

 この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。

 
考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。
 大きな土地の貴人

 スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。また、出雲国風土記によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また日本書紀によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。
 古代出雲文化圏の範囲

 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。

 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。また、日本書紀の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 出雲国風土記には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。 また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。
 出雲大社神楽殿の巨大な注連縄

 一方、出雲系の神社の分布についてみると、延喜式(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。

 こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。
 武力で奪った国土

 出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(日本書紀では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。

 オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。

 ところが、日本書紀の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです。
 出雲国か、葦原中つ国か

 こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。ところが、出雲国風土記はまったく別のニュアンスを伝えています。国譲りにさいして、オオクニヌシ(出雲国風土記では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」。つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。

 このように出雲国風土記では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。(2005年6月)
(私論.私見)
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「出雲の国譲りとは出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」の値打ちは、「出雲の国譲り」の歴史的画期性をそれとして認識し解析しているところに魅力がある。重要な指摘なので全文を転載しておく。

 2011.7.13日 れんだいこ拝

【「藤田友治/出雲王朝の五種の神宝、出雲国風土記の分析」考】
 ネット検索で「出雲王朝の「五種の神宝」、『出雲国風土記』の分析 藤田友治」に出くわした。れんだいこから見て興味深い個所を抽出して論じておく。

 日本書紀の崇神紀に次のように記されている。但し、この神話は古事記には全く記されていない。
 「六十年の秋七月の丙申(ひのえさる)の朔(ついたち)己酉(つとのとのととりのひ)に、(一四日)群臣詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『武日照命(たけひなてるのみこと)の、天(あめ)より将(も)ち来れる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む。これを見欲(みまほ)し』とのたまふ。則ち矢田部(やたべ)造の遠祖(とほつおや)諸隅(もろすみ)を遣して献(たてまつ)らしむ。この時に当りて、出雲臣の遠祖出雲振根(ふるね)、神宝を主(つかさど)れり」。

 出雲大社は現在、出雲郡の杵築神社を云うが、当時の出雲大神宮がどこにあったのかは別として、出雲の神宝は出雲大神宮の蔵にあった。或る時、崇神天皇が「これを見欲(みまほ)し」と宣べ、差し出すことになった。その顛末は次の通りである。出雲臣の遠祖の出雲振根(ふるね)が神宝を管理していたが、振根が筑紫国に行っていた時に、振根の弟の飯入根(いいいりね)が天皇の命に従って神宝を献上した。振根が筑紫より帰って来ると既に献上した後であり、「数日待つべきであった。何を恐れて軽く神宝を許したのか」と叱責した。振根の怒りは氷解せず、やがて弟を殺そうと思うに至った。弟を欺(あざむ)いて木刀を真刀(またち)に似せて取り換えさせ遂に討った。その時の歌が「や雲立つ 出雲彙師(たける)が 侃(は)ける太刀 黒葛多巻(つづらさはま)き さ身無(みなし)に あはれ」。この事情が朝廷に報告された。朝廷は吉備津彦(きびつひこ)と武淳河別(たけぬなかはわけ)を派遣し出雲振根を殺害した。出雲臣等は事を畏(おそ)れて出雲大神を祭らなくなったまま時を経た。

 出雲臣等が大神を祭らなくなってから暫くして、丹波の氷上(ひかみ)の人で名は氷香戸辺(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊(いくめのみこと)に次のように曰(もう)した。
 「己(やつかれ)が子、小児(わかご)有(はべ)り。而(しかう)して自然(おのづから)言(まう)さく、『玉萋鎮石(たまものしづし)。出雲人の祭(いのりまつ)る、真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)。押し羽振(はふ)る、甘美御神(うましみかみ)、底宝御宝(そこたからみたから)主。山河の水泳(みくく)る御魂(みたま)。静桂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主(ぬし)』」。

 この話が皇太子から天皇(崇神)へ報告された。崇神天皇は、「天より将(も)ち来れる神宝」を奪われた出雲王朝側の怨念を知り、鎮魂の為の勅を発した。
 以下、出雲王朝の五種の神器を確認する。

 その一は玉(勾玉、まがたま)である。これにつき、出雲国風土記の意宇郡の条に次のように記されている。
 「天の下造(つく)らしし大神、大穴持命(おおあなもちのみこと)、越(こし)の八口(やくち)を平(ことむ)け賜(たま)ひて、還(かえ)りましし時、長江山(ながえやま)に来まして詔(の)りたまひしく、『我(あ)が造(つく)りまして、命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命(みこと)、平(たひ)らけくみ世(よ)知(し)らせと依(よ)さしまつらむ。但(ただ)、八雲立つ出雲の国は、我が静まります国と、青垣山(あおがきやま)廻(めぐ)らし賜ひて、玉珍(たま)置(お)き賜ひて守らむ』と詔りたまひき。故(かれ)、文理(もり)といふ。

 大穴持命は古事記では大穴牟遅神、日本書紀では大己貴命と書かれている。いずれも大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名とされている。ここで、大穴持命が、出雲を「我が造りまして、命しらす国」とし、「我が静まります国」とし、「青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ」とした国であると宣べている。神宝として「玉」を置いて、出雲国を神の霊代(よりしろ)としての「玉」で守護しているという。出雲は国譲り後もなお「玉」を神宝とし、神の霊代として主権の標識を「玉」に託して持ち続けていたと拝察できる。「出雲国造の神賀詞(かむよごと)」(祝詞、のりと))に「神宝」として「白玉の大御白髪まし、赤玉の御赤らびまし、青玉の水の江の玉」とあり、献上する神宝によせて祝いの言葉(祝詞)をのべている。延喜式の臨時祭の条に、「玉六十八枚(赤水精八枚、白水精十六枚、青石玉四十四枚)」とあるのはこれに対応している。

 その二が神財(かむたから)の弓矢である。これにつき、出雲国風土記の嶋根郡の加賀の神埼(かんざき)の条に窟(いはや)があり、そこに次のような説話が記されている。
 謂(い)はゆる佐太(さだ)の大神の産(あ)れまししところなり。産(あ)れまさむとする時に、弓箭(ゆみや)亡(う)せましき。その時、御祖(みおや)神魂命(かむむすびのみこと)の御子、枳佐加比売命(きさかひめのみこと)、願(ね)ぎたまひつらく、『吾(あ)が御子、麻須羅神(ますらかみ)の御子にまさば、亡せし弓箭出(い)で来(こ)』と願(ね)ぎましつ。その時、角(つの)の弓箭水の隋(まにま)に流れ出でけり。その時、弓を取(と)らして、詔(の)りたまひつらく、『この弓は吾が弓箭にあらず』と詔りたまひて、擲(な)げ廃(う)て給ひつ。又、金(かね)の弓箭流れ出で来(き)きけり。即ち待(ま)ち取らしまして、『闇欝(くら)き窟(いはや)なるかも』と詔りたまひて、射通(いとほ)しましき。即ち、御祖(みおや)支佐加(きさか)比売命の社(やしろ)、ここに坐(ま)す。今の人、これこの窟(いはや)の辺(ほとり)を行く時は、必ず声(こえ)磅[石蓋](とどろ)かして行く。もし密かに行かば、神現(あらは)れて、瓢風(つむじ)起り、行く船は必ず覆(くつが)える」。

 弓矢が神宝であったことは、出雲国風土記の大原(おおはら)郡、神原(かむはら)の郷(さと)の条でも裏づけられる。

 「神原(かむはら)の郷(さと) 郡(こほり)家の正北(まきた)九里なり。古老の伝へていへらく、天の下造らしし大神の御財(みたから)を積み置き給ひし処(ところ)なり。即ち、神財の郷と謂(い)ふべきを、今の人、なほ誤りて神原の郷といへるのみ。屋代(やしろ)の郷 郡家の正北(まきた)一十里一百一十六歩なり。天の下造らしし大神の[土朶](あむづち)立てて射(ゆみい)たまひし処(ところ)なり。故、矢代(やしろ)といふ。神亀三年、字を屋代と改む。即ち正倉(みやけ)あり。屋裏(やうち)の郷 郡家の東北のかた一十里一百一十六歩なり。古老の伝えていへらく、天の下造らしし大神、矢を殖(た)てしめ給ひし処(ところ)なり。故、矢内(やうち)といふ。神亀三年、字を屋裏(やうち)と改む。


 その三が矛(ほこ 楯たて)である。出雲国風土記の楯縫(たてぬい)郡に次の説話がある。
 「楯縫(たてぬい)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、神魂命、詔(の)りたまひしく、『五十(いそ)足る天の日栖(ひすみ)の宮の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の拷(たく)縄持ちて、百結(ももむす)び結び、八十(やそ)結び結び下さげて、この天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ』と詔りたまひて、御子(みこ)、天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)と為(し)て天下し給ひき。その時、退(まか)り下(くだ)り来まして、大神の宮の御装束(みよそほい)の楯を造り始め給ひし所、これなり。よりて、今に至るまで、楯(たて)・桙(ほこ)を造りて、皇神等(すめがみたち)に奉(た)てまつる。故、楯縫(たてぬい)といふ」。

 この説話は「楯縫」の名前がどうしてついたか、その由来をのべている。魂はタマであり、玉(タマ)を霊力とした出雲の神である。大国主神の別名大国玉(おおくにたま)神、顕国玉(うつしくにたま)神の玉である。「千尋(ちひろ)」の「尋(ひろ)」は大人が両手を伸した長さで、今日でも釣り等で使用されている概数を知るのに便利な単位である。長い縄で「天の日栖(ひすみ)の宮」の縦横を計測して、「大神の宮」を造れとあり、天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)として大神の宮に納める調度の品として楯(たて)と桙(ほこ)を造って、皇神等(すめがみたち)に奉ったので楯縫(たてぬい)と云う。

 草薙剣(くさなざのつるぎ)。

 素戔嗚尊(スサノオノミコト。古事記では須佐之男命、以下スサノオと略す)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から得た剣を天神に献上して、「三種の神器」の一つになったものが草薙剣である。八岐大蛇神話は出雲国風土記にはスサノオのこととしては一切記載されていない。「天の下造らしし大神」は出雲国を造った最高の神である大穴持命(おおあなもちのみこと)でありスサノオではない。八岐大蛇の場所も、日本書紀の本文と一書の第一は「出雲国の簸(ひ)の川上」であるが、第二は「安芸(あき)国の河愛の川上」と伝え、また、第三は場所を記載せず、「剣は吉備の神部に在り」という。

 出雲国風土記は巻末に「天平五年二月三十日勘造(略)出雲臣広島」とあるので733(天平5年)年の編述である。これに対して古事記は712年、日本書紀は720年の成立である。風土記は官命に応じて各国庁で編述し、中央へ進達した報告文書である。日本古典文学大系「風土記」解説によれば、少なくとも(1).中央へ進達した公文書正文と(2).地方国庁に残存した副本または稿本二種の二種が存した。出雲国風土記のみが巻首の総記と各郡記と巻末記の三部をともに残す唯一の完本となっている。その内容は記紀と比較しても、それらより古い伝承、神話を独自に伝えているものがある。

 古事記は、大国主神の名前につきにつき次のように記している。
 「亦(また)の名は大穴牟遅(おおあなむち)神(注略)と謂(い)ひ、亦の名は葦原色許(あしはらしこ)男神(注略)と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこ)神と謂ひ、亦の名は宇都志国玉(うつしくにたま)神(注略)と謂ひ、井(あわ)せて五つの名有り」。

 日本書紀では七つの名を持つ。「大物主」と「大国玉神」が加わっている。大国主神の別名は全て出雲の神宝とつながっている。これを確認するのに、(1)、大国主神→玉(勾玉)。(2)、大穴牟遅神→弓矢。(3)、葦原色許男神→剣。(4)、八千矛神→矛。(5)、宇都志国玉神→鏡である。

 出雲国風土記に「玉珍置(お)き賜」いて出雲を護るとあるように「玉」は貴重であるだけではなくて主権の標識であった。「大穴牟遅神」。日本古典文学大系『風土記』の注解では「名義未詳」。出雲国風土記を分析すると、神埼の条で窟(いはや)が穴(あな)であり、その穴に弓箭(ゆみや)を射る説話がある。つまり弓矢である。「葦原色許(あしはらしこ)男神」は日本古典文学大系の風土記では「醜(みに)くい男」と解するが、シコは善きにも悪しきにも使われ、頑丈で強い男の意味と解することもできる。「八千矛(やちほこ)神」は字の通り矛(ほこ)であり、八千(やち)は多いという意味で、出雲から出土した三五八本の“出雲矛”に見る通りである。「宇都志(うつし)国玉神」とは鏡を意味する。「宇都志」はウツシ(写し)であり、「玉」は魂(タマ)であり、魂を写す、つまり鏡である。これよりするに、大国主神の“別名”は“五種の神宝”をそれぞれ意味していることになる。「五種の神宝」につき類聚国史十九国造の天長七年(八三〇)四月二日条に「皇帝(淳和)御二大極殿一、覧二出雲国々造出雲臣豊持所レ献五種神宝、兼所レ出雑物一」とある。

 「阿修羅 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ24」の「中央線 日時 2003 年 2 月 08 日」「出雲系と伊勢系の関係」。
 http://www.asyura.com/2003/bd24/msg/243.html
 出雲大社と皇室の関係は常識では考えられない関係になっています。歴代の皇室は出雲大社の祭礼には使者を送りますし、必ず、天皇が訪問します。加えて、天皇家の家臣の三体の霊(像)を送り、大国の主の尊を監視させています。それを、尊敬していると言うのか、恐れているというのか、などは分かりません。が、天皇家が「大国の主の尊」に礼をとるということです。そこには現実の社会では天皇家が圧倒的な力を示していますが、天皇家からみれば「出雲系」が天皇家の上をいっていることを意味していると考えられます。分かりやすく言えば、「日本は出雲系が頂点にいて、その下に天皇の伊勢系があり、その下に一般社会があり、一般社会の頂点に天皇がいる姿」になっています。それを天皇家が“下克上”をして、主君すじにあたる「出雲系を殺し封印して、日本を乗っ取った」というだけです。

 その現実の伊勢系の圧倒的な力の前に、太田龍氏らが本質を見誤っただけで、
「一種の神風信仰」のようなものに左右されていると考えなければなりません。そこには善とか悪とかではなくて、「そのような関係にある」とだけ理解すればよいのではないかとおもいます。
 http://members23.cool.ne.jp/~chinari21/space-773.html
(私論.私見)
 なかなか的確にして深い史観を披歴していると拝察させていただく。




(私論.私見)