補足、諸氏のスサノウ論

 更新日/2018(平成30).5.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 スサノウ論を廻っても大混乱している。それが訝られずに今日まで経過している。これにコメントしておく。

 2008.4.10日 れんだいこ拝


【日本神話における出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノオ神話考】
 ここで、「日本神話における出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノオ神話考」を確認しておく。「日本神話に見る日本文化考」を転載する。
 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:なぜスサノオ神話が作られたのか?

 出雲国風土記に登場するスサノオ命(須佐之男命・素盞鳴命・素戔鳴尊)は、おおらかな農耕的神でした。しかし、記紀神話に登場するスサノオ命は巨魔的な巨大な神として登場します。この落差は一体何を意味するのでしょうか? しかも、記紀神話のスサノオ命は、高天原、葦原中国(出雲)、根の国(根之堅州国)と三界に登場する特殊な神として登場るのです。スサノオ命は、記紀神話の中で、この三界を繋ぎ、その中でも、出雲の神々を高天原の神々の下に位置付ける(天津神と国津神を分け、日本を天津神の支配とする)という大きな役割が科せられているようにも思えます。それは、記紀神話の中の出雲系神話と出雲国風土記や出雲国造神賀詞の出雲神話の説話の内容の違いからも窺うことができます。

 記紀神話の中の出雲系神話は、大和朝廷が本格的に中央集権化を推し進めるにあたり、新たに作られた記紀神話の中の高天原系神話と政治的に結び付ける意図のもと、出雲国風土記や出雲国造神賀詞の出雲神話を作り替えたと考えられます(推測できます)。その際、二つの神話を繋げる(結び付ける)大きな役割として、三界にまたがる重要な神の存在が必要とされたに違いありません。その二つの神話を結び付ける神こそ、スサノオ命(天津罪を犯し高天原を追われたとする神)でありスサノオ神話(地上に降り国津神の祖神となったとする神話)であったと考えられるのです。この「出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話」というテーマで、以下のことについて少し考えてみたいと思います。

 ①大和の大物主神(大物主命)と大和朝廷(:当初は大和朝廷も最高神として祀る)、②皇祖神・天照大神(天照大御神)と大和朝廷(:中央集権化の進展にあわせ氏神?から国家神へ)、③疎かにできなかった出雲系の神々(:大和朝廷成立以前から古い政治的・文化的中心があった)、④死と再生の信仰・習俗を色濃く残す出雲(:死と再生の説話の多さと出雲系信仰)、⑤死者の国(冥府・他界)と妣の国(黄泉国・根の国)・出雲(:大和朝廷にとって負のイメージ・大和に対する反対概念と捉えられていた)、⑥死と再生を超越した至高の世界・高天原(:首長霊信仰にもとづき死のない特殊な世界観をもつ特権的世界)、⑦死者の国とは常世国・出雲(:本来は永遠に命が続く世界、海の彼方にある神々の世界であった)、⑧二つのスサノオと二つの神話(おおらかな農耕的神と巨魔的神を繋げる『記・紀』神話の意味することとは)など、一つ一つ考察してみようと思います。

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(1)

 縄文時代、大和の地では、人々は森林や海川の近くに住み、農耕を知りながらも、狩猟採集を主たる生活手段としていました(縄文文化)。縄文の人々は自分たちの生活を豊かにしたり、また災いをもたらしたりするもの(精霊、霊魂、霊鬼、霊威)を、すべからくカミと見なし、そのカミは恵みと恐れの神(森羅万象、自然には創造と破壊、荒ぶる力と和らぐ力を繰り返します。その自然の摂理の圧倒的な姿の背後に人智を越えた大いなるもの、聖なるものの存在を感じ取るのです)としていたようです(精霊崇拝・精霊信仰)(※注1)。原初の三輪山の神もこのようなカミであったと考えられます。大和の御諸である三輪山は、御諸(みもろ)とは御室(みむろ)ともいわれ、神奈備山(かんなびやま、神山)のことです。正体を蛇神とされる大物主(三輪山の神を、恐ろしき「モノ」=大物主と名付けたのは、大和朝廷の側であり、それは、決して本来的な名ではなかったと考えられます)が棲むというこの山麓は、実は太古からの太陽信仰(朝日信仰)の地でもあったのです。

 (※注1)万物にカミなるものが存在するという思想は「アニミズム」と呼ばれていて、世界中のあらゆる民族の文化の古層に確認されています(マナイズム、自然崇拝、死霊崇拝などの原始的な宗教観念も、縄文人の信仰には祖霊信仰の要素があるとも)。確かにアニミズムは近代合理主義とは相容れないものがありますが、現代科学でも解明できない自然界の神秘や、大地震などの災害、眠る時に見る夢や熱狂してトランス状態に陥る人間の心理のなかに見ることができます。特に、アジアそして日本では近代文明が発達し、合理化が進んでも、習俗や祭りなどの中にアニミズム的な意識が濃厚に残っています。縄文時代は土偶・ストーンサークル・ムラ集団の形などの研究により、アニミズム的な世界(精霊崇拝的な世界)に人々が生きていた時代であるとされていますが、縄文時代が過ぎ時代が変わっても、人間の無意識的な古層の中にはその時代の魂(アニミズム的な世界=精霊崇拝的な世界)が今も生き続けているようです。

 古事記に記されているオホゲツヒメのような説話や大祓のような儀礼のなかに、縄文文化の土偶や土器などに見られる宗教的・精神的活動を読み取る学者がいます。土偶は最も一般的な説として、妊婦を表し女性の産む力を大地に感染させて、作物や獲物の豊穣を祈る呪具であったと考えられています(死んだ妊婦の霊を慰撫するとする説もありますが)。また、ほとんどの土偶が壊れた状態で出土することから、土偶を身代わりに破壊することにより災いや疫病を祓ったのではないかと考えられ、人形(形代)に穢れを移して水に流す神道の祓えに極めて近い儀礼の起源を読み取ることができそうです(ただ、神道の人形の祓えに発展したかは議論があり、中国から渡ってきた習俗ともされています)。


 また、土偶が大地の恵みを司る女神(大地母神)を表現しているとする説もあります。土偶の破壊の跡から、殺されることによって人に穀物をもたらしたオホゲツヒメのような女神の説話を思い出すことができます(※注1)。古事記に登場するオホゲツヒメ(大気都比売神)は、スサノオ命(須佐之男命・素盞鳴命)をもてなすために口や尻から食べ物を出しましたが、汚物を食べさせようしたと誤解され、スサノオ命に殺されてしまいます。そして、その死体から蚕や稲・栗・小豆・麦・豆が出てきたのだとしています。日本書紀ではウケモチ(保食神)で、ツクヨミ命(月夜見尊)に斬殺されたとしています(※注2)。すると、こうしたオホゲツヒメなどの説話は縄文時代の宗教的儀式の名残りなのでしょうか。しかし、大地母神的土偶信仰も形代的土偶信仰も弥生時代には継承されず(伏流水のように継承され)、なぜか『記・紀』神話に突然復活したかのように登場します(さなざまな意見があります)。


 (※注1)縄文時代の初期から女性像の土偶が作られており、大地母神の崇拝があったと考えられます。しかし、それが縄文時代中期になると、作った土偶を破片にし、方々の場所に分けて処理していたようです。当時の人々にとって栽培という行為は、大地である女神の体を害することにより、その死体の破片から毎年、作物が生え出してくるということを意味していました。弥生時代になると、稲を始めとする五穀が最も大切な作物になり、神話も五穀の始まりを説明するものへと変っていきました。それが、『記・紀』に記されているオホゲツヒメやウケモチの説話になったと考えられます。この部分は縄文時代の神話を受け継いでおり、女神の体から生み出された作物は、神話が編纂された当時の農業を反映して、五穀の起源を説明しているようです。


 (※注2)ツクヨミ命は、日本書紀によると、男の月神で乱暴な神とされます。食物の神・ウケモチ(保食神)を殺し、姉神のアマテラス(天照大神)から「悪しき神なり」と罵られ、それ以来日月は昼と夜で別々に住むようになったと語られています。そのウケモチから粟・稗・稲・麦・大豆・牛・馬・蚕などができたので、アマテラスはこれらで農耕を始め、養蚕を始めさせたといいます。このようなタイプの説話は、ハイヌウェレ型説話に属し、南方に多く

 ◇  出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(3)

 縄文土器(蛇体装飾の土器)には、縄文人の世界観(死生観・宇宙観)が表れていそうです。(蛇はシャーマニズムとも深く関係し、シャーマンは自分の霊力を示すために、蛇を手なずけていたようです)。それは、蛇に象徴される死と再生の円環的世界観(森の思想・命の共生と循環)です。これは森とともに生き、森の永劫の死と再生の循環の中に身を委ねていた縄文人にとって自然な感覚であったと思われます。蛇は死と再生(復活・循環)を繰り返す大地の霊そのものであると考えられていたようです(森が破壊されていくとともに、蛇を神とする世界観は失われ、蛇を邪悪のシンボルとみなされていきます)(※注1)。

 縄文後期以降になると、縄文土器は、突如として消滅してします(おどろおどろしいまでの情念の造形=荒ぶる藝術から、静謐さと単調さの造形=寡黙な職人の工芸へと変化)。しかし、なぜか神話・説話・民話のなかに再び甦るのです。その例として、『常陸国風土記』に出てくる蛇神・ヤト(夜刀神)、諏訪地方に伝承されていた蛇神・ミシャグジ、出雲系神話のヤマタノオロチ(八俣大蛇)、それと大和・三輪山のオオモノヌシ(大物主神)です。夜刀神や八俣大蛇は蛇神であり、自然の猛威を神格化した自然神とされ、ともに英雄によって退治される悪神とされています。これは、猛威をふるう縄文の神を弥生人が退治したという説話とも考えることができそうです。(※注2)。

 (※注1)古代人にとって蛇は、旺盛な生命力・繁殖・豊穰のシンボルとして考えられていたようです。蛇は古い皮を脱ぎ捨てて脱皮を行う生き物であることから、新しい身体を得て生まれ変わる様子に、古代人は再生・治療・永遠の命を見ていたと考えられます。蛇信仰にまつわる伝承は多く、夜刀神伝承、ミシャグジ伝承、八俣大蛇伝承、箸墓伝承などがあり、蛇の古語「カカ」から類推すると、鏡(蛇の丸い目)、案山子(蛇をデフォルメ)などは蛇を見立てたものと考えられ、正月の「鏡餅」は蛇がトグロを巻いた形とされ、関西に多い丸餅は蛇の卵の造形であるとも云われています。ふと身の回りを見渡すと、現在の日本の習俗や行事に蛇の象徴(カミの具象としての蛇)に溢れていることに気付きます。時代が下り文明化されていく中で、蛇信仰は表面から姿を消していきますが(やがて稲作文化の拡大とともに、蛇信仰は水の神や農耕神の信仰へと変質していきます)、蛇信仰そのものは隠された形で脈々と今日まで受け継がれきたのです(今日に至るまで、隠れた地下水のように脈々と流れ続けて、日本の文化や日本人の精神構造に深く根を下ろしてきたのです)。

 (※注2)日本には太古から蛇信仰があったことは知られています(縄文人が蛇に寄せた強烈な思いの源は、生命の根源・強さに対する憧れや希求、生命力と再生力への崇拝、死と再生の循環のシンボル、水と母なる大地への信仰など、それらすべてが凝集して神与のものと考えられ、その象徴が蛇として捉えられたようです。)。縄文土器の縁や把手に無数の蛇が描かれていますし、そもそも縄文の「縄(なわ)」そのものが蛇の表現ではないかとされています(注連縄なども)。全国には山そのものを御神体とした神社も多く、それらを「神奈備山(かんなびやま、神山)」とか「御諸(みもろ)・御室(みむろ)」と呼びます。その代表例が大和の三輪山で、この三輪という名前そのものが蛇がトグロを巻いている姿(円錐形の姿)を表しているとされています。また三輪山の神・オオモノヌシ(大物主神)は古来より蛇神で、水神・雷神であるとされています。
 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(4)

 三輪山を御神体(山そのものが御神体=神奈備山)とする大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県の桜井市にあります。三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山(倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 美し)の中でもひときわ形の整った円錐形の山(高さが四百六十七メートル、周囲十六キロメートル、南は初瀬川、北は巻向川の二つの川によって区切られ、その面積はおよそ三百五十ヘクタール)で、古来より神の鎮まる山として御諸山(みもろやま)、美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と称され崇拝されてきました(山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧を入れることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われています=千古不伐。いまでも禁足地として神社の許可がないと登れないそうです)。そうしたことから、大神神社に本殿はなく、拝殿裏の三ツ鳥居を通して直接に三輪山を拝する形になっているのです(※注1)。境内は蛇との縁が深く、参拝に行くと拝殿下の手水所で、まず蛇に迎えられます。蛇の口から出る水で清めをして拝殿に向かうと、右手に「巳の神杉」という大杉があります。ここには蛇(巳=みいさん)が祭られていて、いつも蛇の好物であると言われる卵と酒が供えられています。このように古来から、三輪山は根強く蛇信仰が残る山でした(※注2)。

 (※注1)三輪山は山全体を神体山として古代信仰をそのまま今日まで伝えており、古代祭祀信仰の形態を知る上で重要な史跡です。神社は拝殿のみがあって本殿はなく、三輪山の山中には三カ所の磐座があります。中でも辺津磐座がその中心で、三ツ鳥居からこの辺津磐座までが古来から禁足地とされ、三輪山祭祀の中心の場所でした。この禁足地からは須恵器や子持勾玉のほか、おびただしい量の臼玉が出土しています。また大正七年(一九一八年)に発見された山ノ神遺跡は祭祀用の土製模造品のほか、無数の石製品・須恵器・勾玉・臼玉・管玉・小形銅鏡などが出土しています。これらの遺跡は弥生時代に始まり、奈良時代に至る三輪山麓における古代祭祀の実態を示す貴重な遺跡とされています。また神域内は、三輪山を中心に、天然記念物として価値のあるものや、重要文化財としての拝殿はじめ、名勝・遺跡・建造物を含む神社境内地としての史跡です。
(※注2)原始信仰においては、蛇は水の神・山の神の顕現として崇拝されていました。また、蛇はその特異な姿形、脱皮という不思議な生態、強靭な生命力、その恐るべき毒などによって、古来、人々を畏怖させてきたばかりか、強烈な信仰の対象ともなってきました(蛇はその形から男性性を、脱皮するその生態からは出産=女性性が連想され、古代日本人は蛇を男女の祖先神として崇拝したようです。神=蛇身<カミ>か?)。さらに、祖霊が住まう山(神奈備)を蛇がトグロを巻いた形として連想され(蛇の最も特徴的な姿がトグロを巻いた姿形です)、三角錐の山(円錐形の山)を拝むようになったと(信仰の対象となったと)考えられます(神奈備山信仰)。大和の三輪山がその代表的な(典型的な)例です。日本人にとってカミとは何か? その問いは、古代日本人の死生観・世界観、ひいては日本人そのものを問うことになりそうです。
 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(5)

 三輪山の山中には至る所に磐座があり、太古よりの多くの祭祀遺跡が出土しています(※注1)。縄文時代には死と再生の循環を司る神霊・蛇神(大地の神霊)が広く信仰されていたことでしょう。三輪山もそうした蛇神信仰の象徴としての神奈備山(蛇がトグロを巻いた姿形)であったのです(※注2)。また、そうした神が磐座に降る(宿る)とする信仰が起こり(磐座信仰)、その遣いの蛇神、雷神の信仰へと発展していきます。弥生時代になると、稲作の普及と共に水神(雷神・蛇神)、日神信仰(太陽・陽光信仰)も入り、最終的に大物主神へと人格化されていったようです。三輪の神は古代よりこの地方の祖神として崇敬が篤かったのです(高天原系部族の来住以前に大和に住む先住民族が崇拝していた国魂の宿りし山=三輪山であり、火や水、死と再生を司る山の精霊であり蛇体の主=大物主でした)(※注3)。

 (※注1)原始信仰では神木が神籬(ひもろぎ)とされ、巨石が磐境・磐座となり、精霊が来臨し鎮座して神奈備山になりました(自然崇拝のナショナリズム)。磐座は神の降り立つ巨石の寄り代のことであり、神奈備山は神の住まう山のことです。このような信仰は、自然物を通じて感じられる「隠れ身の神性」への畏敬の念であったようです。具体的なモノの背後に感るインスピレーション、聖なるものの感覚です(モノ=精霊と古代の人々は考えていました)。大神神社には今でも本殿がありませんが、それは三輪山自体が御神体だからです。その後、剣や鏡、勾玉などを用いて豊穣を呪術する呪物崇拝のフェティシズム、巫術で精霊やカミと交流する術を身に付けた巫覡(ふげき)が行うシャーマニズム(原初的体験、脱魂=他界飛翔=エクスタシー、憑霊=神懸り=ポゼッション、忘我=恍惚=トランスを通して、超自然的な世界と人間界の交流を可能にする)などの信仰が混在し、弥生時代における稲作生産の発展のもとで祖霊信仰も生まれてきます。

 (※注2)太古より、山は人間の生活圏であるとともに神の領域でした。山に入るにはきびしい禁忌が科せられ、限られた時、限られた人以外は立ち入ることのできない神聖な場所でもあったのです(禁足地、神域)。ことに神の坐す神奈備と呼ばれる山は特別に崇められました。たとえば、三輪山や富士山のような円錐形をした山や、二上山や筑波山のように二つの峰をもつ山は、神の坐す山として信仰の対象となり、山そのものが神(神体山)であったのです。こうした考えは古くから人々に、常世国(他界・異界)から依り来る神が山を目印として寄りつく場所だと考えられていたものと考えられます。次第にそこに神が常住するのだと認識されるようになっていったようです。このことからも、神の坐す聖なる山(神奈備山・神山)とは、神の世界と人間の世界との境目として神と人とが交わる場所だということがいえそうです。

 (※注3)太古より山に超自然的存在を見出す、アニミズム的観念ともいうべき自然物信仰があったことは、日本だけでなく普遍的な精神観・宗教観でした。超自然的存在に畏れ多いとする観念のなかに、畏怖・畏敬の念を抱く原初的山岳信仰を窺うことができます。古代には、人は亡くなると肉体から霊魂が離れ、その霊魂は祖先として残された家族を見守るとされています。そのことから生存者は、自分達を守護してくれる祖先の霊を尊く崇敬します。ここに祖霊への信仰が成立するのです。この際、祖霊があの世に行く前に集まる場所は山とされたり、時には山自体があの世とされ、祖霊の宿る場所とみなされるケースが、全国各地に残されています。このことからも、山は畏れ多い場所と考えられ、祖霊信仰における信仰対象に位置付けられました。古代の信仰には、山は神の宿る場所、もしくは神そのものであるとする精神観がありました。こうした神奈備山信仰から、人は畏れ多いということで山には踏み入ることがありませんでした。そこで山麓や平野部から山を崇めようとする信仰形態が生まれたと考えられます。ここから禁足地という概念と、麓から神祭りを行なう山麓祭祀が発生するのです。
 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(6)

 三輪山の大物主神の信仰は、三輪山周辺を支配していた火・水・死と再生を司る山の神の精霊であり(雷神・蛇神でもあります)、高天原系部族の来住以前に大和に住む先住族が崇拝していた国魂の神でした。また、ヤマトタケル命(倭建命)の説話では、伊吹山の荒ぶる神を退治しようと出かけたところ、その山の神は大蛇となって道を遮り、雲をおこし、雹を降らせたといいます。山の神は蛇体となるだけでなく、時には白猪や白鹿となって現れます。このように日本の山の神は、三輪山の大物主神や伊吹山の荒ぶる神のように、山の神→蛇、坂の神→鹿などと、神の使い(attribute)・神の具現としての山河の荒ぶる姿として登場してきます(世界の神話にも多く見られます)(※注1)。

 『記・紀』神話のなかには、大物主神の出現をどのように描写しているのでしょうか。オホナムチ命(大穴牟遅命・大穴持命・大己貴命)の国作り説話のなかで、海を照らして依り来る神(この時に海を光して依り来る神ありき『古事記』。時に神しき光、海を照らして、忽然に浮かび来る者あり『日本書紀』)と述べています。海を照らす神は、豊穣をもたらすマレビトであり、原初の太陽神・海神であったのです。古代の人々にとって自然がそのまま神(太陽・大地・山・火・水・樹木・岩石など自然のすべてに神が宿るとするアニミズム)であり、神がそのまま自然であったのです。人間はこの自然の懐に抱かれ、生きてきたのです(生かされてきたのです)(※注2)。

 (※注1)神話の世界は、アニミズム(精霊崇拝)や普遍的な自然信仰を底流にし、宇宙の成り立ちから歴史上の事実と思われることへの探求、自然の力や人間の死後と再生への探求へと広がりをみせます。そのイメージは、経験的、客観的、合理的にみれば意味のない抽象的なもの(神話的、非合理的な思考によるもの)に思えるかもしれませんが、神話学者のジョゼフ・キャンベルが述べているように、「詩的な、神秘的な、形而上的な」感覚をもってみれば、神話をイメージした古代人の死生観や世界観の精神構造(精神世界、民族の深層意識を語り継いだ物語)が浮かび上がってきます。古代の人々は、死と再生の円還的循環(生命の永遠、霊魂の再生と循環)を通して、自然を畏敬し(共生し)、自然(生命の再生と循環システム、生きとし生ける者はすべて大地から生まれ大地に還る、多様性の中の共存)の懐に抱かれ調和してきたのです。しかし、現代文明は神話的、非合理的な思考法から脱却すところから、学問研究の諸分野が形成され、近代的文明が形成されていきました。こうした科学技術の発展と文明の進歩(生命の最内奥の仕組みから宇宙空間の構造の研究と知識)は、人間の自然への畏敬の念を奪い(科学技術の発展は、自然を支配できると考えるようになった)、地球環境の汚染と破壊をもたらしています。現代人は、今一度、古代の人々が自然と宇宙の間に神秘で偉大な生命力を直感した壮大な想像力を思い起こさなければならないのかもしれません(古代の人々は、物質的なものよりも霊魂の方がより現実的と感じて、個人それぞれが魂の完成に力を注いでいたのかもしれません)。神話が伝えてくれる古代人の精神(感性)が、一元的文化(アメリカ文化を代表する今日的な世界状況)によって席捲される中、多様な文化(マルチ・カルチャリズム)の広がりをもたらし、多様性の中の共存の理念を築いてくれるかもしれません。
(※注2)自然=神は、人間の想像を超えた(人智を超えた)計り知れぬ力を持ち、人間に豊かな恵みを与え、ときには底知れぬ猛威を振るいます。それゆえ古代の人々は、自然の恵みに感謝をし、自然の猛威に畏怖し、ただその怒りを鎮める以外になく、その自然の偉大な力が神として崇拝されたのです。自然からするとどうしようもなく小さな存在(無力な存在)でしかない人間は、豊かな想像力(プリミティブな心性)を大いに働かせ、太陽・大地・山・火・水・樹木・岩石など自然のすべてに対して、生き生きとした自然観を心象風景としてとられたのです(原初的な自然観)。古代の征
 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(7)

 東アジアの照葉樹林帯(※注1)では、採集や狩猟など山や森での営みには必ず山の神の加護を祈っていたようです。例えば、焼畑の造成(森林を伐採・火入れ)に先立っても山の神に供物と祈りを捧げてきたようですし、村の男たちが総出で狩猟に出かけ、獲物の多寡で豊凶を占う儀礼的狩猟の慣行も広くみられました。また、死んだ人の魂が、山の頂上へ上っていくとする宗教的観念がありました。こうした文化は照葉樹林文化(※注2)と呼ばれています。この照葉樹林文化の特色を生み出した生活文化の基層には、山と森への深い信仰があったことを窺い知ることができます(※注3)

 (※注1)太古の昔、照葉樹林帯は中央アジアのヒマラヤ山脈麓を起点として中国・雲南省、長江以南、台湾を経て南西諸島、日本の南半分に至るまで、帯状に分布していました。照葉樹林(年間を通して常緑に輝く葉を持つカシ、クス、シイ、クスノキ、タブ、ソテツ、ツバキ類等の常緑広葉樹林)は、温暖で雨に富む湿潤地帯にのみ発生し、森林の蘇生力が非常に強く、いくら樹を切っても自然の状態に戻せば砂漠化せず、やがて常緑の森林に戻ります。昼なお暗い神秘の森の辺に住んだ人々が、心象風景として森の生命の息吹きのなかに、神々の世界を見い出したのです(神の宿る恐ろしい森とは、鬱蒼と樹木の茂る暗闇の照葉樹林の原生林でした。そうした森は、自然本来の生命力を持ち、人間にとっては恐ろしく凶暴なものでしたが、神秘的な生命力の宿る神々の坐す森や山であったのです)。

 (※注2)照葉樹林文化には、各民族に共通する多くの文化的要素があります。イモ・雑穀・茶の栽培、綿花・柑橘類の栽培、養蚕、漆器の製造、麹を用いた酒・味噌の醸造、豆腐・納豆・餅・な熟れ鮓の製造など多岐にわたります。またその後、焼き畑農耕や大豆発酵食品のみならず、神話や儀礼・習俗(ハレの日に餅を食べる習慣や歌垣などの生活文化、麹酒は山の神への祈りに欠かせない供物でした)など、精神文化の共通性も知られるようになり、いまや日本の深層文化を形成するものと考えられています。さらに照葉樹林文化の基盤はイモ・雑穀類を主とする焼き畑農耕であるところから、稲作文化誕生の母胎となった文化であるとする考えもあります。

 (※注3)照葉樹林文化の特徴を一言でいえば「循環と共生」ということになります。この文化の地帯では、狩猟採集と小規模な栽培を生活の基本としていたため、森や水がもたらす恵みとその再生力に見合った程度の生産活動しかしてこなかったと考えられます。そして森や水辺の動植物や滝、樹木、岩石等に八百万神の存在を認め、獲り過ぎや行き過ぎた開発は祟りを被る行為として厳しく戒めていたようです。このような多神教的な信仰形態は地域社会に異文化・異端を受容する風土(寛容さ)を生み、多様な価値観の中で共に調和して生きていこうとする精神が育まれていたと考えられます(共生の精神)。
※参考HP
 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(8)

 日本列島は、面積に比べて南北に広いため、和辻哲郎がいうようにモンスーン的風土(和辻哲郎は、その古典的名著『風土―人間学的考察』の中で、アジアのモンスーン的風土、アラビア半島を中心にした砂漠的風土、そしてヨーロッパの牧場的風土という三つの類型を設定しました)としてひと括りに捉えることには、多少問題がありそうです。太古の日本列島は樹相の分布をみても、照葉樹林(カシ、クス、シイ、タブ、ツバキ類など)は日本列島の西半分を中心に分布し、東日本の大半は温帯落葉広葉樹林(ナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなど)に覆われていました。そのため、日本文化の源流を「照葉樹林文化」(※注1)だけで捉えるには無理がありそうです。

 日本の中央高地から東北・北海道南部にかけて広がるナラ・ブナ林帯には、縄文時代以来、独自の農耕文化・生活文化が営まれてきました。ナラ林文化(ブナ林文化)(※注2)の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富なことです(クリ・クルミ・トチ・ドングリ・ウバユリなどの採集)。日光照射もあり植物種も豊富なため、狩猟対象となる動物(トナカイ、熊、鹿、海獣など)や漁撈の対象となる魚介(サケ・マスなど)も多くいました。これらの狩猟・漁猟・採集文化により、縄文文化はナラ林文化の下で発展しいきました。東北日本には、照葉樹林文化と融合し稲作文化を発展させた大和政権(稲作を基盤として成立した大和朝廷)が東漸するまで、まったく異なる文化が花開いていたのです(※注3)。

 (※注1)日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていました。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」(ナラ林文化の下で独自の自然崇拝信仰を生みました)と呼ばれます。日本の縄文文化は、主にナラ林文化(ブナ林文化)の下で、東北日本を中心に発展しました(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれません)。このように、日本の文化の源流(基層)には、東西二分する別々の文化圏があったとされています(方言・味覚など)。

 (※注2)三内丸山遺跡をはじめとする最近の発掘調査は縄文文化と縄文人のイメージを大きく変えました。集落の中央には直径一メートルの太い柱を使った大型建物を作り、そしてヒスイや漆を加工していました。クリを栽培し、周辺の森も人間が利用しやすいように管理していました。遠方から黒曜石や、琥珀などが運ばれ、交流・交易も活発であったと考えられます。定住生活が、本格的に営まれていたのです。

 (※注3)東日本(ナラ林文化では、木の実<栗やくるみなどの堅花を加工して>は、そのまま食べられるので、冬の保存食として最適だったようです。)に比べて、西日本(温暖な照葉樹林文化では、木の実はアクが強く、そのままでは食べられなかったようです)は食糧に乏しかったのか、日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で、東北日本を中心に発展しました(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれません)。

【スサノウ考】
 「日本大和史探訪」の「第三章日本列島に初めて和国を建国した須佐之男尊」の論考1-2を参照する。
 スサノウは、古事記では「須佐之男命」、「速須佐之男尊」、「須佐の男」、日本書紀では「素戔嗚尊」、出雲風土記では「神須佐能袁命」と記されている。出雲風土記は、713(和銅6)年、朝廷の命により出雲国造が撰録、733(天平5)年に提出されたものであるが、記紀の記述と整合しない都合の悪い部分は朝廷から削除又は訂正を命じられたとみられる。その結果、スサノオ神話が記紀にはそれなりに書かれているのに比して出雲風土記では不自然なほどスサノオが登場していないと云うオカシなことになっている。

 スサノウが祀られている全国の神社で調べた祭神名によると、須佐之男尊、須佐之男命、進雄尊、素戔嗚尊、速玉大神、家津御子大神、牛頭天王など多数にのぼる。スサノウは、れんだいこ史観によれば新出雲王朝の祖である。日本列島に初めて国らしき国となるワ国を建国した始祖王である。しかし古事記・日本書紀(以下、記紀と略記する)は大和王朝前に存在した出雲王朝の史実を抹殺し、大和王朝の皇統譜を正統化させる意図で編纂されている。これにより、スサノウはル―ツの定まらぬ且つ粗暴神にされてしまっている。記紀は、645年の乙巳の変で蘇我氏の飛鳥朝廷を乗っ取った中大兄皇子の娘鵜野讃良(持統女帝)と中臣の鎌足の次男藤原不比等のもとで編纂された。この時、皇祖神が差し替えられ、大和王朝前の日本上古代史の史実が徹底的に圧殺された。これを復元しない限り日本上古代史の真相が掴めない。ここではスサノウを確認する。スサノウは古代から多くの神社の主祭神として祀られ、また全国津々浦々の神社に配祀されている。古神社の縁起や伝承・考古史料・中国の史書などに残る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しようと思う。

 記紀神話上のスサノオは、伊弉諾尊(伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(伊邪那美命)の子神で、天照大神、月読命を三姉弟とし、アマテラスの弟にしている。しかし、これは記紀の詐欺記述である。記紀はまた、スサノオの乱行が過ぎるので根の国に追いやったとしている。根の国を古代の他界観により黄泉の国とする説があるが、れんだいこ史観では原出雲王朝を指す。スサノオと出雲の繫がりを見て取るべきだろう。

 BC188年頃、スサノオは、出雲国沼田郷(現在・出雲市平田町)で、出雲沼田の郷士布都命の子として生まれた。出雲風土記の飯石郡の条に、「須佐の郷、郡家正西一十九里なり。神須佐能袁命、語りたまひしく『此の国は小さき国なれど国処なり。故、我が御名は石木に着けじ』と詔りたまひて、即ち大いわき須佐佐田・小須佐佐田を定め給ひき。故に須佐という」とある。スサノオはこの須佐の郷の出身故の「スサ」の「オ」と思われる。

 島根県簸川郡佐多町宮内(元の須佐村、現在・出雲市佐田町)にある須佐神社(須佐大宮)には、祭神として須佐之男命、稲田比売命、足摩槌命、手摩槌命(須佐家祖神)が祀られている。同社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている」という。これは2004年現在のことである。斎主一代を平均27年余とみれば、2128年余り続いていることになり、BC124年頃スサノオの没後から祭祀が始まっていることがわかる。

 BC171年頃、スサノオ18歳―19歳頃、出雲木次―清田(現・雲南市大東町清田)の製鉄豪族オロチを倒し、稲田(現・仁多郡奥出雲町稲田)の娘・櫛稲田姫を助けて娶り須賀(現雲南市大東町須賀)の地に館を構えた。スサノオの和歌「夜久毛多都、伊豆毛夜幣賀岐、都麻碁微爾、夜幣賀岐都久流、曾能夜幣賀岐袁」(八雲たつ出雲 八重垣妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を)が伝えられている。この「伊豆毛」が、出雲の地名起原だと思われる。

 二人の間には長男の八島野尊(諡号:清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)、次男五十猛尊が、都萬津比賣命(BC166~BC103年)、大屋津比賣命(BC158~103 年)が生まれ、43歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる。末子の須世理姫が生まれたのは、スサノオが45歳、BC144年頃と推定される。後取りの須世理姫は、出雲で大穴牟遲命(大己貴尊、後の大国主の命)を養子に迎えてスサノオ王朝を継ぐことになる。

 スサノオは国造りに努めただけでなく、両国の経営に名指導ぶりを発揮した。稲作、製銅・製鉄等の技術を指導し領国経営に大きく寄与した。御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励した。次男五十猛命を連れて朝鮮半島にも渡り、優れた稲籾をはじめ各種の木種、造船等の技術を手に入れている。出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため、壱岐・対馬を出雲国に加盟させ、そこから朝鮮半島に渡り先進技術を次々と導入したとみられている。スサノオは人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。いつの世でも部下の能力を見極め適材適所で能力を最大限に発揮させるリーダは称賛される。日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは、そういう能力を持つ英雄だった。故に、出雲風土記は「須佐之男命は仁慈の名君だった」と称えている。

 スサノオ29歳頃、出雲国王に推されている。スサノオ王権は、出雲、隠岐を百八十六部に分け、それぞれに族長を置いて統治させ、毎年陰暦十月に族長会議を開くと云う族長合議制政治を確立させた。これが日本式和議政治の始まりとなる。出雲では、この月を神在月と呼び、出雲外では神無月となる。これにより、出雲大社では毎年11日から7日間、神有祭・神在祭が行なわれる。

 スサノオは、出雲国を建国した後、29歳頃に越(越前・越中・越後・加賀・能登)、長門、筑前、豊前にも遠征し、出雲王朝入りをすすめた。越後(新潟県三島郡)の出雲崎町に出雲岬の地名がある。これは当時からの名残りかと思われる。次男の五十猛命等を連れて木国(紀国=和歌山)の統合に成功している。和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残っており、五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ、木国の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られている。こうしてスサノオは、出雲を振り出しに山陰から北陸、瀬戸内、中四国、そして九州の一部を除いてほぼ平定し統一した。

 BC136年頃、50歳過ぎの頃、次男五十猛尊( 31歳頃)、三男大歳尊( 11歳頃)を連れ、豪族部隊を率いて筑紫(九州嶋の古名)に遠征し、北九州各地の豪族を説き伏せ瞬く間に筑前、筑後、豊前、豊後を服従させて統治下に入れている。こうして出雲王朝連合国を拡大したとみられる。筑前は息子の大歳尊に統治を任せ、自身は部下を従え豊国の宇佐(大分県北部の宇佐郡安心院町)に拠点を構えたとみられている。九州各地に御子の八島野尊、五十猛尊、大歳尊や部下を配置して統治させた。

 スサノオが建国した国名が「ワ国」である。BC136頃、50歳過ぎのこととみられる。「ワ」は「輪」、「和」に繫がる意味を持つ。ワ国は豪族の合議・連合体政権だった。AD82年頃に書かれた中国の史書「漢書」の地理志によると、「樂浪海中有倭人、分爲百餘國(倭人は楽浪海の中に在り、百余國に分かれる)」とあるが、この豪族が支配する国々を連合させたとみられる。中国の史書は、音の似た「倭」を当て「倭国」と記している。「倭」は中国人がつけた蔑称で、日本では「ワ」と読むが、中国語では「ヴォ」と発音する。れんだいこ史観は、スサノオ政権国家を新出雲王朝と命名する。それは日本列島に登場した初めて国らしき国であり、スサノオは建国の始祖王の名に値する。中国の史書「宋史・日本伝」は、神武天皇(記紀では初代天皇)の六代も前に、スサノオ(素戔嗚尊)を国王としてはっきりと記している云々。

 BC124年、65歳、スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて故郷出雲に帰り、そこで亡くなったとみられる。長男八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみられる。スサノオの御陵は八雲村大字熊野(松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地られ、「神祖熊野大神櫛御気野尊」の諡号で祀られている。神のなかの祖神である。「みけ」は御飯(食)で食物神、穀霊を表すとされている。スサノオの在世年代は、御子都萬津比賣命、大屋津比賣命、また孫にあたる五瀬尊の生存年代から推してBC188年頃に生まれ、没年齢を65歳とみれば、BC124年頃に亡くなられたとみられる。

 スサノオは、記紀の編纂された8世紀以前に創建された神社に、数え切れない程数多く祀られている。スサノオを祀る天王社は全国に3千社もある。そこに伝わる縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている。スサノオと正妻櫛稲田姫の御子8人、その孫など一族を祀った神社は、記紀以前には全国の神社総数の7割くらいも占めていたという。その総本社は愛知県津島市の津島神社だったことが尾張名所絵図に出ている。それによると、「第七代孝霊天皇のとき西海の対馬に祀られ、欽明天皇(29代)の御代( 540年)に対馬から奉遷された」とある。もと対馬に祀られていた祭神を、スサノオの後裔尾張氏が尾張国に遷したのであろう。同社にはスサノオの肖像画がある。

 810(大同5)年正月、嵯峨天皇は「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオを祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉っている。又、一条天皇(986~1036、寛和2)~長元9年)は、津島神社に天王社の号を贈られている。記紀編纂後も、当時の天皇がスサノオの偉業をよく存じ、如何に重要な存在だったかを物語っている。

 平安時代の天皇家は、出雲王朝系の皇統を祀る紀伊の熊野三社(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を、京都御所から遠路再々参詣されたのは有名の史実である。海南市藤白から山越えの熊野参詣道が2000(平成12)年に国の史跡に指定され、2004(平成16)年には「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登録された。

 熊野本宮大社は、熊野連が第十代崇神天皇時代に熊野坐神社として創建した(扶桑略記)もので、主祭神は出雲王朝系の命だった筈であるが、事解男尊、家津御子大神に改変されている。熊野牟須美神が祀られ、同社はこれを「伊邪那美大神・伊邪那岐大神様の夫婦神である」と説明している。熊野那智大社の祭神は、第一殿(瀧宮)が大己貴命(大国主の命)、第二殿(證証殿)が家津御子大神、国常立尊、第三殿(中御前)が御子速玉大神、第四殿(西御前)が熊野夫須美大神、第五殿(若宮)が天照大神である。907(延喜7)年の宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は34回、後鳥羽上皇は29回参詣を重ね、また花山法皇は三年千日の瀧籠りをされたと記録されている。熊野速玉大社の主祭神は、もとは熊野速玉大神だったのが、今はこれを伊耶那岐尊だと説明している。

 又、熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤白に、熊野連の末裔の一族鈴木氏が氏神として創建したとされる藤白神社がある。創建は平安時代としている。この神社は、熊野三山から祭神を勧請したとあり、筆頭に饒速日尊、次に熊野坐大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神を祀っている。熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っているところをみれば、熊野本宮大社にはもともと饒速日尊が祀られていたと推定できる。又、藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命を祀り、楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財になっている。同神社を創建した鈴木氏は、熊野からこの地に居を移したとし、全国の鈴木姓の元祖だという。いまも神社の東隣に鈴木屋敷跡が保存されている。

 奈良県天理市にある石上神宮は、古代から大和朝廷の守護神だった。「創祀は神武天皇即位元年、宮中に奉祀せらる。崇神天皇七年、宮中より現在地・石上布留の高庭に移し鎮め祀る」とある。石上神宮の祭神は布留御魂大神、布都斯御魂大神、布都御魂大神で、宇摩志麻冶尊、五十瓊敷入彦命、白河天皇、市川臣命が配祀されている。宇摩志麻冶はニギハヤヒの二男である。五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮の祭祀を担当した人物という。ここは、まさにスサノオ一族の宗廟である。神話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(豪族オロチ)を斬った十握剣(同神宮では八握剣と記す)が国宝として祀られている。神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の御霊威」だと説明している。

 古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ、神宝が埋斎されていると云い伝えられてきたが、1874(明治7)年に神官が朝廷の許可を得て発掘したところ、伝え通り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発見されたという。偉大なる覇王の宝が弥生時代からの永い眠りから醒め、その輝かしい雄姿を見せた。同神宮の説明書では、「神剣は環頭内反の鉄刀であることから、中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと考えられる」という。当時の出雲地方でも珍しい外国製品だったと思われる。

 祇園祭で有名な京都の八坂神社(京都市東山区祇園町)には、スサノオ、櫛稲田姫、8人の御子が揃って祀られている。8人の御子は、八島茶見命(八島野尊)、五十猛尊、大屋津比賣命、抓津比売命、大歳神、宇迦御魂神、大屋毘古命、須勢理比売命である。現在も日本各地に約三千の分社があるという。神社事典によると八坂神社は、「旧官幣大社。祭神は素盞嗚命・稲田姫命・八柱御子神を祀る。古くは祇園感神院・祇園天神・祇園社・祇園牛頭天王・祇園大明神、あるいは単に祇園と称した。現在、祭神は素盞嗚命を祀るが、もとは祇園天神・牛頭天王が祀られた。牛頭天王は武搭天神とも称し、備後国風土記によれば、速須佐能雄(スサノオ)であると記している。創祀については定かでないが、当社は朝野の信仰を篤くし、史上にあらわれてくるのは平安期からである。式外社であるが、はやく長徳元(995)年には二十二社にも列した」とある。出雲(島根県)はじめ各地に弥栄神社でスサノオを祀っているが、八坂は弥栄から転じたものと云う。
 末子の須世理姫が生まれたのは、スサノオが45歳(BC144年)頃と推定される。後取りの須世理姫は、出雲で大穴牟遲命(大己貴尊)を養子に迎えてスサノオ家を継いでいる。

 スサノオは、出雲国を建国した後、山陰から北陸各地に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し、和国を建国した。これが日本列島に国らしき国を建国した始まりだった。平安時代になって嵯峨天皇は、いみじくも「皇国の本主」と称えている。

 引き続きスサノオは、九州各地の統合を目論んだ。しかし、すんなりと合意の得られなかった部族集団もあったようで、BC136年頃から次男五十猛尊( 31歳頃)、三男大歳尊( 11歳頃)を連れ、豪族部隊を率いて筑紫に遠征し、北九州各地の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられる。そして、豊国の宇佐(大分県宇佐郡安心院町)に拠点を置いたとみられる。

 北九州の各地を平定した後、南九州へと向かい、日向族の拠点、阿波岐原(現在の宮崎市街地の東端)に遠征した。日向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否され、イザナギと戦ったとみられる。

 しかし妃の伊弉冉や娘の向津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に連合することを合意したようである。スサノオ尊は、イザナギ尊の命は助けて淡路島に流したとみられる(詳細は後項)。そのとき、スサノオは27歳くらいの向津姫(イザナギ尊の娘)と政略結婚したとみられている。向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同棲した。その後、多紀理姫・多岐都姫・市杵島姫が生まれている。また、BC133年頃に熊野楠日尊(神武天皇の父)が生まれたとみられる。


 スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて、出雲の大己貴尊(大穴牟遲命)と向津姫に後を托し、故郷出雲に帰りBC124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられる。

 ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神として須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られている。同社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている」という。これは2004年現在のことである。斎主一代を平均27年余とみれば、2128年余り続いていることになり、BC124年頃スサノオの没後から祭祀が始まっていることがわかる。

 長男八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみられ、加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前2世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣・銅矛は、まさにスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない。

 出雲風土記の大原郡神原郷に、「神原郷郡家正北九里。古老傳云「所造天下大神之御財積置給處。則、可謂神財郷。而、今人猶誤云神原郷耳」とある。
これを筆者なりに読み下すと、「神原郷は郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下造らしし大神(スサノオ)の御財を積置き給いし処なり。即ち神財郷と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷と云う」と。本来は神財郷と呼んでいたことになる。

 天平五(733)年に撰録された出雲風土記は、すでに荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる。長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が、昭和58(1983)年、広域農道の建設にともなう遺跡分布調査によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである。

 ★古神社が語るスサノオ尊

 スサノオは、記紀の編纂された八世紀以前に創建された神社に、数え切れない程数多く祀られ、そこに伝わる縁起や伝承は、スサノオの活躍や偉業を今に伝えている。スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人、その孫など一族を祀った神社は、記紀が出来る以前には全国の神社総数の七割くらいも占めていたという。スサノオは八千矛大神として祀られている場合もある。

 また、記紀編纂に伴って改竄されたとみられる神名、大山祇(大山積・大山津見)神を祀る神社は、全国に一万一千社もあるという。その総本社は愛媛県今治市大三島の大山祇神社である。同神社の創建は、祭神の子孫小千命で神武天皇時代というから最も古い神社の一つで、かつては伊予国一宮で国幣大社だったと云う。小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」とあるとおり、小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる。しかし、後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の人物ではなく、孝霊天皇の孫にあたる。

 松山市の井門家に「小千・河野・井門家系圖」という古い系図があり、それには「孝霊天皇(御諱大日本根子彦太瓊尊)を祖とし帝常信大山積神、是則三嶋大明神也。第三皇子彦狭嶋命、その第三子小千御子云云」としており、また「彦狭嶋王、伊豫國に下り令祭、大山積大明神是則、伊豫之國大三嶋社也」とみえる。これによれば大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真偽の程は定かでない。

 古事記の一節に、スサノオは「大山津見神の女、名は神大市比売を娶り云云」とあるから、大山津見神はスサノオ尊時代の人物で、スサノオの偽名とられている。

 さらに、スサノオを祀る天王社は全国に三千社もある。その総本社は愛知県津島市の津島神社だったことが尾張名所絵図に出ている。それによると、「第七代孝霊天皇のとき西海の対馬に祀られ、欽明天皇(29代)の御代( 540年)に対馬から奉遷された」とある。もと対馬に祀られていた祭神を、スサノオの後裔尾張氏が尾張国に遷したのであろう。同社にはスサノオの肖像画がある。

 大同五(810)年正月、嵯峨天皇は津島神社に、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、日本総社の号を奉られている。また、一条天皇(寛和二(986)~長元九(1036)年)は、津島神社に天王社の号を贈られた。810年と云えば、日本書紀が撰録されてからすでに90年も経っている。記紀に書かれたあの惨めなスサノオ像は、すでに誰の眼にも明かだった筈なのに、嵯峨天皇はわざわざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の総社」と崇められたというのである。当時の天皇は、スサノオの偉業をよく存じだったのであろう。

 平安時代の天皇家も、スサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)を祀る紀伊の熊野三社(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を、京都御所から遠路再々、参詣されたのは有名の史実で、海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成12(2000)年に国の史跡に指定され、平成16(2004)年には「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登録された。

 熊野本宮大社は、スサノオの後裔・熊野連が第十代崇神天皇時代に熊野坐神社として創建した(扶桑略記)もので、主祭神はスサノオと饒速日尊(大歳尊の改名)だった筈であるが、その後饒速日尊は事解男尊に改変され、スサノオ尊は家津御子大神となっている。おまけに熊野牟須美神という訳の分からない神名で祀られ、同社はこれを「伊邪那美大神・伊邪那岐大神様の夫婦神である」と説明している。イザナミ・イザナギは熊野には関係はない。熊野牟須美神は、スサノオの父布都尊か、あるいは神武天皇の父熊野楠日尊とみられる。熊野那智大社の祭神は、第一殿(瀧宮)大己貴命(オオクニヌシ)。第二殿(證証殿)家津御子大神(スサノオ)、国常立尊。第三殿(中御前)御子速玉大神(スサノオ)。第四殿(西御前)熊野夫須美大神(スサノオ父・布都命)。第五殿(若宮)天照大神である。


 「第3章和国始祖王/須佐之男尊-2」。
 ★スサノオの活躍と建国の偉業
 出雲国を創建

 スサノオは北方系モンゴリアンで、古代の中国大陸や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が、出雲(島根県東部宍道湖周辺)に移住した子孫で、出雲沼田の豪族布都の子としてBC188年頃に出雲で生まれたとみられる。

 そして18歳頃に、出雲で横暴を極めていた清田(現・雲南市大東町清田)の製鉄富豪オロチを倒し、虐められていた稲田(現・仁多郡奥出雲町稲田)の娘・櫛稲田姫を助けて娶り、須賀(現雲南市大東町須賀)の地に館を構えた(須賀神社縁起)。

 出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋人だったとみる説もある。このとき、須賀の館に幾重にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛ったという。そして、「夜久毛多都、伊豆毛夜幣賀岐、都麻碁微爾、夜幣賀岐都久流、曾能夜幣賀岐袁」=(八雲たつ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を)とスサノオが詩を詠んだという。この「伊豆毛」が、出いずも雲の地名起原だとされている。

 スサノオは、父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技術を人々に指導したことから、庶民の生活安定に大きく寄与した。周辺部族や住民がスサノオの人柄や技術に期待をかけ、次々と出雲国に参加、そのうち出雲国王に推された。出雲風土記は、「須佐之男は仁慈の名君だった」と記している。

 スサノオは、出雲・隠岐を百八十六部に分け、それぞれに族長を置いて統治させ、陰暦十月には族長会議をひらいていたという。スサノオは国の統治に合議制を重んじたことが伺える。民主政治の始まりとも云える。

 この月を出雲では神在月と呼び、出雲大社では十一日から七日間、神有祭・神在祭が行なわれる名残らしい。また出雲・隠岐以外の地では族長(神)が不在になるので、この月を神無月と呼ぶようになったと云う。

 ★出雲から山陰・北陸を連合して和国を建国

 こうして出雲国が次第に大きくなるなか、スサノオは自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを考えたのであろう。それには父親から学んだ技術だけでは不十分に感じ、更なる高度技術を導入するため次男の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が記紀にも記されている。

 出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため、壱岐・対馬を出雲国に加盟させ、そこから朝鮮半島に渡り先進技術を次々と導入したとみられている。

 対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く、対馬の北端には韓岬の地名がある。ここから船を出したのであろう。

 スサノオは、出雲国を建国した後、29歳頃に越(越前・越中・越後・加賀・能登)、長門、筑前、豊前にも遠征し、国の統合交渉をすすめた。小部族が領土争いをしているよりも、話し合いで大同団結して先進技術を普及させ、住みよい国づくりをめざしたとみられる。越後(新潟県三島郡)の出雲崎町に出雲岬の地名がある。これは当時からの名残りかと思われる。

 このとき、スサノオが建国した国名は「輪国」ではなかったかとみる説もあるが、私は「和国」だったと思う。中国の史書は、音の似た「倭国」と書いているが、「倭」は中国人がつけた蔑称で、日本では「ワ」と読むが、中国語では「ヴォ」と発音する。

 ともあれ、スサノオの建国した和国は現在のような中央集権国ではなく、豪族の連携・連合体であろう。AD82年頃に書かれた中国の史書「漢書」の地理志によると、「樂浪海中有倭人、分爲百餘國(倭人は楽浪海の中に在り、百余國に分かれる)」とあるように、各地の豪族が支配する国々の連合体とみられる。

 スサノオは、領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚かしさを父親の布都からいやという程聞かされていたであろう。話合いで共存共栄の道を探るというのが国づくりに賭けた信条だった筈で、スサノオにとって、「和」はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう。

 ★筑紫の小諸国や木国(紀国)を統合、和国を拡大

 本州では、出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘の痕跡や伝承はないが、話合いで合意の得られなかった部族もあったようで、BC136年頃、50歳過ぎに本格的に筑紫(九州嶋の古名)遠征を開始し、なかでは武力を行使した形跡もある。
スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが、北九州の吉野ヶ里遺跡( BC3世紀~ AD3世紀)の甕棺墓遺跡から発掘された甕棺には、腰骨に剣の刺さったものや首のない遺骨がみられ、戦闘の痕跡を物語っている。

 第二章で検証したが、吉野ヶ里はBC210年に中国大陸から集団渡来した徐福一族等が、その後に建国した大型集落の首都だった可能性が高い。スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し、瞬く間に筑前・筑後、豊前・豊後を服従させて統治下に入れた。そして、筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任せ、自身は部下を従え豊国の宇佐(大分県北部)に拠点を構えたとみられている。

 北九州を統一した後、南九州の日向族の中心地、阿波岐原に遠征し、伊弉諾尊(イザナギ)に和国への参画を呼びかけた。このとき妃の伊弉冉命(イザナミ)と娘向津姫(大日霊貴=記紀のアマテラス)は同意したものの、イザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒絶して戦ったのであろう。イザナギはあえなく敗北し、スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみられる。

 その証拠は、淡路島の伊弉諾神社(兵庫県津名郡一宮町多賀)に残っている。同社に伝わる「淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起」に、「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を過された。その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」と。南九州日向の豪族だった筈のイザナギが、淡路島で余生を過したというのである。

 また、スサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが、河内族の統合には失敗したとみえ、次男の五十猛命等を連れて木国(紀国=和歌山)の統合に成功している。
和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残っており、五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ、木国の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られている。また伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたものとみられる。

 その後スサノオは、拠点を宇佐から日向の西都に移し、九州を統治するようになったとみられている。九州の呼び名は後世になって着けられたものであるが、もとは西海道の九国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩をいう)からきたものである。

 この時、熊曾地方だけは統一に失敗したようである。熊曾とは、上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地名で、古くは九州南半、日向・大隅・薩摩地方(宮崎県、鹿児島県)に当たる。律令時代の行政区画には、球磨に当たるものとして肥後国球磨郡の名があり、曽於は大隅国贈於郡の名がみえる。熊曾はその後、大和朝廷になってからでも朝廷の意にそわなかったとみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが記紀にも記されている。

 ★スサノオの現地妻だった天照大神(向津姫尊)

 ともあれ、スサノオは南九州もほぼ平定したものの、日向族の気持ちを和らげる必要もあり、イザナギの娘向津姫を娶り現地妻にしたとみられている。記紀の云う大日霊女貴尊(天照大神)で、伊勢神宮の内宮祭神である。

 ついでながら、伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は、原田常治氏によると磐余彦尊(神武天皇)が九州に居た頃の日向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみている。こうしてスサノオは、西日本・九州の小国を次々と統一し、和国の拡大に成功したのがBC136頃のこととみられる。

 それぞれの拠点に、御子八島野尊や大歳尊、五十猛尊を、出雲には娘婿の大穴牟遲命(書記:大己貴尊)らを配置して統治を分担させていた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる。

 数年後、日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したのを見定めたスサノオは、政庁を再び宇佐に遷し、日向には末娘須世理姫の婿大己貴(古事記では大穴牟遲命)を呼び寄せ、政務を継がせた。

 こうして、スサノオは出雲を振り出しに山陰から北陸、瀬戸内、中四国、そして九州の一部を除いてほぼ平定し、和国の拡大に成功したのが50歳過ぎのことと考えられる。

 娘婿の大穴牟遲命(大己貴尊)は、正妻の須世理姫を出雲に残して日向に赴任し、スサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫を現地妻にして同居したようで、かつてスサノオが向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である。向津姫はじめ、日向族らの支持、信任を得るにはそれが最善の策だったのだろう。

 その後スサノオは、大己貴尊と向津姫に後を託し、日向の統治を委ねたとみられる。その後、筑紫(筑前・筑後)を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ、出雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ、後を統治させたようである。そして宇佐の政庁を引き揚げ、故郷・出雲に帰国したとみられている。

 しかし、スサノオが出雲に帰ってからも、向津姫は度々、出雲に出向いた形跡が伝承としてあり、末子熊野楠日(鵜葺草葺不合=記紀の神武天皇の父)命は、その名前からみてスサノオが出雲に帰ってから、向津姫との間に出来た御子とみられている。

 スサノオと向津姫(記紀の天照大神)が夫婦関係にあったとみる史料に、島根県松江市佐草町にある八重垣神社の壁画が今に残っている。同社の壁画は、寛平五(893)年、宇多天皇が出雲国庁(国衙)を造営したときに描かれたもので、当時の日本絵の巨匠・巨勢金岡が書いたという。それには、何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命、天照大神、市杵島姫命、手名椎、足名椎の六神像が雄渾な筆遣いで描かれている。神社建築史上、類のない壁画とされ重要文化財になっている。八重垣神社の地は、在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫の愛の館であり、その二人を中心にして櫛稲田姫の両親が描かれ、記紀では敵対関係のように書かれてていた天照大神が同居し、アマテラスとスサノオの娘市杵島姫までが描かれている。

 スサノオとアマテラスの夫婦関係は、記紀では隠蔽されているが、宇多天皇時代(仁和三(887)~寛平九年(897)には、その関係ははっきりと伝わっていたのであろう。

 ★スサノオ出雲にて崩御、熊野山に葬られる

 九州を平定して後、北九州を猿田彦尊(八島野尊)にまかせて出雲に戻ったスサノオは、三男オオトシに大和に東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと推定され、御年60~75歳だったとみられている。

 オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのがBC122年、25歳頃とみられることから、スサノオが亡くなられたのはその前のことと推定でき、65歳で他界したとすれば、BC124年頃のこととみられる。 

 スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名狭漏彦八嶋野尊とあることから、猿田彦は八嶋野尊の別名、または改竄名とみられる。

 島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太神社の正殿に、「佐太御子大神」として祀られており、スサノオの御子ということであろう。長男八島野尊は、スサノオの亡骸を島根県八束郡八雲村と広瀬町との境(現松江市八雲町)、熊野山(又の名天狗山、熊成峰)の山頂に葬られたとみられている。御神陵は八雲村大字熊野(現松江市八雲町熊野)にある出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされている。同社は、旧称・熊野坐神社、熊野大神宮、熊野天照太神宮と呼ばれていたと云う。

 熊野大社でのスサノオの祭神名は、「神祖熊野大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている。熊野山の御神陵と熊野大社の祭祀は、スサノオの末裔・出雲氏に継承され、現在に到っているという。

 神一行氏は、スサノオの最期は出雲に戻って間もなくのことだったとして、神社の縁起や伝承から次のようにみている。「人々は大王スサノオの死を悲しみ、出雲の熊野山に磐坐を造って葬った。いま、その麓に出雲国一宮・熊野大社(旧国幣大社)がある。出雲大社が出来るまでは、出雲地方最大・最高の神社だった。亡くなった場所はやはり出雲で、それも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった。勿論、彼の御陵はここにある。スサノオのお墓の前にその後、社を建てた。これが神社の創成時代となり、その後紀国の熊野(当時は熊野国)でも社殿が築造された」とみている。

 紀州(田辺市)の熊野本宮大社は、崇神天皇の時代にスサノオの末裔熊野連(ニギハヤヒの御子・天香語山命=高倉下命の子孫)が創建した(扶桑略記)とある。

 御陵の前に拝殿だけを造っているのは、スサノオを祀った出雲の熊野大社と、大和国を創建したスサノオの御子ニギハヤヒ大王(オオトシ)を祀る大神神社(桜井市三輪、崇神天皇時代の創建)が代表的で、御神体が山稜にあることを証している。

 古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説もあるが、山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた御神体を拝んでいたのである。まだ古墳時代の始まる以前のことである。大神神社の祭神は大物主神にされているが、この大神神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神神社では、祭神・倭大物主櫛甕玉命としている。また群馬県桐生市の美和神社では、大物主奇甕玉尊とし、それぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている。スサノオは、諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始した。

 出雲では須賀の都に市場を拓き、熊野山の檜と卯木(ユキノシタ科の落葉低木・ウノハナとも) で鑽火器も創作した。出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され、いまも境内に鑽火殿がある。

 彼はまた、田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で弓矢も作った。その故事に因んで今も行われている御狩祭は、後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐れみの令」で狩猟禁止になったときも、特例をもって許されたお祭であるという。

 またスサノオは、御子や部下たちを各地に派遣して土地開発や殖産興業を奨め、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。神祖とは、神のなかの神、それは日本の国の創始者であり、文明の大始神を意味するとともに、死して神と化していった我々の祖先神ということであろう。スサノオは、まさしく我が国史上、最初にして最大の英雄だったとみられている。

 どんな組織や国にも、配下の能力を歎き更迭する為政者もいるが、部下の能力を見極め適材適所で能力を最大限に発揮させ、そして部下たちが喜んで苦労するようなリーダが居れば大成する。日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは、そんな仁徳をもった英雄だった。先にも書いたが、出雲風土記は「須佐之男命は仁慈の名君だった」と称えている。天皇神社、天王社に祀られた皇国の本主、和国王スサノオ尊は、まさしく建国の始祖王だった。

 死して神祖として崇められたスサノオ。嵯峨天皇(在位大同四(809)年~弘仁十四(823)年)は、いみじくも「皇国の本主」と尊称したように、日本国の創世者として、すべての神の祖神として祀られたのである。

 当時はすでに記紀も編纂されて100年以上も経っていて、記紀に記されたスサノオの姿は誰の目にも明かだった筈であるが、嵯峨天皇は記紀の記述とは別に、真相史実を存じだったのであろう。

 しかし、記紀はスサノオを初代天皇、または天神としなかった。向津姫尊を皇祖天照大神と書き、記紀の編纂途上で伊勢神宮を創祀した。

 ★スサノオの遺命を受けて大和に東遷、日本国を創建した大歳尊

 スサノオの御子大歳尊は、スサノオの遺命を受けて大和に東遷し、三輪山麓に政庁を構え、日本王朝大和国を建国し饒速日と名乗ったのがBC102年、45歳の頃だった。父スサノオに見習って善政をしき大和朝廷の始祖となった。66歳位で亡くなられBC81年頃三輪山の磐座に葬られたとみられる。その麓に、第十代崇神天皇(推定在位AD171-197年)が建てた大神神社に祀られた。同社は皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている。それ以来、饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られていたが、異母兄弟の甥にあたる狭野命(伊波礼昆古命=磐余彦尊)を、饒速日尊の末娘御歳姫尊(古事記は三輪の大物主神の娘伊須気依姫。書紀は事代主尊の娘媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)の婿養子として大和に迎えたことから、万世一系の皇統譜に組み入れなかった。

 こともあろうに、記紀は狭野命(改名して磐余彦尊)の婿入り東遷を、大和を武力で征服したように書いたが、長兄五瀬尊他、わずか数名での大和入りで、真相は婿入りの東遷だったことが歴然とした。詳細は第四章に譲るが、その段取りはスサノオ尊や、その後を継いだ大己貴尊亡き後、日向宮で和国を統治していたスサノオの現地妻向津姫をはじめ、大己貴尊の御子阿遅スキ高日子根尊(武角身尊)と饒速日尊の長男天香語山(高倉下)尊や弟の宇摩志麻冶尊が、直接の交渉役として奔走したことも判明した。

 ★大穴牟遲(大己貴)命の最期と出雲の国譲り

 日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命(大己貴尊、以下オオナムチ)は、出雲には御陵はなく、オオナムチを祀る古神社も見当たらない。あるのは、オオナムチが没して800年以上も経った記紀の編纂頃に創建された出雲大社(出雲市大社町)と宮崎県都農町の都農神社、その後に建造された神社ばかりという。

 記紀は、スサノオや饒速日尊の偉業を抹殺するために、オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし、別名を「大物主」・「八千矛」などと書いている。そして、大物主神は大国主神の和魂だと嘯いている。ともあれ、大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないのがそれを証している。

 オオナムチが住居にした跡地が、宮崎県児湯郡都農町大字川北に在る日向国一の宮・都農神社(祭神・大己貴尊)の境内と考えられている。そして西都市にある西都原古墳群の中に唯一、出雲式の四隅突出型古墳があり、これがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くなったとみられる。

 スサノオの二代目を継いだオオナムチもBC95年頃に亡くなった後、出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富尊(武御名方)と、日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子伊毘志都幣尊(事代主)の相続争いが起こり、武御名方は出雲を追われて諏訪大社(長野県諏訪市)の地に隠棲、これも善政をしいたと社伝が伝えている。
武御名方尊はもちろんここに祀られている。これが記紀が記す「出雲国譲り物語り」の真相だった。記紀は国譲りの時に、オオナムチが恰も生きているように書いているが、これは大嘘だった。

 ★宋史が記す国王須佐之男尊

 中国の史書「宋史卷四九一・外國伝・日本國」の条に、「雍熈元年、日本國の僧奝然、其の徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十事并びに本國職員令・王年代紀各一卷を獻ず」とあり、王年代紀の第一に天御中主尊・・・第十八代には素戔嗚尊(須佐之男尊)が記され、二十四代に磐余彦尊が名前を連ねている。磐余彦尊は記紀では初代神武天皇である。

 ともあれ、「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名を、わかり易く表にすると上表のようになる。「其後皆以尊為号」とあり、古事記のように「神」ではなく書紀と同様「尊」を用いている。また「凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す」とあり、彦波瀲武草葺不合尊までは、九州日向に都をもっていたことになる。筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺をさしている。宋史は中国の正史の一つで、1345年完成した宋代の歴史を記録した紀伝体の書で、雍熈元年は北宋時代( 960~1127 年)の年号で、日本の永觀二年( 984年)にあたる。また同史に、「彦瀲の第四子を神武天皇と号す。筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」とある。「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊のことである。だから二十四世は磐余彦尊(神武天皇)ということで符合している。奝然は三論宗の東大寺僧で、平安京西の愛宕山に伽藍を建立するため、中国の天台山・五台山への巡礼を企図し、この前年に呉越の商人、陳仁爽、徐仁満の船に便乗し中国への渡海したという。

 古事記は和銅五(712)年、日本書紀は養老四(720)年にすでに成立して以来、264年も経った時期である。にもかかわらず、この王年代紀は記紀と異なる系譜を記している。中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし、奝然の持参したものは当時の真相を伝えていると考えられ、スサノオは国王だったことを図らずも中国の宋史が証明してくれている。

 記紀の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の総社は伊勢神宮の筈である。しかし、大同五(810 )年正月、嵯峨天皇はスサノオを祀る津島神社に、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、日本総社の号を奉られている。また一条天皇(寛和二(986 )~長元九(1036 )年)は、津島神社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが、記紀が編纂された後も、スサノオは天皇にとって如何に重要な存在だったかを物語っている。

 同時に、天皇はもとより当時の人々にとって、記紀は全く無視されていたのかも知れない。少なくとも、まともに取り扱われていなかったのではないか。そんな疑念を抱かざるを得ないという。

 ともあれ、この国の天皇家の皇祖は、正しくは建国の始祖王スサノオ尊、あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ尊とすべきである。スサノオ尊も、広島県三次市甲奴町の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られていると云うが、最近は須佐之男尊になっている。

 ★記紀に史実を消された須佐之男尊一族

 スサノオは、九州の統合には一部でやむなく武力を使った。そのためか、南九州の人々にスサノオに対する反発が残り、この地方には出雲式の銅剣・銅矛祭祀の遺跡がなく、スサノオを祀る神社も少ない。そして、このことが記紀に暴れ神にされた一因になったのではないかとられている。そればかりか、記紀はスサノオの建国した和国、饒速日尊の大和建国の史実をはじめ、系譜まで改竄し、当時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明した。原田常治氏は、「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書いて、それでも誤魔化しきれないところを、お伽話のような神話にして誤魔化した。でっち上げたものががばれることを恐れて、二神社の古文書を取り上げ、史実を書いていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている。

 記紀編纂の最中である持統天皇五(691)年のこと、八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と書いているが、その意図は推して知るべしである。没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった。

● 石上神宮(天理市布留町)の古文書(スサノオ、オオトシ(饒速日)尊一族、その末裔である物部氏)
●饒速日大王の陵墓で三輪山を御神体として祀る大神神社(桜井市三輪三輪氏)の古文書。
●以下、豪族十六氏の系図・古文書
・春日氏・大伴氏・佐伯氏・雀部氏・阿部氏・膳部氏・穂積氏・采女氏・羽田氏・巨勢氏・石川氏・平群氏・木(紀)角氏・阿積氏・藤原氏・上毛野氏である。

 書紀の編纂を統括していたであろう藤原不比等は、自らの系図を都合良く創作したのであろう。百済から来た父鎌足(本名智積)の出自を、中臣氏の系図にそっと挿入している。後に藤原氏の書いた「鎌足伝」には、「内大臣、諱は鎌足、字は仲郎。大倭國高市郡の人なり。その先は天児屋根命より出ず。・・・美気祐卿の長子なり。母は大伴夫人と曰う」と。鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが、天児屋根命は紀元前二世紀の人物である。鎌足の父美気祐(御食子)以前の系譜は伏せている。また元明天皇が即位した和銅元(708)年正月、天下に大赦を出した。「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は、百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出している。念には念を入れて、古代王族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう。

 ところで持統天皇六(691)年三月、天皇(鵜野讃讚良)は、新たに伊勢神宮を創祀し皇祖神として天照大神(向津姫=大日霊貴)を祀り、その行幸をしようとしたとき、ニギハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は、冠位を脱ぎ捨ててまで阻止しようとした。しかし天皇は聞き入れず遂に伊勢に幸す」とある。

 ニギハヤヒの陵墓・大神神社を祀っていた大神(大三輪)朝臣高市麻呂は、大宝二(702 )年二月十七日、左遷されて長門守に下ったが四年後に没している。また、同年八月十六日、石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された。

 記紀の編纂がすすんでいた頃のことで、朝廷と権力者藤原不比等は、記紀で史実を改竄してそれが発覚、指摘されるのを恐れたのであろう。

 こうして大歳尊(ニギハヤヒ)亡き後、大歳御祖皇大神・天照魂神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀られていたものを、記紀は日向のイザナギの娘向津姫尊を天照大神に据え替えたのである。

 向津姫の諡号は、撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で、どこにも「天照」の尊号はない。別名・大日霊女尊とあるところをみれば、巫女の役も務めていたのであろう。記紀の編纂以前から祀られた神社の祭神名には大日霊女貴尊はあるが、天照大神で祀ったものはないという。まさに、饒速日尊(諡天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)の天照魂大神の横領である。

 さらに云えば、記紀の編纂当時は持統女帝( 野讃讚良=天智天皇の娘)の時代だった。鵜野讃讚良は、天武天皇の没後、即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女帝となった人物である。だから女帝の正統性を強調するために女神大日霊女貴尊(向津姫)を皇祖神にしたかったのであろう。それにはスサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)の史実を抹殺するしかない。たぶん、これは当時の権力者藤原不比等の差し金だったことは云うまでもない。そうした意図は、後に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船( 722~785 年)にも意識されたのであろう。持統天皇の諡号を、なんと「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか。

 記紀の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている。高天原はどこだったかの詮索は無意味であって、これは全くのお伽話だった。強いて云えば、八世紀の朝廷における持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た宮殿を想定したものであろう。

 ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は、正殿に大国主(大己貴尊)、左殿に日向での現地妻多紀理姫命、そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っている。ここは今も縁結びの神として賑わっている。
この大社はいつ頃の創建かと調べてみると、古事記が書き終わった四年後、書紀編纂の最終段階とみられる元正天皇の霊亀二(716)年に完成したことがわかったと云う。

 大穴牟遲(大己貴)尊が亡くなったのはBC103年頃とみられるから、なんと八百年以上もたってからのことになる。朝廷はその七年前の和銅二(709)年にも、京都府亀岡市に出雲大神宮を建てていたこともわかった。記紀を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を、そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営したのである。これはいったい何を意味しているのであろう。記紀を詳しく読めばその答えが出ている。あえて説明の必要もないことと思うが、念のためその部分を紹介しておこう。

 まず、古事記から見ていこう。証拠は上巻の「葦原中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあった。わかりやすくするため、現在文にしたものを引用すると、国譲り交渉の最後に、「大国主神は答えて、『この葦原中国は仰せのままに、すっかり献上致しましょう。、私の住み家だけは天津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天原に千木を高く聳えさせてお祀り下されば、私は多くの道の曲がり角を経て行った果ての出雲に隠れておりましょう』と、こう申して云云」と。

 書紀・巻第二・神代下では、「経津主神・武甕槌神を使わして葦原中国を平定させる。・・・二神は出雲に到りて、・・・大己貴神(大国主神)に迫った。帰って報告したところ、高皇産霊尊は後に、二神を使わして、『・・・汝は神の事を治めよ。また、汝は天日隅宮(出雲風土記の日栖宮。杵築大社=今の出雲大社)に住むべし、いま造ろう。即ち千尋(非常に長い)の栲縄(コウゾなどの皮でよりあわせた縄)をもって結び百八十紐にしよう。その宮は柱は高く、太く、板は幅広く、厚く云云。そして汝の祭司は天穂日命とする』と、大己貴神に云った。大己貴神は答えて云うには、『天神のおっしゃることは誠に尤もです。私は命令に従いましょう。・・・私は引退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」と。

 古事記では、「大国主神は国譲りと引き換えに、立派な宮殿を要求した」とし、書紀は、「すすんで宮を建てると約束した」と云うのである。そして、「神主は天穂日命とす」、つまりスサノオと向津姫の御子(次男)である。ということは、出雲大社の前身天日隅宮の祭神は、もとは大己貴神でなく、スサノオを祀る神社として建てたのであろう。

 記紀は、こうして「出雲の国譲り」物語りを書いた手前、出雲族(スサノオ・ニギハヤヒ他、出雲の神々)をまとめて杵築大社を造営して記紀の記述に整合させたのである。和国創建の始祖王スサノオ、そして大和朝廷の開祖ニギハヤヒ大王の史実を抹殺するために、記紀の編纂途上で大国主神を創作して杵築大社(今の出雲大社)を霊亀二( 716)年に建てたのである。

 ところで、寛文六年( 1666年)に天穂日命の末裔毛利綱広が寄進した同社の銅鳥居の銘文に、「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と刻まれており、この当時は祭神がスサノオだったことを証明している。原田常治氏も、出雲大社を幾度か訪れたが、最初はスサノオが祀られていたと思ったが、いまは大国主神になっている(昭和51年9月)と云う。大国主は、建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニギハヤヒ(オオトシ)の偉業を抹殺するために創作した目くらましに他はならいと云う。その証拠に、藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢国町の漢国神社に大国主神を配祀して、みずからその見本を示した。また聖武天皇は、各国の総社に大国主神を祀るよう勅命を出したともいう。

 神社事典によると、漢国神社はもと推古天皇元( 593)年に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり、養老元(717 )年に藤原不比等が韓神二座を祀ったと云う。園神は大物主大神、つまり大歳(饒速日)尊の偽名で、大神君白堤の先祖神である。当初、大神君白堤が祀ったのも園神と云う曖昧な神でなく大歳(饒速日)尊だった筈である。その後、誰かが園神に書き換えたものとみられる。おそらく藤原不比等であろうか。また、韓神二座とは、大己貴命と少彦命らしいが、どうして韓神、つまり韓からの渡来神としたのであろうか。もうこれ以上説明の必要もないことと思う。傀儡の大国主は「記紀」には、大穴牟遅、葦原色許男、八千矛、宇都志国玉、大物主などの別名がたくさんあり、性(神)格が一定していない。これは、いろいろな神の総称として描かれていて、必ずしも別名の神のすべてが大己貴(大穴牟遲)本人の活躍をあらわしたものでないことを示している。史実を知らない民衆は、大国主は偉い神様で、創作された「因幡の素兎」神話から、慈悲深い神さまだと思っている。

 その後、字音の「ダイコク」から、インドから伝わったヒンズー教の「大黒天」と習合し、福の神・縁結びの神に、そして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻から、これも七福神の一つ「恵比寿」と混同された。二人は「恵比寿さま・大黒さま」として、福の神・商売繁盛の神さまとして、この世を一人歩きしている始末である。要するに、須佐之男尊や御子大歳(饒速日)尊ら、出雲一族の建国した和国・大和国を、乙巳の変( 645年)に始まり八世紀には完全に乗っ取った百済政権が、「出雲の国譲り」と云う神代のシナリオにして誤魔化したのが記紀の神代神話「出雲の国譲り」だったのである。詳細は、第九章「乗っ取られた飛鳥朝廷ーその時歴史は創られた」を参照されたい。


 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62」のどう思われますか氏の2018 年 4 月 30 日付投稿「記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の24)・「スサノオは朝鮮に降臨した」」。


 古事記では、スサノオは、高天原のアマテラスに別れを告げた後で、出雲に渡来している。朝鮮渡航の記述はない。日本書紀では情報が錯綜しており、「神代上・第八段・本文-1」では、高天原から出雲に渡来している。日本書紀の「神代上・第八段・一書-2」では、高天原から安芸の国に渡来している。日本書紀の「神代上・第八段・一書-4」では、高天原から、息子の五十猛を連れて新羅国に渡来し、曾尸茂梨(ソシモリ)に行った後で出雲に辿り着いている。日本書紀の「神代上・第八段・一書-5」では、高天原から、(どこかに)降臨した後で、(朝鮮の)熊成(クマナリ)の峯に居て、やがて根の国に向かっている。先代旧事本紀では、高天原のアマテラスに別れを告げた後で、息子の五十猛を連れて、新羅国の曾尸茂梨(ソシモリ)に渡来したが、「こんな国には居たくない」ということで、出雲と伯耆の間の「鳥髪の峯」に辿り着いている。


 これをどう了解すべきか。古事記は「新羅降臨」を消している。日本書紀では、スサノオの新羅降臨を完全に消し去らずに「一書」の中に残している、と云うことになる。察するに、先代旧事本紀でも記述されているように、記紀神話の編纂当時の多くの豪族氏族たちが、常識として知っていたと考えられるのではなかろうか。但し、曾尸茂梨(ソシモリ)であれ熊成(クマナリ)の峯であれ、それが何処か分からない。伝承が残されたが、その場所は特定できていない。

 スサノオ系列の豪族は、ダイレクトなのは「出雲宿禰」や「出雲臣」。これは、スサノオの子供のアメノホヒの子孫になる。菅原道真の祖先の「土師氏」などもアメノホヒの子孫になる。「賀茂氏」も、カムムスヒの子孫で出雲系列だと思われる。「大神(オオミワ)朝臣」は、大田田根子の系統で、大国主(アメノホヒ)の子孫になる。「宗形君」は、大国主の子孫の海人族になる。ニギハヤヒ系列も間接的にスサノオ系列になる。





(私論.私見)