★記紀に史実を消された須佐之男尊一族
スサノオは、九州の統合には一部でやむなく武力を使った。そのためか、南九州の人々にスサノオに対する反発が残り、この地方には出雲式の銅剣・銅矛祭祀の遺跡がなく、スサノオを祀る神社も少ない。そして、このことが記紀に暴れ神にされた一因になったのではないかとられている。そればかりか、記紀はスサノオの建国した和国、饒速日尊の大和建国の史実をはじめ、系譜まで改竄し、当時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明した。原田常治氏は、「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書いて、それでも誤魔化しきれないところを、お伽話のような神話にして誤魔化した。でっち上げたものががばれることを恐れて、二神社の古文書を取り上げ、史実を書いていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている。
記紀編纂の最中である持統天皇五(691)年のこと、八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と書いているが、その意図は推して知るべしである。没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった。
● 石上神宮(天理市布留町)の古文書(スサノオ、オオトシ(饒速日)尊一族、その末裔である物部氏)
●饒速日大王の陵墓で三輪山を御神体として祀る大神神社(桜井市三輪三輪氏)の古文書。
●以下、豪族十六氏の系図・古文書
・春日氏・大伴氏・佐伯氏・雀部氏・阿部氏・膳部氏・穂積氏・采女氏・羽田氏・巨勢氏・石川氏・平群氏・木(紀)角氏・阿積氏・藤原氏・上毛野氏である。
書紀の編纂を統括していたであろう藤原不比等は、自らの系図を都合良く創作したのであろう。百済から来た父鎌足(本名智積)の出自を、中臣氏の系図にそっと挿入している。後に藤原氏の書いた「鎌足伝」には、「内大臣、諱は鎌足、字は仲郎。大倭國高市郡の人なり。その先は天児屋根命より出ず。・・・美気祐卿の長子なり。母は大伴夫人と曰う」と。鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが、天児屋根命は紀元前二世紀の人物である。鎌足の父美気祐(御食子)以前の系譜は伏せている。また元明天皇が即位した和銅元(708)年正月、天下に大赦を出した。「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は、百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出している。念には念を入れて、古代王族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう。
ところで持統天皇六(691)年三月、天皇(鵜野讃讚良)は、新たに伊勢神宮を創祀し皇祖神として天照大神(向津姫=大日霊貴)を祀り、その行幸をしようとしたとき、ニギハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は、冠位を脱ぎ捨ててまで阻止しようとした。しかし天皇は聞き入れず遂に伊勢に幸す」とある。
ニギハヤヒの陵墓・大神神社を祀っていた大神(大三輪)朝臣高市麻呂は、大宝二(702 )年二月十七日、左遷されて長門守に下ったが四年後に没している。また、同年八月十六日、石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された。
記紀の編纂がすすんでいた頃のことで、朝廷と権力者藤原不比等は、記紀で史実を改竄してそれが発覚、指摘されるのを恐れたのであろう。
こうして大歳尊(ニギハヤヒ)亡き後、大歳御祖皇大神・天照魂神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀られていたものを、記紀は日向のイザナギの娘向津姫尊を天照大神に据え替えたのである。
向津姫の諡号は、撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で、どこにも「天照」の尊号はない。別名・大日霊女尊とあるところをみれば、巫女の役も務めていたのであろう。記紀の編纂以前から祀られた神社の祭神名には大日霊女貴尊はあるが、天照大神で祀ったものはないという。まさに、饒速日尊(諡天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)の天照魂大神の横領である。
さらに云えば、記紀の編纂当時は持統女帝( 野讃讚良=天智天皇の娘)の時代だった。鵜野讃讚良は、天武天皇の没後、即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女帝となった人物である。だから女帝の正統性を強調するために女神大日霊女貴尊(向津姫)を皇祖神にしたかったのであろう。それにはスサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)の史実を抹殺するしかない。たぶん、これは当時の権力者藤原不比等の差し金だったことは云うまでもない。そうした意図は、後に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(
722~785 年)にも意識されたのであろう。持統天皇の諡号を、なんと「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか。
記紀の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている。高天原はどこだったかの詮索は無意味であって、これは全くのお伽話だった。強いて云えば、八世紀の朝廷における持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た宮殿を想定したものであろう。
ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は、正殿に大国主(大己貴尊)、左殿に日向での現地妻多紀理姫命、そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っている。ここは今も縁結びの神として賑わっている。
この大社はいつ頃の創建かと調べてみると、古事記が書き終わった四年後、書紀編纂の最終段階とみられる元正天皇の霊亀二(716)年に完成したことがわかったと云う。
大穴牟遲(大己貴)尊が亡くなったのはBC103年頃とみられるから、なんと八百年以上もたってからのことになる。朝廷はその七年前の和銅二(709)年にも、京都府亀岡市に出雲大神宮を建てていたこともわかった。記紀を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を、そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営したのである。これはいったい何を意味しているのであろう。記紀を詳しく読めばその答えが出ている。あえて説明の必要もないことと思うが、念のためその部分を紹介しておこう。
まず、古事記から見ていこう。証拠は上巻の「葦原中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあった。わかりやすくするため、現在文にしたものを引用すると、国譲り交渉の最後に、「大国主神は答えて、『この葦原中国は仰せのままに、すっかり献上致しましょう。、私の住み家だけは天津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天原に千木を高く聳えさせてお祀り下されば、私は多くの道の曲がり角を経て行った果ての出雲に隠れておりましょう』と、こう申して云云」と。
書紀・巻第二・神代下では、「経津主神・武甕槌神を使わして葦原中国を平定させる。・・・二神は出雲に到りて、・・・大己貴神(大国主神)に迫った。帰って報告したところ、高皇産霊尊は後に、二神を使わして、『・・・汝は神の事を治めよ。また、汝は天日隅宮(出雲風土記の日栖宮。杵築大社=今の出雲大社)に住むべし、いま造ろう。即ち千尋(非常に長い)の栲縄(コウゾなどの皮でよりあわせた縄)をもって結び百八十紐にしよう。その宮は柱は高く、太く、板は幅広く、厚く云云。そして汝の祭司は天穂日命とする』と、大己貴神に云った。大己貴神は答えて云うには、『天神のおっしゃることは誠に尤もです。私は命令に従いましょう。・・・私は引退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」と。
古事記では、「大国主神は国譲りと引き換えに、立派な宮殿を要求した」とし、書紀は、「すすんで宮を建てると約束した」と云うのである。そして、「神主は天穂日命とす」、つまりスサノオと向津姫の御子(次男)である。ということは、出雲大社の前身天日隅宮の祭神は、もとは大己貴神でなく、スサノオを祀る神社として建てたのであろう。
記紀は、こうして「出雲の国譲り」物語りを書いた手前、出雲族(スサノオ・ニギハヤヒ他、出雲の神々)をまとめて杵築大社を造営して記紀の記述に整合させたのである。和国創建の始祖王スサノオ、そして大和朝廷の開祖ニギハヤヒ大王の史実を抹殺するために、記紀の編纂途上で大国主神を創作して杵築大社(今の出雲大社)を霊亀二(
716)年に建てたのである。
ところで、寛文六年( 1666年)に天穂日命の末裔毛利綱広が寄進した同社の銅鳥居の銘文に、「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と刻まれており、この当時は祭神がスサノオだったことを証明している。原田常治氏も、出雲大社を幾度か訪れたが、最初はスサノオが祀られていたと思ったが、いまは大国主神になっている(昭和51年9月)と云う。大国主は、建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニギハヤヒ(オオトシ)の偉業を抹殺するために創作した目くらましに他はならいと云う。その証拠に、藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢国町の漢国神社に大国主神を配祀して、みずからその見本を示した。また聖武天皇は、各国の総社に大国主神を祀るよう勅命を出したともいう。
神社事典によると、漢国神社はもと推古天皇元( 593)年に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり、養老元(717 )年に藤原不比等が韓神二座を祀ったと云う。園神は大物主大神、つまり大歳(饒速日)尊の偽名で、大神君白堤の先祖神である。当初、大神君白堤が祀ったのも園神と云う曖昧な神でなく大歳(饒速日)尊だった筈である。その後、誰かが園神に書き換えたものとみられる。おそらく藤原不比等であろうか。また、韓神二座とは、大己貴命と少彦命らしいが、どうして韓神、つまり韓からの渡来神としたのであろうか。もうこれ以上説明の必要もないことと思う。傀儡の大国主は「記紀」には、大穴牟遅、葦原色許男、八千矛、宇都志国玉、大物主などの別名がたくさんあり、性(神)格が一定していない。これは、いろいろな神の総称として描かれていて、必ずしも別名の神のすべてが大己貴(大穴牟遲)本人の活躍をあらわしたものでないことを示している。史実を知らない民衆は、大国主は偉い神様で、創作された「因幡の素兎」神話から、慈悲深い神さまだと思っている。
その後、字音の「ダイコク」から、インドから伝わったヒンズー教の「大黒天」と習合し、福の神・縁結びの神に、そして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻から、これも七福神の一つ「恵比寿」と混同された。二人は「恵比寿さま・大黒さま」として、福の神・商売繁盛の神さまとして、この世を一人歩きしている始末である。要するに、須佐之男尊や御子大歳(饒速日)尊ら、出雲一族の建国した和国・大和国を、乙巳の変(
645年)に始まり八世紀には完全に乗っ取った百済政権が、「出雲の国譲り」と云う神代のシナリオにして誤魔化したのが記紀の神代神話「出雲の国譲り」だったのである。詳細は、第九章「乗っ取られた飛鳥朝廷ーその時歴史は創られた」を参照されたい。
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