諸氏の出雲王朝考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).1.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、れんだいこが秀逸と思われる、あるいは津田左右吉史学のように言及せざるを得ない諸氏の出雲王朝論を確認しておく。 2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝 |
明治時代の作家で日本文化を海外に広めた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850-1904)はギリシャで生まれ、米国での新聞生活などを経て39歳の時に来日、1890年8月から翌年11月まで神々の国の古代出雲の首都である島根県松江に居住し、尋常中学校に英語教師として勤めた。この間、出雲神話を渉猟し、説話を紹介している。小泉八雲が敢えて出雲の国を探求した叡智を察知すべきだろう。 |
【出雲王朝存在論争考】 | |
サイト検索で「日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》」に出くわした。貴重な見解を披歴しているので転載しておく。
「出雲系神話」と「出雲神話」を識別せんとするこの指摘は貴重で鋭い。素の出雲王朝譚を探り当てる為に必要な営為ではなかろうか。 |
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同様趣旨で「邪馬台国はどこか?」の「オオクニヌシの国こそが邪馬台国」が次のように記している。
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【津田左右吉史学考】 | ||
関裕二氏の「出雲抹殺の謎」(PHP文庫、2007.1.25日初版)参照する。 1923(大正12)年、津田左右吉氏は、「神代史の研究」(岩波書店)の中で、次のように述べている。
津田のこの説は、「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」というレッテルを貼られ批判された。 1940(昭和15)年、津田の著書が発禁処分を受け、出版法違反で起訴され(津田事件)、昭和17年、禁固3ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。理由は、「神武天皇から仲哀天皇に至る歴代天皇の御存在に疑惑を抱かせるような講説を展開した」というものであった。原告、被告ともに控訴したが、その後審理は再開されず、いつの間にか時効が成立し、津田は免訴された。 |
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れんだいこは、津田左右吉氏の「神代史の研究」を読んでいない。関裕二氏の「出雲抹殺の謎」で知った一文であるが、文面をそのまま読めば、出雲王朝の存在をも視野に入れており時の皇国史観を的確に批判しているように思われる。 2008..4.10日 れんだいこ拝 |
【三浦 佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」考】 | |||
「文藝春秋SPECIAL」2009年秋号(2009年8月27日)の三浦佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」に次の一文がある。これを転載しておく。(れんだいこ責で編集替えした)
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三浦佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」の値打ちは、古事記に於ける出雲神話の比重の重さと日本書紀に於ける出雲神話の抹殺ぶりを対比的に明確に論じているところにある。且つ、「いくつもの糸口を探っていくと、出雲と高志、州羽とは、日本海を通して太いパイプでつながっていたことがわかってくる。とすれば、古事記に伝えられるタケミナカタの逃走譚は架空の話などではなく、出雲と州羽とをつなぐ何らかの歴史を秘めているのではないか」と問い掛けているところにある。これは、どちらも重要な指摘である。これを云いたいが為に全文を転載しておく。 2011.7.13日 れんだいこ拝 |
【倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」考】 | |||||||
倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」は「出雲の国譲りとは出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」で次のように述べている。これを転載しておく。(れんだいこ責で編集替えした)
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倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「出雲の国譲りとは出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」の値打ちは、「出雲の国譲り」の歴史的画期性をそれとして認識し解析しているところに魅力がある。重要な指摘なので全文を転載しておく。 2011.7.13日 れんだいこ拝 |
【「藤田友治/出雲王朝の五種の神宝、出雲国風土記の分析」考】 | |||||
ネット検索で「出雲王朝の「五種の神宝」、『出雲国風土記』の分析 藤田友治」に出くわした。れんだいこから見て興味深い個所を抽出して論じておく。 日本書紀の崇神紀に次のように記されている。但し、この神話は古事記には全く記されていない。
出雲大社は現在、出雲郡の杵築神社を云うが、当時の出雲大神宮がどこにあったのかは別として、出雲の神宝は出雲大神宮の蔵にあった。或る時、崇神天皇が「これを見欲(みまほ)し」と宣べ、差し出すことになった。その顛末は次の通りである。出雲臣の遠祖の出雲振根(ふるね)が神宝を管理していたが、振根が筑紫国に行っていた時に、振根の弟の飯入根(いいいりね)が天皇の命に従って神宝を献上した。振根が筑紫より帰って来ると既に献上した後であり、「数日待つべきであった。何を恐れて軽く神宝を許したのか」と叱責した。振根の怒りは氷解せず、やがて弟を殺そうと思うに至った。弟を欺(あざむ)いて木刀を真刀(またち)に似せて取り換えさせ遂に討った。その時の歌が「や雲立つ 出雲彙師(たける)が 侃(は)ける太刀 黒葛多巻(つづらさはま)き さ身無(みなし)に あはれ」。この事情が朝廷に報告された。朝廷は吉備津彦(きびつひこ)と武淳河別(たけぬなかはわけ)を派遣し出雲振根を殺害した。出雲臣等は事を畏(おそ)れて出雲大神を祭らなくなったまま時を経た。 出雲臣等が大神を祭らなくなってから暫くして、丹波の氷上(ひかみ)の人で名は氷香戸辺(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊(いくめのみこと)に次のように曰(もう)した。
この話が皇太子から天皇(崇神)へ報告された。崇神天皇は、「天より将(も)ち来れる神宝」を奪われた出雲王朝側の怨念を知り、鎮魂の為の勅を発した。 |
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以下、出雲王朝の五種の神器を確認する。 その一は玉(勾玉、まがたま)である。これにつき、出雲国風土記の意宇郡の条に次のように記されている。
大穴持命は古事記では大穴牟遅神、日本書紀では大己貴命と書かれている。いずれも大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名とされている。ここで、大穴持命が、出雲を「我が造りまして、命しらす国」とし、「我が静まります国」とし、「青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ」とした国であると宣べている。神宝として「玉」を置いて、出雲国を神の霊代(よりしろ)としての「玉」で守護しているという。出雲は国譲り後もなお「玉」を神宝とし、神の霊代として主権の標識を「玉」に託して持ち続けていたと拝察できる。「出雲国造の神賀詞(かむよごと)」(祝詞、のりと))に「神宝」として「白玉の大御白髪まし、赤玉の御赤らびまし、青玉の水の江の玉」とあり、献上する神宝によせて祝いの言葉(祝詞)をのべている。延喜式の臨時祭の条に、「玉六十八枚(赤水精八枚、白水精十六枚、青石玉四十四枚)」とあるのはこれに対応している。 その二が神財(かむたから)の弓矢である。これにつき、出雲国風土記の嶋根郡の加賀の神埼(かんざき)の条に窟(いはや)があり、そこに次のような説話が記されている。
弓矢が神宝であったことは、出雲国風土記の大原(おおはら)郡、神原(かむはら)の郷(さと)の条でも裏づけられる。
その三が矛(ほこ 楯たて)である。出雲国風土記の楯縫(たてぬい)郡に次の説話がある。
この説話は「楯縫」の名前がどうしてついたか、その由来をのべている。魂はタマであり、玉(タマ)を霊力とした出雲の神である。大国主神の別名大国玉(おおくにたま)神、顕国玉(うつしくにたま)神の玉である。「千尋(ちひろ)」の「尋(ひろ)」は大人が両手を伸した長さで、今日でも釣り等で使用されている概数を知るのに便利な単位である。長い縄で「天の日栖(ひすみ)の宮」の縦横を計測して、「大神の宮」を造れとあり、天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)として大神の宮に納める調度の品として楯(たて)と桙(ほこ)を造って、皇神等(すめがみたち)に奉ったので楯縫(たてぬい)と云う。 草薙剣(くさなざのつるぎ)。 素戔嗚尊(スサノオノミコト。古事記では須佐之男命、以下スサノオと略す)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から得た剣を天神に献上して、「三種の神器」の一つになったものが草薙剣である。八岐大蛇神話は出雲国風土記にはスサノオのこととしては一切記載されていない。「天の下造らしし大神」は出雲国を造った最高の神である大穴持命(おおあなもちのみこと)でありスサノオではない。八岐大蛇の場所も、日本書紀の本文と一書の第一は「出雲国の簸(ひ)の川上」であるが、第二は「安芸(あき)国の河愛の川上」と伝え、また、第三は場所を記載せず、「剣は吉備の神部に在り」という。 出雲国風土記は巻末に「天平五年二月三十日勘造(略)出雲臣広島」とあるので733(天平5年)年の編述である。これに対して古事記は712年、日本書紀は720年の成立である。風土記は官命に応じて各国庁で編述し、中央へ進達した報告文書である。日本古典文学大系「風土記」解説によれば、少なくとも(1).中央へ進達した公文書正文と(2).地方国庁に残存した副本または稿本二種の二種が存した。出雲国風土記のみが巻首の総記と各郡記と巻末記の三部をともに残す唯一の完本となっている。その内容は記紀と比較しても、それらより古い伝承、神話を独自に伝えているものがある。古事記は、大国主神の名前につきにつき次のように記している。
日本書紀では七つの名を持つ。「大物主」と「大国玉神」が加わっている。大国主神の別名は全て出雲の神宝とつながっている。これを確認するのに、(1)、大国主神→玉(勾玉)。(2)、大穴牟遅神→弓矢。(3)、葦原色許男神→剣。(4)、八千矛神→矛。(5)、宇都志国玉神→鏡である。 出雲国風土記に「玉珍置(お)き賜」いて出雲を護るとあるように「玉」は貴重であるだけではなくて主権の標識であった。「大穴牟遅神」。日本古典文学大系『風土記』の注解では「名義未詳」。出雲国風土記を分析すると、神埼の条で窟(いはや)が穴(あな)であり、その穴に弓箭(ゆみや)を射る説話がある。つまり弓矢である。「葦原色許(あしはらしこ)男神」は日本古典文学大系の風土記では「醜(みに)くい男」と解するが、シコは善きにも悪しきにも使われ、頑丈で強い男の意味と解することもできる。「八千矛(やちほこ)神」は字の通り矛(ほこ)であり、八千(やち)は多いという意味で、出雲から出土した三五八本の“出雲矛”に見る通りである。「宇都志(うつし)国玉神」とは鏡を意味する。「宇都志」はウツシ(写し)であり、「玉」は魂(タマ)であり、魂を写す、つまり鏡である。これよりするに、大国主神の“別名”は“五種の神宝”をそれぞれ意味していることになる。「五種の神宝」につき類聚国史十九国造の天長七年(八三〇)四月二日条に「皇帝(淳和)御二大極殿一、覧二出雲国々造出雲臣豊持所レ献五種神宝、兼所レ出雑物一」とある。 |
「阿修羅 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ24」の「中央線 日時 2003 年 2 月 08 日」「出雲系と伊勢系の関係」。
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(私論.私見)